地涌(じゆ)からの通信: はじめに

三類の強敵(ごうてき)のうち、最強にして最悪のものが僣聖増上慢(せんしようぞうじようまん)である。日蓮正宗にあって”法主”という最高位にある日顕が、借聖増上慢としての正体を露(あらわ)にしたのが平成二年十二月末であった。

この平成二年は、開祖日興上人が世界広宣流布を期して身延を離山し大石寺を開創(かいそう)されて、ちょうど七百年目にあたる。同年十月には大石寺において、創価学会に集(つど)う仏弟子らが開創七百年を慶祝(けいしゆく)しての諸行事を献身的におこなっていた。

ところが、この慶祝行事の裏で、日顕らは謀(ぼう)略(りやく)「C作戦」を発動する機会を虎(こ)視(し)眈(たん)々(たん)と狙(ねら)っていたのであった。

「C作戦」とは、いまでは衆(しゆう)知(ち)のように、宗門が池田名誉会長の追放を創価学会に迫り、もしそれが不可能となれば創価学会総体を”破門”にし、一人ひとりの創価学会員が団結を解(と)いて檀徒となるよう仕向けようとしたものである。

屈服(くつぷく)しない創価学会員には戒壇の大御本尊の御開扉をさせない、御本尊を下付しない、あるいは成仏しないという脅(おど)しをもって臨(のぞ)もうと日顕が計画していたことは、その後の経過でも容易にうかがえる。

だが創価学会員は、創価学会が仏(ぶつ)意(い)仏(ぶつ)勅(ちよく)の和合僧団であるとの本義に目覚(めざ)め、僭聖増上慢の惹起(じやつき)した難をよくしのいだ。平成三年十一月二十八日、日顕らは創価学会員の団結を乱す目的で最後の手段に訴え、創価学会総体を”破門”にした。しかし、真正の和合僧団である創価学会は微(び)動(どう)だにしなかった。それどころか、創価学会員は日蓮大聖人の仏法の本質を、よりいっそう身近なものとして感じ始めた。

創価学会員は、創価学会が仏意仏勅の団体であることを覚(かく)知(ち)し、みずからも地涌の菩薩であるとの自覚を深(しん)化(か)させたのであった。また、創価学会歴代会長との仏法上の不思議な縁(えにし)も実感したのである。それらの確信の大きな裏づけとなったのは、創価学会と日蓮正宗の正しい歴史を初めて知り得たことにあった。

創価学会出現以前、日蓮正宗は身延山久遠寺に率(ひき)いられる日蓮宗同様に、邪宗の呈(てい)をなしていた。それを創価学会三代にわたる会長が忍従(にんじゆう)の心をもって浄(じよう)化(か)してきたのが、真実の歴史であった。日蓮大聖人の仏法は日蓮正宗において隠没(おんもつ)しようとしており、創価学会がそれを現実の社会に息づく生活法として蘇(そ)生(せい)させたのである。

牧口常三郎創価学会初代会長が罰論(ばちろん)を言い出したとき、日蓮正宗の僧たちは大変な拒否反応を示した。それまでの日蓮正宗には、罰論などなかったのである。

日蓮正宗の僧たちは、「日蓮正宗の信者は、皆が皆、即身成仏している。成仏した者に罰が出ようか」と、牧口会長の罰論に反発し、法華講も喜んでそれに同調した。僧にしてみれば懶(らん)惰(だ)懈(け)怠(たい)の宗風こそが、最良の温(おん)床(しよう)であったのだ。下手(へた)に信徒が正信に目覚め、教学を研鑚(けんさん)し、勤行唱題をするよりは、僧を頼みにし葬式や法事に多額の供養をしてくれることこそが望みであった。

牧口会長は日蓮正宗にはびこる邪義邪法を駆(く)逐(ちく)するために、毅(き)然(ぜん)としていっそう強く罰論を述べた。

「御本尊に認(したた)められた『若有悩乱者(もしのうらんするものは) 頭破作七分(こうべわれてしちぶんとなる)』の御文は罰論ではないのか」

「日蓮大聖人曰く『罰は総罰・別罰・顕(けん)罰・冥(みよう)罰・四候、日本国の大疫病(えきびよう)と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり』と、これは罰論ではないのか」

牧口会長の師子吼(ししく)を聞き、日蓮正宗の中にも日蓮大聖人の仏法に説(と)かれた罰論を理解する者が、わずかに現れた。だが、哀(あわ)れなるかな、戦中の法難にあたって宗門は総崩(そうくず)れとなり、不(ふ)惜(しやく)身(しん)命(みよう)の仏語を忘れ日蓮大聖人の教法を捨て去ったのであった。

さらに見苦しいことには、創価教育学会幹部を信徒除名にし、正信の僧・藤本蓮城も一宗擯斥処分にした。ただ、国家神道の領(りよう)導(どう)する国家権力の猛威を恐れたが故である。

日蓮正宗には、もはや日蓮大聖人の国家諌暁(かんぎよう)の精神は流れていなかった。江戸時代、幕府の民衆統治の代行機関に成り下がってから、権力に阿(あ)諛(ゆ)追(つい)従(しよう)する悪弊(あくへい)が骨の髄まで浸透(しんとう)していたのである。

腐(ふ)敗(はい)は、それだけにとどまらない。寺請(てらうけ)制度の中で檀家を食いものにしてきた日蓮正宗は葬式仏教化し、邪宗に習い「導師本尊」というニセ曼茶羅までつくり出していたのである。

信徒は、死者の成仏を祈る特別の「導師本尊」なくしては死後成仏しないとし、僧のみに死者を成仏させる特別の権能(けんのう)があるかのように立ち振る舞った。信徒が生あるときには、信者はみな成仏すると懶(らん)惰(だ)懈(け)怠(たい)を教え、一度死せると即身成仏をさせる力は僧のみにありと遺族を脅(おど)したのだった。

悪比丘らはニセ曼茶羅「導師本尊」のみを収(しゆう)奪(だつ)の小道具にしてきただけではなかった。真正の「常住御本尊」すら、供養の代(だい)価(か)を得るために乱発してきたのであった。大石寺周辺の根(ね)檀家は歴代”法主”の御本尊を、あたかも軸物(じくもの)のように何体も持っている。そして、現在でも「供養をすれば、”御前さん”はいつでも”常住御本尊”を書いてくれる」と言ってはばからないのである。

そのほか、日露戦争に際しては、もったいなくも日蓮大聖人の御真筆を掲(かか)げて”出(で)開(かい)帳(ちよう)”をおこない、戦勝祈願の万に及ぶ「御形木(かたぎ)御本尊」を宗内外にばらまいた。

日興上人曰く。

「一、御筆の本尊を以て形木に彫(きざ)み不信の輩(やから)に授与して軽(きよう)賤(せん)する由(よし)・諸方に其の聞(きこ)え有り所謂(いわゆる)日向・日春等なり。

日興の弟子分に於(おい)ては在家出家の中に或(あるい)は身(しん)命(みよう)を捨て或は疵(きず)を被(こうむ)り若(もしく)は又在所を追放せられ一分(いちぶん)信心の有る輩に忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり」(富士一跡門徒存知の事)日蓮正宗の代々の”法主”は、日興上人の末流にあるまじき本尊雑(ぞう)乱(らん)をなしてきたのである。宗祖日蓮大聖人の謗(ほう)法(ぼう)厳(げん)戒(かい)の教えも、日興上人の身延離山の精神も、創価学会出現以前の日蓮正宗においては死(し)滅(めつ)していたといえる。そこまで大石寺には邪義が横行(おうこう)していたのである。

その邪義も、創価学会の出現により、徐々にではあるが浄化されたかに見えた。だが、それは伏在(ふくざい)していた。このたび、長年にわたり日蓮正宗に浸透(しんとう)してきた邪義は”日顕狂乱事件”として顕(けん)在(ざい)化(か)し、”法主”日顕は悪(あつ)鬼(き)入(にゆう)其(ご)身(しん)の姿を現じ僭聖増上慢と化したのであった。

日興上人が日蓮大聖人由縁の身延山を離山されたのは、

「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由(よし)」(美作房御返事)

との、日蓮大聖人の謗法厳戒の精神を受け継がれてのことであった。「地頭」が仏法に違(い)背(はい)するとき、日蓮大聖人はそこには住まれないということである。となれば大謗法を犯(おか)し、仏弟子を迫害するような”法主”が支配している大石寺に、日蓮大聖人の御(おん)魂(たましい)が所在(しよざい)しないことは無論のことである。

日興上人が身延を離山された直接の原因は、地頭たる波(は)木(き)井(り)実(さね)長(なが)(南部六郎)の犯した謗法にあるが、波木井にその謗法を犯させたのは悪師・民(みん)部(ぶ)日(に)向(こう)である。日向が邪義を教え、波木井の信心を破ったのであった。たとえば、神社不参詣(さんけい)の教えについても、民部日向は日興上人(白(びやく)蓮(れん)阿(あ)闇(じや)梨(り))が仏法の「至(し)極(ごく)」を知らないとして、波木井入道に次のように教えていた。

「守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一篇(いつぺん)にて候へども、白蓮阿闊梨外(げ)典(てん)読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候。法華の持者参詣せば、諸神も彼の社檀(しやだん)に来(らい)会(え)すべく、尤(もつと)も参詣すべし」(原殿御返事)

日興上人は民部日向が邪義を説いたことについて、

「白蓮此の事は、はや天魔の所(しよ)為(い)なりと存じ候いて少しも恐れ進(まい)らせず、いかに謗法の国を捨てて還(かえ)らずとあそばして候守護神の御弟子の民部阿閣梨参詣する毎(ごと)に来(らい)会(え)すべしと候は、師(し)敵(てき)対(たい)七逆罪に候はずや。加(か)様(よう)にだに候はば、彼の阿闇梨を日興帰依(きえ)し奉り候はば、其の科(とが)日興遁(のが)れ難(がた)く覚え候。今より以後かかる不法の学頭をば接(ひん)出(しゆつ)すべく候と申す」(同)と、書き遺(のこ)されている。この民部日向と同然のことを日顕らがおこなっている。

日蓮大聖人の仏法を隠し、日顕のたわごとを”仏語”として崇(あが)め、それを正当化するため「唯授一人血脈相承(ゆいじゆいちにんけちみやくそうじよう)」の邪義を振り回し、日顕は日蓮大聖人と同じ境界(きようがい)にあるとうそぶく。禅寺に墓を建て「為先祖代々菩提 建立之日顯 花押」と墓石に刻(きざ)んでも、共同墓地に親戚の墓が建ったので法要をおこなっただけと言う。シアトルで買春し、赤坂の超高級料亭で芸者に酌(しやく)をさせ興(きよう)じ芸者に囲まれて写真におさまっても、出家の身でありながら恥とも思わない。

日興上人は、民部日向の堕落(だらく)のさまを記されている。

「同八日仏生日と号して、民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出すのみならず酒を興ずる間、入道其の心中を知って妻子を喚(よ)び出して酒を勧(すす)むる間、酔狂(すいきよう)の余り一声を挙げたる事、所従春属(しよじゆうけんぞく)の嘲弄口惜(ちようろうくちお)しとも申す計(ばか)りなし。日蓮の御恥何事か之に過ぎんや。此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり」(同)

邪義を弄(もてあそ)び邪淫(じやいん)乱行を常とする日顕は、民部日向の姿そのものである。

「元より日蓮聖人に背(そむ)き進(まい)らする師共をば捨てぬが還(かえ)って失(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか」(同)

謗法の師は捨てねばならないというこの法門の故に、真の仏弟子である創価学会員は日顕を捨て大石寺を去ったのである。日顕らは、日蓮大聖人の本眷属(ほんけんぞく)より破門になったのだ。

本書は、その証拠を示す最良の書といえよう。

平成五年十一月二十八日

『地涌』 編集長  不破 優

〔追記〕本書中、明らかな大謗法を犯した”法主”の上人号は剥奪(はくだつ)した。日精、日布、日応、日正、日開、日恭など。

第一章 日顕宗の主張する「血脈相承」のウソ

 

猊座を投げ捨て行方不明となった“法主”

ある日突然“蒸(じょう)発(はつ)してしまった第五十三世日(にち)盛(じよう)上人

 

大石寺の住職の地位を、日顕宗の僧たちは”猊座”と言う。そして、その座にいる者が広布を破(は)壊(かい)する三類の強敵(ごうてき)であれ、貧欲(どんよく)な食(じき)法(ほう)餓(が)鬼(き)であれ、その通称を“猊下”あるいは”御前様”、はたまた”御師範御法主上人猊下”などと呼んでいるようだ。
 
ところで大石寺の歴代住職の中で、この“猊座”を投げ捨てて隠遁(いんとん)し、行方不明になった”御前様”がいたとしたら、どうだろう。
 
しかも、次期”法主”への相(そう)承(じよう)もしないばかりか、人選もせず、ある日突然、姿を消したとあっては、たとえ信徒が少なく、参詣(さんけい)者もいない、さびれた貧(まず)しい山寺であったとしても、大事件になるに違いない。そんな、考えられないような大事件が江戸時代の末期、大石寺で現実に起こったのだ。
 
この大珍(ちん)事(じ)の主役を演じたのは、ほかでもない第五十三世日(にち)盛(じよう)上人、その人である。
 
まず、同上人の”行方不明”事件は、その経(けい)緯(い)が複雑怪(かい)奇(き)をきわめるので、初めにその概要(がいよう)を述べておく。
 
日盛上人は約二年半、猊座にあったが、退座接の原因は大石寺の火災であった。しかし、同上人が猊座に登ったあたりから、前任の第五十二世日(にち)霑(でん)上人との間にどうやら確執(かくしつ)があったようだ。
 
そのために、日霜上人は江戸へ出(しゆつ)府(ぷ)する。その日霑上人のもとへ大石寺の火災の報告が入り、急いで帰山した。だが、日盛上人は日霑上人を避(さ)けて下之坊へ隠遁(いんとん)し、その後は行方が分からず、消(しよう)息(そく)がとだえる。
 
その経(けい)緯(い)を書いた日需上人自筆の自伝が明治時代の機関誌『布教會報』に掲載(けいさい)されたが、あとで訂正記事が出て、肝心(かんじん)な箇所が「削除」されることになる。
 
このことに関連して日顕は、平成元年六月におこなわれた日霑上人第百回遠(おん)忌(き)の際、日霑上人が書き残した自伝の内容は一般信徒に知られたくない、と発言。宗門の歴史がこれまで脚色(きやくしよく)され、美化(びか)されてきたことを言外(げんがい)に匂(にお)わせた。
 
江戸末期から明治にかけての日霑上人と日盛上人との確執が、後(こう)述(じゆつ)するように半世紀以上も経(へ)た昭和に入って、「蓮葉庵系」(日露上人系)と「富士見庵系」(日英上人・日盛上人系)との対決、憎(ぞう)悪(お)となって激(げき)化(か)するのである。
 
それでは日盛上人の略歴から、ひととおり紹介しよう。
 
日盛上人は天保二(一八三一)年十月十一日、江戸・瀧山町に生まれ、同十三(一八四二)年十月に日英上人(大石寺第五十一世)の弟子として出家。文久二二八六二)年十月二十四日、三十一歳で大石寺の住職(第五十三世)となった。第五十二世の日霑上人が四十六歳の若さで退隠(たいいん)した後を受けての登座ということになる。
 
ここで一つ重大な疑問がある。それは日盛上人は本当に日霑上人から血脈相承を受けたのか、という点だ。
 
『富士年表』(日蓮正宗富士学林発行)では確かに、「十二月(注=日にちは不明)日霜法を日盛に付(ふ)す(霑伝)」と記(しる)されている。「霑伝」とは日霑上人自筆の『日霑上人伝』を指(さ)す。      
 
「日霑上人伝」の自筆

「日霑上人伝」の自筆

 
だが、その『日霑上人伝』をはじめ『霑上御自伝(霑師履歴)』 『日霑上人略伝』など、どれを見ても、この時期に日箔上人と日盛上人との間で相承の儀(ぎ)式(しき)がおこなわれたという記述はない。
 
ただし、次のような記述ならば前記の『日霑上人伝』などのいずれにもある。
 
「其(そ)の年十二月大衆檀(だん)徒(と)等、学(がく)頭(とう)広道院を大坊へ請(しょう)待(たい)す五十三世日盛上人是なり」
 
もし、『富士年表』の記述がこのことを指しているとすれば、「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ請待す」を、「日霑法を日盛に付す」というふうに意識的に置き換えたことになってしまう。記述を変じた裏には当然、宗門として知られたくない史実があるのである。
 
日霑上人は通算三度、登座しているが、二度目に猊座から退(しりぞ)くときは日胤(にちいん)上人(第五十四世)へ、三度目に猊座から退くときは日応(にちおう)(第五十六世)へ譲(ゆず)った。
 
『日霑上人伝』を見ると、この日胤上人、日応上人が登座するときの記述と、前記の日盛上人が登座したときの記述があまりにも違い過ぎるのだ。日胤上人のときには相承までの経過が詳(しよう)細(さい)に書かれている。重要な点なので該当(がいとう)箇所を引用(いんよう)してみる。
 
明治二年の項には、
 
「其夏阿州敬台寺英俊院登山す蓋(けだ)し昨年阪地に於(おい)て盟約(めいやく)せし事あるを以(もつ)てなり其の七月同人を学頭へ請(しよう)す其の十月廿日を以て予再び蓮葉庵へ退隠す年五十三。〈中略〉帳面証文手形を以て之を後住へ渡す其の十一月朔日(ついたち)学頭を大坊へ請す五十四代日胤上人是(これ)なり」(『日霑上人伝』より引用)
 
と記されている。
 
「英俊院」とは日胤上人のことであり、「盟約」により、まず日胤上人を学頭に任命し、のち猊座を譲(ゆ)った。
 
日霑上人はその経過について、日霑上人みずからの意思で「学頭を大坊へ請す」とし、日胤上人を後継(こうけい)と定(さだ)めて、手順を踏(ふ)んで相承したことを明記している。明治二年十一月のことである。
 
また、三度目に猊座から退隠するときについては、日亨上人が日霑上人に代わり、史実に基(もと)づき筆を進めている(注=『日霑上人伝』の一部は、日霑上人の残した史料により日亨上人が後に書き加えたもの)。
 
それによれば、「近々退隠の志念(しねん)を決し」て日(につ)布(ぷ)の再住を要請(ようせい)するが、日布が辞(じ)退(たい)したため日応へ譲ることになる、とある。さらに相承の式は「再々住なれば遠慮せしなり」として、日布と日応との間でおこなわれ、「同廿日夜目(め)出(で)度(たく)相承相(あい)済(す)みしと云(い)ふ大(おおい)に安心せり」(同)と書いている。明治二十二年五月のことである。
 
この日胤上人、日応のときの記述と、日盛上人のときの記述の違いを、なんと説明するのか。
 
『日霑上人伝』では日胤上人、日応のときの登座については、微(び)に入り細(さい)にわたって書いている。それなのに、一度目の日盛上人への相承については、「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ請待す」とあるだけだ。
 
これは明らかに、「大衆檀徒等」が霑師の意思の如何(いかん)にかかわらず、日盛上人を「大坊」に入れ猊座に登らせたことを示しているのである。
 
ここでもまた、日顕宗が事あるごとに持ち出す「血脈相承」の神話が崩(くず)れている。

 

日盛上人の行方不明の原因となったのは大石寺の大火

 
日盛上人の隠遁(いんとん)、行方不明の原因は、直接的には大石寺の大(たい)火(か)だった。『富士年表』には元治二二八六五)年二月二十八日の欄に、
 
「客殿・六壺・大坊焼失(霑伝)」
 
と記されている。つまり、この日は大石寺が火事になり、客殿も大坊もことごとく焼失してしまったのだ。
 
その昔「火事と喧(けん)嘩(か)は江戸の華(はな)」と言われていたが、大江戸八百八町のにぎわいとはまったく対照的だった片田舎の上野村(霑師の頃は上條村)の大石寺でも、火事と紛争(ふんそう)だけは大江戸にも負けていなかったようだ。さしずめ「火事と紛争は大石寺の常」というところか。
 
ちなみに大石寺では開創(かいそう)以来、十二件の火災があった。そのうち十一件は江戸時代以降に集中している。江戸時代の寛永十二(一六三五)年から同十五(一六三八)年にかけて檀(だん)家(か)制度が成立するが、大石寺が徳川幕府の手先となり、寺(じ)檀(だん)制度によって民衆を支配するようになってから火災が増えてきたことに注目したい。
 
しかも、大石寺とかつて同門であった重須本門寺や要法寺、それにいまだに日顕に与(くみ)している保田妙本寺、妙蓮寺、常在寺などの末寺を加(くわ)えると、『富士年表』に記載されている火災だけでも、なんと約百件にのぼる。驚くべき件数だ。

【大石寺の火災一覧(江戸時代以降)】
寛永八(一六三一)年十月十二日
大石寺諸堂焼失(石文)
 
寛永十二(一六三五)年
大石寺本堂、山門、坊舎残らず焼失(古文書)
 
文化四年(一八〇七)年五月十二日
大石寺塔中理境焼失(棟札)
 
安政五(一八五八)年五月二十五日
大石寺遠信坊・寿命坊・寳林坊・学寮四箇焼失(霑伝)

(編集部注・安政七年=万述元年の誤りか。回数に含めない) 
万延元(一八六〇)年二月二十五日
大石寺石之坊より出火、富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失(本書裏書) 
元治二(一八六五)年二月二十八日
大石寺宮殿・六壼・大坊焼失(霑伝) 
慶応元(一八六五)年十二月二十三日
大石寺蓮葉庵焼失(霑伝) 
明治四十二年(一九〇九)年六月八日
大石寺塔中百貫坊焼失(白蓮華四―六) 
大正十三(一九二四)年十月三十一日
大石寺塔中本境坊焼失(院二二五) 
昭和五(一九三〇)年六月四日
大石寺塔本境坊焼失(院二七五) 
昭和八(一九三三)年十月二十三日
大石寺蓮葉庵焼失(宗報A三七) 
昭和二十(一九四五)年六月十七日
大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壺)・客殿等五百余坪焼失(寺誌)

 
御書には、
 
「経に云(いわ)く『設(たと)い大火に入るも火も焼くこと能(あた)わず、若(も)し大水に漂(ただよ)わされ為(て)も其の名(みよう)号(ごう)を称(となう)れば即(すなわ)ち浅き処(ところ)を得ん』又云く『火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず』云云、あらたのもしや・たのもしや」(上野殿後家尼御返事)
 
と記されている。
 
日蓮大聖人は法華経の功(く)徳(どく)について、このように述べられているのに、大石寺で火災、焼失が相(あい)次(つ)いだという事実をどう見るべきなのか。
 
この頃から大石寺の坊主たちは堕(だ)落(らく)し、火の始末にもだらしがなくなるほど生活が乱れていたのか。大御本尊をお護(まも)りする強い信仰心、使命感が欠如(けつじよ)していたのか。
 
加護(かご)するべき諸天善神も見捨てていたのか。ともあれ、この相続く火災の記録は、すでに大石寺、富士門流より日蓮大聖人の仏法がとだえつつあったことを示してあまりある。
 
参考のために、大石寺で起きた主な火事を表にしてみた。何よりも現(げん)証(しよう)の厳(きび)しさを思い知らされる。
 
ところで、このうち元治二年二月二十八日に起こった火災は大(だい)惨(さん)事(じ)となった。『霑上御自伝(霑師履歴)』によると、
 
「二月廿八日ノ夜(や)半(はん)大坊ノ下(げ)男(なん)部屋ヨリ出火シ構内一(いち)宇(う)モ残ラズ焼(しよう)亡(ぼう)スト 是(これ)ヲ聴(き)キ大(だい)愕(がく)悲(ひ)動(どう)シ遽(にわか)ニ東行ヲ止(や)メ直(ただ)チニ帰山ヲ計(はか)ル」(富士学林教科書『研究教学書』より)
とある。夜半に下男部屋から出火して、客殿・六壼・大坊など残らず焼失したのであった。このとき前“法主”の第五十二世日霑上人は、二月初めに大石寺を出発して江戸に滞在中であった。だが、大火災の惨(さん)状(じよう)についての報告を受けて驚き、急いで帰山したというのである。
 
この元治二年の大火災と当時の”法主”・日盛上人について、日達上人は次のように述べている。
 
「第五十三世日盛上人の代になりますと、『元治二年乙(きのと)丑(うし)年(どし)二月二十八日客殿・六壺・大坊焼失(年表)』と、せっかく今まであった大坊も全部焼けてしまったのです。そのため、日盛上人は御隠居(いんきよ)なされたのです。それからまた、霑尊が再び猊座へつかれた」(『総本山大石寺諸(しよ)堂(どう)建(こん)立(りゆう)と丑寅(うしとら)勤行について』より一部抜粋(ばつすい))
 
だが事実は、日盛上人が隠居し、スムーズに日霑上人が再度の登座をしたわけではなかった。日霑上人が三月中旬(ちゆうじゆん)にいったん帰山したが、実は日盛上人は、大火の翌日には辞任していた(盛師御傅記)のである。五月になって第五十一世日英上人が、高齢にもかかわらず再び登座したが、約ニカ月間、”猊座”の空白(くうはく)があった。そこには火災だけではない、複雑(ふくざつ)な事情があったようだ。
 
その後の経過については『日霑上人伝』(堀日亨上人編)に詳(くわ)しく書かれているので、少し長くなるが引用(いんよう)する。
 
ここで紹介する『日霑上人伝』の一節は、明治二十四年五月十三日発行の『布教會報』(第貳拾壹號)で「削除」するとの「訂正(ていせい)記事」が掲載(けいさい)された「歴史的な意義のある文章」なので、とくに熟(じゆく)読(どく)していただきたい箇所である。

右の写真が「削除」された箇所の全文である。

「一山の大衆」とは大石寺の僧侶たちのことである。僧侶たちが大いに「沸騰(ふつとう)し挙って」日盛上人を追及した。それにはそれなりの事情があった。日霑上人はその事情をよく承知していたが、僧たちが日盛上人を追及するのを聞くに耐えず、密(ひそ)かに大石寺を下(お)りた。

 
「布教會報」(第二十一號)で「削除す」とされた箇所

 
ところが、日霑上人が下山したことに僧侶たちは驚き、日盛上人を追及するのをやめて仲直りしたうえ、塔中の代表として久成坊、檀家の代表として井出与五右衛門が第五十一世日英上人、第五十三世日盛上人の書簡(しよかん)を持参した。そのため日霑上人が帰山してみたところ、日盛上人は下之坊へ隠遁(いんとん)したというのである。
 
日霑上人と日盛上人の複雑な関係については、先に述べたとおりだ。日盛上人は日霑上人と会うことを避けて下之坊へ隠遁したというのが、日霑上人自身の言(げん)である。
 
「其の先非」というのは火災の責任という意味だとの説もあり、また日霑を隠居に追い込んだことを指すとの見方もある。

 

誰にも相承せずに失踪(しつそう)したことは史実にも明らか

 
第五十三世日盛上人の退座をめぐる騒動(そうどう)は、これから先がもっと衝撃的(しようげきてき)な内容になる。そのことを記述した『日霑上人伝』を引用してみよう。
 
「依(よ)って予は根方本広寺に留(とどま)り寄(き)宿(しゆく)して山に入らず使僧を以て盛師の還(げん)住(じゆう)歟(か)然(しか)なくば英師の御再住あらん事を只管(ひたすら)に懇望(こんぼう)す是に於いて衆檀会議の上、英師御再住の事に決し予を迎(むか)ふ到(いた)れば盛師亦(また)下之坊を脱し去り行(ゆく)衛(え)知れずと云々」
 
日霑上人は根方本広寺に留(とど)まって、日盛上人が猊座に戻るか、または日英上人が再び登座するよう強く望んだが、衆檀会議では日英上人が再び登座することに決まり、大石寺では日霑上人の帰山を促(うなが)した。すると日盛上人は「下之坊を脱し去り」、行方が分からなくなったというのである。
 
日霑上人は、第五十三世日盛上人が行方不明になったと明確に記述している。当然のことながら、相承の儀式などはおこなわれていない。なお、ここで記されている「衆檀会議」すなわち僧俗会議で次期”法主”が決められたことは、大いに注目に値(あたい)する。
 
その後には、
 
「之ニ依ツテ泰明、慈暢に命じ其の蹤(あと)を追ひ尋(たず)ねしむ三十余日を経て閏(うるう)五月に至り帰り白(もう)さく先(ま)づは豆(ず)相(そう)の湯(とう)治(じ)場(ば)を探(さぐ)り江戸三箇寺及び謗中を偵(うかが)ひ野州栃木、平井、佐野、上州、大胡等、心当りの場所は普(あまね)く訪(とぶら)ひしかども更(さら)に知れずと云々」

と書いてある。
 
日霑上人は、行方不明になった日盛上人を捜(さが)すために泰明、慈暢の二人を各地へ派遣(はけん)したが、依(い)然(ぜん)として行方が分からなかったというのだ。
 
ここで言えるのは、そもそも「大衆檀徒等」によって担(かつ)ぎ出され”法主”(大石寺貫首)となった第五十三世日盛上人が第五十二世日霑上人から相承を受けたかどうかには大きな疑問があるということである。おそらく相承はなされていないだろう。さらに、日盛上人退座にあたっては、明らかに相承をおこなっていない。
 
日盛上人みずからが火災の翌日に退座し、その後、誰にも相承せずに行方知れずになったということは確かである。
 
この宗門史上、前代未聞(ぜんだいみもん)の”法主”の失踪(しつそう)事件にもかかわらず、『富士年表』の「一八六五年」の項には、「2・28客殿・六壼・大坊焼失(霑伝)」と、『日霑上人伝』に基づいて火災のことを記したあと、失踪事件とそれに伴(ともな)う猊座の交替(こうたい)などは、以下のように、「石文」(大石寺文書)に基づくと簡単に記述してあるだけだ。
 
「5・7 日盛 大坊を辞(じ)し下之坊に移り、のち下野平井信行寺に赴(おもむ)く(石文)」
 
「5・7 日英再住(石文)」
 
「⑤・15 日英 大坊を辞し、日霑再住(石文)」(編集部注=⑤とは閏月を示す)
 
『富士年表』の「日盛 大坊を辞し下之坊に移り……」
 
から「日英 大坊を辞し、日霑再住」の箇所では、日霑上人の記録した大石寺内の騒動の経過が省(はぶ)かれている。
 
この直前の元治二年二月二十八日の火災の箇所では『霑伝』(『日霑上人伝』)を使用しておきながら、次の箇所では使用していないのである。実は、この『日霑上人伝』は、明治期の宗門機関誌である『布教會報』『法王』にも「日霑上人略伝」という題名で掲載(けいさい)されたことがあった。連載(れんさい)の開始にあたり、『布教會報』の発行人兼編(へん)輯(しゆう)人であった土屋慈観(後の第五十八世日(につ)柱(ちゆう)上人)は、
 
「此の傳(でん)記(き)や曾(かつ)て上人の自筆に成れる者にして一字一句たりとも予(よ)輩(はい)敢(あえ)て削(さく)補(ほ)文(ぶん)飾(しよく)するなし」(『布教會報』第拾七號)
 
と記している。日霑上人の自筆なので「予輩敢て削補文飾するなし」と、わざわざ断(ことわ)っているのだ。
 
ところが先に述べたとおり、『布教曾報』には「訂正記事」がすぐに掲載され、大幅に削除されることとなった。その「訂正記事」は次のとおり。
 
「前號(ぜんごう)日霑上人傳記中一山の大衆事情ありて大ひに沸騰(ふつとう)云云盛師謝(しや)表(ひよう)云云の處(ところ)聊(いささ)か憚(はば)かる廉(かど)も之れあるにつき茲(ここ)に之れを削除す」(『同』第貳拾壹號)となっている。
 
当時、機関誌の編集者は、いったんは掲載したものの“やはりまずい”と思ったのか、あるいは日盛上人に肩入れする誰かが強引に申し入れたのか、いずれにしても先に紹介した箇所を全文「削除す」としたのである。
 
だが、日霑上人五十回遠(おん)忌(き)に日亨上人の手で出版された『日霑上人伝』には、その箇所が削除されずそのまま掲載されている。宗史における少々不都合なことであっても、そのまま後世に伝えようとされた日亨上人の”英断(えいだん)”であったと思われる。
 
ともあれ、山寺の中でのすさまじい僧たちの確執(かくしつ)、権力争(あらそ)いを見ると、さすがは”紛争(ふんそう)の名門・大石寺”と感服(かんぷく)もするが、ともかく日盛上人は日霑上人の目から逃(のが)れるように、火災の責任を感じつつ隠遁(いんとん)、行方不明という大失態(だいしつたい)を演じてしまった。こういう大石寺住職がいたという事実だけは、しっかり認識(にんしき)しておきたい。
 
この事件については当時、要法寺系の玉野日志さえも言及(げんきゆう)している。日盛上人の出奔(しゆつぽん)は他宗派でも評判になるほど有名な事件であったようだ。
 
最後に、参考までに若(じやつ)干(かん)補(ほ)足(そく)すると、日盛上人は下之坊から姿を消して一時、行方不明であったが、「末寺歴代譜」によると、その後はかつて住職を務(つと)め、また両親が留守居(るすい)をしていたことのある栃木県の信行寺へ行った。明治六(一八七四)年、日盛上人と同じ富士見庵系の日胤上人が”法主”のときに初めて、東京・常泉寺の住職に返り咲いた。さらにその後、長野県に信盛寺を、また静岡県に妙盛寺をそれぞれ建立(こんりゆう)したほか、怪僧(かいそう)・清水梁山と問答するなど、それなりの足跡(そくせき)が見られる。
 
日盛上人の退座の仕方は、何とも無責任の限りである。しかしながら一面では、日盛上人が責任をとり潔(いさぎよ)く退座したことは評価できる。

 
 

在家に相承を託した第五十七世日正

 

異常とも思える事態の背景には日柱(につちゆう)人への相承を阻(はば)もうとした勢力が.

 
第五十七世日正(につしよう)は、大正十二年八月十八日に病気療養(りようよう)先の静岡県興津(おきつ)で死亡した。日正は興津の海岸沿(ぞ)いにある一軒家を借りて、供の者を従え療養していたのである。
 
この興津の一軒屋で、日正は日柱(につちゆう)上人に相承したのだが、きわめて特殊な、異常とも思える相承をした。相承を日柱上人に直接相承しないで、在家の者二名を療養先の一軒家に呼んで相承を預(あず)け、その二名の者が大阪・蓮華寺において日柱上人に相承を伝えたのだ。
 
そのことについて第六十六世日達上人は、日蓮宗の安永弁哲への反論の書である『悪書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』(昭和三+一年発行日蓮正宗布教会刊)の中で次のように記している。
 
「しかし思えば既(すで)に御(ご)心(しん)中(ちゆう)に深く決(けつ)せられることがあつたのであろう、大阪の中光達居士、牧野梅太郎氏とを召(め)されて、一切の者を遠ざけて後(こう)事(じ)を托(たく)されたのであつた。それで俄(にわ)かに両氏は日柱上人を蓮華寺に迎えたのである。(此れは日柱上人が御(お)節(せつ)介(かい)屋(や)の謀言(ぼうげん)に引き廻(ま)わされないようにとの深い思召(おぼしめ)しで、此に依(よつ)て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為(ため)であり、其の他の介入を斥(しりぞ)けるための計(はからい)であつた)かくて日柱上人との脈(みやく)絡(らく)は完全についたのである」
 
この文には重大なる史実が伏在(ふくざい)している。
 
日正が、わざわざ在家の者二名を呼び、相承を預けたのには、それ相応(そうおう)の理由があったのだ。その理由として、日達上人(この文の記述当時は総監)は、「此れは日柱上人が御節介屋の謀言に引き廻わされないようにとの深い思召し」と記述している。
 
この記述は、当時の異常事態を示唆(しさ)しているといっていい。謀言(ぼうげん)をもって日柱上人への相承を阻(はば)もうとしていた者がいたのである。そのため、日正は日柱上人に対して直接に相承をすることができず、やむなく「中」と「牧野」という二名の在家の者に相承を託(たく)し、日柱上人に伝えてもらったのだ。
 
第五十七世日正
第五十七世日正
 
再度、日達上人の引用文を見てみよう。相承を在家の二名に預けたのは、謀言を用(もち)いる者の邪(じや)魔(ま)を避(さ)けるためであったと記述し、次に、「此に依て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為であり、其の他の介入を斥(しりぞ)けるための計(はからい)であつた」となっている。
 
では、なぜ相承をするのに、在家の者に託すしか方法がなかったのだろうか?日達上人の婉曲(えんきよく)な記述の裏に、どのような隠(かく)された史実があるのだろうか?日正には供の者はいなかったのだろうか?
 
日達上人の『惡書板本尊偽作論を粉砕す』を注意深く読むと、次のような記述がある。
 
「日正上人の御病気の事であるが、大正十一年秋頃下(した)顎(あご)に極(きわ)めて小さな丁度(ちようど)楊(よう)子(じ)の先程のものが出来たので、東京の某病院で診察を受けられたが、何んだか判然(はんぜん)としなかつたのである。其の後に上京の節には同博士に診察を受けられたが、結局どうも此(こ)れは癌(がん)らしいと言うことになつて其の治療を受けられたのである。
 
大正十二年の入梅(にゆうばい)をひかえて僅(わず)か数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされたのである。然(しか)し上人の御健康を気(き)遣(づか)う周囲のものが此の夏は寧(むし)ろ、海岸に於(お)て御静養遊ばされた方が好(よ)くないかと云うことで、俄(にわ)かに一軒家を借りて其処(そこ)に御滞在をお願い申上げたのであつた。上人は蒲(ほ)柳(りゆう)の質であらせられて、常に其の御健康に就(つ)いて御(お)気(き)遣(づかい)申上げていたので有る。(此のことはむしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになつて笑つていられた)」
 
この記述の中で注意しなければならないのは、「俄かに一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった」となっていることだ。
 
この文により、一軒家を借りたのは、日正の意志ではなかったことが判明する。「むしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになつて笑つていられた」のだ。
 
日正の興津滞在は、「大正十二年の入梅をひかえて」
 
という記述からしても、おそらく、六月初め頃から同年八月十八日の逝去(せいきよ)までということになる。とすると、日正の興津滞在は二カ月余だったわけである。
 
当時、日正は六十三歳だった。亡くなる二カ月前に、海岸沿いの一軒家で転(てん)地(ち)療(りよう)養(よう)していた。日達上人のほかの箇所の記述などから判断すると、日正自身は快活(かいかつ)に振(ふ)る舞(ま)っていたようだが、病状はかなり重かったと考えるのが妥(だ)当(とう)と思われる。
 
わざわざ東京まで出かけて診療を受け、「癌(がん)らしいと言うことになつて其の治療を受けられた」ということでもある。日正の家族の誰かが、余(よ)命(めい)について医師の宣告(せんこく)を受けていた可能性もある。日正のそばの者が、それを知っていたことも充分考えられる。
 
ともかく「弟子共が海水浴をしたいので家まで借りた」と、日正が言っていた事実からすれば、日正のそばで看病しながら海水浴をしていた者がいたのである。
 
”法主”の転地療養なのだから、弟子の僧が供していないと考えるほうが不自然だろう。
 
それならば、どうして、供の僧に手(て)配(はい)させて日柱上人を直々(じきじき)に呼ばなかったのか。なぜ、わざわざ在家の者二名を呼んで相承を託したのか。
 
この解答は、ただ一つ。供の僧が、謀言(ぼうげん)を弄(ろう)する「御節介屋」に通じており、日柱上人を直々(じきじき)に呼べば「他の介入」があるということである。
 

当時の日蓮正宗内では猊座をめぐるすさまじいまでの確執(かくしつ)があった

 
この解答を得れば、ここに恐るべき奸計(かんけい)が伏在(ふくざい)しているのを見抜くことができる。「俄(にわか)に一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであつた」のが、なぜかがわかる。「数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされた」
 
日正が、どうして興津を死地(しち)とすることになったかがよくわかる。
 
興津に一軒家を借りたのは、日柱上人への相承を阻(はば)もうとする者たちの仕業(しわざ)なのだ。死期の近い日正を隔(かく)離(り)したかったのである。日柱上人に対抗して次期猊座を狙(ねら)っていた者がおり、その者の指(さし)図(ず)で日正を海岸の一軒家に隔離したのだ。
 
したがって日正は、そばに仕(つか)える反日柱派と思われるお供の僧の目をくらまして、在家の者二名を呼び相承を日柱上人に託したのである。このように考えれば、日達上人の次の記述も納得がいくのである。
 
「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言(ゆいごん)をするから皆んな呼んでおけとの仰(おお)せがあつたので、周囲の者は慌(あわ)てて、四方へ電報を打つやら電話を掛(か)けるやらしためである。其の夜半に於(おい)て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親(きんしん)への御遺言もあり、而(しこう)して夜はホノボノと明けゆく時、四方より重(おも)立(だ)つた人が駆(か)けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼べ、と仰せられて、一同は上人の枕(まくら)辺(べ)に集まつたのである。一同着(ちやく)坐(ざ)し終るや上人はずつと見廻わされて、やがて侍(じ)僧(そう)に紙と筆とを持つて来る様(よう)にと仰せられた。侍僧は静かに立つて用意をした。そこで上人は徐(おもむ)ろに『大僧正の権は大学頭日柱に相承する』と御遺言を遊ばされ、侍僧の認(したた)めた料紙を手にとつて御(ご)覧(らん)になり、更に署名と花(か)押(おう)とを認める様に命じ給(たま)い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図(おさしず)があつた。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである」
 
(『惡書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』)
 
この記述は、死去の直前に、日正が次期”法主”として日柱上人を指名するくだりだが、在家二名に託したとはいえ、すでに相承を終えている日正が、なぜ、いまわの際(きわ)に次期”法主”として日柱上人を表明しなければならなかったのかという必然(ひつぜん)が明白になってくるのだ。
 
日柱上人への血脈相承は、そばの者を含めて誰も知らなかったので、後の宗内混乱を心配し、皆を集め指名したのだ。
 
しかし、ここでまた新たな疑問がわく。宗内を混乱させないためならば、どうしていまわの際でなく、もっと早い時期に相承を発表しなかったのか、と。
 
この疑問を解(と)くカギも、先の推測(すいそく)に含まれている。早めに発表すれば、阻止(そし)されたり、覆(くつがえ)されたりする恐れすらある「介入」が予想されたということだ。
 
日正のそばに、ベットリとまとわりついた反日柱上人派に通じている者がいたということである。これのみが、日正がギリギリになって、すでに相承を譲(ゆず)っていた僧の名を明かしたという事情を説明できるのである。
 
死去を目の前にして気(き)息(そく)奄(えん)々(えん)の”法主”のそばで、相承の行方(ゆくえ)だけを気にかけ、弱りゆくのをじっと見ている者たちがいたのである。
 
それでは、日正に対して陰(いん)に陽(よう)に圧力をかけ、猊座を狙(ねら)っていた者は誰だろうか。日正が、在家の者二名に秘(ひ)密(みつ)裏(り)に相承を託さなければならないほどに……。
 
日達上人の『惡書板本尊偽作論を粉砕す』に、間接的ではあるが、その解答がある。
 
「御遷(せん)化(げ)の報が四方に伝えられるや、宗門は哀(あい)愁(しゆう)の底に落ちた、しかし此の時に於ても中には種々憶測(おくそく)をする者もあつて御遺言は日柱上人か日開(にちかい)上人かを確め様とする者もあつて、近(きん)侍(じ)の者にしきりと尋(たず)ねる者もあつた。近侍の者のうち次の座(ざ)敷(しき)にいた末輩(まつぱい)の者が、御声が聞えなかつたと答えたのが、一方に誤(あやま)つた噂(うわ)さとなつたのである。それは其の後葬送(そうそう)の席に於て日柱上人か日開上人かハッキリしなかつたいうではないか、と云う話が出たので、其の時日開上人は大学頭ではない筈(はず)だがと言つたら口を噤(つぐ)んで了(しま)つた。日開上人への御相承を期待した人達の心情を察(さつ)すべきである」
 
日柱上人と相承を争っていたのは、日開だったのである。この日達上人の記述は、当時の宗内が日柱派と日開派に割れていたことを描(びよう)写(しや)している。「葬送の席」においてすら、日正の声が「日柱上人か日開上人かハッキリしなかつたいうではないか」と、もめたのである。不(ふ)謹(きん)慎(しん)なことだ。
 
それにつけても、当時の日蓮正宗内では猊座をめぐって、すさまじいまでの確執(かくしつ)があったものだ。末寺の数が五十程度の弱小宗派のトップを狙い、末世の悪比丘たちが暗闘(あんとう)を繰り返していたのである。
 
「日開上人は大学頭ではない筈だがと言つたら口を噤んで了つた」という記述は、当時の宗規では「大学頭」が、次の“法主”となることが定められていたからである。このことはとりもなおさず、日開が宗規すら無視して、猊座を狙って画策(かくさく)していたことを示している。

 

“法主”になるためにあらゆる悪辣(あくらつ)手段を弄(ろう)した日開

 
さらに、歴史は下(くだ)ること昭和三年三月に、その史実は宗内において暴(ばく)露(ろ)された。
 
日亨上人後の猊座をめぐって、昭和二年十二月に阿部法運(のちの第六十世日開、日顕の父)と有元廣賀(当時総務)が宗門を真っ二つに割って選挙戦をおこなったのであるが、その選挙後、有元派は選挙の不当性を主張して『聲明書(せいめいしよ)』(昭和三年三月十三日付)を発表し、阿部法運の旧罪を暴(あば)いている。
 
日柱上人への相承をはばもうと画策した日開

 
「そも阿部師を管長たらしめんと企(くわだ)てたのは、遠く深いのであって、大正十二年八月、日正上人重患(じゆうかん)に陥(おちい)るや、彼等一派は名を正師の命を借りて、久しく大学頭として当然管長たるべき土屋日柱師を排斥(はいせき)し、阿部師を挙(あげ)んと、あらゆる悪辣(あくらつ)手段を弄(ろう)したのである」
 
ここに書かれていることは明白である。阿部法運は、日正が重体のとき、みずからの意志を日正の命であるとして、日柱上人を排斥(はいせき)したと記(しる)しているのだ。そして、阿部一派は法運を次期“法主”にするために、「あらゆる悪辣手段を弄した」と明記している。
 
さらには、日正を興津の一軒家に隔離(かくり)した日開の悪業について、日開に直接「上申書」(昭和五年四月三日付)をもって問い糾(ただ)している信徒がいる。
 
日開が謀(はか)ったクーデターにより日柱上人は放逐(ほうちく)されたが、その日柱上人を擁(よう)護(ご)していた信徒の西脇栄曽吉である。西脇は「上申書」に、次のように記している。
 
「然(しか)るに其(その)當(とう)時(じ)より柱師の偉大なる御人格を嫉(ねた)み諂(へつ)うふ阿部師を擁立(ようりつ)せんとする一派が正師の御病氣の重(じゅう)せらるくを見て早くも後繼(こうけい)法主の擁立を畫策(かくさく)し狂運動を成(な)せし事實(じじつ)はある書に明白なり正師の御病氣益々(ますます)重らせられ愈(いよいよ)興津へ轉地(てんち)療養の後は柱師の御枕頭(ちんとう)へ御近ずけ申さず彼の一派等は益々跋(ばつ)扈(こ)し或時(あるとき)は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強(きよう)言(げん)を以て大學頭職の辞職を强(きょう)要(よう)す」
 
日開は日正以後の猊座を狙って、日正が病気であるのをよいことに、あらゆる手段をもって日柱上人を排撃(はいげき)し、日正に近づけないように計り、大学頭職の辞職まで強要していたのだった。日達上人の著(あらわ)した『惡書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』に書かれていたことは、かくもおぞましい事実であったのだ。

 

クーデターによって“法主”を追い落とす

日柱上人への辞職勧告(かんこく)には宗会職員たちの密約(みつやく)があった

 
大正十四年十一月十八日、総本山大石寺において日蓮正宗の宗会が開かれた。宗会では、当初は日蓮宗身延派への対策を協議していたが、二十日になって、当時の”法主”である第五十八世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告(かんこく)したのである。
 
身延派対策を練(ね)っていた宗会が、突如(とつじよ)、”法主”の不信任案を成立させ、辞職勧告を決議した裏には、宗会議員たちの密約(みつやく)があった。いま風に言えば“クーデター”計画があったのだ。
 
大正十四年十一月十八日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密(ひそ)かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。
 
少々、長くなるが注意深く読んでいただきたい。
 
「現管長日柱上人ハ私(し)見(けん)妄(もう)斷(だん)ヲ以(もつ)テ宗(しゆう)規(き)ヲ亂(みだ)シ、宗門統(とう)治(ち)ノ資格ナキモノト認ム吾(われ)等(ら)ハ速(すみや)カニ上人二隱(いん)
 
退(たい)ヲ迫(せま)リ、宗風ノ革新(かくしん)ヲ期(き)センカ爲(た)メ、佛(ぶつ)祖(そ)三寳(さんぽう)ニ誓(ちかつ)テ弦(ここ)二盟約(めいやく)ス不法行爲(こうい)左ノ如シ。
 
一、大學頭ヲ選任スル意志ナキ事
 
二、興學(こうがく)布教ニ無方針ナル事
 
三、大正十三年八月財務二關(かん)スル事務引繼(ひきつぎ)ヲ完了セルニモ不拘(かかわらず)、今ニ至(いた)リ食言(しよくげん)シタル事
 
四、阿部法運ニ對(たい)シ壓迫(あつぱく)ヲ加ヘ僧階降(こう)下(か)ヲ强(きょう)要(よう)シ之ヲ聽許(ちょうきょ)シタルコト
 
五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執(しつ)務(む)ヲ不可能ナラシム
 
六、宗内ノ教師ヲ無視スル事
 
七、自己ノ妻子ヲ大學頭ノ住職地タル蓮藏坊ニ住居セシムル事
 
八、宗制寺法ノ改正八十數年ノ懸案(けんあん)ニシテガイこう闔宗(がいしゅう)ノ熱望ナルニモ不拘(かかわらず)何等ノ提案ナキハ一宗統率(とうそつ)ノ資格ナキモノト認ム
 
實行(じつこう)方法左ノ如シ
 
一、後任管長ハ堀慈琳ヲ推薦(すいせん)スル事
 
二、宗制寺法教則ノ大改正ヲ斷(だん)行(こう)シ教學ノ大刷新(さつしん)ヲ企圖(きと)スル事
 
三、総本山ノ財産ヲ明確ニシテ宗門ノ財産トスル事
 
右ノ方法ヲ實行スルニ當(あたり)リ本聯盟(れんめい)ニ反スル者ハ吾人一致シテ制裁(せいさい)ヲ加ル事
 
以上ノ箇條(かじよう)ヲ証認(しようにん)シ記名調印スル者ナリ
 
大正十四年十一月十八日

宗會議員 下山 廣健 宗會議員 早瀬 慈雄
宮本 義道 小笠原慈聞
松永 行道 水谷 秀圓
下山 廣琳 幅重 照平
渡邊 了道 水谷 秀道
井上 慈善
評議員 水谷 秀道 評議員 高玉 廣辮
太田 廣伯 早瀬 慈雄
松永 行道 富田 慈妙
松本 諦雄 西川 眞慶
有元 廣賀 坂本 要道
中島 廣政 相馬 文豊
佐藤 舜道 白石 慈宜
崎尾 正道

 
前文は厳しい”法主”批判である。”法主”に対し「私見妄(もう)斷(だん)ヲ以テ宗規ヲ亂(みだ)シ」と決めつけている。ここで注目されるのは、”法主”を弾劾(だんがい)し隠退させることを「佛祖三寳ニ誓テ弦(ここ)ニ盟約ス」としていることだ。
 
この「誓約書」に署名捺印(なついん)した僧侶たちには、「三宝」(仏法僧)に当時の”法主”である日柱上人が含まれるなどといった意識はさらさらないことが判明する。
 
”法主”を批判すれば三宝破(は)壊(かい)であるとする日顕宗の邪義は、元来(がんらい)の日蓮正宗の教義とは無縁であり、近年、つくりだされたものなのだ。
 
日柱上人の不法行為として、「一」から「八」までの具体的事例があげられている。その中でことに注目されるのは、「四」である。
 
「阿部法運ニ対シ壓迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ强要シ之ヲ聽(ちょう)許(きよ)シタルコト」
 
阿部法運(後の日開)は、この宗会に先立つこと約四カ月前に日柱上人により処分されていた。阿部は総務(今の宗務総監)の職よりはずされ、能(のう)化(け)(”法主”になりうる僧階)より降格(こうかく)させられたのだ。このため”法主”になることが絶望的となった。日柱上人引き降ろしのクーデターの背景には、阿部に対する処分問題が尾を引いていたのである。
 
日柱上人追い落としに加担した第61世・日隆上人(右)と第64世日昇上人(左)

 
「七」も興味を引く。
 
「自己ノ妻子ヲ大學頭ノ住職地タル蓮藏坊ニ住居セシムル事」
 
大学頭(次の”法主”となることが約されているポスト)が当時は空席であったからだろう。日柱上人の妻子が住職のいない蓮蔵坊に住んでいたのだ。
 
「誓約書(せいやくしよ)」はクーデターのプランを記(しる)している。後任の管長(”法主”)として「堀慈琳ヲ推薦(すいせん)スル事」となっている。
 
これについても、日柱上人を追い落としたはいいが、クーデターの隠(かく)れた首謀者(しゆぼうしや)である阿部法運が、いきなり”法主”につくのでは強硬(きようこう)な反対も予想され都(つ)合(ごう)が悪いので、宗内に信望(しんぼう)が厚い、のちの堀日亨上人がかつぎ出されたとするのが、一般的な見方である。
 
だが、これは現在の日顕らの主張する血脈相承のあり方にまっこうから対立するものである。衆議によって現”法主”が引きずり降ろされ、次の”法主”が指名されるなどといったことは、当時の日本宗教界においては異例のことであった。今日(こんにち)、”法主”を絶対視する者たちは、この事態をどのように理解するのだろうか。そのうえ、クーデターから脱落(だつらく)する者に対して、「吾人一致(いつち)シテ制裁(せいさい)ヲ加ル事」としている。まさに血判状(けつぱんじよう)をもって僧らは”法主”打(だ)倒(とう)を盟約(めいやく)しているのだ。
 

宗会の日柱上人退座要求に激(げき)怒(ど)した檀家総代ら

 
クーデターは実行に移された。大正十四年十一月二十日、日蓮正宗宗会は次の決議をする。
 
「宗會ハ管長土屋日柱猊下ヲ信任セス」
 
不信任決議とともに、辞職勧告書も宗会で決議された。決議の主文は次のとおり。
 
「管長土屋日柱猊下就職以來何(なん)等(ら)ノ經綸(けいりん)ナク徒(いたず)ラニ法器ヲ擁(よう)シテ私利ヲ營(いとな)ミ職(しよつ)權(けん)ヲ濫用(らんよう)シ傖(そう)權(けん)ヲ蹂躙(じゆうりん)ス我等時勢二鑑(かんが)ミ到底(とうてい)一宗統御(とうぎよ)ノ重任ヲ托(たく)スルヲ得ス速(すみや)カに辭(じ)職(しょく)スル事ヲ勧告ス
 
大正十四年十一月二十日」
 
はたしてこうした事実を、金口嫡々(こんくちやくちやく)唯授一人相承(ゆいじゆいちにんそうじよう)のための次期”法主”選定(せんてい)の方法として受け入れることのできる僧俗がいるだろうか。日顕宗の主張する”血脈相承”のあるべき姿とは、あまりにかけ離れた史実である。
 
日柱上人に対する圧力は、宗会の決議だけではなかった。宗会の決議は二十日だが、宗会初日の十八日の夜半、日柱上人に対するイヤがらせが、すでにおこなわれていた。客殿で勤行中の日柱上人に対して、ピストルのような爆発音をさせて威(い)嚇(かく)したり、客殿に向かって瓦(かわら)や石を投げつけたのである。
 
当時の大石寺は、夜ともなれば静寂(せいじやく)そのものであったろう。そのしじまを破(やぶ)るような爆発音を響(ひび)かせ、瓦や石を投げつけたというのだから悪質きわまりない。
 
夜半の勤行ということだから丑寅(うしとら)勤行と思われるが、丑寅勤行中の日柱上人にイヤがらせをしたのは、二名の僧であった。ただし、この二人は、後に警察沙汰(ざた)となってから判明した実行犯のみで、この裏には教(きよう)唆(さ)した者がいたとされる。
 
日柱上人に対する陰(いん)に陽(よう)にわたる圧力は、相当(そうとう)なものがあったと思われる。
 
日柱上人は、これら宗会議員たちの圧力に押されたためか、二十二日に辞職の意志を表明、辞表を書いた。日柱上人の辞表提出を幸いとして、宗会議長の小笠原慈聞ほか三名は、同日すぐさま、文部省に届出をするために上京。翌々日の二十四日、届出の手続きを完了した。新しい法主は、先の密約(みつやく)どおり、のちの堀日亨上人とされた。
 
日柱上人が突然(とつぜん)退座の意志を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代(そうだい)らに伝わった。だが総代らは、自分たちに何の相談もなく、ヤブから棒(ぼう)に事が進められていることに猛(もう)反発。翌二十三日、宗会議員らのおこなっていることは許すことのできない暴挙(ぼうきよ)であるとして、宗会議員一人ひとりに檀家総代らが詰(つ)め寄(よ)るところまで、事態は紛糾(ふんきゆう)した。
 
宗会議長の小笠原慈聞らが、文部省宗教局に、日柱上人の退座、日亨上人の登座の届けを提出するために上京したことを知った檀家総代らは、追いかけるように、二十七日の早朝、三名の代表を急きょ東京に派(は)遣(けん)、文部省に事情説明、陳情(ちんじよう)をおこなった。もちろん彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。
 
文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基(もと)づき、二日後の二十九日、宗会側の主要人物である総務(現在の宗務総監)の有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(のちの第六+一世日隆(にちりゆう)上人)、松永行道(福岡・霑妙寺住職)を改めて召喚(しようかん)した。
 
文部省宗教局は、宗会側の“クーデター”に対して強い不(ふ)快(かい)感(かん)を抱(いだ)いていたようだ。下村宗教局長は三名の僧に対し、「貴僧等は社会を善導教化(ぜんどうきようけ)すべき責任の地位にありながら今回の暴挙(ぼうきよ)を敢(あえ)て為(な)すは何事か」(大正+四年十二月三日付『静岡民友新聞』)と厳しく追及(ついきゆう)し、そのうえで、四日後の十二月一日までに、宗会が突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を日柱上人より回収して、文部省まで持(じ)参(さん)し提出するよう命令した。

所轄(しよかつ)官庁の宗教局としては、一宗のトップ交代が、クーデターのような形でおこなわれたとあっては、監(かん)督(とく)不(ふ)行(ゆき)届(とど)きとなりかねないとの判断が働いたのではあるまいか。しかも、すでに辞表および就任の書類を受理(じゆり)したことでもあり、ゴタゴタが表面化することを避(さ)け、円満な交代であったことを装(よそお)うため、不信任決議書、辞職勧告書という不(ふ)穏(おん)当(とう)な書面を撤回(てつかい)させ預(あず)かろうとしたのであろう。

 

地元有力者も巻き込お紛争(ふんそう)となった大石寺のクーデター

 
宗会側の代表三名は、”日柱上人おろし”に成功して大喜びしていたところへ、宗教団体の監督に絶大な権力を持つ宗教局長から厳訓(げんくん)され、肝(きも)の縮(ちぢ)むような思いで大石寺に帰った。
 
もはやクーデターの成功を喜んでいるどころではない。ともかく宗教局長の命令どおり、十二月一日までに、不信任決議書と辞職勧告書を日柱上人より回収して文部省へ提出することが最優先の行動とされた。
 
帰山した三名は日柱上人に対し、二通の書面の返却(へんきやく)を懇請(こんせい)したが、書面はすでに檀家総代の渡辺登三郎の手に渡っていた。いまや立場は逆転し、三名の僧たちは檀家総代に返却を哀願(あいがん)するハメにおちいったのである。
 
だが檀家総代側も、これまでの経過からして、書面の返却を二つ返事で了承(りようしよう)するなどといったことはしなかった。
 
宗会側の僧三名は、日柱上人と上野村村長の立ち会いのもと、詫(わ)び状(じよう)を檀家総代に提出し、やっとのことで二通の書面を返却してもらった。僧が檀家総代に詫び状を入れたのも愉(ゆ)快(かい)だが、上野村村長が立ち会ったというのも抱腹絶倒(ほうふくぜつとう)ものである。
 
それはさておき、文部省宗教局長に恫喝(どうかつ)され、なんとしてでも不信任決議書と辞職勧告書を手に入れなければと、切羽詰(せつぱつ)まった思いに駆(か)られていた有元、水谷、松永の三名は、詫び状を信徒に差し入れるという予想外の出来事があったにせよ、回収すべき書面を手に入れることができた。
 
書面の提出期限の十二月一日、僧たちは大宮駅(今の富士宮駅)を午前五時三十二分の列車に乗り上京した。
 
昭和十三年頃の大宮駅
昭和十三年頃の大宮駅

 
書面をたずさえた僧が緊張した面持(おもも)ちで宗教局長の前にあらわれたのは、当時の交通事情からして、おそらく午後の二時か三時頃ではなかっただろうか。
 
宗会側を代表する僧三名は、日柱上人に突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を撤回(てつかい)のうえ、回収した。そして文部省宗教局長から指示された、提出期限の十二月一日当日、なんとか差し出すことができた。だが、それですんなりと事態が収拾(しゆうしゆう)され、新“法主”の誕生ということにはならなかったのである。
 
身延線を走っていた蒸気機関車(大正12年頃)

 
宗会議員や評議員のクーデター派は、次の”法主”にのちの堀日亨上人(当時は堀慈琳と称し立正大学講師であった)を擁立(ようりつ)するということで盟約(めいやく)し、日柱上人に辞表を書かせ、日亨上人の就任承諾(しようだく)も得たうえで、十一月二十四日に日柱上人の辞職届と日亨上人の就職届を添えて管長(”法主”)の交替を文部省に届け出ていた。
 
しかし日亨上人は、その後のゴタゴタに嫌(いや)気(け)がさし、新管長(”法主”)への就任を見合わせるとの意思表示をした。不就任を表明したのは、宗会側の三名の僧が宗教局長に弾呵(だんか)された十一月二十七日の直後と思われる。
 
一方、大石寺地元の檀家総代らは、日柱上人擁(よう)護(ご)の運動を広げるために、十二月二日に上京した。上京したのは渡辺、笠井、井手の檀家総代三名であった。三人の檀家総代は、篠原・東京信徒総務に面談、情報を交換するとともに今後の運動の展開などについて話し合った。
 
このとき総代らは、日亨上人がいったん意思表示した管長不就任をひるがえし、再び就任の決意をしたことを東京の地にて知る。日亨上人としては、自分が管長就任を承諾しなければ、日柱上人の辞表がすでに文部省宗教局に受理されている現状からして、管長不在の状態がつづき、無用の混乱を招(まね)くと判断したためと思われる。
 
この日亨上人が管長(”法主”)就任を再び承諾したことは、日柱上人を擁(よう)護(ご)しようとする大石寺の檀家総代らにとってはきわめて不(ふ)愉(ゆ)快(かい)なことであった。日柱上人派の不利な先行きを予想させたからである。
 
そして、このニュースは、檀家総代らが白糸村村長・渡辺兵定宛(あて)に打った電報によって、大石寺の地元にもたらされた。大石寺のクーデターは、すでに多数の地元有力者を巻き込んでの紛争(ふんそう)∈ふんそう∋になっていたのだ。
 
すでに十一月二十七日、大石寺の地元より三人の総代が、宗教局に日柱上人留任の陳情(ちんじよう)をしていたが、それ以来、静岡と東京の信徒は連携(れんけい)を取り合いながら、代表が連日、宗教局に押しかけた。
 
しかし日柱上人の辞職届と日亨上人の就任届が、監督官庁である文部省宗教局に受理されている以上、法的に有効であり、それを覆(くつがえ)すにはよほどの法的事(じ)由(ゆう)が必要となる。だが、日柱上人側も、クーデターを無(む)効(こう)にする決め手には欠けていた。

 

檀信徒による僧侶の“破門”まで決議された

さて十二月六日、日亨上人は、日蓮正宗の管長(”法主”)に就任するため大石寺に入山した。明けて七日、日亨上人は前管長の日柱上人に事務引き継(つ)ぎを申し入れる。ところが、事務引き継ぎに不可欠の檀家総代の立ち会いが得られず、引き継ぎはできなかった。総代がこぞって立ち会いを拒(きよ)否(ひ)したのだ。
 
新管長としての職(しよく)務(む)を遂行(すいこう)するために入山したにもかかわらず、事務引き継ぎができないため、日亨上人の管長就任は完全に暗(あん)礁(しよう)に乗り上げてしまった。
 
日柱上人は大坊にそのままいつづけたので、日亨上人はやむなく、塔中寺院の浄蓮坊に入った。これ以降、同じ大石寺の境内で、日柱上人を擁(よう)するグループと日亨上人を擁するグループとが二派に分かれ、深刻(しんこく)な対立をすることとなる。
 
日柱上人の側には、大石寺の檀家総代をはじめ、主に東京などの檀信徒がついた。大石寺の檀家総代らにしてみれば、全国から集まった僧らが、何の権限(けんげん)があって自分たちの大石寺住職(法主)を放鄭(ほうてき)しようとするのかということで、どうにも許せないものがあったのだろう。
 
当時の新聞などの論調(ろんちよう)を見れば、日蓮正宗という宗派(包括(ほうかつ)法人)の僧たちが密(みつ)議(ぎ)し、大石寺(被包括法人)を乗っ取ろうとしている、といった論調が目立つ。「大石寺派」(日柱上人のグループ)と「日蓮正宗派」(日亨上人のグループ)といった表現も、新聞報道の中に散見(さんけん)される。
 
両派が大石寺内で深刻な対立をつづけている十二月十日頃、ある事件が起きた。十一月十八日の宗会以来、本山に陣取(じんとり)り、阿部法運(のちの日開)の意を受けて日柱上人おろしの中核(ちゆうかく)として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務が、東京の信徒代表十二名によって強引に拉致(らち)され、東京に連れて行かれてしまった。
 
もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側(がわ)に寝(ね)返(がえ)ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降(お)ろしが成功したのだった。そのクーデターの首謀者(しゆぼうしや)の一人が、信徒らによってあえなく強制下山させられてしまったのだ。
 
大正時代の末寺住職は、日頃、信徒に世話になっている手前、信徒の意向に面と向かって抗(あらが)うことはできなかったようだ。
 
大正十四年は、両派ともに決定的な対抗策を講(こう)ずることもできないまま、暮れようとしていた。だが、暮れも押し迫(せま)った十二月二十八日、日柱上人側が動きを見せた。突如(とつじよ)、日柱上人が大石寺を下山し、東京に向かったのである。
 
日柱上人が新年も間(ま)近(ぢか)に迫った大正十四年十二月二十八日、大石寺を下山したのは、クーデター騒(さわ)ぎの後すぐさま旗(はた)揚(あ)げした正法擁(よう)護(ご)会など、日柱上人を擁護する東京の檀信徒たちとの連携(れんけい)をいっそう密(みつ)にするためであった。大石寺内における両派のにらみ合いという小(しよう)康(こう)状態を、檀信徒の力を借りて打破(だは)しようとしたのだ。
 
正法擁護会は、クーデター派僧たちの活動を阻(はば)むため、十二月中旬頃にはすでに結成されていたようだ。日柱上人が上京した十二月二十八日には、『正邪の鏡』という真相暴(ばく)露(ろ)の小冊子まで発行している。
 
あわただしい年の瀬のさなかにもかかわらず、新しくできた小冊子を目の当たりにし、日柱上人を迎えた正法擁護会のメンバーの意気は、天を衝(つ)くものがあったのではあるまいか。
 
正法擁護会を中核(ちゆうかく)とした日柱上人擁護の檀信徒は、新年早々(そうそう)、東京において全国檀徒大会を開くことを決定した。全国の檀信徒の声をもって、宗会クーデター派の非を天下に訴(うつた)∈うつた∋えることにしたのだ。
 
全国檀徒大会は、大正十五年が明けて間もない一月十六日の午後一時より、神田和泉橋倶楽部において開かれた。
 
この全国檀徒大会では次の五項目が決議された。一つひとつの決議を吟(ぎん)味(み)する中で、紛争(ふんそう)当時の状況を探(さぐ)ってみたい。
 
「一、管長即大導師の寳(ほう)位(い)を日柱上人に奉還(ほうかん)することに努力邁進(まいしん)すること」
 
日柱上人は日亨上人に相承をおこなっていないので、日亨上人は“法主”ではない。ただし、文部省宗教局に対し、日柱上人は管長の辞職届、日亨上人は就任届をそれぞれ出している。その限りにおいては日亨上人が管長であるとも言える。
 
すなわち檀信徒は、その当時の状況を、”法主”は日柱上人、管長は日亨上人と、本来なら一つであるべき”法主”と管長が、二つに分かれていると認識していたのではあるまいか。その現状認識が「管長即大導師」という表現に込められているようだ。
 
檀信徒は、相承が前”法主”である日柱上人の意思にまったく逆(さか)らっておこなわれようとしていることに、信仰上の危機感を持っていた。このようなことは六百有余年の大石寺の歴史においても、珍しいことである。
 
この下(げ)剋(こく)上(じよう)にも似た出来事は、同時の世相からしても、人々に受け入れられるものではなかった。
 
大正時代は近代天皇制国家のもとにあった。上(かみ)御一人の天皇より下(しも)万民に至るまでの不変の秩序立てこそ、優先されるべきことであった。その世相の中で、人々に範(はん)を垂(た)れるべき僧が、下剋上の手本を見せたのだから、世間注(ちゆう)視(し)の大変な騒動となってしまったのだ。
 
「二、戒壇の御本尊の開扉並(ならび)に檀信徒に授(じゆ)輿(よ)さる・御本尊の書冩(しよしや)は日柱上人に限り行はせられ血脈相承なき僧侶によつて行はれざる様適當(てきとう)の方法を講ずること」
 
檀信徒が、相承のなされていない日亨上人による御開扉、御本尊書写を拒否しているのである。”血脈”擁(よう)護(ご)の立場からの主張であるが、それは現実的には、日亨上人へのあからさまな拒否反応としてあらわれてしまった。よかれと思って管長を引き受け、早期に紛争(ふんそう)を解決しようとした日亨上人の苦(く)慮(りよ)のほどは、はかり知れないものがあっただろう。
 
「三、日柱上人を排斥(はいせき)し又は之に與(よ)同(どう)した僧侶に對(たい)しては我等の目的を達するまで一切の供養を禁止すると共に信仰上の交際(こうさい)を斷絶(だんぜつ)すること」
 
クーデターを起こした反日柱上人派の僧侶は養(やしな)わない、「信仰上の交際を断絶する」とまで檀信徒たちは声明している。
 
檀信徒による僧の”破門”である。”破門”の理由は、僧が”血脈”の本来あるべき筋道(すじみち)をはずし、衆を頼んで相承を強制して、”唯授一人血脈相承”を破(は)壊(かい)していると檀信徒たちは見ていたである。
 
「四、宗制寺法、教則の改正等は管長の寳(ほう)位(い)が日柱上人の奉還(ほうかん)せられた以後に實現(じつげん)される様に適當(てきとう)の処置を採(と)ること」
 
クーデター派に有利な規則の変更を阻(はば)もうとしたようだ。この時点で、両派ともに法的な検討を相当に詰(つ)めていたのではあるまいか。
 
「五、右の各項を實現するため數十名の實行委員を選定すること」
 
日柱上人復活に向けて、組織だった活動が全国規模(きぼ)で展開されることになった。

 

国家権力の介入によって選挙で管長を決めることに

この一月十六日におこなわれた檀徒大会は、クーデター派と日柱上人を擁(よう)護(ご)する反クーデター派が、完全に決裂(けつれつ)してしまい、一切の調停(ちようてい)が不可能であるとの印象を文部省宗教局に与えた。そこで宗教局は最後の決断を下す。
 
日蓮正宗の管長をめぐる紛争(ふんそう)を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒会がおこなわれた一月十六日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従(したが)い、管長候補者選挙が告(こく)示(じ)された。
 
投票は郵送あるいは本人持(じ)参(さん)をもっておこなわれ、二月十六日が投票締切(しめきり)。二月十七日、大石寺宗務院において開票されることとなった。被選挙権者の資格は権僧正(ごんそうじよう)以上であった。ただし阿部法運は、僧階降格一年未満であったため除外された。
 
その結果、当時の宗内で被選挙権を有する者は、日柱上人、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、堀慈琳(のちの旦・了上人、浄蓮坊)、水谷秀道(のちの日隆上人、本廣寺)の四名となった。一方、選挙権を有している者は八十余名いた。
 
日柱上人は選挙を有利にするため、一月二十五日、『宣言』を発表した。その内容の骨子(こつし)は、「選擧(せんきよ)に於(おい)て、日柱以外の何人が當選(とうせん)されたとしても、日柱は其人に對(たい)し、唯授一人の相承を相傳(そうでん)することが絶對(ぜつたい)に出來得べきものでない事を茲(ここ)に宣言する」というものであった。選挙で自分に投票しなければ、”血脈”が断絶することになるぞと威(い)嚇(かく)したのである。
 
なお『宣言』の全文は以下のとおり。
 
「宣言
 
一 日柱の管長辭職は、嚢(ひとえ)に評議員宗會議員並に役僧等の陰謀(いんぼう)と、其强(きょう)迫(はく)によつて餘儀(よぎ)なくせられたるものであれば元(もと)より日柱が眞(しん)意(い)より出たものでない。
 
か・る不合理極(きわ)まる経路に依(よつ)て今(こん)囘(かい)の選擧が行はれる事になつた。
 
斯(かく)の如(ごと)き不合理極まる辭職が原因となりて行はれる選擧に於(おい)て、日柱以外の何人が當選されたとしても、日柱は其人に對し、唯授一人の相承を相傳(そうでん)することが絶對に出來得べきものでない事を茲(ここ)に宣言する。
 
二 抑(そもそも)も唯授一人の相承は、唯(ゆい)我(が)與(よ)我(が)の境界(きようがい)であれば、妄(みだ)りに他の忖度(そんたく)すべきものでない。故に其(その)授受も亦(また)日柱が其法器なりと見込たる人でなければならぬ。
 
聞くが如くんば、日柱が唯授一人の相承を紹繼(しようけい)せるに對し、兎(と)角(かく)蜚(ひ)語(ご)毒(どく)言(げん)を放(はな)つ者ありと。これ蓋(けだ)し爲(ため)にせんとての謀計(ぼうけい)なるべきも、斯(かく)の如き者は、獅(し)虫(ちゆう)の族である。相承正統の紹繼者は、日柱に在(あ)り。日柱を除いて他にこれなき事を斷言(だんげん)する。
 
既に不合理の經路に依(より)て行はる・、今同の選擧であれば、これに依て他の何人が當選するとも唯我與我の主意に反するを以て、相承相傳(そうでん)は出來ないのである。乃(すなわ)ち佛勅を重んずる精耐に基(もとづ)く故である。斯の如く日柱が相承を護持(ごじ)する所以(ゆえん)は、謗(ぼう)徒(と)の爲に、宗(しゆう)體(たい)の尊嚴を冒(ぼう)瀆(とく)せられ、佛法の血脈を斷絶せらる・事を恐る・ゆへである。而(し)かも米國の民主主義や、露國の無政府共産主義の如き事が、我が宗門に行はれることになり、それが延(ひい)ては終(つい)に日本國體(こくたい)に及ぼす禍根となるを悲む所以である。
 
三 日柱は宗體を顛覆(てんぷく)せらるヽ事を痛嘆(つうたん)する者である。既にこれを憂慮(ゆうりよ)せる清浮の信徒は、奮起して正義を唱へ、相承紹繼の正統を、正統の正位に復(もど)すべく熱誠(ねつせい)活動して居るのである。苟(いやし)くも僧侶として信念茲(ここ)に及(およ)ばざる如きあらば眞(まこと)に悲むべきである。卽ち佛法の興廢(こうはい)は今囘の選擧によって定まるのである。願くば選擧に際し其の向背(こうはい)を誤まらざらんことを。
 
佛日を本然(ほんねん)の大光明に輝(かがや)かさんと願はん純正の僧侶並に信徒は、敢然(かんぜん)として三(さん)寳(ぼう)擁(よう)護(ご)に奉(ほう)ずるために、正路(しようろ)に精(しよう)進(じん)し、倶(とも)に共に宗(しゆう)體(たい)を援助するに勇猛(ゆうもう)なれ。
 
南無妙法蓮華経
 
大正十五年一月廿五日
 
総本山五十八嗣法 日柱 花押」
 
意に反して猊座を追われた日柱上人の無念さがひしひしと伝わってくる。日柱上人に退座すべき理由は何もなかった。阿部法運の僧階を降格したばかりに恨(うら)みを買い、クーデターを画策(かくさく)され、退座を余儀(よぎ)なくされたのだ。それも「陰謀(いんぼう)」「脅迫(きようはく)」によってなされたというのだから、穏(おだ)やかではない。

 

時の“法主”に信伏随従(しんぷくずいじゆう)していたのはたったの二名

 
さて、日注上人を雍立(ようりつ)する壇信徒の集まりである正法擁護会代表八名は、日亨上人に対して日柱上人の支援にまわってくれるよう懇請(こんせい)するため、大石寺の浄蓮坊を訪(たず)ねた。一月二十九日のことである。この日亨上人との会見には、大石寺の地元の檀家総代一名が同席した。
 
日亨上人と一同の会見は、一月二十九日から三十日にかけて数度おこなわれたが、日亨上人が懇請(こんせい)をキッパリと退(しりぞ)けたことにより、正法擁護会の工作は失敗した。
 
一月三十日、正法擁護会は大宮町(富士宮市)の旅館・橋本館に引き揚(あ)げ、夜遅くまで善後策(ぜんごさく)を協議した。日亨上人の説得に失敗した今、日柱上人の敗北はほぼ確定的である。そこで、正法擁護会の代表八名は、残された非常手段に訴(うつた)えることにした。
 
明けて一月三十一日午後一時、一行は大宮警察署を訪ね、疋田警部補に面会。午後二時七分、大宮駅発の列車で帰京した。正法擁護会の代表たちは、前年十一月の日蓮正宗宗会における不信任決議の不当性を訴え、日柱上人に対する脅(きよう)迫(はく)事件の捜(そう)査(さ)を疋田警部補に要請(ようせい)したようだ(注=時期の特定はできないが、日柱上人側が告(こく)訴(そ)していたことが後に判明する。これが後に日蓮正宗への警察の介入を招(まね)く)。
 
こうして、管長候補者の選挙がおこなわれたが、開票前日の『静岡民友新聞』大正+五年二月十六日付)は、次のように報じている。
 
「屡報(るほう)宗門の恥(はじ)を天下にさらし、宗祖以來七百年の誇(ほこ)り、血脈相承も棄(す)て・管長選擧に僧侶と檀信徒が對立(たいりつ)して醜(しゆう)箏(そう)をつづけてゐる日蓮正宗大本山富士郡上野村、大石寺の管長選擧も今十六日を以(もつ)て投票を終り明け十七日開票の筈(はず)だが、開票の結果は、檀信徒派擁立(ようりつ)の土屋前管長の當選は到(とう)底(てい)覚(おぼ)束(つか)なく僧侶派擁立の現管長事務扱、堀慈琳師の當選は疑ふ餘地(よち)なき確實なものと観測されてゐる。所轄(しよかつ)大宮署では開票當日の大混亂(こんらん)を豫測(よそく)して官、私服の警官十餘名特派し警戒に努(つと)める模様だ」
 
日蓮正宗の管長候補選挙の開票に警官十余名が動員されることが報じられている。この新聞記事は、日蓮正宗内の対立がいかにひどいものであったかを示している。
 
そして、いよいよ開票日当日を迎える。
 
二月十七日午前九時五分より、日蓮正宗管長候補者選挙の開票がおこなわれた。開票結果は次のとおり。
 
総投票数八十七票のうち、棄(き)権(けん)が二票、有効投票は八十五票であった。

八十二点 当選 堀 慈琳師
五十一点 水谷秀道師
四十九点 有元廣賀師
三点 次点 土屋日柱師

日柱上人の得点は、たったの三点であった。当人の一点もあるので、時の”法主”であった日柱上人に「信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゆう)」していた者は、たったの二名しかいなかったことになる。僧たちは、信徒には“法主”への「信伏随従」を強調するが、それはそのほうが自分にとって有利だと判断されたときだけである。
 
大正十五年二月の管長候補者選挙の投票結果は、僧の“法主”への「信伏随従」の程度を数量的に示(しめ)した数少ない事例である。「信伏随従」した者は、投票権を有した僧八十七名中たったの二名、二・二パーセントである。これが僧の「信伏随従」の数値である。お寒(さむ)い限りだ。

 

日柱上人擁(よう)護(ご)派からの訴えで警察の取り調べを受けた宗会職員ら

ともかく選挙は、日亨上人の圧倒的な勝利であった。
 
あとは形だけの評議員会を開き、日亨上人を管長と決定し、文部省に申請(しんせい)して認可をもらうだけとなった。
 
これで、まる三カ月にわたってつづいた泥沼抗争(どろぬまこうそう)にも終(しゆう)止(し)符(ふ)が打たれるかと思われた。だが、またも事態は暗転(あんてん)する。
 
反日柱上人派は、開票当日の午後、大奥(大坊)において、“戦勝”を祝って日亨上人を囲み歓談(かんだん)していた。
 
そこへ大宮警察署の疋田警部補が、数名の制服警官を伴(ともな)ってあらわれた。この日は形だけの捜査で終わったが、翌十八日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けることになる。
 
日蓮正宗宗会議長の小笠原慈聞を筆頭(ひつとう)に、宗会議員、評議員総計二十一名に対する告訴が、日柱上人擁(よう)護(ご)派より出されていたのだ。日柱上人がやむなく辞表を書いたのは脅(きよう)迫(はく)によるものだ、と訴え出ていたのである。
 
翌十八日は、あわただしく明けた。早朝、評議員会を開き、日亨上人を管長として文部省に申請(しんせい)することを決定。総務・有元廣賀、参事・坂本要道二名が旅装(りよそう)をして急きょ上京し、翌十九日には文部省に管長認(にん)可(か)に必要な書類を提出した。警察の介入に驚き、急いで法手続きを済(す)ませたのだ。
 
さて話は、警察の取り調べにもどる。
 
まず十八日は、小笠原慈聞ら九名が午前九時より取り調べを受けた。取り調べは、署内の武道場に全員を入れ、そこから順次一人ひとりを取り調べ室に呼び出して徹底的におこなわれた。調べは夜遅くまでつづいた。
 
小笠原らが取り調べを受けた大宮署
小笠原らが取り調べを受けた大宮署
 
ここに至(いた)って、前年の秋以来つづいた日蓮正宗の宗内抗争(こうそう)は、警察権力の介入という最悪の事態に突入(とつにゆう)してしまったのだ。
 
訴えられた他府県に所在する僧たちは、後日順次、大宮署に召喚(しようかん)された。大宮署の苛(か)酷(こく)な取り調べは、その後も連日のようにつづいた。
 
二月二十四霞には早くも二名の者が書類を検事局に送られた。書類送検されたのは、日蓮正宗宗務院の加藤慈仁(慈忍という報道もある)と蓮成寺住職の川田正平(米吉という報道もある)の二名。この二名は前年十一月十八B、丑寅(うしとら)勤行中の日柱上人を脅(おど)すためピストルのような音をたてたり、瓦(かわら)や石を客殿に投げたことを自供した。
 
警察署から検事局に送られた書類には、そのほか水谷秀道(静岡県・本廣寺住職、のちの日隆上人)、小笠原慈聞(宗会議長)、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、相馬文覚(理境坊住職)、中島廣政(寂日坊住職V、西川真慶(観行坊住職)、小坂要道(百貫坊住職V、早瀬慈雄(法道院主管)、松本諦雄(『大臼蓮』編集兼発行入)、太田廣伯(静岡・蓮興寺住職〉などの名が載(の)っていた。日柱上人に対する脅迫の嫌(けん)疑(ぎ)をかけられていたのだった。さらに捜査は続行した。
 
大石寺の“法主”(管長)の座をめぐる争いは、脱(だつ)∈だつ∋することのできない袋(ふくろ)小(こう)路(じ)に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。だが解決の日は、意外にも早く来た。

三月六日午後一時五十三分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、侍(じ)僧(そう)と正法擁(よう)護(ご)会の者二名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。
 
そこで大石寺檀家総代三名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者二名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜までつづいた。
 
翌三月七日、日柱上人らは二台の自動車に分乗(ぶんじよう)して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。三月七日午前十時より総本山大石寺客殿において相承の会式を挙行、午後一時に終了。午後二時より酒宴となった。
 
三月八日午前0時より一時にかけて、相承が日柱上人と日亨上人の間で執(と)りおこなわれた。翌月の十四日、十五日には、日亨上人の代(だい)替(がわり)法要が催(もよお)された。
 
これをもって、日蓮正宗の“法主”の座をめぐる争いは終了した。
 
抗争(こうそう)劇は実にあっけない幕(まく)切(ぎ)れとなったのだが、日柱上人側が強(きよう)硬(こう)な態度から、一挙に柔(じゆう)軟(なん)な態度に転(てん)じた背景には、文部省の下村宗教局長の調(ちよう)停(てい)があった。
 
調停がおこなわれたのは、二月の終わりか三月の初めと思われる。大方(おおかた)の予想に反して、ただ一回の調停で和(わ)解(かい)が成立したという。
 
その場で五力条の合意を見た。残念ながら、文部省の誰が調停の現場に臨(のぞ)んだのかは判然(はんぜん)としない。だが、誰が代表で調停の現場に出て合(ごう)意(い)したにしろ、それに基づき両派のにらみ合いが解消されたことはたしかだ。
 
ただし、五カ条の合意内容は、当時複数の新聞で報じられている。
 
「一、宗(しゅう)體(たい)の維持(いじ)に就(つい)ては前法主派、法主互いに協力する事
 
二、新法主は山中及(およ)び宗門を改正する事
 
三、宗門の重大事に就て新法主前法主相談する事
 
四、新法主は宗門の雑事には容喙(ようかい)せぬ事
 
五、新法主は信俗の信行を増進する事」
 
この五項目以外にも、日柱上人の「隠尊(いんそん)料」が問題にされた。その内容については、正法擁護会のメンバーである田辺政次郎が、日亨上人登座後の同年九月、『異体同心の激文(げきぶん)』という文書の中で一部明らかにしている。
 
田辺は、日蓮正宗側が日柱上人に約した「隠尊料」の支払いを履(り)行(こう)しないということで合意内容を暴(ばく)露(ろ)したのである。
 
その中で田辺は、以下のことを明らかにしている。
 
「然(しか)して日柱上人御隠尊料は(現金三千圓之(こ)れは正鏡にも記(き)載(さい)あり)白米七十俵本山より供(く)養(よう)すべき内約を大石寺檀徒惣代(そうだい)人の意見として相談せし事、然れども此事は同三月八日御相承の後ち再び改め減額せられた即(すなわ)ち白米廿五俵現金壹千圓となりし是れも約束だけで實行(じつこう)はせぬ事に聞及(ききおよ)びたり」(注11『異体同心の傲文』一部抜粋(ばつすい)、文中『正鏡』とあるのは反日柱上人側の出した文書)驚くべき事実である。日柱上入を退座させ相承を円滑(えんかつ)におこなうために、「隠尊料」が支払われる約束になっていたと暴露しているのだ。しかも、それが相承を支障(ししよう)なくおこなう条件として、相承の前後に話されていた。
 
隠尊料は調停合意の時点では、現金三千円と白米七十俵が、大石寺檀家総代の意見として述べられた。新管長側が、それをその時点で承(しよう)諾(だく)したのかどうかは定かではないが、三月八日の相承の後で、現金一千円と白米二十五俵に減(へ)らされてしまったと、日柱上人側の田辺は暴露している。
 
田辺が隠尊料のことを暴露したのは、まだ宗内抗争の傷(きず)も癒(い)えぬ頃である。関係者全員が健在であろうし、田辺の記すことが、あながちウソとは思えない。隠尊料支払いの実行不実行が、日蓮正宗内で人口に膾炙するようになるとは、”金(こん)口(く)嫡(ちやく)々(ちやく)唯授一人相承”の金(きん)科(か)玉(ぎよく)条(じよう)も、当時はその権威を失ってしまっていたと思われる。
 
ちなみに現金一千円が今日のどの程度の金額に相当するか換算(かんさん)してみる。大正十五年当時、十キロの米はおよそ三円二十銭である。今日の米の値段をかりに十キロ五千円とすると、隠尊料の一千円は、現在の約百五十万円となる。公務員の初任給は大正十五年当時七十五円。現在十三万円として換算すると、大正十五年の一千円は現在の百七十万円となる。
 
もう一つおまけに換算してみよう。当時の『大日蓮』は十五銭、いまの『大日蓮』は三百円。すると隠尊料一千円は、約二百万円となる。
 
どうやら日柱上人の隠尊料は、現在の百五十万円~二百万円程度だったようだ。だが、日柱上人はそれすら与えられず、宗内の者ことごとくに敵対され、放逐(ほうちく)されたのだった。しかも猊座についていたのは、二年三カ月という短期間であった。日柱上人に対する日蓮正宗の僧たちの仕(し)打(うち)ちは、酷(ひど)いものがあった。
 
新しく登座した日亨上人は、学究肌(がつきゆうはだ)の方であるから、「隠尊料」の取引に関(かん)与(よ)することなど考えられない。
 
おそらく、このクーデターの筋書(すじがき)を書いた“政僧”たちが、日柱上人や正法擁護会の人々を宥(なだ)めるために、その場しのぎの懐柔(かいじゆう)をおこなったものだろう。人のよい日亨上人を利用し、日蓮正宗を我が物にしようとする”政僧”たちの息づかいが聞こえてくる。

 
日開らのクーデターにより”法主”の座を追われた日柱上人
日開らのクーデターにより”法主”の座を追われた日柱上人

クーデターを起こした“政僧”たちの中心にいたのか阿部法運(日開)

 
この”政僧”たちの中心にいたのが、阿部法運であることは、当時の宗内においては常識であった。阿部法運は自分が登座するために、さまざまな画策(かくさく)をおこなったのである。このクーデターのとき、阿部と手を握(にぎ)った有元廣賀は、昭和二年十二月におこなわれた第六十世”法主”を決める選挙において、阿部に対抗して出馬し死(し)闘(とう)を演じる。
 
選挙の結果は阿部の勝利となり、阿部は念願の猊座に登るのであるが、敗れた有元は『聲明書(せいめいしよ)』(昭和三年三月+三日付)を発表し、阿部法運の旧来の野(や)心(しん)を暴(あば)いてみせた。そこに書かれた阿部の策謀(さくぼう)は、まさに”法滅(ほうめつ)の妖怪(ようかい)”の面目躍如(めんもくやくじよ)たるものがある。この文を読めば、大正十二年より昭和三年に至る五年間、阿部がどのように策動(さくどう)したか、その概略(がいりやく)を知ることができる。
 
「けれども佛意彼等に組(くみ)せずして、柱師は五十八世の猊坐に上げられました。それ已(い)來(らい)、彼等は言を正師に寄(よせ)て、五十九代は阿部師、六十代は崎尾某なりとの妖言(ようげん)を放(はな)つて、金(きん)甌(おう)無(む)缺(けつ)の相承を瑾(きず)つけ以(もつ)て無智の人々を迷(まど)はしてゐるのである。之は許すべからざる陰謀(いんぼう)であるのに、之さへ選擧(せんきよ)の目的のために崎尾某は位二級も昇進さしたのである。怪躰(けつたい)な話ではありませぬか。
 
所が、胸の納(おさま)らないのは阿部師である。何とかして自己の名聲(めいせい)をあげんとし、日蓮宗界の學(がく)匠(しよう)清水梁山氏が、中外日報記者に話した片言(へんげん)をとらへて、輕卒(けいそつ)にも『清水梁山を誡(いまし)む』てう、怪(あやし)げな論文を大日蓮に掲(かか)げました。柱師之を閲覧(えつらん)せられて、その盲動(もうどう)と淺識(せんしき)とに驚かれ、一宗の総務として又能化の地位に置くべからずとなし、同氏を招き、これを叱責(しつせき)されたるに、師はその未(み)熟(じゆく)と、輕擧(けいきよ)を謝(しや)し、其職を辭(じ)するの止(や)むなきに至りました。然(しかる)に阿部一派では、之は、嚮(さき)に自分等が柱師を排斥(はいせき)せんとした腹愈(はらいせ)であると曲(きよつ)解(かい)して非常に柱師を怨(うら)んだのである。同時に後任となった有元師を嫉(ねた)んだのであります。柱師は決してかヽる凡情に制せられての事ではない。全く阿部師の論文は、本宗教義に悪影響を及ぼす事の重大なるを慮(おもんばか)りて、豫(あらかじ)め善所したのである。現に堀貌下が、まだ浮蓮坊にゐられる際、柱師の命によりて何とか救ふべき途(みち)がないかと、その続稿を閲(えつ)したが實(まことに)以(もつ)て愚(ぐ)劣(れつ)極まるもので、救ふべからざるを以て大日蓮に掲載(けいさい)しなかつたのであります。
 
かくて能化の地位をスベリ、管長候補者たる資格を失ふや、彼等一派は大に狼狽(ろうばい)し、いかにして之を復(ふつ)舊(きゆう)せんかと苦(く)心(しん)惨(さん)憺(たん)たるものであつた。恰(あたか)も大正十四年十一月宗會の開會に當(あた)りて、巧(たくみ)に人心の機微(はずみ)を探り、柱師の潔癖(けつぺき)衆憎と調和せざるを見て、堀師の人望を利用し同師を擔(かつ)ぎ、擧宗一致し柱師を隠(いん)退(たい)せしめました」
 
この『聲明書』を書いた有元は、クーデター当時は、阿部法運の後釜(あとがま)として総務の職に就(つ)いていた。
 
だがこの有元が、宗内ナンバー2の立場にありながら
 
任命者の日柱上人を裏切(うらぎ)り、阿部法運の画策(かくさく)に乗ったことが、日柱上人に対するクーデターが成功した主因(しゆいん)である。
 
『聲明書』は、このときの阿部と有元の野(や)合(ごう)の裏話まで披(ひ)露(ろう)している。
 
「十四年冬柱師不信認云々の時も、阿部一派の者は直(す)に阿部師を出す考えであつたヽめ、堀師を擧(あげ)るに随(ずい)分(ぶん)難(なん)澁(じゆう)したのである。我等は堀師を擧げないなれば不賛成ぢやと断(だん)言(げん)したので、彼等は不(ふ)精(しよう)々(ぶ)々(しよう)付て來たのであります」
 
まさにこのようにして堀日亨上人は、日柱上人に対抗する管長候補として”政僧”たちに担(かつ)ぎ出されたのである。だが、このような経過から総本山第五十九世として登座した日亨上人であったが、ぶざまな抗争で世間の顰(ひん)蹙(しゆく)を買っていた日蓮正宗にとっては願ってもない最適の“法主”であった。
 
もし日亨上人の入徳と識見(しきけん)がなければ、抗争がこのように一挙に解決することもなかっただろう。しかし、人徳、識見ともに、石山が仏教界に誇(ほこ)る至(し)宝(ほう)ともいえる日亨上人を、同門の者たちが抗争の中でこれ以降も容(よう)赦(しや)なく傷つけていったことは、かえすがえすも残念なことである。
 

日亨上人まで利用した“政僧”たち

心洗われる思いがする日亨上人の「お願い」

日亨上人は「聖訓一百題」(『大日蓮』大正+五年四月号)の冒頭に、登座後の心境について、次のように記している。
 
「私は三月の初(しよ)旬(じゆん)に改名を致しました、其(それ)は舊名(きゆうめい)を廢(はい)したのではない、世間公開に用ゆる権利義務の附(ふ)帯(たい)する通称が、宗制寺法と云ふ僧侶の法律の定めに依(よ)つて、名を變更(へんこう)したのであります」
 
登座したことにより、堀慈琳から堀日亨となったことについて、何の気(き)負(おい)いもなくこのように述べている。実に屈託(くつたく)のない人柄をうかがうことができる。つづいて、「尤(もつと)も戸籍役場の薹(だい)帳(ちよう)の名が變更せられて今後は永久に日亨と云ふ名を公私ともに用ひねばならぬ事になりました、併(しか)し舊名の慈琳と云ふ名は剃頭(ていとう)の小師たる廣謙房日成師が初夢の嘉(か)瑞(ずい)に依りて附けられ、日亨と云ふ諱(いみな)は大師範日霑上人が御附けになつたもので、共に私に取つては思ひ出深き稱(しよう)呼(こ)であります、雪仙だの水鑑だの惠日だのと云ふのは、寧(むし)ろ私自身に撰(えら)んだと云ふやうなものでありますから、何でもよいやうなものでござります」(「聖訓一百題」)
 
と述べている。そして、このあとにつづく日亨上人の言葉は、猊座に登っての率(そつ)直(ちよく)な心境を述べている。
 
「但(ただ)し法階が進んで通(つう)稱(しよう)が攣更(へんこう)したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一(いつ)向(こう)分(わ)明(か)りません」
 
(同)
 
周囲の者に、「現代における大聖人様」「大御本尊と不二の尊体」などと呼ばせている三宝破壊の日顕と比べるまでもない器の大きさ、心の清(せい)浄(じよう)さである。このようなことを吐露(とろ)してはばからない人が猊座にあったことがあるのだ。

 

「一年一年と老衰(ろうすい)の境に下りて白髪が増へる氣力が衰(おとろ)へる役には立たなくなる、此等の事は確實(かくじつ)でござりますが、信仰の向上人格の昇進は保(ほ)證(しょう)は出來ませぬ、慈琳が日亨と改名しても矢張り舊(もと)の慈琳の價値(かち)しかありませぬ事は確實であります」(同)
 
人としての徳の高さ、僧としての境(きよう)界(がい)の尊さが、ひしひしと伝わってくる。”法主”の座にあっても、御本仏日蓮大聖人の弟子として、僧分をまっとうしようとのひたむきさがある。近くによって学び、亀(き)鏡(きよう)としたい衝(しよう)動(どう)にかられる。
 
第59世・日亨上人
第59世・日亨上人
 
日亨上人は登座にあたり、宗内僧俗に次のような「お願い」もしている。一つひとつを読むにつれ、聖僧とはかくあるべきと、心を洗われる思いである。
 
「一、從(じゆう)來(らい)の僧俗御一同が信念の表象(しるし)を有形物(かたち)で奉納(ほうのう)なさるヽとき、即(すなわ)ち本山への御あげものは特に法主上人の御身に附(つ)く物に重きを置かるヽ様に見へます、美(び)麗(れい)なる袈裟(けさ)とか法(ほう)衣(い)とか白(しろ)無(む)垢(く)とかの衣類より珍しき貴(とうと)き菓子菓(か)實(じつ)等の食料品より手廻りの小道具までが、他に比較して不(ふ)平(つり)均(あい)に見へます、現に私の慈琳時代には法衣一枚御上げ下さる御方もなかつたが、日亨となつてから俄(にわか)に何を差上げやう彼(かに)を献じやうとの仰(おお)せを聞きますが、私は其を受用(うけもち)する徳がありませうか汗顔(かんがん)の次第であります」(「聖訓一百題」一部抜粋)
 
猊座に登ってからというもの、いただき物が多くなり、当惑されている様子がうかがえる。しかも身の回りの物が多く、これまであったものと比較しても不釣(ふつ)り合いであると述べている。そして、「私は其を受用する徳がありませうか」とまで言っている。
 
「今後幾年が此の平(へい)愚(ぐ)的(てき)羊(よう)僧(そう)が猊座を辱(はずか)しむる事もなく月を追ひ年を積むに從(したが)つて、何(なん)等(ら)かの功徳を宗門に建(た)つる事が出來たなら、其上(そのうえ)には如何(いか)なる上等珍(ちん)貴(き)の衣食を納めても苦しくない處(ところ)の人天の應(おう)供(ぐ)の資格が具備(ぐび)しませうが、先(ま)づ今の處(ところ)では凡僧唖(あ)羊僧(ようそう)で徒(いたずら)に師(し)子座(しざ)を穢(けが)すのみでありますから、無上の御供養は佛天に憚(はば)かり先師先聖に恐れ入つて受くる事が出來ませぬ、其れ計りでなく信(しん)施(せ)濫(らん)受(じゆ)の罪に依りて未來の惡(あつ)果(か)が恐ろしう御座ります」(同)
 
宗門に対してさしたる貢献もないうちに、「無上の御供養は佛天に憚(はば)かり先師先聖に恐れ入つて受くる事が出來ませぬ」と、明言している。
 
また日亨上人は、「信(しん)施(せ)濫(らん)受(じゆ)の罪に依りて未來の惡(あつ)果(か)が恐ろしう御座ります」とまで、記しているのである。
 
さらに、「其(そ)れで私に下さるものは左の範(はん)圍(い)に限りてをきたい」と、具体的に「本山への御あげもの」を限定している。
 
「○衣類等は安(あん)直(ちよく)な毛織物、毛斯(もす)類、木綿類に限る高(こう)價(か)な絹(けん)布(ぷ)は止(や)めてください、つまり私の着用した御(お)下(さが)りを所化小僧が憚(はばか)りなく受用(じゆよう)し得らるヽものにしてほしい」(同)
 
「○調度類の惣(すべ)ては安直にして丈夫向のもの即ち實(じつ)用(よう)一(いつ)點(てん)張(ばり)を主としたい」(同)
 
調度類は、実用第一にして簡(かん)素(そ)なものにしたいというわけだ。
 
「○食物等は成るべく普通の物(中流生活以下の)を御上(おあ)げなされたい、珍しき物や高價な物は一切法(はつ)度(と)たるべし殊(こと)に羊(よう)羹(かん)饅(まん)頭(じゆう)等の生菓子砂糖量の多い物は衛生(えいせい)にも良からざれば寧(むし)ろ禁物にしてほしい」(同)
 
食物は「中流生活以下」のものにしてほしいとは、なかなか言えないことである。
 
日亨上人は、つづいて次のようにも記している。
 
「斯(か)様(よう)に申(もうし)上(あ)ぐると折角(せつかく)の供(く)佛(ぶつ)の志(こころざし)を折(くじ)く事になる、信仰の善(ぜん)芽(が)を萎(しぼ)まする事にもなる、白鳥(はくう)の恩を黒鳥に報じ聖僧の恩を凡僧に報ぜよとの、宗祖俎大聖人の御仰せを用(もち)ひしめね事にもなる、何も貴僧(あなた)に献上(けんじよう)するのではない、御本佛大聖人に献上する積(つも)りでをる物を御(ご)辭(じ)退(たい)するのは却(かえ)つて宜(よろ)しからぬ事であると云(い)はるヽであらう、御(ご)尤(もつとも)の事であるが私一代は私の愚衷(ぐちゆう)を徹(とお)さして頂きたい、其(それ)で猶(なお)供佛報恩の御(お)意(こころ)趣(もち)が晴れぬなら、願(ねがわ)くば私物でなくて公物にして献上せられたい、其は何であるか、
 
一、佛具である。
 
一、器具である。
 
佛具としては上(かみ)は御(み)堂(どう)より下(しも)諸堂の荘(そう)嚴(ごん)具(ぐ)を始として諸式が餘(あま)り麄(そ)末(まつ)である様(よう)に思ふ勿體(もつたい)ない事である、毎日奉仕する私としては恐れ入る次第である、私共は襤褸(ぼろ)を下げても、御本尊様は莊(りつ)麗(ぱ)に御祭りしたいものである」(同)

 
日亨上人が常用していた杖(右)とズダ袋
日亨上人が常用していた杖(右)とズダ袋
 

「現在の堂(どう)宇(う)も決して理想的ではないけれども此(これ)は少額の費用では何ともならぬ、佛具の完成なら多額を要せぬ、又御前机、御經机、或は何々と幾部にも切離(きりはな)して献上が出來る、必ず一人一氣にと云ふ譯(わけ)でないから都合がよい、但(ただ)し此は各位が思ひ思ひに御献上になつては統一がつかぬで諸堂を佛壇屋の店の様にしては困る、何(いず)れも本山へ御相談の上にせられたい、此迄(これまで)の佛具の献上(けんじよう)に此(この)傾向があつて随分無益(むやく)になつている物が多い」(同)
 
日亨上人のきめ細(こま)やかな気(き)遣(づか)いに、ただただ頭の下がる思いだ。
 
「又器具である此には本山専用の物もあるが、多くは御参詣の御客待遇に使用する物が多い、如何(いか)に御信仰からの御登山ぢやと云つても、麁(そ)末(まつ)な器で麁(そ)浪(ろう)な待遇を受けて満足せらるヽ御方が幾人あらう、本山でも注意するは勿論(もちろん)の事であるが行届く迄(まで)には容易ならぬ資力と日子(につし)がかヽる、御一同が思ひ附(つき)の物を本山に相談して御上げになれば造(ぞう)作(さ)もなく御自身も意(こころ)持(もち)がよい、此に均霑(きんでん)する他の信友も漏足される事で相互奉仕の思ひも届く事になる、併(しか)し從來も斯(かか)る事が無(なか)つたと云ふ譯(わけ)ではないが、私に盡(つく)してくださる分を此方(こちら)に廻(まわ)はされたいと念願するのである。

 
已(い)上(じよう)は別に各位にお願いすべき事を本題の改名に因(ちな)んで長々と申上げて貴重の誌面を塞(ふさ)ぎたる事を幾重にも御(お)詫(わび)するのであります」(同)
 
衷(ちゅう)心(しん)から敬服(けいふく)するのみである。

 

猊座神秘主義のかけらもない日亨上人の行(ぎよう)躰(たい)

登座から約二年後の昭和二年十一月二十日、時の”法主”であった日亨上人は、「告白」という一文を宗内に示した。日亨上人はこの文で、退座の意志を表明したのであった。
 
「告白」の序文には、「謹(つつし)んで宗内道俗一同に告ぐ」と表題がつけられており、本文は、「第一、管長となりし因縁」「第二、管長の任期」「第三、管長辭(じ)職(しよく)の素因」「第四、管長辭職の近因」の四つの章立てになっている。
 
まず序の「謹んで宗内道俗一同に告ぐ」の冒頭は、次のように始まっている。
 
「野衲(やのう)が管長法主職に就(つ)きしは止(や)むを得ぬ事情の爲(ため)であつて、始めから折を見て早(そう)晩(ばん)辭(じ)職(しよく)の積(つも)りであることは再々内表した事であれば、今同の辭職説が傳(つた)はりたりとて門下は敢(あえ)て驚くべきでない、却(かえ)つて實現(じつげん)の早きを祝(しゆく)せねばならぬ況(いわ)んや事情を知(ち)悉(しつ)せる評議員宗會議員の任にあるものは事情に迂(う)遠(えん)なる者に當(とう)然(ぜん)の理解を與(あた)ふべきである」(「告白」)
 
日亨上人は、自分はやむをえず管長”法主”となったので、登座のときから早めに辞職しようとの気持ちを持っていたことを述べ、辞意の固いことを示している。
 
この冒頭の文の後、日亨上人は「留任願」などが、次々と自分の所に送られてくることについて、
 
「若(も)し陽に此(この)月(つき)並(なみ)的(てき)美(び)動(どう)に托(たく)して隠(いん)に他を排濟するの行動に陥(おちい)るとせば頗(すこぶ)る宗門の天蘗不祥事(ふしょうじ)と云はねばならぬが、其を發生(はつせい)せしめし一半の責任は慥(たしか)に予が寡(か)黙(もく)による」(「同」)
 
と記している。日亨上人に対する「留任願」の背景には、次期”法主”の有力候補である阿部法運(のちの第六十世日開)に相承させたくない宗内勢力が動いていることを指摘しているのだ。”法主”の座をめぐって、当時の日蓮正宗内で葛藤(かつとう)があったことを、この記述は示している。
 
そこで日亨上人は、政治的な意図をもって退座するのではないことを、この「告白」の中で縷々(るる)述べるのである。日亨上人は、この序にあたる文を、「願わくば、至(し)信(しん)に精読(せいどく)して頂きたい」と、しめくくっている。

 

本文、「第一、管長となりし因縁」は、次のように始まる。
 
「何故に十數年の隱(いん)遁(とん)生活を止(や)めて最も性格不(ふ)相(そう)應(おう)の管長法主となりしやを先(ま)づ一言(いちごん)せざるべからず、大正十四年十一月の突發(とつぱつ)大事件について多數の人は此機會を以つて宗門興(こう)隆(りゆう)の爲(ため)に敢(あえ)て予(よ)を隱(いん)窟(くつ)より出(いだ)して無上法位に推上(すいじよう)せりと云へるが、或は御一同も然(し)かく考へて以つて兎(と)も角(かく)爲(い)宗(しゆう)安心の胸を撫(な)でをうされしならんが、予に取りては決して然(しか)らず、事件の責任其遠因(そのえんいん)自己にあり如何(いか)なる手段を取りても一(ひと)先(ま)づ此(この)紛(ふん)擾(じよう)を静めざるべからずと決して、水谷、有元、小笠原、幅重、四師の熱誠(ねつせい)を容(い)れたのである」(同)
 
大正十四年十一月の日柱上人に対する日蓮正宗宗会の退座要求によって起こった紛争(ふんそう)を鎮(しず)めるために、日亨上人はみずから登座したのだということを強調している。
 
日亨上人に登座を懇請(こんせい)したのは、水谷秀道(当時の役職・評議員、のちの第六+一世日隆上人)あるいは水谷秀圓(同・宗会議員、のちの第六+四世日昇上人)、有元日仁(同・宗務院総務)、小笠原慈聞(同・宗会議長)、福重照平(同・宗会議員)らのクーデター派であったことを明らかにしている。この四名の陰には、阿部法運が暗躍(あんやく)していたのである。
 
さらに、日亨上人は次のようにも記している。
 
「但(ただ)し大破裂の上には事後の収拾(しゆうしゆう)こそ必要と考がへ早くて三ケ月遅くて六ケ月を己(おのれ)が責任逃(とう)避(ひ)より起れる事件の爲の懺(ざん)悔(げ)奉仕卽(すなわ)ち罪亡(ほろ)ぼしの爲に粉骨(ふんこつ)する考にて殆(ほと)んど斷頭臺(だんとうだい)上(じょう)に昇る心持で晋(しん)座(ざ)したのであるが、少數なれども殊(しゆ)死(し)躍(やく)動(どう)の人々の爲に圓滿(えんまん)の収拾も出來ずさりとて中途放(ほう)棄(き)もなりがたく成り行きに引きずられて三ヶ月も六ヶ月も夢と去つたのである」
 
(同)
 
日亨上人が登座することを、「斷頭臺(だんとうだい)上(じょう)に昇る心持で晋座した」と述べていることは、実に注目される表現である。猊座自体を神秘化しようとする現在の日蓮正宗中(ちゆう)枢(すう)としては、好ましくない表現ということになるのではないだろうか。
 
猊座にありながら日亨上人がこうした表現を使っていることは、間接的であれ、猊座にある者が特別の境(きよう)界(がい)を有しているなどといった猊座神秘主義を否定することになりはしないだろうか。
 
猊座に登れば日蓮大聖人と同じ境界にあるといった“法主”絶対論を主張する者がいるが、日亨上人が猊座にあって、一日も早い退座を願っていたということは、実に俗っぽい人間的な感情である。

 
猊座にある者は御本仏と一体不二の境界にあるといったことは、ウソなのである。
 
それは、日亨上人が「聖訓一百題」で、登座されての心境を、「但し法階が進んで通(つう)稱(しよう)が變(へん)更(こう)したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明(わか)りません」と率(そつ)直(ちよく)に述べていることからも明らかである。

 

日亨上人の宗門刷新(さつしん)の行動に宗内の多くの者は反発

日亨上人は、猊座に登ってからの大坊移転も不(ふ)本(ほん)意(い)だったようだ。
 
「此(これ)を以つて予の大坊移(い)轉(てん)は漸(ようや)く大正十五年四月九日であつた其(それ)も代(だい)替(がわり)蟲(むし)拂(ばら)會(いえ)が目前に迫るので舊(きゆう)隱(いん)坊(ぼう)からの通勤は大に穩(おん)當(とう)でないと云ふ多數の意見で自分は一生不動と定めてをいた淨蓮坊を出(い)でたのである」
 
(「告白」)
 
日亨上人は、大坊よりも住み慣れた浄蓮坊を好んだようだ。そのうえで、さらに心情を吐露(とろ)している。
 
「斯(か)様(よう)な有(あり)様(さま)は根本的に自分一代は變態(へんたい)の中(ちゆう)繼(けい)法主で强(し)いて御大事を相承して立派な法主貌下となつて見やうと云ふ心底は毛頭(もうとう)なかつたのである、先(ま)づ此事は昨年已(い)來(らい)の予の言動に徴(ちよう)して御了解なされたいと切望(せつぼう)する次第である」(同)
 
ここで日亨上人が、「變態の中繼法主」という表現を使っていることも驚きである。現在の日蓮正宗中枢の権威主義者たちは、「變態の中繼法主」という表現を見たら、卒倒(そつとう)するのではあるまいか。猊座神秘主義者は、この言葉をどのように理解するのだろうか。
 
しかも日亨上人は、「立派な法主猊下となつて見やうと云ふ心底は毛頭なかつた」とまで言っているのだ。
 
“法主”の座にあっても何の気負(きお)いもなく、恬(てん)淡(たん)としたものである。それでいながら、近代の日蓮正宗の中にあって傑(けつ)出(しゆつ)した碩学(せきがく)であり、自然と合(がつ)掌(しよう)したくなるような尊い人柄であったのである。
 
また、第三章「管長辞職の素因」で日亨上人は、自分が管長(法主)を辞職する原因として「内的」なものと、「外的」なものがあると述べている。
 
「内的」な辞職原因としては、次のようなことを挙(あ)げている。
 
自分の個性に適(てき)した新行動をとっても、宗内にある従来の慣(かん)習(しゆう)と合わず、そのために宗内の人間関係がギクシャクしている。自分の理想や個性とも合(がつ)致(ち)しない生活は、体調を壊(こわ)し、原因不明の病気を頻発(ひんぱつ)する。もし、ここで倒れるようなことになれば、宗内のためにもならず、厄介者(やつかいもの)として生涯を終えることになってしまう。二十~三十年来の願(がん)業(ぎよう)としてきた御書編纂(へんさん)などの聖(せい)業(ぎよう)も無に帰すことになる。それでは、死んでも死にきれない――と。
 
概(がい)略(りやく)このように日亨上人は記している。「告白」の原文は以下のとおり。
 
「内的の方から云へば己(すで)に第一に言明(げんめい)せる如く管長たる事を欲(ほつ)せざる其適當(てきとう)せざる性格であるから假(かり)に個性に適したる新行動を取りたるも何となくツリアヒが善(よろし)くない從來の習慣と相應(そうおう)せぬ自他上下シツクリせぬ釣(つ)り合はぬは不縁の基(もと)と云ふ語が此に當(あた)る此が抑(そもそも)の原因である始めから一年二年と永い事は持たぬ否(いな)持てぬのが當然(とうぜん)である、理想にも個性にもハマラぬ生活は色心二法を束縛(そくばく)する不快にする四大(しだい)の調和を失する從來曾(かつ)てなき原因不明の病氣を頻發(ひんぱつ)する、若(も)し此が爲に倒るれば宗門の爲にもならず厄介物(やつかいもの)として終ることは明白であるのみならず、二三十年必死と念願せし編纂(へんさん)著作の聖業(せいぎよう)も泡沫(ほうまつ)と散(ち)り失(しつ)する如何(いか)にも死んでも死にきれぬ殘(ざん)念(ねん)さである、此が先(ま)づ大々主因である」(同)日亨上人が宗門刷新(さつしん)のために「新行動」をとっても、宗内の多くの者がそれに反発してついてこなかったようだ。日亨上人は、かなり精神的不快を感じていたようだ。日亨上人としては、自分に不釣り合いの猊座にいるより、御書編纂(へんさん)などの「編纂著作の聖業」に打ち込みたかったのである。
 
広宣流布という目的意識を持って宗政に臨(のぞみ)み、実に真(しん)摯(し)な行(ぎよう)躰(たい)をもって日常生活を営(いとな)んでいた日亨上人に、誰も信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゆう)などしなかったものと見受けられる。
 
阿部法運ら宗内の実力者は、総本山第五十八世日柱上人を猊座より引きずり降ろすため、日亨上人の生真面目(きまじめ)さを利用したにすぎなかった。宗内総ぐるみで日柱上人をうまく退座させたいまとなってみれば、後継となった日亨上人の存在すら邪(じや)魔(ま)となってきたのだ。
 
宗内実力者たちが、何かにつけて日亨上人に反発したことは、この「告白」の文から充分にうかがえる。日亨上人の心労(しんろう)は限界に達していたのだった。

 

創価学会出現以前の大石寺は末(まつ)世(せ)の悪比丘たちの巣窟(そうくつ)

日亨上人は、退座するに至(いた)るみずからの「内的」要因を、このように開陳(かいちん)したあと、「外的」な退座要因を六項目にわたって示している。
 
日亨上人は、辞任原因となった「外的境(きよう)遇(ぐう)」の第一番目として、「一、監督の官憲(かんけん)に壓制(あつせい)せられて大正十四年十二月に舊(きゆう)例(れい)に無き管長候補者選擧(せんきよ)を爲(な)した事が如何(いか)にも忍(しの)ぶ能(あた)はざる屈(くつ)辱(じよく)なる事」と記している。同様の記述は、この章の書き出しにも見られる。
 
「自分が求めた譯(わけ)でもなく願つた譯でないが成行(なりゆき)と云ひながら兎(と)も角(かく)多數の僧分が警察沙汰(ざた)にまで屈辱を受けた外(ほか)に種々の汚(お)名(めい)を着せられ其(その)外(ほか)百(ひやつ)般(ぱん)の苦悩を忍んだ」(「告白」)
 
これについては先に詳しく述べたとおりである。いずれにしても、次期”法主”の選挙が「官憲に壓制」させられておこなわれたことが、日亨上人にとって「忍ぶ能はざる屈辱」だったのだ。
 
それは、国家権力介(かい)入(にゆう)による選挙を経(へ)て”法主”の座についた、自分自身の否定にもつながることだった。
 
みずからを「中繼法主」と何度となく称(しよう)していることは、この認識からくるものと思われる。
 
「告白」はつづけて、次のようにみずからの相承に論(ろん)及(きゆう)している。
 
「二、一時の中繼法主であれば御相承の大體などは強いて行ふにも及(およ)はざるべきを多方面の希望にまかせて官憲の口入(くちいれ)まで受けて不快なる型式を襲(しゆう)踏(とう)した事は、假令對者(たとえたいしや)の所爲(しよい)にして當方(とうほう)は受身であつたにもせよ拭(ぬぐ)ふべからざる汚(お)點(てん)なる事」(「告白」)
 
これがまた、飾らない日亨上人の面目(めんもく)を躍如(やくじよ)する記述である。
 
大正十五年三月七日の「御相承の大體」(相承の儀式)を、「不快なる型式」に基づいておこなったことが、自分にとって拭うことのできない汚点となったと述べている。
 
そして、日亨上人が「強いて行ふにも及ばざるべき」
 
「御相承の大體」を踏(ふ)まえなければならなかったのは、「多方面の希望」と「官憲の口入」によるものであったと明記している。「多方面の希望」とは、宗内僧俗の有力者たちのことであろう。また「官憲の口入」とは、文部省宗教局の介入である。
 
これらの関係者は、「御相承の大體」を一(いつ)件(けん)落(らく)着(ちやく)の儀式として大々的におこないたかったことと思われる。それに対して日亨上人は、官憲が事件を収拾(しゆうしゆう)するための一方策として相承の儀式を演出することに、癒(いや)しがたい屈(くつ)辱(じよく)感を味わったのであろう。
 
だが、現実は日亨上人の意志に反して進められ、三月七日午前十時より総本山大石寺客殿において相承の会(え)式(しき)を挙行(きよこう)、午後一時に終了。午後二時より酒宴(しゆえん)となった。
 
三月八日午前〇時より一時にかけて、相承の儀式がとりおこなわれた。

 

日柱上人は、一切の相承を済ませて総本山大石寺を去ったが、そのとき、山を降りる隠尊(いんそん)の日柱上人に対して、石を投げつけた僧までいたという。
 
創価学会出現以前の富士大石寺は、末(まつ)世(せ)の悪(あく)比(び)丘(く)たちの巣窟(そうくつ)と化していたのだ。
 
「三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預(あず)けたと云ふ者より其内容を聞き取りし事は上(じよう)求(ぐ)菩(ぼ)提(だい)の精耐に合ふやと憚(はばか)りをる事」(「告白」)
 
日亨上人は、管長(”法主”)辞職の一理由として、このように述べている。
 
第五十九世日亨上人は、当然のことながら第五十八世日柱上人より相承を受けている。相承の儀は、「官憲の口入」などもあり、大正十五年三月八日の未明におこなわれている。
 
このとき、日亨上人は日柱上人より十(じゆう)全(ぜん)の相承を受けたはずである。しかし、日亨上人は、第五十七世日正が「相承を預(あず)けた」という者に、血脈の内容を改めて聞いた、と「告白」に記しているのだ。
 
日亨上人が、なぜ日柱上人を飛び越え、日正から日柱上人への相承の内容を聞き直したのかということが問題になる。
 
「日柱上人から日亨上人へ、充分な相承がおこなわれていなかったのではないか」、あるいは「碩学(せきがく)の日亨上人から見て、相承の内容に不足を感じていたのではないか」などと、このことに起(き)因(いん)して、日亨上人が「告白」を書いた当時の日蓮正宗内に相当な物(ぶつ)議(ぎ)を醸(かも)すことになった。

 

日柱上人からの血脈相承に不充分なものを感じていた日事上人

ここで、日正が「特別の相承を預けた」と「告白」で書かれていることを理解するためには、第五十七世日正から第五十八世日柱上人への相承がどのようにおこなわれたかを確認しなければならない。
 
日正から日柱上人への相承は、尋(じん)常(じよう)ならざる状況下でおこなわれたのである。その原因は、ひとえに阿部法運(のちの日開)の猊座への妄(もう)執(しゆう)にあったといえる。
 
このことについてはすでに詳(しよう)述(じゆつ)したが、在家の者二名が仲介して相承がなされたのである。
 
阿部法運は、第五十七世日正の次を狙(ねら)い、それが果(は)たせないとわかると第五十八世日柱上人の次をまた狙い、それすらも有元派との野合を成立させるために果たせず、やむなく日亨上人を擁立(ようりつ)した。だが、みずからの僧階が復(ふつ)級(きゆう)するや、第五十九世日亨上人を孤立させ、早期退座を計(はか)ったのである。
 
日亨上人退座表明後、日柱上人引き降ろしのときに野合した阿部派と有元派は、今度は真っ向から対立。買収、脅(きよう)迫(はく)、利益誘導(ゆうどう)などによる最悪の選挙戦で、次期猊座を争う。このように日開は、相承の局(きよく)面(めん)においてことごとく攪乱(かくらん)の当事者となるのである。
 
日亨上人が相承の内容を改めて聞いたとする「特別の相承を預(あず)けたと云ふ者」とは、日達上人の著(あらわ)した『悪書板本尊偽(ぎ)作(さく)論を粉砕(ふんさい)す』(昭和三十一年発行日蓮正宗布教会刊)にも登場するが、「中光達」「牧野梅太郎」という在家の二名の者を指すと思われる。日亨上人は、相承について信徒二名より「其内容を聞き取りし事」が、いかにも残念だったのであろう。
 
日亨上人が「告白」の中で、「自分一代は變態(へんたい)の中(ちゆう)繼(けい)法主」と言われているのも、このような特(とく)殊(しゆ)な事情が背景にあったと思われる。
 
日亨上人が、日柱上人に対する相承を一時預かりした信徒から、誤解を恐れず相承の内容を聞き取られたことは、日亨上人が日柱上人から受けた相承の内容に不充分なものを、感じていたからとも考えられる。
 
「五、昨年の宗制改正案について自(みずか)ら七八の新案を参考に提出せしも起(き)草(そう)委員又は宗務職員又は評議員等が
 
其中の重大案までも殆(ほと)んと黙殺(もくさつ)せるを強(きよう)制(せい)し得ざりし平凡(へいぼん)管長の悲(ひ)哀(あい)否(いな)時期到(いた)らずと淡薄(たんぱく)に見切りを附(つ)けた事が却(かえ)つて無責任なりし苦しみに自ら堪(た)へ得ぬ事」
 
日亨上人は「宗制改正」をめざしていた。宗門の刷新(さつしん)を希望してのことであろう。ところが、それに対する宗門の反応は実に冷たいものだった。
 
「起草委員」「宗務職員」「評議員」のことごとくが日亨上人の意(い)向(こう)を聞かず、あろうことか「黙殺」したというのだからひどい話だ。
 
「宗制改正案」を宗会にかけて否(ひ)決(けつ)されたというのでなく、「起草委員」や「宗務職員」が日亨上人の職務上の指示を聞かなかったのだ。「信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゆう)」どころか、サボタージュによる反抗である。
 
日亨上人のめざした「宗制改正」がどのような内容であったのか、現在では知る術(すべ)もないが、日亨上人が考えていた案は、おそらく清新(せいしん)すぎて、堕(だ)落(らく)した僧たちから敬遠(けいえん)されたのだろう。
 
「起草委員」「宗務職員」「評議員」などに職務上の指示を「黙殺(もくさつ)」され、ボイコットされたのでは、退座したくなるのも無理はない。
 
だが、それでも日亨上人は、反抗した僧らを責(せ)めるよりは、それを実現する方向に押し切れなかったことを、「無責任」ではなかったかと自(じ)責(せき)しているのだ。
 
日亨上人は退座の「外的」原因の「六」として、次のように記している。
 
「六、就(しゆう)任(にん)已(い)來(らい)財物を私有せずして職員に充分の腕を揮(ふる)ふべき便(べん)宜(ぎ)を與(あた)えてをる、代替虫拂會の収入等の大部分をも修(しゆう)繕(ぜん)工事費に使用して収入に對して過(か)々(か)分(ぶん)の營繕(えいぜん)を爲(な)してをる爲(ため)に職員にも過分の辛(しん)勞(ろう)かけてをる計(ばか)りでない自分の懐(かい)中(ちゆう)に残るべきものなきを顧(かえり)み阻苦行をしてをるが、未(いま)だ法主も職員も大に務(つと)めたりと云ふ善聲(ぜんせい)を聞かぬのみか却(かえつ)て兎(と)角(かく)の惡評ありと聞く、此の調子では差迫(さしせま)る御(ご)遠(おん)忌(き)の報恩大事業などは出來る見(み)込(こみ)は立たぬ、此(この)不徳無能の法主は一日も永(なが)く位(くらい)すべからず寧(むし)ろ辭(じ)職(しよく)勧告状の來(きた)らぬを怪(あや)しむ位である」
 
日亨上人は宗務財政に口出しすることをせず、宗務職員に任(まか)せていたようだ。そして、総本山内の建築物の修理に相当なお金を費(つい)やし、そのために職員に大変な苦労をかけたことを記している。日亨上人御自身も、まったくお金のない様子だったようだ。
 
そこまで日亨上人や職員が一生懸命やっても、宗内では悪口しか言う者がいなかったと、日亨上人は嘆(なげ)いている。

 

日亨上人が退座したのは御書編纂(へんさん)などの聖業をなしとげるため

昭和六年には宗祖の第六百五十遠(おん)忌(き)が予定されていたが、自分が管長では「報恩大事業」などができないのではないかと危惧(きぐ)した。これもまた日亨上人退座の原因となった。
 
実のところ、宗内を二分する勢力であった阿部法運派と有元廣賀派はともに、みずからの領袖(りようしゆう)を立てて栄(は)えある第六百五十遠忌をおこなおうと考えていたのである。
 
したがって、日亨上人の指示を素直に聞くはずがない。足を引っ張れるだけ引っ張って、早期の退座を画策(かくさく)したのである。そのため日亨上人は孤立し、退座を余儀(よぎ)なくされたのだ。
 
そのうえ、日亨上人の身辺に不(ふ)測(そく)の事態が起きたのである。お側(そば)に仕(つか)える僧の中に精神に異常をきたした者が出たのだ。そのことについて、日亨上人は次のように記している。
 
「一時外界の大(だい)膿(たん)曲(きよく)邪(じや)輕(けい)薄(はく)の風波にもまれて遂(つい)に精紳に破(は)損(そん)を來たし信仰が高慢(こうまん)と正直が疑(ぎ)惑(わく)と小心が恐怖と變(へん)して、毎日怒り泣き恐れ笑ふて日を逸る狂(きよう)兒(じ)を近(きん)侍(じ)に出した、何と云ふ淺(あさ)間(ま)しい罪業であらうか罪は狂見にあり焉(いずく)んぞ吾(ご)徳(とく)を傷(きずつ)けんやと濟(す)まして居(お)れやうか法主の慈愛の下(もと)には病者も狂者も休まるべきである又斯(か)く信ぜられてをる況(いわ)んや拾(じゆう)數年教養の兒(こ)が俄(にわか)に此の體(てい)は唯(ただ)事(ごと)ではない、予(よ)が宿罪の然(しか)らしむる處(ところ)として自ら鞭(むち)うつても致し方はあるまい正しく御本佛の御教示であると深く信して、重役共に辭(じ)職(しよく)の承認も經(へ)ぬ間に御(お)大(たい)會(え)が濟むと直(ただち)に密(ひそか)に方(ほう)丈(じよう)を引き拂(はら)つて雪山坊に籠(こも)りて罪の兒の快復(かいふく)を所つてをる今日の哀(あわ)れな境(きよう)界(がい)である、是(これ)では予が如き小心の者でなくとも厚(こう)顔(がん)無(む)恥(ち)にあらざる限り平然として狂(きよう)兒(じ)を擁(よう)して法主の高位に安ぜられようか此が正しく辭職の近因であつて御本佛の懲誡であると謹愼(きんしん)してをる」(「告白」)
 
生真面目(きまじめ)な日亨上人にしてみれば、「罪は狂(きよう)兒(じ)にあり」といった我関(われかん)せずとの姿勢は、とてもとれなかった。日亨上人は「狂(きよう)兒(じ)を擁(よう)して法主の高位に安ぜられようか」との結論に達したのであった。このことが日亨上人退座の近因となった。日亨上人は、宗内刷新(さつしん)に英断(えいだん)を振るえない自分の「優(ゆう)柔(じゆう)不(ふ)斷(だん)の態度は遂(つい)に佛天の激怒に觸(ふ)れしものか」と総括(そうかつ)している。
 
だがここで念を押しておくが、日亨上人が「外的」原因として六項目を挙げていること、近(きん)侍(じ)に狂見を出したことなどは、あくまで日亨上人退座の「助(じよ)縁(えん)」にすぎない。
 
退座の「主因」は、あくまで「内的」なものにあった。どんなことがあっても、日亨上人は御書の編纂(へんさん)、『富士宗学全集』発刊などの聖(せい)業(ぎよう)をなしとげたかったのである。
 
重(ちよう)複(ふく)するようだが、その点に触れた日亨上人の記述を再び紹介する。
 
まず、退座の原因について日亨上人は、「卽(すなわ)ち此が素(そ)因(いん)となるものは内的方面が主因で外的境(きよう)遇(ぐう)が助縁である事は申すまでもない」と明言し、その退座の「内的」な動(どう)機(き)の結論として、「二三十年必死と念願(ねんがん)せし編纂(へんさん)著作の聖業も泡沫(ほうまつ)と散(ち)り失(しつ)する如何(いか)にも死んでも死にきれぬ残念さである、此が先(まず)大々主因である」と力説している。
 
日亨上人は、自分の今(こん)生(じよう)の使命は『富士宗学全集』の発行、御書編纂などの「聖業」にあると定(さだ)めていたのだ。末(まつ)世(せ)の悪(あく)比(び)丘(く)たちの葛藤(かつとう)に翻弄(ほんろう)され、本来の願業を中途で終わらせることなどあってはならないという切実な思いから退座を決意したのだった。
 
日蓮大聖人の教法は、一部の祭(さい)祀(し)特権階級(僧)の独占とされ、信徒は「知らしむべからず依(よ)らしむべし」との統(とう)治(ち)方針によって教学も知らず経も読まず折伏もせ
ず、ただ、長らく隷属(れいぞく)を強(し)いられてきた。日亨上人は、その停滞(ていたい)した宗風を払い、大衆が広宣流布の主体となって活躍することを願った。
 
日亨上人が生涯をかけて編纂した「富士宗学全書」全134巻
日亨上人が生涯をかけて編纂した「富士宗学全書」全134巻

 
日亨上人は、本来秘(ひ)伝(でん)であるはずの「産(うぶ)湯(ゆ)相承書」「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」といった相承書の内容まで、『富士宗学全集』に掲載(けいさい)され公開した。
 
猊座に妄(もう)執(しゆう)をみせていた阿部法運などの浅ましい姿を、長年にわたり目(ま)の当たりして、将来、相承が曲げられずに伝えられるかどうか不安を覚(おぼ)えていたのではないだろうか。
 
あるいは、さかのぼって相承の内容を在家の者二名に聞かなければならなかった自身の恥(ち)辱(じよく)を、のちのち猊座に登った者に味わわせたくなかったからだろうか。はたまた、相承の内容すら公開すべき時にきていると感得(かんとく)されたのだろうか。
 
いずれにしても後年、創価学会が出現し、戸田城聖第二代会長の「御書全集」発刊の発願(ほつがん)に対し、日亨上人が快諾(かいだく)し精根をかたむけてその編纂にあたったのも実に不思議なことと思えるのである。

 

いつも紛争の中心にいた日開

腐敗選挙で管長になった者に「血脈相承」などありえない

総本山第五十九世日亨上人が、宗内に公(おおや)に辞意(じい)を明らかにしたのは、昭和二年十一月の御(お)会(え)式(しき)のときだったようだ。
 
このとき日蓮正宗は、蓮葉庵(れんようあん)系の阿部法運(のちの第六十世日開)擁立(ようりつ)派と、富士見庵系の有元廣賀擁立派に二(に)分(ぶん)されていた。
 
この御会式の十一月九日の朝、日亨上人の退座の意志を聞いて驚(おどろ)いた有元派のある人物は、日亨上人に対し、「猊下がいま御辞職になっては、折角(せつかく)安定した宗門が再び修(しゆ)羅(ら)の巷(ちまた)となります。留(りゆう)任(にん)をお願いします」と述べたが、日亨上人の辞意はあくまで固く、「亂(みだ)れるのは承知である、宗門が二分したら終(しまい)に落付(おちつく)所に落付のである。君達も大にヤリ甲斐のあるわけぢや、大にやれ」(有元派『聲明書』一部抜粋)と答えたという。
 
このとき、日亨上人は阿部派に宗務行政の実権を握(にぎ)られ、完全に浮かされた状態にあった。日亨上人の命じた宗門改革案は、宗務院の職員すらソッポを向き検討もされないようなありさまだった。
 
日亨上人は、もともと登座する意志はなかったのであったが、大正十四年十一月の日柱上人に対するクーデターに始まる宗内の大混乱を収拾(しゆうしゆう)するために、宗内多数派の推挙(すいきよ)(正確には工作に乗せられたと表現したほうがよいかもしれない)を受けて登座したのである。
 
ところが、そのような経(けい)緯(い)から登座したのに、阿部法運などが画策(かくさく)し宗務職員からも無視されている状況を一つの契機ととらえ、元来の教学研鑚(けんさん)の聖業にいそしむため、日亨上人は早期の退座を決意したようである。
 
日亨上人が辞意(じい)を表明するや、宗内はにわかに選挙ムードとなり、阿部派と有元派の激烈(げきれつ)な選挙戦が展開される。
 
日霑上人が隠居所としていた蓮葉庵
日霑上人が隠居所としていた蓮葉庵

日亨上人登座まもなく、日柱上人より降(お)ろされた阿部法運は能(のう)化(け)への復(ふつ)級(きゆう)を果たしたが、阿部派は、その直後から日亨上人の孤(こ)立(りつ)化、早期退座を画策(かくさく)しはじめた。
 
阿部派は、日亨上人を孤立させ退座に追い込んでいっただけに、選挙への宗内工作のスタートは早かったようだ。一方、有元派にとっては寝(ね)耳(みみ)に水だった。
 
昭和二年には、阿部派は日亨上人にうまく根(ね)回(まわ)ししたと見えて、九名の自派の者を秘(ひ)密(みつ)裡(り)に、教師に特(とく)叙(じよ)した。これは有元派が当時追及したことであるが、客観的に見ても阿部派九名の特叙は、実に不自然きわまりない。有元派の追求は、本筋(ほんすじ)において正当であると思われる。

 
ついに”法主”の座についた日開
ついに”法主”の座についた日開
 
これは阿部派の管長選挙に向けての周(しゆう)到(とう)な事前準備をうかがわせるものである。御(お)会(え)式(しき)前の十月には、阿部派はすでに選挙の事前運動をしていたようだ。病気見舞い、観光にこと寄(よ)せての訪問、お土産(みやげ)攻勢を始めている。
 
腐(ふ)敗(はい)選挙ぶりは相当なもので、有元派が選挙後に、管長選挙における阿部派の不正を非(ひ)難(なん)し、『聲明書(こえめいしよ)』(昭和三年三月士ご日付)を出している。

 
「某(ぼう)寺住職の老齢(ろうれい)を奇貨(きか)とし、夜間品川よりの使(つかい)と僞(いつわ)はり、自動車に乗(のせ)て東京に誘(ゆう)致(ち)した上、酒食を饗(きよう)して居所を隱(かく)さしめ、醉へるに乗(じよう)じて轉(てん)居(きよ)届を出さしめ、投票用紙を其(その)所(ところ)に途つて强(しい)て阿部師に投票せしめんと企(くわだ)てたが、我等は辯護士を賴(たの)み談判(だんぱん)せしめ其の用紙を取戻(とりもど)しましたが、之には非常なる手(て)數(かず)と騒(さわ)ぎを演じました。又某寺住職は、途中に阿部一派の者に誘致されて某寺に連れられ、數人集まつて酒食を供し、巧(たくみ)に自由を拘束(こうそく)され、遂に阿部師に投票せしめられたのであります。又某寺老住職は、元より有元師に投票すべく佛天に盟(ちか)ひましたが、彼等運動員の脅(きよう)迫(はく)によりて不(やむお)得(え)止(ず)阿部師に投票したのである」
 
それだけに止(とど)まらない。
 
「法要に托(たく)して之を外出せしめ、我等との面接を不可能ならしめ。又は高等寺院に轉任(てんにん)又は位(い)階(かい)昇進等の好(こう)餌(じ)を喰(しよく)したり。又は免(めん)職(しよく)轉任等等で威(い)壓(あつ)したり。止(や)むことなき信徒の有力者を使用し强(きょう)壓(あつ)したり。或(あるい)は僞(ぎ)電(でん)を打つて有元師への投票を妨(さまた)げたりし事實は譯山(たくさん)あるのであります」
 
この有元派の『聲明書』に対し、阿部派の代表・富田慈妙は、『辯(べん)駁(ばく)書(しよ)』(昭和三年十二月二十九日付)をもって反論している。
 
「選擧當時某々(ぼうぼう)等阿部師を信じて同師に投票せしを開緘(かいかん)前、某に迫(せま)り恐ろしき言葉や振りで恐怖せしめた結果阿部師へ投票せし事を知り強(し)いて其(その)取消状を發(はつ)せしめたりと云ふ、又東北地方の某師などは恐怖のあまり全(まつた)く意(こころ)にもなき取消である故(ゆえ)に其惡(あく)辣(らつ)な人々の歸(かえ)るを待ち隣室に居(お)りて事(じ)實(じつ)を知りたる人等は、某師の上に同盾し直(ただ)ちに其事實を列(れつ)記(き)したる届書を以(もつ)て、宗務院に取消の眞意にあらざる事を申出されてある」
 
ある僧が脅(おど)されて、阿部法運に投票したことを有元派が聞き出し、強引(ごういん)にその取消状を宗務院宛(あて)に送らせた。
 
あるいは別の僧は、有元派の脅しによる恐怖から取消状を出したが、その僧が脅されていることを隣室で聞いていた者が、取消は真意でないと、これまた宗務院に届け書を提出したということである。
 
日英上人が隠居所としていた富士見庵
日英上人が隠居所としていた富士見庵
 
このような、選挙をめぐってのあからさまな抗争(こうそう)が、全国津々(つつ)浦々(うらうら)でおこなわれた。阿部派、有元派ともに、脅し、利益供(きよう)与(よ)、利益誘導(ゆうどう)をもって管長選挙を戦ったのだ。
 
この結果が、唯(ゆい)授(じゆ)一(いち)人(にん)血(けち)脈(みやく)相(そう)承(じよう)と神(しん)秘(ぴ)化(か)されるのである。仏子らは歪(わい)曲(きよく)された「血脈相承」を打破(だは)し、日蓮大聖人本来の「血脈相承」をはっきり認識しなければならない。真実の”血脈”は、御本仏より純真な信仰を貫(つらぬ)く仏子一人ひとりにつながるものなのである。

 

騒動の中(ちゆう)核(かく)には、いつも猊座への野心を抱(いだ)く日開がいた

昭和二年十二月十八日、日蓮正宗の管長が決定される日がやってきた。選挙権者が総本山に送ってきた管長選挙の投票用紙が入った封筒(ふうとう)を、開(かい)緘(かん)する開票日である。
 
日開と“法主”の座を争った有元廣賀
日開と“法主”の座を争った有元廣賀
 
しかし、この日の総本山大石寺は物(ぶつ)情(じよう)騒(そう)然(ぜん)たるものがあった。阿部派が警察の出動を要請(ようせい)したからだ。警官隊に守られての開票となったのだが、それでも若(じやつ)干(かん)の小(こ)競(ぜ)り合いはあった。有元派の『聲明書』は、「宗務院を警官除に包(つつ)まし、柵(さく)を廻(めぐ)らし、縄(なわ)を張り出(で)入(いり)を禁じた」(『聲明書』一部抜粋)と開票日の様子を伝えている。
 
結果は、阿部法運五十一票、有元廣賀三十八票となった。だが、先述したような阿部派の急造選挙権者(教師)や、あからさまな選挙違反の問題などで、またも文部省宗教局の裁定(さいてい)を仰(あお)ぐに至る。
 
そして、選挙後の対立は告(こく)訴(そ)事件を引き起こすこととなった。第五十八世日柱上人に対するクーデターより始まった内紛(ないふん)のときも、大宮署
 
(現在の富士宮署)に告訴状が出され、日蓮正宗の主な僧が次々と取り調べを受けたが、第五十九世から第六十世への相承にあたっても、告訴事件が発生したのだ。

 

昭和三年一月二十六日付の『大阪時事新報』は、その告訴事件を詳(しよう)報(ほう)している。当時の日蓮正宗内部の状況がよくわかるので少々長くなるが全文を引用する。
 
なお、文中で日蓮正宗の宗(しゆう)勢(せい)について百五十の末寺、十七万の信徒と記述してあるが、実勢は、それぞれ三分の一と思われる。宗派維持のために、対外的に虚勢(きよせい)を張った発表をしていたようだ。
 
「日蓮正宗の權(ごん)僧(そう)正(じよう)ら訴へらる
 
背(はい)任(にん)横(おう)領(りよう)の名の下に
 
静岡県富士郡上野村の大石寺を総本山とし全国百五十の末寺十七万の信徒を有する日蓮正宗(旧日蓮宗富士派)に、昨年暮(くれ)から管長選挙に絡(から)まるお家騒動(そうどう)が持上(もちあが)り、文部省も成行(なりゆき)を正視して新管長への認可を見合せてゐるが、静岡県大宮警察署の依頼を受けて向島署では、二十四日午前十時新管長に当選した向島小梅一七五、常泉寺住職椹僧正阿部法運師を召(しよう)喚(かん)して長時間に亘(わた)つて取調べ、夕刻一(ひと)先(ま)づ帰宅を許したが一件書類は直(ただち)に大宮署に郵送した。
 
取調べの内容は秘されてゐるが、昨年十一月後任管長に選任せられたる前記阿部法運師と東京市外品川町南品川三木妙光寺住職権僧正有元広賀師が立候補し、十二月十八日開票の結果、五十一票対三十八票で法運師が当選した為(た)め落選派が承知せず、阿部法運師は本山宗務総監椹僧正水谷秀道師と共謀(きようぼう)し、本山の立(たち)木(き)を伐採(ばつさい)して選挙運動費に流用したとか、故管長大石日応師の隠居(いんきよ)で現在未亡人金子なか子と妙(みよう)傳(でん)女史の住む蓮葉庵の維持費二千円を横(おう)領(りよう)したとか攻撃の火の手を揚(あ)げ大紛(ふん)擾(じよう)を起し、終(つい)に広賀師の弟弟子で還俗(げんぞく)して東京府下千駄ケ谷中根某、元常泉寺執(しつ)事(じ)横浜市西戸部松本某が阿部法運師と水谷師を相手取り大宮署に背任横領の告訴を提起したものである」
 
横領の疑いなどで、阿部法運が向島署で取り調べられたのだ。なお、同時に告訴された「水谷秀道」とは、のちの総本山第六十一世日隆上人のことである。
 
有元派は『聲明書』(昭和三年三月十三日付)で、この告訴事件に触れている。これまた長文の引用となるが、歴史的な信憑性(しんぴょうせい)を保つために全文を引用する。
 
「我等に於(おい)て阿部水谷兩師を告訴したのは不都合ぢやと噂(うわさ)を聞てゐる。兩師が告訴されたのは新聞に出てる通り事實であるが、我等は決して告訴した覺(おぼえ)はないのであります。但(ただ)し蓮葉庵基本金四千圓は銀行預金にして置く旨(むね)應尊三回忌の際阿部師より報告された。依(よつ)て遺(い)弟(てい)の一人が、此の機會に於て阿部師に内容證明郵便を以(もつ)て照(しよう)回(かい)した所、阿部師より内容證明で目(もつ)下(か)銀行より引出(ひきだし)て自分に於て責任保管してゐるから安心せよ、應尊の七回忌に發表する返事があつたのである。
 
所(ところ)が甚(はなは)だ安心は出來ぬ。それは内○○○は某人(ぼうにん)が借用してゐるとの噂(うわさ)さがあり、○○○は銀座の某商店に貸付てあるとの事である。時(じ)節(せつ)柄(がら)大銀行でもいかぬのに個人貸付は最も危瞼である、況(いわん)や該金(がいきん)は淨(じよう)財(ざい)である。
 
コハ噂き信仰の凝(こ)りある、汗の油であるから、某人は、更(さら)に『來年六月の御七回忌まで待つまでもなく、此(この)機會に某保管の方法を示せ』と内容證明でやつたら、執事木村氏の名の下(もと)に旅行不在中云々との返事があつて今に何等の便りがないのである。之の返事のない所(しよ)置(ち)を何某(なにがし)に話した事がある。すると何でも何某が選擧不正に憤慨(ふんがい)して告訴したとの事であります。之の經(けい)緯(い)の精神が判(わか)れば、孰(いず)れが惡いかの判斷は付くのです。我等に於て告訴した覺(おぼえ)は毛頭ないのでありますが、蓮葉庵浄施(じょうせ)の基本金を兄弟子ぢやからとて、他に諮(はか)らないで勝手に怪(あや)しい貸付をするのは宜敷(よろしく)ないと思ひます。それも來年六月に發表すると云ふのであるから疑はれても仕方がないと思ひます。之も司(し)直(ちよく)の手が如何(いか)に動くか今後の問題と思ひます」(有元派『聲明書』一部抜粋)
 
官憲(かんけん)を巻き込んでの内紛(ないふん)は、とどまるところがなかったようだ。先の新聞記事によれば、横(おう)領(りよう)金額は二千円、有元派によれば四千円となっている。二千円の差額は、時間の経過とともに判明(はんめい)したその他の不明金であろうか。この告訴が、どのような結末(けつまつ)となったかについて、残念ながら手元にある資料では確認できない。阿部法運が逮捕された事実はないから、おそらくは金を都(つ)合(ごう)して元に戻し、刑事事件としては成立しなかったのではあるまいか。
 
文部省宗教局の認可が降(お)り、阿部法運が正式に管長となったのは、昭和三年六月二日のことであった。開票が前年の十二月十八日だから、認可まで約六カ月かかったことになる。その間、阿部と有元の両派が陳(ちん)情(じよう)を繰り返したことは言うまでもない。
 
総本山第五十八世日柱上人から第五十九世日亨上人への相承時には、文部省宗教局の行政介入によって紛争(ふんそう)解決し、第五十九世日亨上人から第六十世日開への相承も、結局、宗教局の異常な長期間にわたる裁定(さいてい)を仰(あお)ぎ、認可を得ることとなった。
 
当時の日蓮正宗は、実に内紛の絶(た)えない宗派であったのだ。それも官憲を巻き込んでの大騒動である。その騒動の核には、いつも猊座への野心を満々と抱(いだ)く日開がいた。

 

第二章 これだけある法主の邪義・謗法

第二章のはじめに

 
大石寺が法義に対する純粋性をその行動のうえで極度に失ったのは、江戸時代であった。幕府権力におもねり、幕府が「朱印状」に基づき下す布施を「御本尊への供養」と認め、謗施(ぼうせ)に甘んじた。
 
要法寺出身の“法主”第二十世日典上人のとき、大石寺は幕府が下す「朱印地」を「供養」と認める旨の一札を公儀に対し差し入れている。このとき、大石寺には同じく要法寺出身の第十七世日精、第十九世日舜上人が「隠(いん)尊(そん)」として存命中であった。大石寺を權力におもねる軟風が支配していたのである。
 
同時代、不受不施派などは夥しい殉教者を出しながらも、幕府の下す布施を受けず、權力に対抗して己の信ずる法の純粋性を保とうとした。そのために不受不施派などはキリシタンに並ぶ弾圧を受けた。だが、これすらも大石寺の僧らにとっては、恐怖の眼をもってしか見ることができなかったようで、身延山久遠寺の挑発と圧迫に苦吟し、自己を保存するために謗施に甘んずることになるのである。
 
江戸時代における日蓮宗各派の動きは、京都あるいは身延山が中心であった。大石寺は人にその存在すら忘れられた一山寺として、なんとか存続していた。だが、寺としての隆盛などはまったく望めず人材も枯渇していた。そのため安土桃山時代から江戸時代にかけて九代百年にわたり、異流義を立てる京都要法寺から大石寺貫首(かんず)(現在の“法主”)となる僧を譲り受けることとなる。
 
当然のことながら、要法寺教学が大石寺に流入した。ことに第十七世の日精の謗法は目に余るものがあった。この日精の邪義を破折し、日興門流の教学を蘇生させたのは、第二十六世日寛上人であった。
 
だが、日寛上人によって復興された教学も、のちの悪比丘たちの影響により大石寺を末代に至るまで浄化するものではなかった。僧たちは、謗施に甘んじ行躰を時代とともに腐敗させ乱していく。
 
大石寺本末は江戸幕藩体制の支配構造に組み込まれ、寺社奉行の出先機関として民衆統治を代行した。
 
幕府は一部の宗派が勢力を拡大し、權力基盤を不安定にしないように、「自讃毀(じさんき)他(た)」(みずからのおこないをみずから褒め、他人をそしること)を禁じ、布教を制限した。これにより各宗派とも、新規の檀家獲得を望めなくなったが、一方で自宗の檀家を他宗派に奪われることもなくなった。
 
寺は檀家を管理し、キリシタンや不受不施派でないとの保証を“寺請証文”などによっておこなう「役所」となった。檀家はこれらの保証をしてもらうためにも、葬儀、法事にあたっては律義に布施を出さなければならなかった。各宗派の僧らは、幕府権力を背景に地域社会の人々の上に君臨しつづけたのである。
 
なおかつ、僧らは潤沢な資金を元に農民などを相手にして高利貸をおこない、債務不履行の農民から田畑を奪い、さらに、その田畑を経営して小作人から搾取したのである。
 
布教もせず、幕府公権力の威を借り、金に潤った僧らが腐敗堕落するのは当たり前である。大石寺も他宗派と同じように、まったくの葬式仏教と化し、宗開両祖の精神を忘れていくのである。
 
この僧の腐敗を決定的にしたのは、明治新政府が僧の妻帯を許したことによる。女犯による腐敗堕落は、大石寺の僧たちも例外ではなかった。外にあっては女道楽をなし、内にあっては宗政の権を握るため妻子を血族支配の手段とした。いま大石寺にはびこる血族支配の悪弊は、明治初期に始まるのである。
 
明治の新政府樹立以降、大石寺の僧たちは、国家神道を背景とする廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の波に呑まれないために、近代天皇制におもねり、法義を捨ててもその体制の中で主要な役割を果たそうとする。国家権力に対峙せず、国家權力に身を委ねることにより、自己の延命をはかろうとしたのである。
 
この思惑の延長線上に、大石寺の僧たちが邪宗と手をつなぎおこなった“立正大師号宣下(せんげ)”“勅額降(ちょくがくこう)賜(し)”などの妄動が位置づけられるのである。無論、このようなことに現を抜かす堕落した僧らに、法義を厳守することを求めることは到底無理なことである。
 
その僧形をなした俗人の典型は、“法滅の妖怪”の異名をとる第六十世日開であった。
 
本章では、大石寺が法義を曲げていく歴史的過程を抉(えぐ)る。

 

造仏(ぞうぶつ)読誦(どくじゅ)の謗法“法主”・第十七世日精

日精の邪義を根本より断ち切ったのか日寛上人

 
日蓮正宗の歴代の“法主”の中で、謗法を犯した者として特記しなければいけないのは第十七世日精である。
 
堀日亨上人は、『富士宗学要集』(第九巻)において、次のように記している。
 
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山にその弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か」
 
京都・要法寺の出身であった日精が、要法寺の邪義を本宗に持ち込んでしまったと書いてある。だが、本山の大石寺においては造仏などおこなわれなかったことが、この文でわかる(ただし、戒壇の大御本尊を御影堂に安置し、内拝の形式を廃するなどの過ちをおこなった)。
 
ここで注意しなければならないのは、大石寺に与えた要法寺の影響が思ったほど少なかったことについて、「衷心の真情か周囲の制裁か」と書いているところである。
 
日精の著した文に、『随宜論』という一巻がある。日精が書いたときには無題であったが、後に『随宜論』といわれるようになったとされている。
 
日精はこの『随宜論』において、仏像の造立と法華経のすべてを読誦することの正当性を述べている。その『随宜論』の巻末は、次のように締めくくられている。
 
「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因て門徒の眞俗疑難を致す故、朦霧を散ぜんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」
 
この巻末の文によると、日精が法詔寺建立の翌年に仏像を造立したことによって、「門徒の眞俗疑難を致す」と記していることから、造仏によって宗内が相当に騒然となった様子がわかる。
 
それまで仏像を造り拝むなどということは謗法とされてきたのに、“法主”がそれをおこなったのだから大騒ぎになったのも無理のないことだ。『随宜論』巻末の文は、そのことを物語っている。
 
『富士宗学要集』に収録された資料などを総合すると、造仏をおこなった寺院は確認されるだけで、「法詔寺」「常泉寺」「青柳寺」「妙経寺」「本成寺」「久成寺」「長安寺」「本源寺」「鏡台寺」「常在寺」「実成寺」などに及んでいる。
 
また、京都要法寺で釈迦像が安置された本堂を再興するにあたっては、日精みずから助力したことが記録に残されている。
 
この日精が、宗内の造仏に反対する動きを封じるために著したのが先の『随宜論』だが、いったいそこにはどのようなことが書かれているのだろうか。代表的な箇所を紹介してみたい。
 
「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる。然るに今に至るまで造仏せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるが故なり」
 
日精は、造仏は当然のこととし、これまで仏像を造らなかったのは、大聖人がなされなかったことのみが理由だとしている。大聖人御在世にあっておこなわなかったのであれば、当然、弟子等が宗祖のなされなかったことをすべきではない。ところが日精はそうは考えない。本来造るべきものを、いわば習慣として造らないできただけなのだから仏像を造り安置してもかまわないというのである。
 
「権教(経)の意に約せば、造仏は悪趣に堕さざるの因、天上に生ずの縁なり。権経猶(なお)此(かく)の如し況んや実大乗の法華経は小善悉(ことごと)く成仏す、造像の大善は言論すべからず」
 
日精は、権教においてすら仏像を造ることは善因となる、実大乗の法華経においては小善はことごとく成仏する、仏像を造ることが大善であることは言うまでもないと強調している。恐るべき邪義である。
 
「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処(こしょ)定(さだ)まらざる故なり如何」
 
日蓮大聖人が鎌倉、伊豆、佐渡、身延などと諸所を転転とされ居処が定まらなかったことが、仏像を造立・安置されなかった理由であるとして、仏像を造らなかったことは日蓮大聖人の本意ではないと主張しているのである。
 
こうした類のことを御聖訓を引用しつつさまざまに論じた後に、日精は「古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」と結論づけている。
 
いやはやとんでもない“法主”がいたものである。
 
後に総本山第三十一世の日因上人は、この『随宜論』の巻末に筆を加え、「日因云、精師御所存ハ当家実義と大相違也」と、日精の考えは、富士大石寺の本当の教義と大きく違うとわざわざ断わり書きをし、邪義であることを断じている。
 
この日精の用いた邪義邪説は、京都・要法寺の広蔵院日辰の影響をまともに受けたものだ。この第十七世日精の邪義の影響は、第二十二世日俊上人、第二十三世日啓上人などによって正されるまでつづく。
 
最終的に要法寺の邪義を、その根本より断ち切ったのは、第二十六世日寛上人であった。
 
日精のような狂える”法主”が出たことに暗澹たる思いを禁じ得ないが、唯一の光明は、この日精の邪義に抵抗した僧俗のいたことが、当時の文献からうかがえることである。すなわち、日精みずから記しているように「門徒の眞俗疑難を致す」といった事実があったことだ。
 
理境坊(住職小川只道)の妙観講の機関誌『暁鐘』(一九九一年三月号)の「大御本尊と血脈相承」という一文には、次のような記述がある。
 
「大聖人御内証の法体が、日興上人より第三祖日目上人へ、日目上人より第四世日道上人へと、あたかも筒の中を水が流れるごとく、歴代御法主上人に血脈相承されてきたことを考えるならば、歴代の御法主上人を日蓮大聖人の御代管と仰いできた本宗七百年の伝統が、鮮明に理解されるのであります」
 
このような血脈観では、邪義を立てた日精の代で大聖人様の血脈はとだえたことになってしまう。日精以降は、筒の中を毒水が流れていることになる。事実は、正しい“法主”もいれば、邪な”法主”も出たということである。
 
”法主”の権威を尊極無上のものとするためにいたずらに言葉をもてあそぶのは、血脈がとだえているとする論拠をいともたやすく他宗派に与えてしまうことになる。
 
安易な宣揚は、日蓮大聖人の仏法に対して世人の誤解を生じさせることになりはしまいか。

 

日亨上人も『富士宗学要集』で日精の誤りを指摘

 
『富士宗学要集』(第五巻)に、日精の著した「日蓮聖人年譜」が収録されているが、ここでも邪義を述べている。これに対して、第五十九世日亨上人が「本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ホ(ぼ)批判を加ふ」と、その邪義に対し批判の筆を入れている。「本師」とは、いうまでもないが日精のことである。
 
日亨上人は、たとえ”法主”の立てた論であっても、邪義であればそれを指摘し、富士の正義を守ることを第一義に考えているのだ。
 
そのため日亨上人は、日精の手になる「日蓮聖人年譜」の中に、次に紹介するような加筆をし、日精の誤りを指摘している。まずは日亨上人の加筆の一つを紹介する。
 
「総別ハ法ノ本尊ノ立テ方ニ付テ本師未タ(だ)富士ノ正義ニ達セザルナリ本師ノ所論間々此底ノ故山ノ習(しゅう)情(じょう)隠顕(いんけん)ス注意スベシ」
 
「本師」すなわち日精が、あろうことか本尊の立て方において「富士の正義」を理解しておらず、出身の京都・要法寺の影響を見え隠れさせていることに注意すべきだと、日亨上人は但し書きをしている。日精は”法主”でありながら本尊に迷っていたのである。
 
他所に「此下本師ノ取リ方誤レリ」との日亨上人の指摘もある。日精が「観心本尊抄」の「仏像」や「宝軽法重抄」の「寿量品の釈迦仏」などの語句を曲解し、釈迦仏造立を正当化する間違った論を展開している箇所についてだ。
 
日亨上人が「此下辰師ノ造釈迦仏ノ悪(あく)義(ぎ)露顕(ろけん)セリ迷フベカラス」と指摘している部分もある。日精が「久(く)成(じょう)釈尊」を本尊とすることを述べているところである。この説に従えば、現実的には釈迦立像を本尊とすることになる。日精の主張が、「辰師」すなわち要法寺の広蔵院日辰の「悪義」そのものであることを指摘され、修学の僧俗に迷うなと、日亨上人は注意を喚起している。
 
日亨上人が「本師又謬(びゅう)義(ぎ)ヲ露ハス惑フベカラズ」と加筆し、後進の者が惑わないように注意している箇所もある。四菩薩を造立書写することが「戒壇の義」であると日精が記しているところである。日精は本尊に迷うのみならず、戒壇についても邪説を立てていたのだ。

 

日精が邪義を著した「日蓮聖人年譜」
日精が邪義を著した「日蓮聖人年譜」

 
日亨上人が「踏ヲ以テ事ト解スル是傍義ナリ正解ニアラズ」と加筆指摘している箇所もある。事の戒壇について「足を以て之を踏む故に事と云ふなり」と日精が記しているのは間違いであるということだ。日精は、日蓮大聖人の御遺命である「事の戒壇」を歪曲してしまっているのである。
 
日精の邪義は、要法寺の広蔵院日辰の影響によるもので、日辰の『読誦論議』の邪義のままに法華経一部の読誦すらも主張するに至る。
 
それに対して日亨上人は、「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」と加筆している。
 
本宗は法華経の方便品と寿量品を助行として読誦するが、日精は法華経一部八巻二十八品のすべてを読むことを指南したのである。これは日興上人の、
 
「今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か」(「五人所破抄」)
 
との誠めにも背くものであった。
 
日精の論は、要法寺の広蔵院日辰の教えに感化されたもので、富士大石寺の中に邪義を持ち込むものであった。
 
第二十六世日寛上人は、その著「末法相応抄」において、この広蔵院日辰の邪義を徹底的に破折している。この広蔵院日辰に対する破折の本意の一つには、日辰の論に擬して、日精らの邪義を当門流より根絶することであった。
 
日寛上人は「末法相応抄上」の冒頭において、「問う末法初心の行者に一経の読誦を許すや否や、答う許すべからざるなり」と書き起こしており、同様に「末法相応抄下」の冒頭には、「問う末法蓮祖の門弟・色相荘厳の仏像を造立して本尊と為すべきや、答う然るべからざるなり」と記している。

 

日寛上人直筆の「末法相応抄」
日寛上人直筆の「末法相応抄」
 

これは広蔵院日辰の代表作である『読誦論議』の冒頭の文、「問う法華円宗の意一部読誦を許すや、答えて云く、然る可きなり」、同じく日辰の『造仏論議』の冒頭の文である「問う本門円宗の意仏像造立の義を許すや、答えて云く然る可きなり」に対置したものと思われる。
 
日寛上人が「末法相応抄」を著してわざわざ広蔵院日辰を徹底的に破折したのは、日精などによって、本宗に要法寺の邪義が浸透したことによる。日精という”法主”みずからが邪義を用いたというこの史実は揺るぎのないものである。

 

謗施を受け生き永らえてきた大石寺

徳川幕府から徹底的に弾圧された不受不施(ふじゅふせ)派

 
古来より、天皇、貴族、将軍、大名などは、多くの僧を集め「千僧供養会(くようえ)」をおこなった。その法要をおこなうことは、施主本人の功徳善根を積むのみならず、先祖の菩提のためにも絶大の効用ありとされたのである。
 
豊臣秀吉は、その晩年にあって、文禄四(一五九五)年九月二十五日、方広寺大仏開眼のために千僧供養会をおこなった。この千僧供養会には、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出席を要請された。
 
日蓮宗の京都所在の各派に出仕の命が下されたのは、供養会を二週間余にひかえたときだった。日蓮宗各派は、京都の本国寺(のち本囲寺)に集まり、その対応を話し合った。
 
このとき、妙覚寺の日奥(ひおう)(不受不施派)は、たとえ国主であっても謗法からの供養を受けずと主張して譲らなかった。だが、日奥の主張は多数派に容れられず、他の者は千僧供養会に参加。一方で不参加の日奥は、「法華宗諫状」を豊臣秀吉に差し出した。
 
「時すでに法華の代なり。国また法華の機なり。しかればすなはち天下を守る仏法は、独り法華宗に限るべし。仏法を助くる国主は、専ら法華経を崇め給ふべし。所以に仏法世法相応ぜば、聖代速に、唐堯虞舜(とうぎゅうりよしゆん」)の栄に越へ、正法正義を弘通せば、尊体久しく、不老不死の齢を保ち給はんか」
 
日奥は、千僧供養会に参加しないのみならず、死を賭して秀吉へ帰伏を迫ったのであった。また翌年には、後陽成天皇に対し「法華宗奏状」をもって諫暁している。

 
以降、日蓮宗系の各派は、この日奥を中心とする不受派(謗法の者からの供養を受けない)と、受派(謗法の者からの供養を受ける)との、二つのグループに大きく分かれていく。
 
不受不施派(信者以外の者から布施を受けず、信者に対してしか読経などを施さない)領袖であった妙覚寺日奥が、権力者の迫害にあうのは、慶長四(一五九九)年十一月二十日、大坂城においてであった。慶長四年は、豊臣秀吉の死の翌年である。
 
豊臣秀頼の後見として、国家治世の権を握りつつあった徳川家康が、大坂城に日蓮宗の不受派と受派を呼び出し法論をさせたのである。もちろん徳川家康は行司役とはいえ、権力者の側から見て御しやすい受派を擁護したのは、いうまでもない。日奥の負けは当初より決まっていたようなものだ。
 
法論の最後に徳川家康は、日奥を「法華宗の魔王」と決めつけ、厳罰に処することを命じた。日奥は、その場で役人たちに袈裟、衣をはがされ、念珠を奪われた。そして、日奥は半年後、対馬に流罪になった。日奥は以降、十三年間にわたり対馬にて流人として生活する。
 
日奥の配流と並行して、日奥率いる不受派に対する徹底的な弾圧が加えられたことはいうまでもない。

 

日奥が豊臣秀吉宛に認めた「法華宗諌状」
日奥が豊臣秀吉宛に認めた「法華宗諌状」

 

日奥がはがされたとされる袈裟衣(妙覚寺蔵)
日奥がはがされたとされる袈裟衣(妙覚寺蔵)
 

このとき、日蓮正宗大石寺の様子はどのようなものだったろう。日亨上入は、「大仏殿千僧供養の時は地方寺院に其の災波及せず従って富士に何等の文献も存在せず」と『富士宗学要集』(第八巻)において述べている。当時、他宗派においてもそうだったが、各宗派の動きは京都中心であった。日蓮宗もまた例外ではなかった。
 
富士大石寺は地方にあったために、千僧供養会に発する日蓮宗各派の受不受の争いの外にいることができたのである。
 
だが、世は徳川の時代となり、江戸に幕府が移され、それに伴い幕府におもねる身延山久遠寺が力を持ちはじめる。身延は、不受派を弾圧する徳川幕府の威光を笠に着て、不受派の寺への圧迫を間断なくつづけた。
 
慶長十七(一六一二)年、対馬に流されていた日奥が赦免され京都に戻ると、不受派の者たちがにわかに勢いを増した。そのため、不受派と受派の対立は激しくなった。
 
寛永三(一六二六)年、二代将軍徳川秀忠夫人の弔いのとき、不受派の池上本門寺(日樹)は布施を受けず、受派の身延山久遠寺は布施を受けた。池上側は、謗法より布施を受けた身延を非難した。身延は、それに対抗するため幕府権力に池上を訴え出たのである。
 
寛永七(一六三〇)年、江戸城において池上(不受派)と身延(受派)が、それぞれの代表六人を一列に並べ、対座させて法論をおこなった。このとき、大坂城での徳川家康にならい、幕府が受派を援護したことはいうまでもない。
 
不受派は負け、後日、領袖たる日奥は再び袈裟をはがされ対馬への配流が決定した。だが、配流前に日奥が死んだので、その遺骨だけが対馬に送られた。幕府の不受派への弾圧は、たとえ死して骨になっても容赦なくおこなわれたのであった。池上の日樹も流罪となり、その他の高僧たちもことごとく追放された。
 
この「身池対論」(寛永七年二月)の後、身延は幕府権力を背景に不受派の寺を屈服させ、次々と支配下に置いていくのである。この「身池対論」の直後、身延は富士五山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、妙蓮寺)に対して、受派としての意思表明を同年七月に二度も迫っている。つづいて翌年にも二度(一月、七月)、身延は富士五山に対し、受派としての明確な意思表示を要求している。
 
身延の幕府権力を背景にしての富士五山に対する圧迫は、その後も数十年にわたってつづくのである。

 

日蓮大聖人の法義を捨て権力に屈した大石寺

 
富士大石寺は、「不受」の法義を捨てれば日蓮大聖人の教法に背くことになるので、身延側の罠にも似た難問の応酬にも態度を不明確にしてしのいだ時期もあった。
 
しかし、寛永十八二六四一)年、徳川家光の代に大石寺は六十六石八斗五升余の朱印状をもらう。受派として、公権力より下される禄を供養として受けることによって生活する道を選んだのだ。富士大石寺の法義の上での後退は、これだけにとどまらない。
 
寛文五(一六六五)年、幕府は、今後は寺領を供養として下付するとし、各寺に請書を提出するよう命じた。
 
この要請に大石寺は、公儀に「受派」であるとの証文を差し出した。第二十世日典上人の時代である。
 
大石寺は日蓮大聖人の弟子としての法義を捨て、国家権力の威迫の前に名実ともに屈服したのであった。日奥の率いる京都妙覚寺派などとは比べるべくもない不甲斐なさであった。
 
そのとき、公儀に提出した証文は次のとおり。
 
コ、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候

 

「日蓮宗不受不施派寺請禁止条目」(久遠寺蔵)
「日蓮宗不受不施派寺請禁止条目」(久遠寺蔵)
 

徳川家康の朱印状
徳川家康の朱印状
 

儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは各別にて御座候、傍つて件の如し。
 
寛文五年巳八月廿一日
 
本門寺、妙蓮寺、大石寺。
 
御奉行所。」(『富士宗学要集』第八巻)
 
それ以降、大石寺は幕府より下される寺領などを御供養であるとし、謗施(ぼうせ)をもって生活することに甘んじたのであった。
 
いうまでもないが、この謗施は、寺社奉行の下で徳川幕府の民衆支配を忠実に代行することによって得たものである。徳川幕府は寺社奉行の下に、本寺(本山)―末寺―民衆という支配構造をつくり、徳川三百年の礎としたのだ。
 
ちなみに、不受派の妙覚寺日奥に対する受派の領袖(りょうしゅう)は、本満寺(京都)日重であった。「閻魔法皇(えんまほうおう)」「五道冥官(ごどうみょうかん)」を書き込んだ導師本尊(第三章に詳述)のルーツである「臨終(りんじゅう)曼茶羅(まんだら)」のうち、現存するもののなかで、もっとも多く認めることができる書き手は、受派の領袖であるこの本満寺日重である。
 
日顕宗が、日重の流れを汲むニセ曼茶羅の導師本尊に固執するのは、受派として徳川幕府に媚び、民衆を圧迫し栄華を極めたことが忘れられないからだろうか。仏子に隷属を強いる日顕らの言い分の多くは、日蓮大聖人の教法に背いた、この受派の時代のものである。
 
江戸時代、徳川幕府は寺社奉行を設け、各宗派の本山および末寺を支配した。幕府は仏教各派を厳しく統制する一方で、檀家を法的に固定し僧の生活を保護してやることによって、民衆支配の一権力機構として利用したのであった。
 
そのため幕府権力は、本寺(本山)と末寺の支配-被支配の秩序を絶対のものとし、本寺を通して日本全国の末寺を統制した。また末寺は、檀家として属する民衆を、宗教思想のみならず社会生活の面に至るまで、幕府権力の代理人として支配したのであった。
 
寺請証文(宗旨手形)

 
民衆は、定められた寺に身許を保証してもらわなければ、結婚もできなければ奉公に出ることすらできない。
 
また、旅行もできなければ移住することも不可能だった。これが寺請制(てらうけせい)である。民衆は何かにつけて、キリシタンではなく檀家であるとの身許を保証してくれる「寺請証文」を寺院より発行してもらう必要があった。
 
江戸時代の寺院は、思想警察であり戸籍や住民票を扱う役所でもあったのだ。当然のことながら、信徒が本山へ参るための旅行をするとなれば、「寺請証文」が不可欠であった。いまに伝わる添書登山はここに由来する。
 
もちろん、富士大石寺およびその末寺も、徳川幕府の寺社奉行の統治下に置かれ、徳川幕藩体制を支える権力機構の一部と化していた。
 
日顕宗は、この徳川幕府の権力機構の一部として民衆支配をおこなっていた頃のことを勘違いして、本末の筋目がすなわち「本宗の化儀、化法」であると言いつのっているのである。
 
寺檀制度の発生は荘圍(しょうえん)制度崩壊の頃までさかのぼることができるが、社会的制度として確立したのは江戸時代である。この江戸時代に完成した宗教による民衆支配の方法を、日顕宗中枢はいま再び持ち出そうとしているのだ。
 
江戸時代、檀家の人々は「寺請証文」を出してもらうために、決められた法要の日に寺に参り、決められた法事をおこない、決められた「つけ届け」(江戸時代檀家であった塔中坊の檀家は、供養のことをいまでもこのように呼ぶ)をおこなわなければならなかった。
 
寺は、「寺請証文」を出す権限を持つことによって、実際のところ民衆の生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握っていた。寺がキリシタンでないことを保証してくれなければ、生命の保障はなかった。そのため僧は檀家に媚びへつらわれ経済的にも潤ったのである。

 

キリシタンでないことを証した「寺請証文」

 

権力におもねっていた象徴が大石寺の三門だ

 
日蓮正宗富士大石寺に参拝すると、まず目に入るのは、あたりを圧するようにそびえている三門(山門)である。晴れた日の、富士山を背景に、朱も鮮やかにどっしりと構えた三門は見事なものがある。
 
しかし、これは、正徳二(一七一二)年、総本山第二十五世日宥(にちゆう)上人のとき、大石寺は三門造営のために、黄金千二百粒と、天領(てんりょう)である富士山の材木七十本を幕府より受けた(『日蓮正宗富士年表』による)ことによりできたものである。
 
富士大石寺の入り口に偉容を誇る三門は、今日まで「富士の清流」の象徴とされてきたが、確固たる歴史から見れば、それは日蓮大聖人の法義を捨て、謗施を受けて命を永らえてきた大石寺の屈辱のモニュメントであったのだ。
 
徳川幕府の統治政策下にあって、寺社奉行(じしゃぶぎょう)に連なる寺院は、民衆を統治するために大変に大きな役割を果たした。寺院は民衆を支配する幕府の代務機関と化し、思想警察、市(区)役所的役割を担わされた。
 
民衆の間にキリシタンなどの、徳川幕府にとって危険な思想が発生しないかをたえず監視し、「寺請証文」という社会的な身分保証書を寺院が発行することによって、幕府は寺院を通して民衆の心的内面を管理し支配することに成功した。寺院は民衆支配の権限を幕府より分与され、それを代行することによって己の権威権力を保ち、民衆の上に君臨したのである。
 
また、民衆の改宗は幕府によって禁じられた。このことによって、各宗派寺院ともに、幕府権力にすがっている限りは絶対的な生活の保障を得ることができた。幕府の権勢を背景に、民衆にかしずかれ崇められる。そこには、宗教者としての根本的な腐敗が横たわっていた。

 

謗施を受けて建てた三門
謗施を受けて建てた三門

 

また一方で幕府は、民衆支配を代行する各宗派の僧侶の腐敗をもっとも怖れた。だが、ここでいう腐敗とは為政者から見た腐敗で、為政者側は布教をせず社会の秩序を乱さず妻帯せずして、そこそこの生活をする僧を望んだのである。もし、僧侶に対し庶民が不信を持てば、幕府がもっとも危惧するキリスト教の蔓延という事態すら惹起しかねない。「お上」である幕府に対する庶民の不信にもつながる。そこで幕府は、寺社奉行を通して各宗派を監視した。ことに、僧侶の風紀紊乱には目を光らせたのである。それでも、寺内に女性を引き込むなどの腐敗は横行した。この僧侶の統率にあたっては、本末関係(本山と末寺の絶対的な秩序立て)が大いに利用された。
 
大石寺が三門を建てるにあたり、徳川将軍の正室に莫大な黄金をもらい、寺社奉行より特別に材木を下賜された事実は、大石寺が国家権力による民衆支配の忠実な代務者であった側面を浮き彫りにする。
 
日蓮大聖人は鎌倉幕府のためには祈らなかった。人々の幸福のためにのみ法を説いた。
 
「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」(御講聞書)
 
【通解】世間の法とは、国王や大臣から所領をたまわり、官位
 
をおくられたとしても、そのことに染められず、謗法の供養を受けないことをもって世間の法に染められずというのである。
 
佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った宗祖日蓮大聖人に対し、鎌倉幕府は寺を寄進しようとした。だが宗祖は、鎌倉幕府による寄進の申し出を峻拒されている。しかるに、その末流たる大石寺の僧侶たちは、徳川幕府より材木を得、将軍の正室より黄金をもらうことによって、あの大きな三門を造り得たのだ。
 
今日、大石寺への登山者を偉容をもって迎える三門は、日蓮正宗信徒にとって誇りうるべきものではなかった。それは、江戸幕府統治下にあって権力におもねっていた頃の残澤(ざんし)でしかなかったのだ。
 
正しき仏法による民衆救済を叫んで国家権力と一人対峙し、死罪・流罪の極刑に処され身命を奪われんとした宗祖日蓮大聖人の教えと、いまにそびえる三門は、その依って立つ思想性のうえで完全に乖離(かいり)するものである。
 
三門に象徴されるのは、現在、信徒に対し「お目通り適わぬ身」などと言ってはばからぬ日顕宗僧らの権威権力的体質である。三門は日蓮大聖人の法義が寸分たがわず伝えられたことを示すのではなく、むしろその逆であったのだ。

 
ここに、江戸時代の大石寺の実態を知る上で、恰好の資料がある。
 
天保九(一八三八)年六月、大石寺が代官「豆州韮山江川太郎左衛門」に差し出した「口上覚」二四〇ページに原文掲載)である。この古文書は、寛永十二年十月十二日に大石寺の「本堂」「山門」「坊舎」が焼失したことを記し、つづけて次のように綴っている。
 
「本堂方丈坊舎等者再建致候得共、山門寳塔再建難及自力二」
 
(本堂、方丈、坊舎などは再建致し候えども、山門、宝塔の再建は自力に及び難く)
 
本堂、方丈、坊舎はなんとか再建したが、山門、宝塔(五重塔)の再建は自力ではとてもできなかったのだ。なお「方丈」は住職の住居、「坊舎」は僧坊のことを言い、僧俗の起居するところを指していると見られる。
 
「正徳二年文昭院様御代寺社御奉行本多弾正少弼様奉願上候處、於富士山御財木元材七拾本拝領被仰付御臺君従天英院一位様御金三百両被下置候右材木井被下金二而山門者其瑚出来仕」
 
(正徳二年文昭院様御代寺社御奉行本多弾正少弼様に願い上げ候ところ、富士山に於ける御財木元材七十本拝領仰せ付けられ、御台君従天英院一位様御金
 
三百両下し置かれ候。右材木並びに被下金にて山門は其の砌(みぎり)出来仕(つかまつ)る)
 
正徳二(一七一二)年、「文昭院様」すなわち六代将軍徳川家宣のとき、寺社奉行をしていた本多忠晴にお願いして、富士山の原木を七十本もらい受け、家宣の正室である天英院より三百両をもらい、山門(三門)を建てたと書いてある。正徳二年、総本山貫首は第二十五世日宥上人であった。日寛上人(第二+六世)の一代前の上人である。
 
この三門造営について、『日蓮正宗富士年表』には、「日宥幕府より大石寺三門造営につき黄金千二百粒及び富士山材木七十本を受く」と記述してある。「材木七十本」の記述は、古文書とも符合する。
 
「三門」が焼失したのは寛永十二(一六一二五)年。幕府より材木と金をもらったのは正徳二(一七一二)年。その間、七十七年の歳月が流れている。
 
大石寺が三門を焼失して後、七十七年も経なければ、それを再建できなかったという事実に注目しなければならない。それほど大石寺の寺勢は衰退していたのである。しかも幕府より材木、黄金を下賜(かし)してもらい再建したという冷厳な事実を見逃してはならない。法義を曲げ幕府に謗施をねだって寺の威勢を整えたのである。法を失った伽藍(がらん)仏教の最たる姿がそこにある。

 

宗門の謗法を象徴する常泉寺

本山だけでなく末寺も幕府権力と癒着して繁栄

 
時の権力者におもねり民衆を支配することにより栄えたのは、総本山である大石寺だけではなかった。末寺も同様の法義に反した生き方をすることにより栄えたのである。その象徴的な事例として、幕府のお膝下で栄華を極めた江戸・向島の常泉寺を挙げることができる。
 
『日蓮正宗富士年表』によると、常泉寺の開創について、「一五九六(文禄五)年二月七日、天台僧仙樹院日是江戸本庄牛島に常泉寺を創す」とある。
 
常泉寺は当初、大石寺の末寺ではなく天台宗の一末寺として開創されたのである。これを富士門流に改宗させたのは第十七世日精で、「一六三八(寛永+五)年十二月日精本行院日優を化し、江戸常泉寺・同塔中真光坊大石寺末となる」と『富士年表』に記されている。
 
江戸時代の「新編武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)」(『本所区史』=編集兼発行者・東京市本所区昭和六年六月二十五日発行=に収録)という書物に「常泉寺」についての記述がある。
 
「常泉寺法華宗駿河国富士郡上條村大石寺末久遠山と号す。本尊は本山二十五世日宥の筆せし三宝の板本尊を安ず。開山は六老僧日興上人にて、開基は仙樹院日是と称す」(「新編武蔵風土記稿」より引用)
 
この記述は、おもに江戸中期の常泉寺七代住職大信阿闇梨(あじゃり)日顕”(一七〇三年没)に関わるものと、当時の常泉寺の宝物についてである。もちろん、当時の常泉寺は邪宗から改宗した後で富士大石寺の末寺だった。
 
「新編武蔵風土記稿」には、次のようなことが書かれている。常泉寺七代住職の“日顕”という僧が京都にいたころ、御水尾院第一の皇女・無品内親王のひいきになり、祈疇などをおこなった。
 
延宝(えんぽう)七(一六七九)年、内親王の息女・天英院が六代将軍徳川家宣へ輿(こし)入れしたときに、“日顕”もいっしょに関東に下り、常泉寺に入った。
 
その縁故で、朝廷にも徳川家にも重んじられ、宝永七(一七一〇)年には幕府から三千四百坪の寺地を、あるいは「御仏供料」として三十石の「御朱印」をもらった。
 
なお、この「御朱印」をもらうことには大変な意味がある。幕府から「御朱印」を下された寺院は、いってみれば幕府から本山並の寺格を認められたに等しいからだ。
 
正徳元(一七一一)年六月には、城内本丸客殿を常泉寺の書院として賜りもした。同四(一七一四)年には、天英院から本堂造営費千五百両および仏具一切の寄進があった。
 
それらのことを、「新編武蔵風土記稿」は次のように綴っている。
 
「其後当寺第七世日顯は京都の産にて、後水尾院第一の皇女無品内親王の御取立にあつかり、屢(ますます)御祈祷(ごきとう)など命ぜられ、延宝七年内親王の御女天英院殿文昭院殿へ御入輿の時供奉して関東に下り、当寺に住しけるが御由緒をもて若君姫君及び及び御部屋齋宮御方等寺内に送葬し奉りしかば、宝永七年三千四百坪余の寺地を賜はり。同年西葛西領小谷野村にて本乗院殿御仏供料三十石の御朱印を附せらる。正徳元年六月御本丸御客御殿を賜て書院とし、同き四年天英院殿思召(おぼしめし)を以て本堂御造営及び客殿経仏具等一色寄付したまひ、同年又本堂建立のためとして金千五百両を下し賜はり」
 
この文からうかがえることは、常泉寺が天英院の帰依を背景に、徳川幕府から並々ならぬ庇護(ひご)を受けていたということである。下賜された「寺地」「御仏供料」「御本丸御客御殿」は幕府からの謗施である。
 
なお、ここで天英院からの供養も問題にしておきたい。なぜなら、詳しくは後で触れるが、天英院は観音、毘沙門、鬼子母神などにも信をとっていたようだからだ。したがって、天英院からの供養も謗施ではないかと、あえてここで問題を提起しておきたい。
 
読者の方々は、後述する天英院の信心の実体を見て、天英院からの供養が謗施であるかどうかを判断していただきたい。
 
ともかく、常泉寺が幕府から「寺地」「御仏供料」「御本丸御客御殿」などの下賜を受けたことが謗施であることに、誰も異論はないだろう。常泉寺は幕府から財を分かたれ、その威を借りて栄華をきわめたのである。
 
江戸時代、常泉寺の本堂、客殿、書院の釘隠しや屋根瓦には、徳川家の紋所(もんどころ)である葵の紋が使われていた。
 
教説を曲げず民衆救済のために不惜身命(ふしゃくしんみょう)の姿で、鎌倉幕府を諫暁された御本仏日蓮大聖人――。その末流が、将軍家の紋所を建物の随所に飾り、権勢を欲しいままにする。これにすぎた腐敗はない。していることは、まさに御本仏に対する違背である。
 
名刹(めいさつ)といわれてきた常泉寺の歴史は、日蓮正宗が幕府権力に癒着し、謗施を受け、繁栄してきたことを教えてくれる。これが、日蓮正宗の実体なのである。ということは、“富士の清流”などという言葉が、歴史的裏づけのない偽りの言葉だということでもある。

 

幕府や天英院から莫大な庇護を受けた常泉寺

 
常泉寺は幕府権力に癒着し、謗施を受け、栄華をきわめた。常泉寺は、一末寺としては破格の「御朱印」を幕府から下された。この過分の待遇の背景には、常泉寺七代住職の”日顕”と天英院とのかかわりがある。先述した内容と重複するが、もう一度、概略をまとめて記述する。
 
江戸時代において、日蓮正宗の大檀那であった天英院は、寛文六(一六六六)年、京都に生まれた。父は関白(かんぱく)太政(だじょう)大臣近衛茎熈、母は後水尾天皇の第一皇女級宮である。天英院は延宝七(一六七九)年に徳川家宣の正室となった。
 
“日顕”は、天英院の乳母の子供である。その縁により”日顕”は京都にいたころから、天英院の母の寵遇(ちょうぐう)を受け、天英院が徳川家に輿(こし)入れする際、護持僧としてともに江戸に下った。やがて、“日顕”は常泉寺七代住職になり、天英院は常泉寺の大檀那として同寺の繁栄を支える。
 
宝永七二七一〇)年、天英院と“日顕”のつながりから常泉寺に家宣の養女を葬うことになった。その際、幕府は家宣の養女のために常泉寺に三十石の朱印を与え寺地三千四百坪を下した。
 
徳川家宣の正室であった天英院の墓碑
徳川家宣の正室であった天英院の墓碑

 
本山である大石寺が、寛永十八(一六四一)年に幕府より下された朱印は六十六石八斗五升である。末寺の常泉寺がいかに破格の待遇を受けたかがわかる。
 
また、翌正徳元(一七一一)年には、幕府から江戸城本丸の御客御殿を常泉寺に下賜された。さらに、正徳四二七一四)年には、天英院より本堂造営のため千五百両も寄進されている。
 
徳川家の家紋(かもん)である「葵(あおい)の紋」を常泉寺の本殿、客殿、書院の釘隠し、屋根瓦の所々に使うことも許されている。このように、常泉寺は幕府や天英院から莫大な庇護を受けた。
 
この天英院も寛保元(一七四一)年二月二十八日、死去する。遺言によって常泉寺に天英院の遺品が奉納された。『富士宗学要集』(第八巻)によれば、天英院の遺品として、大聖人の木像、位牌(いはい)、大聖人の御真筆の曼茶羅を常泉寺に納めたと記されている。
 
「一、天英院様御持仏之有り候御本尊仏(大聖人木像)且亦応円満院殿無上法院(級宮常子内親王)予楽院殿(近衛基熈)妙教殿(妙敬日信豊姫)本乗院殿(斎宮御方)如是観院殿御位牌常泉寺え遣はさるべき由、天英院様思召に付き遣はされ候、之に依て御金百両下され候、公儀より一切御構(おかまい)は之無く候間其の以後之を存ずべく候、以上。(寛保元年)三月
 
一、天英院様御所持遊ばされ候、日蓮真筆の曼陀羅(仙師授与)一幅此度遣はされ候間、随分大切に仕り寺の什物(じゅうもつ)に仕り毎年二月十五日十六日廿八日、七月十六日十七日、十月十三日十四日十五日、右の通掛け置き参詣の者ども拝ませ申すべく候。(寛保元年)四月」(『富士宗学要集』第八巻より引用)
 
しかし、常泉寺に納められた天英院の遺品は、これだけではなかったようだ。
 
「新編武蔵風土記稿」(『本所区史』=編集兼発行者・東京市本所区昭和六年六月二十五日発行=に収録)には、
 
「坐像(ざぞう)釈迦仏一躯(いっく)(後水尾院法華経題目書写し給ひし紙をもて、御手つから作らせ給ふ。模糊(もこ)の像にて、第一皇女級宮御方に御形見として進ぜられしを、天英院殿に譲らせられ後当寺に納めたまひしなり)」
 
と記されており、『江戸から東京へ』(中公文庫矢田挿雲著)には、この「坐像釈迦仏」については、「天英院他界の後当寺に納まったものである」と記述されている。
 
そのほかにも、常泉寺に「宝物」として納められた天英院に縁のあるものとして、「新編武蔵風土記稿」には、次のように記されている。
 
「伽羅(きゃら)仏立像正観音一躯立像(りつぞう)毘沙門一躯(文昭院殿御守本尊なり)四天王四躯(元文の頃天英院殿御帰依にて浅草長遠寺より当寺に移されし像なり。以上六躯は昔別に堂ありてそれぞれに安置せしが、天英院殿三十三回御忌に当り御仏殿等御修造(しゅうぞう)遊ばされし時、何れも御取払となりし故其後は宝蔵に安置すと云)」
 
徳川家宣の守り本尊の立像観音像一躯、立像毘沙門像一躯。また、天英院により浅草長遠寺から常泉寺に移された四天王像四躯。これらの六躯の像は天英院三十三回忌(一七七三年頃)に宝蔵に安置されるまでは、それぞれ別の堂に安置されていたのだ。
 
なお、これらの像は、文脈からみて、天英院生前に常泉寺に寄進され境内に祀(まつ)られたものと思われる。総本山近くの「広宣流布された村・半野地区」同様、謗法が御本尊とともに常泉寺内に混在し祀られていたのだ。常泉寺は、このようにして栄えていたのである。
 
「新編武蔵風土記稿」には、常泉寺に「鬼子母神堂」があったことも記している。「鬼子母神堂」については、次のような但し書きがなされている。
 
「鬼子母神堂(天英院殿御寄付の像にして浅草妙音寺より移されしものなり)」
 
常泉寺内の「鬼子母神堂」は、天英院が浅草妙音寺からわざわざ鬼子母神像を常泉寺に移して祀ったことを縁起とする。
 
これが“富士の清流”の実態である。謗法の者から布施を受けないとして、不受不施派の多くの寺が徳川幕府から徹底弾圧を受けていた頃、常泉寺は幕府から謗施を受けて潤い、随所に「葵の紋」を飾り権勢を誇っていた。
 
それも、大檀那・天英院から寄進された観音像、毘沙門像、四天王像を堂を造って祀り、その他、邪宗の寺から移した鬼子母神まで祀ってである。
 
まさに、謗法まみれの常泉寺である。謗施にありつくために、日蓮大聖人の教法を忘れ去ってしまった売僧(まいす)の姿がそこにある。この常泉寺のありさまを見れば、身延派などの邪宗とどこが違うのかと思われる。
 
先に、天英院からの供養も謗施ではないかと記したのは、以上の理由からである。
 
天英院は、どうやら日蓮大聖人の教法を理解していなかったようである。というより、富士大石寺派の僧のいずれも、大檀那に真実の日蓮大聖人の仏法を教えなかったのではあるまいか。

 

謗法にまみれて彷徨してきた日蓮正宗

 
日精が、常泉寺を天台宗から宗旨(しゅうし)替えさせたのが、寛永十五(一六一二八)年。常泉寺を帰伏(きぶく)させた日精の代は、釈迦仏造立(ぞうりゅう)の大謗法がおこなわれたが、そのおよそ四十年後においても、常泉寺にはさまざまな謗法が安置されていたのである。
 
この常泉寺のありさまを見るにつけ、釈迦仏造立などは大石寺門流の謗法の一角に過ぎないと思われる。当時、常泉寺同様の謗法まみれの末寺が、日蓮正宗にはたくさんあったにちがいない。
 
ちなみに、天英院が江戸に下ったのは延宝七(一六七九)年、大石寺貫首(かんず)は第二十一世日忍上人。天英院が逝去したのは、寛保元(一七四一)年、大石寺貫首は第三十一世日因上人のときであった。
 
なお、『日蓮正宗富士年表』は、常泉寺にまつわる謗法の事実を意図的に隠し記述している。
 
釈迦は法華経五百弟子受記品第八において、衣裏珠(えりじゅ)の譬えを教えている。衣裏珠の譬えとは、
 
「ある貧しい人が親友の家に行き、もてなしを受けて酒に酔い眠ってしまった。その親友は急ぎの公用のため、出かけなければならなくなり、無価の宝珠(ほうじゅ)と呼ばれる珠(たま)を熟睡する彼の着物の裏に縫い込んでいった。貧しい男は、それとも知らず、国々を流浪し、貧窮した姿で再び親友を訪れた。親友はそれを見て驚き、宝珠のことを聞いた。その人が着物の裏を調べてみると宝珠があり、豊かな生活をすることができるようになった」(『新版仏教哲学大辞典』聖教新聞社刊より引用)
 
ということである。
 
この説話に出てくる、着物の裏に縫い込まれた宝珠を知らないで貧しいまま放浪する男と、宝珠が自身の着物にあることを教えた男と、どちらが感謝される正統な対象だろうか。言わずと知れたことである。
 
それにしても、釈迦の説法で、宝珠が着物の裏にあることを教えた男と、宝珠を着物に縫いつけた男と同一人物とされていることは実に興味深い。今日の創価学会と日蓮正宗の関係が、そのまま当てはまる説話である。
 
この釈迦の教えは、衆生(しゅじょう)に本より仏性(ぶっしょう)が備わっていることを示したものだが、日蓮正宗が謗法にまみれて七百年もの問、彷徨(ほうこう)してきた史実は、衣裏に宝珠があるのも知らず放浪した男の姿を彷彿(ほうふつ)させる。無論、宝珠の存在を教えたのは創価学会である。

 

邪宗の最高幹部に御開扉させた日布

謗法厳戒という意識がはなはだ低かった日蓮正宗

 
戦前、日蓮正宗の機関誌である『大日蓮』(昭和十年三月号)に、「日布上人をしのび奉(たてまつ)りて」と題する一文が掲載されている。そこには、日布が国柱会幹部や未入信者の宗教学者に対し、戒壇の大御本尊の御開扉(ごかいひ)をしたという記述がある。
 
「ある時姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生が登山されたことがあつた。上人の御導師で戒壇の御本尊の御開扉、終りて徐(おもむ)ろに参詣者に向直(むきなお)られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、佛祖三寳(さんぽう)も御滿悦(ごまんえつ)のことゝ存ずる。各々が無始以來の罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)現當(げんとう)二世(にせ)の所願滿足と厚く御祈念申上げました。南無妙法蓮華経』と一拶された」(『大日蓮』昭和十年三月号)日布は、第五十五世で明治七年十二月に登座し、明治十八年六月に隠尊(いんそん)、大正八年三月に死去した。
 
それでは御開扉を受けた、「姉崎博士」「山川」「長瀧」なる人物は、どのような人々であろうか。
 
「姉崎博士」とは、言うまでもないが、高名な宗教学者である姉崎正治博士のことである。略歴を型どおりつづると、明治二十九年、東京帝国大学哲学科卒業。以降、宗教の発展を研究し、明治三十三年に東京帝国大学助教授となる。
 
明治三十八年には東京帝国大学に宗教学講座が開設されたが、その担任教授となった。昭和五年には日本宗教学会会長就任。姉崎博士は文字どおり日本宗教学の草分け的存在であり、重鎮(じゅうちん)であった。
 
その姉崎博士が、どのような経緯から国柱会の幹部と総本山大石寺に登山したかは不明だが、いずれにしても『大日蓮』の記述のとおり、御開扉を受けたのである。

 
一方、国柱会の「山川」「長瀧」とは、どのような人物だろうか。
 
国柱会幹部の「山川」とは、山川智応のことと思われる。山川智応は、明治十二年生まれ。明治二十六年に田中智学の立正安国会に入り、明治三十二年より田中智学の師子王文庫において活動。田中智学の直弟子である。「長瀧」とは山川智応と同様、田中智学の直弟子である長瀧智大のことと思われる。「山川」「長瀧」ともに国柱会の中枢(ちゅうすう)幹部である。
 
田中智学は十歳のとき(明治三年)、日蓮宗妙覚寺の河瀬日進に師事し得度(とくど)。明治十二年には日蓮宗を離れ還俗(げんぞく)。明治十七年に立正安国会を設立、布教活動をする。大正三年に国柱会を設立し、その開祖となる。以降、皇室重視の国体を宣揚する運動に傾いた。
 
国柱会は、本尊を佐渡始顕(しけん)の曼茶羅(まんだら)としている。所依(しょえ)の経典は法華経である。明治四十年よりは、日蓮宗身延山の輪番奉仕(りんばんほうし)などもしている。
 
断るまでもないが、国柱会と日蓮正宗の間には縁もゆかりもない。国柱会は、いわば日蓮宗身延派から分派した在家の仏教教団である。日蓮正宗からみれば、国柱会は明らかに邪義を立てている。
 
その邪宗の最高幹部二名に御開扉を受けさせたというのだから、当時の日蓮正宗にあっては、諺法(ほうほう)厳戒(げんかい)という意識が実に低かったのだと断定せざるを得ない。

 

御開扉を受けた姉崎正治博士
御開扉を受けた姉崎正治博士
 

 

御開扉を受けた国柱会幹部・山川智応
御開扉を受けた国柱会幹部・山川智応

 
この御開扉がおこなわれた年月を特定するのは、はなはだむずかしいが、推測すれば、国柱会が結成された大正三年から日布が死去した大正八年の問ということになるだろう。
 
昭和十年三月号の『大日蓮』においては、先に引用した文につづいて次のように記述されている。
 
「諸先生方は驚いたかも知れぬ。しかし上人よりして見れば當時高名な先生方も、學者も富豪も、村翁(そんおう)野媼(やおう)も擇(えら)ぶ所なく等しく佛子、等しく導びき等しく語るべきなりとせられたに違ひない。賢(けん)不肖(ふしょう)、貧富(ひんぷ)、老少(ろうしょう)、美醜(びしゅう)等に於て一異の相を見ざる所に超(ちょう)脱性(だつせい)が輝く。吾人は此の超脱性に封して等しく頭を下げさせられる。難有といふ宗教的情操はこんな所にあるのだな……と自分はツクヅク感じたことであつた」(同)
 
日布が邪宗の最高幹部をも「仏子」として遇したと賞賛しているのだが、謗法を責めずして詐(いつわ)り親しむことは、宗祖日蓮大聖人の固く誡(いまし)められたことである。その信心のイロハが、当時の日蓮正宗には失われていたのである。日蓮正宗機関誌にこのようなことを堂々と書いても、何ら問題にされることもなかったのだ。
 
隠尊(いんそん)であった日布みずから邪宗の最高幹部に御開扉を受けさせ、「各々ヨウコソの御登山、佛祖三寳も御滿悦(まんえつ)のことゝ存ずる」とは、実に恐れ入ったことである。
 
謗法に染まった日蓮正宗を、創価学会が今日に至るまで浄化してきたことが、この一事をもっても理解されるのである。いま日顕宗は、国柱会幹部が登山したのは日蓮正宗に恭順(きょうじゅん)してのことだと、歴史的裏づけのない反論をし、あまつさえ御開扉させるかどうかは“法主”の権能であるとしている。“法主”を、日蓮大聖人を超える“生き仏”として位置づけているのである。宗開両祖の教えは、早くも大石寺より失せてしまったようだ。
 
邪宗の者たちに御開扉をした第55世・日布
邪宗の者たちに御開扉をした第55世・日布
 

統合帰一・立正大師号宣下(せんげ)・勅額(ちょくがく)降賜(こうし)

謗法と同座し、統合帰一をすすめようとした日正・日開

 
日蓮宗各派が合同して日蓮大聖人に「大師(だいし)」号を天皇より賜りたいと運動した結果、大正十一年十月十三日、「立正大師」との大師号が宣下(せんげ)された。
 
これによって日蓮正宗を含めた日蓮宗各派は、“宗祖も「伝教大師」「弘法大師」に比肩しうる”と喜んだのである。
 
そもそも、天皇より大師号を宣下してもらおうと言いだしたのは、顕本法華宗の本多日生である。大正十年の聖誕(せいたん)七百年の年に、本多は大師号宣下を奏請(そうせい)しようと思いつき、国柱会総裁の田中智学に相談した。
 
田中智学は、「第一義悉壇(しつだん)」(仏が根本の真理を示し、真実の妙理に入る利益を与えること)からすれば請願するべきではないが、「世界悉壇」(世間の衆生が聞くことを願い欲するところとにしたがって法を説き、世間の正見(しょうけん)を得させること)の立場にのみおいて賛成するとした。本多日生は、この田中智学の見解に勇気づけられ、日蓮宗各派管長に呼びかけ、東郷平八郎、犬養毅などを発願者として請願運動を起こす。
 
この大師号宣下に見られるような日蓮宗各派協調の動きは、この大正十一年に唐突に起きたものではない。
 
これより前、大正初期から日蓮宗の池上本門寺に日蓮宗各派管長が「統合帰一(とうごうきいつ)」に基づいて集まっている。そのとき、この池上本門寺での「管長会議」を記念して写真撮影をしている。
 
この写真は『日宗新報』(大正三年十一月二十二日号)の表紙を飾っている。残念ながら当方の入手した写真は不鮮明なため掲載しないが、参考までに、『日宗新報』の写真説明を紹介しておく。

 

「〔管長會議記念撮影〕十一月八日池上にて
 
後列右より
 
阿部法運(日蓮正宗)
 
野口日主(顕本法華宗)
 
酒井日愼(日蓮宗)
 
梶木喜遠(本門法華)
 
坂井日受(法華宗)
 
近藤日侃(法華宗代理)
 
井上正山(本門宗)
 
前列右より
 
長谷川日感(本妙法華宗管長)
 
本多日生(顕本法華宗管長)
 
瀬島日濟(本門宗管長)
 
小泉日慈(日蓮宗管長)
 
阿部日正(日蓮正宗管長)
 
藤原日學(法華宗管長代表)
 
森智孝(本門法華宗代表)」
 
写真はやや不鮮明ながらも、写真説明のように前列後列に別れ、各派管長が並んでいる。日蓮正宗の薄墨(うすずみ)の衣が際立って見える。まぎれもなく謗法との同座である。
 
日正、阿部法運(のちの日開)は、五老僧の末裔(まつえい)らと野合(統合帰一)するために日蓮宗の池上本門寺をすすんで訪れ、謗法と同座し、統合のための具体的手続きを煮詰めていたのだ。
 
同月二十四日には各派の代表が集まり、第一回統合準備委員会が開かれている。
 
大正三年十一月八日、日蓮宗の池上本門寺に日蓮宗各派の管長が集まり、日蓮宗各派の「統合帰一」が話し合われ、各派の総意をもって「統合帰一」の基本方針が確認された。
 
この池上での「管長会議」には、総本山第五十七世日正、阿部法運が、日蓮正宗として参加。日正も「統合帰一」に賛同し署名した。
 
この後、「統合帰一」の基本線に沿い、同月二十四日には具体的な「統合帰一」のプロセスを練るために、各派合意のもと「第一回統合準備委員会」も発足した。だが、この「統合帰一」の動きは、まもなく破綻した。
 
しかしその後、日蓮宗各派の間に、「統合帰一」への動きが完全にとだえたわけではなかった。
 
日本は日清、日露戦争を勝ち、第一次世界大戦でも勝利をおさめる。この戦勝国日本のバックボーンをなす近代天皇制のもとで、各派が「統合帰一」して国運隆昌(りゅうせい)にひと役買おうとの時代的気運があったのだ。
 
天皇の御心(みこころ)に従い、聖旨(せいし)に報いんとする大義名分(たいぎめいぶん)に基づき、「統合帰一」の必要が叫ばれつづけたのである。それは、日蓮大聖人の教法に基づいた、教義的な純粋性を求める帰結としての団結ではない。ただ四分五裂(しぶんごれつ)の日蓮宗各派のありさまでは、日蓮宗総体がことごとく時代的貢献をなしえず、念仏、真言、禅などの他宗派に比べ相対的に社会的地位を失っていくとの危惧(きぐ)に由来するものであった。また明治維新以来、勢いを強める神道に対する焦りもあった。
 
いうなれば、近代天皇制のもとにおいて、自宗派がいかに確固たる地位を占めるかといった焦燥に基づく行動でもあったのだ。
 
それだけに、江戸時代以来つづいていた謗施をめぐる受派と不受派の深刻な対立も、教義上の決定的な相違も不問に付したまま、野合の動きを表面化することができたのだ。
 
その思想性のなさを象徴する動きのはしりが、大正三年十一月八日の「管長会議」である。
 
そこで決められた「統合帰一」の動きは、いったんは破綻したものの、天皇を頂点とする社会体制の中で確固たる地位を獲得しようとする日蓮宗各派の思惑により、その後、何度も浮上したのである。
 
謗法の僧らと仲よく記怠撮影した日正
 
池上本門寺での「管長会議」以降において、その顕著な動きとしてあげることができるのが、「立正大師」号をめぐる動きであった。
 
大正十一年九月十一日、「日蓮門下各派」の管長は連名で、天皇より日蓮大聖人に大師号を賜りたいと請願する。すなわち、「伝教大師」「弘法大師」などと同様の「大師」号がほしいと連署して願い出たのである。
 
「日蓮聖人大師号降賜(こうし)請願」と題する請願書に署名した各派管長は以下のとおり。
 
日蓮宗管長大僧正河合日辰
 
日蓮正宗管長大僧正阿部日正
 
顕本法華宗管長大僧正本多日生
 
本門宗管長大僧正瀬島日濟
 
本門法華宗管長大僧正尾崎日暲
 
法華宗管長大僧正津田日彰
 
本妙法華宗管長大僧正清瀬日守
 
日蓮宗不受不施派管長一等上座釈日解
 
日蓮宗不受不施講門派管長事務取扱権大僧正佐藤日柱
 
この請願書に応え、同大正十一年の十月十日、宮内省より「日蓮宗宗祖日蓮へ諡號(しごう)宣下(せんげ)候間來(きた)ル十三日午前十時參省(さんしょう)可有之(これあるべく)候也」との知らせが、各派管長宛に届いた。
 
日蓮大聖人御入滅(にゅうめつ)の日にあたる同年十月十三日、日蓮宗管長磯野日筵、日蓮正宗管長阿部日正、顕本法華宗管長本多日生、本門法華宗管長尾崎日暲、本門宗管長瀬島日濟代理井上日光、法華宗管長津田日彰代理荒川日治、本妙法華宗管長清瀬日守代理蓮池順良、日蓮宗不受不施派管長釈日解代理鷲日耀の八人は、宮内省に参省した。
 
宮内大臣より宣下(せんげ)書が各派管長に下された。大師号は「立正大師」とされた。添え状には次のように書かれていた。
 
「日蓮宗各派管長
 
今般特旨ヲ以テ其宗宗祖日蓮へ大師号宣下候事
 
大正十一年十月十三日
 
宮内省」
 
「宣下書」および添え状を下された後、各派管長を代表して、顕本法華宗管長の本多日生が宮内大臣より「謹話(きんわ)を承り」、一同は宮内省を退出、築地の水交社に向かった。
 
水交社とは、海軍将校のために社交・共済を目的にした団体である。同様なものとして、陸軍には偕行社があった。この築地の水交社で、日蓮宗管長の磯野日莚を導師として後の七人がそれに従い、寿量品を読経(どきょう)し唱題をおこなった。

 

日蓮宗管長の磯野日莚の導師で読経・唱題をする日正

 

さてここで歴史的な写真を紹介しよう。
 
「血脈(けちみゃく)相承(そうじょう)」「法水(ほっすい)写瓶(しゃびょう)」「富士の清流」「七百年の伝統」「本宗本来の化儀(けぎ)化法(けほう)」あるいは「謗法(ほうぼう)厳戒(げんかい)」―日顕宗の悪侶らが、信徒を従属(じゅうぞく)させるために使う、こうした常用句(じょうようく)がいっぺんにふっ飛んでしまう写真(下)である。
 
前列右から紹介しよう。顕本法華宗管長の本多日生、日蓮正宗管長の阿部日正、日蓮宗管長の磯野日筵、本門法華宗管長の尾崎日暲。後列は、それぞれ管長の代理で出席した本門宗、法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派の者たちである。
 
要するに日蓮正宗の総本山第五十七世日正が、謗法の僧たちと仲むつまじく写真におさまった謗法同座(どうざ)の証拠写真なのだ。
 
日蓮正宗“法主”の阿部日正が、日蓮宗管長の磯野日筵と顕本法華宗管長の本多日生との間に立って写っている、この写真は、宣下書を下された大正十一年十月十三日に撮影されたもので。撮影場所は水交社前と思われる。

 

邪宗の者らと記念撮影におさまった日正(前列右から2人目)
邪宗の者らと記念撮影におさまった日正(前列右から2人目)
 

金口(こんく)嫡々(ちゃくちゃく)唯授一人血脈相承を受けて登座しても、日蓮大聖人の生命も日興上人の精神も自動的には流れはしない。肝心なのは、本人の信心である。
 
阿部日正は、翌大正十二年八月十八日に死去した。大師号を請願(せいがん)した大正十一年の秋に下顎(したあご)にできた腫瘍が悪性のもので、翌年に死去したのである。“法主”であっても謗法を犯せば仏罰厳然(げんぜん)たるものがある。
 
ここで注目されるのは、日蓮正宗の管長が邪宗日蓮宗の管長にしたがって勤行をしても、それが日蓮正宗内でなんら問題にされなかったことである。このことは、創価学会出現以前の日蓮正宗においては“富士の清流”などといった意識は、さらさらなかったことを示しているといっても過言ではない。
 
このように、立正大師号を天皇から宣下(せんげ)されるにあたって、身延はその中心的役割を担ったのだが、それによって江戸時代以来、身延が日蓮宗各派の盟主であることを印象づけることに成功した。

 

日蓮宗の勅額(ちょくがく)降賜(こうし)の念書に署名捺印した日開

邪宗日蓮宗が、昭和六年の日蓮大聖人六百五十遠忌(おんき)を直前にして「大師号」の宣下を思い立ったのは、天皇の威光にすがり昔日の勢いを盛り返そうとする意図があったのである。
 
大正十一年十月十三日におこなわれた築地水交社での自我偶、唱題の最中、日蓮宗の酒井日愼(当時日蓮宗宗務総監、大正十五年に日蓮宗管長)は、「立正」の勅額(ちょくがく)降下(こうか)奏請(そうせい)を決意したと後に回顧(かいこ)している。
 
当時、日蓮宗宗務総監だった酒井日愼が、立正大師号の「立正」の文字を天皇に直接書いてもらい、それを額に入れて身延山の「御廟(ごびょう)」(祖廟(そびょう)ともいう)に掲げようと目論(もくろ)んだのであった。
 
その「勅額」を降賜(こうし)されることで、宗祖六百五十遠忌における日蓮宗の儀式に、他派に抜きん出た権威づけをしようとしたのだ。
 
そのために酒井日愼は、六百五十遠忌を前に勅額を天皇より降賜してもらうために活発な運動を開始した。
 
主な動きを記すと次のようなものであった。
 
○昭和五年六月二十四日、酒井日愼は供の者二名を連れ、国柱会総裁・田中智学を訪ね、勅額降賜を請願したい旨を述べ、田中に請願文起草(きそう)を依頼する。
 
○昭和六年二月十六日を期して田中智学は、勅額降賜の請願文草案を書きはじめ、三月十五日に完成。

 

  • 同年三月十六日、田中智学は池上本門寺に日蓮宗管長・酒井日愼を訪ねる。最終的に草稿を推敲(すいこう)し、日蓮宗では鎌倉大巧寺住職・片野玄貞を浄書者(じょうしょしゃ)とする。
  • 三月十七日、池上本門寺にて日蓮宗管長・酒井日愼は草稿(そうこう)を最終承認。
  • 三月十八日、田中智学、草稿を持して身延山久遠寺を訪ね、身延山久遠寺法主・岡田日蹄に草稿を見せる。岡田、草稿を承諾し署名捺印する。このとき、請願文提出を四月三日神武天皇祭当日と決定。この日午後、「祖廟」前にて上奏する請願文を朗読し、唱題などをおこなう。
  • 四月三日早朝、二十六日間をかけ鎌倉大巧寺住職・片野は五千六百字の請願書浄書を完了。請願書は、「立正大師六百五十遠忌二際シ勅額降賜ヲ請願シ奉ル件」と題され「身延山久遠寺住職岡田日歸」名で上奏された。

 
請願書の中には、
 
「朝廷幕府亦(また)法勳ヲ嘉賞(かしょう)シテ優遇殊恩頻(しき)リニ加ハル就中(なかんずく)代々紫衣(しえ)ノ榮格(えいかく)ヲ身延ニ賜ヒテ勅額道塲ト爲シ享保五年五月靈元上皇ハ日蓮大菩薩五大字ノ宸筆(しんぴつ)ヲ吾身延ニ降賜(こうし)シタマヒ法國ノ契應時ト倶(とも)ニ漸(ようや)ク熟セントシテ去ル大正十一年十月十三日遂ニ立正大師號宣下ノ天恩

 

昭和6年3月16日の池上本門寺における会議(右端が田中智学、2人目が酒井日愼)
昭和6年3月16日の池上本門寺における会議(右端が田中智学、2人目が酒井日愼)
 

ヲ拝スルニ至ル然ルニ近時世態ノ惡變(あくへん)國情ノ荒亂(こうらん)日ニ甚(はなはだ)シク國難内外二蓬勃(ほうぼつ)シテ人心安キヲ喪(うしな)フ」
 
といった文も見える。
 
当然のことながら日蓮宗は、この勅額降賜をもって、身延山久遠寺を日蓮宗各派の中心にすえようと図ったのである。いわゆる、祖廟(そびょう)中心主義を近代天皇制の中で実質化しようとしたのだ。
 
いつの時代にも、権力に取り入ることにより権勢を保持しようとする、日蓮宗身延派らしいやり方である。江戸時代には徳川幕府の権力を背景に不受不施派を弾圧し、その本寺末寺の乗っ取りに狂奔(きょうほん)した身延派の姿が想起される。
 
勅額降賜の請願は、昭和六年四月四日久遠寺住職・岡田日露名で一木喜徳郎・宮内大臣宛に提出した。と同時に、同趣旨の請願を田中隆三・文部大臣にも出している。
 
この請願書上奏(じょうそう)後まもなく、文部省より日蓮宗各派管長に身延山久遠寺に勅額を下賜することについて承諾をもらうようにとの達しが日蓮宗に届いた。
 
日蓮宗庶務部長・妙立英壽はすぐさま日蓮宗各派を訪ねた。各派管長に、身延山久遠寺に勅額が降賜されることに異議がないとの念書に、署名させるためであった。
 
このときの念書は、次のようなものであった。
 
「念書
 
宗祖立正大師六百五十年遠忌(おんき)ニ際シ御廟所(びょうしょ)在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗ニ於(おい)テモ異議無之候條速(すみやか)ニ御下賜有之候樣御取(おとり)計(はからい)相成度(あいなりたく)候也」
 
この念書に署名捺印した管長は、日蓮正宗管長・阿部日開をはじめとして、顕本法華宗管長・井村日威、本門法華宗管長・神原日祐、本門宗管長・富士日堂、法華宗管長・岡田日淳、本妙法華宗管長・小澤日寛、不受不施派管長・繹日壽、不受不施講門派管長・佐藤日柱などであった。
 
日開は昭和六年六月十二日に署名捺印。「念書」は各派管長より文部大臣・田中隆三宛に差し出された。
 
日蓮大聖人の聖骨が身延にあると認めた日開
 
妙立の奔走(ほんそう)により、各派管長の「念書」がとりつけられるのであるが、この文部省の念書とりつけの要請の裏には、ある事情があった。この間の事情について、当事者の田中智学は『田中智学自伝』(師子王文庫)の中に、次のように記している。

 

当時の事情を詳しく知るために、少々長くなるが引用する。
 
「そこで願書を提出して、一面は宮内大臣に吾輩(わがはい)が會(あ)ッて、實地(じっち)についてよく一木宮相にも話した、願書は今文部省から此方に廻ることになッて居るさうだから、何(いず)れお手許(てもと)に來るに違ひない、其の節は御前宜(よろ)しく御執奏(しっそう)方をお願ひするといッたところが、自分は職についてまだ先例を知らないが、さういふ例があるかないかといふ事であッたから、それは幾らもある、勅額を下賜(かし)された例は明治天皇の御時代にも道元輝師に承陽大師の勅額を賜はり、宇治の黄蘗(おうばく)山にも勅額を賜はッた例があるといッたらさういふ先例があれば取扱ひ上差支へないと思ふから、充分に力を盡くします、又日蓮聖人に封しては勅額を賜はるといふことは然るべき事と自分も考へるといふ挨拶であッた。
 
それから宮内省で調べて、日蓮聖人の墓は全く身延にあるかといふことを尋ねて來た、それは事實がこれを證明して居るから其の趣きを答へた、然るに日蓮門下の各教團に封して、宮内省から日蓮聖人の墓が身延にあるに相違ないかといふことを、各派の管長に向けて諮問した、これは若し苦情が出ると、宗派の事は昔からよく爭論が起り易いから、宮内省でも愼重の態度を取ッたのであらう、ところがこれは事實それに違ひないから、何(ど)の派の管長も師日蓮聖人の墓は身延に相違ないといふことを申上げたので、一ぺんに埒(らち)があいた、そして其の通知が、大聖人が身延にお入りになッた式の開闢會(かいびゃくえ)といふのがあッて、其の開闢會の日に宮内省から電報が來た」
 
文部省は勅額降賜にあたり、日蓮大聖人の墓が身延山にあることを、他の日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への勅額(ちょくがく)降賜(こうし)に皆が賛成するということが、絶対に必要な要件であると考えていたのだ。そのため、各派管長に「念書」を提出することを要請したのだった。
 
○昭和六年六月二十三日、宮内大臣・一木喜徳郎より文部大臣・田中隆三に、勅額下賜の内達がある。
 
○同年六月二十六日、文部省宗教局長・西山政猪より日蓮宗管長・酒井日愼宛に勅額下賜(かし)が伝えられる。日蓮宗身延派は、全国の寺院僧俗に「勅額拜戴式」の準備にかかるよう通達。
 
勅額降下の決定の知らせに欣喜(きんき)雀躍(じゃくやく)した日蓮宗は、七月二十八日に管長名で日蓮宗僧俗に対し「諭達」を出した。その「諭達」の中に、日蓮宗の勅額降賜に対する本音が記されているので、その一部を紹介する。
 
「高祖(こうそ)の大廟(たいびょう)は、一宗唯一つありて二なく三なきもの。洵(まこと)に擧宗渇仰(かつごう)の中堅にして、無過上の靈鎮(れいちん)たり。故を以て高祖滅後幾干もなく、六老中老相議して、守塔輪番の制を定め、常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)の嚴規(げんき)を立つ。後年輪番制を常住守塔制に改めたるも、延山住持は、尚塔頭の職を以て任とす、即ち延山の廟にあらず一宗の本廟なるが故なり」
 
身延が勅額降賜の気運に乗り、祖廟(そびょう)をもって日蓮宗各派の要(かなめ)にしようとの野心がありありとうかがわれる。この日蓮宗の目論(もくろ)みに、やすやすと手を貸した日蓮正宗管長・日開なるものがいたことは、実に残念なことであった。
 
阿部日開は、身延に「立正」と書かれた「勅額」が降賜されることに反対しないばかりか、日蓮大聖人の墓が身延にある、すなわち日蓮大聖人の聖骨が身延にあることすらも「念書」まで差し出し認めたのである。

 

信心もなく、身延の策動に乗せられた日開の罪は深い

 

  • 同年九月十八日、宮内省より身延山久遠寺住職・岡田日蹄宛に「御召状」が出され、勅額拝受のため十月一日に宮内省に出頭するよう伝えられた。

 
十月一日、宮中に参内(さんだい)した日蓮宗管長・酒井日愼、身延山久遠寺住職・岡田日歸ら十数名は、「立正」の勅額(ちょくがく)を下賜(かし)された。勅額を奉持(ほうじ)して、宮城外で六千余名の日蓮宗僧俗と合流、池上本門寺まで行列をした。池上本門寺では式典が盛大におこなわれた。
 
同日午後十一時二十分と五十五分に、特別の臨時列車が東京駅を出発した。午後十一時五十五分の列車に勅額は乗せられた。この臨時列車は富士駅を経て午前三時四十分に身延駅に到着。富士駅から身延駅までの身延線各駅では、身延の檀信徒が団扇(うちわ)太鼓(だいこ)をたたき唱題し、沿線は勅額奉讃(ほうさん)一色となった。
 
翌十月二日、身延山の棲神閣(祖師堂)において式典がおこなわれ、勅額は祖師堂に据えつけられた。この十月一日、二日にわたる池上、身延での式典の模様は、当時のマスコミ各紙により大々的に報じられた。

 

池上本門寺の山門を通過する行列
池上本門寺の山門を通過する行列

 

身延への臨時列車の車中
身延への臨時列車の車中

 

身延山久遠寺の三門に到着した一行
身延山久遠寺の三門に到着した一行

 
宗祖日蓮大聖人六百五十遠忌を彩る国家レベルの行事として、身延山久遠寺への勅額降賜はおこなわれたのである。一方、富士大石寺における六百五十遠忌は、地元消防団の協力による細々としたものであった。
 
勅額降賜は、日蓮宗が天皇の威光をもって祖廟(そびょう)中心主義を打ち固めようとした一大イベントだったのだ。
 
ここまで勅額降賜をめぐる日蓮宗の動きを詳述してきたのは、勅額降賜が祖廟中心主義をもって日蓮宗各派を束ねようとする日蓮宗身延派の政策によりおこなわれてきたことを、事実経過の上で確認するためであった。
 
すると、この日蓮宗身延派の策動に乗せられ、信仰信念もなく安易に同調してしまった第六十世日開の罪の深さが判然。明らかな謗法与同であり、ひいては墓輪番さえもないがしろにした五老僧の罪を曖昧にすることにつながる。
 
日開は、身延山久遠寺には御聖骨もなければ御廟(ごびょう)もなし、御廟なき所に勅額は無用と主張すべきだった。身延山久遠寺では、「祖廟」について次のように説明している。
 
「遺言にしたがって建立された日蓮聖人の廟墓(びょうぼ)で、塔中に入滅時に建立された五輪の墓を収め、地下の龕室(がんしつ)に御霊骨を奉安(ほうあん)する。祖師の廟墓なれば祖廟と称し、恋慕(れんぼ)渇仰(かつごう)の宗徒の参詣、日夜にたえない」(『身征山久遠寺』身延山久遠寺発行)
 
日蓮宗が「祖廟」を「廟墓」とも称し、「御霊骨を奉安する」としているかぎり、その「御廟」の所在を身延山久遠寺であると公に認め、文部大臣宛に「念書」を提出した日開の行為が、開祖日興上人に容認されるはずはない。
 
日淳上人の「祖廟中心主義の論を破す」(『日淳上人全集』下巻所収)の一部を抜粋(ばっすい)紹介する。この日淳上人の文を一読すれば、日開の犯した「念書」の過ちも歴然とする。

 

身延の祖廟に掲げられた「立正」の勅額

身延の祖廟に掲げられた「立正」の勅額

 
「世上に於て日蓮大聖人は身延山に御住居遊ばされ、久遠寺を建立し給ひ、尚墓所をば身延の沢に建つべしと仰せられてをるから大聖人御棲神(せいしん)の地は身延山であるとして日蓮門下に於ては身延山を中心としなければならぬといふ説がある。此の説は身延山が大聖人の御旧蹟(きゅうせき)であるといふことから一般世人の耳に入りやすく近来稍々(やや)もすると此説に雷同するもののあるのを散見する。
 
此等の説は一見人情の然らしむるところであつて深く問題視するには当らぬと考へられるが若し一歩立ち入つて考へるならば大聖人の教義の混濁は此処に原因するのであつて厳に批判して此の説を根絶しなくてはならない。何故かなれば身延山を旧蹟として尊重するものはその山に於ける混濁(こんだく)した本尊と教義とを許容し賛同するものであつてその事が大聖人に違背し奉り謗法の第一歩となるからである」
 
すなわち日淳上人の論に随えば、日開は身延を「祖廟」と認め、「大聖人に違背し奉り謗法の第一歩」を踏んだということになる。
 
この日蓮宗身延派が勅額降賜の「栄」に浴したことについて、日蓮正宗側はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。
 
日蓮正宗機関誌『大日蓮』などには、勅額についての記述はない。「念書」提出の事実についても秘しているようだ。末寺である妙光寺の『妙の光』という新聞に、関連する記述をわずかに認めることができるので、その全文を紹介しよう。
 
「單稱(たんしょう)日蓮宗の本山身延山へ、勅額が下ることになり、關係者が準備協議中のこと、宗門が大きいが故に、そして社会的に活動して居るが故に、この有難い御沙汰(さた)を身延派が拜受(はいじゅ)することは、大聖の正統を傳(つた)へ、教義の眞正を誇る本宗僧俗として三考を要する事柄(ことがら)と思ひます」(昭和六年六月十六日号)
 
身延に勅額が降賜されたことに対する悔しさをうかがうことができる。だが、末寺数五十程度の弱小教団である日蓮正宗としては、身延に対抗しても一笑(いっしょう)に付される程度の存在でしかなかった。
 
それにしても、自派の管長である阿部日開が「念書」を提出したことが、身延への勅額降賜の一助となったことは、この記事の執筆・者はおそらく知らなかったのではあるまいか。
 
よくよく考えてみると、阿部日開の「念書」提出は、宗開両祖に対し汚物(おぶつ)を投げつけるようなものであり、すべての仏弟子に対する裏切りである。
 
いったい日開は、日興上人が一大決心をもっておこなわれた身延離山を、どのように受けとめていたのだろうか。なぜ、邪宗日蓮宗にこれほどまでに媚びへつらおうとするのか。そもそも、大石寺に伝わる「御聖骨」を何と思っていたのだろうか。
 
それはさておき、日開が身延にへつらって「念書」を提出したことで、日蓮正宗僧俗はこぞって恥辱(ちじょく)を受けたも同然となった。この恥をそそいだのは、創価学会である。
 
戦後、戸田会長の指揮の下に果敢な折伏戦を展開していた創価学会は、その教線を北海道小樽まで伸ばしていた。この小樽で、創価学会と日蓮宗身延派との法論がおこなわれたのは、昭和三十年三月十一日のことである。
 
このとき、創価学会は邪宗である日蓮宗身延派を徹底的に論破し、法論に勝利したのだ。
 
ここに初めて、室町、江戸を経て昭和の時代までつづいた、大石寺に対する身延山久遠寺の優位を打ち崩すことができたのである。

 

 

身延の邪義を破した小樽法論(右端が当時、司会をした池田名誉会長)
身延の邪義を破した小樽法論(右端が当時、司会をした池田名誉会長)

 

“法滅の妖怪”・第六十世阿部日開

大正から昭和初期にかけての宗内抗争の元凶(げんきょう)が日開

日顕の父・総本山第六十世日開は、大正から昭和初期にかけての日蓮正宗における、猊座をめぐる内部抗争の元凶(げんきょう)であった。第一章で記したように、総本山第五十八世日柱上人を引きずり降ろしたクーデターの黒幕は、日開である。
 
大正十四年、阿部法運は宗門ナンバー2の「総務」の地位にあったが、日柱上人によって辞職させられ、僧階も「能化(のうけ)」より降ろされてしまった。「能化」から降格させられると、法主になる資格がなくなる。阿部法運の失望は、大変なものがあったろう。また、日柱上人に対する恨みも、余人の想像を超えるものがあったのではないだろうか。
 
阿部法運が総務職を降ろされた表だっての理由は、宗教専門紙『中外日報』(大正十四年六月二十一日付)に掲載された、駒沢大学教授・清水梁山の談話に反論したことによる。清水梁山は当時、「日蓮宗界の学匠(がくしょう)」とされていた人物で、身延派の僧籍(そうせき)にもあったようだ。
 
この清水は、戒壇の大御本尊を否定する目的で、「祖師の日蓮聖人には、特にこれが本尊だと言って拝(おが)む可(べ)きものは何も無かったのである」と、日興門流としては決して認めがたい邪説を述べている。
 
阿部法運が、その清水の弁に反論することは至極(しごく)当然のことだったが、その反論の内容が、かえって清水らの好餌(こうじ)にされてしまったのである。
 
阿部法運は、日蓮正宗機関誌『大日蓮』(大正十四年七月号)に、「清水梁山氏を誡(いまし)む」と題する文を六ページにわたり掲載した。これが日蓮正宗内で問題にされることとなったのだ。

 

問題にされた箇所の一部を紹介する。
 
「故に宗祖の玉はく佐渡已前(いぜん)の法門は但(た)だ佛(ほとけ)の爾前經と思召(おぼしめ)せ云云との玉はれて佐渡已前に於(おい)ては。専ら只だ禪(ぜん)念佛等を破し玉ひ。眞言(天台眞言を含む)等には及び給はぬ」
 
「宗祖大聖人佐渡御流罪中は尚(なお)身業(しんごう)讀誦(どくじゅ)中にあらせらるゝを以て。破顯(はけん)の法門未だ充分に顯(あら)はされ給はぬ。
 
從つて未だ三大秘法の名目すら御示しなされてない」
 
日蓮大聖人が佐渡以前において、真言宗への破折をされていることは日蓮門下の常識である。また、竜ノ口の発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)後の佐渡期を「尚身業讀誦中」であるとして、重要法門を明かさなかったという論拠にすることは、はなはだしい妖説(ようせつ)といえる。
 
阿部法運の書いた「清水梁山氏を誡(いまし)む」という文は、そのほかにも随所に珍論、奇論が述べられている。この阿部法運の論は教義に違背(いはい)しているばかりか、他の宗派から物笑いの種とされたのだった。日柱上人が、阿部法運を「能化」から降格されたのも無理からぬことであった。
 
だが、阿部法運を「総務」の職からはずした理由は、法運が、この清水梁山の邪説に反論するにあたり、珍奇(ちんき)な教義違背の論を立てたということだけではなかった。
 
阿部法運は、日蓮正宗ナンバー2の高僧でありながら、行躰(ぎょうたい)はすこぶる悪かった。阿部法運が総務職から降ろされた理由は、表だっては清水との教義論争に異説をもって臨んだことになっているが、裏には行躰の乱れがあったのである。表の理由は単に口実で、行躰の乱れこそ、職を解かれ僧階を降ろされた真実の理由と思われる。
 
それを象徴するのが、阿部法運にまつわる隠し子の問題だ。阿部法運は、総務職にあるとき、隠し子をつくっている。大正十一年、法運四十九歳、相手の女性が二十六歳のときである。僧でありながら女犯(にょぼん)をした阿部法運は、実に破戒(はかい)僧だったのだ。
 
阿部法運は女犯をし、二十三歳も年下の女性に子供を生ませたが、女犯の罪が発覚することを恐れ、生まれた子供を認知もしなかった。この阿部法運が、隠し子をつくった六年後、権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)の末、日蓮正宗総本山第六十世として登座、日開と名乗るのである。
 
日興上人御遺誡置文に曰く。
 
「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁(じん)に於ては設い一旦の妖犯(ようはん)有りと雖(いえど)も衆徒に差置く可き事」
 
阿部法運の行状(ぎょうじょう)は、開山上人の御遺誡をも踏みにじるものであった。宗開両祖以来の正統嫡々(ちゃくちゃく)の血脈相承を受けたと高言する“法主”が、女犯(にょぼん)をし隠し子をもうけている破戒僧であったとは、御本仏をあざむくものである。

 
まさに、時は末法、“法主”は“法滅の妖怪”とは、このことである。
 
ちなみに阿部法運(明治六年八月二士二日生)は、十五歳当時(明治二十一年)に結婚し、一年余で離婚した。結婚した直後の明治二十二年七月に、阿部法運は得度した。得度の背景には、痴情(ちじょう)のもつれがあるとされる。阿部法運は明治二十三年、十六歳のときに離婚している。したがって、出家後まもなく阿部法運は「独身」となったのである。
 
日開は猊座に登るやすぐさま信夫(日顕)を認知した
 
話をもとにもどそう。阿部法運は女犯の破戒僧であり、問責(もんせき)を受けて当たり前の身でありながら、日柱上人の善導(ぜんどう)を逆恨(さかうら)みし、日柱上人を猊座より引きずり降ろすことを、すぐさま画策(かくさく)し始めた。
 
過ちを指摘されるや逆恨みし、逆上して攻撃をする。親の阿部法運も、子の日顕もよく似た習性を持っている。
 
阿部法運が失脚させられたのは大正十四年七月だが、その直後に日蓮正宗宗会の多数派工作を開始し、四カ月後の十一月には衆を頼んで、いったんは日柱上人にを表明させ、翌年にはクーデターを完了し、日柱上人を追放する。
 
阿部法運は、行躰(ぎょうたい)はすこぶる悪いが、密謀と政治手腕はなかなかのものがあった。なお、当時の日蓮正宗における派閥(法類と血族の混淆(こんこう))間の争いは、今日の比ではなく熾烈(しれつ)をきわめていた。猊座をめぐって、脅迫や金のやりとりが横行するほどに腐敗していたのだ。
 
阿部は、いったんは日亨上人に猊座を継がせるが、権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)と腐敗選挙の末に、昭和三年六月、ついに“法主”となる。阿部日開は、狙座に登った直後、それまで認知していなかった我が子、信夫を認知した。信夫が生まれたのは大正十一年十二月十九日。認知したのは昭和三年六月二十七日で、信夫が満五歳のときだった。信夫は、得度して信雄を名乗り、のちに猊座に登り日顕となる。
 
阿部日開が、信夫を産ませたのは、常泉寺に当時勤めていた彦坂スマという女性だった。日顕は、昭和五十四年八月八日におこなわれた日達上人の第初七日忌御題目講にあたり、次のように当時を追憶(ついおく)している。
 
「猊下(注=日達上人)の履歴(りれき)を拝しますと、最初に得度の前にお寺に上がっておられたのが、東京の常泉寺で、それから二・三年して日正上人の徒弟として出家得度を遊ばされて、その後でまたもう一辺常泉寺へおいでになって、在勤されているように思われますが、その時に丁度私の母親も、開師のおそばにおりましたので、常泉寺のまあ台所の方で働いておった訳で(以下略)」(『大日蓮』昭和五十四年九月号)
 
日達上人が、所化で常泉寺に在勤したのは大正十一年のことである。日顕の追憶によれば、この大正十一年の時点で、彦坂スマは「常泉寺のまあ台所の方で働いておった」ということになる。
 
日顕が生まれたのは同年十二月だから、日開(当時四十九歳)は台所で働いていたうら若い女性(当時二十五歳)と男女の関係を持ったことになる。明らかに女犯(にょぼん)であり、日開は破戒僧ということになる。
 
なお、彦坂スマの母、彦坂ぶんは正規の結婚は数カ月で、離婚後、独身のままでスマともう一人の男の子を産んでいる。男の子は、スマにとっては異父弟(いふてい)にあたる。異父弟は父に認知されているが、スマは誰からも認知されていない。

 
スマと日開の間に生まれ“法主”となった日顕         
スマと日開の間に生まれ“法主”となった日顕

 

彦坂スマ(出家して妙修と名乗る)と母ぶん(左)
彦坂スマ(出家して妙修と名乗る)と母ぶん(左)
 

彦坂スマは、二十歳のときに日蓮正宗に帰依したようで、それまでには天理教、キリスト教、国柱会などの宗教遍歴(へんれき)がある。彦坂スマは、生まれた境遇によるのだろうか、十代後半より宗教に興味を持っていたようだ。
 
彦坂スマが常泉寺に勤め始めたのは大正十年、二十四歳のときだった。このとき、阿部法運は四十八歳である。

 

日與上人の御遺誡を守ろうとする僧など日蓮正宗には一人もいなかった
 
この阿部法運が住職をする常泉寺の当時の様子を伝える文書がある。昭和二年十二月、阿部法運と管長選挙を争った有元廣賀派が、昭和三年三月十三日付で「聲明書(せいめいしょ)」を出している。その中に、阿部法運の行状に関して次のような記述をし、阿部の管長就任(しゅうにん)に反対している。
 
「勿論(もちろん)二三十年前の本宗ならば法義に暗い未熟者には、能化の位を授け優等寺院には住せしめて置ないのである。然に阿部師はテンゼンとして常泉寺に住し、妻子奴僕(ぬぼく)の愛惑(あいわく)に囚はれてゐるさへ不思議なるに、宗開兩祖の御顔に泥を塗り、知らざる眞似して管長法主たらんと劣惡なる運動したのである。之で何で宗旨教理の疑義を裁定することが出來ませうか、一宗僧俗の監督が届きませうか、我等は常泉寺々庭のビンランを見、阿部師の不學未熟に鑑(かんが)みて、之は出來ぬ相談である。宗門の不祥事(ふしょうじ)であると思ふのであります」
 
有元派の「聲明書(せいめいしょ)」は、まず阿部日開が「法義に暗い未熟者」であるとなじっている。そして、行躰(ぎょうたい)の悪さも槍玉(やりだま)にあげている。その表現たるや激越(げきえつ)である。
 
「妻子奴僕(ぬぼく)の愛惑(あいわく)に囚(とら)はれてゐる」
 
昭和三年三月の時点では、常泉寺にいる彦坂スマや信夫は、その夫婦親子関係の事実を追認され、宗内でも日開の妻子として実質的に認められる雰囲気にあったようだ。
 
しかし、ここでもっとも問題にされなければならないのは、「妻子」につづく「奴僕」の二字である。どう読んでも、日開が「妻子」のみならず、「奴僕」との「愛惑に囚はれてゐる」と、この「聲明書」は記しているのだ。
 
日開は、子供を産ませた彦坂スマ以外に、常泉寺女性従業員の誰かと男女の関係にあったことになる。それが宗内の噂となり相当、顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようだ。
 
有元派は、日開の愛欲に溺(おぼ)れた常泉寺での生活が「宗開兩祖の御顔に泥を塗」る行為であると批判しているのだ。そして、日開がみずからの行状(ぎょうじょう)の悪さを隠して管長法主になろうと運動をしていると、口をきわめて非を鳴らしている。
 
有元派は、「常泉寺々庭のビンラン」を問題にし、阿部が猊座に登ることは、「宗門の不祥事(ふしょうじ)である」とまで断じているのだ。いったい阿部法運が住職をしていた常泉寺は、どのようなありさまだったのだろうか。
 
有元派は、文書によって公然と批判しているのだから、根拠のないことではなかっただろう。繰り返すようだが、この「聲明書」から当時の状況を察すると、阿部法運は、常泉寺内において、複数の女性と関係を持っていた。その一人には子供(日顕)を産ませた。彦坂スマと、その間にできた子を、いつからともなく周囲も妻子と認めるまでになっていったようである。
 
日顕を産んだ彦坂スマは、昭和十年五月に得道(とくどう)し、尼となり「妙修」を名乗った。彦坂スマが阿部日開の籍に入るのは、昭和十三年二月十日のことである。
 
邪宗においても、尼はいまだに独身を不可欠の要件としている。妙修尼は日蓮正宗最後の尼だったが、婚姻をなした。それも、“法主”との婚姻である。
 
本当の意味での比丘、比丘尼は、その当時の日蓮正宗には、まったくといっていいほど存在していなかったが、まさに尼と“法主”の結婚は、日蓮正宗において独身僧、独身尼がいなくなってしまったことを象徴的に物語る事件だった。それ以降、日蓮正宗において、独身が僧の前提であるなどと考える者もいなくなった。

 

前列左端が彦坂スマ(妙修)、右端が日開
前列左端が彦坂スマ(妙修)、右端が日開

 
日興上人の御遺誡置文に曰く。
 
「先師の如く予が化儀(けぎ)も聖僧為(た)る可(べ)し」
 
日開と妙修は、“法主”あるいは最後の尼であるにもかかわらず、開祖のこの御遺誡置文を、二人して宗門公衆の面前であからさまに踏みにじってみせたということになる。
 
日開や妙修尼の悪業の影響だろうか、今日の日蓮正宗に巣くう悪比丘らは、日興上人の御遺誡置文を真摯(しんし)に受けとめ、遵守(じゅんしゅ)していこうなどという気風はまったくない。年月とともに、御遺誡置文は空文化されてしまつたのである。
 
同じく御遺誡置文に曰く。
 
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」
 
日蓮正宗の僧および寺族は、とうの昔に日興上人より破門されてしまっている。その破門されてしかるべき偽(いつわ)りの僧形(そうぎょう)をなした者たちが、戒壇の大御本尊を擁して仏子らを破門にするというのだから、まさに、世は法滅の時である。

 

日開が住職をしていた頃の常泉寺と彦坂スマの住んでいた所
日開が住職をしていた頃の常泉寺と彦坂スマの住んでいた所
 

広宣流布とは無縁の存在だった宗門

第三世日目上人滅後は内紛と抗争、分裂の連続だった

 
大石寺は“邪宗・日蓮宗”としての歴史は長いが、“正宗”としての歴史は意外に短い。大石寺が邪宗・本門宗から分離・独立して「日蓮宗富士派」となったのが明治三十三年九月のことで、いまから九十三年前の出来事である。
 
また「日蓮正宗」と改称(かいしょう)したのが明治四十五年六月で、今年でたかだか八十一年に過ぎない。いままで言われてきた「富士の清流七百年」という偽りの謳(うた)い文句、脚色された宗門史にだまされてはならない。一教団の歴史といえども、その教団が勝手に改変したり、創作してよいものではない。
 
日顕宗の禿人(とくにん)たちが“みずからの教団史を、どのように脚色しようと勝手である”というなら厳しく指弾されるべきである。真実のところ、日蓮正宗の歴史は七百年ではなく、日蓮宗富士派の時期も含めて九十三年なのだ。
 
日顕宗の輩は「学会は破門されて新興宗教になった」などと主張しているが、それならば「日蓮正宗は明治後期に邪宗・本門宗から離脱した新興宗教」と言わねばならない。
 
学会の六十余年にわたる慈折(じしゃく)広布の燦然(さんぜん)と輝く歴史に比べ、八十年ないし九十年余の宗門史は、邪宗・日蓮宗時代からの残映(ざんえい)を色濃くひきずり、広宣流布とは無縁の存在ではなかったか。
 
以下、日蓮正宗の創作された歴史、宗門による仏法破壊の足跡および創価学会出現による日蓮大聖人の正法の躍動(やくどう)と復興の歩みを概括(がいかつ)してみる。
 
日興上人の滅後は日目上人、日道上人らによって大聖人の仏法が護持(ごじ)されてきたとされているが、日興上人には本六(日目上人のほか日華日秀、日禅、日仙、日乗)と新六(日道上人に加えて日代、日澄、日妙、日郷、日助)をはじめとする多くの弟子たちがいた。
 
彼らはそれぞれ各地で布教し、なかには寺院を建立した者もいる。大石寺、北山本門寺をはじめとして、日興上人やその弟子らを開祖(かいそ)とする各寺院の総体的な呼称を日興門流(富士門流)と呼ぶが、そのたどってきた道は、内紛と抗争と分裂の連続であり、大聖人、日興上人の清流は、あるときは分断され、また、あるときは謗法の濁流(だくりゅう)と合流し、富士の清流は途絶えていたのだ。
 
つまり、日目上人が美濃垂井(たるい)で遷化(せんげ)された直後、日道上人と日郷との問で起きた土地の所有権をめぐる確執(かくしつ)をはじめ、本六の一人である日仙と新六の一人・日代との方便品読不読の問答による日代の重須からの追放などに見られるように、日興門流、富士門流といっても、内部では確執、反目(はんもく)、対立、抗争、分裂が相次ぎ、いわゆる総本山―木寺というような秩序ある全国的な教団ではなく、清濁(せいだく)入り交じった分派の連合体ともいうべき弱小教団であった。
 
江戸時代にも、富士門流・大石寺は幕府から単独の教団としては認められてはいなかった。日蓮宗の勝劣(しょうれつ)派に属する少数派とみなされ、八品派、真門流、陣門流とともに勝劣派を形成していた。
 
徳川幕府によって寺院の本末帳が寛永九~十(一六一二二~一六三三)年に作成され、現存する本末帳が内閣文庫に保存されている。
 
これは寛永期における唯一の史料だが、その内訳のうち日蓮宗系を見ると、寛永十年一月の日付で甲州身延山久遠寺法花宗諸寺目録、妙泉寺寺領書付、本隆寺之帳があり、以下、京本国寺、京都寂光寺、京本満寺、京頂妙寺、京妙満寺、上京妙覚寺、洛陽本能寺、洛陽本禅寺、京妙顕寺、京妙伝寺、洛陽二条寺町要法寺、京立本寺、妙蓮寺(年号不記)の各末寺帳はあるが、ここには大石寺の末寺帳はない。幕府の通達の不徹底か大石寺の怠慢か、その点はわからない。
 
この末寺帳が、ほぼ完全な形でつくられたのは天明六(一七三六)年以降のことであった。この原本は現存していないが、写本は水戸市彰考館文庫に保存されている。
 
この天明六年の本末帳には確かに「大石寺派寺院本末帳」とあるが、それは小泉久遠寺、北山本門寺、西山本門寺、光長寺などとともに「法花宗勝劣派」として記載されている。江戸時代の大石寺は単独の教団ではなく、まぎれもなく「法花宗勝劣派」に属する寺院だったのだ。
 
話が本筋から少々外れるので簡潔に述べるが、当時は「“法主(住職)”」の名称は「富十大石寺○○嗣法(しほう)」となっていた。だが嗣法(法をつぐ)とは名ばかりで、たとえば、浅間(せんげん)神社に安置する御本尊を書写した、とんでもない謗法をおこなった“法主”もいた。三十三世日元(にちげん)である。
 
浅間神社といえば、古くからの富士信仰をもとに成立し、祭神は木花(このはな)開耶(さくや)姫(ひめ)命(のみこと)である。富士宮市東井出の浅間神社には宝暦十四(一七六四)年の、脇書(わきがき)に「本地久遠実成(じつじょう)釋尊(しゃくそん)垂迹(すいじゃく)富士浅間宮」等と認められた御本尊があるが、それには「富士大石寺三十三嗣法日元」との書き判がある。
 
明治になっても邪宗白蓮宗の同門として宗派を形成していた
 
さらに明治元年、日蓮教団は明治政府によって一致派と勝劣派の二派に統合され、次いで同九年に勝劣派は興門派、妙満寺派、本成寺派、八品派、本隆寺派の五派に分かれた。
 
このとき、大石寺は日蓮宗興門派に加わり、北山本門寺、西山本門寺、小泉の久遠寺、下条・妙蓮寺の富士五山ならびに保田・妙本寺、京都の要法寺、伊豆・実成寺とともに興門派の八本山の一つとなった。ここでも、いわゆる「邪宗・日蓮宗」である興門派の「同門」として宗派を形成していたのである。
 
興門派管長は、各本山の持ち回りであった。『富士年表』(富士学林発行)によると、興門派の歴代管長は次のようになっている。
 
〈就任年月日〉〈管長〉
 
一八七六年二月二十三日要法寺釈日貫(臨時)
 
一八七六年四月六日要法寺釈日貫
 
一八七九年五月三十日伊豆実成寺大井日完
 
一八八〇年五月十四日富士妙蓮寺堀日善
 
一八八一年五月十六日大石寺日布
 
一八八二年四月二十七日西山本門寺寿日顕
 
一八八三年九月十一日小泉久遠寺富士日霊
 
一八八四年十二月北山本門寺天野日観
 
一八八五年十一月十三日西山本門寺高橋日恩
 
一八八七年四月二十九日北山本門寺天野日観
 
一八八八年四月十三日保田妙本寺富士日勧
 
一八八八年十一月五日小泉久遠寺富士日霊
 
一八八九年四月六日富士妙蓮寺稲葉日穏
 
一八九〇年四月八日伊豆実成寺大井日住
 
一八九一年四月七日大石寺日応
 
一八九二年四月七目京都要法寺坂本日珠
 
一八九三年四月二十四日小泉久遠寺妙高日海
 
一八九四年五月一日西山本門寺寿日顗
 
一八九五年八月二十一日小泉久遠寺富士日霊
 
一八九六年六月十日北山本門寺芦名日善
 
一八九七年四月八日富士妙蓮寺稲葉日穏
 
一八九八年四月二日伊豆実成寺大井日住

 

この表で明らかなように、宗門・大石寺は長い間“謗法の管長”の支配下にあったのである。また、大石寺の日布、日応(にちおう)が管長であったときも“謗法の教団”を管理していながら、“善導(ぜんどう)も“破折(はしゃく)”もしなかった。
 
ただ、日応が明治二十三年、管長を退いた後に驥尾日守著の末法観心論について書面で興門派管長を難詰(なんきつ)したことが、当時の機関誌『法王』に掲載(けいさい)されている程度である。
 
このように指摘すると、日顕宗の狡猾(こうかつ)な坊主どもは多分、悪知恵を働かせて、日胤(にちいん)上人、日応らが再三にわたって独立願書などを提出するなど分離独立の運動を試みたが当局が認めなかった等々と弁明するだろう。
 
しかし、いかに言葉巧みに弁解しようとも、長い間「邪宗・日蓮宗」の輩と同門の「勝劣派」であり「興門派」であったという史実は変えられまい。
 
大正年間に、当時の日蓮正宗管長・阿部日正が邪宗・日蓮宗各派の管長と並んで喜んで記念撮影におさまり、さらに勤行まで一緒にしていた事実が発覚。“法統(ほうとう)連綿(れんめん)七百年”という伝説を信じていた純真な信徒は驚愕し、仰天した。
 
ところが、妙観講をはじめとする法華講員らは開き直って、「一緒に写真を撮ったからといって何が悪いか」「他宗の僧と並んで勤行しても、手を合わせていなければ謗法ではない」などと訳のわからない屁理屈を言っているようだが、なるほど宗史を見てみると、“記念撮影も勤行も、かつての同類・仲間との付き合いであったのか”と、妙に納得してしまう。
 
また、宗門は戦時中、すすんで神札を受けた。その言い訳として、現在の日蓮正宗時局協議会の坊主どもが、日蓮正宗を邪宗・日蓮宗と統合しようとする軍部の策謀から大御本尊と血脈を守るため「やむなくおこなった妥協が『神札』を受けることであった」(日蓮正宗時局協議会文書「日蓮正宗と戦争責任」より)などと愚にもつかない弁解をしていたが、これがいかにゴマカシの論法に過ぎないかがわかる。
 
大石寺は、もともと邪宗と同一の宗派に属し、明治三十三年までは邪宗教団を含む興門派の管理下に置かれていたではないか。
 
この興門派は、明治三十二年に「本門宗」と改称した。このときも大石寺は「本門宗」の一派となった。翌三十三年九月になって、はじめて大石寺のみが、この本門宗より離脱して「日蓮宗富十派」と称し、独立した宗門となったのである。
 
明治三十三年といえば、戸田城聖・創価学会第二代会長の誕生の年である。「日蓮正宗」の真実の歴史は、ここに始まるといっていいだろう。それまでは「邪宗・日蓮宗」としての、「謗法と同座」しての宗門史なのである。“富士の清流”など、どこに流れていたというのか。

 

明治37年、内務省の調査による日蓮宗各派の実勢

明治37年、内務省の調査による日蓮宗各派の実勢

(下段は女性)

 
日蓮宗各派と比べても弱小教団に週者なかった宗門
 
大石寺は長い間、“謗法の管長”の支配下に置かれていた。ちなみに、明治二十二年、日応が第五十六世“法主”として登座した際の興門派の辞令(じれい)は「駿河國富士郡上野村本山大石寺住職申付大石日応」(「興門大教院録事」より)となっている。いまで言うところの「法主」も、当時は“謗法の管長”によって「住職申付」られていたのだ。
 
それでは、大石寺が「日蓮宗富士派」と称して独立した当時、寺院、住職、信徒はどうだったか。寺院は八十七、そのうち住職は四十七人、檀信徒は約五万八千人程度であった。
 
これを日蓮宗各派の教勢(きょうせい)と比較してみよう。明治三十七年、内務省の調査によると前ページの表のとおりである。
 
この表で見ると富士派(現在の日蓮正宗)が、いかに弱小教団であったかが、ひと目でわかる。明治四十五年六月に富士派から「日蓮正宗」へと改称するわけだが、本来ならば「日蓮小宗」とすべきではなかったか。
 
否(いな)、いまからでも遅くはない。一千万信徒を破門にして一挙に明治時代と同じ程度の弱小教団になったのだから、「日蓮小宗」と改称すべきだと勧告しておく。それとも、この際、消えゆく将来の姿を見越して「日蓮消宗」とでも改称するのが妥当か。
 
日達上人は明治の中頃、東京には常泉寺、妙縁寺、常在寺、妙光寺の四カ寺しかなかったと言っている。この当時の、上野村の山寺・大石寺に登山する人などほとんどいなかった。
 
創価学会の登山会によって未曾有(みぞう)の七千万人が参詣したが、明治の頃は日顕流の表現で言うならば「チョボチョボ」にも満たない数であった。
 
たとえば、明治二十四年の虫払いには「六十有餘(ゆうよ)人々態々(わざわざ)登山せられたる深信感ずべし」(『布教會報』第貮拾四號)とある。二大行事の一つである御虫払いに、わずか六十数人が登山すれば、特筆すべき出来事だったのだ。
 
また明治二十六年の御寶物虫拂會には「陸續(りくぞく)登山せり其遠隔(えんかく)の地より登山せる人は東京常泉寺住職加藤氏外一名品川妙光寺住職富士本氏其他下山健治氏外三名……最も盛大なる法會(ほうえ)にてありき」(『法王』第四拾七號)と記録されている。合計しても三十人そこそこの参加者なのに「最も盛大なる法會にてありき」なのである。
 
創価学会の出現以前の総本山が、いかに衰微(すいび)していたかがわかる。このとき、「登山講」の設立などを考える者もあったが、満足な成果は望めなかったようだ。
 
貧しさの故か「富士有志親睦(しんぼく)道話會」の二百二十六名の人々に親睦(しんぼく)会の会場を提供し、御開扉の後、酒宴(しゅえん)を設(もう)けたり(『法王』第五拾五號)、日布が宗教学者の姉崎博士や国柱会の山川智応、長瀧智大らに御開扉をして、「佛祖三寶(さんぽう)も御滿悦(まんえつ)のことゝ存ずる」と挨拶したり(『大日蓮』昭和十年三月号)、お金さえもらえば謗法の者に対する御開扉さえ何とも思っていなかったようだ。
 
横浜在留のアメリカ人に大石寺の古器物を見せて拝観料二円をもらった(『法王』第五拾五號)のも明治二十七年のことである。
 
後年、日亨上人が戸田会長に対して「戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ」と述べた理由がうなづける。この「戸田さん」というのは「創価学会」と同義であろう。
 

過去の歴史も謗法
現在も、未来もまた謗法

 
この微弱(びじゃく)で貧しく、お金のためなら謗法を犯すことも厭(いと)わぬ教団が明治三十三年、戸田会長の誕生を希求(ききゅう)していたかのように、「日蓮宗富士派」としてやっと独立するのである。だが、独立した教団になったからといって、“濁流(だくりゅう)”が急に“清流”に変わったわけではない。
 
一例を挙げると、明治三十七年の日露開戦に際して、時の法主・日応は「……義戦を起こし給ふ」等々と、率先(そっせん)して戦争促進の「訓諭(くんゆ)」(二月十五日付)を出したり、「皇威(こうい)宣揚(せんよう)征露(せいろ)戦勝(せんしょう)祈禱(きとう)會(え)」などをおこなった。
 
これに加えて、信徒の浄財(じょうざい)を軍資金として献納(けんのう)したばかりか「戦勝守護の御本尊」一万幅を配布するという正法弘通の路線からの大脱線ぶりだった。「日蓮宗富士派」というのは“清流”どころか“泥沼”の様相を呈(てい)していたのである。そして、同四十五年六月に「日蓮正宗」と公称したが、この頃から宗門は謗法、教義逸脱(いつだつ)の最盛期へと向かう。
 
創刊したばかりの『大日蓮』には念仏、親鸞を賛嘆する論文が掲載(第一巻第二号)されたのをはじめとして、『大日蓮』『白蓮華』などの機関誌の広告欄には「日蓮上人の御影」「日蓮上人御真筆御本尊織込純金欄」「祈禱秘要録」「説教百座要集」「木魚」の宣伝文が氾濫(はんらん)、さらには浄土真宗、大谷派議制局、本派本願寺事務所が推薦する薬の広告などが数多く見受けられる。
 
無数ある謗法、教義逸脱のなかには打算的な利潤追求を目的とするものが目立つが、なかには当時の時代社会に対応しなければならない一面があったことも理解できないわけではない。だが、そうした条件を考慮しても、なおかつ、容認できない謗法が多すぎる。
 
牧口初代会長、戸田第二代会長が入信したのは昭和三年。謗法を糾弾(きゅうだん)して大聖人の仏法を復興させ、広宣流布していこうとの勇気ある決断であった。
 
この年には淫乱(いんらん)坊主・阿部日開が策略をめぐらして猊座を盗み取り、その子供である天魔の落とし子・日顕(当時は彦坂信夫、昭和三年に信雄と変更。母は彦坂スマ)が得度した。
 
広宣流布の大指導者・池田名誉会長が誕生したのは、この年の一月二日であった。
 
日顕はつまらないことにはすぐに不思議の因縁を感じるようだが、戸田会長の誕生と日蓮宗富士派の独立、池田名誉会長の出生と法滅の妖怪・日開の登座、その子である魔僧・口顕の得度という不思議な符合(ふごう)、峻厳(しゅんげん)な事実には、何も感じないのだろうか。
 
牧口初代会長、戸田第二代会長は、旧来の法華講では広宣流布はできないと判断し、昭和五年に創価教育学会を創設した。
 
以来六十余年、軍部、国家権力の弾圧や競い起こるさまざまな広布妨害の策謀のなか、歴代会長を軸とする創価学会の不惜身命(ふしゃくしんみょう)の戦いによって、広宣流布の大波は世界へと拡大され、百十五力国・地域で一千万人の人々が活躍するまでに大発展を遂げた。日蓮大聖人の仏法は、ここに大復興を成し遂げ、前代未聞の隆盛をみせるまでになったのである。
 
大聖人の創価学会に対する絶大な称賛は間違いない。創価学会の正義の仏法運動は御本仏の照覧の下、さらに共感の輪を拡げながら、世界の人々に受け入れられていくことだろう。
 
それに対して、宗門は狂乱法主・日顕にひきずられて「日顕宗」に成り下がり、日亨上人の「学会がなかったら日蓮正宗はつぶれたよ」と心配した言葉が現実のものになろうとしている。
 
過去の歴史も謗法、現在も、未来もまた謗法。日蓮正宗が真に“正宗”たりえたのは、創価学会とともに歩んだ六十年間のみであった。

 

第三章 折伏精神のかけらもない売僧たち

第三章のはじめに

エセ宗教者は、民衆から膏血(こうけつ)をしぼりとる。

乞食(こじき)を三日すればやめられぬというが、その乞食は憐憫(れんびん)の情を「旦那」方にかけてもらうために、道端(みちばた)で夏は熱気と照り返しに耐え、冬は寒空の下、身を震わせ、膝(ひざ)を屈し頭を垂れ哀切(あいせつ)こもる声を出し、自尊心(じそんしん)のかけらも捨てねばならない。そして「チャリン」という音でもすれば、「おありがとうございます」と愛想(あいそ)の一つも言わねばならない。それでも三日やればやめられぬということなのだから、これに比べると坊主は一日やるとやめられぬということになる。

最上等の座布団を敷いて上座にすわり、威厳(いげん)を保って仏の話の一つもすれば、世間では地位も名誉もあるものが涙の一つも流して、三世を通暁(つうぎょう)する僧と崇(あが)める。そのうえ、酒食のもてなしを受け、帰るときには大枚が懐(ふところ)にある。これはやはり、一日やるとやめられぬ。

おまけに、国家権力が身分を保障し、下賜金(かしきん)まで渡してくれるとなおさらであろう。

出家するとき、いかに清浄(せいじょう)無垢(むく)な信仰心を抱(いだ)いていた者も、飽食(ほうしょく)と金に浸かる中で道念(どうねん)を失う。日蓮正宗の歴史を振り返るならば、なおさらその感を深くする。その堕落(だらく)と腐敗(ふはい)の歴史を経て、現在の日蓮正宗が存在するのである。

大石寺近くにある“広宣流布された村”は、その日蓮正宗の堕落と腐敗の歴史を如実に示している。“広宣流布された村”とは富士宮市半野地区のことである。この半野地区は、江戸時代に村全体が日蓮正宗妙経寺の檀徒となった。百五十世帯のうち五世帯を除いて、すべて日蓮正宗の檀徒で、現在は大石寺の塔中坊に所属している。

だが、この村の現状は“謗法の村”そのものである。江戸時代に村民がこぞって帰伏(きぶく)した妙経寺の跡地に大石寺が「御影堂」を建てたが、その「御影堂」はいま「しめなわ」がされ「金毘羅神社」になっている。

「御影堂」の中には金毘羅神社の神体が中央にあり、その左右に日蓮大聖人の御影一体、板御本尊二体(第二十七世日典上人、第五十一世日英上人筆)が安置されている。

村には「文殊堂」もある。「文殊堂」には賽銭(さいせん)箱があり、「しめなわ」もされている。安置されているのは板本尊(第六十二世日恭(にっきょう)筆)だが、祭りのときにはこの板本尊に文殊菩薩の絵像がかけられる。

この村の村民、つまり大石寺の「根檀家(ねだんか)」といわれる人たちは、大石寺の僧たちより信心を教えられていないのである。だが、御本尊は“法主”直筆(じきひつ)の常住本尊を何体も持っている。「つけ届け」(供養)の代価としてもらったものである。これらの檀徒の家には、随所に稲荷大明神、水子地蔵、その他もろもろの「神」がまつられている。

大石寺の僧は信心を教えず、葬式や法事に際し“供養”を受け取ることだけしてきた。謗法厳戒などと言えば檀家がいなくなるので、うるさいことは長年にわたり言わずにきたのである。そして、まとまった供養をすれば、常住御本尊や板本尊を渡してきた。

この大石寺周辺の実状は、大石寺の真実の歴史を物語るものである。半野地区は、葬式仏教として生業(なりわい)を立ててきた大石寺の出自(しゅつじ)を示すものであるといえる。創価学会出現前、大石寺から正法は失せていた。

法を失った多くの売僧(まいす)が、日蓮大聖人の仏法をもって乞食以下の卑(いや)しい心根(こころね)を隠し生きてきたのである。

本章には、謗施(ぼうせ)を貧り高利貸しをし、ニセ本尊である導師本尊をもって人の死への恐怖につけこみ、折りあらば本尊すら売り、平気で女犯(にょぼん)をしてきた悪比丘たちの姿が縷々(るる)とどめられている。

 

高利貸しをして民衆から搾取(さくしゅ)

僧たちの欲望と民衆蔑視(べっし)が仏法を滅ぼした

仏教が滅びるのは、僧の腐敗による。僧が民(たみ)の呻吟(しんぎん)する声を聞かず、悲しみを共にせず、ただ民を蔑(さげす)み享楽(きょうらく)にふけるとき、仏教は滅びる。

なぜ、釈尊誕生の地であるインドで仏教が滅びたのか。

理由は、僧が慈悲の心で民衆に接することをせず、収奪(しゅうだつ)の対象として民衆に接したことによる。僧は宗教的権威を振りかざして民衆に臨(のぞ)み、畏怖の念を抱かせ、収奪をほしいままにした。インドで仏教が滅亡した背景には、欲望に支配された僧たちの心の腐敗がある。

さらに、僧伽(さんが)(教団)が経済的基盤を確固たるものにしたことが、僧の腐敗を大いに助長させたともいえる。

釈尊滅後、インドにおける仏教教団はアショーカ王などの外護(げご)により教団財産(土地、金、建物)を増大させていった。財産は、土地からの利益と、貸し付けの利子で太っていった。

財産が増えるにつれ、僧は托鉢(たくはつ)をする必要もなくなり、次第に民衆から遊離(ゆうり)した存在となっていく。ついには、衆生済度(さいど)のために法を説いた釈尊の精神など、かけらもなくなってしまった。

その結果、長年の間に民衆は仏教への信仰を失い、果ては憎悪(ぞうお)の対象としてさえ見るようになった。このようにして、インドにおいて仏教は死滅したのである。

中国を経て日本に伝来した仏教は、あくまで権力者たちのものであった。権力者に扶養され、権力者の先祖の菩提(ぼだい)を祈り、治世(ちせい)のために鎮護(ちんご)国家を祈った。

このように仏教が伝来した当初は、おおむね仏教は権力者たちのために存在した。そして、それに抗して勃興(ぼっこう)
したのが鎌倉仏教である。しかし、江戸時代になって仏教はおしなべて幕府権力の一部を形成し、民衆統治(とうち)の出先機関となってしまった。その代償(だいしょう)として、江戸時代の各派寺院は、「朱印(しゅいん)」(下賜米(かしまい))という形で幕府から経済的保護を受け、社会的地位を保つことができた。

諸宗派は、本寺末寺とも寺請(てらうけ)制度という幕府の政策により檀家を永久的に確保することができた。末寺は布教の意欲を失い、定められた檀家から二重三重に収奪(しゅうだつ)することのみに腐心(ふしん)するようになる。

諸宗派とも、寺檀制度によって檀徒を縛りつけ、その檀徒から執拗に金を奪いとるために葬式仏教と化していった。葬儀で取り、法事で何度も何度も布施を取った。信仰を失った聖職者たちが宗教的権威を保持するためにとる方法は、いつの時代も同じである。

当時、その度重なる収奪を可能にしたのは、庶民の間に根強くはびこっていた地獄信仰であった。そのような世相の中で、裕福な寺院は宗教的権威を誇示するため、競って大伽藍(がらん)の建立をおこなった。伽藍は、仏像の置き場や坊主の寝床ではあっても、民衆が仏法について語り合う場所ではなかった。

大伽藍は聖職者の腐敗を隠し、その偉容で民衆を圧し、隷属(れいぞく)させることを容易にするものであった。したがって、大伽藍は形式仏教化した各寺院にとって不可欠なものだったのである。

しかし、檀家からの収入だけでは大伽藍を建立するのには無理があった。そこで、寺院は有力者から金を出させ、その金を高利で民衆に貸し付けるという、いわゆる高利貸しをはじめた。金の貸付先は、主にその寺院の檀家や周辺の農民などであった。

農民らは土地を抵当に寺院から金を借り、年貢の上納(じょうのう)分の不足を補った。だが、長い年月のうちには、凶作などで利息を払うことができず、抵当に入れた土地を寺院に取りあげられることも少なくなかった。

寺院は、農民などから取り上げた土地を小作地として農民に貸し付けた。農民たちは寺院に取られた土地を今度は小作人として耕作し、寺院には小作料を、役所には年貢を払わされることとなったのだ。

このように、江戸時代の寺院は、民衆の信仰のよりどころとなるものでは決してなかった。寺院は、幕府の権力機構の一部として檀家制度の中にがんじがらめに民衆を縛りつけ、ただ収奪しつづけたのである。

坊主らは、権力者の庇護(ひご)を受けて民衆を見下し、威張り、手を替え品を替えて民衆からなけなしの金を奪いつづけた。

 

寺に参詣(さんけい)しなければキリシタンとしてお上に訴えるぞと脅し、寺に参詣すれば信仰心の篤さを布施で示せと迫り、僧に逆らえば地獄に堕ちると脅したのだ。そこには、民衆救済の慈悲心などかけらもない。あったのは、民衆からの飽くなき収奪と、自身を権威づけようとする高慢さのみであった。

謗施や高利貸しの利息で伽藍を整えていった大石寺

それでは、大石寺の場合はどうだったのだろうか。事実は、大石寺も邪宗と何ら変わりはなかったのである。幕府権力になりかわって民衆を支配し、葬式仏教と化して民からの収奪を繰り返した。ときには、布教による弾圧を受けることもあったが、その熱心な布教をおこなったのは在家の人々だった。

大石寺門流の出家たちは、江戸幕府におもねり、布教も民衆の幸せも忘れ、惰眠(だみん)を貧(むさぼ)っていたのである。

寛永十二(一六一二五)年十月十二日、大石寺は大火に包まれ、本堂、山門、坊舎など残らず焼失した。この頃、身延山久遠寺が幕府権力を背景に、不受不施派(たとえ国主からの供養であっても、それが謗施であれば受け取ってはならない、信徒でない人々に法施をしないとする派)などの寺を次々と支配下に置きはじめた。

日蓮大聖人の教えを守り、謗施を受けない日蓮系の各派に、身延山久遠寺は国主からの施を受けるかどうか迫り、対応にスキがあれば幕府権力と一体となって弾圧し、その寺院を自己の傘下に入れた。

こうした意図のもと、身延山久遠寺は大石寺を含む富士五山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、妙蓮寺)に対しても、幕府からの謗施を慎んで供養として受けるという意思表明をするよう四度にわたり迫った。

大石寺は、態度を不明確にしてしのいだ時期もあったが、ついに北山本門寺、妙蓮寺ともども寛文五(一六六五)年、寺領を幕府からの供養として受け取る旨の請書を公儀に提出した。これこそ、大聖人の弟子として受けてはならない謗施を供養として受けるとの変節の証文である。

「一、指上(さしあ)げ申す一札の事、御朱印頂戴(ちょうだい)仕(つかまつ)り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは各別にて御座候、仍つて件の如し。

寛文五年巳八月廿一日

本門寺、妙蓮寺、大石寺。

御奉行所。」

(『富士宗学要集』第八巻)

 

日蓮大聖人の教えに違背(いはい)し、大石寺は謗施(ぼうせ)を受け延命(えんめい)を図る。幕府の権威に額(ぬか)づいた大石寺は、この謗施によって伽藍(がらん)を整えていく。仏法の本質を失い、皮相的な繁栄を求めたのである。

正徳二(一七一二)年、大石寺は先の大火で焼失した三門(山門)の再建を寺社奉行・本多弾正少弼に願い入れた。その結果、幕府天領から伐採(ばっさい)した大木七十本を拝領し、同時に六代将軍・家宣の正室である天英院から三百両をもらい三門を再建したのである。

そもそも、寛永十二(一六一二五)年に大石寺が焼失した原因は何だったのか。一宗の本山が焼失するには、それだけの理由がある。それは言うまでもなく、仏の法が失われ、守護の善神が去ったからである。

大石寺では、焼失の三年前に戒壇の大御本尊を御影堂に安置し公開した。時来たりて本化(ほんげ)国主到来の日まで堅く護らなければならない大御本尊を、広宣流布の日を待たず公開したのであった。

このときの大石寺貫首(かんず)は、第十七世日精だった。日精は、このほかにも造仏(ぞうぶつ)読誦(どくじゅ)という邪義まで構えていた。そのため、大石寺は焼失したのである。ところが、当時の大石寺の者たちは、謗法を犯したことを懺悔(ざんげ)滅罪(めつざい)するどころか、幕府権力にすり寄り、謗施を受けることによって再び繁栄しようと考えたのである。

大石寺は、膨大(ぼうだい)な謗施を江戸幕府から受けることにより、寛永十二年の大火で焼失した建物のほとんどを再建する。だが、このとき焼失した五重塔(宝塔)の再建は、寛延二二七四九)年まで待つことになる。

『富士年表』によれば、延享三(一七四五)年に五重塔の再建がはじまった。五重塔再建のため総工費として、板倉周防守勝澄の一千両寄進(きしん)を含む四千両をかけ、寛延二年にようやく完成をみるのである。

前章で、天保九(一八三八)年に、大石寺が伊豆韮山(にらやま)の代官・江川太郎左衛門に差し出した古文書を紹介した。実は、この古文書には五重塔再建にまつわる驚くべき記述がある。

 

伊豆・韮山の代官・江川太郎左衛門英竜
伊豆・韮山の代官・江川太郎左衛門英竜

「其の餘金(よきん)貸附(かしつけ)の利銀相(あい)積(つも)り、延享年中、五重之宝塔迄再建仕(つかまつり)候(そうろう)」(大石寺が天保九年に伊豆韮山の代官.江川太郎左衛門に差し出した口上覚より一部抜粋。以下「口上覚」)

大石寺は、天英院からもらった金で三門の再建をしたが、その余剰金(よじょうきん)で金貸し業をしていたのだ。その金貸しで得た利息を貯めて五重塔の再建資金としたのである。

さらに古文書には、大石寺が五重塔再建後も残余の金を元に金貸しをしていたことに論及(ろんきゅう)している。邪宗同様、金を儲け、堂塔(どうとう)伽藍(がらん)を建立していったのだ。

「右残金を以て御祠堂田と為し相求め置き候。回徳金を貸附け置候……」(「口土覚」)

古文書に明記されたとおり、大石寺は三門の余剰金同様、五重塔を再建した残金でこれまた金貸しをしていたのである。

五重塔建立を願っていた第二十六世日寛上人は、

「覚。

一、金子(きんす)二百両、但八百粒なり、右は日寛が筆のさき(先)よりふり(降)候御本尊の文字なり、今度(このたび)是(これ)を三宝に供養し奉り永(ながら)く寺附の金子(きんす)と相定め候畢(おわ)んぬ、され(然)ば御本尊の文字変じてこ(黄)がね(金)とならせ給へば此のこがね(黄金)変じて御本尊とならせたまふ時此の金を遣ふべし、さ(然)なき(無)時堅く遣ふべからず、後代の弟子檀那此の旨守らるべきなり。

 

大石寺が韮山の代官に提出した「口上覚」


享保十一丙午年六月十八日日寛。

老僧中、檀頭中。」(『富士宗学要集』第八巻)と遺書状を残している。

日寛上人の願いは、幕府からの誘施で建立することでもなく、まして、信徒の御供養で金貸しをし、それで儲けた金で建立することでもない。折伏弘教による信徒の赤誠(せきせい)によって建立することであったのだ。

しかし、日寛上人没後の大石寺は、日蓮大聖人の弟子として大きく道を踏み外していく。民衆を収奪の対象としながら、その一方で権力者に媚びることにより、自己の繁栄を期すのである。

貸し金の取り立てまで権力に願い出ていた

大石寺は、江戸時代の邪宗の寺々が歩んだのと同じ腐敗への道を歩んだのだ。邪宗の寺同様、大石寺も信徒の御供養で金貸し業を営み、それを五重塔の再建資金にあて、さらにその余剰金(よじょうきん)を使って金儲けを企(たくら)んだ。だが、その企みも打ちつづく凶作(きょうさく)でつまついてしまった。

「近年、打ち続く凶作之上、天保五年四月八日、富士山より大水押し下り御祠堂田、多分に流失仕(つかまつ)り、修覆も行き届かず、誠に以て難渋(なんじゅう)仕(つかまつ)り候」(「口上覚」より一部抜粋)

凶作がつづき、天保五(一八三四)年に起こった大水により所有の田畑は流失し修復もおぼつかない状況となった。そこで、大石寺は奉行所に泣きついたのだ。

「併(あわ)せて御威光(ごいこう)を以て是(これ)迄(まで)利銀不納も御座(ござ)無(な)く候えども、当時之世柄にては、萬一(まんいち)滞(とどこお)り之儀、御座候節は、愁訴(しゅうそ)奉るべき儀も、御座有るべき候間、其の節は何卒(なにとぞ)格別之御慈悲を以て、御取り立て成し下し置かれ候らはば、有り難き仕合せと存じ奉り候」(同)

大石寺の言い分は、これまで幕府権力の「御威光」をバックに金貸し業を営んできたので、農民などに貸し付けた「利銀」の滞納もなかったというものである。

しかし、相次ぐ凶作や大水などで農民などに貸し付けた金が無事返済されるのか心配になってきた。そこで、農民などへ貸し付けた金の返済が「萬一滞り之儀」の場合は、大石寺が「愁訴」するので、「其の節は何卒格別之御慈悲を以て」農民より貸付金を取り立ててほしいと嘆願しているのである。

大石寺は大聖人の法を説くでもなく、幕府よりの下賜金や信徒からの御供養を、貧しい庶民へ貸し付け、人々の膏血をしぼりとっていたのだ。当時の邪宗と同じ寺院経営の仕方である。

信徒からの御供養は、御本尊に対してなされたものである。その信徒からの御供養を民衆から収∋するための原資とし、民に貸し付け、金儲けをし、私腹を肥やす。あげくの果てに、金貸しがうまくいかなくなれば代官所に「御慈悲」を請い、呻吟(しんぎん)する民からの強権的取り立てを要請する。

苦悩に喘ぐ民を救うため、身命(しんみょう)を懸けて権力に立ち向かい立正安国を願った日蓮大聖人の精神が、この大石寺のどこにあるだろうか。

「此の国は誘法の土なれば守護の善神は法味(ほうみ)にうへて社(やしろ)をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、仏陀(ぶつだ)化をやめて寂光土(じゃっこうど)へ帰り給へば堂塔・寺社は徒(いたずら)に魔縁(まえん)の栖(すみか)と成りぬ、国の費(ついえ)・民の歎きにて・いらかを並べたる計りなり」(新池御書)

【通解】この国は誘法の国土であるので守護の善神は法味に飢えて社を捨てて天に上られたので、社には悪が入り替わって多くの人を導いている。仏は化導をやめて寂光土へ帰られたので堂塔や寺社はいたずらに魔のすみかとなってしまった。国費と民の労役によって、いらかを並べて建っているだけである。

御塔橋を渡った杉木立(すぎこだち)に囲まれた高台に建っている五重塔は、高利に喘(あえ)ぐ民の歎(なげ)きによって建立された建造物だったのである。折伏弘教の精神を忘れ去り再建されたこの五重塔が、宗門が繁栄のよりどころとしていた幕府権力の崩壊とともにさびれていったのは故なきことではない。

明治の時代に入り、大石寺の悪比丘(あくびく)たちは五重塔の銅瓦(どうがわら)を売り飛ばし、その金で酒樽(さかだる)を並べ飲み食いさえした。その荒れ果てた五重塔を、日寛上人の願いどおりに折伏弘教の証しとして、“仏法西漸(せいぜん)”の意を込めて信徒の赤誠(せきせい)によって修復したのは戸田城聖創価学会第二代会長である。

大聖人の法義を曲げ、権力におもねった大石寺。布教もせず貧しき人々に信徒の御供養を貸し付け、その金で堂塔(どうとう)伽藍(がらん)を造り飾り立て、あまつさえ貸し金の取り立てまで権力に願い出た大石寺。信徒の御供養や民の歎(なげ)きを食い物にして、享楽(きょうらく)にふけっても何ら恥じることがない大石寺。大石寺もまた、法滅の時である末法の埒外(らちがい)ではなかったのだ。大石寺に日蓮大聖人の正法正義を呼び戻したのは、創価学会の出現による。

いかに「法灯(ほうとう)連綿(れんめん)七百年」「富士の清流」などという美辞麗句(びじれいく)でみずからを装い、信徒をだまそうとしても、史実を隠し通すことはできない。この汚辱(おじょく)にまみれた日蓮正宗を浄化(じょうか)し、大聖人直結の信心で世界の民衆に大聖人の真実の教えを弘めてきたのは、ほかならぬ創価学会なのである。

 

高利貸しをして建てた五重塔

 

宗門の堕落を助長(じょちょう)した僧の妻帯

妻帯している僧を「在家同然」と喝破(かっぱ)した日亨上人

 

日蓮正宗の僧が生涯を通して遵守(じゅんしゅ)しなければならない掟(おきて)は、御開山日興上人の「二十六箇条御遺誡(ゆいかい)」である。それを守ることは日興上人の厳命(げんめい)である。

日興上人みずから、この御遺誡の最後に、「此の内一箇条に於(おい)ても犯す者は日興が末流に有る可(べ)からず」と念を押している。日蓮正宗の僧は一箇条たりとも絶対に破ってはいけないのだ。

この御遺誡の中に、僧の妻帯と女犯(にょぼん)について触れられた条目(じょうもく)がある。

「先師の如く予が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設(たと)い一旦の妖犯(ようはん)有りと雖(いえど)も衆徒に差置(さしお)く可き事」

この条目について第五十九世日亨上人(畑毛の猊下と呼ばれた碩学(せきがく))は、自著『富士日興上人詳伝』の中で次のように述べている。

少々長くなるが、この条目に触れている箇所の全文を以下に紹介する。

「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。

なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風(へいふう)とみて、その内自然に振粛(しんしゅく)して、宗祖開山時代の常態(じょうたい)に帰るべきを祈るものである。大聖人は戒の相用を排斥(はいせき)せられたが、全然解放せられた無戒主義でない。五・八・十具の小乗戒を捨て、また十重四十八軽の大乗梵網(ぼんもう)戒(かい)を捨てられたが、無作の本円戒は残されてあり、そのための本門戒壇であり、その戒相の内容は明示せられてないが、小乗・大乗・迹門の戒相によらぬのみであり、それを無作と名づけてみても、けっして放縦(ほうじゅう)不羈(ふき)なものでない」(日亨上人著「富士日興上人詳伝』より)
まず日亨上人は、冒頭(ぼうとう)で「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる」と述べている。宗内ことごとく妻帯の様相を呈している今日、にわかに非妻帯の聖僧の出現があるとも思えず、暗澹(あんたん)たる思いで嘆(なげ)いたのではあるまいか。

その日亨上人が宗内の現実を直視したうえで、将来において「宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである」と述べている。裏を返せば、今の宗内の妻帯の状況は「常態」ではない、つまり異常な事態であるということだ。

「宗祖開山時代」のように、独身の聖僧たちによって日蓮正宗の僧が占められることを「祈るものである」としている。この日亨上人の「祈る」の言葉に、本宗の未来を思う切実な願いが込められているように思えるのである。

「開山上人がこの法度(はっと)に『先師の如く聖僧たるべし』と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埒(ほうらつ)破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埒を誡(いまし)めた文もあるが、この淑行(しゅくぎょう)聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行(おぎょう)を恥づる有羞(うしゅう)僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢(きょぎかん)と罵(ののし)り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽(いつわ)らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる」(同)

日亨上人は、御開山日興上人が「先師の如く聖僧たるべし」と述べられていることを強調している。日蓮大聖人が、無戒でありながら「聖僧」であられたことを、弟子の日興上人が証明されていると述べているのだ。

日亨上人は妻帯している僧を「在家同然」と決めつけ、それを否定している。

また日蓮正宗の僧の中に、妻帯の現実を開き直って現状追認(ついにん)してしまう様子のあることも厳しく批判している。

妻帯している僧がその自分の偽(いつわ)りの姿を羞(は)じるのを見て、身と心の一致しない偽りの者と罵(ののし)り、かえって妻帯している自分を正当化する傾向が宗内にあることに、憤(いきどお)りを隠さない。

日亨上人は、日興上人の御遺誡の件(くだん)の条目について、「この条目はいまは死んでおる」と結論し、いまの僧侶の妻帯の状態は「一時の変体」であるとしているのだ。

「次に『時の貫首(かんず)或は習学の仁』等の文は、難解である。『貫首』の二字は、明かであるも『習学の仁』は、一応はとくに学窓(がくそう)に入っておる人で、そのために天台等の談所に遊学しておる人と見るべきで、それが悪縁に引かれて、女犯(にょぼん)しても、還俗(げんぞく)破門せしめずして衆徒のままとし、学僧としての当然の昇進を止め、また貫主の高位を貶(おと)して下位に沈まするということと解釈する外(ほか)はない。こういうひじょうの事態が、かならず起こるべきとしてその用意に作られた法度(はっと)では恐らくあるまい」

「一旦の妖犯(ようはん)」すなわち女犯の罪を犯した者をどうするか。「貫首或は習学の仁」においては、女犯しても還俗破門に処さず、「衆徒」として僧社会の下位に位置させよと述べている。今でいえば、女犯した“法主”あるいは優秀な僧についての特例である。

いずれにしても、日興上人が御遺誡を定めたとき、よもや貫首(“法主”)以下の僧ことごとくが妻帯するなどという奇怪(きっかい)なことが、みずからの末流に生ずるなどとは、予想だにしなかっただろう。「一旦の〓犯」とは、あくまで妻帯していない僧が女犯をした場合の戒(いまし)めである。もとより僧の妻帯など、論外である。

ということは、一般的に女犯した僧は、本来であれば還俗破門になって当然と理解される。

日亨上人はこの条目について、紹介した引用文のように解釈したうえで、日興上人がこの条目を書かれた背景にある史実にも注目している。

「これをまた、その現在の史実に照らしてみるに、重須の後董は日代上人でこの問題にはいる仁でなく、また同山に習学の若徒は見当たらぬ。大石の後董は、日目上人で七十四歳であり、信行具足(ぐそく)の聖僧でその憂(うれい)は全然ない。目師の後を受くべき日道上人も、若徒でなく習学の仁でもない。大学日乗の実児であり、ともに出家した民部日盛は、長く鎌倉遊学で興目両師の器許(ききょ)するところで、あるいはこの仁が目師の跡を継ぐべきであるに、親父の流れを悪しく汲(く)んで女犯の疑いがあったのかも知れぬ。そうでなければ、開山上人の立法があまりにも将来の夢に過ぎぬことになる。

以上、この御置文を見る方々、願くはこの三様の意図であらんことをねがうのである」(同)

日蓮正宗の僧俗は、血族支配の悪弊(あくへい)が顕著になってきている現在、いま一度、妻帯について考えてみる必要がある。

また何よりも、日興上人の御遺誡を厳守(げんしゅ)しなければならない。その範があれば、僧俗和合の道はおのずから開かれる。

妻帯を許可された僧たちはまたたく間に堕落していった

僧が奔放(ほんぽう)に妻帯を始めたのは、いつの頃からなのか。本来、出家とは家を出た者のことであり、すでに妻子を有する者の場合、妻子との縁を断ち切って仏門に入ったのであった。もし僧が女性と交わったりすれば、女犯(にょぼん)の破戒僧としてさげすまされた。

それでも堕落した僧の中には、下働きの女性であるなどという口実を設(もう)けて、寺の中に女性を置く者がいたりした。徳川幕府は、こうした僧の風紀の乱れに厳しく目を光らせた。

江戸時代、宗教は幕藩(ばくはん)体制を支える権力機構の一部であったことから、宗教家の腐敗は「お上」に対する人心の不満の引鉄(ひきがね)になりかねないので、宗教家の風紀紊乱(びんらん)には幕府はことさら敏感な反応を示したのである。

女犯の僧に対する刑罰は、寺持ちの僧すなわち住職においては、遠島(えんとう)(島流し)であった。また、所化僧の場合は、晒(さら)し者にされたうえで、それぞれの宗派の寺法において裁(さば)かれたが、まず例外なく寺から追放された。

それでも僧の堕落に歯止めをかけることはできず、幕府はひんぱんに女犯の僧を流罪に処したり、江戸においては日本橋のたもとに晒(さら)し者にしたりした。僧の女犯は、僧の自戒(じかい)ではなく幕府の強権によってかろうじて止められていたといえる。

ところが、明治時代に入って様相は一変することとなった。明治五(一八七二)年四月二十五日、太政官(だいじょうかん)布告第一三三号が出された。それは「自今僧侶肉食(にくじき)妻帯蓄髪(ちくはつ)等可為勝手事但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)という内容である。この太政官布告によって、僧の肉食、妻帯、蓄髪が許された。

江戸時代、幕府が諸宗教の布教に強い制約を設けたことによって、日本の宗教はことごとく活力を奪(うば)われていった。その一方で、寺檀制度によって各寺の檀徒が固定化されることによって、僧の生活が保障されていた。

この民衆救済の活力を失った宗教家たちが、明治維新後の解放感の中で、妻帯を許され、またたく間に堕落していったのは、むしろ当然の帰結(きけつ)といえる。

明治十(一八七七)年九月、浄土宗の僧である福田行誠は、この太政官布告による仏教界の放埒(ほうらつ)ぶりを憂(うれ)い、その布告の撤回(てっかい)を明治政府に求めた。

仏教界の一部のこうした反発に対し、明治十一(一八七八)年二月、内務省は、「従前古来の所業を禁止せし国法を廃(はい)せられ候趣旨(しゅし)の止め、決して宗規関係之なき訳に候条、此旨心得の為相違候事」との番外通達を出している。

すなわち明治五年に出した「肉食、妻帯、蓄髪を認める」の太政官布告は、従来、国法をもって厳禁(げんきん)していたことを廃止するとの趣旨であり、各宗の宗規もその太政官布告に則(のっと)れと命令しているものではないと通達したのだ。

だが実際には、明治五年の太政官布告によって、各宗派とも僧の妻帯は当たり前のようになってしまった。

この明治政府の出した、僧の「肉食、妻帯、蓄髪を認める」という太政官布告の背景には、明治政府の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の統治政策があるとするのが、今日の大方の見方である。

明治政府という近代天皇制国家は、国民を統治し国威(こくい)を発揚(はつよう)していくうえにおいて、神道を国の基においた。天皇を万世一系・皇統(こうとう)連綿(れんめん)の神格を有する現人神(あらひとがみ)と位置づけ、国民をその神民(臣民)とすることによって、国家の統治を容易かつ強固なものとしようとしたのである。

だが、国家神道を国民に徹底するうえで、仏教思想は邪魔(じゃま)なものであった。仏教は江戸時代にあっては、国家権力を補完(ほかん)するものとして骨抜きにされたうえで重用されたが、神道を国の基とする明治の時代になって、一転、邪魔物視されることとなったのだ。明治政府の廃仏毀釈政策は、その代表例である。

この明治五年の太政官布告も、そうした政策の一環(いっかん)をなしている。退廃(たいはい)した仏教界に渦巻く女犯への放縦(ほうじゅう)な欲望―、その欲望にそれまでタガをはめていたのは、ほかならぬ徳川幕府の強権であった。

明治政府はその女犯への欲望を解き放ってやることによって、日本の仏教界を腐敗・弱体化させ、神道の社会的地位を相対的に高めようとしたのだ。

日蓮正宗も、明治政府の腐敗・弱体化政策の罠(わな)に簡単にはめられてしまった。以来百余年。今日、日蓮正宗の僧侶社会は一部の血族によって支配される、特殊な閉鎖的集団となってしまっている。

その血族集団が宗教的権威を独占し、民衆の信仰の活力を血族の繁栄のみに利用しようとしている。日蓮正宗は宗団の底流にあるこの前近代的構造を破壊しなければ、現代社会に適応することは不可能である。

妻帯により出家集団の根本的腐敗が始まった

いま日蓮正宗の抱える腐敗、堕落、退嬰(たいえい)、無気力、葛(かっ)藤(とう)、争闘(そうとう)、権勢(けんせい)、虚栄(きょえい)、これらことごとくの問題の基底(きてい)に、妻帯の業因(ごういん)が横たわっている。日蓮正宗僧侶にとって妻帯について考えることは、不可避(ふかひ)の今日的問題といえる。

総本山第五十二世日霑(にちでん)上人は、明治の時代にあって日蓮正宗僧侶の妻帯の現状を憂(うれ)い、次のように語っている。

日霑上人の憂宗(ゆうしゅう)の指南は、今日においても不朽(ふきゅう)のものであることは言うまでもない。かなりの長文となるが、精読(せいどく)を願いたい。

「(略)肉食妻帯する者ありとも夫(そ)れは其の宗々の掟(おきて)もあることなれば、天下の法律をさへ犯さざれば夫れ等の事は朝廷に於ては御構(おかまえ)ひなきことそ、佛祖の制禁を守り、宗意を全(まっと)ふするも、制禁を犯し宗意を破るも、其れは僧等の自主自由たるべしとの御趣意(しゅい)を以て一(ひ)とたび、已後の僧侶に於て肉食妻帯勝手たるべしとの御布達が出るや否(いな)や、諸宗の僧侶其に悦(えつ)をなし實(じつ)に佛にもまさる朝廷の御慈悲かなと涙を流してありがたがり、今まで隠し置きたる大黒とやら云ふ者を、急に明るき所へ引き直し、葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さずと云ふ石碑(せきひ)の立たる表門より、魚商人を呼び入れ入院の祝儀(しゅうぎ)に魚肉を以て檀家を饗應(きょうおう)し或は男子女子の節句とて本堂の前に幟(はた)を建て、雛(ひな)人形をかざりし寺もありしなど、申す風聞(ふうぶん)も有たことでござるが實に苦々(にがにが)しき咄(はなし)ではあるまいか、夫れは諸宗一同おしなべてそうでもあるまい中には昔しに愧(は)ぢず護法(ごほう)の志を勵(はげ)まし、堅く佛祖の宗意を守り持戒清潔たる僧衆も、あるではござらふが、右申すごとく舊(きゅう)政府の如く嚴重(げんじゅう)に行はれし時でさへ、犯戒の者多くありしことでござれば、是の上の所は實に以て思ひ遺らるゝ事で、是れ即(すなわ)ち徒が我れと廢佛(はいぶつ)の災(わざわ)を招くと申は是のことでござる、爰に一僧有りて難じて云く末法は無戒なること論なし、故に傳教大師の末法灯明記に、設(も)し法末の中に持戒の者あらば、既に是れ恠異なり、市に虎の在るが如し、

 

第52世・日霑上人

 

此れ誰か信ずべけんと釋(しゃく)し給ふ。今は是れ末法も末法、已(すで)に末法に入て八百絵年の末に及べり、其上彼の記の中に末法無戒の時名字の比丘の妻を、蓄(たくわ)へ子を挾(さしはさ)むとも、苦しからざるの明文を引證(いんしょう)し給ふ則ち賢愚經の文に若し檀越(だんのつ)あらん、將來の末世に、法乗盡(つ)きんとす、たとひ妻を蓄はへ、子を挾ばさむとも四人已上の名字の信は、まさに敬視すること、舎利弗大目連の如くすべし等と見へたり、爾(しか)らは末法我等ごとき名字の信は妻を帯し子を持つとも、法義をさへ守らば、苦しからざるは素(もと)より佛の御免にして、加(くわう)るに今天朝の御許可ある上は、公然妻帯するとも、何の不可あるべき、爾るを上代清世の時の、祖師の掟(おきて)を固守して、末法下れる時の僧等に引當(ひきあ)て、是を以て廢佛(はいずつ)を我より、招くの基と云はんは、所謂(いわゆる)舊弊(きゅうへい)頑固(がんこ)の甚(はなはだ)しきものと云つべしと申されし趣(おもむ)きでござるが、是は己れが田地に水を引かんとする、得手勝手の僻(へき)法門と申ものでござる、まづ傳教大師末法灯明記に言ふ處(ところ)の持戒と云は論なく小乗の二百五十戒等を、一(ひと)つも破らず持つ者を持戒と云ふたことで、文の意は設(も)し佛滅度の後正像二千年過ぎて、持戒はさて置き、破戒すらなき一向無戒なる、末法の時に當て、彼の律宗の如く二百五十戒等を一も破らず是れを持てりと云ふ者あらば是れは恠しむべきの甚しきなり。譬(たと)はゞ千里の藪(やぶ)は置て雀(すずめ)の宿るべき篁(たけ)も見へぬ、東京抔の如き賑(にぎわい)の市中に虎が出たりと云ふが如く、是れは僞(いつわ)りの中の僞り、誰か是を信ずべきと、彼の律宗の誑惑(おうわく)を破し給ふ御釋(しゃく)でござるちや、女犯肉食の如き禁制は出家の常行にして末法今の時といへども、其の位なことを、犯さぬ出家はいくらもあることぢや、已に越後の謙信抔は、古今勇猛の大將で手つがら多くの人をも殺し、火をも放ち殊(こと)に川中島の合戦に武田信玄の旗本へ只(た)だ一騎にて切込み信玄と太刀打せし様などは中々人間業とは思はれぬ勢で斯(かか)る猛將も一旦(いったん)出家入道の姿となりし上は、生涯精進闕妻(けっさい)で有たと申すことでござる、亦(ま)た彼の石田三成に組せし安國寺惠瓊なども出家の身ながら武將に等しく終身軍事にのみ奔走(ほんそう)し終に關ケ原の役には、一方の大將謀主となり甲冑を着て弓箭(きゅうせん)刀鎗(とうそう)を手に握り、果ては首を獄門にかけられた惡僧ぢや、亦た支那には明の道行と云ふ僧は明の大宗に逆をすゝめ、其甥惠を追出し、明朝を奪はせ、終身軍事に奔走し、亦政事にも關係して黒衣の宰相(さいしょう)と呼ばれし事で、佛門より是れを見れば、法中の賊(ぞく)とも云べき悪僧でござるぢや、爾に是の二僧亦共に終身肉を食せず、其の君より侍女を賜(たま)はりし事も有たれども、更に身に近づけなかつたと申すことでござる斯かる人々すら猶(なお)愼(つつし)まれたる此の二箇條なれば、いかに末法の僧なればとて此の位なことを犯さざる者は随分澤山(たくさん)あるべきなれば、何ぞ是れ等をさして、市に虎あるが如く、珍しき事と釋し給ふの理(ことわり)あるべき爾らば此の釋に言ふ處の持戒とは全く小乗の二百五十戒等のことなるは論なきことでござる亦た賢愚經の文を以て、一途に妻を帯し子を持つことを、許したもふ文と、思ふは文盲(もんもう)の至りでござる、此の文に正使の二字あれば是はかりそめの御言葉でござるぢや、今具(つぶ)さに文の意を申さば、若有(にゃくう)檀越(だんのつ)と云ふは將來末世に佛法を護持(ごじ)する、在家の人に遺(のこ)し給ふ御言葉で意は我が滅後將來末世に、吾が正法を、護持する檀越は兼(かね)て心得あるべし、將來末世に於て吾が正法正に滅盡(めつじん)せんと、欲する時に當りては正使吾が禁戒を破り比丘の行儀を失ひ、妻を蓄へ子を挾む程の亂行(らんぎょう)をなす、名字の僧なりとも、若し四人已上(いじょう)の僧衆を其の室に同宿せしめ能々和合して爭(あらそい)をなさざるに於ては、是れ今や滅盡せんとする、吾が佛法の種を植え、能く傳(つた)へ持たしむる處の者であれば、我が將來に佛法を信敬(しんぎょう)し、護念(ごねん)ある檀那に於ては必ず此の乱行の僧の罪を問はず常に佛法を護持する、其の功を賞して、是を敬ひ視(み)ること、舎利弗目蓮の如くすべしとの經文て全く故なく猥(みだ)りに、妻子を蓄へる事を許したまふ、文にはあらざるなり。大聖人の御書に、大集經に云へる、五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云ふて是れを悩ますは此の人佛法の、大灯明を滅せんと思ふと、説(とか)れたりと遊ばされ、開山師の御遺戒(ゆいかい)に、先師の如く予が、化儀は、聖僧たるべし、但し時の貫首、習學の仁に於て、縱(たと)ひ一旦の妖犯(ようはん)ありといへども、衆徒に差(さし)置くべき事と、あるも同じ意にして文意を云はゞ、予が聖僧の化儀を破り、淫事(いんじ)を犯せし者なりとも、若し習學勉強にして、大法傳弘(でんぐ)の志し深き者に於て、時の貫首日興になりかはりて、彼れが一旦の犯罪を許し、大衆の中に加へ置くべしとの御意にして是れ亦た決して、故なく犯戒の者を許したまふ事ては御ざらぬじや、爾るに他宗門の僧徒が前に申ごとく、末法灯明記や賢愚經の文を依怙(えこ)として、妻帶肉食勝手たるべきの、御布達に牽強(けんきょう)附會(ふかい)し、此濫行(らんぎょう)をなして、自ら廢佛を招くは是非(ぜひ)もなきことなれども責ては我が門下許(ばか)りも斯(かか)る了簡(りょうけん)違ひなく、佛祖開山の御垂誡(すいかい)を守て、大法廣布(こうふ)の礎(いしずえ)を定めおきたきことでござる、大聖人の最蓮房へ賜はりし御書に云く、一御状に云く十七出家の後ちは、妻子を帶せず肉を食(くら)はず等云々、權教を信する大謗法の時の事は何(いか)なる持戒の行人といへども、法華経に背(そむ)く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千倍劣るなり、彼の諺法の比丘は、持戒なりといへども、無間に堕(お)つ正法の大俗は破戒なりといへども、成佛疑ひなきものなり、但し今の御身は、念佛等の權教を捨てゝ、正法に歸(き)する故に、誠に持戒の中に清浄の聖人なり、尤(もっと)も比丘と成ては權宗の人尚(なお)然(しか)るべし、況んや正法の行人おや、假使(たとい)權宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇(あ)はん時は振り捨て・正法を弘通すべきの處に、自の地躰の聖人、尤も吉よし、尤も吉し相構へて相構へて向後も、夫妻等の寄せ來るとも、遠離(おんり)して一身に障碍(しょうげ)なく、國中の謗法をせめて、釋尊化儀を資(たす)け奉るべき者なり等云々それ箇様(かよう)に御妙判(みょうはん)遊ばされてござれば、是に背き天朝の御許しを、悦(よろこ)んで肉食妻帶の身を甘んずる一宗の僧侶は他門にもせよ自門にもせよ、皆是れ釋尊宗祖の化儀を破り、自ら廢佛を招くの輩(やから)ではござるまいか、爾ら自門中の僧侶たらん者は、先(ま)づ學問もせねばならぬが、夫(それ)よりも信心と身の行ひが肝要でござる、なんぼ博學(はくがく)秀才にして、内外典籍(てんせき)を胸に浮べたる僧たりとも、其身(そのみ)信心なく、行ひ亂暴(らんぼう)たらば還(かえっ)て在家の信を破り、自ら廢佛を招くの基となるべし亦同御書に曰く法華經の行者は、信心退轉(たいてん)なく身の詐親(さしん)なく、一切法華經に其身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申(もうす)に及ばず、息災延命(そくさいえんめい)にして勝妙の大果報を得、廣宣流布の大願をも成就すべきなり、南無妙法蓮華經南無妙法蓮華經斯く遊ばされてござれば、兎角(とかく)に大法の流布は眞俗の信心と行力とによるべきことでござる。(以上完)」

明治五年に出された太政官布告によって、“肉食妻帯蓄髪勝手たるべし”とのお達しが出たことによって、日本仏教界の僧職にある者が宗旨の隔(へだ)てを超えて、肉食妻帯蓄髪に走った。その出家という大前提をみずから破壊する破戒僧たちを憂(うれ)える先達(せんだつ)たちも、宗旨を超えて数多くいた。その人々は、妻帯女犯(にょぼん)が仏教を根本より腐敗させてしまうと危惧(きぐ)したのであった。

出家と名乗る者が女犯、妻帯する、この絶対的矛盾(むじゅん)を、文明開化の風潮(ふうちょう)の中でごまかすことのできない“僧”たちは、あらゆる宗団において仏教の危機を説いた。だが、いったん放たれた欲望を止めることはできなかった。煩悩(ぼんのう)の業火(ごうか)が道心をも焼きつくし、出家という名を有名無実にしてしまった。

ここより出家集団の根本的腐敗が始まる。出家の者たちは、みずから好んで人間の業火の中に身を投じたといえる。肉親と縁することにより生じる逃(のが)れがたき人間の業を断ち切り、一途(いちず)に衆生済度のために出離正道した者たちが、己の煩悩癒(いや)し難(がた)く、再び愛憎(あいぞう)渦(うず)まく業の世界へ舞い戻ったのだ。

これより出家を名乗る者たちの在俗の者たちに語れぬ苦悩が始まる。

 

機関誌に謗法広告を載(の)せる無節操

金ほしさに法義も平気で踏み外した日開

明治時代の大石寺は、一部の僧侶の乱脈(らんみゃく)によりひじょうに疲弊(ひへい)していた。大石寺というだけで、地元では塩一升も貸してくれないありさまであった。

明治・大正期の日蓮正宗の機関誌は『白蓮華』だった。この『自蓮華』は明治三十九年六月五日、「日蓮宗富士派宗務院」(日蓮正宗は明治四十五年までは、日蓮正宗富士派と名乗っていた)の名で、正式に「機関雑誌」として「公認」されている。以後、同誌には、宗派としての人事、公達(院達)などが掲載(けいさい)される。いわば、いまの『大日蓮』にあたる。

この正規の機関誌を維持(いじ)するにも、当時の日蓮正宗(日蓮宗富士派)は資金難のために悪戦苦闘していた。

そのため、『白蓮華』の第一巻第一号は「白蓮華の發刊(はつかん)に就きて」「白蓮華の發刊を祝す」という二つの文に続いて「功徳の母」と題する文を掲載している。『白蓮華』発刊に対する寄付を要望し宗内に呼びかけているのだ。その文を読めば、機関誌を発行するにあたって資金の捻出(ねんしゅつ)に、いかに苦慮(くりょ)していたかが手に取るようにわかる。

「一金の浄財は福徳圓滿(えんまん)なる、未來の大果を産(う)み出す處(ところ)の大功徳と變(へん)ずるのである、實(じつ)に一擧両得の大佛事ではあるまいか」

以上のように、まずは功徳を力説し、すぐさま、

「『白蓮華』の發行せらるゝは、実に現今の機擬(きぎ)に適切なる布教の機關であると思ふ、此事業を見の素振聞かぬふりして、之が補助をせなかつたなら、宗祖本佛に封し奉りて罪障(ざいしょう)を背負はなければならぬ」

と、『白蓮華』発行に協力しない者は罪障を背負うと脅している。

その後につづく言葉もふるっている。

「諸君に懈怠(けたい)謗法の罪を造らせないように、豫(あらかじ)め警告するのである」

この表現は実にストレートだ。『白蓮華』の発行に協力しない者は「懈怠謗法」だとしている。

いずれにしても『白蓮華』発行は、日蓮正宗あげての事業であり、布教の要(かなめ)に位置するものであった。それだけの金科玉条を翳(かざ)しての出版であったが、金のためには実に節操(せっそう)がなかった。協力しなければ「懈怠謗法」とまで威丈高(いたけだか)に述べていながら、『白蓮華』発行にたずさわった僧らは、金のために謗法を甘受(かんじゅ)してしまうのだ。

掲載されている広告は、実にお粗末(そまつ)なものである。とてもではないが、宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人に言上(ごんじょう)のしようがない代物ばかりである。ここにその一部を紹介する。

まずは達磨(だるま)の絵が大きく描いてある広告である(上段図参照)。仏具店の広告だが、「木魚」「般若心経」「仏像」まで、日蓮正宗の機関誌で宣伝することはあるまいにと思う。

この広告は大正二年二月七日発行の第八巻第二号より始まり、同年十二月まで十一回連続で掲載される。翌大正三年にも、二月、五月、七月と掲載され、つごう十八回も登場した。

 

「達磨」を使った広告

この当時の『白蓮華』の発行責任者は阿部法運である。阿部法運といえば、のちの総本山第六十世日開のことで、当代日顕の父にあたる。

いかに困窮(こんきゅう)しているとはいえ、達磨の絵を機関誌に大きく掲載して、お金をもらうようになってはおしまいである。

この達磨の広告は、傲(おご)れる出家に供養する信徒のありがたさを教えて余りあるが、一方で日蓮正宗の僧が、謗法に対してかつてはさして厳しくなかったこと、金がなければ平気で法義も踏み外したことを物語っている。

大謗法のきわめつけは御本尊をあつらえた織物広告

そのほかにも、『白蓮華』に掲載された謗法広告には驚くべきものがある。“達磨の絵の広告”などは、まだ序の口。大謗法のきわめつけは、日蓮大聖人のおしたためになった御本尊をあつらえた織物の広告である。

掲載した広告の写しをじっくり見ていただきたい(一五六ページ参照)。

まず一行目に、「日蓮上人御眞筆御本尊織込純金欄(らん)」とある。.日蓮大聖人の御真筆の御本尊を純金欄の下地に織り込んだものとの意味である。細かな宣伝文を読むとわかるが、大きさは縦一尺七寸・横五寸五分余というから、縦約五十センチ・横約十六センチである。

「紺紙(こんし)金泥(きんでい)に描きたるものより尚(なお)一層鮮麗(しょうれい)」といった表現、「一枚の紺地純金欄へ緻密巧妙(ちみつこうみょう)に織り現はしたり」と記していることなどから想像するに、どうもこの「御本尊」は、金糸の散りばめられた紺色の地に、文字を金糸で織り込んだものと思われる。紺のバックに金の文字ということになるわけだが、かなり不気味な雰囲気のものが想像される。

広告文中において注目されるのは、「我宗祖日蓮上人」といった記述があることだ。この広告を掲載しているのが日蓮正宗の機関誌『白蓮華』であることから、広告の対象者はもちろん日蓮正宗の僧俗である。だから「我宗祖日蓮上人」といった表現をもって、日蓮正宗の僧俗に、この織物の「御本尊」を買うことを勧(すす)めたものと思われる。

織物の「御本尊」なるものを売っている者が、「我宗祖日蓮上人」と、日蓮正宗僧俗に同志的親近感をもって呼びかけていることに、少なからず抵抗を感ずる。

それにしても、この紺地に金文字の「御本尊」を売っている大謗法者が、日蓮正宗の機関誌に堂々と広告を載(の)せていた事実には驚愕(きょうがく)せざるをえない。「一幅特價(とっか)金貮圓」ということだから、当時にしてみれば大金である。日蓮正宗の信徒の中に、大枚二円を支払って織物の「御本尊」を買った者は何人いただろうか。

業者がこのような大謗法を犯して儲(もう)けたお金を、当時の日蓮正宗僧侶が、たとえ広告代の名目であれ受け取っていた事実は、絶対に許せないことである。まさに与同罪まぬかれ難いものがある。

また、織物の「御本尊」を売っていた業者が、「御本山用達」を名乗っていることも驚きである。それに「御本尊」を広告に出し、「天下一品」とはいったいどういう感覚であろうか。

この織物の「御本尊」の広告は、大正二年発行の『白蓮華』第八巻第十号以降、つこう七回掲載されている。当時の『白蓮華』の発行人は日顕の父・阿部法運であった。阿部法運が発行人になってからというもの、謗法広告の掲載の度合は飛躍(ひやく)的に増えたのである。

ここで想起(そうき)されるのは、理境坊住職の小川只道である。平成三年六月、小川は、大石寺を見学に訪れた医師会の人たちから謗施(ぼうせ)を受けとり、「パンフレット」と「羊羹(ようかん)」の代金だったと言い逃れをしている。

日顕が、未入信の人たちから謗施を受けとった売僧(まいす)・小川只道を処分しないので不思議に思っていたが、父である日開が、謗法広告を掲載してお金を受けとり平気でいたのを見ていると、日顕が小川を罰することができないのは無理からぬことだと合点(がてん)がいく。

『白蓮華』(大正二年十一月発行)は、ごていねいにも「謹告(きんこく)」として、「皆さん此(この)廣告(こうこく)を是非(ぜひ)見て下さい」と書いている。その左に、この「日蓮上人御眞筆御本尊織込純金欄」の広告が出ている。

「謹告」には次のような文も出ている。

「本年もまさに歳晩に近つき整理上の都合も御察し下され且(か)つ本誌の慧命を續(つづ)くと思食(おぼしめ)し本誌購讀料金の未納分を御捨置(おすておき)なく御拂込(はらいこみ)被下度(くだされたく)希望致候也白蓮華社會計部」

 

「祈祷秘要録の広告」
「祈祷秘要録の広告」
なんだか、読んでいるだけでみじめになってくる。宗開両祖の末流としての気概(きがい)など、とてもではないが認め難い。このときの発行人も阿部法運であることは言うまでもない。『白蓮華』掲載の広告を見れば、日蓮正宗の僧侶が謗法払いにまったく無関心であったことがわかる。

今日に至っても、日蓮正宗の法華講の中に、謗法を祀(まつ)っている者が多いのも、なるほどとうなずけよう。

邪宗邪師の出版物まで機関誌で宣伝していた宗門

日蓮正宗の機関誌であった『白蓮華』の謗法広告は、これまで紹介したもののほかにも数多くある。

「北天教光社」の広告も、日蓮正宗の機関誌に載(の)せるようなシロモノではない。

まず同社は、『祈禱(きとう)秘要録』という本を宣伝している。宣伝文には次のようにある。

「本書は祈禱界無二の寶典(ほうてん)にして、祈禱修法、呪術一切、御符(ごふ)一切、すべて祈禱の要訣(ようけつ)を録せるものにして實に衆生救護(くご)の大秘典也本書あれば如何(いか)なる祈禱法も爲(な)し得らるべし從來秘して傳(つた)へずと云へる非文明の沙汰(さた)を破りて本書出でたり」

「本光院編」ということだから、どこかの邪宗の寺でつくられたのだろう。「祈禱修法」「呪術一切」「御符一切」が書いてあるようで、この本が「衆生救護の大秘典」を自称しているのには、顔をしかめざるをえない。

日蓮正宗の僧侶は、邪法邪師の本を自宗の機関誌で宣伝させ、お金をもらっていたのだ。貧(ひん)すれば貪(どん)するというが、あまりに浅ましい姿である。

『説教百座要集』という本の広告も出ている。宣伝コピーを読めば、どうやら説法のタネ本のようである。このタネ本を買った日蓮正宗の僧が、浄土宗、禅宗などの坊主とまったく同じエピソードを引きながら、口蓮大聖人の仏法を宣揚(せんよう)している情景を想像すると、なんともおぞましいものを感ずる。

創価学会が出現する以前の日蓮正宗の僧は、この程度であったのだ。

これらの広告は、大正三年三月号発行の『白蓮華』などに、先述した織物の「御本尊」の広告と一緒に掲載されている。このときの発行人も、日顕の父・阿部法運である。

このような歴史的事実を見ていけば、創価学会出現前の日蓮正宗が、いかに濁(にご)りきったものであったかが充分に理解される。この濁りきった法脈を正し、日蓮大聖人の仏法を蘇(よみがえ)らせたのは、言うまでもないが創価学会であった。

かつての貧しかった時代には謗法を排除(はいじょ)することもできなかった僧侶たちが、いま創価学会の寄進により裕福(ゆうふく)になると、ベートーベンの「歓喜の歌」すら謗法であるとして創価学会員に歌うなと「指南」する。

日蓮正宗の僧は、信徒をいじめるときだけ謗法厳戒(げんかい)を口にするのである。その証拠に、塔中坊の根檀家(ねだんか)に対しては、どんなに謗法まみれであっても何も言わない。日蓮正宗の僧侶たちは、黙って供養する者には実に甘いのだ。

ここに日蓮正宗僧侶の本質があらわれていることを見逃してはならない。彼らは、日蓮大聖人の教えを信徒支配の道具に使っているだけなのである。信徒に向かって声高に「正法正義」を述べるとき、その裏には信徒支配の欲望のあることを見抜くべきだ。

もう一つ謗法広告を紹介しておこう。

「丸岡衛生堂」より発売されている「六神丸」という薬の宣伝である。大正二年五月発行の『白蓮華』に掲載されている。

 

「六神丸」の広告

「丸岡衛生堂」はこの「六神丸」を宣伝するにあたり、「大谷派議制局ヨリ賞讃(しょうさん)書賜」と記したり、「本派本願寺事務所」「本山本法寺貫主伊藤日修猊下」より賞讃されたことを宣伝文句にしている。ここで紹介したカギカッコ内の文字は、広告の中でずば抜けて大きく書かれている。

日蓮正宗の機関誌が、東本願寺や日蓮宗他派に賞讃されていることを、わざわざひきあいに出した広告を掲載するとは、はなはだしい無節操(むせっそう)さである。

『白蓮華』には、このたぐいの宣伝が、これでもかこれでもかと掲載されている。

ちなみに、『白蓮華』を発行していた「白蓮華社」は総本山大石寺内にあった。

大御本尊の写真まで撮らせていた宗門

一閻(いちえん)浮提(ぶだい)総与(そうよ)の大御本尊の写真を掲載した本がある。写真は、御宝蔵に御安置されていた大御本尊を、至近(しきん)距離(おそらくは数メートル)から撮影したものである。この写真は、縦十・三センチ、横七・三センチの大きさで掲載されている。

大御本尊の写真を掲載している本は、明治四十四年十一月十日、報知社より発行された『日蓮上人』で、著者は熊田葦城(本名熊田宗次郎)である。

熊田葦城著の『日蓮上人』は、明治四十四年、『報知新聞』に連載されたものだ。執筆(しっぴつ)当時、熊田は浄土宗の信者であったが、この『日蓮上人』と題する伝記を著(あらわ)したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の信徒になった。

さて、この熊田の『日蓮上人』には、先述したように一閻浮提総与の大御本尊の写真が掲載されているが、その写真の下の解説文には次のように書かれている。

「これ日蓮上人より日興上人に傳(つた)へられたる本門戒壇の大本尊なり丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏(ほうぞう)す由井一乗居士特に寄贈(きぞう)せらる」

この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊の写真を熊田葦城に渡したということだ。

熊田は、日蓮正宗機関誌『白蓮華』(大正四年十一月七日発行)に「余の改宗せし顛末(てんまつ)」と題し、入信の経緯(けいい)を書いている。その中に、「由井幸吉君は日蓮宗の碩学(せきがく)にして、最も余の記事を歓迎せられし一人なり」と記している。

 

ここに「日蓮宗の碩学(せきがく)」とあるのは、身延派を指す「日蓮宗」ではなく、日蓮大聖人を宗祖とするという意味での「日蓮宗」であり、由井は日蓮正宗の信徒である。この手記によれば、熊田は大正二年五月、由井幸吉の折伏により入信した。

この由井幸吉が「由井一乗」である。由井一乗は、大正十五年一月号の『大日蓮』に名刺広告を出している。肩書は大講頭である。

熊田がその著『日蓮上人』に、一閻浮提総与の大御本尊の写真を掲載したのが明治四十四年。その写真解説文には由井一乗が写真を提供したことが明記されているのに、由井は日蓮正宗内でなんら処罰(しょばつ)もされなかったのだ。

『日蓮上人』に掲載された大御本尊の写真を見ると、燈明(とうみょう)がともっている。左右に一本ずつのロウソクが点灯(てんとう)しているのである。察するに、この大御本尊の写真は決して盗み撮りされたものではない。盗み撮りしたのであれば、燈明をともす時間も惜(お)しむだろう。

御開扉のときに盗み撮りしたとも考えられるが、狭い宝蔵の中でそれは不可能である。しかも宝蔵内は薄暗く、撮影に充分な露光(ろこう)を得ることはできない。ライティングかフラッシュが必要である。故に御開扉のときに盗み撮(ど)りすることは絶対に不可能である。

また当然のことながら、在家の由井が勝手に宝蔵に入ることも不可能だ。よって、この大御本尊の撮影は、由井の独断(どくだん)ではなく、僧の了解をもっておこなわれたと結論せざるを得ない。それも一部の僧ではなく、“法主”および能化クラスの了解があったものと思われる。いや、全山あげての了承があったとするほうが自然かもしれない。

念のために記すと、明治四十四年当時、日蓮正宗には第五十五世日布、第五十六世日応が隠尊(いんそん)としており、第五十七世日正が“法主”をしていた。

 

「日蓮上人』に掲載された戒壇の大御本尊の写真

 

この一閻浮提総与の大御本尊の撮影が、日蓮正宗内で物議(ぶつぎ)をかもしたという記録は見当たらない。大御本尊の撮影は日正らの了解をもっておこなわれ、由井一乗から熊田に渡ったと見るのが妥当だ。

広宣流布のプランも情熱もまったく欠落していた日蓮正宗

熊田の『日蓮上人』伝は、史実を克明(こくめい)に調べている。また、熊田は未入信ながら、ほぼ大石寺側に立って記述している。

『日蓮上人』には、付録(ふろく)として、「日蓮宗身延久遠寺監督権僧正武田宣明」が熊田に宛てた手紙が掲載されている。

手紙の内容は、熊田の『日蓮上人』が「単に興門派の所伝にのみ拠(よ)りて日蓮宗の史実を参案とし給はざりしは甚(はなは)だ遺憾(いかん)に存候」として、抗議をしたものだ。熊田の書いた『日蓮上人』伝は身延派の憤激(ふんげき)を買ったようで、バランスを取るため、付録として身延派の僧の抗議文を掲載したものと思われる。

逆に言えば、熊田の著書『日蓮上人』に対する富士大石寺側の評価はそれだけ高かったのだろう。一閻浮提総与の大御本尊が撮影され熊田に渡った背景には、そのような事情があったと推測(すいそく)される。

それを裏づける広告が、昭和七年一月号の『大日蓮』に掲載されている。

その広告は「熊田葦城先生著日蓮大聖人」と大書され、次のような宣伝文が続いている。

「本書は熊田葦城先生が心血(しんけつ)をそゝひで執筆(しっぴつ)せられた、宗祖日蓮大聖人の御一代の歴史でありまして数ある日蓮大聖人の御傳記中尤(もっと)も正確のものであります」また定価二円を、日蓮大聖人六百五十年「御遠忌(おんき)記念」として、一円三十銭に値引きしていることも告げている。広告主は「大日蓮社」。日蓮正宗機関誌『大日蓮』の発行元である。

これらの事実から推(すい)して、一閻浮提総与の大御本尊の写真が流出したことについて、日蓮正宗の僧侶の面々は何の痛痒(つうよう)も感じていなかったことが判明するのである。

「此の御筆(おふで)の御本尊は是れ一閻(いちえん)浮提(ぶだい)に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然(しか)れば則(すなわ)ち日興門徒の所持の輩(やから)に於(おい)ては左右無く子孫にも譲(ゆず)り弟子等にも付嘱(ふぞく)すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可(べ)し、是れ偏(ひとえ)に広宣流布の時・本化国主御尋(たずね)有らん期(とき)まで深く敬重(けいちょう)し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)

 

日興上人の遺言により、本化の菩薩が到来する日まで固く守るように誡(いまし)められている大御本尊を、写真に撮って世間に公開するとは、日興上人の末流としての自覚に欠けるのもはなはだしい。御本仏日蓮大聖人の御遺命を無視し、大聖人を裏切る行為である。「守護」を命じられている者が、勝手に大御本尊を写真に撮って世間に公開するなど、絶対に許されるべきことではない。

熊田の著書『日蓮上人』に一閻浮提総与の大御本尊の写真が掲載されたことからはっきりしたことそれは、少なくとも明治の終わりから大正、さらに昭和の初めにかけての日蓮正宗の僧たちには、広宣流布の時を、自分たちでどのように構築していくかというプランも、その前提となる大情熱もまったく欠落していたということだ。

「本化国主の御尋ね」を、より現実的なものとして感じていれば、時が来れば本門戒壇堂に安置されるべき一閻浮提総与の大御本尊を、写真に撮って公表するなどということはありえない。法義の根幹(こんかん)を完全に忘れ去った姿であったことがうかがえる。

熊田葦城に一閻浮提総与の大御本尊の写真を渡した由井一乗は、昭和四年五月十三日、総本山第六十世日開より総講頭に任命された。そのとき、日開より由井一乗に「賞與大漫荼羅」(賞与御本尊)と賞状が与えられた。

賞状には、由井を称えて、「多年爲法外護(げご)ノ勳功(くんこう)ニ依(よ)リ大漫荼羅ヲ賞與(しょうよ)シ之ヲ表彰(ひょうしょう)ス、昭和四年五月十三日総本山日開在判」とある。

一閻浮提総与の大御本尊の写真を世間に公表してしまった謗法の者が、総講頭に任じられ、賞与御本尊を下され、外護の勲功を称(たた)える賞状までもらっているのだ。

由井一乗が総講頭に任命されたのが昭和四年五月。創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長の入信は前年の昭和三年六月頃である。

後に戸田会長がしばしば語ったとされる、「我々は謗法の真っ只(ただ)中にに敵前上陸した」との発言が、実感をもって蘇(よみがえ)る。一閻浮提総与の大御本尊を守護すべき日蓮正宗にしてから、このようなありさまだったのだ。

 

北条弥源太が御供養した宝刀が盗難

室刀盗難事件を内密に処理しようとした宗門

小笠原慈聞が主宰(しゅさい)していた月刊誌『世界之日蓮』(昭和十六年十一月号)は、驚嘆(きょうたん)すべき事件を報じていた。宗祖日蓮大聖人が所持(しょじ)されていた、総本山大石寺のかけがえのない寺宝(じほう)ともいうべき「三條小鍛冶宗近の宝刀」などが、御宝蔵(ごほうぞう)から盗(ぬす)まれていたことを暴露(ばくろ)したのである。

「三條小鍛冶宗近の宝刀」とは、北条弥源太(やげんた)が日蓮大聖人に御供養申し上げた物で、宗祖日蓮大聖人は諸国への弘通(ぐつう)に、この太刀(たち)を所持されていたことが記録に残されている。

ちなみに、北条弥源太について触(ふ)れれば、北条弥源太は日蓮大聖人御(ご)在世(ざいせ)中、鎌倉幕府の実権を握(にぎ)る北条氏の一門でありながら、大聖人門下であった人である。

生没(せいぼつ)年など詳しいことは不明だが、文永五年十月、日蓮大聖人は「十一通御書」を認(したた)められたが、その一つは北条弥源太に宛(あ)てられたものであった。幕府権力に真(ま)っ向(こう)から折伏をもって臨(のぞ)まれた日蓮大聖人から見ても、北条一門である北条弥源太は、戦略(せんりゃく)的にも重要な役割を果たすべき立場にあったようだ。

その北条弥源太が、日蓮大聖人に太刀と刀合(あ)わせて二振(ふたふ)りを御供養申し上げたことがある。このことに触れて、日蓮大聖人より北条弥源太に宛られた御書が現存(げんぞん)している。

「又御祈禱(きとう)のために御(おん)太刀(たち)同(おなじ)く刀あはせて二つ送り給(たま)はて候、此の太刀はしかるべきかぢ・作り候かと覚へ候、あまくに或(あるい)は鬼きり或はやつるぎ・異朝(いちょう)には・かむしやうばくやが剣(つるぎ)に争(いか)でか・ことなるべきや・此れを法華経にまいらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀・

 

今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬(たと)えば鬼の道心(どうしん)をおこしたらんが如(ごと)し、あら不思議や不思議や、後生(ごしょう)には此の刀を・つえとたのみ給うべし」(弥源太殿御返事)

【通解】また御(ご)祈禱(きとう)のために太刀と刀と合わせて二振りをお送りいただきました。この太刀は相当な刀鍛治(かじ)がつくったと思われる。日本の天国(あまくに)あるいは鬼切(おにきり)あるいは八剣(やつるぎ)、外国(中国)の干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)の剣とどうして異(こと)なるであろうか。これを法華経(御本尊)に供養されたのである。あなたのお持ちの時は悪の刀であったが、今は仏前に来たのであるから善の刀である。譬えば鬼が道心を発したようなものである。後生はこの刀を杖(つえ)と頼みなさい。

この日蓮大聖人ゆかりの太刀と刀は、富士大石寺の寺宝として後世(こうせい)に伝えられてきた。「富士大石寺明細誌(めいさいし)」(『富士宗学要集』第五巻収録)には、「太刀三条小鍛冶宗近作二尺一寸一腰蓮祖(れんそ)の所持(しょじ)諸国弘通(ぐづう)の節(せつ)之(こ)レを帯す、北条弥源太殿より之レを献(けん)ず」と記されている。

この太刀と同時に北条弥源太より、日蓮大聖人に御供養された刀は、「富士大石寺明細誌」に記された刀のいずれに該当(がいとう)するかは、寡聞(かぶん)にして特定できないが、おそらくは先の太刀につづいて記(しる)されている「劔久国作九寸五分一口蓮祖弘通の節笈(おい)中に入る」ものではないだろうか。

いずれにしても昭和十六年十一月に、日蓮大聖人が身近(みぢか)に置かれていた太刀が盗まれたことが、表沙汰(おもてざた)になったのだ。『世界之日蓮』には「寶刀(ほうとう)盗難(とうなん)事件」として、次のような記事が掲載されている。

「十月初め愚生(ぐせい)の手元へ二本の『ハガキ』が配達された。『本山大石寺門徒有志』として一、昨年六月某日(ぼうじつ)夜本山御(ご)寶藏(ほうぞう)の錠前(じょうまえ)を破壊(はかい)してある事を翌日発見、其筋(そのすじ)の出張を請(こ)ひ内部を調べたるに『重寶(じゅうほう)』に異状なしとし、其(その)まま放任(ほうにん)せり。

二、然るに本年四月十五日靈寶(れいほう)虫拂(むしばらい)に際し什寶(じゅうほう)入れの長持(ながもち)を檢(しら)べたる處(ところ)驚(おどろ)くべし『三條小鍛冶宗近の寶刀』(大聖人所持)『波平行安』の銘刀(めいとう)(富田家寄附)外(ほか)六點(てん)計八點の銘刀紛失(ふんしつ)せることを發見し、総代は驚愕(きょうがく)措(お)く處(ところ)を知らず、是を宗務當局(とうきょく)に申込むと、此又(これまた)驚くべく當局は『警察署にすら盗人(ぬすっと)の逃げ入る當節(とうせつ)である』と放言(ほうげん)し、之(これ)を『秘密』に付(ふ)すべしと命ぜり、依て爾來(じらい)何等(なんら)かの措置(そち)をとるものと信じ、隱忍(おんにん)今日に及びたるに、今以(いまもっ)て其の様子も見えざるは奇怪(きかい)と申す外(ほか)なし。

三、右什寶(じゅうほう)入れの長持(ながもち)には『什物帖(じゅうもつちょう)』、二冊入れ置きたるに、之を破毀(はき)せるものか見(み)當(あた)らず、然(しか)らば右銘刀(めいとう)の外(ほか)何物が紛失(ふんしつ)せるや不明にして、今後調査の資料なきことを悲しまざるを得ない」(『世界之日蓮』昭和十六年十一月号)

この記事から確認できる事実は、「昨年六月某日(ぼうじつ)夜」御(ご)宝蔵(ほうぞう)の錠前(じょうまえ)が壊されていたが、このとき、一応は異状(いじょう)がないとされた。だが、昭和十六年四月十五日の虫払いに際し、日蓮大聖人所持(しょじ)の刀など八振(ふ)りの銘刀がなくなっていることが判明(はんめい)したのだった。

なお、「昨年六月夜」とは、昭和十五年六月十四日の夜のことである。

この宝刀盗難(とうなん)事件に対し、総本山第六十一世水谷日隆上人率(ひき)いる日蓮正宗中枢は、内部の責任を追及(ついきゅう)することもなく不問(ふもん)に付(ふ)し、事(こと)を内密(ないみつ)に処理しようとしていた。しかし、それを反主流であった小笠原慈聞らが公(おおやけ)にし、責任を追及しはじめたのだった。

この盗難事件は、日本の宗教界にとっても注目するに値(あたい)する不祥事(ふしょうじ)であった。『世界之日蓮』がこの事件を報じる直前、『中外日報』(昭和+六年十月九日付)が、「奇怪(きかい)大石寺に盗難無責任な本山當局」と題して同盗難(とうなん)事件を報道している。

報道内容は、先に紹介した『世界之日蓮』が掲載(けいさい)した「本山大石寺門徒有志」が出した「ハガキ」の文面を紹介するものであった。

 

御宝蔵の宝物を処分して私慾(しよく)にふける僧がたくさんいた

それでは、御宝蔵に厳重(げんじゅう)保管されていた宝刀は、誰が盗(ぬす)んだのか。いまだもって犯人は不明である。だが、当時、『世界之日蓮』などが指摘(してき)しているように、捜査(そうさ)当局は内部犯行と見ていた。

御宝蔵には「一夜番」という不寝番(ふしんばん)の僧が、事件当時もついていた。その者との連携(れんけい)がなければ、宝刀を盗(ぬす)み出すことは不可能である。もし「一夜番」の油断(ゆだん)をついたにしても、多くの長持(ながもち)の中から、金銭的価値のある刀八振りを所蔵(しょぞう)した長持を開け、それを盗み出すことは、とうてい不可能である。当時の捜査当局の睨(にら)んだとおり、内部犯行と見るのが妥当(だとう)だろう。

室町時代には、大石寺を丸ごと銭二十貫文で売りとばした三人の悪僧がいた。江戸時代にも、御宝蔵の中の宝物がしばしばなくなったようだ。堀日亨上人は、『富士宗学要集』(第八巻)に、「蜂須賀家臣斎藤忠右衛門等状」を紹介している。その書状の前文において、日亨上人は次のように書いている。

 

「祖滅(そめつ)三百五十九年此、敬台院の命(めい)を受けて斎藤武知の両臣が細密(さいみつ)懇切(こんせつ)に大石寺を護持(ごじ)するの件々此の状に溢(あふ)れたり、宝物(ほうもつ)厳護(げんご)の為(ため)に宝蔵番(ほうぞうばん)の僧員を増すべき事(こと)宝物の出納(すいとう)を大事にする事、什物(じゅうもつ)の法衣の扱を大事にして缺損(けつそん)無きやう注意する事、惣(すべ)て什物は永遠に寺附き常住(じょうじゅう)物、住職は交代のものなれば什物宝物を大事に扱(あつか)ふ事、住職によりては缺損の什物を補充(ほじゅう)して不都合(ふつごう)なからしむる仁(じん)もあるが、多くは什宝(じゅうほう)を売却(ばいきゃく)して私慾(しよく)にふけるもあり、宝物は当番交代の彼岸(ひがん)、盆、会式(えしき)前と三度に改めて受渡(うけわたし)を為(な)すべく虫払の日は七月の初に定めて準備を怠(おこた)らぬやう等数々の注意が為(な)されてある其(その)文の底には暗(あん)に精師(せいし)の住職として物質的扱ひぶりの不満が洩(も)らされてるやうで、能所(のうしょ)の性格の相違(そうい)や周囲の人々の感情も加(くわ)はつて居(い)るものと見ゆる」

当時の大檀那である敬台院が、「宝物厳護の為に宝蔵番の僧員を増すべき事」などを家臣(かしん)を通じて助言しているのだ。この文の中で注目されるのは、大石寺住職の「多くは什宝(じゅうほう)を売却して私慾(しよく)にふけるもあり」とされている点である。

御(ご)宝蔵(ほうぞう)にある宝物を処分(しょぶん)して、私慾にふける住職が多くいたのだ。住職がそうなら、その他の末僧に至ってはまったく信用ができない。そこで、相互監視(かんし)のためにも「宝蔵番」を増やせと助言している。大石寺の僧の中に、盗人(ぬすっと)がいることは、昭和の時代に始まったことではないのだ。

明治に入ってからは、大石寺の僧の放蕩(ほうとう)三昧(ざんまい)は限度を超えたものがあり、塔中(たっちゅう)のそこかしこで樽酒(さかだる)を囲(かこ)んで酒盛りをしていた。ために地元の大宮(富士宮市)あたりでは、大石寺だといえば塩の一升も貸さなかった。

あげくの果ては、遊興(ゆうきょう)費にこと欠いて、五重塔の銅瓦(どうがわら)をトタン板に替え、その銅瓦を売って代価を呑(の)み代にする坊主まであらわれたのである。

そして、昭和十五~十六年頃に至っては、日蓮大聖人由縁(ゆえん)の宝刀まで紛失(ふんしつ)してしまう。それも悪僧の内部犯行であることは、まず間違いない。

これが、創価学会出現以前の大石寺の赤裸々(せきらら)な姿である。末法の御本仏である日蓮大聖人の教法(きょうほう)を弘通(ぐつう)しなければならない富士大石寺にしてからが、まさに“法滅(ほうめつ)”そのままの姿を現じていたのだった。

 

「戦勝守護の本尊」を“販売”

日露戦争勃発(ぼっぱつ)をいいことに御本尊を売った日応

俗に“戦争屋”と言われる人々がいる。武器などを売って荒稼(あらかせ)ぎをする死の商人たちである。ところが、宗教界にも“戦争屋”がいる。やはり、戦争を渡りに船と荒稼ぎする輩(やから)である。

第五十六世・大石日応も、あるいは戦争屋といえるかもしれない。

日応は日露戦争にあたり、「御本尊一萬幅」を「特志者(とくししゃ)」に授与していた。「特志者」とは、一往は特別の供養をした檀信徒(だんしんと)のことである。その「特志者」に御本尊を授与していたと言えば聞こえはいいが、一万体を一挙(いっきょ)に授与するとなればおだやかではない。換言(かんげん)すれば、戦争勃発(ぼっぱつ)をよいことに、御本尊を売っていたに過ぎないのである。

当時、「東京市深川区東元町十八番地」に法道会本部は所在していた。法道会は、現在、豊島区に所在する法道院の前身にあたる。法道会本部が機関誌として発行していた『法乃道』の編集兼発行人は、早瀬慈雄。いまは故人となった日蓮正宗重役で法道院主管・早瀬日慈の父である。

この『法乃道』(明治三十七年四月発行第拾貮編)に、「皇威(こうい)宣揚(せんよう)征露(せいろ)戰勝大祈禱會(きとうえ)」についての記事が掲載(けいさい)されている。その記事の一部を抜粋(ばっすい)紹介しよう。

「尚(な)ほ法道會に於ては兩日(りょうじつ)參拜(さんぱい)者の淨財(じょうざい)を總(す)べて軍資金の内へ獻納(けんのう)しまた戦勝守護の御本尊一萬幅を特志者に授與(じゅよ)せられたり」(『法乃道』明治三十七年四月発行第拾貮編)

日露戦争の必勝を期(き)して「大祈禱會(きとうえ)」をおこない、そのとき集まった浄財(じょうざい)すなわち御供養は、すべて軍資金として「獻納(けんのう)」したというのである。御供養は御本尊へ捧(ささ)げられたもので、たとえ出家であれ、それを広宣流布のため以外に使用することはできない。

あろうことか、その御供養を軍へ戦費(せんぴ)に供(きょう)してくれと差し出したというのだから、その狂乱(きょうらん)ぶりはとうてい日蓮大聖人の末流(まつりゅう)と認めがたいものがある。そもそもの日蓮正宗(当時は日蓮宗富士派)は、ここまで狂っていたのである。

ここで「兩日」となっているのは、日露戦争開戰(明治三十七年二月十日)間もない三月十二日、十三日の「兩日」である。この両日、深川区の法道会本部で「皇威宣揚征露戰勝大祈禱會」が執行(しっこう)された。そして、このとき「祈禱會」」に参加し供養した者に、「戰勝守護の御本尊」が与えられたのである。

このときの「祈禱會」の様子についても、『法乃道』(同)は記述している。

「今其景況(けいきょう)を記(しる)さんに十二日は曇天(どんてん)なりしも兼ねて廣告並(ならび)に建札(たてふだ)等の手配行届きしを以(もっ)て自他の参拝者陸續(りくぞく)と詰掛(つめか)けぬ而(しか)して須彌壇(しゅみだん)は最も質素に而(し)かも嚴正(げんせい)に荘嚴(そうごん)せられ期定(きてい)の時刻に至(いた)り法主日應上人は僧衆を隨(したが)へて法席に就(つ)かせられ宗租大聖人眞筆大御本尊を開扉し讀經唱題等如法(にょほう)の式典を行はせられ尋(つい)で教會擔任(たんにん)教師早瀬慈雄は演壇に立(たち)祈禱會執行の旨意(しい)を演(の)べそれより有元氏土屋慈觀氏並に法主日應上人の演説ありたり」(同)と、まあこのような具合であった。

「祈禱會」では、質素であるが厳正に荘厳された「須彌壇」が設(もう)けられたことがわかる。その「須彌壇」に安置されたのは、「宗祖大聖人眞筆大御本尊」であった。「法主日應上人」が僧何名かを随(したが)えて読経唱題し、参拝者に「宗祖大聖人眞筆大御本尊」を御開扉したのだ。

その後、教会担任教師・早瀬慈雄と有元、土屋慈観、そして大石日応が説法をしたというのが、十二日の「祈禱會」のあらあらの様子である。

「戦勝守護」本尊を授与した第56世・日応

だが、ここでもっとも注目しなければならないのは、紹介した引用文の前の部分である。そこには、「兼ねて廣告並に建札等の手配行届きしを以て自他の参拝者陸續と詰掛けぬ」(同)となっている。いったいどこに「廣告」「建札」を出したのであろうか。

ここで思い起こされるのは、大正十年二月十六日、日蓮大聖人御聖誕七百年に際し、カーチス号という複葉機に御本尊を奉掲(ほうけい)し、空より布教のためのビラを撒(ま)いた事例である。

この史実(しじつ)からしても、大石日応が日露戦争の戦勝祈願をすることを知らせる「廣告」「建札」は、一般世間を対象になされたと見るべきだろう。それは「自他の參拝(さんぱい)者陸續(りくぞく)と詰(つめ)掛(か)けぬ」との表現からもうかがえる。これはいわゆる世間一般でいうところの“出(で)開帳(かいちょう)”がなされたと判断すべきだろう。

邪宗では“秘仏”を寺から出し、わざわざ都会や他地方に運び、自宗他宗の檀信徒にかかわらず拝(おが)ませ、布施を集めることをする。これを“出開帳”というが、日応も、日蓮大聖人御真筆の御本尊を信者であるなしにかかわらず拝ませ、自他宗の別なく金を集め、それを軍資金として軍に提供したというのである。

ここで「戦勝守護の御本尊一萬幅」は、誰に与えられたのかという疑問が涌(わ)く。「特志者」ということであるから供養をした、原則的には檀信徒ということになるのだが、実際はどうであったろうか。

法道院法華講は、今でも二千名の実勢(じっせい)であるという。その事実を踏(ふ)まえれば、「御本尊一萬幅」が檀信徒だけに与えられたとは思えない。

明治三十七年におこなわれた内務省の調査によれば、日蓮宗富士派の檀家数は一万六五五人、信徒数は一万四三六九人である。この檀信徒の数からすれば、自宗内に「御本尊一萬幅」を求める「特志者」を募ることは不可能である。

にもかかわらず、『法乃道』に「御本尊一萬幅」の記述があるのは、この号だけである。そうすると「特志者」という表現は、金を出す者すべてという意味ではあるまいか。日露戦争開戰にあたり反ロシア感情の沸騰(ふっとう)する巷に、金と引き換(か)えに一万幅の御本尊が消えていったようである。

『法乃道』(同)の記事は、

「因(ちな)みに云(い)ふ此(この)戰勝守護の御本尊は尚(なお)廣(ひ)ろく特志者に授與(じゅよ)せらるゝに付(つき)希望の人々は法道會本部に申込まるべきなり」と報じている。控え目にみて「特志者」が日蓮正宗の檀信徒であるとしても、金さえ出せば「戰勝守護の御本尊」を与えるという行為は許されるべきではない。

それも、開戦間もなく社会全般を蔽(おお)う異常な雰囲気の中で、大衆の不安心理に便乗(びんじょう)しての”商法”となればなおさらである。まさに嘆息(たんそく)せざるを得ない事態である。

 

六百五十遠忌の金集めに御本尊を売った日開

第六十世日開も御本尊を金集めの道具に使っていた。

ここに、昭和四年九月に「総本山第六十世日開」の名で出された「宗祖大聖人六百五拾御遠忌(おんき)御報恩記念事業資金募緣序」という文書がある。宗祖日蓮大聖人六百五十遠忌を翌々年に控(ひか)え、浄財(じょうざい)勧募(かんぼ)を宗内に訴えたものである。

日開はこの文書で宗内に六百五十遠忌の記念事業として、

「興學(こうがく)布教傳道(でんどう) 文書出版 五重之塔大修繕(しゅうぜん) 客殿の改修山門其他(そのほか)諸堂(どう)宇(う)の應急(おうきゅう)修理等の完成を期せんとす」

と表明し、次のように総本山の窮状(きゅうじょう)を記している。

「現在總本山の諸堂宇中殊(こと)に山門五重之塔の如(ごと)きは荒廢(こうはい)不朽(ふきゅう)甚(はなは)だしく時に應急(おうきゅう)の修繕(しゅうぜん)を加(くわ)ふるも今や姑息(こそく)の手入れも及ばず大修繕を要するに際し 一山の資材に據(よ)るは到底不可能の事に屬(ぞく)す 若し現狀の儘(まま)に委(まか)せんか 下種三寶(さんぽう)の大寶殿も再び修理の途(みち)なきに至らむ」

信者に供養を求めるというのに、まるで泣き落としである。あわれなるかな、売僧(まいす)にとって総本山の荒廃すらも、金を集めるための格好(かっこう)の材料となるのである。

ちなみに、ここで荒廃の極(きわ)みにあるとされている五重塔は、葺(ふ)いてあった銅瓦(どうがわら)を明治時代に総本山に巣(す)くう悪侶らがトタンに替え、銅瓦を売って飲み代などの遊興(ゆうきょう)費にしたため、屋根も軒(のき)も柱の一部さえも腐ったのである。

この五重塔は、時代は下ること昭和二十八年、戸田城聖会長率(ひき)いる創価学会により、やっと修復されたのである。この経過からして、日開が六百五士遠忌にあたり鳴り物入りで五重塔の修理を呼びかけたが、修復はおこなわれなかったようである。

売僧たる日開は、この六百五十遠忌記念事業を大義名分にしての金集めにおいて、御本尊をその道具に使っている。

 

日開の出した「宗祖大聖人六百五拾御遠忌御報恩記念事業資金募緣序」

同文書には、「御遠忌記念事業費寄附金募集及賞與(しょうよ)規定」が定められている。その第六条には、日蓮正宗が御本尊を金集めに使った打ち消しがたい史実(しじつ)を物語っている。以下、その引用。

「第六條寄附金完納者ニハ賞與大漫荼羅、尊號(そんごう)、賞状ノ三種ヲ以テ賞與(しょうよ)ス

一、壹千圓以上完納者ニハ賞與大漫荼羅及永代尊號ヲ授與(じゅよ)ス

二、五拾圓以上完納者ニハ大漫荼羅ヲ授與ス

三、弐拾圓以上完納者ニハ尊號ヲ賞與ス

四、弐拾圓以下完納者ニハ賞状ヲ授與ス」

「壹千圓」(現在の百五十万円相当)を供養すれば、「賞與大漫荼羅及永代尊号」を与えられる。「賞與大漫荼羅」は賞与大御本尊のこと。「永代尊号」は今でいう法名、戒名のことである。

今日の日蓮正宗の僧は、戒名をつけなければ成仏しないなどといっているが、かつては「壹千圓」も供養すれば、御本尊のおまけとして成仏を保証する「永代尊号」がもらえたのである。

「二」は「五拾圓」を供養した場合の褒賞(ほうしょう)を定めている。

「五拾圓」(現在の七万五千円相当)を供養すると、「大漫荼羅」を授与するというのである。

 

大聖人の第六百五十遠忌に際し大石寺が発行した「大法會奉行案内」

先の「賞與大漫荼羅」とこの「大漫荼羅」とに、どのような差があるのかについては寡聞(かぶん)にして知らない。知る必要も感じない。

はっきりしていることは、日蓮正宗“法主”たる日開が、宗祖日蓮大聖人が末法の民衆救済(さいど)のために顕(あらわ)された御本尊を、金集めの演出として差別化して売り出したということである。それも、宗祖日蓮大聖人の六百五十遠忌にである。

日開という売僧(まいす)にとっては、宗祖の死も御本尊も、金集めの口実(こうじつ)に過ぎないのである。

 

正邪のわきまえがなかった日蓮正宗の僧ら

さて、二年も前から金集めの大義名分に利用された六百五十遠忌であったが、いよいよ昭和六年の十月九日から十六日までの八日間、「宗祖日蓮大聖人第六百五拾遠忌」が日蓮正宗総本山大石寺でおこなわれることとなった。その六百五十遠忌参加者のために日蓮正宗大石寺がつくった「大法會奉行案内」という文書がある。この文書は、一枚の紙の表裏に印刷されている。

表には、「參拝のすゝめ」として大石寺の縁起(えんぎ)、「參拝案内」として「順路、交通」「宿泊」などが書かれている。傑作(けっさく)なのは、「當山(とうざん)附近の名所」が書かれていることである。「當山附近の名所」として次のようなものが挙げられている。

「▽下之坊南十八丁

▽妙蓮寺仝十四丁

▽北山本門寺東二十丁

▽西山本門寺西南二里余

▽駒止の櫻北二十丁

▽曽我神社仝廿五丁

▽工藤祐經の墓仝一里

▽音止の瀧仝一里余

▽白糸の瀧仝

▽人穴仝三里

▽猪之頭瀑園仝三里

▽富士頂上東北六里半

▽天母山東一里半」

「曾我神社」「工藤祐經の墓」は、「曾我物語」の素材となった曾我兄弟の仇(あだ)討(う)ちに由来するものであるが、神社まで案内して六百五十遠忌大法会への参加を募(つの)るほどに、日蓮正宗は落ちぶれていたのである。

「北山本門寺」にしても、この昭和六年当時は日蓮正宗が袂(たもと)を分かった本門宗に帰属していた。「西山本門寺」にしても同じである。いずれも教義を異(こと)にしている邪宗である。そのような邪宗の寺をも「名所」と案内するほどに、日蓮正宗の僧には正邪の弁(わきま)えがなかったのである。

その「名所」案内の上欄に「参拝」として、「本門戒壇大御本尊」「大聖人御肉牙生骨」「大聖人造初御影」「大聖人御霊骨」が説明文とともに紹介されている。まるで京都あたりの観光寺の案内書と変わりはない。

裏には「日蓮正宗総本山大石寺全図」が描かれており、自動車、汽車の時刻表が出ている。この裏にも「當山霊寶の主なる物」が、次のように列記されている。

「□本門戒壇大本尊 宗祖大聖人弘安二年十月十二日御筆

□御肉牙御生骨 宗祖大聖人御生前の御肉歯

□大聖人造初御影 法孫日法上人謹作木像御丈二寸二分

□紫宸殿御本尊 弘安三年三月宗祖大聖人御筆

□本門寺重寶御本尊 弘安三年十一月仝上

其他宗祖開山御筆御漫荼羅二十餘幅

宗祖御自筆御消息三十余通

開山上人御自筆御消息四十九通

□宗祖御所持太刀宗近作一口

□開山行者太刀宗近作一口

□國寶太刀吉用作一口

□紫銅巻龍三具足(宗祖御所持雨所三具足ト稱ス)

□其他古文書、古器物、古來傳持ノ美術品多數アリ」

戒壇の大御本尊も「古文書」「古器物」「美術品」も、同じ「當山霊寶」として一括(いっかつ)して扱われている。日開ら当時の日蓮正宗の僧が、どのような問題意識で大石寺で営(いとな)みをしていたかが、如実に伝わってくる記述である。

日露戦争当時、第五十六世日応は「御本尊一萬幅」を守り札のごとく売りさばき、第六十世日開は昭和六年の宗祖大聖人六百五十遠忌にあたり、御本尊を差別化し、金集めの道具とした。

この日開は、御本尊の誤写(ごしゃ)事件を起こしたが、日開の犯した御本尊誤写を追及した急(きゅう)先鋒(せんぽう)は、その後、戒壇の大御本尊の写真を“お守り”として「二円」で売る小笠原慈聞であった。売僧らが教義を盾(たて)に人を責めるとき、口にする大義名分は卑(いや)しき心を隠しているにすぎない。

 

死の恐怖につけこんだニセ本尊(導師本尊)

「十王信仰」「地獄信仰」という迷信を背景につくられた導師本尊

鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山などの各時代の人々を支配した考えは、末法思想であった。世相(せそう)もまた末法の世を裏(うら)づけるかのように、殺戮(さつりく)、強奪(ごうだつ)、下剋上(げこくじょう)の武力のみが公然(こうぜん)と幅(はば)をきかせ、飢餓(きが)が横行(おうこう)していた。

そのため、民衆は日常的に死を意識し、その死もまた今日のような安穏(あんのん)な死ではなく、刀刃(とうじん)によるもの、飢えによるものなど、いわゆる非業(ひごう)の死を意識していたにちがいない。

骸(むくろ)もあちこちに見かけ、埋葬(まいそう)することもなく路傍(ろぼう)に捨(す)てられたものからは腐臭(ふしゅう)が漂(ただよ)い、新しい骸は野犬や獣(けもの)の餌食(えじき)となり、古い骸は蛆(うじ)のすみかとなったことだろう。

まさに、この世は地獄絵の世界であり、そうした状況の中で聞く地獄の話に、人々は恐怖、戦慄(せんりつ)した。その恐怖、戦慄の度合(どあ)いは、科学がすすみ、あらゆる情報機器に囲まれた現代人には、とうてい理解できないことである。

もし、地獄を意識した昔の人々の心情を少しでも理解したいと思うならば、人里離(ひとざとはな)れた真っ暗な谷間で、ランプ片手に地獄に関して説かれた「経」を読んでみることも一計(いっけい)ではあるまいか。

たしかに、地獄思想は人間の心にある弱き心をからめとり、心の中に虚(うつ)ろで真っ黒な空洞(くうどう)を開けるだけの力がある。誰もが持つ暗愚(あんぐ)な心を引き込むだけの力を持っている。誰もが抱(いだ)く「死」への恐怖心が、地獄を身近(みぢか)なものにし、地獄への陥穽(かんせい)をいっそう大きく広げていく。

地獄は、生きている者にとっても恐怖となるが、その恐怖心はまた死者への憐憫(れんびん)の情をわかせることにもなる。父が、母が、夫が、妻が、わが子が地獄の責(せ)め苦(く)に嘆(なげ)いているのではないだろうか、もしそうだとしたら、それを助ける手立てはないだろうか。

すべての人間が持つ「死」への恐怖、縁(えん)ある者への晴。この、きわめて人間的な感情に葬式仏教は寄生(きせい)し、売僧(まいす)たちは何百年にもわたって、それを食い物にしてきたのだ。

あげくのはては、日蓮大聖人の偽書(ぎしょ)までつくり、人々の地獄への恐怖をあおり、追善供養を余儀(よぎ)なくさせ、ことあるごとに布施(ふせ)を巻き上げようとしたのである。

日蓮正宗の葬儀において奉掲(ほうけい)される導師本尊には、日蓮大聖人が御本尊の中に認(したた)められたことのない「閻魔法皇(えんまほうおう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」の二つの名が書き入れられている。地獄を代表するこの二つの名が書き入れられることにより、この本尊が死者の成仏に特別の効果があると装(よそお)ったのである。

つまり導師本尊(導師曼荼羅)は、「十王信仰」「地獄信仰」という迷信(めいしん)を背景につくられたニセ本尊だったのである。

日蓮宗身延派などにおいては、「閻魔法皇」「五道冥官」が書き加えられた曼荼羅を、特別に「臨終(りんじゅう)曼荼羅」と呼んでいるようだ。この「臨終曼荼羅」もまた、日蓮大聖人滅後に創作(そうさく)されたものであることはいうまでもない。

 

地獄絵図

日蓮宗において「臨終曼荼羅」とは、生者(せいじゃ)が臨終を間近にして授(さず)かったものであった。地獄に堕ちるのではないかという不安を生者から拭(ぬぐ)い去るために、特別に顕(あらわ)され、与えられたものである。

立正大学の松村寿巌教授によれば、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した「臨終曼荼羅」のうち、現存する最古(さいこ)のものは京都本圀寺第十六世日禛の筆によるものだという。

日禛は、天正二十(一五九二)年に「臨終曼荼羅」を書いている。天正二十年は、安土桃山期である。それ以降、江戸期の宝暦十三年(一七六三)年に身延山久遠寺第四十三世理天院日見までのものが、日蓮宗では現存しているようだ。

日蓮宗の「臨終曼荼羅」の多くは、曼荼羅上部に法華経の要句(ようく)を書き入れている。これもまた日蓮正宗の導師本尊と共通の特質である。

「閻魔法皇」「五道冥官」を配した「臨終曼荼羅」は、日蓮宗においては江戸期の寛文年間(一六六一年~一六七二年)を頂点に、時の経過とともにすたれていった。一方、日蓮正宗においては、今日に至るまで、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)之(の)印文(いんもん)」として葬儀専用の曼荼羅として重用(ちょうよう)されてきたのだ。

 

地獄絵図

それでは、今日の日蓮宗において、「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」を配した曼(まん)荼羅(だら)は、まったくその姿を見なくなったのだろうか。いや、現在も日蓮宗では同様の曼荼羅は用いられている。

ただし、死者のまとった麻(あさ)や木綿(もめん)、白紙などの白衣の腰から上の部分に、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した曼荼羅を書き、経帷子(きょうかたびら)として使用している。この経帷子は別名・臨終曼荼羅、曳覆(えいふく)曼荼羅とも称(しょう)する。

この場合の臨終曼荼羅は、前に述べた臨終を間近にした生者に与えられた臨終曼荼羅とは意味合いを異(こと)にする。日蓮宗では、この経帷子を死者に装束(しょうぞく)として着させることにより、地獄の苦悩より脱(だつ)せしめることができるとしているのである。

死者に追善(ついぜん)をするにあたり特別の効能(こうのう)ありとする日蓮宗の経帷子は、日蓮正宗の導師曼荼羅と共通する役割を担っている。

 

日蓮宗各派が葬式仏教化していくなかではびこってきた臨終曼荼羅

日蓮宗において「閻魔法皇」「五道冥官」を特別に配した臨終曼荼羅(生者に与えられたもの)は、京都本圀寺第十六世の日禛のものが最古として現存しているが、そのほかにも、京都本満寺一如院日重、京都立本寺日泰、中山法華経寺日賢、池上本門寺日樹などのものが残っている。

臨終曼荼羅は、「十王信仰」「地獄信仰」に色濃(いろこ)く染(そ)まった民衆にとり入るため、日蓮宗各山でなかなかに重宝(ちょうほう)されたものであったようだ。

京都本圀寺の日禛が臨終曼荼羅を書いた天正二十(一五九二安土桃山期)年以前に、日蓮正宗に導師本尊を認(したた)めた者がいれば、その者が日蓮宗各派にさきがけてニセ本尊を創出(そうしゅつ)したことになるのだが、おそらく、本圀寺日禛より古い導師本尊は現存しないだろう。

それでは、いつ日蓮正宗に「閻魔法皇」「五道冥官」を配したニセ本尊が入り込んできたのだろうか。あくまでこれは推測(すいそく)にしかすぎないが、桃山期、第十五世日昌上人の登座(一五九六年)から江戸中初期、第二十三世日啓上人退座(一六九二年)までの要法寺系九代の法主の間において、用いられるようになった可能性が大である。

江戸時代、日本の各派仏教は寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)に統率(とうそつ)され、幕藩(ばくはん)体制を積極的に担(にな)う役割を負(お)わされた。それとともに、実質的に布教を禁じられ、収入拡大の道として葬式仏教化してゆくのである。

 

受派の領袖・本満寺日重が元和7(1621)年に書いた「臨終曼荼羅」の座配図

(*図右上)
死者の経帷子に書かれた邪宗・日蓮宗の「曳覆曼荼羅」 (*図左下)

日開が書いたニセ本尊である「未来曼荼羅」(枢や骨壺の中に入れた)
(*図右上)

葬儀において掲げないと成仏しないとする日顕が書いたニセ本尊の「導師本尊」 (*図左下)

 

寺社奉行は、三代将軍家光の時代に制度化された(一六一二五年)。以来、各派仏教は民衆を抑圧(よくあつ)する側(がわ)にまわり、死および死後への恐怖を煽(あお)り、それを唯一(ゆいいつ)まぬかれる方法として僧への従属(じゅうぞく)を強(し)いたのであった。

その従属の証(あか)しは、布施(ふせ)の額(がく)のみにより計(はか)られたといっても過言(かごん)ではないだろう。僧は徳川幕府の強権(きょうけん)と民衆の「死」への恐怖を最大限利用して、民衆から収奪しつづけたのである。

当時、民衆救済の情熱を失った多くの僧が熱心におこなったことといえば、幕府の権威・権力を背景に民衆を支配することと、葬儀・法事を利用して金儲(もう)けをすることだけだった。臨終曼荼羅が世にはびこることになったのは、日蓮宗各派が急速に葬式仏教化していったからにほかならない。

総本山大石寺第十五世日昌上人(一五九六年登座~一六二二年寂)の時代は、京都本満寺の日重が盛(さか)んに、臨終曼荼羅を顕(あらわ)していた頃である(現存する臨終曼荼羅のうち日重のものは最多で六体が確認されており、その六体は一六〇〇年から一六二二年の間に書かれている)。

日重から直接ではないにしても、京都ではびこったであろう臨終曼荼羅の影響が、京都要法寺出身の“法主”により大石寺にもたらされたとするのは、格別(かくべつ)無理な推論(すいろん)ではないだろう。

ニセ曼荼羅である導師本尊に認(したた)められている「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」は、日蓮大聖人の御書には一カ所も出てこない。

導師本尊に「五道冥官」が書き込まれていることを理由に、ニセ曼荼羅と断定(だんてい)する本紙『地涌』の指摘に反論するために、日顕宗の教学関係者は「五道冥官」あるいは「冥官」の言葉を、日蓮大聖人の御(ご)聖訓(せいくん)の中に探(さが)そうとしている。

だが、その試(こころ)みは徒労(とろう)に終わるだけである。「五道冥官」「冥官」という言葉は、日蓮大聖人の御書の中にはない。あるのは「五道」という言葉だが、それも「六道」と並記(へいき)されている事例(じれい)のみである。「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」も「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」も一切、日蓮大聖人の御書中に見いだすことはできない。

念のために記すと、「五道」は三カ所に登場する。繰り返すようだが「五道冥官」「冥官」は、まったく登場しない。「五道」が登場する箇所(かしょ)は次のような御書の文中である。

「三千塵点(じんてん)の当初(とうしょ)に悪縁(あくえん)の酒を呑(の)みて五道六道に酔(よ)い廻(めぐ)りて今謗法の家に臥(ふ)したり」(御義口伝)

【通解】迹門(じゃくもん)の意は、釈迦仏法の衆生は三千塵点劫(じんてんごう)という遠い

 

昔に、悪縁の酒、不信、謗法の心をおこして、その結果地獄から人、天にわたる五道、六道の不幸な生活を酔いめぐってきて、今また邪宗、謗法の家に生まれたというのである。

「我等(われら)衆生・五百塵点の下種の珠(たま)を失(うしな)いて、五道・六道に輪廻(りんね)し、貧人(ひんじん)となる」(御講聞書)

【通解】私たち衆生は、五百塵点劫に下種された珠(仏種(ぶっしゅ))を失って、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界の五道や、天界を含めた六道を輪廻して、貧人となって生まれるのである。

「設(たと)い又在在諸仏土(ざいざいしょぶつど)・常与(じょうよ)師(し)倶生(ぐしょう)の人なりとも・三周(さんしゅう)の声聞(しょうもん)の如(ごと)く下種の後に・退大取小(たいだいしゅしょう)して五道・六道に

沈輪(ちんりん)し給(たま)いしが・成仏の期(ご)・来至(らいし)して順次に得脱(とくだつ)せしむべきゆへにや」(最蓮房御返事)

【通解】たとえまた「在在、諸仏の上に、常に師と倶に生ぜん」という人でも、三周の声聞のように、下種された後に大乗を退転し小乗に堕(お)ちて五道・六道に深く沈んできたのが、成仏の時がきて順次に得脱されるゆえであろうか。

引用した御書のいずれも、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)と並列的(へいれつてき)に述べられている。「五道」も、「五道冥官(みょうかん)」といった「十王信仰」や「地獄信仰」に裏づけられたものとは異質(いしつ)なものである。

なお、日蓮大聖人の御書には「閻魔(えんま)」「閻魔法王」あるいは「地獄」などの名称(めいしょう)が登場するが、御本仏日蓮大聖人が「閻魔」「閻魔法王」あるいは「地獄」を記(しる)されるときは、信徒に対し、生きているときに信仰に励(はげ)むことを諭(さと)されてのことである。

「十王信仰」や「地獄信仰」などのように死者への追善(ついぜん)を強要(きょうよう)し、はては法要のたびごとに布施(ふせ)を信者から巻き上げようとする、葬式仏教的な考えとは正反対の目的で使用されている。成仏は本人の生前(せいぜん)の信仰にかかっていると終始(しゅうし)教えられているのだ。

それに反し、導師本尊は用語的にも歴史的にもまぎれもなく「十王信仰」「地獄信仰」に根づくものである。故人の成仏を、出家を呼んでの儀式の如何(いかん)に委(ゆだ)ねているのである。

 

日蓮大聖人の教法と「五道冥官」はまったく無縁

結論的にいえば、日蓮大聖人の教法(きょうほう)と「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」とはまったく無縁(むえん)で、それを御本尊中に認(したた)められるなどといったことはありえないことである。導師本尊(導師曼荼羅)は、ニセ物以外の何物でもない。導師本尊は、日蓮宗各派が葬式仏教化するなかでデッチ上げられたもので、檀徒を支配し収奪(しゅうだつ)するためのものなのである。

念のため、宗教法人立正安国会が日蓮大聖人の御(ご)真筆(しんぴつ)を集大成した「御本尊集目録(もくろく)」に当たり、そこに集められている百二十三体の御本尊の写真でも確認したが、「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」「五道冥官」の名はなかった。

余談(よだん)になるが、日蓮大聖人御入滅(にゅうめつ)に際し、枕頭(ちんとう)に掛けられたと伝えられている御本尊に、「臨滅(りんめつ)度時(どじ)の本尊」と呼ばれる御本尊がある。現在は、鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺に格蔵(かくぞう)されている。弘安三年十月に大聖人が認(したた)められた御本尊である。

この由来(ゆらい)は、日興上人の弟子である日代が日郷に与えた書状の中に、「御円寂(えんじゃく)の時の件(くだん)の曼荼羅を尋(たず)ね出(いだ)され懸(か)け奉(たてまつ)ること顕然也(けんねんなり)、勿論(もちろん)なり」(宰相阿闍梨御返事)とあることによるとされている。

この「臨滅度時の本尊」にも、「閻魔法皇」「五道冥官」は配されていない、他の御本尊同様に、該当する座配には「天照大神」と「八幡大菩薩」が配されている。

日蓮大聖人の御入滅にあたり枕頭に奉掲(ほうけい)されたとされる「臨滅度時の本尊」の由来が正しければ、臨終にあたり特別に奉掲(ほうけい)しなければならない、導師本尊のような別格の本尊などないということが歴史的に実証(じっしょう)されることになる。

ともあれ、「五道冥官」という、日蓮大聖人のまったく使われたことのない名称を御本尊の中に書き入れた導師本尊がニセ物であることは、あまりにも明白である。日顕は今後、このようなインチキ曼荼羅を書くようなことがあってはならない。

日蓮正宗宗務院は、一刻(いっこく)も早くニセ曼荼羅である導師本尊を末寺より回収すべきである。

日蓮正宗総本山大石寺発行の『昭和新定日蓮大聖人御書』には、「十王讃歎鈔(さんたんしょう)」「回向功徳鈔」などが収録(しゅうろく)されているが、これらは日蓮大聖人の御筆(おふで)になるものではなく、まったくの偽書(ぎしょ)である。

いずれの偽書も、死者が地獄で責(せ)め苦(く)にあっている様(さま)を詳細(しょうさい)に記述し、その苦しみから救う方法はただ一つ、僧を呼んで追善供養をすることだと、しつこいほど繰り返し述べている。

「十王信仰」「地獄信仰」の完成型は、僧による追善供養によって死者が救われるということである。すなわち死者の救済(きゅうさい)に、出家の介在(かいざい)が不可欠だとするものである。

しかし、本来、日蓮大聖人の教法にのっとる追善は、出家や在家に関係なく、生者(せいじゃ)の信心いかんにかかっているとされる。同じ追善の言葉を使っても、ここに大きな本質的な違いがある。

日蓮正宗の末寺の中には、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』に「十王讃歎鈔」が収録されていないことを不足に思ってか、『昭和新定日蓮大聖人御書』から、わざわざ「十王讃歎鈔」をコピーにとり、配(くば)っていたところもあった。「十王讃歎鈔」に説かれている、僧が介(かい)しての七日ごとの法要の必要性が、何よりも魅力的だったのだろう。

日蓮大聖人御入滅後に著(あらわ)された他宗派の文である『善光寺縁起』『塵添埃嚢鈔』に書かれた内容が、「十王讃歎鈔」にそのまま記(しる)されており、そのことからみても、「十王讃歎鈔」が偽作(ぎさく)であることは学問的に証明されている。

「十王讃歎鈔」は、いまでは学問的に西暦一三九六年~一四一一年の間につくられたものと特定されるまでになっている。ちなみに、日蓮大聖人は、西暦一二二二年の御生誕で、御入滅は一二八二年である。

思想的には「十王讃歎鈔」は、偽書「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」(一一九〇年~一二〇〇年の間につくられた)や「浄土見聞集」(一三五六年浄土真宗の存覚が著した)などの系譜(けいふ)に連(つら)なるものである。

十王とは、死者を期日ごとに裁(さば)く王で、初七日・秦廣王(しんこうおう)、二七日・初江王(しょうこうおう)、三七日・宗帝王(そうたいおう)、四七日・五官王(ごかんおう)、五七日・閻魔王(えんまおう)、六七日・變成王(へんじょうおう)、七七日・泰山王(たいぜんおう)、百箇日・平等王(びょうどうおう)、一周忌・都弔王(とじょうおう)(都市(とし)王(おう))、三回忌・五道(ごどう)輪轉王(りんてんおう)の十王を指す(「十王讃歎鈔」による)。

ともかく、「十王讃歎鈔」の内容は、日蓮大聖人の仏法とは異質(いしつ)の実に無慈悲なものであり、そこにあるのは、民衆に対する堕地獄(だじごく)の脅(おど)しのみである。このような偽書が、なぜ今日まで日蓮大聖人の御書として半(なか)ば信じられてきたのか、不思議でならない。

やはり、僧侶の祈念によってのみ成仏も追善もなされるといった、出家の側(がわ)の傲(おご)りが、「十王讃歎鈔」へ向けられる眼を曇(くも)らせてきたのだろう。

 

僧による追善のみで死者か救われるとする偽書「十王讃歎鈔」

偽書「十王讃歎鈔」については、大石寺発行の『昭和新定日蓮大聖人御書』の第一巻に全文が収録(しゅうろく)されている。興味のある方は一読されたい。ただし後味(あとあじ)は、すこぶる悪いものとなろう。最後まで読み切るには、異常な性向(せいこう)でもなければ耐(た)え得ないのではあるまいかとも思える代物(しろもの)である。

 

「十王讃歎鈔」は、なかなかの長文だが、その意を汲(く)んで趣旨(しゅし)をもっとえげつなく露骨(ろこつ)に表現したものに、「回向功徳鈔」がある。その冒頭(ぼうとう)の一部を紹介する。

「涅槃経(ねはんぎょう)二云(いわ)ク、死人に閻(えん)魔(ま)王(おう)勘(あ)へて四十九の釘(くぎ)をうつ。先(まず)目に二ツ、耳に二ツ、舌に六ツ、胸に十八、腹に六ツ、足に十五打ツ也(なり)。各々(おのおの)長サ一尺也取意(なりしゅい)。而(しか)ルに娑婆(しゃば)に孝子(こうし)有(あり)て、彼(かれ)追善の為に僧を請(しょう)ぜんとて人をはしらしむる時、閻魔王宮に此事知(このことしれ)て先(ま)ツ足に打たる十五の釘をぬく。其故(そのゆえ)は、佛事(ぶつじ)の為に僧を請ずるは功徳の初なる間、足の釘を抜ク。爰(ここ)に聖霊(しょうりょう)の足自在也。さて僧来て佛を造(つく)り、御経を書ク時、腹の六の釘を抜ク也。次に佛を作り開眼(かいげん)の時、胸の十八の釘をば抜ク。さて佛を造リ奉(たてまつ)り、三身の功徳を読ミ上ケ奉て、生身の佛になし奉り、冥途(めいど)の聖霊の為に説法し給(たま)へと読ミ上ケ候時、聖霊の耳に打て候ヒシ二ツの釘を抜ク也。此佛(このほとけ)を見上(みあ)ケまいらせてをがむ時に、眼に二ツ打チたる釘(くぎ)を抜キ候也。娑婆(しゃば)にて聖霊の為に題目を声をあげて唱(とな)へ候時、我志(こころざ)す聖霊も唱フる間、舌に六ツ打て候ヒシ釘を抜キ候也。而(しか)ルに加様(かよう)に孝子有て迹(じゃく)を訪(とぶら)へば、閻(えん)浮提(ぶだい)に佛事をなすを閻魔法王も本(もと)より権者(ごんしゃ)の化現(けげん)なれば是(これ)を知(しり)て罪人に打チたる釘を抜キ免(めん)じて候也。後生を訪(とぶら)ふ孝子なくば何(いず)レの世に誰か抜キえさせ候べきぞ。其上(そのうえ)わづかのをどう(茨棘)のとげのたちて候だに忍び難(がた)く候べし。況(いわん)や一尺の釘一ツに候とも悲しかるべし。まして四十九まで五尺の身にたてゝは何とうごき候べきぞ。聞クにきもをけし、見ルに悲シかるべし。其を我も人も此(この)道理を知ラず、父母兄弟の死して候時、初七日と云フ事をも知ラず、まして四十九日百箇日と云フ事をも、一周忌と云フ事をも、第三年と云フ事をも知ラず、訪ハざらん志(こころざし)の程浅猿(ほどあさまし)かるべし。聖霊(しょうりょう)の苦患(くげん)をたすけずんば不(ふ)孝(こう)の罪(つみ)深し。悪霊(あくりょう)と成てさまたげを成し候也(以下略)」(総本山大石寺発行「昭和新定日蓮大聖人御書』より一部抜粋)以上のように、「回向功徳鈔」は初めから、僧を呼びに行っただけで死者の足に打たれた十五の釘が抜かれると、露骨(ろこつ)に僧の存在意義を強調しており、「聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し、悪霊と成てさまたげを成し候也」とまで言って脅(おど)している。なお、冒頭の涅槃経云々はまったくのウソ。

死者を安(やす)んじ成仏させることができるのは僧だけだと、執拗(しつよう)に述べているのだ。ニセ曼荼羅である導師本尊を掲(かか)げ、僧が引導(いんどう)を渡さなければ成仏しないと信者を脅す日顕宗の教義と同類のものである。

ニセ曼荼羅である導師本尊に書かれている「閻魔法(えんまほう)皇(おう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」の背後(はいご)には、偽書(ぎしょ)を御書となす悪(あく)比丘(びく)らの頽廃(たいはい)があるのだ。

偽書「十王讃歎鈔」には、日蓮大聖人の御書にはない「冥官」という言葉が三カ所登場する。このこともまた、偽書「十王讃歎鈔」とニセ曼荼羅・導師本尊が、通底(つうてい)していることを示しているのである。

さらに、「五道冥官」は親鷲の「和讃」にも登場する、あるいは念仏の始祖(しそ)である善導の『法事讃』に「五道太山」が登場するがそれにも通じていると見られる。「五道冥官」は、念仏の思想的系譜(けいふ)の延長線上にあるともいえる。

導師本尊―実に奇怪(きっかい)なるニセ本尊である。

 

唱題折伏に励み、広布に生涯を捧げた人が成仏しないはずがない

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「但(ただ)在家の御身(おんみ)は余念(よねん)もなく日夜朝夕(にちやちょうせき)・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚(みょうがく)の山に走り登り四方を御覧(ごらん)ぜよ、法界(ほうかい)は寂光土(じゃっこうど)にして瑠璃(るり)を以(もっ)て地とし・金(こがね)繩(なわ)を以て八(やつ)の道をさかひ、天(そら)より四種の花ふり虚空(こくう)に音楽聞え、諸仏・菩薩はみな常楽我浄(じょうらくがじょう)の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列(つら)ならん、法華経はかかる・いみじき御経にて・をはしまいらせ候」(松野殿御返事)

【通解】在家の身としては、ただ余念なく、日に夜に、朝に夕に南無妙法蓮華経と唱えて、最後臨終の時を見なさい。妙覚の山に走り登って、頂上から四方を御覧なさい。法界は寂光土であり、瑠璃を以って大地とし、黄金の縄で涅槃にいたる八つの道の境をし、天からは曼(まん)陀(だ)羅(ら)華(け)等の四種類の花がふり、虚空に妙なる音楽が聞こえ、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の四徳の風にそよめいている。我等も、必ずその仏・菩薩の数の内に連なるであろう。法華経はこのようにすぐれた経なのである。

「今生(こんじょう)につくりをかせ給ひし小罪(しょうざい)はすでにきへ候いぬらん、謗法の大悪は又法華経に帰(き)しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山(りょうぜん)にまいらせ給いなば・日いでて十方(じっぽう)をみるが・ごとくうれしく、とくしにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」

(妙心尼御前御返事)

【通解】今生につくりおかれた小さな罪はすでに消えてしまったことであろう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依(きえ)されたことにより消え失(う)せるにちがいない。やがて霊山に参(まい)られたならば、太陽が出て士方世界を見晴らすようにうれしく、早く死んでよかったと喜ばれることであろう。

 

また、日蓮大聖人はもったいなくも、次のようにも仰せになっている。

「我(われ)より後に来(きた)り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」(大白牛車御消息)

【通解】日蓮より後に来る人々は、この車に乗られて霊山へおいでになられるがよい。そのとき、日蓮も同じ車に乗ってお迎えに向かうであろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

御本仏日蓮大聖人は、みずから弟子を迎えるとまでおっしやっているのだ。

一度でも御題目を唱えた者は、みな仏なのである。まして、仏意(ぶつい)仏勅(ぶっちょく)の不思議な団体である創価学会に縁(えん)し、広宣流布の陣列(じんれつ)に加わった者が成仏しないはずはない。

「問うて云く法華経の意をもしらず只(ただ)南無妙法蓮華経と計(ばか)り五字七字に限りて一日に一遍(いっぺん)一月乃至(ないし)一年十年一(いち)期生(ごしょう)の間に只(ただ)一遍なんど唱えても軽重(けいちょう)の惡に引かれずして四(し)悪趣(あくしゅ)におもむかずついに不退(ふたい)の位(くらい)にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり」(法華経題目抄)

【通解】問うていうには、法華経の意味も知らず、ただ南無妙法蓮華経とだけ五字七字の題目のみを、一日に一遍、一日あるいは一年、十年、一生の問にただ一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣にいかないで、ついには不退転の位に到達(とうたつ)することができるのか。答えていうには、いかにもそのとおりである。

また、仏法の本義からみれば、人間は死して成仏するのではない。日蓮大聖人の教えを信じ、唱題折伏に励(はげ)む人々はことごとく、すでに成仏の境界(きょうがい)にあるのだ。

「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若(も)し能(よ)く持(たも)つこと有れば即ち仏身を持つなり』」(上野殿後家尼御返事)

【通解】生きておられたときは生の仏、今は死の仏、生死ともに仏である。(法華経の)即身成仏という大事の法門は、このことを説きあらわされたのである。法華経の第四の巻・宝塔品に「若し能く(この経を)持つ者は仏身を持つ者である」とある。

どうして、広宣流布に生涯を捧(ささ)げた人、あるいは一度でも南無妙法蓮華経を唱えた人が、成仏していないといえるのだろうか。

 

信心する者は生死を超えて成仏の境界にある

「導師本尊がニセ曼荼羅というのなら、これまで導師本尊で葬儀をおこなった故人は不成仏ではないか」との悪比丘らの難癖(なんくせ)も、日蓮大聖人の大慈大悲によれば風の前の塵に等しい。御本仏日蓮大聖人を純真に慕(した)う人々に対し、御本仏は慈愛(じあい)をもって次のように仰せになっている。

「設(たと)い殿の罪ふかくして地獄に入(い)り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用(もち)ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗(やみ)に月の入るがごとく湯に水を入れるるがごとく冰(こおり)に火を・たくがごとく・日輪(にちりん)にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ」(崇峻天皇御書)

【通解】もし、あなたの罪が深くて地獄に堕(お)ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたと一緒(いっしょ)に地獄へ入ろう。日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におられるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇(やみ)の中に月が入って輝(かがや)くようなものであり、また湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷に火をたいて溶(と)かしてしまうようなものであり、また太陽に闇(やみ)を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄(じごく)即(そく)寂光(じゃっこう)の浄土(じょうど)となるであろう。

「四条金吾が罪深くして地獄に行くのであれば、私も一緒に地獄に行こうではないか」との御本仏日蓮大聖人の大慈(だいじ)大悲(だいひ)と、「導師本尊を掲(かか)げなければ地獄に堕(お)ちるぞ」と脅かす日顕宗の輩を対比してみれば、多くの言葉はいるまい。

日蓮大聖人の教えを懸命(けんめい)に実践してきた弟子を、いかに御本仏が思いやられたかを知れば、広宣流布に生き抜いた同志たちが、霊山(りょうぜん)においていかなる称賛を受けたかを確信することができる。

まして、その後において子々孫々が純真なる信心を貫(つらぬ)き、故人を追善(ついぜん)することは甚深(じんしん)なる意義がある。

「今日蓮等の類(たぐ)い聖霊(しょうりょう)を訪(とぶら)う時(とき)法華経を読誦(どくじゅ)し南無妙法蓮華経と唱(とな)え奉(たてまつ)る時・題目の光無間(むげん)に至りて即身成仏せしむ」(御義[伝)

【通解】今、日蓮大聖人およびその門下が、大御本尊に結縁(けちえん)して亡くなった人を法華経方便品第二、寿量品第十六を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養する時、題目の光が無間地獄に至って、即身成仏することができる原理である。

 

南無妙法蓮華経に縁(えん)した衆生は無量(むりょう)の功徳を受け、信心する者は生死を超(こ)えて成仏の境界(きょうがい)にある。さらに仏子らの唱える追善の題目は、とこしえの別離(べつり)となる死を超えて、無限の彼方(かなた)を照らすのである。

どのような理由をもって、導師本尊を掲(かか)げなければ不成仏というのか。

故人の信心は強盛(ごうじょう)にして、遺族の信心もまた純真であるのに、法脈に忍び込んだ「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」障(さわ)りをなし得ようや。先立った仏子らの成仏は、疑いのないことである。

ただし、導師本尊の過(あやま)ちを指摘(してき)されたのちも、それに執着(しゅうちゃく)し、導師本尊を掲げぬ葬儀では不成仏と謗(そし)る徒輩(とはい)は、もはや日蓮大聖人の弟子とはいえない。まさしく謗法の者である。

 

「十王讃歎鈔」のタネ本とされる「地蔵十王経」は偽経

これまで、宗祖日蓮大聖人の御書とされてきた「十王讃歎鈔」が、実は偽書(ぎしょ)であることについては先に述べたが、この「十王讃歎鈔」は、「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」(以下「地蔵十王経」と略す)を種本(たねほん)にしてつくられた。この「地蔵十王経」は鎌倉初期に日本においてつくられたことが、今日では学問的に証明されている。

この「地蔵十王経」、当時のふれこみでは中国の高僧である蔵川という人の作とされていた。ところが、それは真っ赤な偽(いつわ)り。日本で偽作されたものだった。

この偽経(ぎきょう)は、鎌倉、南北朝、室町時代を経(へ)て江戸時代へとつづく武家社会において、追善(ついぜん)の宗教的根拠(こんきょ)とされた。武家社会に横行(おうこう)した殺生(せっしょう)や人倫(じんりん)にもとる行為に対し、後ろめたさを感じた人々が、追善をしなければとの強迫(きょうはく)観念(かんねん)にとらわれたのだろう。

日本に十仏事(ぶつじ)(初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周忌、三回忌)が定着するにつれ、この偽経「地蔵十王経」が重宝(ちょうほう)され、各宗派別に、この「地蔵十王経」をタネ本として、さらに新たな偽書がつくられたのだった。

「地蔵十王経」をタネ本としたものとしては、件(くだん)の「十王讃歎鈔」以外にも、空海(くうかい)の作と伝えられる『弘法大師逆修日記』、法然(ほうねん)作と伝えられる『金剛宝戒釈義章』など多くの書がある。

すなわち、偽経「地蔵十王経」は、鎌倉初期に偽作(ぎさく)され、それ以降の日本宗教界に強烈(きょうれつ)な影響を与えた。今日、伝えられる「十王信仰」「地獄信仰」は、その源(みなもと)をこの偽経に発するとまでいえるのである。

偽経が日本の思想、風俗(ふうぞく)をつくり出したのだ。恐るべきことである。この偽経の真実の作者は、いまだに不明である。「地蔵十王経」では、追善(ついぜん)の必要を執拗(しつよう)に説いている。次にその代表的箇所(かしょ)を紹介する。

「亡人苦に逼(せ)められて愁歎(しゅうたん)し、頌(ず)して曰く。

七七箇日を待つて飲食(おんじき)せずして寒(かん)に逼(せ)めらる。男女遺財(いざい)を以つて早く善を造して我を扶(たす)けよ。

設(も)し親禁ぜられて獄に入らば子として静かに家に居る哉(かな)。何(いか)に況(いわ)んや閻獄(えんごく)の苦をや。頭の燃ゆるすら猶喩(なおたとえ)に非(あら)ず」

「縁ある人の男女亡人を救はんと欲(ほっ)せば、今日追善に八齋戒(はっさいかい)を受けよ。福力殊勝(ふくりきしゅしょう)なり。男女瞋(いか)ること勿(なか)れば能(よ)く亡苦(ぼうく)を救ふ」

故人が遺(のこ)した財をもって追善供養せよと記している。

この「地蔵十王経」と、日蓮大聖人の御書を擬(ぎ)した「十王讃歎鈔」は、文の構成、文章ともに酷似(こくじ)している。また「十王讃歎鈔」には、「されば十王経には二七日は亡人奈河(なか)を渡るとあり」という記述もある。たしかに「地蔵十王経」には、「二七亡人奈河を渡る」と記述されている。

すなわち、ここでいう「十王経」とは「地蔵十王経」

のことである。この記述をみても「十王讃歎鈔」が「地蔵十王経」を参考につくられたことは明らかである。

悪辣な脅しばかり繰り返す偽書「十王識歎鈔」

「十王讃歎鈔」は「地蔵十王経」同様、初七日、二七日(十四日)、三七日(二十一日)、四七日(二十八日)、五七日(三十五日)、六七日(四十二日)、七七日(四十九日)、百箇日(ひゃっかにち)、一周忌(き)、三回忌ごとに、十人の王が入れ替わり立ち替わり、死者が生存中に犯した罪を裁(さば)くとする。

このとき、死者がそれぞれの王に辱(はずかし)められ責められるのを助けるのは、残された夫や妻や子をはじめとする親類縁者の追善供養しかないと説くのである。

以下、忌日(きじつ)ごとに裁く王の名と、その王の責めから死者を救うために追善供養をせよと記している箇所(かしょ)を紹介する。引用文は、すべて日蓮大聖人の御書を偽(いつわ)る「十王讃歎鈔」(『昭和新定日蓮大聖人御書』大石寺発行)である。

まずは初七日において、秦廣王(しんこうおう)より死者は次のように申し渡される。

「時に大王汝(なんじ)今まではゞかるところもなく道理だてを申(もうし)つるに、などてや今返事をば申さぬとせめ給(たま)へば、勅定肝(ちょくじょうきも)に銘(めい)じて泣クより外(ほか)の事はなし。此時我心(このときわがこころ)を恨(うら)み、千度百度悔(くゆ)れども後悔先(こうかいさき)にたゝず。故に後世を心(こころ)に懸(か)クべき事肝要也(かんようなり)。徒(いたずら)らに多くの月日を送り居てで剩(あまつ)さへ罪業(ざいごう)を犯し・又三途(さんず)の古郷に還(かえり)て、重(かさね)て苦(くるし)ミをうけん事更(さら)に誰をか恨(うらま)んや」

【通解】そのとき、閻魔大王が、お前はいままで遠慮(えんりょ)もなく理屈を言っていたのに、なぜいまは返事をしないのかと責められたところ、大王の言葉が肝に銘じて、泣くよりほかにはない。そのとき、自分の心を恨み、千回、百回と悔いても、後悔先に立たずである。だから、後世を心に懸けることが肝要なのである。いたずらに多くの月日を送っていて、そのうえに罪業を犯し、また三途(三悪道)の故郷に帰って、重ねて苦しみを受けることは、さらに誰を恨んだらよいのか。

これが、その後につづく、死者に対する地獄の責(せ)め苦(く)の伏線(ふくせん)となる。

二七日初江王(しょこうおう)

「さても罪人、妻子の追善(ついぜん)今や今やと待ツ處(ところ)に、追善をこそせざらめ、還(かえっ)て其(その)子供跡の財寶(ざいほう)を論じて種々の罪業を致(いた)せば、罪人彌々(いよいよ)苦をうく。哀(あわ)れ娑婆(しゃば)にありし時は、妻子の為(ため)にこそ罪業を造(つくり)て、今かゝるうきめを見るに、少しの苦を輕(かろ)フする程の善根(ぜごん)をも送らざること恨(うら)み限りなし。貯(たくわ)へ置(おき)し財寶一(ひとつ)だにも今の用にはたゝざりけりと、一方(ひとかた)ならぬ悲シさに泣キさけぶこそ哀れなれ。大王是(これ)を御覧(ごらん)じて、汝が子供不孝(ふこう)の者也、今は力及ばずとて地獄に堕(おと)さる。又追善をなし、逆謗(ぎゃくぼう)救助の妙法を唱へ懸(か)クれば成佛(じょうぶつ)する也。然(しか)れば大王も歓喜(かんき)し給ひ、罪人も喜ぶ事限無(かぎりな)シ」

【通解】ところで、罪人が妻子の追善をいまかいまかと待つところに、追善するどころか、かえってその子どもが親の残した財産を争って、さまざまな罪業をつくるので、罪人はいよいよ苦しみを受ける。哀れなことに、娑婆にいたときは妻子のために罪業をつくって、いまこのような憂(う)き目を見ているのに、少しの苦しみを軽くするほどの善根さえも送らないことに対して恨みは限りがない。貯(たくわ)えておいた財宝の一つさえもいまの(苦を救う)役には立ちはしないと、このうえない悲しさに泣き叫ぶさまこそ哀れである。閻魔大王は、これをご覧になって、お前の子供は不孝者である。いまは私の力も及ばないと言って、地獄に堕(お)とされるのである。また、追善をおこない、五逆罪と正法誹謗(ひぼう)の者も救い助けることのできる妙法を唱えて回向(えこう)すれば成仏するのである。そうすれば大王も歓喜され、罪人も喜ぶことは限りないのである。

 

秦広王(京都・浄福寺本「十王図」土佐光信作・室町時代)

 

三七日 宗帝王(そうたいおう)

「去リながら娑婆(しゃば)に子供もあまた候間(そうろうあいだ)、其(その)中ニ若(もし)も孝子有(あり)て定(さだめ)て善根を送ル可(べく)候。偏(ひとえ)に大王の御慈悲にてしばらおまちそうらなげおもていか

且(しばら)く御待候(おまちそうら)へと歎(なげ)き申せば、大王面(おもて)には瞋(いか)り給へども内には御慈悲深き故に、汝(なんじ)が罪業一々に隠(かく)レ無キ上は地獄に堕(おと)すべけれども先々待(まずまずまつ)べしと宣(おたま)ふ。然(しか)れば罪人の喜ヒ限無シ。此如(かくのごと)ク待チ給(たもう)に孝子善根をなせば、亡者(もうじゃ)罪人なれども地獄をまぬがるゝ也。されば大王も追善を隨喜(ずいき)し給て、汝には似ざる子供とて、褒美(ほうび)讃歎(さんたん)し給フ也」

 

【通解】しかしながら、娑婆に子供がたくさんいるので、その
初江王(同)

宗帝王(同)

なかに、もし親孝行な子がいれば、かならず善根を送ってくれることだろう。ひたすら、大王の御慈悲によってしばらくお待ちくださいと嘆いて言ったので、閻魔大王は顔では怒っていても内心は慈悲が深いため、お前の罪業がすべて明らかなので、地獄に堕とすべきであるけれども、しばらく待っていようと筈.日われた。そこで、罪人の喜ぶことは限りない。このように待っているあいだに孝子が善根を積むと、亡者は罪人であっても地獄に堕ちることを免(まぬか)れるのである。だから、大王も追善を随喜されて、お前には似ないよい子であるとほめられ、賛歎するのである。

 

四七日 五官王(ごかんおう)

「さて暫(しばら)く息を續(つづ)カせて大王宣(のたまわ)く、汝能聞(よくきけ)、娑婆にある妻子懃(ねんご)ろに訪(とぶら)フならば先々(さきざき)の王の前にて善處(ぜんしょ)の生に轉(てん)ぜらるべきに、汝死して後は我身のさはぐり(詮議(せんぎ))世を過クべき嗜(たしな)み計(ばかり)にて、汝が事をば打(うち)忘れてとぶらふ事もなし。之ニ依(よって)此まで迷ひ來る。佛(ほとけ)説キ置キ給ふ妻子は後世の怨(あだ)なりとは此謂也(このいわれなり)。今此(この)苦に代(かわ)れりや否(いな)ヤ。然るに恨(うら)むべき我身をば恨みずして冥官(みょうかん)を恨る事愚癡(ぐち)の至極也(しごくなり)」

【通解】そして、しばらく息をつづかせてから、閻魔大王は、お前よ、よく聞け。娑婆にいる妻子が心から弔ったならば、前の王のところで善処に転じて生まれたはずなのに、お前が死んだ後は我が身のことを考え、世を過ごす苦労ばかりをしていて、お前のことなど忘れて弔うこともない。そのために、ここまで迷ってきたのである。仏説に、残しておいた妻子は後世の怨である、とあるのはこのためである。いま、この苦しみに代わることができるかどうか。ところが、恨むべき我が身を恨まずに、冥官(閻魔大王のこと)を恨むことは愚(おろ)かの極(きわ)みである。

 

五七日 閻魔王(えんまおう)

「構へて構へて亡魂(ぼうこん)の菩提(ぼだい)をとぶらひ給ふべし。又化(け)ノ功己(こうおのれ)ニ歸(き)ス(す)の道理なれば、亡者(もうじゃ)をとぶらふも我身

 

五官王(同)

 

の爲なり。所詮(しょせん)亡者の浮沈(ふちん)は追善(ついぜん)の有無(うむ)に依ル也。此等の理(ことわり)を思て自身も信心を催(もよお)し、六親(ろくしん)をも回向(えこう)あるべし。中にも閻魔大王の御前(ごぜん)にして大苦を受(うく)る故三十五日の追善肝心(ついぜんかんじん)也。此砌(みぎり)に善根(ぜんこん)をなせば、悉(ことごと)く鏡の前にうつる時、大王を始(はじめ)として諸(もろもろ)の冥官(みょうかん)等も隨喜(ずいき)し給フ也。又罪人もとぶらひを受て喜フ事限無シ。此如(このごと)ク作善(さくぜん)の多少功徳の淺深(せんじん)を分別し、或は成佛(じょうぶつ)シ、或は人間、或は天上に送り、或は又次の王へ遣(つか)サ被(る)也」

【通解】くれぐれも、亡き魂の菩提を弔いなさい。また、化の功徳は己(自分自身)に帰るという道理なので、亡者を弔うのも我が身のためである。結局、亡者の浮沈は追善の有無によるのである。こうした道理を考えて、自分自身も信心を起こし、肉親にも回向すべきである。なかでも、閻魔大王の御前において大苦を受けるので、一二士五日忌の追善が肝要である。そのときに善根をおこなうと、ことごとく(浄頗梨(じょうはり))の鏡に映って、閻魔大王をはじめとして諸々の冥官等も歓喜するのである。また、罪人も弔いを受けて喜ぶこと限りがない。このように、(大王は)善根の多少と功徳の浅深を分別して、あるいは成仏、あるいは人間、あるいは天界に送り、あるいは次の王のもとへと送りやるのである。

 

六七日 變成王(へんじょうおう)

「孝子(こうし)の善根忽(たちまち)に顯(あらわ)るれば大王是(これ)を御覧じて、此罪人には娑婆(しゃば)に追善あるぞや、早々(そうそう)ゆるすべし、と獄卒共(ごくそつども)に下知(げち)し給へば、即(すなわ)チ縛繩(ばくじょう)を解(とき)て生處(せいしょ)を善處(ぜんしょ)に定めらる。時に取て喜び譬(たと)へん方なし。餘(あま)りのうれしさに是を子共(こども)に知せばやと又泪(なみだ)をぞ浮(うか)べける。或は又其子悪事をなす時は、其親彌々(いよいよ)苦を増てそれを地獄へ遣被(つかわさる)也。故に能々(よくよく)亡者をとぶらふべき事也」

【通解】孝子による追善がたちまちに顕れると、閻魔大王はこれをご覧になって、この罪人には娑婆において追善があるぞ、すぐに許してやれと獄卒どもに命じられて、即座に捕縄(ほじょう)を解いて、善処に生まれるように定められる。そのときの罪人の喜びようはたとえようもない。あまりのうれしさに、このことを子供に知らせてやりたいと、また涙を浮かべていた。あるいはまた、その子供が悪事を犯すときは、その親はますます苦しみを増して、地獄へ追いやるのである。それゆえに、よくよく亡者を弔うべきなのである。

 

閻魔王(同)

 

七七日 泰山王(たいせんおう)

「若跡(のしあと)の追善懃(ねんご)ろなれば、悪處(あくしょ)の果轉(かてん)じて善處(ぜんしょ)に生をうく。是(これ)故に四十九日のとぶらひ惣うに營(いとな)むべし」

【通解】もしも、死後の追善がねんごろであれば、悪処に生まれる果報が転じて、善処に生まれることができる。このために、四十九日忌の弔いをねんごろにおこなうべきである。

 

百箇日 平等王(びょうどうおう)

「今頼(たの)む方とては娑婆(しゃば)の追善計(ついぜんばかり)也。相構(あいかま)へて相構て追善を營(いとな)み、亡者(もうじゃ)の重苦(じゅうく)を助くべし」

【通解】いま頼りにするのは娑婆の追善ばかりである。くれぐれも追善をおこない、亡者の重い苦しみを助けるべきである。

 

「かゝる厚恩(こうおん)を蒙(こうむ)れば身の徒(いたず)らに月日を送りて居て、三途(さんず)の重苦に沈みたる親の菩提(ぼだい)を弔(とむら)はざらんは淺間敷(あさましき)

 

變成王(同)

 

泰山王(同)

事也。爭(いかで)か諸天悪(にく)み給はざらんや。其上多くは子を思ふ故に地獄の重苦を受る事あり。構へて弔フても弔フべきは二親(ふたおや)の後生(ごしょう)菩提也」

【通解】このような厚い恩を受ければ、我が身がいたずらに月日を送っていて、三途(三悪道)の重い苦しみに沈んでいる親の菩提を弔わないということは、あさましいことである。どうして諸天が憎まないことがあるだろうか。そのうえ、多くは子供を思うために(罪を犯して)地獄の苦しみを受けることがある。くれぐれも、弔っても弔うべきなのは両親の後生であり、菩提である。

 

一周忌 都弔王(とちゅうおう)

「汝(なんじ)は我身を思はぬ不當(ふとう)の者なれども妻子孝養(こうよう)の善人也。此一周忌の營(いとな)みに依(より)て第三年の王へ送被(おくらる)」

【通解】お前は、我が身を思わない不法な者であるけれども、妻子は孝養する善人である。この一周忌の追善によって、第三年の王のもとへと送られた。

 

三回忌 五道輪轉王(ごどうりんてんおう)
 

「五道転輪王」
「五道転輪王」
「若(もし)又追善をなし、菩提を能々(よくよく)祈れば成佛セ令(し)メ或は人天等に遣被(つかわさる)也」

【通解】もしまた追善をおこない、菩提をよくよく祈れば成仏させる。あるいはまた、人界・天界などにつかわされるのである。

平等王(同)

 

都弔王(同)

なんとも悪質な脅(おど)しばかりの繰り返しである。人の不幸を飯(めし)の種(たね)にしようとする売僧(まいす)の魂胆(こんたん)が丸見えの文である。愛別(あいべつ)離苦(りく)にあえぐ者を脅迫(きょうはく)し、向こう二年間はしっかりつかまえて収入源にしようとしている。なんとも、おぞましいかぎりである。

この卑(いや)しい文が、宗祖日蓮大聖人の御(ご)聖訓(せいくん)とされてきたのだ。それだけではない。信徒を欺(あざむ)く悪比丘の小道具として何百年もの間、珍重(ちんちょう)されてきたのだ。ここでの追善とは、とりもなおさず僧を呼んでの法要のことで、もちろん、それには供養(布施)がつきものである。

 

「十王讃歎鈔」の基底(きてい)にあるのは出家の堕落、傲慢(ごうまん)、怜悧(れいり)

この「十王讃歎鈔」が、天下の偽書(ぎしょ)「地蔵十王経」を種本(たねほん)にしてつくられたことを示すために、酷似(こくじ)した何カ所かを以下に並記(へいき)して紹介する。

「之ニ依(より)テ此山を死出(しで)の山とは云フなり。足のふみどころも覺(おぼ)えねば、嶮(けわし)き坂に杖(つえ)を求ムれども與(あたう)ふる人もなく、路の石に履(くつ)を願へどもはかする人もなし」(「十王讃歎鈔」)

「閻魔(えんま)王國の堺(さかい)は死天門の南門なり。亡人の重過(じゅうか)あるは兩莖(りょうけい)相ひ逼(せま)つて、奏(そう)(月へんに奏)を破り、膚(はだ)を割(さ)き、骨を折り、髄(ずい)を漏(もら)す。死して天に死を重ぬ。故に死天と言ふ。此れより亡人向つて死山に入り、險坂(けんはん)に杖を尋ね、路石に鞋(くつ)を願ふ」(「地蔵士王経」)

 

「今前後に鬼どもの怖(おそろ)しさ、目もあてがたしと見ゆ。又岸の上に大なる木あり、此は衣領樹(えりょうじゅ)と名(なづ)く。此上に一の鬼あり、懸衣翁(けんねおう)と名く。又樹木の下に一の鬼あり懸(けん)衣嫗(ねう)と名く。此鬼罪入の衣裳(いしょう)を剥取(はぎとり)て上なる鬼に渡せば、即請取(うけとり)て木の枝に此を懸(かく)る」(「十王讃歎鈔」)

 

「官前に大樹有り。衣領樹と名く。影に二鬼を住す。

一を奪(だつ)衣婆(えば)と名(なづ)け、二を懸衣翁と名く。婆鬼(はき)は盗業(とうごう)を警(いまし)めて兩手の指を折り、翁鬼(おうき)は義無きを惡(にく)んで頭足を一所に逼(ちじ)め、尋(つ)いで初開の男をして其の女人を負(お)はしめ、牛頭(ごず)、鐡棒(てつぼう)をもつて二人の肩を挟(はさ)み、追うて疾瀬(はやせ)を渡し、悉(ことごと)く樹下に集む。婆鬼は衣を脱(ぬが)せしめ、翁鬼は枝に懸けて罪の低昂(ていこう)を顯(あらわ)し、後、王廳(おうちょう)に送る」(「地蔵十王経」)

 

「又大城の四面に鐡(てつ)の牆(へい)を圍(かこ)へり。四方に各人鐡の門を開く。門の左右に又壇荼(だんだ)幢(どう)あり、幢(はた)の上に同人頭(どうにんず)あり、能(よ)ク人間(にんげん)の振舞(ふるまい)を見ル事明(あきら)か也」(「十王讃歎鈔」)「大城の四面に周園して鐡牆(てつしょう)あり。四方に鐡門を開けり。左右に檀荼憧有り。上に人頭の形を安んず。人能く人間を見ること掌中(しょうちゅう)の菴羅菓(あんらか)を見るが如し」(「地蔵十王経」)

 

「次に別院あり、光明院と名く。此院内に九面の鏡あり、八方に各一の鏡を懸ケたり。中臺(だい)の鏡を淨頗梨(じょうはり)鏡(きょう)と名ツクる也」(「十王讃歎鈔」)

「次ぎに二院有り。一を光明王院と名(なづ)け、二を善名稱院と名く。光明王院、中殿の裏に於(おい)て、大鏡臺(きょうだい)有つて光明王鏡を懸(か)く。淨頗梨鏡と名く」(「地蔵十王経」)

 

「獄卒(ごくそつ)を召(めし)てこれなる罪人は倶生神(ぐしょうしん)の札を疑ひ兎角(とかく)云フ計(ばかり)なし。夫(それ)倶生神と云フは汝(なんじ)と同時に生れて、影の身にそふ如(ごと)くに付そひて、須臾(しゅゆ)の間も身を離れず注し置キたる札なれば、毛のさき程も違(たが)ふべからず。それに尚面(なおおもて)の墨(すみ)を諍(あらそ)はゞ、よしよし淨頗梨の鏡にて汝(なんじ)が諍を止ムべしと仰セあり。鬼共勅定(ちょくじょう)を蒙(こうむり)て罪人の左右の手を取提げ、光明院の宮殿を開き九面の鏡の中に此罪人を置クに、一々の鏡の面に一期(いちご)の間作りたる罪業殘(のこり)無し。又人にしらせず心一ツ思ひし念々の悪業まで、一も残らず浮びうつりて隈もなし」(「十王讃歎鈔」)

「閻魔法王此の王鏡に向つて自心の事、三世の諸法、情、非情の事を鑑(かんがみ)るに皆悉(ことごと)く照す。然(しか)も復(また)た八方に圍(かこ)むに方毎(ほうごと)に業鏡(ごうきょう)を懸(か)く。一切衆生の共業増上(くぎょうぞうじょう)の鏡なり。時に閻魔王、同生神(どうしょうしん)の簿(ぼ)と人頭の見とをもて亡人を策髪(さくはつ)し、右遶(うにょう)して見せしむ。即ち鏡の中に於いて前生(ぜんしょう)に作(な)す所の善福惡罪を現ず。一切の諸業各形像を現ずること、猶(なお)し對(たい)せる人の面、眼、耳を見るが如し」(「地蔵十王経」)

これ以外にも、たくさん似た箇所がある。日蓮大聖人の作とされてきた「十王讃歎鈔」は、まぎれもなく偽経(ぎきょう)「地蔵十王経」を種本につくられたものだ。このような代物(しろもの)が、長年日蓮大聖人の御書と思われてきたことが不思議でならない。

日蓮正宗において、今日まで「即身成仏之印文(そくしんじょうぶつのいんもん)」とされてきた導師本尊に書き込まれている「五道冥官(みょうかん)」。この「冥官」という言葉は、偽書「十王讃歎鈔」にしか出てこない。いうなれば導師本尊の根拠は、この「十王讃歎鈔」にしか求めることができないのだ。

その「十王讃歎鈔」が、いまや偽書であることが歴然(れきぜん)とした。しかも、人の不幸と悲しみにつけ入り、人の抱く死への恐怖に依(よ)って、信徒を僧に隷属(れいぞく)させ、追善供養を強要(きょうよう)しようとしているのだ。

まことに「十王讃歎鈔」は、稀代(きだい)の悪書である。そして、導師本尊とこの偽書「十王讃歎鈔」は、まったく相通(あいつう)ずるものがある。導師本尊と「十王讃歎鈔」の基底(きてい)に横たわっているものは、出家の堕落(だらく)、傲慢(ごうまん)、怜悧(れいり)などなどである。

恐るべきは邪師の邪智(じゃち)である。信徒は確固たる信仰観を持たなければ、悪侶に何百年にもわたって誑(たぼら)かされることになるのだ(なお本文中の「地蔵十王経」は、『國譯一切経』大集部五矢吹慶輝訳による)。

 

日蓮正宗の代々の法主はニセ曼荼羅を顕(あらわ)してきしてきた

これまで御本尊の書写といえば、金(こん)口(く)嫡々(ちゃくちゃく)の血脈相承を受けた“法主”が、血脈を相承したことによって達し得た特別の境界(きょうがい)でなされるものだと思われていた。

“法主”には日蓮大聖人、日興上人と寸分(すんぶん)たがわぬ生命が流れ、その発現(はつげん)としての御本尊書写があると主張する者もいた。

ところがどうだ、その金口嫡々唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈相承の“法主”が代々にわたり、ニセ曼荼羅である導師本尊をつくり出してきたのだ。

本紙『地涌』が、導師本尊に「閻魔(えんま)法皇」「五道冥官(みょうかん)」など、日蓮大聖人の御(ご)図(ず)顕(げん)された本尊にない、得体の知れないものが書き込まれていることを指摘しても、拝(おが)んでいる側の信徒は、「そんな字があったかな」といった程度である。

それも当然である。信徒は、動転(どうてん)した葬儀の場で短い時間しか導師本尊を見る機会がないのだから、「閻魔法皇」「五道冥官」などの文字に気づかないのは無理のないことだ。

しかし、書写する“法主”の立場となれば、どういうことになるのか。

かつて総本山第六十世の阿部日開は、「仏滅後二千二百三十余年」と御本尊の讃文(さんもん)を書くべきところを、「仏滅後二千二百二十余年」と書き、「ただ漫然之(まんぜんこれ)を認(した)ため何とも恐懼(きょうく)に堪(た)えぬ」として謝罪したことがあった。

だが、導師本尊の「閻魔(えんま)法皇」「五道冥官(みょうかん)」となれば、「漫然」と書写したということにはならない。ハッキリと意識して書いたものだ。

“法主”に許された行為は、あくまで本尊の「書写」である。「書き写す」ことが許されているのであって、勝手に御本尊をつくり出してよいというものではない。にもかかわらず、代々の”法主”は、日蓮大聖人御(ご)図(ず)顕(げん)の御本尊とはまったく異質(いしつ)なニセ曼荼羅を顕(あらわ)してきたのである。

冒頭にも触れたように、“法主”は金(こん)口(く)嫡々唯授一人(ちゃくちゃくゆいじゅいちにん)血脈相承に基づき、特別な境界(きょうがい)で御本尊を書写するものとされてきた。ところが、その特別の境界にあるはずの法主が、ニセ曼荼羅を書写して何の違和感(いわかん)も抱(いだ)かなかった。

ということは、“法主”には特別の境界などないということになる。論理的な当然の帰結(きけつ)として、こう結論づけざるを得ないのである。

もっとある。「未来本尊」という本尊がある。人が生まれた時、あるいは入信時において、その成仏を保証する本尊である。多くは戒名とともに授(さず)けられた。導師本尊のミニチュア版ともいえるものだが、この未来本尊は枢(ひつぎ)に中にいれられたり、骨壺(こつつぼ)の中に入れられ、成仏への霊験(れいけん)あらたかとされたものである。

悪比丘らは信徒の生の時にあって、早くも死を先取りして金に代えようとしたのである。

「法主になっても、特別な人間になるわけではない」と日亨上人

総本山第五十九世日亨上人は、登座前と登座後も、自分に特別の変化はないと次のように明記している。

「但(ただ)し法階が進んで通稱(つうしょう)が變更(へんこう)したから從(したが)つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明(わか)りません」

(『大日蓮』昭和十五年四月号「聖訓一百題」より一部抜粋)日亨上人が登座した後に、このように明言しているのだから、“法主”になったからといって急に特別の精神世界に入れるものではない。まして、不可思議な生命の境界に遊戯(ゆうぎ)できるなどといったことはまったくない。

人柄のよい人間は“法主”になっても、おそらく人柄がよいであろうし、威張(いば)りたい卑(いや)しい性根(しょうね)の者は、“法主”になればいっそう威張るだろう。

野心を持った者が“法主”になれば、それまで猫をかぶっていても豹変(ひょうへん)してしまうケースもあるだろう。相当に自己に厳しくなければ、驕慢(きょうまん)の故に己の信仰を壊(こわ)すことにすらなるだろう。

“法主”となることは、それがそのまま特別の人間になることを意味しない。金口嫡々唯授一人血脈相承といっても、生命的不可思議な境界がそれによって付与(ふよ)されるわけではないのだ。

それでは、金口嫡々唯授一人血脈相承というオドロオドロしい表現は、何を意味するのだろうか。血脈相承とは、僧伽(さんが)すなわち和合僧団のトップとしての権能(けんのう)が引き継がれることと認識すべきではないだろうか。

一宗を統理する「貫首(かんず)」としての権限が譲渡(じょうと)されることをもって、宗教的装飾(そうしょく)をこらして金口嫡々唯授一人血脈相承がなされたと称(しょう)してきたと理解すべきだ。

そうでなければ、金口嫡々唯授一人血脈相承を受けた“法主”が、「十王信仰」や「地獄信仰」という邪義(じゃぎ)を象徴(しょうちょう)する「閻魔(えんま)法皇」「五道冥官(みょうかん)」などという名を、真顔で書写しつづけるといった馬鹿げた事実を説明できはしない。

今日においては、“法主”と呼称(こしょう)をしている、いわゆる「大石寺貫首」に、教義の解釈権(かいしゃくけん)や御本尊書写の権限(けんげん)が集約(しゅうやく)されている。「貫首」に不可思議な生命的境界がないとわかったいま、これらの教義解釈権や御本尊書写の権限が「貫首」に一任されてきたことは、和合僧団の決まり事としてなされてきたのだということが理解できる。

御本尊書写についていえば、かつては末寺住職も書写していた。建前(たてまえ)の理由としては、交通が不便で本山まで御本尊をいただきにあがれないといったことが言われているが、実際は大石寺のすぐそばの末寺でも本尊を書写している。本尊書写は、時代時代において和合僧団の決まり事の中でおこなわれてきたのである。

しかし、御本尊の書写と下付も、どれほど厳格(げんかく)なルールに基(もと)づいておこなわれたのか、疑問に思われる点が多い。

書写については、導師本尊というニセ曼荼羅を代々にわたり書写してきたことからみても、いずれかの時代にルールが乱れたことは歴然(れきぜん)としている。

 

一方、下付はといえば、近年においてさえも、大石寺の塔中(たっちゅう)寺院の根檀家(ねだんか)に対しては、“つけ届け”(根檀家では御供養をこのように呼ぶ習慣がある)がされれば、“法主”直筆(じきひつ)の本尊が下付されてきたのである。そのため、根檀家は代々の“法主”の御本尊を何体も、まるで軸物(じくもの)のように収納して所持(しょじ)している。

そして、“法主”の直筆による御本尊(常住本尊)以外は仮(かり)本尊だというのである。つまり、御形木御本尊や末寺住職の書写した御本尊は、仮本尊とされてきたのだ。

「此に於(お)いて有師仮(かり)に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持(じゅうじ)に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但(ただ)し有師已前已(いぜんすで)に此の事ありしやも知るべからず、然(しか)りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(『富士宗学要集』第一巻「有師化儀抄註解」)

【通解】ここにおいて日有上人は、仮に守護の本尊および常住の本尊さえも、末寺の住職が書写して、檀那や弟子に授与してもよいとされたことは、本文のとおりである。ただし、日有上人以前にそうしたことがあったかどうかはわからない。しかし、これは仮の本尊であって、形木の本尊と同じ意義であろう。

ということになれば、根檀家(ねだんか)が何体も持ってお巻きしたまま収納している本尊が「本本尊」で、何十人も折伏して生涯を広宣流布に懸(か)けた創価学会員の特別御形木御本尊、御形木御本尊は「仮本尊」ということになる。事実、今日までは、そのように立て分けられてきた。

自分が何十年も拝んできた御本尊様が仮本尊だったとは……。熱心に信仰してきた創価学会員にとって、このことはどうにも理解しがたいことだし、また受け入れがたいことではないだろうか。しかし、それは事実である。

常住御本尊をいただけるまでの信心に至っていない者が受持(じゅじ)を許される本尊が、仮本尊である。多くの創価学会員の家に御安置されている御形木御本尊は、末寺の住職が書写した本尊同様、宗門では今日まで仮本尊として位置づけられてきたのだ。

自分の御本尊が仮本尊であるという事実をどうしても受け入れがたい人は、自宅に御安置申し上げている御本尊様の脇書(わきがき)を見ればよい。願主は空白となっているはずである。

何十年も真面目に信仰しても仮本尊しかいただけなかったということについて、憤懣(ふんまん)やるかたないものを感ずる人は、それだけ僧たちが信徒を差別してきたのだと知るべきだろう。

とはいえ、受持している本尊が仮本尊であっても、御本仏日蓮大聖人の慈悲は広大無辺(こうだいむへん)にして実に公平であった。仮本尊の御安置とはいえ、しっかり信心した者は功徳にあふれ、本本尊を何体も持っていても根檀家たちは罰(ばち)の生活をしている。

要は、清浄(せいじょう)なる和合僧団の中で育(はぐく)まれた正しい信心こそ肝腎(かんじん)なのである。

 

世界広布の進展にともない御本尊書写のあり方も問われてくる

御本仏日蓮大聖人の仰(おお)せに曰く。

「然(しか)れば久(く)遠実成(おんじつじょう)の釈尊と皆成仏道(かいじょうぶつどう)の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但(ただ)日蓮が弟子檀那等の肝要(かんよう)なり法華経を持(たも)つとは是(これ)なり、所詮(しょせん)臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是(ぜ)人命(にんみょう)終為(じゅうい)千仏授手(せんぶつじゅしゅ)・令(ふょう)不恐怖(ふくふ)不堕(ふだ)悪趣(あくしゅ)』と説かれて候、悦(よろこ)ばしい哉(かな)一仏二仏に非(あら)ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎(らいごう)し手を取り給はん事・歓喜の感涙(かんるい)押え難(がた)し」(生死一大事血脈抄)

【通解】このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴(しょうちょう)である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つはまったく差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことが日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである。

所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励(はげ)み、南無妙法蓮華経と唱える人を普(ふ)賢菩薩勧発品(げんぼさつかんぼつぽん)には「是(こ)の人命終(みょうじゅう)せば、千仏の手を授(さず)けて、恐怖(くふ)せず、悪趣に堕(お)ちざらしめたもことを為」と説かれている。喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏ではなく千仏までも来迎し手を取ってくださるとは歓喜の涙、押さえがたいことである。

 

ここに仮本尊(末寺住職書写の本尊、御形木御本尊)、本本尊(“法主”書写の本尊)の差別を超(こ)えた仏力法力の実在(じつざい)がある。御本尊のありがたさがあるのだ。それは、すべて御本仏日蓮大聖人の慈悲(じひ)広大の故である。

世界広布間近(まぢか)となった今日、信徒は、本本尊たる常住御本尊をいただける見込みがあるのだろうか。結論を先に言ってしまえば、世界広布が進展(しんてん)すればするほど、本本尊はいただきにくくなる。信徒における本本尊護持(ごじ)者の率は減ってしまうのである。

化儀の広宣流布においては、本尊流布こそ主眼(しゅがん)である。宗開両祖の御(ご)遺命(ゆいめい)を拝(はい)して、本尊流布に挺身(ていしん)すべきときである。ところが、化儀の広宣流布が進むにしたがい、信徒における本本尊護持者の率は減ってしまうのである。

御本仏日蓮大聖人の仰せに曰く。

「ただをかせ給へ。梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)等の御計(おんはからい)として、日本国一時に信ずる事あるべし。爾時(そのとき)我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」(上野殿御返事)

【通解】ただ放(ほお)って置きなさい。梵天(ぼんてん)や帝釈(たいしゃく)等のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるであろう。そのとき、私ももとから信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。

実際にこのような事態になったらどうするのだろうか。日亨上人は、このことについて次のように記している。

「然(しか)りといへども宗運漸次(ぜんじ)に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛(さかん)なるに至らば・曼荼羅授与(じゅよ)の事豈(あに)法主御一人の手に成ることを得んや、(中略)或(あるい)は形木を以て之を補(おぎな)はんか」(『富士宗学要集』第一巻「有師化儀抄註解」)

【通解】しかし、宗運がしだいに開けて、異民族や海外で妙法を唱えることが盛んになるときがきたなら、曼荼羅(御本尊)を授与することが、法主ただ一人の手でできるであろうか。あるいは、形木本尊をもって補うことになるのだろうか。

世界広布の進展によっては、御本尊書写の在(あ)り方も問われるべきなのだ。実に残念なことだが、いまの宗門はいたずらに権威を振りかざす者ばかり多く、日亨上人のような開明(かいめい)的な僧侶はきわめて少ないようだ。

 

御本尊書写は和合僧団の厳格な規律に基づいておこなわれるべきだ

“法主”が一日三体の御本尊を書写したとして、一年間で約一千体。十年で一万体。それでも、現在の信徒の一パーセントも本本尊を所持(しょじ)できないことになる。こう考えていくとき、世界広布の時にあたっては、御本尊書写の方法も改めて考えなければならないということになるのは自明(じめい)の理(り)である。

まして、“法主”が特別の境界(きょうがい)にあって御本尊書写しているのではなく、導師本尊の例でもわかるように、何代にもわたりニセ曼荼羅を間違ったまま写しつづけているとなれば、書写の技法(ぎほう)すらも考え直さなければならない。御本尊書写は、もともと和合僧団の厳格なる規律(きりつ)に基づいておこなわれるべき性格のものである。

近代になって印刷技術が進み、交通通信網(もう)が整備されるにともない、御本尊書写(印刷を含む)の権限は和合僧団のトップである「貫首(かんず)」に集中されてきた。それでも十年くらい前までは、東京の末寺である法道院(主管・早瀬日慈)において御形木御本尊は印刷されてきた。しかも、印刷された御本尊は“法主”による開眼もなく、そのままダンボール箱につめて地方に発送されていた。

御本尊に関わる権限が、「貫首」にほぼ完全に集中されたのは、意外にもごく近年のことなのだ。

しかし、残念なことには、御本尊書写に関わる権限が「貫首」によって完全掌握(しょうあく)された段階において、今回の日顕狂乱事件が起きてしまった。そして、日顕は創価学会という和合僧団を破壊し、信徒を隷属させる目的で本尊を下付しないとウソぶいているのである。

本来、御本尊は、御本仏日蓮大聖人が末法の民衆救済のために御(ご)図(ず)顕(げん)されたものである。「貫首」はその大慈大悲を受け継ぎ、民衆救済のために死(し)身(しん)弘(ぐ)法(ほう)の戦いをしなければならないのだ。

ところが、日顕に見られるように、己(おのれ)の権威・権力を守らんがために、日蓮大聖人の仏法を封建(ほうけん)思想の殻(から)に閉じ込め、和合僧団すらも私物化しようとしているのである。

日蓮大聖人の仏法は、民衆のためのものである。御本尊が民衆救済の目的で御図顕されたことは間違いのないことである。日蓮大聖人の仏法を信ずる者は、ことごとく仏の子であり、それらの者が集まるところは和合僧団である。

だが、身軽法重(しんきょうほうじゅう)の行者として広宣流布の先陣(せんじん)を切らなければならない日蓮正宗中枢(日顕宗)は、日蓮大聖人の民衆救済の仏法を捨て、悪(あ)しき封建思想に凝(こ)り固まり、民衆支配に腐心(ふしん)している。「毒気(どっけ)深入(じんにゅう)失本心故(しっぽんしんこ)」とは、このことである。

そのために、日蓮正宗中枢は現在、和合僧団の埒外(らちがい)に位置している。御本尊書写の権能(けんのう)を集中的に握っていた者たちが正信を失い、和合僧団より脱落(だつらく)。しかも、僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)の姿を現じている。

その結果として、仏子らが集(つど)える和合僧団は、本来ならば和合僧団として必然(ひつぜん)的に有している御本尊書写及び下付の権能を表面的には失うことになった。

御本尊書写及び下付の権能は、もともと広宣流布を推(お)し進める和合僧団に備わったものである。したがって、その権能は回復されなければならない。回復による書写は和合僧団の厳格(げんかく)な規律に基づきおこなわれるべきである。その規律は仏意を受けた和合僧団において決定されるべきだ。

これまで正体すらも明らかでなかった僣聖増上慢が、いま現実のものとなったのは、時のしからしむるところである。これによって、このたび創価学会が第二十六世日寛上人の御形木御本尊を授与することを制定し実行したのは、まことに時にかなったことなのである。師を中心に団結し、広宣流布の戦いを、新たなる次元に突入させるべき時にきている。日蓮大聖人の本義に、よりいっそう近づくことである。

 

“富士の清流”など、まったくの幻想(げんそう)

史実の裏づけのない「貌座神秘主義」

日顕宗では「富士の清流」「七百年の伝統」などという言葉を、己の尊厳(そんげん)を確保し権威を高めるための常用句としている。だが、史実に照らしてみて、本当にそのように誇(ほこ)れるのだろうか。いや、そうではない。

「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)」「血脈相承」といっているが、貫首(かんず)や“法主”の継続の中に、神秘的(しんぴてき)なものの継承(けいしょう)があったかといえば、これまたそうではない。まったくの幻影(げんえい)だった。

それでは、日蓮正宗にとって確かなことは何かといえば、地涌の菩薩が澎湃(ほうはい)と出現しはじめるときまで、戒壇の大御本尊をなんとか無事に伝えてきたということである。

とはいえ、戒壇の大御本尊の周辺に生きてきた僧たちが、正法正義に基づき、毅然(きぜん)たる謗法厳戒(げんかい)の姿勢で今日まで戒壇の大御本尊を厳護(げんご)してきたかといえば、これまたちがう。

室町期(第九世日有上人の時代)には、留守居(るすい)役(やく)の三人の悪僧が、戒壇の大御本尊ごと大石寺を売り飛ばしてしまったという事実もある。

その後も、時の権力に圧迫(あっぱく)されながら、権力に媚(こ)び、邪宗に膝(ひざ)を屈(くっ)して、なんとか生き延(の)びてきたのだ。その間、おびただしいほどの諺法を犯し、知ってか知らずか邪義に染(そ)まってきたのである。

それでも、なんとか仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の団体である創価学会が出現するまで、戒壇の大御本尊をお護(まも)り(正確には護られてきた)してくることができた。

御開山日興上人曰く、

「此の御筆(おふで)の御本尊は是(こ)れ一閻浮提(いちえんぶだい)に未(いま)だ流布せず正像末(しょうぞうまつ)に未だ弘(ぐ)通(つう)せざる本尊なり、然(しか)れば則(すなわ)ち日興門徒の所持(しょじ)の輩(やから)に於(おい)ては左右無く子孫にも譲(ゆず)り弟子等にも付(ふ)嘱(ぞく)すべからず、同一所に安置し奉(たてまつ)り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏(ひとえ)に広宣流布の時・本化国主御尋(たずね)有らん期まで深く敬重(けいちょう)し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)

【通解】この大聖入御自筆の御本尊は、一閻浮提(全世界)にいまだ流布せず、正法・像法時代にはいまだ弘通していない本尊なのである。したがって、日興の門徒で御本尊を所持する者は、簡単に子孫に譲ったり、弟子などに付属してはならない。

一カ所に御安置申し上げて、(本弟子)六人が一同でお護(まも)りすべきである。これも、ひとえに広宣流布の時がきて、正法を受持した本化の国柱(上行菩薩を棟梁(とうりょう)とする地湧の菩薩)からお尋ねがあるときまで、深く敬(うやま)い大切にしていくべきである。

戒壇の大御本尊が、今日まで伝えられてきたのは何のためか。ひとえに、地涌の菩薩が雲集(うんじゅう)する、その時代のためであった。

「血脈」とか「相伝」といった、宗教的用語で表現していることの実体(じったい)は、とりもなおさず、戒壇の大御本尊を化儀の広宣流布の時にあたって、地涌の菩薩に無事に伝えることである。

これ以外に、「血脈」とか「相伝」などはありえない。ましてや、「相承」を受けると特別の宗教的境界(きょうがい)に及ぶなどということは、唾棄(だき)すべき愚論にすぎない。

もし仮に“法主”の座にある者が不可思議なる宗教的境界にあり、宗開両祖と同様の境界に達しているとするなら、日蓮正宗の“法主”が「五道冥官(みょうかん)」などという邪義に基づく名を、代々にわたって導師本尊に書き込むはずはない。

それを何百年もおこなってきたということは、“法主”が不可思議な宗教的境界にはないという証左(しょうさ)である。

それでは、「猊座神秘主義」という言葉に象徴(しょうちょう)されるような特殊(とくしゅ)な力が“法主”にないとすれば、相承とはいったい何であったのか。その実体は、先述したように謗法に染(そ)まりながらも戒壇の大御本尊を、かろうじて地涌の菩薩出現の今日まで伝えてきたということだ。戒壇の大御本尊が仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の団体である創価学会の出現のその日まで伝えられたという事実が、相承においてもっとも意義あることなのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「当(まさ)に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王(けんおう)と成(な)つて愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成つて正法を弘持(ぐじ)す」(観心本尊抄)

 

【通解】まさに知るべし、この四菩薩は折伏を現ずるときには賢王となって武力をもって愚.王を責(せ)め誡(いま)しめ、摂受を行ずるときは聖僧となって正法を弘持するのである。

この化儀の広宣流布の時代まで戒壇の大御本尊が無事伝えられ、そこに地涌の菩薩が雲集(うんじゅう)したという現実にこそ、日蓮大聖人の慈悲が広大無辺にして末法万年尽(まっぽうまんねんじん)未(み)来際(らいさい)まで民衆を救済しうるという、根源的(こんげんてき)な力が顕示(けんじ)されているのだ。

日蓮正宗の歴史において、もっとも確かにして不可思議なことは、日蓮大聖人が末法の民衆の幸せのために御(ご)図(ず)顕(げん)された戒壇の大御本尊のもとに、地涌の菩薩が雲集(うんじゅう)したという現実である。創価学会は、末法の御本仏日蓮大聖人の御言葉を虚妄(こもう)にしないために出現したのだ。

これこそ確固(かっこ)たることである。

この現実を直視(ちょくし)しないで、血脈を“法主”一人の独占とするような痴(おろ)かをなしてはならない。法流は“法主”の威力で継(つ)がれたのではなく、仏意仏勅の和合僧団・創価学会の出現により正法が蘇(よみがえ)ったのである。したがって史実の裏づけのない「猊座神秘主義」のような、人間の上に人間をつくる愚(おろ)かな幻影は捨て去るべきだ。

 

謗法厳戒の精神がまったくなかった宗門

はっきり言っておこう。創価学会出現までの日蓮正宗には、「富士の清流」といわれるような謗法厳戒の精神はなかった。

「地頭(じとう)の不法ならん時は我も住むまじき由(よし)、御(ご)遺言(ゆいごん)には承(うけたまわ)り候へ」(美作房御返事)

このように日興上人は、御本仏日蓮大聖人の御真意(しんい)を書き残されている。本来ならば、大石寺に宗祖の御魂(おんたましい)は住まないところであったのだ。

だが、謗法に染まりながらも大石寺に戒壇の大御本尊が伝えられてきたという、御本仏日蓮大聖人の御慈悲は実に甚深(じんじん)であった。

それ故に、戒壇の大御本尊を慕(した)う地涌の菩薩たちが、「謗法の真(ま)っ只中(ただなか)に敵前上陸した」(戸田城聖第二代会長の言葉)のである。宗門の内も外も謗法だらけであった。また、世の中は軍国主義が席巻(せっけん)し、まさに暗黒の時代であった。

しかし、牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長の生命を賭(と)した戦いによって、機は熟(じゅく)し、大法興隆(だいほうこうりゅう)の民主の時代を招来(しょうらい)することができたのである。そしていま、池田大作名誉会長の指揮(しき)により、閻(えん)浮(ぶ)提(だい)広宣流布は現実のものになろうとしている。

これこそが、ゆるがせにできない事実なのである。戒壇の大御本尊のもとに創価学会が出現したこと、初代、二代、三代会長が広宣流布を推(お)し進めてきたこと、これ以外に確かなことはない。また、これ以上、不可思議なこともない。これこそ、日蓮大聖人の慈悲が末法万年尽(まっぽうまんねんじん)未(み)来際(らいさい)に及ぶ現証(げんしょう)なのである。

「富士一跡門徒存知の事」に明記(めいき)してあるように、本化(ほんげ)地涌の菩薩に戒壇の大御本尊を無事伝えるよう御開山日興上人より仰(おお)せつかった僧らが、何をもって大御本尊と地涌の菩薩の間に立ちはだかろうというのか。言(ごん)語(ご)道断(どうだん)である。

それだけではない。戒壇の大御本尊を地涌の菩薩に無事伝えるべきことが、金(こん)口(く)嫡々唯授一人(ちゃくちゃくゆいじゅいちにん)血脈相承の本(ほん)旨(し)であるのに、血脈相承を猊座を神秘化し地涌の菩薩を圧迫する“道具”にしようとする。

まるで蔵番(くらばん)が鍵(かぎ)を握(にぎ)りしめ、主人が訪れたのに鍵を渡さないようなものだ。人を誑(たぼら)かし、自分が主人だと偽(いつわ)っているのだ。日顕のおこなっていることが、まぎれもなくそれである。“悪(あっ)鬼(き)入(にゅう)其(ご)身(しん)”とはこのようなことを言うのである。

大聖人の御金言を現実のものとしている創価学会員こそ真の仏の眷属

猊座神秘主義者は、「本尊三度相伝」「御本尊七箇相承」などの相伝書をもって“法主”(貫首(かんず))の座を宣揚(せんよう)し、それ以外にも甚深(じんじん)の口伝(くでん)があるとしている。だが、宣揚の前提になっている秘伝(ひでん)であるべき相伝書が、日蓮宗各派の他山でも相伝書とされていることを知らなければならない。

しかも、その相伝書は大半がまったく同一文の写本(しゃほん)である。もちろん、大石寺にあるものも写本である。

総本山第五十九世日亨上人が、『富士宗学要集』の中七相伝書を掲載(けいさい)し、秘伝書とされてきたものを公開した背景には、日蓮宗各派の他山に同様のものがあるという現実があったのだ。

「血脈」「相伝」といった言葉に幻惑(げんわく)されてはならない。繰り返すようだが、代々の会長のもとに団結し、日蓮大聖人の教えのままに広宣流布を進めている創価学会の現実の姿。これ以上の不思議はないのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「いかにも今度(このたび)・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊(しゃくそん)久(く)遠(おん)の弟子たる事あに疑はんや、経に云く『我(われ)久遠より来(この)かた是(これ)等(ら)の衆を教化(きょうけ)す』とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし」(諸法実相抄)

【通解】このたび、信心をしたからには、どのようなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となりとおしていきなさい。

日蓮と同意であるならば、地涌の菩薩であろうか。地涌の菩薩であると定まっているならば、法華経従地涌出品第十五に「これらの地涌の菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのは、このことである。

末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の分(わ)け隔(へだ)てをしてはならない。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのである。

はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第(しだい)に唱え伝えてきたのである。未来もまたそうであろう。これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか、広宣流布のときは日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。

この日蓮大聖人の御(ご)金言(きんげん)を現実のものにしているのは、ほかでもない池田名誉会長率(ひき)いる創価学会である。

創価学会員にとってかけがえのないものは、日蓮大聖人の仰(おお)せを現実のものとしようとする創価学会であり、みずからも含めてそこに集(つど)う地涌の菩薩たちである。創価学会員は、自分たちが仏の眷属(けんぞく)であることを一大確信することこそ肝要(かんよう)なのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る程(ほど)の者は宝塔(ほうとう)に入るなり」(御義口伝)

創価学会員は、自身の尊厳(そんげん)に目をひらくべきだ。

さて、ここまで論及(ろんきゅう)しても、日顕宗の悪侶らは僧の尊厳を強調し、信徒の尊厳は僧に劣(おと)ると主張することだろう。そうであるなら、創価学会出現以前の日蓮正宗の尊厳はどれほどあったのだろうか。

それを史実に基づき認識(にんしき)しなければならない。日蓮正宗の代々の“法主”が、ニセ曼荼羅である導師本尊を何百年にもわたり書写してきた、その史実から目をそらすことは許されない。

 

「血脈相承」「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)」「富士の清流」「七百年の伝統」「本宗本来の化儀化法」などという言葉に、ぬぐいがたい憧憬(しょうけい)を持っている日顕宗の人たちも、史実に剋目(かつもく)すれば、みずからの幻想(げんそう)を打ち砕(くだ)くことになることだろう。

仏法は観念世界にあるのではなく、現実世界に息づいている。迷妄(めいもう)を払い、歴史に真実を求めるべきである。

 

第四章 創価学会出現の意義

第四章のはじめに

平成二年十二月二十七日、日顕は宗規「改正」にことよせ、広宣流布の大功労者である池田大作創価学会名誉会長を突如として総講頭職より実質的に罷免(ひめん)した。これが謀略(ぼうりゃく)「C作戦」の開始であった。
 
だが、真に仏弟子たる創価学会員の前進を阻(はば)み、悪僧たちが創価学会組織を切り崩そうとする事件は、日顕に始まったことではない。
 
昭和五十三年~五十四年当時、正信会の僧たちが猊座の権威を背景に創価学会を圧迫した。悪僧たちは教義上なんら謗法でもない「御本尊謹刻(きんこく)」を、日達上人の勘違(かんちが)いという事実を曲げてまで謗法と言いつのり、創価学会に謝罪させ、隷属(れいぞく)させようとした。しかし、創価学会は宗門の理不(りふ)尽(じん)な仕打ちに対しても、広宣流布の大願成就のために僧俗和合を第一義とし、忍従(にんじゅう)して、宗門に対し変わらぬ赤誠(せきせい)をもって尽くした。
 
日達上人没後(ぼつご)の昭和五十四年八月、日顕が登座したが、創価学会は以前にもまして宗門に尽くし、莫大(ばくだい)な供養をした。ところが日顕は、広宣流布の大願を忘れ、池田名誉会長を追放し創価学会を手中(しゅちゅう)にしようとの野心を抱き、「C作戦」という謀略を実行に移した。
 
「C作戦」は池田名誉会長を追放することを目的とし、もしそれができなければ、創価学会総体を“破門”にし創価学会員を動揺(どうよう)させ、その一部を切り崩し檀徒にしてしまおうとの作戦であった。
 
日顕らは、広宣流布を強力に推進する精鋭(せいえい)部隊よりも、盲従(もうじゅう)するだけで広宣流布大願成就など考えていない檀徒組織の形成を願ったのである。日顕らが「C作戦」によって得ようとしたのは、つまるところ金であり、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の放縦(ほうじゅう)なる生活以外の何ものでもなかった。
 
日蓮正宗の僧が、みずからの安寧(あんねい)を計るため、あるいは自己の体面を保つために、仏意仏勅の創価学会を裏切ったことは歴史上たびたびあった。正信会や日顕による裏切りが初めてではないのである。
 
その最大の裏切りは戦中にあった。戦中、宗門は国家神道に領導(りょうどう)された国家権力の猛威(もうい)を恐れ、身延派に追随(ついずい)して御書を自主的に発禁とし、日蓮宗の他派にさきがけ御書を一部削除(さくじょ)した。そして、信徒団体である創価教育学会に対し、神札を受けるよう命じた。
 
創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城聖理事長

 

(いずれも当時)は、日蓮大聖人の法義に違背(いはい)した宗門の命令を拒否し、正法正義を貫(つらぬ)いた。だが宗門は、この正信の仏弟子たちを、“指南”に従わないことを理由に登山停止処分とした。
 
牧口会長ら創価教育学会幹部は、神札を焼却したなどの行為が「神宮」の尊厳を冒瀆(ぼうとく)するものであるとして、昭和十八年に治安維持法違反、不敬罪により逮捕された。ちなみに、治安維持法違反の最高刑は死刑である。宗門は創価教育学会弾圧の巻き添えとなることを恐怖し、創価教育学会員たちを信徒除名処分とした。
 
さらに宗門は、末寺の庫裡(くり)に神札を祀(まつ)るよう宗内に徹底し、日蓮大聖人の仏法を投げ出し、わが身の安泰(あんたい)のみを計ったのであった。
 
そのあげく、大石寺の大坊は、故国から半(なか)ば強制的に連れてこられた朝鮮義勇軍の宿舎として徴用(ちょうよう)され、日本軍将校の手によって大坊の大書院に神棚がつくられ、神札が祀られた。この腰抜けの末裔(まつえい)に宗祖の御怒りのないわけがなく、昭和二十年六月大坊は焼失し、時の“法主”日恭は紅蓮(ぐれん)の炎の中で無惨(むざん)な焼死を遂(と)げた。
 
だが宗門は、これだけの仏罰を蒙(こうむ)りながら総懺悔(ざんげ)もせず、僧の体面を保ち信徒の上に位置することのみを考えていた。
 
しかし、広宣流布の潮流(ちょうりゅう)は確実にうねりを増していた。戸田会長は終戦間近に迫った昭和二十年七月三日、奇跡的に生きて獄を出た。これより、戸田会長の死身弘法の戦いが始まり、七十五万所帯におよぶ大折伏戦が展開されることになるのである。
 
その聖業の骨格が形成されつつあった昭和二十七年四月、大石寺で宗旨建立七百年大法要がおこなわれた。このとき、戦中、神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)論を唱え宗門を撹乱(かくらん)し創価教育学会弾圧の近因をつくった小笠原慈聞が登山。創価学会青年部は小笠原を牧口会長の墓前で謝罪させた。
 
ところが、戦中、小笠原同様の変節(へんせつ)をしていた日蓮正宗のことごとくの僧の心中はおだやかでなく、追及が自身に及ぶことを懸念(けねん)し、奸計(かんけい)をもって戸田会長を貶(おとし)めたのである。
 
本章においては、日蓮正宗に巣くった“法滅の妖怪”たちの悪業を、日本の歴史の流れの中で活写(かっしゃ)し、その一方で仏意仏勅の和合僧団・創価学会出現の必然と仏法上の意義を示す。

 

国家神道に随従し戦争協力した宗門

大聖人の教法を曲げ戦争遂行のため報国翼賛

昭和二十年八月、日本が敗戦に至るその日まで、既成(きせい)仏教はほぼ例外なく戦争に協力し、国民を戦争に駆(か)り立てる役割を担(にな)った。
 
日蓮正宗も他の邪宗同様に、国家神道に随従(ずいじゅう)し日蓮大聖人の教法を曲げ、戦争遂行(すいこう)のための報国翼賛(よくさん)をおこなった。日蓮正宗がそれらの愚(おろ)かな行為をおこなったのは、国家権力による弾圧を恐れてのことであった。その国家権力が宗教界を威圧(いあつ)するために使った法律は、不敬罪と治安維持法であった。
 
不敬罪は、明治二十二年制定の帝国憲法第三条の「天皇は神聖(しんせい)にして侵(おか)すべからず」を根拠にするもので、明治四十年に定められた改正刑法の第七十四条に違反した罪を指す。第七十四条は、
 
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に対し、不敬の行為ありたる者は、三月以上五年以下の懲役(ちょうえき)に処す」
 
と、不敬罪を定めている。
 
また治安維持法は、大正十四年に施行(しこう)され、昭和三年には緊急勅令(ちょくれい)で、最高刑がそれまでの「懲役十年」から「死刑又は無期懲役」に変えられた。
 
治安維持法第一条には、次のように定められている。
 
「第一条国体を変革することを目的として結社を組織したる者、又は結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は、死刑又は無期、もしくは五年以上の懲役、もしくは禁錮(きんこ)に処し、情を知りて結社に加入したる者、又は結社の目的遂行の為にする行為を為(な)したる者は、二年以上の有期の懲役又は禁錮に処す。
 
私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者、結社に加入したる者、又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は、十年以下の懲役又は禁錮に処す。
 
前二項の未遂(みすい)罪は、これを罰す」
 
この第一条を読めば明らかなように、治安維持法は、共産主義者、無政府主義者などの左翼陣営に向けられたものであった。
 
ところが、昭和十六年三月、治安維持法は三度目の改定がなされた。そこでは「神宮」の「尊厳を冒瀆(ぼうとく)」することも新たに刑罰の対象とされた。明らかにそれは、国家神道の下に宗教統制をすることを目的にしており、宗教弾圧の刃(やいば)となるものであった。
 
「第七条国体を否定し、又は神宮もしくは皇室の尊厳を冒瀆すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者、又は結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は、無期又は四年以上の懲役に処し、情を知りて結社に加入したる者、又は結杜の目的遂行の為にする行為を為したる者は、一年以上の有期懲役に処す。
 
第八条前条の目的を以(もっ)て集団を結成したる者、又は集団を指導したる者は、無期又は三年以上の懲役に処し、前条の目的を以(もっ)て集団に参加したる者、又は集団にかんし前条の目的遂行の為にする行為を為したる者は、一年以上の有期懲役に処す」
 
国家権力が、治安維持法を改定し、法の網(あみ)を広げ厳罰(げんばつ)化していった背景には、思想統制、宗教統制をおこなうことにより、戦争遂行を容易(ようい)なものにしようとの意図があった。したがって日本が戦争に深く入り込めば込むほど、弾圧(だんあつ)のための法は整備されていったのである。
 
昭和に入っての日本は、軍国化の一途(いっと)をたどる。主な動きを拾ってみると、昭和二年金融恐慌(きょうこう)、同三年張作霖爆殺、同六年満州事変勃発(ぼっぱつ)、同七年五・一五事件、同八年国際連盟脱退、同十一年二・二六事件、同十二年日中戦争勃発(蘆溝橋事件)、日独伊防共協定成立、同十三年国家総動員法施行、同十五年日独伊三国軍事同盟締結、大政翼賛会発足、同十六年太平洋戦争勃発、などである。この世相を背景に、国家神道への宗教統制が強められていき、弾圧事件が相次ぐ。
 
昭和十年、大本教弾圧(幹部六十名検挙(けんきょ)、六十一名起訴(きそ))。同十一年には、マスコミによる大本教を「邪教」「国賊(こくぞく)」と攻撃するキャンペーンを背景に、警察による神殿爆破がおこなわれ、大本教は所有地約五万坪を超安値で売却(ばいきゃく)させられた。のち教祖の出口王仁三郎は、治安維持法違反で一審判決は、無期懲役(ちょうえき)となる。

 

同十一年、ひとのみち教団弾圧(幹部十数名検挙)、新興仏教青年同盟弾圧(百六名検挙、二十九名起訴)。
 
同十三年、ほんみち(天理本道)弾圧(四百余名検挙、二百三十七名起訴、教祖大西愛治郎は一審、二審とも無期懲役)。
 
同十四年、灯台社弾圧(百十五名検挙、五十二名起訴、明石順三は大審院で懲役十年確定)。
 
治安維持法が改悪された昭和十六年は、新宗教およびキリスト教各派の検挙がつづく。御国教、大自然天地日乃大神教団、如来教、忠孝陽之教、御幸神教団、本門仏立講尾鷲道場、プリマス・ブレズレン、耶蘇基督之新約教会などが弾圧された。
 
同十七年、キリスト教ホーリネス派弾圧(牧師百三十四名検挙、二百七十教会解散)。
 
同十八年には創価教育学会への弾圧がおこなわれ、牧口会長以下二十一名が不敬罪、治安維持法違反で検挙された。
 
戦時下において、国家権力による宗教弾圧は容赦(ようしゃ)なくおこなわれた。だが実際のところ、信仰信条をまっとうして弾圧された宗教者はほんのごく一部で、圧倒的多数の者は弾圧を恐れ、信仰信条を曲げたのであった。
 
日蓮正宗の僧も、藤本蓮城(出家して間もないため僧階も一番下の三等学衆)一人を除いてすべての僧が、国家権力の圧迫の前に屈服(くっぷく)した。日蓮正宗は日蓮宗各派に及んだ国家権力による恫喝(どうかつ)にすくみ、日蓮宗身延派などと同調し右顧左(うこさ)眄(べん)を繰り返すだけであった。

 

深編笠で出廷した出口王仁三郎(右端)

 

昭和十六年の御書削除決定は日蓮宗各派の中でも突出していた

日蓮宗各派に対する国家権力の圧迫を象徴する事件として、「日蓮大聖人御書一部削除(さくじょ)問題」「曼荼羅国神勧請(こくじんかんじょう)不敬問題」をあげることができる。
 
国家権力は、日蓮大聖人の御書の中に天皇や神に対する不敬があるとして削除を求め、また御本尊の中に「天照太神」「八幡大菩薩」という「国神」が書き込まれていること、しかも「釈迦牟尼仏」などというインドの「神」より低いところに位置していることも問題にされたのである。
 
まず「御書一部削除問題」であるが、それに先鞭(せんべん)をつけたのは内務省警保局で、昭和七年十月のことであった。龍吟社が日蓮大聖人の六百五十遠忌を記念して出版した、『日蓮大聖人御遺文講義』の第十三巻に収録された「四条金吾殿御返事」「崇峻天皇御書」にある天皇に関する記述が不敬にあたるとして、削除命令を出し削除させた。
 
昭和九年、この日蓮大聖人の御書に不敬の言句(げんく)ありとする問題がマスコミによって報道され、社会問題化した。その口火となったのは、同年四月に発行された浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(平楽寺書房)に対し内務省が出した削除命令であった。
 
それに対し編者の浅井要麟・立正大学教授は、「日蓮聖人の観たる国家及社会」と題する論文を発表して抵抗した。

「仏教の如き世界的普遍妥当(だとう)性のある宗教に国境のあるべき筈(はず)がない。殊(こと)に三界を吾(わ)が所有とし、その中の衆生を悉(ことごと)く吾が子とも感じて、慈(じ)念(ねん)止(や)むことなき吾が聖人の救済の範囲を東方の粟散国、蕞爾(さいじ)たる日本国に限るとせば、自(みずか)ら教を小にし、聖人無限の慈悲を制限するものである。若(も)し不幸にして吾が一乗同信の信友の問に、かかる誤謬(ごびゅう)に陥(おちい)るものがあれば、あたら閻(えん)浮(ぶ)第一の大教を駆(か)って、民族宗教化せんとするものであって、法華経伝弘(でんぐ)の将来の為に艮(まこと)に悲まざるを得ない」(浅井要麟の論文より)

日蓮宗(身延派)も、内務省側が強行に出るなら、それを鵜呑(うの)みにして全面譲歩(じょうほ)するわけにはいかないとの姿勢を示した。
 
このため内務省は日蓮宗当局者を次々と呼び出した。

 

日蓮宗は、姉崎正治・東大教授、山田三良・東大教授、佐藤銑太郎・海軍中将、山川智応(国柱会幹部)の四名に交渉を委嘱(いしょく)した。
 
四名は内務大臣、文部大臣に対し御書削除命令の撤回(てっかい)を要望して交渉をおこなった。その結果、不敬にあたると誤解(ごかい)を招くような御書を、宣伝的な文書に引用しないことを条件に、削除命令は見合わされることになった。
 
この後、天皇や「国神」に関する御書の一部が、伏字(ふせじ)で出版されることが多くなった。
 
昭和十二年は「曼荼羅国神勧請(かんじょう)不敬問題」が表面化した年である。同年三月、兵庫県神職会会長の徳重三郎らが、日蓮大聖人の御図顕された御本尊における天照太神の座配(ざはい)に問題があるとし、真言宗の本(ほん)地(ち)垂迹(すいじゃく)説、臨済宗の授戒(じゅかい)和(わ)讃(さん)中の語句ともども、不敬であるとして神戸地裁に告発した。
 
この告発は却下(きゃっか)され日蓮宗各派はことなきをえたが、国家神道一色に染(そ)まった社会情勢の中で、「御書一部削除問題」「曼荼羅国神勧請不敬問題」はいやがおうでも社会問題化し、日蓮宗各派内部にもこの問題について萎縮(いしゅく)の風潮が顕著(けんちょ)に見られるようになった。
 
日本は時代の流れとともに軍国化し、戦域を急速に拡大していくのであるが、この戦争に国民をこぞって駆り立てるために、昭和十二年八月二十四日、近衛文麿内閣は「国民精神総動員実施要綱」を決定し、九月九日に内閣訓令(くんれい)をもってそれを実施させた。

 

靖国神社の臨時大祭

 
「蘆溝橋事件」「上海事変」とつづき、日本が日中戦争の泥沼へと、戻ることのできない歩みを始めた頃のことであった。
 
この「国民精神総動員運動」は昭和十五年に大政翼賛(たいせいよくさん)会へと発展する。その年の十月十二日に、総理官邸において大政翼賛会の発会式がおこなわれた。大政翼賛会の総裁には総理大臣の近衛文麿が就任し、各県に支部が置かれ、支部長には各都道府県知事があてられた。
 
昭和十六年三月、日蓮宗(身延派)はそれまでの「国民精神総動員立正報国運動」を発展的に解消し、「大政翼賛会立正報国運動」を開始した。
 
同年五月、新「日蓮宗」(身延派、顕本法華宗、本門宗の三派合同)は「宗綱(しゅうこう)審議会」において、御書の一部を削除するための検討を始めた。
 
その検討の結果、同年六月、御書七十余編中の二百八カ所の削除を正式決定、文部省にその旨を報告した。
 
しかし、文部省はそれらを不充分であるとし、日蓮宗(三派合同、以下単に日蓮宗と記述)に再検討を命ずる。
 
文部省の強硬(きょうこう)な姿勢を前に、日蓮宗側は譲歩(じょうほ)の道を選んだ。八月、日蓮宗は加藤文雅編の『日蓮大聖人縮刷遺文集』(霊艮閣版)を絶版にし、発売頒布(はんぷ)を禁止した。このとき、日蓮宗宗務院より出された「告示第八號」は、以下のようなものであった。
 
「告示第八號
 
寺院住職、教會(きょうかい)主管者、教師、僧侶並ニ檀信徒中本宗所依(しょえ)ノ釋書(しゃくしょ)宗祖ノ御文書ハ從來故加藤文雅編集(へんしゅう)ニ係ル靈艮閣藏版ノ日蓮聖人御遺文ヲ依用シ來(きた)リタルモ其ノ中ニハ國體(こくたい)思想ノ昂揚(こうよう)セラレツツアル現代ヨリ見レバ鎌倉期ノ一般時代思潮ニ基キ神佛本迹等國體明徴(めいちょう)ニ副(そ)ハザル箇處(かしょ)有之ガ爲ニ宗祖ノ尊皇護國(ごこく)ノ根本觀念ヲ誤解(ごかい)スルモノアルヲ懼(はばから)レ今般宗務院ニ於テ其ノ版權(ばんけん)ヲ攝収(せっしゅう)シテ之ヲ絶版ニ附シ發賣(はつばい)頒布ヲ禁止ス依テ本宗徒ハ爾今(じこん)ソノ依用ヲ禁ズ
 
追テ今後依用ノ御文書集ハ目下編纂(へんさん)進行中ナリ
 
右告示ス
 
昭和十六年八月十八日
 
宗務院」
 
この日蓮宗がおこなった霊艮閣版御書絶版の動きに呼応(こおう)して、日蓮正宗でも「御書刊行ニ関スル件」という宗務院よりの「院達」を「宗内教師」宛(あて)に出している。
 
その全文は、次の通り。

 

ほぼ日蓮宗の文と同じである。日蓮宗宗務院が八月十八日に御書(霊艮閣版)の刊行を禁止したが、それに追随(ついずい)して同月二十四日、ほぼ同様の文面で、日蓮正宗宗務院も御書全集の刊行を禁止したのである。
 
日蓮正宗の屈服(くっぷく)はそれだけに止(とど)まらなかった。
 
同年九月二十九日には、日蓮正宗教学部長名で御書(雪山書房発行)の本地垂迹説にかかわる十四カ所の字句を削除することを発表した。
 
宗門はこのとき、
 
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり上一人より下万民に至るまで之れを軽毀(きょうき)して刀杖(とうじょう)を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之れを逼責(ひつせき)するなり」(聖人知三世事)
 
という、日蓮大聖人が末法の御本仏としての確信を述べられた箇所までも削除している。
 
なお、合同した日蓮宗各派が合議して御書の一部削除を決めるのは、昭和十九年四月のことであるから、日蓮正宗のこの時期における御書一部削除の決定は、日蓮宗各派でも突出(とっしゅつ)したものであったといえる。
 
同年四月に削除された箇所は百三十五カ所。ただし、法華宗は賛成しなかった。
 
少し時は前後するが、日蓮正宗宗務院は、御書の刊行を禁止する昭和十六年八月二十四日の直前、同月二十二日に御観念文を改竄(かいざん)する院達を出している。皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄をおこない、「皇祖天照太神」「皇宗神武天皇」に始まる代々の天皇に対する感謝を明記した。

 

御書の刊行を禁止した「院第二一七七號」

 
国家神道に領導(りょうどう)された国家権力に屈して、観念文を改竄し、御書の刊行を禁止し、御書の一部を削除するという大罪を犯した日蓮正宗は、宗教的にはもう骨抜きにされたも同然で、教義に違背(いはい)し、ただひたすら大政翼賛運動を推進、戦争協力をおこなう。

 

日蓮大聖人の御書を戦意鼓舞(こぶ)のため悪用した日恭

昭和十六年十二月八日、日本は米英に宣戦を布告し太平洋戦争が始まった。このとき日蓮正宗管長の第六十二世鈴木日恭は、「訓諭(くんゆ)第二十九號」を「宗内一般」に対して発し、太平洋戦争への戦意を鼓舞(こぶ)した。
 
「訓諭」は次のように始まっている。
 
「本日米國及英國ニ對シ畏(おそれおお)クモ宣戰ノ大詔煥發(おおみことのりかんぱつ)アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エス惟(おも)フニ我帝國ガ暴戻(ぼうれい)ナル蒋政權ヲ膺懲(ようちょう)シ東亞新秩序ノ建設ニ着手(ちゃくしゅ)シテヨリ既ニ四年有餘漸次(ぜんじ)其ノ實(じつ)ヲ擧(あ)ゲ今ヤ日滿支三國ハ

 

御書削除を通達した「學第八號」

 

友誼愈々(ゆうぎいよいよ)厚ク共榮ノ樂ヲ偕(とも)ニス然(しかる)ニ英米兩國ハ此ノ實情(じつじょう)ニ眼ヲ敞(おお)ヒ終始重慶政權ヲ援助シテ我相闘(あいたたか)ハシメ」
 
この後も開戦の必然性を縷々(るる)述べ、それにつづいて、「幸ヒ帝國ハ御稜威(みいつ)ノ下忠勇(ちゅうゆう)無(む)双(そう)ノ陸海軍アリ既ニ戰端開始第一日ニ於テ驚嘆(きょうたん)スヘキ戰果ヲ擧(あ)ケラル我等感謝ニ堪(た)エス戰ノ前途亦(また)以テトスルニ足ルモノアリ併(しか)シ乍(なが)ラ今次ノ大戰ハ四圍(しい)ノ狀勢ニ鑑(かんが)ミ長期ニ亘(わた)ルハ免(まぬか)レサルトコロ我等ノ一大覺悟(かくご)ヲ要ス」
 
「御稜威」とは、神格を有する天皇の威光(いこう)のことである。その“現人神(あらひとがみ)”の下にある陸海軍が十二月八日に多大な戦果をあげたことに「感謝」し、長期戦を覚悟するように述べたものだった。
 
そして最後に、
 
「本宗宗徒タルモノ須(すべから)ク聖慮(せいりょ)ヲ奉體(ほうたい)シ佛祖ノ遺訓(いくん)ニ基キ平素鍛錬(たんれん)ノ信行ヲ奮(ふる)ヒ堅忍(けんにん)持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古未曾有(みぞう)ノ大戰ニ必勝ヲ期セムコトヲ右訓諭ス」
 
と締めくくっている。
 
「聖慮」すなわち天皇の考えを戴(いただ)いてまではともかくとしても、「佛祖ノ遺訓ニ基キ」と、日蓮大聖人の教えすら戦争に利用したのである。
 
『大日蓮』昭和十七年一月号は、太平洋戦争開戦の昂奮(こうふん)さめやらぬ論調が占めている。
 
「宣戰布告の大詔(おおみことのり)を拜(はい)して光輝(こうき)ある元朝(がんちょう)を迎ふ」(柿沼廣澄記述)と題する一文は、
 
「見よ!亞細亞(あじあ)の一角に、東亞民族開放の聖火は燃上した。數世紀に渡る英米の桎梏(しっこく)は吾が大和(やまと)民族の神鋒(しんぼう)によつて打壊(だかい)せられ、亞細亞十億の民族を堅く縛(ばく)したる英米の鐵鎖(てっさ)は吾が神兵の剣(つるぎ)によつて見事切斷(せつだん)せられた」
 
という、激越(げきえつ)な調子で始まる。あまつさえ日蓮大聖人の御書を、戦意鼓舞(こぶ)に悪用し、
 
「恐懼(きょうく)吾等は先帝陛下より立正と諡號(しごう)を勅宣(ちょくせん)あらせられた大聖人の門下である『日蓮は日本第一の忠の者なり、肩を並ぶる人は先代にあるべからず後代にもあるべしと覚(おぼ)えず』といはれた宗祖の門流である。文永弘安の二大役を前にしては『少しも妻子眷属(けんぞく)を憶(おも)ふことなかれ権威(けんい)を恐ることなかれ』と大聖人より戒(いまし)められた弟子檀那の徒である。大詔を拜して東條内閣総理大臣は『帝國の隆替(りゅうたい)東亞の興廃正(こうはいまさ)にこの一戰にあり、一億國民が一切を擧げて國に報(むく)ひ國に殉(じゅん)ずるの時は今であります』と血涙(けつるい)を以ての放送は今尚(いまなお)吾等の耳(じ)朶(だ)にある。正に然(しか)り。『命限りあり惜(おし)むべからず』の聖言を實踐(じっせん)するは此の時である。日蓮正宗の門下諸君、『一閻浮提第一の本尊此の國に建つべし』の大聖の念願に殉(じゅん)ずるも正しく今の時である」
 
と述べている。
 
『大日蓮』同号には、「新春の慶(よろこ)びを述る言葉」と銘打(めいう)った管長・鈴木日恭の新春の挨拶(あいさつ)が掲載されている。
 
その文を読めば、当時の日蓮正宗が国民を戦争に向かわしめようという国家意志の代行機関であったように思える。日恭の文の一部を紹介する。
 
「此處(ここ)に於て銃後國民は老幼男女の別なく、聖戰に挺身(ていしん)する戰士と心得勝利に醉(よ)はず勝つて兜(かぶと)の緒(お)を締(し)めて堅忍(けんにん)不(ふ)抜(ばつ)の精神と鐵石(てつせき)の如き團結(だんけつ)を以つて各々其(その)持場を守り。大勇猛心(ゆうみょうしん)を起こし。信心を倍増し、謹(つつし)んで大詔(たいしょう)を奉體(ほうたい)し、盡忠報國(しんちゅうほうこく)の至誠(しせい)を貫(つらぬ)かん事を、祈願(きがん)するのみそれ國土の安穩(あんのん)と天下泰平(たいへい)とは妙の祭りを行つて、始めて成就する事を得ん
 
『妙とは生なり』『法とは死なり』
 
妙とは八紘(はっこう)一(いち)宇(う)を言ひ法とは天壌無窮(てんじょうむきゅう)の根源を意味するなり即(すなわ)ち八紘一宇の使命遂行に對(たい)して、一死報國の誠(まこと)を捧げ『世界とは日本國なり』の實顯(じつげん)こそ宗祖出世の御本懷(ほんかい)である」

 
太平洋戦争宣戦詔書

 

このように戦争協力にひた走る日蓮正宗内にあって、さらに国家神道におもねっていたのが大僧都の小笠原慈聞であった。

 

神本仏迹論で宗内の覇(は)を握(にぎ)ろうとした小笠原慈聞

小笠原は、“法主”である日恭に書簡(しょかん)を送り、わざと答えにくい「仏本神迹」に関する質問をするなどした。その返事の中で、日恭が不敬罪にあたるような筆禍(ひっか)を犯すよう仕掛けたのである。小笠原は日恭を失脚させ、みずからが日蓮正宗の指導的立場に立とうと企(たくら)んでいた。
 
小笠原の、日恭および隠尊(いんそん)となった日開らへの『世界之日蓮』(小笠原が主宰した月刊誌)を通しての攻撃は、派閥(はばつ)争いの趣(おもむき)が強かった。
 
背景には、昭和三年の管長選挙で阿部日開派と有元廣賀派に分かれて買収や脅迫(きょうはく)をともなう熾(し)烈(れつ)な争いをした怨念(おんねん)がある。
 
日柱上人に対するクーデターで阿部と組んだ小笠原は、この選挙では有元派につき阿部の追い落としを計った。だが選挙の結果は阿部の勝利と出、これ以来、小笠原は反主流となり冷や飯を食うこととなった。その怨念の故に、小笠原は執拗(しつよう)に宗内を撹乱しつづけたのである。さらに、主流派と小笠原ら反主流派との確執(かくしつ)の背景には、蓮葉庵系と富士見庵系という日蓮正宗の底流(ていりゅう)に長年にわたりとぐろを巻く、二大派閥の対立があった。
 
小笠原は、軍人や政治家にも気(き)脈(みゃく)を通じた者が多く、さまざまな画策(かくさく)をつづけるのだが、昭和十七年九月十四日、日蓮正宗は宗務総監・野木慈隆名で、ついに小笠原を擯斥(ひんせき)処分にし宗外に追放する。この小笠原追放が実現したのは、堀米泰栄教学部長(のちの日淳(にちじゅん)上人)の尽力による。
 
だが、その擯斥処分は、小笠原の掲(かか)げる神本仏迹の邪義を破すものではなかった。
 
小笠原の擯斥処分を伝える宗門文書は、次のとおり。
 
「特第三一號
 
日蓮正宗小田原教會主管者
 
小笠原慈聞
 
今般(こんぱん)宗制第三百九十一條ニ依リ管長の裁可(さいか)ヲ得テ別紙ノ通リ懲戒(ちょうかい)ニ付シ宣告書ヲ及送附
 
昭和十七年九月十四日
 
日蓮正宗宗務總監野木慈隆
 
宣告書
 
日蓮正宗小田原教會主管者
 
大僧都小笠原慈聞

 

主文擯斥(ひんせき)ニ處(しょ)ス
 
理由
 
其の方儀一、昭和七年より昭和十七年に至る宗費賦課(ふか)金を拒否して納付せず二、布教監の職は既(すで)に消滅したるに拘(かかわ)らず異議(いぎ)を唱へて公用し三、昭和十六年七月三十日附特第五號を以て其の以前の刊行物中不(ふ)穩當(おんとう)なるものは各自適(てき)宜(ぎ)處(しょ)理(り)を爲(な)すべき樣申達し置きたるに却(かえっ)て自ら不(ふ)穩當(おんとう)となすものを取出し信徒を使嗾(しそう)して共に之を世上に吹聴(ふいちょう)す右の行爲は其の證憑(しんぴょう)明白にして之を宗制に照して判ずるに第一の行爲は宗制第三百八十九條第一號に第二の行爲は同條第三號に第三の行爲は宗制に明文なきも宗務院の命令に從はざるのみならず宗門教學の刷新(さっしん)に協力せず故意(こい)に宗門の治安を亂(みだ)すものにして現下最も嚴重(げんじゅう)に戒(いまし)むべき行爲と認む
 
依テ主文ノ通リ處分ス
 
昭和十七年九月十五日
 
日蓮正宗管長鈴木日恭」
 
これに対し小笠原は、自分の処分を決めた参議会は出席者が定足数に至らず流会になったものであるから、処分は無効であると主張した。その上で小笠原は、宗内が宗費未納などにかこつけ及び腰で処分の挙に出たことを笑い、
 
「この首斬(しゅざん)の一宗擯斥(ひんせき)の極(きわま)つたのが九月十二日の夜であつたさうな。てうど『龍の口御難』の夜であることは、實(じつ)に奇(く)しき因縁で、『此程の悦(よろこ)びは笑へよかし』と恐悦(きょうえつ)してゐる次第…『龍口御難』も一回の門注所の吟味(ぎんみ)をなさず。この断罪(だんざい)も一回の査問もしない。いよいよ以て奇とすべしだ」(『世界之日蓮』昭和十七年十一月号)
 
と、嘲笑(あざわら)っている。
 
さらに小笠原は、日蓮正宗中枢が自分を処分した真因は、みずからの唱える神本仏迹論にありと、『世界之日蓮』誌上で解説している。
 
「併(しか)し宣告書の三ケ條で首を斬(き)つたが、その眞實(しんじつ)の理由は他にありだ。それは鈴木管長から昨年書状を以て寄せられた、自分の『神本』説は『佛本説』を宗體(しゅうたい)とする日蓮正宗近來の説を破ることとなり、許すべからざるものとの建前から來てゐるのである。だが思へ…佛本説であつては大漫荼羅の…國神勧請(かんじょう)の解決は出來ない。(此事は何れに近日別冊として説明する)然(しか)に頑迷(がんめい)固(こ)陋(ろう)なる宗門徒は自分の神本説を否定し寄ると障(さわ)ると『自分の擯斥』を提唱しつつあつたが、先般鏑木氏の聲明(せいめい)に依つて爆發した結果が、この擯斥となつて現れたのである」(同)

 

この時期、小笠原は神本仏迹論をもって宗内における覇(は)を握ろうとした。これに対し日蓮正宗中枢は、小笠原の主張する邪義の域まで法を曲げることはできなかった。ところがその後まもなく、日蓮正宗は一宗を挙げて、小笠原の神本仏迹の域に入ったとしか思えないような行動をとっていくのである。

 

伊勢神宮の遙拝(ようはい)まで指示命令していた宗門

神本仏迹の邪義をもてはやす小笠原を破門にした日蓮正宗ではあったが、先述のとおり、昭和十六年にはすでに御書の発刊禁止、一部削除をおこない、すでに宗教的な節操(せっそう)をみずから放棄(ほうき)していた。このことからも容易に想像できたことであったが、日蓮正宗が、小笠原が導こうとした神本仏迹の邪義に次から次へと侵されていくのは、ただ時間の問題であったのだ。
 
昭和十七年十月十日、日蓮正宗宗務院は神宮遥拝(ようはい)をするように院達を出す。その全文は、以下のとおり。
 
「院第二三二八號
 
昭和十七年十月十日
 
日蓮正宗宗務院
 
住職教師會主管者殿
 
今般(こんぱん)文部次官より官文三三四號を以て別記の通り通牒(つうちょう)有之たるに付御承知の上其趣旨(しゅし)を檀信徒一般に徹底せしむる樣周(しゅう)知(ち)方可然(がたしかるべく)御配意相煩(あいわずら)はし度(たく)
 

 
官文三三四號
 
文部次官印
 
日蓮正宗官庁殿
 
神嘗祭(かんなめさい)當日神宮遙拜(ようはい)に関する件
 
神嘗祭當日遙拜時間の設定に關しては客年十月八日附官文三七八號を以て通牒致したる處(ところ)聖戦下愈々(いよいよ)神嘗祭ノ眞意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(學、校、所、舎)職員をして當日午前十時を期し一齊(いっせい)に各在所に於て神宮を遙拜せしむる樣可然御配意相煩度」
 
小笠原破門後わずか一カ月にしてこのような院達を出すのでは、小笠原の擯斥(ひんせき)処分は法義を守るためではなく、派閥争いのためであったと言われても仕方があるまい。日蓮正宗宗務院は、神宮遥拝を宗内に徹底する大謗法の示(じ)達(たつ)をしていたのである。
 
なお神嘗祭とは、伊勢神宮の収穫祭のことで、一八六九(明治二)年に皇室祭(さい)祀(し)に定められた国家神道の重要

 

行事の一つである。毎年十月十七日に行われ、宮中においては現人神(あらひとがみ)である天皇が伊勢神宮を遙拝(ようはい)し、また宮中三殿の一つである賢所(かしこどろこ)で親祭を執(と)りおこなう。この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布にほかならない。この意義に則(のっと)り、十月十七日当日は午前十時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遙拝させるように、宗務院は僧たちに命じたのである。
 
これに先立つ同年(昭和十七年)九月十八日、総本山において日寛上人御正当会がおこなわれた。当時の『大日蓮』(昭和十七年十一月号)は、戦時色一色に染まった模様を次のように報じている。
 
「常唱堂參道入口には、百貫坊大村壽道(敬華)師の筆になる『満月の虎』の勇壮(ゆうそう)米英物かはと言ふが如き闘志満々たる気分を醸成(じょうせい)させられた。
 
參道兩側には師独特の胸底(きょうてい)より迸(ほとばし)り出た時局川柳並(ならびに)祖訓、肺腑(はいふ)を抉(えぐ)るが如き言々句や、絵筆の運びは、參詣者をして爆笑の中に時局を認識せしめた好材料であつた。
 
其中の一部を発表します。
 
川柳
 
東条首相
 
人情首相、国はがつちり長期戰

 

伊勢神宮(内宮)

 

出征(しゅっせい)家族
 
父の留守、堅く守つて恙(つつが)なし
 
戰線にて
 
月明り、もう一度見る子の写真
 
二三十億貯蓄
 
隣組、出せばまだ出るこの力
 
債券
 
米英を叩(たた)きつぶすはこの巨彈
 
落合慈仁師、常唱堂にて御説法初め十數人なりしも、師の言々句句は戦地仕込の雄弁其のものの如く、銃前に、銃後に説き来り、説き去り、ために善男善女は堂に満ち、參詣者をして上人の御遺德を慕(したわ)しめ、且(か)つ十分なる時局を認識せしめ得た事は、大いに師に対して感謝する所があった」(『大日蓮』昭和十七年十一月号より)少々長い引用となったが、紹介したのは、日蓮正宗が戦争遂行にあたっての「国民精神総動員運動」を積極的に担(にな)っていた様子が手に取るようにわかるからである。
 
この後、昭和十七年十一月十九日には、日蓮正宗報国団が結成されている。いうまでもなく、報国団とは国民を戦争に駆り立てるためのものである。この報告団は大政翼賛会の下に組織されたもので、各宗派ごとに結成された。この日午後四時、日蓮正宗報国団の結成式が大客殿大広間においておこなわれ、儀式は開式之辞、宮城遙拝(ようはい)、国歌奉唱、祈念感謝、詔書奉読、読経唱題、役員推薦(すいせん)、総裁訓辞、国旗授与、宣誓(せんせい)、団長挨拶、報国団経過報告、記念撮影、万歳奉唱、閉式とつづいた。
 
宮城遙拝(宮中三殿・現人神に対する拝礼)、詔書奉読などが注目される。
 
「日蓮正宗報国団々則」には、本部は日蓮正宗宗務院に置かれ、分団が宗務支院に置かれていたこと、総裁には管長が就任することが定められている。この報国団の目的について同規則には、
 
「本團は肇國(ちょうこく)の聖意を体し擧宗一致時難(じなん)克服、挺身皆労(ていしんかいろう)以て宗教報國の完遂(かんすい)を期す」
 
と明記されている。
 
また、団員の構成については、
 
「本團は本宗の全僧侶檀信徒を以て組織し本宗の僧侶檀信徒たるものは必ず本團に入團するものとす」
 
となっている。
 
そして、昭和十八年度の事業項目として、献金並軍機献納資金、傷病(しょうびょう)兵慰問(いもん)並慰問品、興亜開発事業、報国勤労作業、僧侶の錬成(れんせい)、一般信徒の錬成、救急施設、社会事業促進などが挙げられている。
 
現人神を国の頂点に戴(いただ)いた国家神道を基となす国家は、その戦争目的遂行(すいこう)のために、仏教諸派に金、物資、人を調達させたのであった。日蓮正宗も、時代の趨勢(すうせい)とはいえ、その一翼(いちよく)を担ったわけである。同年十二月八日、概要(がいよう)のなった日蓮正宗報国団の人事が発表されている。報国団々長には宗務総監心得であった崎尾正道、同副団長には庶務部長であった渡邊慈海が任命された。

 

国家神道になびいてしまい創価教育学会幹部を除名した宗門

全国の各支院ごとに報国団分団が結成されたが、ここでは、昭和十八年一月十五日におこなわれた名古屋の第七分団の結成式における、“法主”鈴木日恭の祈願文の一部を紹介したい。
 
「今次大東亞戰役は皇國の興廢(こうはい)を堵(と)せる振(しん)古(こ)未曾有(みぞう)の大戰にして東亞に於ける米英の禍(か)根(こん)を除去(じょきょ)し大東亞隣邦(りんほう)の共存共榮を遂(と)げんとする實(じつ)に邦家(ほうか)自衛の止(や)むなきに出づる所なり。御稜威(みいつ)の下忠誠勇(ちゅうせいゆう)武(ぶ)なる我皇軍將兵の勇戰奮闘(ふんとう)に依る大捷報(しょうほう)は荐(しき)りに至ると雖(いえど)も、彼等敵米英は豊富なる資源と執拗(しつよう)なる民族性とにより、將(まさ)に一大反撃を企(くわだ)てんとしつゝあり。畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬十二月十二日伊勢神宮に御親拜と拝承(はいしょう)し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等國民の齋(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。
 
されば、勇躍(ゆうやく)軍に從ふもの元より身命を鴻毛(こうもう)の輕(かろ)きに比し、傷つき病(や)むも猶(なお)且(か)つ再起出陣を願ふ、銃前斯(か)く如く、銃後の衆庶亦然(しゅうしょまたしか)り戰時資材の製作に、輸送(ゆそう)の完璧(かんぺき)に各自奉公の誠を盡(つく)して生産増強に死力を效(いた)して間然(かんぜん)する所なく、或は軍人遺家族の後援に將又英靈(はたまたえいれい)の祭祀(さいし)に其の周到鄭重(しゅうとうていちょう)を極(きわ)む。爲めに士気愈々軒昂(いよいよけんこう)たり」
 
日恭はこの祈願文の中で、天皇が伊勢神宮に「親拝」したことについて、「恐懼感激」と述べている。
 
また「英霊の祭祀に其の周到鄭重を極む」と、靖国神社への戦死者奉(ほう)祀(し)を評価している。これらはいずれも、日蓮大聖人の御精神にまったく反した行為である。
 
祈願文の最後は、
 
「願くば佛祖の威力冥(みょう)に加し、顯(けん)に利益(りやく)し以て本分團をして宗教報國の大使命を達成せしめられんことを経文の如く諸(しょ)餘(よ)怨敵皆悉摧滅(おんてかいしつさいめつ)病即消滅(びょうそくしょうめつ)不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)ならしめ給へ。
 
南無妙法蓮華経」
 
と締(し)めくくられている。
 
また、同日の訓辞(くんじ)においても日恭は次のように述べ、天皇の伊勢神宮参拝を賛嘆(さんたん)している。

 

「畏(おしれおお)くも聖駕伊勢路に嚮(むか)ひ國威の宣揚(せんよう)を御祈願あらせ給ひしを拜聞し、実に恐懼に堪(た)へず、我宗徒たるもの正に一大勇猛心(ゆうみょうしん)を振起し挺身(ていしん)報國、上(かみ)御宸襟(しんきん)を安んじ奉り下(しも)令法久住を期すべきの秋(とき)に相當れり」
 
このような日蓮正宗報国団の結成式が次々と全国でおこなわれ、“法主”たる日恭の指南により、宗内の僧俗が日蓮大聖人の仏法の名の下に、戦争に向かわされたのであった。
 
この宗内の様子を見るとき、官幣(かんぺい)大社である伊勢神宮の神札を受けない創価教育学会の存在を、宗門中枢がどのように思っていたかは容易に想像できるのである。
 
昭和十八年六月、宗門は創価教育学会幹部を総本山大石寺に呼び出し、第六十二世日恭および日亨上人立ち会いの下、庶務部長・渡邊慈海より、
 
「『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうか」(戸田城聖著『創価学会の歴史と確信』より)と申し渡した。だが牧口常三郎創価教育学会会長は、日蓮大聖人の仏法に反するとして、これを拒否。その後、牧口会長は六月二十八日に再び登山し、大坊対面所で日恭に対し、“神札甘受(かんじゅ)”は過(あやま)ちであるとの諫暁をしている。宗門は神札甘受の申し渡しを聞かない創価教育学会幹部たちを登山停止の処分に付(ふ)した。
 
その後間もない七月六日、牧口会長は折伏先の伊豆下田で官憲(かんけん)に逮捕され、戸田理事長(当時)も東京で逮捕された。
 
この創価教育学会への弾圧(だんあつ)により、創価教育学会幹部総勢二十一人が検挙(けんきょ)され、牧口会長は昭和十九年十一月十八日に獄中死し、戸田理事長は終戦の年(昭和二十年)の七月三日まで、二年間にわたり不当に拘留(こうりゅう)された。
 
創価教育学会への弾圧が始まる少し前、六月十六日には日蓮正宗の僧侶・藤本蓮城が「不敬罪並びに人心惑乱(わくらん)事件」で検挙されている。
 
昭和十八年夏日蓮正宗は、自門の僧俗に対し弾圧の手が伸びたことに対し、ただ驚愕(きょうがく)し逃げまどうのみであった。日蓮正宗は逮捕された藤本蓮城を一宗擯斥(ひんせき)処分にして僧籍を剥奪(はくだつ)し、牧口会長ら創価教育学会幹部を信徒除名にし、累(るい)がみずからに及ばないようにした。
 
そして八月二十一日、二十二日と二十五、二十六日の二回に分け、教師錬成(れんせい)講習会を大石寺で開催し、「寺院にあっては庫裡(くり)に神札を祀(まつ)るよう」周知徹底した。

 

ついには神社への参拝を指示する院達まで出していた日恭

同年九月十三日には、「布教区宗務支院幹部」宛(あて)の「軍人援護張化運動実施大綱に關する件」についての院達が出されている。
 
「軍人援護張化運動」の「趣旨(しゅし)」は、次のようなものであった。
 
「戰局の苛烈(かれつ)深刻なる情勢に對應(たいおう)し全國民直(ただ)ちに一丸(いちがん)と成り大東亞戰争完遂(かんすい)に邁進(まいしん)すべきの秋(とき)、茲(ここ)に軍人援護強化運動を實施し愈々(いよいよ)國民の戰意を昂揚(こうよう)し相率(ひき)ゐて戰力増強に努め、前線將兵をして後顧(こうこ)の憂(うれい)なからしみ益々軍人援護の強化を圖(はかり)り以て聖旨に應(こた)へ奉(たてまつ)らんとす」(『大日蓮』昭和十八年十月号より)
 
その目的の第一は、「戰意の昂揚」にあり、それについては、
 
「詔勅(しょうちょく)の聖旨を奉體(ほうたい)して愈々(いよいよ)三千年の傳統(でんとう)的精神を發揚(はつよう)し銃後國民の戰意を更に強固にすると共に、我が國體(こくたい)の本義に基く軍人援護精神を昂揚(こうよう)し前線將兵の志氣を鼓舞(こぶ)するに努むること」
 
と明記されている。以下、「戰力の増強」「援護の強化」などが列記されている。この国民に対する戦時教育を、日蓮正宗は宗内に広く実施したのであった。
 
同年十一月一日、日蓮正宗宗務院より「宗内一般」に出された、明治節についての院達は、神社への参拝を指示するものであった。その院達(全文)を紹介する。
 
「號外宗内一般
 
昭和十八年十一月一日
 
日蓮正宗宗務院
 
明治節奉祝(ほうしゅく)實施(じつし)要綱
 
一、趣旨
 
謹(つつし)みて明治節を壽(ことほ)ぎ奉り明治天皇の御聖徳を仰ぎ御鴻業(こうぎょう)を偲(しの)び奉ると共に併(あわ)せて宏謨(こうぼ)に翼賛(よくさん)し奉れる先人奉公の赤心(せきしん)を證(しょう)し苛烈(かれつ)深刻なる戰局の現段階にありて愈々(いよいよ)必勝の信念を堅持(けんじ)し總力(そうりょく)を擧(あ)げて戰力を増強し以て聖戰完遂(かんすい)に邁進せんことを期す
 
二、實施方法
 
十一月三日午前九時を期し「國民奉祝の時間」を設定し左の要領により國民奉祝の途を講ずること。尚ラジオは同時刻に國民奉祝の時間の放送を行ふこと
 
(一)各家庭に於ては「國民奉祝の時間」に夫々(それぞれ)宮城遙拜(ようはい)を行ふこと
 
(二)官公衛、學校、會社、工場、船舶、團體(だんたい)等に於ては奉拜式を行ひ且必勝祈願をなすこと
 
(三)官國弊社以下神社於ては明治節祭を執行せらるゝにつき市町村民はなるべく參拜と必勝を祈願をなすこと
 
(四)その他の場合にありては國民各自『國民奉祝の時間』を銘記(めいき)し同時刻には夫々在處(ざいしょ)に在りて宮城遙拜を行ふこと」
 
この十一月九日、十日は、「宗祖大聖人御大會法會」がおこなわれたが、いずれの儀式も戦争協力の行事が折り込まれていた。
 
九日午後二時には客殿で「國(こく)威(い)宣揚(せんよう)皇軍武運長久戰傷病將士全快祈念一般願御開扉」がおこなわれ、午後八時からは御堂において「御説法並に日蓮正宗報國團大講演會」が催(もよお)された。翌十日午後二時よりは客殿において「大東亞戰争戰没英靈追悼(ついとう)並に一般願」がおこなわれ、午後七時からは御堂において「御書講並ニ決戰精神昂揚(こうよう)布教大講演會」が催された。
 
さて、ここまで日蓮正宗が国家神道に追従(ついじゅう)し、宗内の僧俗を戦争に駆り立てるという、いわば戦意鼓舞(こぶ)の一翼(いちよく)を担ってきたことを記した。だが、日蓮正宗は即物(そくぶつ)的にも戦争協力をしてきたのだった。日蓮正宗の戦争責任を書く場合、大石寺の建物、仏具、樹木などが軍用に供されたことを見逃すわけにはいかない。
 
日蓮正宗の『富士年表』(富士学林発行)には、昭和十八年六月二十日に、「大石寺静岡県の要請(ようせい)により勤労訓練生宿泊所となる」と記されている。徴用(ちょうよう)された工員たちの宿泊所となったのだ。
 
訓練は短期間でおこなわれ、第一回の訓練生の退所は七月九日であった。翌日の十日には、すぐさま第二回の訓練生が入所になった。訓練生には、高僧が講義をおこなったりもしている。
 
こうして、総本山大石寺の建物が国家総動員の拠点として使用されはじめた。
 
これについて、「寺院解放が叫ばれつゝある今日一億国民の修練(しゅうれん)道場として国家の要請に応(こた)ふることは最も時宜(じぎ)に適したる処置と言ふべきである」と、当時の宗門機関誌『大日蓮』(昭和十八年八月号)は記述している。
 
昭和十九年一月には、大石寺境内にそびえる巨木が軍用に供出(きょうしゅつ)された。その供出を報ずる『大日蓮』の記事の一部を紹介する。
 
「我が靈域(れいいき)の良材○○石を供出(きょうしゅつ)以つて縣下(けんか)に示し米英撃滅(げきめつ)の船筏(せんばつ)たらしめんとす之(こ)れ然(しか)しながら佛祖の安國立正の素願に叶(かのう)ふものゝ又皇謨(こうぼ)奉行の一端(いったん)たらずんばあらず、今此の老杉や曩に供出せる大梵鐘(ぼんしょう)と共に常恒に妙法の聲(こえ)を聞き、我山の神韻(しんいん)を伝ふるもの、又以て皇國の急を思ふや必せり、船舶となりては皇軍の兵糧戎器を速(すみや)かに運載(うんさい)し、佛祖の御心となりては凶敵(きょうてき)の胸に立つ矢彈とならん然らば即(すなわ)ちこの老杉は聖戰奉行天行を翼賛し本地の心を行ずる大菩薩たるべし」

 

昭和十九年十二月に入ると、大坊に朝鮮義勇軍の農耕隊がやって来た。
 
義勇軍とは名ばかりで、日本の植民地とされていた故国より半(なか)ば強制的に動員されてきた人たちであった。彼らは日本人将校の命令によって、強制労働に付されていたのだ。大坊は朝鮮義勇軍の駐屯(ちゅうとん)所となり、大坊の大書院に神札が祀(まつ)られた。日恭は、この書院に隣接する大坊の大奥で無惨(むざん)な焼死をする。
 
日蓮正宗の戦争協力というテーマで書いてきた本稿をくくるにあたり、どうしても最後に記しておかなければならないことがある。それは、戦意鼓舞(こぶ)を目的とした奇異(きい)な戒名を“法主”日恭が信徒に与えつづけていたことである。日恭は敬虔(けいけん)なる人の死をも戦意鼓舞に利用しつづけたのであった。宗教者として、これほど犯罪的なことがあろうか。
 
最後に“法主”日恭がつけた、その「尊号」(日号のついた特別な戒名)を紹介し、本稿を終える。
 
○忠良院顯照日善居士賀忠院報國日明居士立正院護國日忠居士軍勇院大行日邦居士(『大日蓮』昭利十八年六月七日付)
 
○殉國院顯正日義居士忠烈院當千日代居士勇進院護國日殉居士堅忠院敏撻日征居士大忠院珠江日艦居士(『大日蓮』昭和十八年七月七日付)
 
○大乘院顯忠日富居士廣宣院正道日戰居士忠誠院節義日雄居士誠忠院勇武日戰居士顯彰院克忠日孝居士殉國院歡喜日光居士武勳院芳香日傳居士太洋院安國日辰居士至誠院賢忠日盛居士忠良院勇猛日進居士純忠院武勇日精居士大乘院忠勳日親居士報國院義烈日清居士勇壯院達道日義居士大義院恭儉日忠居士信義院勇進日敬居士大忠院奉公日省居士義勇院報國日稔居士忠節院勇健日猛居士一誠院武勳日芳居士興國院誠忠日永居士武功院高節日喜居士大誠院忠勇日勝居士盡忠院興亞日松居士清忠院武功日勝居士立正院顯忠日雄居士顯武院安洋日清居士大勇院寶舟日孝居士壯烈院勇義日榮居士(『大日蓮』昭和十八年八月七日付)

 

牧口、戸田両会長の逮捕、下獄(げごく)

宗門は弾圧を逃(のが)れるため全末寺に神札を祀(まつ)るよう指示

宗門が創価教育学会に「神札」を受けるよう命じた昭和十八年六月、創価教育学会に対する治安維持法違反、不(ふ)敬罪(けいざい)を理由としての本格的な弾圧(だんあつ)が始まり逮(たい)捕(ほ)者(しゃ)が出た。
 
逮捕されたのは、創価教育学会理事の有村勝次と中野支部長の陣野忠夫であった。逮捕されたのは六月二十九日、二人は淀橋警察署に留(りゅう)置(ち)された。
 
つづいて七月六日には牧口常三郎会長が、折伏で訪れた伊豆の下田で逮捕され、下田警察署に留置され、翌七日警視庁に押送(おうそう)された。牧口会長の逮捕された六日には戸田城外理事長(当時)も逮捕され高輪警察署に留置された。戸田理事長も、のち警視庁に留置される。
 
七月六日には、他に理事・稲葉伊之助、理事・矢島周平などが東京で逮捕された。
 
牧口会長が布教先の伊豆・下田で逮捕されていること、中枢幹部を一斉検挙(いっせいけんきょ)をしていることからして、警察による長期間にわたる内偵(ないてい)がおこなわれ、逮捕にあたっては綿密(めんみつ)な準備がなされていたと結論される。
 
六月二十九日の理事・有村や中野支部長・陣野らの逮捕は、水面下で長期間つづけられてきた捜査が、顕在(けんざい)化(か)するきっかけとなったと見るべきである。
 
有村、陣野らを一週間調べただけで創価教育学会中枢に対する組織的な一斉検挙がなされることなどありえない。十全(じゅうぜん)の捜査が長期にわたりなされていたと思われる。
 
事実、この弾圧が本格化する同年四月、戸田会長の経営する平和食品㈱の専務である本間直四郎(創価教育学会理事)ほか一名が、経済統制法違反の疑いで別件逮捕され、長期にわたる取り調べを受けていた。

 

牧口会長が折伏に訪れ座談会を開いた伊豆・下田の蓮台寺(地名)

 

(左)牧口会長が逮捕された岸宅(当時の家屋は昭和28年に焼失)

(右)牧口会長が連行されて歩いた須崎街道

 
創価教育学会幹部の逮捕は有村、陣野らの後も相次ぎ、七月二十日には、副理事長・野島辰次、理事・寺坂陽三、理事・神尾武雄、理事・木下鹿次、幹事・片山尊が警察に逮(たい)捕(ほ)された。
 
この昭和十八年七月以降も逮捕が相次ぎ、昭和十九年三月までに総計二十一名が逮捕された。
 
国家権力による弾圧は、日蓮正宗の信徒団体である創価教育学会に対するものだけではなかった。日蓮正宗僧侶である藤本蓮城(本名秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の六月十六日、不敬罪等の容(よう)疑(ぎ)により逮捕されている。
 
藤本は昭和二年ごろ日蓮正宗に入信し、昭和十六年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本に随(したが)う高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛(かいしゅん)の情顕著(けんちょ)」ということで起訴(きそ)猶(ゆう)予(よ)となり、藤本のみが九月二十二日に起訴となった。
 
宗門は創価教育学会幹部の逮捕にあわてふてめき、創価教育学会幹部らを信徒除名にし、藤本蓮城も擯斥(ひんせき)処分にし僧籍を剥奪(はくだつ)した。なお藤本は、昭和十九年一月十日に極寒の長野刑務所で衰弱死する。
 
これら僧俗に官憲(かんけん)の手が及んだ八月下旬、宗門は教師

 

牧口会長が留置された下田警察署

 

錬成(れんせい)会を開き、各末寺の庫裡(くり)に神札を祀(まつ)ることを末寺住職に指示した。
 
宗門は、日蓮大聖人の教法を信ずる僧俗を見捨て、国家神道に迎合(げいごう)することをもって国家権力の弾圧(だんあつ)から逃(のが)れようとしたのである。その理由はただ一つ、弾圧され我が身が拘束(こうそく)されるのが怖(こわ)かったのである。
 
創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城聖理事長は、警視庁を経(へ)て巣鴨の東京拘置所に拘置(こうち)された。巣鴨の東京拘置所とは、戦後巣鴨プリズンとしてA級戦犯(せんぱん)が収容されたところである。場所は現在の東京都豊島区東池袋にあたり、いまではサンシャイン60が建っている。
 
牧口会長、戸田理事長は、東京拘置所の一番西に位置し、主に政治犯、思想犯が拘置されていた独房ばかりからなる第六舎の監房(かんぼう)にそれぞれ入れられていた。
 
当時の取り調べは、今日のような尋常(じんじょう)なものではない。非国民扱(あつか)いをされ、当事者のみならず家族も大変な思いをした。また法の運用はデタラメで、いつ釈放(しゃくほう)になるともしれず、食糧難(しょくりょうなん)のため獄中で衰弱死(すいじゃくし)、あるいは餓死(がし)する者も出るありさまであった。

獄中にあっても毅然(きぜん)たる態度で国家諫暁をした牧口会長

牧口会長が獄中にあって、いかなる決意で官憲(かんけん)の取り調べに臨(のぞ)んだかは、いまに残る「牧口尋問(じんもん)調書」により知ることができる。牧口会長は検事の取り調べに対し、日蓮大聖人の仏法の正しさを述べ、獄中ながら毅(き)然(ぜん)たる姿で国家諫暁(かんぎょう)している。
 
牧口常三郎初代会長の獄中での戦いをうかがうことのできる予(よ)審尋問(しんじんもん)調書が、特別高等警察の「厳(げん)秘(ぴ)」資料である『特高月報』(昭和十八年八月分)に掲載されているので、その一部を紹介したい。
 
獄にあった牧口会長は、神札などの謗法払いについての予審判事の尋問に答えている。
 
牧口会長は判事の尋問に淡々と答えているようだが、実は死を賭(と)して国家諫暁しているのである。答えている内容は、明らかに治安維持法に違反している。治安維持法に違反した者の最高刑は死刑である。もちろん牧口会長はそれを知った上で、諫暁しているのである。
 
「取払(とりばら)ひ撤去(てっきょ)して焼却破棄(はき)等して居(お)るものは、國家が隣組其他夫々(となりぐみそのたそれぞれ)の機関或(あるい)は機会に於て国民全体に奉斎(ほうさい)せよと勧めて居ります処(ところ)の伊勢大廟(たいびょう)からだされる天照皇太神(てんしょうこうたいじん)(大麻)を始め明治神宮、靖国神社、香取鹿島神宮等其他各地の神宮・神社の神札、守札(まもりふだ)やそれ等を祭る神棚及び日蓮正宗の御本尊以外のものを祭った仏壇や屋敷内に祭ってある例へば荒神(こうじん)様とか稲荷様、不動様と謂(い)ふ祠(ほこら)等一切のものを取払ひ、焼却破棄さして居ます。
 
就中(なかんずく)天照皇太神宮の大麻は、最近殆(ほとん)ど何(いず)れの家庭でも奉斎して居りますから、一番取払ひの対象になって居ります。取払い撤去の趣旨(しゅし)はそれ等のものを各自が家庭内に奉斎して信仰の対象と為(な)す事は御本尊の信仰を雑乱(ぞうらん)する事になり、謗法になりますのと一面に於ては天照皇太神宮の大麻等を家庭内に奉斎する事は前に申し上げた理由から、却而(かえって)不敬に当りますから撤去(てっきょ)するものであります。
 
勿論(もちろん)、之等(これれ)の神宮神社仏寺等へ祈願の為参拝する事も謗法でありますから、参拝しない様に、謗法の罰は重いから、それを犯さない様に指導して居るのであります」
 
また、「法華経の真理から見れば日本国家も濁悪(じょくあく)末法の社会なりや」との尋問(じんもん)に答えて、
 
「釈尊の入滅(にゅうめつ)後の一千年間を正法(しょうほう)時代、其後(そのご)の一千年間を像法(ぞうほう)時代と称し、此の正法像法の二千年後は所謂(いわゆる)末法の時代で法華経が衰(おとろ)へ捨てられた濁悪雑乱の社会相であります」
 
と述べている。
 
神国であるべき日本も、末法の社会相であると牧口会長は断じたのであった。また『立正安国論』の史(し)観(かん)に基(もと)づいて、法華経の衰えるのを看(かん)過(か)するようなことがあれば国が滅(ほろ)ぶと主張している。
 
「国には内乱・革命・飢饉(ききん)・疫病(えきびょう)等の災禍(さいか)が起きて滅亡(めつぼう)するに至るであらうと仰せられてあります。
 
斯様(かよう)な事実は過去の歴史に依(よ)っても、夫(そ)れに近い国難が到来(とうらい)して居ります。現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張(やは)り謗法国である処(ところ)から起きて居ると思ひます」
 
戦争が現人神(あらひとがみ)・天皇の名のもとに聖戦とされた時代に、日蓮正宗の教えを奉(ほう)じないが故に起きた災厄(さいやく)であると主張するのは並のことではない。それを獄中において陳述しているのである。当時の状況下でこのような主張をなすことは、死をも意味することであった。まさに、末法の御本仏日蓮大聖人の折伏精神を帯(たい)しての師子吼(ししく)といえる。

 

師弟不二で戸田理事長も国家権力に敢然(かんぜん)と立ち向かった

戸田理事長も師たる牧口先生に思いを致しながらも、取り調べに敢然(かんぜん)と立ち向かい、日蓮大聖人の仏法を奉じて一歩も引かなかった。獄にあっては日蓮大聖人の御書、法華経をひもとき、唱題につぐ唱題の日々であった。
 
ここでは、戸田理事長の獄中での生活をしのぶために、戸田理事長が獄中において書いた書簡(しょかん)の一部を紹介する。
 
▼昭和十九年二月八日に夫人に宛(あ)てた手紙の一部。
 
「一月十日ニ非常ナ霊感(れいかん)ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥(ふと)リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」
 
▼昭和十九年二月二十三日に同夫人に宛てた手紙の一部。
 
「御書(日蓮大聖人遺文集)ダレカラカ借リテ下サイ。珠(じゅ)数(ず)ノ差シ入レ願ウ。法華経ノ講義書、千種先生カ堀米先生カラカ借リテ入レテ下サイ(ナルタケ一冊カ二冊ノモノ)」
 
▼昭和十九年九月六日に夫人に宛てた手紙の一部。
 
「決シテ、諸天、仏、神ノ加護ノナイトイウコトヲ疑ッテハナリマセヌ。絶対ニ加護ガアリマス。現世ガ

 

牧口・戸田会長が拘置された東京拘置所

 

安穏(あんのん)デナイト嘆(なげ)イテハナリマセヌ。真ノ平和ハ清浄(せいじょう)ノ信仰カラ生ジマス。必ズ大安穏ノ時ガマイリマス。信心第一、殊(こと)ニ子ドモノ為ニハ、信仰スル様(よう)。ゴ両親トモ、信心ハ捨テマセヌ様」
 
▼昭和十九年九月六日に子息に宛てた手紙の一部。
 
「オ父サントハマダマダ会エマセヌガ、二人デ約束シタイ。朝何時デモ君ノ都合ノヨイ時御本尊様ニムカッテ題目ヲ百ペン唱エル。ソノ時オ父サンモ、同時刻ニ百ペン唱エマス。ソノウチニ『二人ノ心』ガ、無線電信ノ様ニ通ウコトニナル。話モデキマス。コレヲ父子(おやこ)同盟トシヨウ。オ母サンモ、オ祖父サンモ、オ祖母サンモ、入レテアグテモヨイ。オ前ノ考エダ。時間ヲ知ラセテ下サイ」

 

東京拘置所の階段の窓                       

 
東京拘置所の独居房の扉

 

東京拘置所の共同風呂

 

さらに、出獄直後の昭和二十年九月の妹の主人宛の書簡を読んでいただきたい。信仰信念を貫(つらぬ)いた者のその事実の前に感動あるのみである。
 
「K雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連(つ)らなり、独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯(きょうがい)を体験し、仏教典の深奥(しんおう)をさぐり遂(つい)に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥(おう)義(ぎ)とが相(あい)一(いっ)致(ち)し、日本を救い、東洋を救う一大秘(ひ)策(さく)を体得(たいとく)いたしました。(中略)私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。
 
在々諸仏(ざいざいしょぶつ)土(ど)常(じょう)与師(よし)倶(ぐ)生(しょう)
 
と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
 
私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、

 

東京拘置所の二階大廊下


 

先生が師匠の時には私が弟子になりして過去も将来も離れない仲なのです。こんなことを言いますと、兄貴は夢のようなことを言っている、法華経にこりかたまっていると一笑(いっしょう)に付するでしょう」
 
この一文につづいて何ごとをか書くことなどとうていできないが、凡(ぼん)愚(ぐ)の者にも、創価学会の出現の不思議が五体に伝わってくることだけは確かだ。

 

牧口.戸田両会長の捨身の戦いかあって広宣流布の時は開かれた

昭和二十一年十一月十七日、牧口会長の第三回忌法要が東京・神田の教育会館においておこなわれた。列席者は五~六百人であったという。このとき戸田会長は師・牧口会長を偲(しの)び、次のように話している。
 
「思い出しますれば、昭和十八年九月、あなたが警視庁から拘(こう)置(ち)所(しょ)へ行かれるときが、最後のお別れでございました。
 
『先生、お丈夫(じょうぶ)で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでございました。
 
あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました。
 
わたくしも後をおうて巣鴨にまいりましたが、朝夕、あなたはご老体ゆえ、どうか、一日も早く世間へ帰られますように、御本尊様にお祈りいたしましたが、わたくしの信心いまだいたらず、また仏(ぶつ)慧(え)の広大無辺にもやあらん、昭和二十年一月八日、判事より、あなたが霊鷲山(りょうじゅせん)へお立ちになったことを聞いたときの悲しさ。杖(つえ)を失い、燈(ともしび)を失った心の寂(さび)しさ。夜こと夜ごと、あなたを偲(しの)んでは、わたくしは泣きぬれたのでございます。
 
あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄(ろうごく)まで連れていってくださいました。そのおかげで、『在々諸仏(ざいざいしょぶつ)土(ど)・常(じょう)与師倶(よしぐ)生(しょう)』())と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読(しんどく)することができました。なんたるしあわせでございましょうか。
 
創価教育学会の盛んなりしころ、わたくしはあなたの後継者たることをいとい、さきに寺坂陽三君を推(お)し、のちに神尾武雄君を推して、あなたの学説の後継者たらしめんとし、野島辰次氏を副理事長として学会を総括(そうかつ)せしめ、わたくしはその列外に出ようとした不(ふ)肖(しょう)の弟子でございます。お許しくださいませ。しかし、この不肖の子、不肖の弟子も、二か年間の牢獄(ろうごく)生活に、御仏を拝したてまつりては、この愚(ぐ)鈍(どん)の身も、広宣流布のために、一生涯を捨てるの決心をいたしました。ご覧くださいませ。不才愚(ぐ)鈍(どん)の身ではありますが、あなたの志(こころざし)を継いで、学会の使命をまっとうし、霊鷲山(りょうじゅせん)会(え)にてお目にかかるの日には、必ずや、おほめにあずかる決心でございます。
 
謹書 弟子城聖申す」
 
昭和二十五年十一月十二日には、牧口会長の第七回忌法要が同じく東京・神田の教育会館でおこなわれた。このときの戸田会長の話。
 
「先生といえば戸田、戸田といえば先生といわれた仲で、昭和十八年の嵐にあったときも、もうこれで、先生とお会いできないと思っておりましたのに、警視庁の調べ室でいっしょになることできました。そのとき先生は、家から送られた品物のなかに、カミソリがはいっておりました。先生は、それをいかにもなつかしそうに、裏かえし、表かえして見ていたのです。なにかの思い出もあるかのように、ほんとうに恋しそうにながめているのです。

 
大聖人の教えを奉じながら獄死した牧口初代会長

 

獄中から夫人に宛てた牧口会長の手紙

 
そのときに、同志稲葉君を蹴(け)った刑事で斎木とかいったと思う男が、ものすごい声をはりあげて、『牧口、おまえは、何をもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ』と、どなりつけました。
 
先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は創価教育学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ。しかし、仏の金言むなしからず。わたくしが帰ったとき、斎木のいちばんいとしいと思っていた子供どもが、頭から貯水池にはいって死んだのです。ちょうど三年以内です。そのときのわたくしの恐ろしさ、今日、わたくしは初めてこのことを申します。
 
それから、巣鴨に移されるとき、先生と対面がゆるされました。わたくしは、
 
『先生、おからだをたいせつに』
 
と申しました。わかれて車に乗るとき、先生は、
 
『戸田君は、戸田君は』
 
と申されたそうです。
 
『わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く出られますように。わたくしはいつまで、長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように』
 
と唱えた題目も、わたくしの力のたりなさか、翌年、先生は獄死されました。
 
『牧口は死んだよ』
 
と知らされたときの、わたくしの無念さ。一晩中、わたくしは獄舎(ごくしゃ)に泣きあかしました。
 
先生のお葬式はと聞けば、学会から同志が、藤森富作、住吉巨年、森重紀美子、外一、二名。しかも、巣鴨から、小林君が先生の死体を背負って帰ったとか。そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知って来ぬのか、知らないで来ないのか。
 
『よし!!この身で、かならず、かならず、法要してみせるぞ!』
 
と誓ったときからのわたくしは、心の底から、生きがいを感じました。
 
先生の生命は永遠です。先生が、いま、どこにいられるか。猊下の御導師により、門弟らがともどもに唱える題目、先生はこの仏事につながれております。ここは寂光(じゃっこう)土(ど)です。先生の生命は、こつぜんとしてここにあらわれております」
 
獄中にあって日蓮大聖人の仏法を奉(ほう)じ、師匠を慕(した)い懸命(けんめい)に戦った戸田会長を、同じ信仰を持つ者として偲(しの)ぶことができることは、創価学会員にとって無上(むじょう)の誇りである。
 
なお、牧口会長は、昭和十九年十一月十八日に巣鴨拘(こう)置(ち)所(しょ)で亡くなったが、その前日十七日に同拘置所六舎の独居房から病監(びょうかん)に移った。
 
牧口会長は病監に移るに際し、下着を着替え足袋(たび)を履(は)きかえ威儀(いぎ)を正(ただ)したという。病監に移る途中、足元がもつれ転んだが、看守(かんしゅ)が手を貸そうとするのを断り、一人で最後まで歩き病監に入り、病監に入るとすぐ昏睡(こんすい)状態となったことが伝えられている。翌十八日朝、牧口会長は巣鴨拘置所病監で息を引きとった。
 
牧口会長の遺体は頭と顔を白い布で蔽(おお)い、縁戚(えんせき)の使用人であった小林秋高という人が、巣鴨拘置所から牧口会長の自宅(現在の豊島区目白)まで背負って帰っていった。
 
獄中での死ではあったが、自ら装束(しょうぞく)を整えられ覚悟(かくご)の死であったことがうかがわれるのである。

 
東京拘置所の病監中央廊下

 

日恭は、なぜ非(ひ)業(ごう)の死を遂(と)げたか

 

日恭が大聖人の弟子でないことは御金言により明らか

 
日顕宗では、大石寺第六十二世日恭の死にざまが世に出ることを非常に恐れていた。
 
日恭の無(む)惨(ざん)な死が真実となれば、“法主”を“現代における大聖人様”と崇(あが)め、その生き仏に“信伏随従(しんぷくずいじゅう)”することを根本教義とする邪宗日顕宗にとっては、はなはだ不都合なことになる。
 
それだけに日恭の死にまつわる真実を、歴史の奥底に隠(かく)しておきたいのである。
 
では日恭は、いかなる死に方をしたのであろうか。
 
昭和二十年六月十七日、大石寺は炎に包まれた。対面所裏より出火した炎は対面所、客殿、六壷、大奥などを焼き尽くした。朝四時まで燃え盛ったといわれる炎は、第六十二世日恭の生命を奪(うば)った。
 
焼け跡から発見された日恭の焼死体は、仏法の厳しさを示して余りあるものであった。日恭は、大奥一階部分の、主に従業員などが食事をしていた食堂の一角にあった竈(かまど)で発見されたのである。日恭は竈の中に下半身が嵌(は)まり込み焼け死んでいた。
 
しかも無残なことには、下半身と腹わたは焼けず、生身のままで、上半身のみ黒焦(こ)げとなって死んでいたのであった。
 
日恭は前日、静養先の隠居所からたまたま大石寺に戻り、火事の夜、大奥二階にあった管長室に泊まった。日恭は巨(きょ)軀(く)と病気のために歩行困難であった。
 
その日恭が火に巻かれ、すみやかに逃げることができなかったのは無理からぬことであった。
 
おそらく、火事のため大奥二階の床が焼け落ち、日恭は一階に落ち、意識のあるまま竈に嵌(は)まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている。
 
時の法主が本山で無惨な焼死をしたことは、仏法の因果からして当然のことであった。
 
軍部の猛(もう)威(い)を前にして恐怖し、御書削除(さくじょ)、御観念文の改竄(かいざん)、そして神札甘受(かんじゅ)と大聖人の教えを次々と打ち捨て、その上あろうことか、仏意仏勅の団体である創価学会(当時・創価教育学会)を自己保身の故に見捨てた宗門に、厳罰(げんばつ)が下ったのだ。
 
念を押しておくが、この文章は、日顕宗の主張するような、「御歴代を貶(おとし)めんとする」目的で書いたものでは決してない。仏法の因果律の厳しさを読者に知ってもらおうとしたものである。
 
したがって、この文章それ自体が汚(けが)らわしいのではなく、日恭の死が汚らわしいのである。故に、「文は人なり」との日顕宗の批判はあたらない。
 
この事実を、まず明確に認識する必要がある。竈(かまど)に嵌(は)まり込み、上半身が焼け焦(こ)げ下半身と腹わたが焼け残った死体について、耽美(たんび)的な文章をもって表現できうる人はいない。
 
日蓮大聖人曰く。
 
「『今畏(い)の遺(い)形(ぎょう)を観(み)るに漸(ようや)く加(ますます)縮小し黒(こく)皮(ひ)隠隠(いんいん)として骨其露(それあらわ)なり』等云云、彼(か)の弟子等は死後に地獄の相の顕(あら)われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失(とが)をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(報恩抄)
 
【通解】「今、善(ぜん)無畏(むい)の遺体を見ると、次第に体が収縮し、黒皮に覆(おお)われて、骨が露(あら)われている」等とある。彼の弟子等は、死後に無間地獄に堕(お)ちた相が顕(あらわ)れたことを知らずに、師の徳を宣揚(せんよう)しようと思ったが、書き現(あらわ)した文は、善無畏の堕地(だじ)獄(ごく)の失(とが)を書き残してしまった。死んでしまったので、体が次第に縮(ちぢ)まり、小さくなり、皮膚は黒く、骨が露れている等と書いてある。人が死んだ後に色が黒いのは、地獄の業であると定めることは、仏陀の金言なのである。
 

無惨な焼死をした第62世・日恭

 

日顕宗は、この無惨な死を描写(びょうしゃ)された御本仏の御聖訓についても、「文は人なり」と批判し、文を書いた日蓮大聖人を卑(いや)しむというのであろうか。
 
峻厳(しゅんげん)なる仏法の因果律を教えるために、御本仏といえども、不成仏の死について露(あらわ)な真実を伝えられているのである。
 
日恭は、戦時下にあって国家権力の猛(もう)威(い)を恐れ、戦争翼賛(よくさん)の訓(くん)諭(ゆ)、伊勢神宮遥拝(ようはい)の院達(いんたつ)、御書の字句を削除、御観念文の改竄(かいざん)、神札甘受(かんじゅ)などの大謗法を犯した。
 
さらには、日蓮大聖人の教えどおり謗法厳戒にして折伏弘教に精進(しょうじん)していた創価教育学会・牧口常三郎会長らが、昭和十八年七月に治安維持法違反、不(ふ)敬罪(けいざい)の容疑で逮捕されるや、同会長らを信徒除名にした。それが日恭である。
 
日蓮大聖人の弟子、とりわけ“法主”として絶対なしてはならないことを数限りなく犯したのであるから、日恭が厳然(げんぜん)たる仏罰を蒙(こうむ)って無残な死を遂(と)げたのは、仏法の因果律に照らして、むしろ当然すぎるほど当然なことである。
 
したがって、日恭の仏罰厳然たる死の姿を真実のままに認識することは、仏法を正しく学ぶうえで非常に重要なことといえる。
 
“法主”であっても、謗法を犯し仏子を迫害すれば、臨終において堕地獄の相を現ずることとなる。すなわち、“法主”であろうと謗法を犯し仏子を迫害すれば成仏しない。
 
それでは火事の原因は、何であったのだろう。ほかならぬ大火は、所(しょ)化(け)の失(しっ)火(か)により起きたのである。

 

日恭の死にざまは、生きなから無間大城(むげんだいじょう)に堕ちた提婆達多と同じ

大奥に隣接する部屋(対面所の廊下をはさんで北側)の押し入れが出火場所。そこで増田壌允という所化が、ロウソクを立てて足袋か何かを乾(かわ)かしていて、そのうち眠ってしまい火事となったという説があるが、それは言い訳であったと思われる。真実は、その所化が押し入れに隠れてタバコを吸っていてボヤを出し、いったんは消したが完全に消えておらず、一時間くらい経過してから再び燃え上がり大火となったということである。

 

昭和初期の大坊建物配置図

 

このような事実もあり、大石寺においては、火事の直後には、所化による失火ということが定説であったようだ。それを宗門はいつの頃からか、日本人将校に不満を持つ朝鮮兵が、将校の宿泊所となっている対面所に放火したと言いはじめた。人道上許すことのできない、卑(ひ)怯(きょう)で差別的な責任の押しつけである。
 
宗門は創価学会に対しても、社会に対しても、この偽(ぎ)説(せつ)を今日まで長年にわたり主張し、朝鮮の人々に火事の責任を転(てん)嫁(か)してきた。
 
前ページの建物配置図を見ていただきたい。種々の資料、情報から判断するに、出火場所は対面所北側の廊下を隔(へだ)てた部屋であったようだ。出火時刻は、昭和二十年六月十七日午後十時三十分頃。火は対面所と二階建ての大奥(木造二階建)を、ほぼ同時に焼き、その後、東南に向けて延焼(えんしょう)し、大書院を焼き、つづけて六壷、客殿を焼き尽くした。
 
約二百五十畳の大書院には神棚が祀(まつ)られ、二百名とも三百名とも伝えられる朝鮮兵がザコ寝していた。朝鮮兵はなかば強制的に日本に連れてこられ、大石寺周辺で開墾(かいこん)や農耕に従事させられていた。
 
この朝鮮兵たちが、大書院のみならず客殿をも宿泊所としていたということも伝えられている。
 
いずれにしても、大奥そばの将校宿泊所となっていた対面所を含め、大書院、客殿、厨房(ちゅうぼう)などを兵たちがわがもの顔で使い、大奥の一部を除いて、大坊はほぼ兵営と化していたのである。
 
僧たちは、兵たちに威(い)圧(あつ)され肩身の狭(せま)い思いで生活していた。日恭が大石寺にいなかったのは、病気が表立っての理由とされているが、このような生活環境も、日恭が大石寺より遠のいていた原因の一つであったと思える。
 
総本山大石寺のありさまと日恭の行動を合わせ考えるに、日恭には、兵に蹂躙(じゅうりん)されつつある大石寺に残り、体を張ってでも大御本尊を守ろうとの気(き)迫(はく)はさらさらなかったようだ。おおむね日恭は、軍になされるままであったのだろう。
 
なお、建物配置図を見てもわかるように、神棚の祀(まつ)り込まれた大書院は、大坊の一角をなし大奥に隣接する、大石寺にとって主要な建物であった。
 
また、大御本尊まします御宝蔵(ほうぞう)の間近でもあった。この大石寺中枢に謗法を祀り込まれてしまっていたのだ。日蓮大聖人は末流の不甲斐(ふがい)なさを、どれほど嘆(なげ)かれたことであろうか。
 
大石寺を紅(ぐ)蓮(れん)の炎で包んだ大火が鎮(しず)まったのは、翌十八日午前四時頃のことであった。日恭の焼死体が発見されたのは、大奥の焼け跡からであった。客殿焼け跡より焼死体発見とする説もあるが、大奥の焼け跡からというのが正しい。
 
日恭は当夜、大奥二階に泊まっていたが、火のまわりが早く、当人も巨(きょ)軀(く)と持病の疝気(せんき)(漢方で、大小腸・生殖器などの下腹部内臓が痛む病気)のため、歩行が不自由であり耳も遠かったため逃げ遅れたと思われる。
 
この火事の犠(ぎ)牲(せい)者は、日恭一人のみであった。
 
日顕宗は、日恭の無(む)惨(ざん)な死にざまについて書いた『地涌』の記事は、邪宗日蓮宗の坊主・安永弁哲の書いた『板本尊偽作論』をタネ本にしていると中傷(ちゅうしょう)している。邪宗日蓮宗の坊主の名を出すことにより、日恭の無惨な死が信憑(しんぴょう)性のないものであるとしたいのであろう。
 
だが、真実は、時の隔(へだ)たりをこえて今回明らかとなったのである。
 
何しろ、この“法主”の無惨な死を見つめることは、仏法の厳しき因果律を学ぶことに通じるのだ。日恭の死を仏罰であると厳粛(げんしゅく)に受け止めることが、仏弟子として肝要(かんよう)なことなのである。
 
当時の管長代務者である中島廣政は、昭和二十年九月の妙光寺彼岸会で、日恭の死について、考えられないような不運が重なった結果であると話している。
 
「書院には三百名の農耕兵が居(お)りましたが或(ある)事情のため消火に協力出来ず、門前にあった消防自動車は故障のため使へず、上井出から來た戰車學校の自動車はガソリンを忘れたため是亦(これまた)役に立たず、富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸(いち)早く出動準備を整へたのでありますが、署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過(すご)し上野署よりの應援(おうえん)要請で駆著(かけつ)けた時は火は既(すで)に客殿に移り、手の下(くだ)しやうもないと云(い)ふ此上(このうえ)ない悪條件揃(ぞろ)ひであって、洵(まこと)に宿命と申す外(ほか)はないのであります」
 
そのうえで中島は、日恭の死を、「大聖人大慈の御誡(いましめ)」であると素直に受け止め、彼岸会において宗門大衆を前に話している。
 
たしかに、これほどの不運が重なることも珍しい。まさに罰以外の何ものでもない。
 
そのうえ、これこそ罰を認識する核心部分であるが、竈(かまど)に嵌(は)まり込み、逃げるに逃げられず上半身黒焦(こ)げ、下半身生身の無惨な死に方を日恭はしたのである。
 
さすがに当時の宗門中枢も、この不運が重なった結果、総本山大石寺が大火に焼け落ちて“法主”が無惨な死を遂(と)げた事実に直面し、かりそめであれ謗法に染(そ)まった過去を懺悔(ざんげ)していたのである。
 
その歴史的事実に目をつむり、宗門は事ここに至ってまで日恭の死を美化し真実を隠蔽(いんぺい)することに腐(ふ)心(しん)している。そのような愚(おろ)かなことはもうやめるべきだ。
 
時はすでに、“法主”の権威をもって真実を隠蔽することを許さない。仏道を志(こころざ)す者であれば、事実を事実として認め、仏法の本質を学ぶべきである。
 
なお余談になるが、邪宗日蓮宗の坊主・安永弁哲の書いた『板本尊偽作論』のネタを提供したのは、日蓮正宗の妖僧・小笠原慈聞である。『板本尊偽作論』は、日蓮正宗内の長年にわたる出家同士の確執(かくしつ)が、形を変えて表面化したものであるとも言える。
 
末法において度(ど)し難(がた)きは、法盗(ぬす)っ人(と)たちである。

 

火事の原因を所化の失火と知りながら朝鮮兵による放火だとウソをついた宗門

昭和二十年九月、妙光寺を訪れた日蓮正宗管長代務者・中島廣政は、彼岸会の説法の席で、同年六月十七日の大奥、大書院、客殿などを焼いた大石寺の火事の原因について、「一所化の失火」であることを認めており、このときの説法の内容は記録に残されている。
 
そのほか、当時の大石寺の状況に詳(くわ)しい僧らも、懐古(かいこ)談の中に、「小僧の失火」と記している者もいる。なかには火を出した小僧の名として「増田壌允」の名を挙げている者もいる。
 
これらのことから、出火の原因が所化の失火であることは、火事直後の大石寺内においては定まった説であったことがうかがえる。事実、当時、大石寺にいたある僧侶は、「所化によるタバコの火の不始末」であったと明言している。
 
ところが、大石寺はいつの頃からか、この大火は日本軍将校に不満を持った朝鮮兵が、将校宿舎となっていた対面所に放火したことにより発生したと言いはじめた。
 
内部の者による失火では体裁(ていさい)が悪いと考え、大火の責任を、なかば強制的に連行されてきた朝鮮兵に転(てん)嫁(か)しようとしたのである。
 
このデマの元となったのは、日蓮宗の坊主である安永弁哲が著(あらわ)した『板本尊偽作論』を破折するため、日蓮正宗側が出版した『惡書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』(日蓮正宗布教会刊)である。この本の編集ならび発行者は「日蓮正宗布教会」、取扱所は「大日蓮編集室」で、昭和三十一年九月三十日に発行された。
 
この日蓮正宗の公式的な見解がまったくのウソであったため、以後、大火の責任が「朝鮮兵」になすりつけられることとなったのである。
 
『悪書板本尊偽作論を粉砕す』には、次のように出火の状況が書かれている。
 
「先(ま)づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距(ほどへだ)てた所に応接室の対面所という建物があつた。世界大戦も漸(ようや)く苛烈(かれつ)になつて来て、陸軍では朝鮮の人達を悉(ことごと)く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居(い)たが、大石寺も其の宿舎となつた為(た)め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居(お)つた。そして此(こ)れを訓練する将校が二十数名も対面所に宿泊していたのである。丁度(ちょうど)静岡市空襲の晩に此れ等(ら)の兵隊がガソリンを撤布(さんぷ)して、将校室となつていた其の対面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに将校は身の廻りの者を持つて僅(わず)か三尺の縁側(えんがわ)の外に逃げるのが漸(ようや)くであつたのである。火はやはり殆(ほと)んど同時に管長室に燃え上つたのである。侍(じ)僧(そう)は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之(こ)れまた漸く逃れたのである。此時(このとき)には一山の者が駆けつけたが、最早(もは)や、手の施(ほどこ)し様(よう)もなかつたのであつて、忽(たちま)ちのうちに二階建は焼失して了(しま)つたのである。一同は其れよりも延焼(えんしょう)を防ぐべく努力したが、遂(つい)に客殿、書院、土蔵を灰燼(かいじん)に帰(き)せしめたのである」

 

昭和初期の大坊(右の建物が大奥、左が対面所)

 

以上の『惡書板本尊偽作論を粉砕す』の記事には、随所(ずいしょ)にウソの記述が散見(さんけん)されるのであるが、並んで建っている対面所と大奥が、たちまちのうちに火に包まれたという文章全体のトーンは正しいと思われる。
 
管長代務者の中島廣政も、先の妙光寺における彼岸会で、「出火の場所は御居間(二階)の階下に隣(とな)る押入で三尺の廊下を隔(へだ)てた對面(たいめん)所には農耕隊の将校が寝て居たのでありますが火の廻はりが急なため身を以(もっ)て逃れ軍服を取出す遑(いとま)さへなく」と話したことが記録されている。
 
また日本軍将校が、軍服のみならず、軍人の魂ともいえる軍刀を焼失したと懐(かい)古(こ)談(だん)に記している者もいる。これらのことからして、対面所とそれに隣接(りんせつ)した大奥が、ほぼ同時に火に包まれたことは想像に難(かた)くない。
 
管長代務者・中島が「御居間」と話しているのは、大奥二階の管長室のことであろうと思われる。出火は、日恭の寝ていたすぐ下の方であったのだ。これでは日恭が逃げることができなかったのは無理からぬこと。
 
しかも日恭は先述したように、巨体で、疝気(せんき)と足腰が弱って歩行困難であった。そのうえに耳も遠かったのである。
 
また、この焼死をする昭和二十年六月十七日の九日前に会った信徒は、
 
「昭和二十年五月東京大空襲の時大久保の家が焼失し、その年の六月八日登山して上人にお目通りを願つたとき御短冊(たんざく)の寓意(ぐうい)を御伺いしたら上人はいや別に意味はない思いついて書いて上げたのだと仰(おお)せられお耳がお惡かつたので質問を書いてお目にかけ御答を仰(あお)いだ。お目通りするなり『国諫(こっかん)のことか』と仰せられた。それ程当時は国諫が宗内の問題になつていた。それは御遷化(せんげ)九日前のことである」(『唯信唯行』より一部抜粋)
 
と、当時、日恭の耳が聞こえなくなっていたことを記述している。火の廻りが速く、巨体の上に持病で歩行困難、そして耳が聞こえなかったため、日恭は焼死したのである。
 
宗門の出した『惡書板本尊偽作論を粉砕す』には、「皆んな上人が戦場の如(ごと)き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂(つい)に力の及ばざるを御考えなされて、寧(むし)ろ自決なされたと拝(はい)せられる。思えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌(りゅうしょう)を祈り、国民の安泰(あんたい)を願い、日々夜々一宗を督励(とくれい)し祈願をこめ給いしに、遂(つい)に敗戦を眼前(がんぜん)に控(ひか)え、既(すで)に力及ばず、老躰(ろうたい)を焼いて国家の罪障(ざいしょう)を滅(めつ)せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」
 
と書かれているが、これは日恭の死を美化しているだけのことである。日恭はただ逃げ遅れて死に、それも竈(かまど)に嵌(は)まり込み上半身は黒焦(こ)げとなり下半身と腹ワタのみが残ったのである。
 
そもそも日恭が死んだのは、大奥である。251ページの図を参考にしてもらいたいが、対面所と大奥はほぼ同時に焼け始め、その後、火は大書院から客殿へと延焼(えんしょう)していった。
 
十七日午後十時半頃に出火し、翌朝四時頃まで約五時間半にわたり、燃えつづけたのである。日恭が焼け死んだときは、まだ対面所と大奥が燃えているだけで、日恭が死を思いつめるほどの段階ではない。
 
大奥から逃げおおせた日恭が、客殿の延焼を見て、客殿の火に身を投じ「自決」したというのならともかく、事実は火事がいくらも広がっていない出火初期に大奥で焼け死んでいたというのだから、日恭はただ単に逃げることができず横死(おうし)したと判断するのが妥当(だとう)である。
 
もし、この段階で責任を感じ「自決」を覚悟したとなれば、日恭は相当なあわて者ということになる。
 
もっとも、自決するのに竈(かまど)に入る者などいない。
 
『惡書板本尊偽作論を粉砕す』に書かれている、
 
「灰燼(かいじん)の中から上人の御遺骸(いがい)を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、其の御内仏の前辺(あた)りにうつ伏せになつてをられたと思はれる姿勢が拝せられた」
 
などといった表現は、まったくの作り話。朝鮮兵が放火したという話と同じ類(たぐ)いである。
 
日蓮大聖人曰く。
 
「聖人は横死(おうし)せず」(神国王御書)
 
日恭は仏罰により、無惨(むざん)な焼死を遂(と)げた。人は“法主”の地位にあるだけでは、聖人ではないのである。
 

狸祭(たぬきまつり)事件と小笠原慈聞の復権(ふっけん)

小笠原慈聞こそ許すべからざる仏法上の仇(あだ)

「狸祭(たぬきまつり)事件」とは、宗旨建立七百年慶讃(けいさん)大法要のおこなわれた昭和二十七年四月二十七日の夜に起きた事件で、このとき創価学会青年部は、日蓮正宗の「僧侶」(学会側は僧籍にあるとは思っていなかった)である小笠原慈聞に詫(わ)び状を書かせた。
 
詫び状は、創価学会青年部に戦中の邪義を追及され、牧口常三郎創価学会初代会長の墓前で、小笠原みずから筆をとって書いたもの。以下は、そのとき書いた謝罪文の全文である。
 
謝罪状
 
私の神本仏迹は盲(ママ)説である日蓮大聖人様の清浄なる法門を乱しました事は誠にもつて外(げ)道(どう)の極(きわ)み
 
日蓮正宗内の獅(ママ)子身虫(しんちゅう)なる事を深く御詫び申し上げると共に今後の言動を慎(つつ)しみます
 
昭和廿七年四月廿七日
 
小笠原慈聞日蓮大聖人様
 
この謝罪の背景には、小笠原の戦中における言動がある。小笠原の戦中の暗躍(あんやく)は、まぎれもなく昭和十八年七月の牧口会長(当時)、戸田理事長(同)ほか十九名の創価教育学会幹部逮捕の近因(きんいん)となったのである。したがって、獄中死した牧口会長を師と慕(した)う戸田第二代会長にとっては、小笠原は仇敵(きゅうてき)であったのだ。
 
小笠原は戦中、神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)という時流に迎合した邪義を唱え、果ては日蓮正宗を日蓮宗(身延派)に合同させようと策し、その成功の暁(あかつき)には、みずからが日蓮宗の宗務総長、大石寺の「貫首(かんず)」あるいは清澄寺の住職となるとの密約(みつやく)さえ得ていたとされる。その野望(やぼう)を実現するために、時の“法主”であった日恭になんとか不(ふ)敬罪(けいざい)の罪を着せ逮捕させようと計った。
 
とりあえず日恭の逮捕はまぬかれたが、日蓮正宗は、弾圧(だんあつ)を恐れるあまり、謗法厳戒(ほうぼうげんかい)の禁を破り、ますます神道を容認(ようにん)する羽目(はめ)になった。宗門としては昭和十七年九月十四日、小笠原を擯斥(ひんせき)処分にしてみせたものの、小笠原は時の大政翼賛運動などの応援も得て、いっそう執拗(しつよう)に、また陰険(いんけん)に野望の実現を計ろうとしたのだった。
 
この処分直後、国家権力の介入を恐れた宗門は、伊勢神宮遙拝(ようはい)の宗務院通達を、昭和十七年十月十日に檀信徒宛に出すことになる。
 
この小笠原の策謀(さくぼう)こそまさに、戦中の宗門謗法化にはずみをつけ、創価教育学会弾圧の引き金(がね)になり、ひいては総本山大石寺の大火、日恭の焼死に至るまでの総本山荒廃(こうはい)の一因ともなったのであった。小笠原こそは、ひとり創価学会のみならず日蓮正宗においても、本来は許すべからざる仏法上の仇(あだ)であったのだ。
 
昭和二十七年当時、戸田会長から見れば小笠原は、過去を謝罪(しゃざい)させるということもさることながら、将来の宗門を考えると、断じてその根を断ち切らなければならない存在として映っていたと思われる。
 
話は一年ほど前にさかのぼる。昭和二十六年五月一日の『聖教新聞』は、ある信者の話として、小笠原に関する記事を掲載している。
 
「あの時の事を振返つてみれば○○○○という悪坊主あり、石山(せきざん)を身延に売りつけ、自分は清澄寺の住職になる条件で、水魚会(すいぎょかい)とかを牛耳(ぎゅうじ)つて、なんとか仏説というような妙な学説で時の政府にこびて日恭猊下をいじめたそうだ。そんな坊主がまた石山にいる。それがために創価学会の牧口先生も難を受けたらしい。猊下も御気の毒である。一国の諫暁(かんぎょう)を後廻しにして一山の守りを固うせねばならない程の状態であつた。これが大聖人様の御本意か。当時の坊主も坊主ならば信者も信者だ」

 

神本仏迹論の邪義を唱えた小笠原慈聞

 
ここに書かれた石山とは大石寺のことである。この小笠原に関する記事は、二日後におこなわれた創価学会会長推戴(すいたい)式での戸田城聖氏の発言へとつながる。

 

僧籍になかった小笠原がなぜ事件の前に復帰したのか

昭和二十六年五月三日、東京・墨田区の常泉寺で創価学会会長推戴式がおこなわれ、第二代会長に戸田城聖氏が就任した。この式で就任したばかりの戸田会長は、「私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする」
 
との一大決意を述べた。
 
当時の学会は五千名程度。その際、宗門を代表して式に列席した細井精道日蓮正宗庶務部長(のちの日達上人)にたいして、戸田会長ならびに柏原ヤス理事(当時)は次のように要望した。
 
「戦時中神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)といふ学説を作つて時の管長上人を悩まし当局に依(よ)る学会大弾圧の発端(ほったん)をなした小笠原慈聞という悪僧が今以(もっ)て宗門に籍(せき)をおいている、といふ事である、今学会は全国大折伏に死身(ししん)になつて起(た)つたのである、どうか御本山においてもかゝる徒輩(とはい)が再び内部をかきみだす事無く、眞(しん)に学会の前途(ぜんと)を理解され護(まも)つて頂き度(た)いと望む所であります」(『聖教新聞』昭和二十七年五月十日付)
 
この戸田会長らの発言に対して細井庶務部長は、
 
「現在宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る」(『同』)
 
と、小笠原の存在を全面否認(ひにん)した。
 
この細井庶務部長の発言は、宗門全体の意向を受けたもので、決して単独で判断したものではないと思われる。
 
というのも、先述した推戴(すいたい)式に先立つ五月一日付の『聖教新聞』に掲載された、ある信者の小笠原の僧籍(そうせき)復帰を示唆(しさ)する記事について、宗務院庶務部はわざわざそれを否定する「お断り」を、昭和二十六年五月三日付で『大日蓮』(日蓮正宗機関誌)の五月号に発表しているからだ。
 
「◎お断り
 
一、日蓮正宗の僧と称して高瀬某が福島県下を俳徊(はいかい)して寺院や信徒の家に立ち廻る由(よし)ですが、右の如き人は本宗の僧籍にはありませんから間違いないやう願います。

 
二、五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告(こく)訴(そ)し日蓮正宗を解散せしめやうとした坊さんが総本山に居る旨(むね)書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りませんことを明(あきら)かにして置きます。
 
昭和二六、五、三
 
宗務院庶務部」
 
このことが後に起きる狸祭事件の伏線(ふくせん)となった。
 
一年後の昭和二十七年四月、総本山大石寺において宗旨建立七百年慶讃(けいさん)大法要(以下立宗七百年大法要と略す)がおこなわれた。日蓮大聖人が建長五年四月二十八日に立宗を宣言されて七百年を数えるに至ったことを祝う大法要であった。
 
創価学会はこの立宗七百年大法要を記念し、『日蓮大聖人御書全集』を発刊した。また四千名規模の登山をおこない、大法要を荘厳(そうごん)ならしめた。この立宗七百年大法要の最中である四月二十七日、牧口会長の墓前で、小笠原は前掲(ぜんけい)した謝罪文を書くのである。
 
この翌日、創価学会青年部有志は、本山塔中(たっちゅう)理境坊の門前に告文を発表した。
 
告!!
 
戦時中軍部に迎合(げいごう)し神が本地(ほんち)で久遠元初(くおんがんじょ)自(じ)受用身仏(じゅゆうしんぶつ)は神の垂迹(すいじゃく)也との怪(け)論(ろん)を以て清純の法燈(ほうとう)を濁乱(じょくらん)し創価学会大弾圧(だんあつ)、初代会長牧口常三郎先生獄死の近因(きんいん)を作(さく)したる張本人(ちょうほんにん)小笠原慈聞今日厚顔(こうがん)にも登山せるを発見せり、依(よ)つて吾等学会青年部有志は大白法(だいびゃっぽう)護持(ごじ)の念止(や)み難(がた)く諸天に代つて是非(ぜひ)を糾(ただ)したるもこゝに小笠原慈聞の謝罪を見たり、依つて今後の謹慎(きんしん)を約して放免(ほうめん)せり、狸祭の由来顛末(てんまつ)くだんの如し
 
立宗七百年記念大法会の日
 
創価学会青年部有志
 
しかし宗門側は、この小笠原に対する学会の直接行動に非常に強い拒否反応を示した。
 
まず一つは、大法要中に騒(さわ)ぎを起こしたということがいかにも許しがたい、二つは、神本仏迹が邪義であるとしても、その当否を判断するのは“法主”の専決(せんけつ)事項であり、信徒の立場で僧を問(と)い糾(ただ)すことは、その“法主”の権威を踏(ふ)みにじるものである、三つは、法衣を着た者は“法主”の法類(ほうるい)である、それを信徒の立場でいじめるのか、といったことなどが問題にされた。
 
だが学会側から見れば、これはおかしなことである。先述したように、一年前の戸田会長就任の際、宗門は小笠原は僧籍にないことを正式表明していたのだ。したがって、上記の二、三の事由は該当(がいとう)しないと考えられる。
 
ところが摩訶不思議(まかふしぎ)なことに、小笠原は大法要の直前の四月五日に擯斥(ひんせき)処分を免除(めんじょ)され、僧籍(そうせき)を回復していたと宗門より発表されたのである。
 
それも、事件後の四月三十日に印刷されたとする『大日蓮』に発表された。この『大日蓮』は五月中旬頃に檀信徒に配布されたが、創価学会側は、その『大日蓮』を見て意外な事実を初めて知ったのであった。

 

僧の権威だけを守ろうとする堕落(だらく)した出家たち

昭和二十七年四月三十日発行の『大日蓮』四月号は、小笠原の僧籍復帰を、宗内に次のように伝えている。
 
「令第三十一號
 
岐阜縣武儀郡美濃町
 
本玄寺内 舊大僧都小笠原慈聞
 
右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦(とくしゃ)復級せしめる
 
但(ただ)し住職を認めその他の利權(りけん)は保留(ほりゅう)する
 
昭和二十七年四月五日
 
日蓮正宗管長水谷日昇
 
宗務總監高野日深

 

特赦理由書
 
岐阜縣武儀郡美濃町
 
本玄寺内小笠原慈聞
 
右者昭和十七年九月十四日附に擯斥處分(ひんせきしょぶん)を受けたるものであるが其(そ)の後改悛(かいしゅん)の情も認められ同本人も老齢のこと故関係信徒の特別なる懇願(こんがん)等もあるので情状(じょうじょう)を酌量(しゃくりょう)し且(か)つ本年は宗旨建立七百年の佳年(かねん)に當り慶祝(けいしゅく)すべき時であるから特別なる計(はか)らいを以て宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條に依り特赦復級せしめ住職權のみ認める
 
昭和二十七年四月五日
 
日蓮正宗管長水谷日昇」

 

これは、創価学会側にとって寝(ね)耳(みみ)に水のことであった。一年前の会長推戴(すいたい)式の前後に小笠原が僧籍にないことを重々確認していたのに、四月二十七日に小笠原を糾弾(きゅうだん)した後になって、その前の四月五日に僧籍復帰を赦(ゆる)されていたことが公(おおやけ)にされたのだ。
 
学会側から見れば、立宗七百年大法要の日に、僧籍にない者が僧衣を着て臆面(おくめん)もなく登山していることは、公然と小笠原を糾(ただ)す一つの理由でもあったのだった。だが、この『大日蓮』の発表によって、その根拠(こんきょ)はくつがえされることになった。
 
戸田会長は、後に宗務院に提出した昭和二十七年六月二十七日付の始末書の中で、その意外さについて述べている。
 
「尚(なお)小笠原慈聞氏は事件直後に聞きました所では、慶祝記念に当り特赦(とくしゃ)され僧籍に復帰を許されたとの事でありますので、宗務院よりの発令の有無(うむ)と理由の示(じ)達(たつ)を糾(ただ)して居りました所、四月三十日附印刷発行になる大日蓮紙第七十四号に発表されたものが、五月中旬に配布されましたが、今尚(いまなお)かかる主張をなす僧侶として本山に居る事は了解(りょうかい)に苦しむのであります」
 
小笠原復帰の意外さと、その処置を平然とおこなった宗門に対する無念さがうかがわれる。この『大日蓮』の発表は、まさに攻守(こうしゅ)ところを変えるほどの衝撃的(しょうげきてき)なものであった。
 
しかしここに、ある疑惑(ぎわく)が浮かんでくる。それは、小笠原の復帰を公表する作業が四月二十七日の狸祭事件後に、急きょおこなわれたのではないかという疑惑である。
 
この頃の『大日蓮』は毎月七日に印刷発行されている。奥付も、この昭和二十七年四月号以外は皆それぞれの月の七日で、この四月号のみ四月三十日発行となっている。従って、この四月三十日という日付は、明らかに遅れてつくられたことを示している。
 
この日付は、『大日蓮』が第三種郵便物として許可をもらっていることから、月一回必ず出しているという体裁(ていさい)を取るために付けられたものだと判断できる。そのためには四月三十日はギリギリの日付である。実際はそれより何日か遅れていたのではあるまいか。四月末に発行したとなれば、もっともあわただしい大法要の直前に編集作業をしたことになり、不自然である。
 
『大日蓮』の発行が遅れたのはこの号が特例(とくれい)であるので、大法要があったために遅れたと判断するのが自然だ。となれば、大法要後、おそらく五月七日発行の五月号と同時併行(へいこう)で編集、制作がなされたと思われる。まずこの『大日蓮』四月号の五月印刷発行の疑惑を確認し、そのうえで、小笠原の復帰が「狸祭事件」(四月二十七日)後、戸田会長が「宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾(ただ)し」(前出「始末書」)てから急きょ、日付をさかのぼっておこなわれたのではないかと思われる節(ふし)を指摘(してき)しておこう。
 
四月五日付で小笠原以外にもう一人、特赦(とくしゃ)を受けた者がいる。権大僧(ごんだいそう)都(ず)の井口琳道である。井口は昭和二十二年四月の総本山所有山林売却に際し不正の行為があったとして、同二十三年十月に僧階を六級降ろされていた。それを小笠原と同じ日の四月五日付で、「復級復権」させたとされている。これが「令第三十號」として先に出されている。その後に「令第三十一號」として小笠原の「復級」が出されている。
 
この順序に疑問を持つ。
 
僧の世界において僧階は絶対の序列(じょれつ)である。それは通常の行動においても厳正(げんせい)に守られている。にもかかわらず、同じ四月五日の特赦であるのに、僧階の低い「権大僧都」の特赦(とくしゃ)を「大僧都」より先に出すのは明らかにおかしい。小笠原の特赦は、井口の四月五日より実際は遅く発令されたことを意味している。
 
後で詳述することになるが、小笠原は昭和二十一年三月に、すでに特赦で復級(ふっきゅう)している。その事実と考え合わせると、この小笠原の「復級」の決定および『大日蓮』への公告は、戸田会長を罰するために捏造(ねつぞう)されたことが明々白々な、あまりに破廉恥(はれんち)な行為である。
 
ただただ僧の権威のみを守ろうとする、堕落(だらく)した出家の奸智(かんち)をそこに見る。堕落した者にとって仏法の正邪は二の次なのである。表だっては高邁(こうまい)なことを述べているが、自分たちの立場が脅(おびや)かされるのではないかと、戦々兢々(せんせんきょうきょう)としているだけなのである。もっとも恐れるべきものは、宗祖日蓮大聖人のお怒りであることを忘れているのだ。

 

大謗法の小笠原の責任は問わず創価学会のみを追及する僧ら

狸祭事件に対する日昇上人の怒りは相当なものがあったと伝えられる。『大日蓮』の小笠原の僧籍の復帰を捏造(ねつぞう)した記事なども、庶務部のレベルでできることではない。
 
当然のことながら、創価学会を罰するという“法主”の強い意志のもとに、さかのぼって急きょ出された僧籍復帰の特赦(とくしゃ)と思われる。
 
この“法主”の激昂(げきこう)のさまは、宗内に次々と伝わった。『大日蓮』の“虚構(きょこう)”の特赦発表の後、宗内で一段と学会批判の勢いが増す。

 

大阪、京都、奈良、兵庫、滋賀などを布教区とする日蓮正宗の第八布教区は宗務支院総会を開き、十二名の住職が連名で、学会の行動を批判する決議をおこなった。その決議文の一部を紹介する。
 
「一、宗建七百年の最も慶祝(けいしゅく)せらるべき大法要中、然(しか)し神聖(しんせい)なるべき管長法主上人猊下の御書講中本事件を起し、尚(なお)且(か)つ清浄(せいじょう)なる山内を汚(けが)し深信なる全国各檀信徒に対し信仰の動揺(どうよう)を與(あた)へ時と処(ところ)とを撰(えら)ばざる行為は事の善悪如何(いかん)に関らず天人共に許さざる所と断ず。
 
二、本不祥(ふしょう)事件は創価学会対小笠原慈聞師との個人問題でなく宗務当局を無視したる行為は宗門全僧侶及び檀信徒に対する最大の侮辱(ぶじょく)と断定する」
 
大謗法かつ破仏法の小笠原の責任は一切問わず、創価学会のみを追及する一方的な決議であった。要は信徒の分際(ぶんざい)で僧の誤(あやま)りを責(せ)めることはけしからんということに尽きる。
 
五月二十三日には小笠原がパンフレットを出している。この中で小笠原は、狸祭事件で戸田会長らに暴行(ぼうこう)を受けたなどと事実を歪曲(わいきょく)し、告(こく)訴(そ)の意思表明をしている。また神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)の邪義についても、
 
「戦時中に私がこの神本仏迹論を取り上げたのは、この理論を楯(たて)に日蓮宗各派取(と)ツチメルに実に恰好(かっこう)の資料となると考えたからであります。然るにこの本意を知らないで、本宗内から小(こ)股(また)を取られたのは遺(い)憾(かん)千万(せんばん)であつた」
 
と開き直っている。また学会側の主張する、小笠原が戦時中に大石寺を身延に吸収させようとしたということについても、
 
「この問題は見当(けんとう)違いの言いがかりである。私は身延を大石寺に引張り込む算段(さんだん)であつたが、皆々様が不賛成で成り立たなかつたのである」
 
「戦時中は仕方なく国策(こくさく)に順応(じゅんのう)するのが国民の義務という。私もこの見地から合同も止(や)むを得ぬ、もつとも戦後はいずれ元へ戻る。その時には身延寺から沢山(たくさん)の御土産を持つて帰る心算であつた。本宗の正法正義はそうなくてはならないからである」
 
などと言い訳にもならない世(よ)迷(まよ)いごとを述べている。
 
時の“法主”日恭を特高に不(ふ)敬罪(けいざい)で検挙(けんきょ)させ、その後で自分が一切を支配しようと画(かく)しておきながら、戦後はそのように開き直ってみせる。このような最低の人間も、法衣を着れば僧として信徒は敬(うやま)わなければならないというのだ。
 
狸祭事件がなければ、のうのうと大僧(だいそう)都(ず)として信徒の上に立っていたのであるから恐ろしい。日蓮正宗の中には仏法を規範(きはん)とした正邪は存在していなかった。実際にあったのは僧と信徒の差別だけであったと言える。この後、記述する事件の諸相(しょそう)はそのことを裏づける。
 
六月一日には『読売新聞』(静岡版)が創価学会に関する捏造(ねつぞう)記事を掲載(けいさい)した。見出しは、
 
「会長の入山禁止大石寺前管長暴行事件創価学会に断元日共党員が指導?本山と対立・会員二万の学会」
 
といったものであった。当時、日本共産党は破防法適用団体として非合法化されていた。昭和二十六年六月の朝鮮戦争の開戦、同年七月のレッド・パージにつづき、狸祭事件の直後の五月一日にはメーデー事件も起きていた。
 
この世情を背景にして、学会に共産党員が入り込んでいるかのように報道させ、学会を弾圧(だんあつ)させようとした者がいた。その者の流した操(そう)作(さ)情報に『読売新聞』が乗せられたのだった。読売新聞東京本社は学会の抗(こう)議(ぎ)を認め、静岡支局を訪ねるように述べた。学会は支局を訪れ事情を正した。
 
根気強い創価学会側の真相究明(しんそうきゅうめい)の作業によって、操作情報を流した者が明らかになり、その人物が謝罪(しゃざい)したのは一カ月余りも経(た)った七月に入ってからのことであった。その人物については後述する。
 
その真相究明(しんそうきゅうめい)の作業がつづけられている間にも、宗内の状況は創価学会にとって、どんどん不利になっていった。

 

学会に対する厳しい宗内世論に真っ向から対(たい)峙(じ)した戸田会長

狸祭事件(四月二十七日)後の昭和二十七年六月といえば、日蓮正宗の宗内世論は創価学会に対して厳しくなる一方であった。この宗内世論に、戸田城聖創価学会会長は真っ向から対(たい)峙(じ)した。
 
六月十日には会長名で「宣言」を出している。「宣言」は、日蓮大聖人の仏法に照(て)らして学会青年部は小笠原を「徹底的に責(せ)めた」ことを述べ、「吾人は小笠原慈聞は僧侶とは思はず、天魔の眷属(けんぞく)と信ずる」と断じている。そして末(まつ)尾(び)を次のように結んでいる。
 
「吾人は清純(せいじゅん)なる日蓮正宗守護の為に御本尊の御本意及び御開山日興上人御遺戒を遵守(じゅんしゅ)して、仏法破魔(はま)の天魔小笠原慈聞に対し、彼の魔力を破り去る日迄(まで)勝負決定(けつじょう)の大闘争を行うものである。
 
右、仏法守護の為これを宣言す」宗内世論の圧力に対して、仏法守護のために一歩も引かないとの闘争宣言であった。しかしその決意をあざ笑うかのように、宗門の僧たちは戸田会長処分へと動く。
 
六月二十六日から二十九日までの四日間、日蓮正宗宗会が開催された。
 
この宗会においては「宗制の修正」「宗規の原案」が検討(けんとう)されるとともに、もう一つの重要案件(あんけん)である「大法会不(ふ)祥(しょう)事件」が審議(しんぎ)された。
 
宗会二日目の二十七日、細井庶務部長より戸田会長の提出した「始末書」が紹介された。「始末書」はまず小笠原が僧籍にあるとは思っていなかったこと、戦中の神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)を立てての策謀(さくぼう)は許すことができないこと、事件当日においてもまったくもってその邪義を立てたことを素直に認めなかったことなどが述べてあった。
 
また、戸田会長ほかの学会側の者が暴行(ぼうこう)を加えていないことについては、
 
「此の事実万一将来物議(ぶつぎ)をかもした時、証人が無くては真実とならないと思いましたので、最初から御立合を願つた小樽教会の阿部尊師、名古屋の妙道寺様、寂日坊の所化さん、三人にお聞取り願います」
 
と述べ、小笠原への法論が非暴力的におこなわれたことを主張している。また小笠原が僧として在籍していることは「了解(りょうかい)に苦しむ」と述べたうえで、文末を、
 
「その故に私共と小笠原慈聞氏との関係は未(いま)だ『末』は決して居りませんので全体の始末書とは申しかねますが当日の始末をあらあら御命によつて始末書にしたためました」
 
と結んでいる。
 
宗会は、この戸田会長の「始末書」が紹介されたあと、秘密会に入った。会議は夜遅くまでつづけられた。
 
明けて二十八日は早朝より宗規の審議(しんぎ)がなされ、ようやく夜の七時半過ぎになって、宗会議員一同によってつくられた狸祭事件についての決議文が提出され、全員が

 

細井精道庶務部長(のちの日達上人)

 

賛成の意思表示をした。
 
決議文の結論をいえば、小笠原については「宗制宗規に照(てら)し適切な処(しょ)置(ち)を望む」といったもので、宗会としての処分の意思表示はいわば保(ほ)留(りゅう)となっている。ところが、一方の当事者である戸田会長には厳しかった。
 
「一、大講頭戸田城聖氏は本宗々制第三十條を無視し、本年四月廿七日本宗僧侶小笠原慈聞師に対し計画的と見做(みな)される加害暴行(かがいぼうこう)をし、記念法要中の御法主上人を悩まし奉るのみならず、全国より登山せる旦信徒に信仰的動揺(どうよう)を與(あた)えたる事件は開山以来未曾有(みぞう)の不祥事(ふしょうじ)である。依(よっ)て今後集団、個人を問はず、かかる事件を絶対に起こさざる事を條件(じょうけん)として左の如(ごと)き処分(しょぶん)を望む。
 
一、所属寺院住職を経(へ)て謝罪(しゃざい)文を出すこと
 
一、大講頭を罷(ひ)免(めん)す
 
一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 
以上のように、一方の戸田会長についてのみ具体的に処分を指定したのであった。
 
また、戸田会長が証人を出してまでして暴行の事実を否定していたのに、証人三人の証言を聞くこともなければ、処分される戸田会長本人の言い分も聞くことなく、秘密会の審(しん)議(ぎ)のみで、一方的に「計画的と見做(みな)される加害暴行をし」と断定したのであった。
 
信徒の人権も人格も無視した、出家の思い上がりに依(え)拠(きょ)した裁きであった。
 
また宗会議員のなかに、戦時中、小笠原と同様に、日蓮大聖人の仏法の本義を忘れ、大政翼賛的な活動に血(ち)道(みち)を上げていた者が多数いたことも笑(しょう)止(し)なことであった。昭和十七年六月に牧口会長、戸田理事長(当時)ら学会幹部に神札を受けるように申し渡した渡邊慈海などが裁(さば)く側にいるのだから滑稽(こっけい)でさえある。なお、渡邊慈海は後年、創価学会の折伏精神を心から賛嘆(さんたん)していたことを付記しておく。
 
この決議の後、宗務総監以下の三人の役僧が辞意を表明した。その中で一番の創価学会の理解者であり、この事件において“法主”の勘(かん)気(き)とみずからの学会庇護(ひご)の気持ちの板ばさみとなった細井庶務部長は、辞意を表明した際、次のように苦(く)衷(ちゅう)を語った。
 
「私としては小笠原師にだまされた事を明(あきら)かにしておる為、学会に味方しておるが如(ごと)き誤解(ごかい)を受けておるので、たとへ公平なる処(しょ)置(ち)をとつても、宗門人には公平と思はれないと思うから此の際辞職して各位の信任あるお方によつて、公平なる処置を決して頂きたい」
 
この宗務役員の辞任は、宗会四日目の二十九日に宗会の決議として慰(い)留(りゅう)がなされたので、それを受けて全員留任となった。細井庶務部長は留任要請(ようせい)が宗会よりなされた際、その発言の機会をはずさず、
 
「なるべく寛大な処置をとる様に御願いしたい」
 
とわざわざ発言している。宗会の学会に対する厳しい評価を考えると、ずいぶん思い切った学会擁護(ようご)の発言であった。だが、それも真実を知る者としての後ろめたさの故であったかもしれない。

 

出家の権威のみをふりかざす宗会議員

戸田城聖会長に対する、
 
「一、所属寺院住職を経(へ)て謝罪(しゃざい)文を出すこと
 
一、大講頭を罷(ひ)免(めん)す
 
一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 
との三つの処分を要請(ようせい)した日蓮正宗宗会(昭和二十七年六月二十六日~二十九日)の最終日の二人の議員の発言は、僧のずるさを証明して余りあるものがある。
 
一人は宗会議員の柿沼廣澄である。戦時中、戦争協力の旗(はた)ふり役の一人であった。
 
「単なる法議法論の理の法門を弄(ろう)することをやめよう。納得のゆく人柄、所謂(いわゆる)僧侶としての品位の欠如(けつじょ)が実はこの不(ふ)祥(しょう)事件の原因であると、吾と吾が身を鞭(むち)うつものである」
 
神本仏迹論(しんぽんぶっしゃく)の正否(せいひ)の吟味(ぎんみ)から、戦中の種々の問題に宗内の関心が進まぬように先手(せんて)を打っているのである。実にうまい言いまわしで保身を図(はか)っている。
 
また閉会の間(ま)際(ぎわ)にも、宗会議員の秋田慈舟が同様の発言をしている。秋田は二年前の昭和二十五年、大石寺の観光地化計画を積極的に進めていたが、戸田会長に登山会を実行され、自分の計画が中止されたことを内心では恨んでいたと推測(すいそく)される。
 
しかし、秋田の話は、
 
「今回の事件は、全く僧侶の教(きょう)化(け)指導力の不足によるものと思う。これを機会として宗内信徒の正しい指導育成に努力することを誓(ちか)つて円満和合の宗風を確立し、その実現を誓い、法主上人を通じて宗会議員一同、戒壇の大御本尊様に懺悔(ざんげ)を致したく懺悔文を作成した」
 
などと、きれいごとに終始(しゅうし)している。
 
ところが、である。秋田は陰険(いんけん)な策謀(さくぼう)をなしていたのだった。
 
先述した『読売新聞』(昭和二十七年六月一日付静岡版)の「会長の入山禁止大石寺前管長暴行事件創価学会に断元日共党員が指導?本山と対立・会員二万の学会」の見出しで報じられた捏造(ねつぞう)記事のネタ提供者は、この秋田であったのだ。
 
この僧は、公(おおやけ)の場ではきれいごとを言いながら、裏にまわっては、操作(そうさ)情報をマスコミに提供していたのだ。
 
宗会後の七月十三日、秋田は学会青年部に追及され、『読売新聞』にネタを提供した事実を認め陳謝(ちんしゃ)した。
 
さて、宗会の戸田会長処分要求決議を知らされた創価学会青年部は、宗会議員一人ひとりに対し、徹底した説得を開始した。それに対して直(ただ)ちにその非(ひ)を認める者もいれば、開き直る者もいた。
 
そこで明らかになったのは、予期(よき)していたことではあったが、日蓮正宗宗会議員が出家の権威(けんい)をふりかざすのみで、なんら大法弘通を考えていないということであった。
 
なかでも宗会議長の市川真道の場合は、象徴的(しょうちょうてき)であった。学会青年部の追及に対して、市川は話し合いを放(ほう)棄(き)し、自寺の信者の中の不良たちに因縁(いんねん)をつけさせている。
 
「市川氏は急に座(ざ)をはずして本堂へ行つてしまい学会員が『先生逃げるとは卑(ひ)怯(きょう)ですよ、おもどり下さい』と言いかけると『この野郎』と一人がとびかかり、皆総立ちとなつて学会員を取りまいた。それと同時に入口からドヤドヤと『ケンカか、おれらが仕(し)末(まつ)してやろう』『何をいつてやがるんだ外へ出ろ、外へ出ろ』とどなりながら数名の者が入つて来たので、みるとアロハシヤツ、土足、入墨一見(いっけん)して暴力団の不良連中である事がわかる(中略)丁度(ちょうど)警察官がこの場にかけつけて来たので、暴力団の不良は取り静める事が出来たが、中にはハンマーを面談中の我々に投げつけようとした者もいたしこん棒を束(たば)にして持つて来ていたのである」(昭和二十七年七月二十日付「聖教新聞』)
 
日蓮正宗の僧の中にもずいぶんと程度の悪い者がいたことに唖(あ)然(ぜん)とさせられる。それも宗会議長となれば、何をかいわんやである。
 
この市川は、戸田会長処分を要請(ようせい)した宗会の閉会式において、宗会を代表して先の自分の発言とほぼ同じような「懺(ざん)悔(げ)文」を奉読(ほうどく)した。
 
「顧(かえりみ)るに斯(か)くの如(ごと)き問題の起(き)因(いん)は吾等僧侶の教(きょう)化(け)指導力の不足に因(よ)る事と思ひますから、将来宗内信徒の正しき指導育成に一層努力して真の円満和合の宗風を確立し、その実現をお誓(ちか)ひして、茲(ここ)に、御法主上人猊下を通じ戒旦(かいだん)の大御本尊様へ衷心(ちゅうしん)より懺悔申上げます」
 

大御本尊に「懺悔」しているはずの者が、純粋な信仰心からの信徒の行動に対して、ヨタ者の暴力をもって応(こた)えようというのだ。
 
戸田会長がみずから筆を執(と)っていた『聖教新聞』(昭和二十七年七月二十日付)のコラム「寸鉄」は、その舌鋒(ぜっぽう)を堕落(だらく)した僧に向けている。
 
「一、折伏を命とし本山を護(まも)る事を名誉としている学会に何で宗会議員はケンカを売つてくるんだ
 
二、若い者が怒り出しているだけならまだよいが、おぢいちやん連まで鉢(はち)巻(ま)きをし出したでは、一(ひと)荒(あ)れ荒れるかな
 
三、無調査の論告、野(や)蛮(ばん)時代の政治よりもなお悪い、さては宗会議員諸公七百年前を想い出したな
 
四、七百年前を想い出してもよい大聖人様の折伏の姿なら良いが平左衛門の真似(まね)ぢや困つたもんだ
 
五、宗会議員諸公は平左衛門の後身(こうしん)か、事情も調べず義理もたださず論告(ろんこく)するとは
 
六、平左衛門の後身宗会議員と現(あらわ)る。仏恩広大(ぶつおんこうだい)にして逆縁(ぎゃくえん)の輩(やから)、今大聖人様の仏法の中に生まれて、唯(ただ)一人の大信者をそねみ恨(うら)む、習性恐るべし」
 
まことにもって、いまの日蓮正宗の状況を言い得ているようで妙である。かつての仏敵(ぶつてき)も今生(こんじょう)に勢(せい)ぞろいか、頃(ころ)やよし。

 

学会を切り崩す僧は「魔性の伴侶(はんりょ)」と断じた戸田会長

昭和二十七年の狸祭当時の、戸田城聖創価学会第二代会長が書いたものの中には、日蓮正宗総体の腐(ふ)敗(はい)に対する厳しい批判が相次いでいる。
 
まずは、狸祭の二日前の四月二十五日に書かれた『大白蓮華』の巻頭言(かんとうげん)。
 
「御本尊の威光(いこう)をかりて、折伏の系統(けいとう)を、自分の子分とみなす徒(と)輩(はい)がある。折伏が、真の慈悲ではなくて、大親分になってみたいという考え方から、あるいは本性的の働きから、この形をやるものがある。これは、増上慢の形であって、私の徹底的排撃(はいげき)をする徒輩である。この形は、寺院にも、時々みうけられるが、学会内にも、時おり発生する毒茸(どくきのこ)である。この毒にあてられた者が、四、五十人の折伏系統をもつと、寺の僧侶と結託(けったく)して、独立する場合があるが、末法大折伏の大敵である。これを許す御僧侶は、慈悲の名に隠(かく)れた魔の伴侶(はんりょ)とも断じたい思いであるが、御僧侶は尊きがゆえに、言うにしのびない」
 
創価学会の組織切り崩(くず)しを許す僧侶に対し、戸田会長は心中にて、まさに「魔性の伴侶」と断じているのだ。
 
次に、同じく戸田会長の書いた「寸鉄」を紹介する。
 
昭和二十七年五月十日付『聖教新聞』
 
「十、狸まつりはあんまりやるな、狸まつりをあんまりやられるような事はするな、やつた者が悪いか、やられた者がわるいか、謹しんで日興上人様に伺(うかが)い奉(たてまつ)れ」
 
同年六月一日付『聖教新聞』
 
「戦国風景
 
大宮人は畑を開墾(かいこん)したり薯(いも)を作つたり、若い武士を養成しようともしない、ひたたれをつけて威張(いば)る事だけ知つている。地方の城主は破れた城で貧乏で兵隊もいないのに平気な顔。熱心な侍(さむらい)大将が兵隊を集めて訓練して殿様の御守護につけると、威張る事ばかりやつていてさつぱり武士共は心服(しんぷく)しない。大敵が目の前に来ているのにこれでいいのかと百姓共が心配している」
 
同年七月一日付『聖教新聞』
 
「二、狸祭が悪いのか、狸を見逃して本山へ登らせたのが悪いのか
 
三、狸を把(つか)んだのが悪いのか、信者を化(ばか)す狸が悪いのか
 
四、狸を把むのに少し騒々(そうぞう)しかつたからといつて文句をいうてるやつ等は、狸がおつた方がいゝというのか
 
五、寸鉄居士、生ぬるい事をいうな、文句をいうてるやつ等は狸の一味ぢやよ、或(ある)いは小狸だよ
 
六、そんな事はなかろう、狸の一味や小狸がいるなら若い者が、ほつとくかい、狸が把みたくつて把みたくつてたまらんやつ等なのに
 
七、寸鉄居士、間抜けるなよ、しつぽを出さない狸は把めるかい、それがな、そろそろしつぽを出しかけたんだよ
 
八、若い者共はそのしつぽを把まんのかよ
 
九、若者曰(いわ)く寸鉄居士少しこの頃どうかして居らんか、そのしつぽを眺(なが)めて、もう少し出るぞといつて手ぐすね引いて待つているんだ、京都に一匹居るそうな、東京もくさい、名古屋もくさい、旅費をためうためうつて大変な意気込みだ、寸鉄居士目があつたらよく見ろ
 
十、余り騒(さわ)いでは相成らん、余り騒ぐと親方さんに叱(しか)られるぞ」
 
同年七月十日付『聖教新聞』

「一、宗会の決議では我等の会長が登山止めなそうな、物騒(ぶっそう)な世の中になつたものだ
 
二、忠義を尽して謗法を責めて御褒(ほう)美(び)あるかと思つたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子共『俺達も一緒に登らんわい、フン』だつてさ
 
三、なにが『フン』だい。決つてるじやないか、日本全国の信者の声だつてさ、嘘(うそ)もよい加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉(えば)ばること許(ばか)りを知つとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。
 
四、蒲田の支部長曰く『信者の声』かどうか、学会の総力をあげて全国信者から『宗会』が『醜怪(しゅうかい)』())か、『学会』が『悪会』か投票を取ろうじやないかと。
 
六、寸鉄居士会長先生に御伺(うかが)いをたてたら『あんまり騒ぐなよ、こんな目出度(めでた)いことを』とニヤリさ。
 
八、こらこら騒ぐな『ニヤリ』を説明してやるからな、如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)に仰せあり
 
『真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定(ごうてきけつじょう)せり。されば此の経を聴聞(ちょうもん)し始めん日より思い定むべし』。三類の悪人の仕(し)業(わざ)の中に『遠(おん)離(り)塔(とう)寺(じ)』())と言つて寺から追い出すやり方がある。悪人共がさ」
 
これは驚いた。「遠離塔寺」とはまぎれもなく、「C作戦」のことではないか。「C作戦」は仏が予見したとおり、「三類の悪人の仕業」なのだ。
 
昭和二十八年十一月二十二日におこなわれた創価学会第九回総会で、戸田会長は次のように発言している。
 
「さて今、柏原君の話の中に破和(はわ)合僧(ごうそう)と有つたが僧とは社会を指導し人を救う資格を持つのが僧である。心中では互(たがい)に憎しみ猫がねずみを伺(うかが)う様に形は法衣をまとつても僧ではなく、いま学会の組長、班長が一生懸命(いっしょうけんめい)で一切の人々の為に働いている姿こそ真の僧と云へるのである。
 
此の結合を破る者には必ず罰が有る。嘘(うそ)だと思つたらやつてみ給へ」

 

小笠原は晩年になって創価学会を賛嘆(さんたん)した

創価学会の青年部を中心とした宗門に対する法論と説得によって、状況は徐々に変わってきた。
 
宗会の三項目の処罰(しょばつ)(謝罪文提出、大講頭罷(ひ)免(めん)、登山停止)の要求は、ついに実現に至らなかった。七月二十四日、すべてを収拾(しゅうしゅう)すべく、日昇上人より戸田会長に「誡告(かいこく)文」が出された。それには、
 
「宗内の教師僧侶は白衣の沙(しゃ)弥(み)に至るまで総(すべ)て予(よ)が法類(ほうるい)予が弟子である若(も)し其(そ)れ此の教師僧侶を罵詈(めり)し侮(ぶ)辱(じょく)するならば法主たる予が罵詈され予が面に唾(つば)されるものと身に感じ心をいためているのである」
 
と、出家の者たちを、仏法の正否を超えてかばってみせ、さらに大講頭については、
 
「尚(なお)法華講大講頭の職に於(おい)ては大御本尊の宝前に於て自ら懺(ざん)悔(げ)して大講頭として耻(は)ずるならば即座に辞職せよ若(も)し耻じないと信ずるならば心を新たにして篤(あつ)く護(ご)惜建立(しゃくこんりゅう)の思をいたし総本山を護持し益々身軽法重(しんきょうほうじゅう)死(し)身(しん)弘(ぐ)法(ほう)の行に精進(しょうじん)すべきである」
 
と述べている。
 
これに対して戸田会長は、「御詫状(おわびじょう)」を奉呈(ほうてい)している。
 
「御詫状」とはいえ、その内容は、宗内の謗法を断ずる意欲に満ちたものであった。
 
「只(ただ)宗内に於(お)いても余りに謗法に傾き過ぎたり大白法の信奉に惰(だ)弱(じゃく)なる者を見る時、況(いわん)や宗外の邪宗徒をせめる時は宗開両祖の教(おしえ)を胸に深く刻(きざ)むが故に、決定的な闘争になる傾きがあるのであります。これが行き過ぎのなき様に深く会員を誡(いまし)めて指導致しますが『護(ご)法(ほう)』の精神に燃ゆる所生命を惜(おし)まぬが日蓮正宗信者なりとも亦(また)日夜訓(おし)えて居ります為に、その度を計りかね名誉も命も捨てて稍々(やや)もすれば行過ぎもあるかも知れませんが、末法の私共は十界互具の凡夫であり愚者(ぐしゃ)でありますから宏大(こうだい)の御慈悲をもつて御見捨てなく御指導下さる様重ねて御願いします」
 
言葉丁寧(ていねい)な中にも、断固たる決意がうかがわれる。また、大講頭職についても、
 
「誡告(かいこく)の御文に『恥(は)ずるならば大講頭職を辞(じ)せよ』と御座居ましたが、猊下の宸襟(しんきん)を悩まし奉つた事は恐れ多いと存じますが宗開両祖の御金言には露(つゆ)ばかりも違(たが)わざる行動と信じます故に、御本尊様の御前にして日蓮正宗の信者として自ら恥じないと確信し大講頭職は辞しません」
 
と、一歩も引く気配すら見せていない。言外に仏法上の正邪を行動規(き)範(はん)としない、大聖人の仏法を忘れた宗門に対する憤(いきどお)りすらただよわせている。
 
七月二十六日、創価学会会長・戸田城聖名で、
 
「全学会員の御僧侶に対する“狸祭事件”に関しての闘争を停止すべき事を命ずる」(一部抜粋)
 
との「行動停止命令」が出された。

 

ところが小笠原は、創価学会戸田会長以下幹部に対する告(こく)訴(そ)をおこなっていた。九月二日、国家警察本部富士地区署は、戸田会長以下十二名に出頭を要請(ようせい)。まず和泉覚理事(当時)は同日から丸一日、戸田会長は翌日から丸一日、事情聴取(ちょうしゅ)のため留(りゅう)置(ち)された。
 
これは、小笠原が、自分が面倒(めんどう)を見ていた(寺の一部を貸し与え開業させてやっていた)医師にウソの診断書をつくらせ、暴行事件をデッチ上げたことによる。また小笠原の弁護士は、戦中より親交のあった三宅重也という人物であった。
 
戦時中、日蓮宗身延派に所属していた三宅は小笠原とともに、日蓮宗の翼賛的(よくさんてき)合同を策(さく)して積極的に暗躍(あんやく)していたのであった。
 
この小笠原に対して日昇は、九月九日「誡告(かいこく)文」を送ったが、小笠原はそれに対し「人権蹂躙(じゅうりん)」であると告(こく)訴(そ)をチラつかせて、文書をもって宗門すらも脅(おど)しにかかった。
 
このときの文面は公表されていないが、小笠原にしてみれば、実は昭和二十一年三月に僧籍復帰していたものを、何の都合か昭和二十七年四月に復帰したことにされ、そのうえ、誡告までされてはかなわぬといった気持ちがあったのだろう。宗門も弱味を握(にぎ)られ侮(あなど)られたといえる。
 
しかし、この小笠原を細井庶務部長は、小笠原の自坊である岐阜県本玄寺において説得した。そのとき本玄寺の檀信徒も、小笠原が猊下まで告訴に及んでいる事態を初めて知り、小笠原の非(ひ)を責(せ)めた。孤立(こりつ)した小笠原はついに謝罪し、一切の告訴を取り下げたのであった。
 
が、宗門はこれだけのことをした小笠原に対して、何ら実質的な処分を下さなかった。ここにも僧籍復帰の怪(かい)が尾を引いていると思われる。
 
ところでその後、小笠原はどうなったか。小笠原は戸田会長の行動に感服(かんぷく)し、敬愛(けいあい)の情を抱くに至るのである。
 
ここに、小笠原の書いた、昭和三十年五月二十五日発行の『日蓮正宗入門』という本がある。この前書きで創価学会および戸田会長を評し、次のように記している。
 
「その信徒の強烈(きょうれつ)なる、その抱(ほう)負(ふ)の偉大なるため、永年沈衰(ちんすい)してゐた本宗も俄(にわか)に活気を帯(お)び生き吹き還(かえ)すに至り、今や全国で正宗信者の無い土地は無く広宣流布の魁(さきがけ)をなすに至つたことは、只管(ひたす)ら感激の外(ほか)はありません。自分は不徳にして一時調子に乗りその為に学会と争論の不幸を醸した事のありました事は、誠に遺(い)憾(かん)の至りでありましたが、翻然大(ほんぜんだい)悟(ご)逆即順(ぎゃくそくじゅん)の筋(すじ)目(め)を辿(たど)り爾(じ)来(らい)我宗門の人とは宜(よろ)しく学会精神を躰得(たいとく)し、それを基調として進行せざるべからずと提唱(ていしょう)するに至りました。かく言ひますと、之れは諛(へつら)へる者と評せらるべきも、道理と実際の指す所でありますから仕方ありません」二部抜粋)
 
戸田会長の偉大さの一分を証明する結末であった。小笠原は昭和三十年十二月三日、八十歳の生涯(しょうがい)を閉じた。小笠原は晩年にあっては創価学会の折伏を賛嘆(さんたん)し、協力を惜(お)しまなかったということである。小笠原の葬儀にあたり、創価学会青年部は香典として「一万円」を送った。
 
小笠原の覚醒(かくせい)は創価学会青年部の強折(ごうしゃく)によるところが大きい。小笠原の一生をたどり、戦時中神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)、狸祭、晩年を思うとき、戸田会長の偉大さ、仏法の不思議に思いが至るのである。

 

敗戦直後の小笠原の僧籍復帰は宗内では周知の事実だった

ところで、小笠原の僧籍復帰問題には、在家の思いもつかない出家総ぐるみとなってのカラクリが隠されていた。実は、小笠原が僧籍復帰したのは、昭和二十七年四月の立宗七百年大法要の直前ではなく、終戦間もない昭和二十一年のことであった。このことは日蓮正宗の僧のほとんどが知るところであったが、出家の側より秘密は漏(も)れなかった。
 
この事実を踏(ふ)まえれば、小笠原の僧籍復帰を『大日蓮』にわざわざ偽装(ぎそう)して発表したこと、戸田会長の処罰(しょばつ)を求めた宗会の議決、宗門中枢のおこなった戸田会長への「誡告(かいこく)」などが、いかに悪辣(あくらつ)な企(たくら)みによってなされたかを知ることができる。
 
この事実は、出家の者たちが自分たちの共通利益のためには、情理(じょうり)を超えて結束(けっそく)することを示している。
 
出家が在家の上に位置したいという気持ちは、まさに本能的なものである。ことに布教活動をしない僧侶集団は、その位置関係以外に自己の存在の保証を得られないことを敏感に知っている。したがって、在家集団の台頭(たいとう)に実に臆病(おくびょう)になり、過剰(かじょう)な反応を示すのだ。
 
それでは、敗戦直後の小笠原の僧籍復帰が宗内において周(しゅう)知(ち)のことであったことを、年代をさかのぼりながら立証(りっしょう)していきたい。
 
それを確認することは、僧侶がみずからの権威を守るためには、事実をねじ曲げても信徒を処罰するという、その本質に根差(ねざ)した卑怯(ひきょう)を暴(あば)く作業でもある。
 
狸祭りの前年の昭和二十六年十一月十三日、徳島県の敬台寺において、同寺の再建落慶法要がおこなわれた。
 
このときの模様を、宗門機関誌の『大日蓮』(昭和二十六年十一月号)が報じている。
 
「十一月十三日の吉辰(きっしん)をト(ぼく)して本堂再建落慶入佛式は前日の雨模様も朝から晴れ渡つて一天晴朗(せいろう)の旭日(きょくじつ)輝く内に準備は着々と整(ととの)ひ正午より開修(かいしゅう)された。
 
式典次第
 
正午開始一落慶入佛式読経敬白文祝辞
 
午後二時開始一御会式読経申状捧読檀徒
 
精霊回向講演記念撮影
 
本玄寺小笠原慈聞師、城山寺藤川徹玄師、立正寺秋山円海師、大乗寺秋山慈本師、本因妙寺河辺慈篤君等、神戸より二名淡路より一名高知より数名の参詣者あり満堂煽(あふ)るる盛大なる式典を賑々(にぎにぎ)しく修す事が出来たのは唯々(ただただ)佛天冥護(みょうご)の而(しか)らしむる所と感銘(かんめい)いたす次第です」(『大日蓮』昭和二十六年十一月号より引用)
 
「本玄寺小笠原慈聞」は、その法要の来賓(らいひん)の最上席として記録されている。
 
この記事から確認されることは、小笠原以外に城山寺藤川徹玄、立正寺秋山円海、大乗寺秋山慈本、本因妙寺河辺慈篤など四名の僧侶が列席していることである。
 
昭和二十五年の『大日蓮』八月号は、「小笠原慈聞著」の『法華経玄理一念三千の法門』という本の宣伝を出している。広告文の中には「多年のうん畜(ちく)を傾けて法華経の秘蔵(ひぞう)を開きたる力作、その内容は本宗傳統(でんとう)たる教観(きょうかん)の優秀性を主張する」といった箇所がある。小笠原の肩書は「元日本大學宗教科講師、世界之日蓮主幹」となっている。
 
昭和二十五年の『大日蓮』三月号は、讃岐本門寺の梵鐘(ぼんしょう)が再興(さいこう)されたことを報じている。
 
「●本山本門寺梵鐘再興
 
讃岐本門寺に於(おい)ては昨秋發願(ほつがん)の梵鐘を門中しゆう素異体同心精進の結果、僅(わず)か百日余にして此の程(ほど)再興しその撞初(しょうしょ)式法要を二月五日正午より執行(しっこう)した。
 
式次第左の通り
 
第一號鐘午前十一時客殿大玄關前に集合
 
第二號鐘全十一時半出發行列順序先導(高齡者五名)―樂人十名―稚兒七十名―貫主(駕)伴〓二名―鑄匠黄地佐平氏、小笠原慈聞師―塔中末寺住職―委員長眞鍋伊三郎氏―総代安藤秀信氏外四名―梵鐘委員福岡一郎氏外十名―委員世話人大平薩珍氏―前川茂氏外三十名―一般参列者約五十名」(『大日蓮』(昭和二十五年三月号)より引用)
 
この記事により、二月五日の撞初式に小笠原が出席したこと、その式にあって「貫(かん)主(ず)」につづいて梵鐘をついたことが判明する。
 
同じく日蓮正宗の機関紙である『宗報』の昭和二十二年九月号は、「美濃町だより」と題する小笠原の投稿(とうこう)を載(の)せている。そこには、本玄寺において八月十八日に法会がおこなわれ、組寺の四名の住職が来会、「小笠原主管」が第五十七世日正の追想(ついそう)を話したことが記されている。記事全文は、次のとおり。
 
「◎美濃町だより日正上人を開(かい)基(き)とする本玄寺にては、八月十八日同上人廿五囘忌正當法會謹修(きんしゅう)。小川、本江、關戸、太田等組寺住職來會、小笠原主管の日正上人の追想論あり、組寺は別段に一般參會者には赤飯を振舞(ふるま)ひ、近來同(どう)區(く)に稀なる集まりであつた。
 
(小笠原、投)」(『宗報』昭和二十二年九月十五日付より引用)
 
また同号には、「讃岐行」という「細井」(細井精道庶務部長・のちの日達上人)署名の一文が載(の)せてあり、讃岐本山本門寺の御虫払い法要について書かれている。これには本門寺一門の僧侶以外に、小笠原ほか四名の僧が訪れ、参列している。小笠原はそのとき、説法を皆の前でおこなっている。
 
この記事を記述した細井庶務部長は、のち昭和二十七年の狸祭事件において、小笠原の僧籍復帰が問題になったときも同様に庶務部長である。このことにより細井庶務部長は、昭和二十七年四月五日付で出された小笠原のニセの僧籍復帰にも深く関(かん)与(よ)し、それを偽(ぎ)装(そう)するための『大日蓮』(昭和二十七年四月号)の発刊についての事情も知(ち)悉(しつ)していたものと判断される。それだけにこの「讃岐行」の記事は注目に値(あたい)する。昭和五十三年宗内を騒然(そうぜん)とさせた「御本尊謹刻(きんこく)問題」にも共通する事件の本質が垣(かい)間(ま)見える。僧の権威が真実より優先されたのだ。
 
以下、讃岐行の記事全文を紹介する。
 
「讃岐行
 
朝霞(ちょうか)の目の前にビルヂングの如きに出會(であ)つてねむい目を見開いた時は早朝四時、それは一千五百噸(トン)の紫雲丸、宇野―高松連絡船、日本が終戦後の誇り得る新造船であつた、なんと大きいこと船體(せんたい)に複線のレールを引込んで二列車そのまま運搬することが出來、階上には滿員一列車の千数百人と荷物が全部入れて餘(よ)猶(ゆう)があつた。
 
今まで四國へ渡ること六、七度今度ばかりは機(き)關(かん)の響(ひびき)の外(ほか)何の動揺もなく疊(たたみ)に座つたままと云ふ形容詞にて四國へ渡つてしまつた。自分の所管事務の爲めに。
 
舊友(きゅうゆう)秋山圓海師の立正寺に一泊し初めて讃岐本山本門寺の御(お)蟲拂(むしばらい)法要に參列(さんれつ)した、法要は大攣(たいへん)盛大で本門寺一門の僧侶は勿論(もちろん)本玄寺小笠原慈聞師、本應寺小野慈憲師、秋山圓海師、高知秋山慈本師と私が列席し貫主相馬日鳳師の導師のもとに滞(とどこお)りなく執行(しっこう)せられた、小笠原師の御説法に續(つづ)いて私も講座を汚(けが)する光榮(こうえい)に浴(よく)した。
 
私は同寺の寶物(ほうもつ)、宗祖の御(ご)眞筆(しんぴつ)御本尊、二祖日興上人の數幅(すうふく)の本尊に參拝(さんぱい)し並(ならび)に宗祖夢の御(み)影(えい)と宗祖御筆三面大黒天を拝觀(はいかん)した。
 
その日は古川慈雄師の專要坊に小野師、大川慈章師と夜半に及んで談笑(だんしょう)し遂(つい)に一泊し翌朝相馬師初め一同の親切を謝(しゃ)し立正寺に引きげ秋山師の御親切に甘へて歸山することを得た。
 
顧(かえり)みれば本門寺は昨年めでたく歸(き)属(ぞく)するまで永年本宗と袂分(たもとわか)ちて居つたその間、信仰上、化儀上何等本宗との相違を起さなかつたことは驚異とする所であり又嬉(うれ)しく感じた、もし信仰が頽(くず)れてゐたらあの三面大黒天なんかおそらく鑼(どら)と太(たい)鼓(こ)で宣傳(せんでん)して四國中に出開扉でもしてゐたことであろう、そんなこともなく、ただ寶物(ほうもつ)は寶物として寶藏(ほうぞう)に納(おさま)つて置いた所に彼等の清い信仰があつたのだ、もし他宗のやり方からすれば寶物は寶物でも集金用の寶物となるのである。而(しか)も薄墨(うすずみ)の衣に白五條で道行には被布(ひふ)を用ひてゐた、私はただ嬉(うれし)かつた。
 
昨年寺となつた立正寺の秋山師近日に寺となる城山寺の藤川徹玄師等一すじに富士の信仰に生きて來た人々だが、本門寺一門も人知れず清い信仰を傳(つた)へて來たことが認められる、日本再建の今日讃岐一圓否四國一圓が協力一致し正宗の紋章を輝かし正法布教に全力を集中せられることをお願ひする
 
(細井)(八月三日)」(『宗報』昭和二十二年九月十五日付より引用)
 
細井精道庶務部長は、法要において小笠原につづき説法をしていた。

 

戦中の大謗法を反省することなく始まった宗門の戦後を象徴する小笠原の復帰

さらに衝撃(しょうげき)の事実はつづく。
 
昭和二十二年四月二十八日付をもって、日蓮正宗宗会議員の選挙結果が発表されたが、『宗報』(同年六月号)にその詳細(しょうさい)が報じられている。
 
二十一名が立候補して十六名が当選したが、小笠原は四十四票を獲得(かくとく)して十七位の次点に泣いている。このように宗会議員に立候補していたのであるから、日蓮正宗内で小笠原の復帰を知らぬ者などいなかったということになる。
 
『宗報』(同)に紹介された選挙結果は、以下のとおり。
 
「昭和二十二年四月廿八日
 
宗會議員總選擧投票開緘
 
一、選擧長佐藤舜道
 
一、投票管理者細井精道
 
一、選擧事務参與千種法輝
 
矢崎豊道瀬戸恭道
 
一、選擧立會人井口琳道
 
能勢安道前川慈覚
 
一、投票用紙配布總數一一五
 
一、投票着數一〇〇
 
一、投票未着數一五
 
一、有効投票數九四
 
一、無効投票數六
 
一、八拾五票當選柿沼廣澄
 
一、八拾二票當選大石菊壽
 
一、七拾九票當選高野法玄
 
一、七拾六票當選堀米泰榮
 
一、七拾四票當選佐野慈廣
 
一、七拾四票當選落合慈仁
 
一、七拾二票當選秋山教悟
 
一、七拾票當選小川慈大
 
一、六拾九票當選眞弓智廣
 
一、六十八票當選渡邊慈海
 
一、六十八票當選關戸慈晃
 
一、六十二票當選古川慈雄
 
一、六十二票當選舟橋泰道
 
一、五十六票當選秋田慈舟
 
一、五十一票當選佐久間慈敬
 
一、四十六票當選高木慈嚴
 
一、四十四票次點小笠原慈聞
 
一、三十五票澁田慈旭
 
一、二十八票早瀬道應
 
一、二十七票市川眞道
 
一、二十三票杉谷香道
 
昭和二十二年四月二十八日以下略
 
宗務院」
 
狸祭事件に際し、創価学会および戸田会長の罪をデッチ上げるため、昭和二十七年四月五日に小笠原が僧籍復帰したと創価学会側に宗門より伝えられたことが、いかに詐(さ)術的(じゅつてき)であったかということが分かる。

 

昭和二十一年六月十五日発行の『宗報』第二号(何月号という表示はない)に、「讃岐本門寺一行の登拝(とうはい)」と題する記事が掲載(けいさい)されている。このとき、讃岐本門寺一行を歓迎(かんげい)する日満上人の小宴(しょうえん)がもたれたが、それには小笠原も同席している。
 
「同夜六時より法主上人御招待の小宴あり此日東京より這回特赦(しゃかいとくしゃ)に依(よ)り復歸された小笠原慈聞師も大聖教會總代岡本涙翁、鈴木杢吉兩氏と共に登山して席に加(くわ)はり」(『宗報』第二号抜粋)
 
と記述されているのだ。「特赦に依り復帰」と書かれていることに注目しなければならない。
 
いったい小笠原が、昭和十七年九月十四日の擯斥(ひんせき)処分の後、僧籍復帰になったのはいつなのか。昭和二十一年五月十五日発行の『宗報』第一号が小笠原の復帰を公告している。
 
「令第二二號
 
香川縣三豊郡下高瀨村
 
元大僧都小笠原慈聞
 
右者宗制第三百九十四條及同第三百九十四(ママ)條ニ依(よ)リ特赦復級(とくしゃふっきゅう)セシム
 
昭和二十一年三月三十一日
 
管長秋山日滿
 
特赦理由書
 
右者昭和十七年九月十四日宗制第三百八十九條ノ一同條ノ三ニ依(よ)リ擯斥處分(ひんせきしょぶん)受ケタルモノナルモ其(その)後(ご)改悛(かいしゅん)ノ情顯著(けんちょ)ナルヲ認メ宗制第三百九十四條及同第三百九十五條ニ依リ復歸、復權、復級セシムルモノナリ」
 
小笠原の僧籍復帰は、敗戦後間もない昭和二十一年三月三十一日に、「令第二二號」として示(じ)達(たつ)されていたのだ。
 
日蓮正宗の戦後が、戦中の大謗法を悔(く)い改(あらた)めることなく始まったことを象徴(しょうちょう)して余りある小笠原の復帰であった。

 

小笠原を復級させた第63世・日満上人

 

また、昭和二十一年三月、「令第二二號」が出され、小笠原が特赦(とくしゃ)復帰しているにもかかわらず、宗門みずからの体面を守り戸田会長を罰するためだけに、昭和二十七年四月に「令第三十一號」として、重複(ちょうふく)して小笠原の特赦復帰を管長名でおこなったのである。憎(にく)むべき出家の謀略(ぼうりゃく)である。

 

法滅尽の時こそ大法弘通の時

身延との論争にも負け御本尊も誤写した日開

昭和三年は、広宣流布の流れの中で特筆(とくひつ)すべき年である。
 
宗門においては、現“法主”である日顕の父・日開が、この年の六月猊(げい)座(ざ)についた。この日開は、のちに御本尊を誤(ご)写(しゃ)する大謗法を犯しながら、それを指摘されると、“法主”の権威をもって開き直った。
 
また宗務院総務当時は、身延系の清水梁山に論争を挑(いど)みながら、かえってその弟子に論駁(ろんばく)され沈黙(ちんもく)し、大石寺の面目(めんもく)をつぶした前歴を持つ。この清水を批判した阿部法運(当時)の拙劣(せつれつ)な文を、時の日柱上人が怒り、阿部の僧階を落とし総務職をもはずした。
 
だが、それを恨(うら)んだ阿部法運は、日柱上人引き降ろしの黒幕として暗躍(あんやく)する。この日開、行躰(ぎょうたい)においても実に乱れたものがあった。日開は、日蓮正宗の法灯がまさに消えんとする、法滅尽(めつじん)の時を象徴(しょうちょう)するかのような“法主”であった。日開の登座により日蓮大聖人の仏法は、大変な危機を迎える。だが大悪は、来るべき大善の予(よ)兆(ちょう)でもあった。真実の地涌の菩薩が、日蓮大聖人の仏法に縁したのである。
 
意義深い昭和三年―。牧口常三郎創価学会初代会長、戸田城聖創価学会第二代会長の日蓮正宗への入信は、同年の六月頃と伝えられる。
 
池田大作創価学会第三代会長(現名誉会長)の誕生は、同年一月二日である。
 
昭和三年は、まさに仏(ぶつ)意仏勅(いぶっちょく)の和合僧団・創価学会の黎明(れいめい)の年である。この創価学会の黎明のとき、後に御本尊を誤写してしまう最悪の“法主”が、日蓮正宗に誕生したのである。宗門と創価学会の暗と明、この相対に仏法の不思議を感じる。

 

牧口常三郎創価学会初代会長と戸田城聖第2代会長

 
それ以降、宗門は暗をますます暗とし、創価学会は日蓮大聖人の教法を松明(たいまつ)のごとく、宗内外の暗(あん)夜(や)に高々と掲(かか)げていく。そして昭和二十年の終戦に至る。まさに法滅尽(めつじん)の時は、すなわち大法弘(ぐ)通(つう)の黎明期だった。暗即明であったのだ。
 
戸田会長は創価学会出現について、昭和二十八年に次のように話している。
 
「学会の組織に、批判は絶対にいけません。学会を離れて功徳は絶対ありません。増上慢(ぞうじょうまん)のように聞こえるかもしらんが、畑(はた)毛(け)の猊下(堀日亨上人)は、私にこんなことを申された。『あなたが、四百年前に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅(ほろ)びはしませんでしたろう』と。
 
このおことばに対して、私はお答え申しあげた。
 
『猊下が、いまお生まれになったから、私も、猊下に三十年おくれて生まれてまいりました』と。
 
事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。(中略)学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」(昭和二十八年五月十七日東京・王子百貨店ホール第二回足立支部総会)
 
日亨上人、戸田会長の間で交(か)わされた不思議な会話である。戸田会長が、「猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」との直載な表現。
 
今日、このような発言をする大信者がいたならば、日顕は「驕慢(きょうまん)謗法!」と叫ぶだけであろう。それだけ、現在の宗門では信仰とは無関係の権威・権力が幅を利(き)かせはじめたのである。
 
先の戸田会長の発言は、仏法の深遠さに裏(うら)打(う)ちされているが故に、人々の胸奥(きょうおう)に感動のうねりを起こすのである。
 
戸田会長は次のようにも話している。
 
「それからもうひとつ。いま法滅尽(めつじん)の時である。日蓮正宗の末寺の屋根は落ち、畳は破れはてて、まさに日蓮正宗はつぶれそうになっていたのである。この日蓮正宗をつぶれないようにしたのは、創価学会です。
 
堀猊下がいつか、『戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ』とおっしゃったことがあった。このように、正宗がつぶれそうになったとき、学会が出現したのです」(昭和二十九年九月三十日東京・豊島公会堂九月度本部幹部会)
 
日蓮正宗がつぶれそうなとき、創価学会が出現したことは、まぎれもない史実である。

 

畑毛で談笑する日亨上人と戸田第2代会長

 

“折伏の人”“実行の人”であった牧口会長

創価学会の誕生は、初代の牧口常三郎会長あったればこそである。
 
昭和二十二年におこなわれた創価学会第二回総会に出席した堀米日淳上人(ただし当時は登座前)は、牧口常三郎初代会長を偲(しの)び、「講演」をした。日淳上人は、牧口会長を想(おも)い起こし、牧口会長について二つの特質を述べている。
 
「牧口先生は、非常に慈悲の深い方でありましたが、此のことは先生が、日蓮聖人の御書に、涅(ね)槃経(はんぎょう)の文をお引きなされた『慈(じ)無くして詐(いつ)はり親しむは、是れ彼れが、怨(あだ)なり』といふ点を常に、口にせられたが此れは先生が、自らの境地を端的(たんてき)に表現するものにして余(よ)ほど感じて居られたやうでありました」(昭和二十二年十月十九日東京教育会館創価学会第二回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
日淳上人はこう述べた後、「初めて会はれた人に対しても、そこに少しの隔(へだた)りもおかず慈悲平等の上に接せられるといふ風でありました」(同)と牧口会長の印象を述べ、そのうえで、「反面にまた非常に、物事に厳格(げんかく)な気質を持つて居られて、何事によらず、厳格に判断し、厳格に処理をするといふ行き方をせられたと思ひます」(同)と語っている。
 
日淳上人は、牧口会長について次のように結論した。
 
「先生は、非常な慈悲心と厳格さとを以(もっ)て他に対せられた」(同)
 
日淳上人は、牧口会長の二つの特質として「慈悲」と「厳格」を挙(あ)げている。また、日淳上人から見た牧口会長は、“折伏の人”“実行の人”であった。
 
「牧口先生の折伏のことでありますが、折伏といへば先生、先生と言へば折伏のことと、ことほどさように、先生と、折伏とは、重要なものでありますが、これはいふ迄(まで)もなく深く大きな慈悲心を持たれた先生が、思ひやりの止(や)むに止まれぬ心からの救済(きゅうさい)の現れでしかも真実に、而(しか)も忠実でありなほかつあの厳格が、折伏の形をとられたのであります。『彼が為に悪を除くは此れ彼が親なり』この文は先生が、信条とせられたところであります。価値に於(おい)て行動の世界を直(ちょく)視(し)せられつつあつた先生は、一にも二にも実行で、理念的なものは、聞いても居られないといふ風にいらだたしさを感ぜられたようでありましたが、この本質のうちからあの折伏の行が、発露(はつろ)せられたのだと私は考へて居ます。
 
もとより、妙法の信に住(じゅう)せられた先生が、日蓮聖人の折伏の行範(ぎょうはん)を追はれたのはいふまでもありませんが、しかしそれは、追はれたといふより先生の生来(せいらい)の行き方が、妙法により開顕(かいけん)され天眼(てんげん)されたといふのが当つてをると思ひます」(同)
 
日淳上人はこのように、牧口会長が“折伏の人”であり、“実行の人”であったことを述べている。そして、最後に日淳上人は、牧口会長について仏法の本質論から述べている。これはとりもなおさず、創価学会出現の淵源(えんげん)に触(ふ)れた言葉でもある。
 
「私は先生が、法華によつて初めて一変(いっぺん)された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によつて開顕し、その面目(めんもく)を発揚(はつよう)なされたのだと、深く考へさせられるのであります。そうして先生の姿にいひしれぬ尊厳(そんげん)さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かつたのであります。あの荊(いばら)の道を厳然と戦いぬかれた気(き)魄(はく)、真正(しんせい)なるものへの忠実、私は自ら合掌(がっしょう)せざるを得なくなります」(同)
 
日淳上人の牧口会長に対する気持ちは、このようなものであった。日蓮大聖人の仰(おお)せのままに生きた牧口会長に対し、心の底から湧(わ)く尊敬の気持ちを、日淳上人は押さえきれなかったのだ。そこには僧俗の隔(へだ)てはない。
 
日淳上人は戸田第二代会長に対しても、たとえ難い尊敬の念を抱いていた。日淳上人は、昭和三十一年に第六十五世として登座した。昭和三十三年四月二日に戸田会長が逝去(せいきょ)したが、その直後、五月三日におこなわれた創価学会第十八回総会において、戸田会長と創価学会について次のように話している。
 
「御承知の通り法華経の霊山(りょうぜん)会(え)において上行(じょうぎょう)を上首(じょうしゅ)として四大士があとに続き、そのあとに六万恒(ごう)河(が)沙(しゃ)の大士の方々が霊山会に集まつて、必ず末法に妙法蓮華

 

牧口常三郎創価学会初代会長

 

経を弘(ぐ)通(つう)致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を会長先生が末法に先達(せんだつ)になつて呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即(すなわ)ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上に呼び出したのが会長先生だと思います」(昭和三十三年五月三日東京メモリアルホール創価学会第十八回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
このように、日淳上人は明快(めいかい)な言葉をもって、戸田会長および創価学会の仏法上の位置づけをしている。
 
日淳上人は、さらに創価学会こそ仏語を実(じつ)語(ご)となす広宣流布の主体であり、時にかなって出現した「仏の一大集り」であると、次のように話している。話した時期が、戸田城聖創価学会第二代会長逝去(せいきょ)の直後であることに留意(りゅうい)して、読んでいただきたい。世間が、戸田会長亡(な)き後の創価学会は空中分解するであろうと嘲笑(ちょうしょう)していた時期である。
 
「正法は必ず広宣流布する、これらはもう仏の誓いでございます。後(ごの)五(ご)百歳(ひゃくさい)に広宣流布して鳩(く)槃(はん)荼(だ)等にその便りを得せしむることなしとおつしやつてある。その誓が実現しなければ仏様は真実を述べられたということはないわけです。ですから、これからが、いよいよ広宣流布へ進んで行く段階になつたと思うのであります。会長先生は基(き)盤(ばん)を作つた、これからが広布へどんどん進んで行く段階であろうと思うのでございます。(中略)どうかその意味におかれて、先程来大幹部の方、役員の方々、又皆様方が相(あ)い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会厳然未散(りようぜんいちえげんねんみさん)と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば真の霊山で浄土、仏の一大集りであると私は深く敬意を表する次第であります」(同)
 
日蓮大聖人の御在世と滅後を俯(ふ)瞰(かん)して語られる仏法の

 

第65世・日淳上人

 

“時”。その“時”にかなって出現した「霊山一会厳然未散」「真の霊山で浄土」「仏の一大集り」と日淳上人が称(たた)える創価学会。この久(く)遠即末法(おんそくまっぽう)の実相に、仏法の醍(だい)醐味(ごみ)を感ずる。
 
日淳上人は、この「御講演」の最後を、
 
「宗門も及ばずながら皆様方といよいよ相(あい)呼(こ)応(おう)致しまして、会長先生のあの大きな仕事に報(むく)いて一生懸命にやるつもりでおりまする。どうか一つ皆様のいよいよ御健闘(けんとう)の程(ほど)をお願い致しまして、私の講演を終ることに致します」(同)
 
との言葉で結んでいる。たとえようのない慈愛に満ちた言葉である。そこには権威・権力の片鱗(へんりん)すらない。このような“法主”のもとであれば、自然に「僧俗一致」もなされるだろう。
 
日淳上人は、昭和三十四年一月一日の『聖教新聞』に「年頭の辞(じ)」を寄せているが、そこでも戸田会長について、「まことにその言行は地涌千界(せんがい)の眷属(けんぞく)の出現ならではなし得ないところでありました」(昭和三十四年一月一日付『聖教新聞』)と断言(だんげん)している。

 

終戦まで枚挙(まいきょ)にいとまがないほど謗法を犯してきた日蓮正宗の僧侶

宗祖・日蓮大聖人の仰(おお)せに曰(いわ)く。
 
「末法当時は久遠実成(じつじょう)の釈迦仏・上行(じょうぎょう)菩薩・無(む)辺行(へんぎょう)菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心(かんじん)たる南無妙法蓮華経の七字計(ばか)り此の国に弘まりて利生得益(りしょうとくやく)もあり上行菩薩の御利生盛(さか)んなるべき時なり、其の故は経文明白なり道心堅固(どうしんけんご)にして志(こころざし)あらん人は委(くわし)く是を尋(たず)ね聞くべきなり」(法華初心成仏抄)
 
【通解】末法の今は、久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘められる法華経二十八品の肝心である南無妙法蓮華経の七字ばかりが、この国に広まって、利益や得益(とくえき)もあり、上行菩薩の御利益が盛んになるべき時である。そのゆえは経文に明白である。道心が堅固であり、志のある人は、詳しくこれを尋ね聞くべきである。
 
明治五年に僧侶の妻帯(さいたい)が許されてからの日蓮正宗僧侶の堕(だ)落(らく)ぶりは、まさに坂道を転(ころ)げ落ちるの観があった。すでに明治時代、“法主”の座をめぐって、僧侶間の暗闘(あんとう)が演じられている。
 
大正時代には、日蓮正宗僧侶の実力者たちが密約(みつやく)して、時の法主・日柱上人に対してクーデターを起こし、有無を言わさず法主の座より引きずり降ろした。
 
昭和時代に入ってからの日蓮正宗は、日開の御本尊誤(ご)写(しゃ)事件、宗門による御書の一部削除、神札甘受(かみふだかんじゅ)や神社参拝の信徒への指示、戦争協力など、枚挙(まいきょ)にいとまのない謗法を犯した。
 
そしてついには、軍部によって総本山内大書院に神棚(かみだな)を祀(まつ)り込まれ、昭和二十年六月十七日に大坊が焼失し、日恭は焼死した。
 
ただ一人、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲(かか)げた創価教育学会は、国家権力によって徹底的に弾圧(だんあつ)された。昭和十九年十一月十八日、牧口常三郎初代会長は獄中(ごくちゅう)にて殉教(じゅんきょう)した。
 
日蓮正宗はまさに瀕(ひん)死(し)の状態であった。日蓮大聖人の大白法(だいびゃくほう)はまさに滅尽(めつじん)しようとしていた。
 
だが、大法弘通の第一歩は、この法滅尽のときに始まった。戸田城聖創価教育学会理事長(当時)が、昭和二十年七月三日、豊多摩刑務所(現在の東京都中野区にあった。出獄の少し前に巣鴨の東京拘置所より移された)より出獄(しゅつごく)したのだ。
 
出獄した戸田理事長の胸中(きょうちゅう)には、正法流布への大確信が燃えていた。
 
「ちょうど、牧口先生の亡(な)くなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議(ふかしぎ)の境涯(きょうがい)を、御本仏の慈悲によって体得(たいとく)したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦(ほうえつ)とで毎日暮らしたのであった。

 

戸田会長が出獄した豊多摩刑務所(写真は昭和57年当時)

 
その取り調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるようななさけなさ。心のなかからこみあげてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御仏にささげる決意をしたのであった」(戸田城聖会長著「創価学会の歴史と確信」『戸田城聖全集』所収)
 
だが、日蓮大聖人の嫡流(ちゃくりゅう)である日蓮正宗のありさまは、“法主”日恭の焼死に象徴(しょうちょう)されるように、宗門総じて仏罰をこうむり、極端に衰(すい)微(び)していた。
 
総本山大石寺の経済的復興(ふっこう)は、戸田会長が昭和二十七年に登山会を開始したことにより、ようやく始まったのである。それまでの日蓮正宗は、まさに赤貧芋(せきひんいも)を洗うがごとき状態であった。
 
戸田理事長率(ひき)いる創価学会は、社会の濁乱(じょくらん)と宗門の凋落(ちょうらく)をものともせず、莞(かん)爾(じ)として広宣流布への歩みを進めていた。

 

戸田城聖第2代会長自筆の「創価学会の歴史と確信」

 

第二代会長就任に当たって大折伏線を宣言した戸田会長

昭和二十六年五月三日、戸田会長は第二代会長就任(しゅうにん)

 

式の「会長就任の挨拶(あいさつ)」において、次のように述べている。
 
「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く御(み)教書(きょうしょ)を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、一人一人が邪教(じゃきょう)と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに御本尊様を持たせることです。こうすることによって、はじめて本門の戒壇ができるのである。
 
御本尊様の真の功徳がわかる究(く)竟即(きょうそく)の位(くらい)の前の、分真即(ぶんしんそく)が、すなわち折伏することなので、これが真にあなたたちのためだから、広宣流布をやりなさいというのであります。(中略)一対一のひざづめ談判(だんぱん)によって、広宣流布は成し遂(と)げられるのである。
 
以上、述べたことは、みんな自分のためであり、いま、わたくしたちは、大きな本門の戒壇を建てるための、一つ一つの土台石を運んでいるのであります。みなさん、真に命をかけて、御本尊様へご奉公しようではありませんか」(昭和二十六年五月三日東京・常泉寺第二代会長就任式『戸田城聖全集』所収)
 
この会長就任式では、戸田会長によって、「会長就任の決意」も披(ひ)瀝(れき)された。

 

戸田城聖創価学会第2代会長推戴式

 

「ここに、不思議のことありて大確信を得、会長就任の決意を固めたしだいである。大聖、宗(しゅう)旨(し)御建立の後、立正安国論をおしたためあって七百年、大陸は中共勢力の席巻(せっけん)するところとなり、朝鮮に世界の兵力集まっての戦乱である。
 
このとき、手をこまねいて見すごすならば、霊鷲山(りょうじゅせん)会(え)にて、いかなるお叱(しかり)あるべきか。しかれば、無(む)間(げん)地(じ)獄(ごく)疑いなし。今後、どしどし無理な注文をだすことと思うが、ぜひ、通していただきたい。
 
私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする。もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺(い)骸(がい)は品川の沖に投げ捨てていただきたい」(同)
 
広宣流布成就(じょうじゅ)に向かって、七十五万世帯の折伏の実践(じっせん)を宣言したのだ。ちなみに、「戸田会長推戴賛(すいたいさん)意(い)署名簿」に署名した学会員は、三千八十余名であったと伝えられる。
 
同年十一月、戸田会長は、「日蓮正宗滅(ほろ)びんとしているときに立ったみなさまの福運は大きいのです。御本尊様を信じ、功徳を受けようではありませんか」(昭和二十六年十一月十八日東京・中野歓喜寮牧口初代会長八回忌法要『戸田城聖全集』所収)と呼びかけている。
 
断るまでもないが、「日蓮正宗滅びん」としていたのだ。それが、今日、日蓮正宗が創価学会によって宗史始まって以来の繁栄(はんえい)を遂(と)げると、“法が尊(とうと)いのだから、日蓮正宗が興隆(こうりゅう)するのは当たり前である”と、日蓮正宗中枢は言うのである。
 
そして創価学会に感謝しないばかりか、さらには「C作戦」を発動して創価学会を解体し、学会員を檀徒として日蓮正宗にいただこうと画策(かくさく)していたのだ。
 
理不(りふ)尽(じん)と言えば、これほど理不尽なことはない。不知(ふち)恩(おん)の一語に尽きる。いまの宗門中枢は、信徒団体が無償(むしょう)の献身(けんしん)をしても、それに応(こた)えるだけの慈悲を持ち合わせていない。信徒が奉仕すればするほど当然であるとふんぞりかえり、いよいよもって傲慢(ごうまん)になるだけだ。

立宗七百年を契機(けいき)として大前進を開始した創価学会

崇高(すうこう)なテーマが穢(けが)れてしまう、話を元に戻そう。
 
戸田会長は、日蓮正宗が衰退(すいたい)し、日蓮大聖人の仏法が滅尽(めつじん)しようとしているときこそ、広宣流布の時であると、繰り返し話している。
 
「法のうえからみると、日蓮大聖人様が御出現のときは、天台法華はほとんど滅びていた。いま創価学会が活躍するときは、もったいなくも富士大石寺はまさに破滅にひんしている。御本山を守り、自身の寺をあがめようという信者はなく、ろくでもない信者ばかりになった。ひどい寺では、信者が六、七軒しかないところもあった。御僧侶も生きているのですから、米らしいものを食わなければならない。屋根は落ち、畳は破れ、本堂はみるにしのびないありさまになり、まさに正法は滅せんとしているのです。いまでも地方にいくと、これが日蓮正宗の寺かと思うよう情けない寺がたくさんあります。
 
世界に誇(ほこ)る大仏法の衰(すい)微(び)の姿は、悲しむべき状態です。法華経にあるように、法滅の時にあたってこそ、広宣流布の機会なのです」(昭和二十九年九月十九日東京・中央大学講堂第三回築地支部総会『戸田城聖全集』所収)
 
法がまさに滅尽しようとするときこそ大白法興隆の兆(きざ)しであるとする戸田会長の大確信は、仏法の裏づけによるものだ。獄中の「不思議のこと」があったればこその正観(しょうかん)である。
 
日蓮大聖人の仏法を流布するにあたって、立宗七百年は大きな意味を持つものであった。会長就任半年後、すなわち立宗七百年を翌年に控(ひか)えた昭和二十六年十一月におこなわれた創価学会第六回総会において、戸田会長は次のように誓っている。
 
「次に学会の目的について述べるならば、奇(く)しくも、日本国に仏法渡(と)来(らい)してより七百年、末法御本仏日蓮大聖人様ご出現あそばされ、権実雑乱(ごんじつぞうらん)を正されて七百年、大聖人様立宗なされてより七百年を明年にひかえる今日、日本国あげて本尊雑乱の時はきたのであります。学会はいま、日蓮大聖人様の命(めい)をうけて、弘安二年十月十二日にお顕(あらわ)しになられた、一閻(いちえん)浮(ぶ)提総(だいそう)与(よ)の大御本尊様を、日本に流布せんことを誓う」(昭和二十六年十一月四日東京・家政学院講堂創価学会第六回総会)この立宗七百年を目前にした戸田会長の一大確信、この大情熱があらゆる障(しょう)魔(ま)を打ち払い広宣流布の時を大きく切り拓(ひら)いていったのだ。
 
立宗七百年を契(けい)機(き)とした創価学会の大前進は、後年、登座を目前に控えた総本山第六十五世日淳上人によって、次のように評されることとなる。
 
「しかし末法に入って千年のうち、はやくも九百年は過ぎました。もとより末法は千年に区切ることはありませんがともかく千年の終りに近づいて開宗七百年を転(てん)期(き)として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯(ただ)ならないものがあると思います」(昭和三十一年一月一日付『聖教新聞』「開宗七百年を迎へて」)
 
立宗七百年(昭和二十七年)の六月三十日、戸田第二代会長は、「七百年の意義」と題する論文を書いている。
 
仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の和合僧団である創価学会の本質論が、ここに記されている。以下にその一部を抜粋(ばっすい)する。
 
「百六箇抄(血脈抄、日蓮正宗門外不出の相伝抄)にいわく、
 
『(()下(げ)種(しゅ)の今(こん)此(し)三界(さんがい)の主の本迹久遠元初(ほんじゃくくおんがんじょ)の天上天下・唯(ゆい)我(が)独尊(どくそん)は日蓮是(これ)なり、久遠は本・今日は迹(しゃく)なり、三世常住の日蓮は名(みょう)字(じ)の利(り)生(しょう)なり』
 
このおことばを信じなければ、予(よ)のごとき理(り)即(そく)の愚(ぐ)人(じん)、いかにして彼らの迷妄(めいもう)を破れん、悲しきかな、悲しきかな。眼(まなこ)あらん者は、この御抄を拝して、日蓮大聖人様が末法の本仏たること、いささかも疑いなきであろう。
 
されば、七百年の今日、七文字の法華経は、近くは日本の民衆、遠くは朝鮮、中国、インドの民衆を救わんこと、つゆ疑いなきことである。仏法もまたもってかくのごとし、正像(しょうぞう)には西より東に向かい、末法には東より西に行くの予言、かならず的中しなければならぬ。いかんとなれば、御本仏の予言であるからである。しからば、いつをもって、その時と定むるやというに、予は立宗七百年を期として、これより盛(さか)んに広宣流布することを断定(だんてい)するものである。
 
いかんとなれば、大聖人様御在世中、仏力・法力の威(い)力(りょく)によって起こりえなかった七難のうちの最後の一難、他(た)国侵逼難(こくしんぴつなん)が日本国土に起こり、そのときは、日本を襲(おそ)ったところの梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)の一群、辰巳(たつみ)の方(ほう)より早風(はやて)のようにきたではないか。由比(ゆい)ケ浜辺において、大聖人様凡身(ぼんしん)を捨てて仏身を現ずるとき、明星天王、辰巳より大なる光りものを送っておよろこびを申しあげ、いま広宣流布の前兆(ぜんちょう)として、他国侵逼難のとき謗法の国を攻めさせたもう梵天、帝釈は、同じく辰巳の方より威力をあらわして広宣流布を智者に知らしめたではないか。また日本の国に起こりつつある七難は、一国あげての飢(き)饉(きん)といい、自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)といい、徐々(じょじょ)にあらわれつつあるではないか。また、かならずやこのとき、大聖人様の命(めい)を受けたる折伏の大闘士があらわれねばならぬと、予は断ずるのである。
 
この折伏の大闘士こそ、久(く)遠元初(おんがんじょ)においては父子一体の自(じ)受用身(じゅゆうしん)であり、中間(ちゅうげん)には霊鷲山(りょうじゅせん)会(え)において上行菩薩に扈(こ)従(じゅう)して、主従の縁を結び、近くは大聖人様御在世のとき、深き師弟の契(ちぎ)りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親の三徳の御本仏を妄(もう)語(ご)の仏ならしめずと固く誓って、不(ふ)自惜身命(じしゃくしんみょう)の行を励(はげ)むにちがいないと固く確信するものである。
 
わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである。広宣流布の大菩薩ご出現に間に合うとやせむ、間に合わぬとやせむ、ただただ宗祖日蓮大聖人様、御開山日興上人様の御命にまかせ、身命(しんみょう)を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである。
 
会員諸君に告ぐ。
 
われらこそは、えらばれたるところの末法御本仏の弟子であり、家(け)来(らい)であり、子どもである。主人の命(めい)を奉(ほう)じ、父の慈悲にむくい、師の教えにしたがって、広宣流布のさきがけをしようではないか。その福運たるや、無量無辺であることを、予はまたここに断言するのである。本尊流布のご奉公こそ、御本仏大聖人様の心からおよろこびのことであり、われら宿命打破の根源(こんげん)の方法である。七百年以前の最初の題目の一声、弘安二年十月十二日の一幅(いっぷく)の大曼(だいまん)荼羅(だら)、ただただ、ありがたさに涙あふるるものである」(昭和二十七年六月三十日論文「七百年の意義」)
 
志ある人は、『戸田城聖全集』(聖教新聞社刊)に全文が所収(しょしゅう)されているので、熟読いただきたい。
 
戸田会長が、「予は立宗七百年を期として、これより盛んに広宣流布することを断定するものである」と宣言していること、「折伏の大闘士」と「大菩薩」とに立て分て、それぞれの出現の必然(ひつぜん)を述べていること、「身命を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである」と述べていること等々、この戸田会長の論文には、法華経以来の仏法の深(じん)秘(ぴ)が燦然(さんぜん)

 

ありし日の戸田第2代会長

 

と輝(かがや)いている。
 
なお付(ふ)言(げん)すれば、先述したように、日蓮正宗宗会は昭和二十七年六月二十九日、戸田城聖会長に対する処罰を“法主”に求め、次のような決議をおこなっている。
 
「一、所属寺院住職を経(へ)て謝罪文を出すこと
 
一、大講頭を罷(ひ)免(めん)す
 
一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 
戦時中、神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)を唱え、牧口初代会長獄(ごく)死(し)の近因を作った小笠原慈聞を、立宗七百年法要において、創価学会青年部が牧口会長の墓前で謝罪させたことに対し、宗会が処罰を求めたものだ。
 
この不当な処罰要求が日蓮正宗の僧たちによって決議された翌日、すなわち六月三十日に戸田会長の論文「七百年の意義」は書かれたのだった。甚深(じんじん)の確信の発(はつ)露(ろ)である。

創価学会の要(かなめ)は師弟不二の絆(きずな)にある

さて立宗七百年も暮れようとする、昭和二十七年十二月七日におこなわれた創価学会第七回総会において、日淳上人(当時は日蓮正宗宗務総監)は次のように講演した。
 
「創価学会が人類の幸福の為に着々と自他共にその幸福を実現している事は尊い事であり何とも申し様(よう)の無い尊さを感ずる次第である。学会は人類の幸福を願いとし、正しい宗教、信仰を招来(しょうらい)せしむる事に大願(だいがん)を置かれて日夜活躍している。(中略)日蓮大聖人は四弘(しぐ)誓願(せいがん)は、只七文字の題目を唱え、我も致し人をも導く事による以外には途(みち)は無いと説かれて居る。この道は容(よう)易(い)ではないが、皆様と共に人類の幸福の為愈々精進(いよいよしょうじん)して行く以外にはない。広宣流布の為の大折伏は学会の皆様へ御願い申します」(昭和二十七年十二月七日東京・中央大学講堂創価学会第七回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
日淳上人は、昭和三十一年三月に登座し第六十五世となったが、創価学会に期待し全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せて、その年の十二月に次のように話している。
 
「先程来(さきほどらい)いろいろ研究発表、体験発表、あるいは全国の現況報告あるいは代表決意等承(うけたまわ)りまして私は心から感激を致しております。
 
ただその全部を要約(ようやく)致して申せば皆様方に日蓮大聖人の御魂(おんたましい)が脈々と燃え上つているということを痛感する次第であります。
 
いろいろと承りまして何一つ大聖人様の魂そのままを皆様がうけつがれていないものはないということであります。大聖人の魂を伝える皆様が益々(ますます)日本国を導(みちび)いて行く時には、丁度大聖人様が愚痴(ぐち)一ついわれず、只『南無妙法蓮華経』と唱えられて来た御在世当初にかえつて行くものと存じまする。
 
日蓮正宗は単なる一宗(しゅう)旨(し)であるばかりでなく一切衆生の宗旨であり、この日蓮正宗を背負つて立ち上つて行かんとするのが戸田会長先生でありまする」(昭和三十一年十二月八日川崎市市民会館創価学会女子青年部第四回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
日蓮大聖人の御(ご)遺命(ゆいめい)である広宣流布成就(じょうじゅ)に邁進(まいしん)する創価学会―。その創価学会の要(かなめ)は、師弟不二の絆(きずな)にある。師弟不二であればこそ、広宣流布の戦いの前途を阻(はば)むいかなる障魔(しょうま)をも降伏(ごうぶく)できるし、すべての創価学会員は成仏の直道(じきどう)を歩むことができるのだ。
 
また、それ故に、あらゆる障魔は師弟の絆を断(た)ち切ううと画策(かくさく)する。
 
日淳上人は、戸田会長逝去(せいきょ)の直後、師弟不二について指南している。
 
「創価学会が何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この関係をはつきりと確認し、そこから信仰を掘(ほり)下(さ)げてゆく、これが一番肝心(かんじん)なことだと思う。今日の創価学会の強い

 

戸田第2代会長の葬儀

 

信仰は一切そこから出てくる。
 
戸田先生が教えられたことはこれが要(かなめ)であろうと思つております。
 
師を信じ、弟子を導く、この関係、これに徹(てっ)すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります。だから法華経神力品において『是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑いあることなし』と説かれております。
 
この決定して疑いあることなしとは、師弟の道に徹底して、そこから仏法をみてくる時に始めてその境涯(きょうがい)に到達するんだとこれが法華の段(だん)取(ど)りになつております。それを身をもつて実行されましたのが戸田会長先生でございます。
 
戸田会長先生ほど初代会長牧口先生のことを考えられたお方はないと思います。親にもまして初代会長に随(したが)つて来られました。これがきょう皆様方が戸田会長先生によつて信仰の眼(まなこ)を開けて頂(いただ)いたんだと、この師に対する弟子の道を深く考えられましてまいります時に、仏法に、しつかり決定することができるのでございます。
 
この初代会長、二代会長を経(へ)まして、皆様方の信仰の在(あ)り方、また今後の進み方の一切ができ上つているわけです。これを一つ皆様の団結の力で、大いに会長先生の志(こころざし)に報(むく)いてやつて頂きたいと、ただそれを念願致す次第でございます」(昭和三十三年六月一日福岡香椎球場創価学会九州第二回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
仏法において、師弟の絆ほど肝要(かんよう)なものはない。

 

「三代会長を支えていけば広布はできる」と戸田会長は明言された

戸田会長は、“三代会長を守り広宣流布をせよ”と遺言(ゆいごん)している。
 
「三代会長は、青年部に渡す。牧口門下には渡しません。なぜかといえば、老人だからです。ゆずる会長はひとりでありますが、そのときに分裂(ぶんれつ)があってはなりませんぞ。いまの牧口門下がわたくしを支えるように、三代会長を戸田門下が支えていきなさい。わたくしは広宣流布のために、身を捨てます。その屍(しかばね)が、品川の沖に、また、どこにさらされようとも、三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」(昭和二十七年二月十七日東京・常泉寺青年部研究発表会『戸田城聖全集』所収)
 
昭和二十七年の時点で戸田会長は、創価学会第三代会長についてこのように明言をしている。いま、愚痴(ぐち)蒙昧(もうまい)の輩(やから)が三代会長指名の事実を否定し、池田会長と我々師弟の問に隙(すき)を生じさせようとしている。愚(おろ)かな試(こころ)みである。

 

第3代会長就任式での池田名誉会長

 
戸田会長がここまで明言していて、三代会長の指名を曖昧(あいまい)にすることなどありはしない。はたまた池田名誉会長以外の者が、指名されていた可能性があるなどとすることも、転倒の輩(やから)の僻見(びゃっけん)である。
 
池田名誉会長が三代会長就任後に現実のものとなった、広宣流布成就(じょうじゅ)に向けての一大業績は、余人をもってなしうることではない。その事実を素直に直(ちょく)視(し)すべきである。池田名誉会長の指揮(しき)によって、着実に広宣流布は進められている。
 
一閻(いちえん)浮(ぶ)提総(だいそう)与(よ)の大御本尊を恋(れん)慕(ぼ)渇仰(かつごう)して雲集(うんじゅう)した地涌の菩薩は、折伏の大闘将(とうしょう)である池田名誉会長を中核(ちゅうかく)にして、いかなる法難をも必ずや克服し、大法を世界に盛んに弘(ぐ)通(つう)することは必定(ひつじょう)である。

 

大石寺の歴代貫首

大石寺第4世以降の歴代貫首の足跡を簡潔にまとめて紹介する。編集の都合上、4世以降の上人号は省略した。

 

第4世・日道(一二八三~一三四一) 幼名は次郎。新田五郎次郎頼綱の次男で日目上人(頼綱の弟)の甥にあたり、祖母は南条時光の姉。母は時光の娘。17歳のときに日目上人を師として出家。大石寺で修行し、重須の日興上人にも仕えて行学に励んだ。
 
だが第3祖・日目上人の入滅(一三三三)の直後から、日郷との間に「大石寺東方の坊地」の土地所有権争いを引き起こす。この内紛は日興上人の大石寺開創(一二九〇)から、わずか43年後のことであった。この争いは激烈をきわめ、それぞれの弟子たちに引き継がれ「日道派」と「日郷派」に分かれて70年以上の長期にわたって繰り広げられた。
 
亨師は、日道について「目上の不幸後、ゆえありて東坊の日郷上人の一類と不和となり、次第に紛糾を重ね、これがために万苦を嘗められたが、事件の全解決を見ずして、ついに弟子の日行上人に法統を付嘱して、西大坊において入寂せられた。為に大石の法運一時否塞の状態となったのは、千載の遺憾である」と書き残している。つまり日道と日郷との激しく長い抗争によって、大石寺は疲弊したと記述している。日道は59歳で死去した。
 
なお、日道から付属を受けた第5世・日行の母は南条時光の娘。つまり時光の孫にあたる。この後も第6世・日時、次いで日時から相承を受けた第8世・日影、それに第9世・日有というように、次々と南条家の出身者で占められ、約半年余の間”中継法主”であった第7世・日阿を除いては、第3祖以降、第9世まで、すべてが南条家の出身である。

 

第5世・日行(?~一三六九) 出生地は不明。父奥州三迫の森の地頭・加賀野太郎三郎、母は南条時光の娘。時光の孫にあたる。日道の母と日行の母とは姉妹。また、日目の従妹の子にあたる。幼少から出家しようとして大石寺に居住し日道の弟子となる。暦応2年(一三三九)に日道から相承を受け第5世となる。大石寺塔中に本住坊を創建し、下野国(栃木県)に法華堂(後の蓮行寺)を建立した。

 

第6世・日時(?~一四〇六) 日行に随順して宗学を学び、武蔵国仙波(埼玉県川越)の天台宗寺院にも遊学した。日行の臨終には遭えなかったと言われている。
 
第4世の日道と争って大石寺を追放された日郷が、離山に際して御堂の御影を持って行ったので、日時は嘉慶2年(一三八八)10月13日、越前法橋快恵という仏師に日蓮大聖人の等身大の御影の彫刻を依頼し、それを御影堂に安置した。この御影には嘉慶2年当時の願主、施主、仏師などの記録が書き残してあったが、昭和6年に御影の衣替えをしたときに、第60世の阿部日開が嘉慶2年当時の文字を消去し、「昭和6年云云」と書き直してしまった。
 
なお、日道と日郷との問に惹起した土地所有の係争が落着したのは、日時の晩年のことであった。応永12年(一四〇五)5月、72年の長期にわたる係争事件の解決に伴ない、日時は日郷が離山に際して持ち去った御影の返還を日郷側に求めたが、これは今もって返還されず、保田妙本寺に現存する。

 

第7世・日阿(?~一四〇七) 第6世・日時が同じ南条家の出身である日影に応永11年(一四〇四)5月に法を内付していたとされているが、応永13年(一四〇六)6月に日時が死去した後、一時、日影ではなく日阿が貫首になり、登座した翌年の3月に死去した。約半年有余の短命貫首であった。ただし「日有上人御物語聴聞抄佳跡」(『富士宗学要集』第一巻)には第6世・日時から第8世・日影への相承は、日阿と柚野浄蓮が預かって伝えたと記されている。

 

第8世・日影(一三五二~一四一九) 下野国(栃木県)で誕生。南条家の出身で日時に随って出家。武蔵国仙波の天台宗寺院で天台学を修めた。さしたる足跡は見当たらない。「家中抄」には「影公大衆に語て云く血脈を伝ふべき機なき是我悲嘆なり」
 
等と言い、柚野浄蓮に血脈を授けたとの説がある。

 

第9世・日有(一四〇二~八二) ”稚児貫首”の一人。南条家の出身で弱冠17歳で貫首となる。第8世・日影が死去したときは日有はまだ年少であったので、相承を取り次いだ人がいたとされている。この頃の大石寺は日道と日郷との抗争が発端となって西大坊の日道・日行・日時に対し、日郷の弟子達が東御堂を建てて対抗し、70年以上にわたって続いた係争のために、疲弊のきわみにあった。日有は山内の修復再興に努め、堂塔の修復、学僧の養成に力を注ぐと共に、東は奥州、西は京都、北は越後にまで布教拡大を図るなど、大石寺の復興に尽力した。このため日有は第26世の日寛と共に「中興の祖」と言われている。
 
しかし日有の留守の間、3人の代官(高僧)が大石寺を売り払ってしまい、大石寺は一時、謗法の山となっていた。そこで日有が買い戻さねばならなかった。
 
日有はまた、諸国から登山してくる学僧のために大石寺門流における化儀上の種々の問題を指南したが、これを弟子の南条日住が書きとどめたものが「有師化儀抄」である。

 

第10世・日乗(?~一四七二) 日有から相承を受けたのは応仁元年(一四六七)頃とされる。また、第11世・日底への相承の時期も文明2年(一四七〇)頃とされているのみで詳細はいずれも明確ではない。はっきりしているのは文明4年(一四七二)11月20日に死去したことだけである。
 
第11世・日底(?~一四七二)文明2年(一四七〇)頃、日乗から相承を受けたとされているが、次への相承はおこなわないで文明4年(一四七二)4月7日に死去した。このため高齢であった第9世・日有が再び登座せざるを得なかった。いかに大石寺が人材不足であったかが容易に分かる。このあと大石寺は“稚児貫首””年少貫首”が次々と登座することになる。

 

第12世・日鎮(一四六九~一五二七) ”稚児貫首”の一人。文明14年(一四八二)に13歳で第9世・日有から相承を受けたとされているが、月日は不明。大永7年(一五二七)に59歳で死去。
 

第13世・日院([五一八~八九) “稚児貫首”の一人。土佐国(高知県)幡多郡吉奈の図書助高国の子として土佐に生まれる。
 
青木の城主・伊予守の孫。幼名は良王童。
 
出家して右京と号し、家柄が良く裕福であった故か大永6年(]五二六)9月5日、8歳で第12世・日鎮の付弟となる。翌年の大永7年(一五二七)に日鎮の死去により、9歳で第13世となった。

 

第14世・日主([五五五~一六一七) 年少で貫首となった一人。下野国(栃木県)の人で俗姓は「一色」。父は上杉家代々の家臣で館林の城主。幼少の頃に出家し裕福な良家の出身であった故か第14世となる。
 
相承の年月日は不明。『富士年表』では天正元年(一五七三)、18歳ですでに貫首の立場にあったとされ、同年4月に「日主奥州柳ノ目完蔵坊の常住本尊を中将日伝に授与す」、8月19日には「日主霊宝虫拂を修す」と記されている。
 
日主は京都要法寺(現在の日蓮本宗)との関係を結び、文禄5年(一五九六)、要法寺出身の日昌に相承した。第9世の日有までの南条家有縁の貫首に続く“稚児貫首””年少貫首”の後は、要法寺出身の貫首が9代にもわたって登場してくることになる。

 

第15世・日昌(一五六二~一六二二) 京都要法寺(現在の日蓮本宗)出身の貫首。山城国(京都府)小栗栖の人。7歳のときに出家して京都要法寺の円教院に師事し、日辰より教訓を受けた。天正11年(一五八三)に下総国(千葉県)の飯高檀林に移って修学し、文禄3年(一五九四)8月に大石寺に登り、わずか2年後の同5年(一五九六)9月1日に日主より相承を受けた。
 
奥州磐城国(福島県)の三春に法華堂を、駿河国(静岡県)根方境村に妙光寺を建立。大石寺では要法寺・日辰の門下のなかでも一等の学者であった日性を招聘した

 

p 385

がかなわず、その代わりに大石寺貫首になったのが、第15世・日昌であった。
 

第16世・日就(一五六七~一六三二) 京都要法寺出身の貫首。要法寺日藩の弟子。

父は長谷川五郎左衛門入道善光といい浄土宗の信徒であったが、母の入信の影響で法華を修学した。慶長10年(一六〇五)に檀那・細井治良左衛門の願いにより江戸上野に常在院(現在の常在寺の前身)を建立。
 
慶長12年(一六〇七)に日昌貫首が死去。日就は日昌の臨終に間に合わず代官の理境坊日義が相承を一時預かっていた。

 

第17世・日精(一六〇〇~八三) 京都要法寺の出身で「造仏読誦」の大謗法を犯した貫首として有名である。要法寺日瑶の弟子となり、後に大石寺に登って要法寺出身の日就(第16世)より宗学を学び、上総国(千葉県)の宮谷檀林に遊学した。8歳年上の敬台院(阿波徳島の城主・蜂須賀至鎮の内室)とは「養母養子」という特別の深い関係を結ぶ。
 
敬台院が元和6年(一六二〇)に死亡した夫の蜂須賀至鎮を弔うために江戸・神田明神前に法詔寺を建立し、日精を住職としたが、同寺は寛永11年に江戸・鳥越に移転している。「舜師書付」には「其の上法詔寺の御建立御法事毎度御用相勤む。然る処日精本寺大石寺再興ありて日精両寺住持たり」とある。
 
寛永9年(一六三二)、敬台院の後楯によって大石寺と法詔寺の住職を兼務するが、翌年の寛永10年(一六三三)に要法寺の法兄である日盈に大石寺を譲った。寛永14年(一六三七)春、日盈の病気のため日精は再び大石寺に入った。また、この年には敬台院の推挙によって江戸登城の際に乗與の免許を受けるなど僧としては異例の厚遇に浴し、養母・敬台院の権威・権勢の恩恵を十分、満喫していたようである。
 
だが養母・敬台院との関係が悪化する。
 
先にあげた「舜師書付」には「其の後敬台院様の御意に背かれ両寺之れを退出す」と書かれ、その後の経過の概略も記されている。それによると両寺を退出した後は江戸・常在寺を再建して移り、法詔寺には直ぐに学優日感が後任の住職となって入ったが、大石寺は無住のままの状態がつづいた。
 
しかし、寛永18年の“御朱印改め”のときに大石寺が無住では朱印が下されない。
 
そこで大石寺の衆檀中から敬台院に後住のことで相談があり、法詔寺の日感の推薦で日舜が後住と決まり、無事に御朱印が下されたということである。
 
日精に対する敬台院の怒り、批判は激しく、敬台院が日精に宛てた書状の中に次のような記述がある。「我等ぢぶつだう(持仏堂)にはかいさん(開山)様のまんだら(曼茶羅)をかけ(掛)置申し候、此(精師筆)まんだら(曼茶羅)は見申す度毎にあくしん(悪心)もまし(増)候まま衆中の内に帰し申し候、何とめされ候とも其方達次第に候、其御心へ(得)有るべく候」。つまり、持仏堂には日興上人の曼茶羅をご安置した。日精が書写した曼茶羅は拝見するたびごとに悪心も増すので返納する。どのように思うかはあなた方次第。そのように御心得ください、と。敬台院の怒りに触れて大石寺第17世の地位を追われ、法詔寺からも追放された。大檀那の意向によって、貫首の座が決められていたのが史実であった。釈尊の仏像を造立し、法華経一部(二十八品)の読誦をおこなうという大謗法を犯した。著書に「日蓮大聖人年譜」「随宜論」「富士門家中見聞」(上中下)などがある。

 

第18世・日盈(一五九四~[六三八) 京都要法寺出身の貫首。俗姓は黒川。父は入道して久徳と称した。幼少にして出家し比叡山の麓の松が崎の寺院で修学。慶長15年(一六一〇)に上総国の檀林に移り、法華文句、法華玄義などを学ぶ。寛永10年二六三三)に日精より相承されたとされ大石寺に入るが、寛永15年(一六三八)に45歳で死去した。

 

第19世・日舜(一六一〇~六九) 京都要法寺の出身で第19世として大石寺に晋山したのは寛永18年(一六四一)とされている。

晋山に際しては日精からの指名も無ければ相承もなく、敬台院の「指図」と「法詔寺・日感の肝入り」によることは「舜師書

 

p 306

 

付」および敬台院の書状などに明白である。日精からの相承は、正保2年(一六四五)10月27日であり、晋山から約4年間の空白がある。だがこの間、正保2年1月、2月に御本尊を書写していたことが「諸記録」に残されている。

 

第20世・日典(一六一一~八六) 京都要法寺出身の貫首。字は三玄といい、生国と俗姓は不明。幼少の頃に出家し、要法寺日恩の弟子となった。後に大石寺に登り日就に師事し、敬台院の協力を得た。承応元年(一六五二)、日舜から相承を受け、要法寺出身の6人目の貫首となる。

第21世・日忍(一六一二~八〇) 京都要法寺出身の貫首。生国および俗姓などは不詳。要法寺で出家し後に大石寺で修学する。上総国(千葉県)の沼田、細草の檀林で学び、講義もおこなった。延宝元年(一六七三)に日典より相承を受け、在位8年で法を日俊に相承し、延宝8年(一六八〇)に9月4日に死去した。

 

第22世・日俊(一六三七~九一) 京都要法寺出身の貫首。生国および俗姓などは不詳。初めは日暁、後に松園本法院と称す。

幼少にして要法寺で出家し、後に大石寺で日精に随侍して修学。細草檀林にも学び第8代の化主となる。延宝8年(一六八〇)に大石寺に入り、日忍より相承を受け、天和2年(一六八二)、日蓮大聖人の第四百遠忌と日興上人・日目上人の第三百五十遠忌の法要を執行した。

 

第23世・日啓(一六四八~一七〇七) 9代続いた京都要法寺出身の9人目の貫首。

京都に生まれ、幼少の頃に要法寺日裕に従って出家。後に大石寺に登り日精に奉仕して修学する。天和2年(一六八二)、日俊より相承を受けて貫首となる。

 

第24世・日永(一六五〇~一七一五) 駿河国(静岡県)富士郡上野上条村の長、清五郎右衛門の次男として慶安3年(一六五〇)に誕生。幼少の頃に日典のもとで出家し、細草檀林に学び、後に講義もおこなう。天和3年(一六八三)に江戸の常在寺へ移り、元禄元年(一六八八)、会津実成寺に移転した。元禄5年(一六九二)、43歳で日啓から相承を受け大石寺に入る。
 
大石寺では本堂および諸伽藍を修理し、経蔵を建て明本一切経典を納めたのをはじめ、三百年間、廃絶の状態になっていた蓮蔵坊を再興した。宝永6年(一七〇九)に法を第25世・日宥に相承した後、蓮蔵坊に居住し、さらに正徳元年(一七一一)、そこを学頭寮とし、愛弟子の日寛に御書の謗義をさせるなど、講学の復興への期待をかけていた。

 

第25世・日宥(一六六九~一七二九) 栄存寿命院と称す。生国と俗姓は不明。幼年に江戸・小梅の常泉寺日顕の弟子となる。

同寺の大檀那・天英院の猶子で、細草檀林に学び、同檀林の第24代化主となる。
 
宝永6年(一七〇九)に第24世・日永から相承を受け、第25世となる。正徳2年(一七一二)、大石寺三門の造営のため幕府から黄金、材木などの寄進を受け、翌年3月には将軍・徳川家継の宣下による祈〓もおこない、代参として旗本の蒔田又三郎が登山した。享保2年(一七一七)に大石寺三門が落成し、朝日門も建立された。翌年3月、法を第26世・日寛に相承した。
 
第26世・日寛(一六六五~[七二六) 寛文5年(一六六五)に上州(群馬県)前橋の城主・酒井雅楽守の家臣である伊藤浄円の子として誕生。幼名は市之進。8歳で実母の妙真と別れ養母の妙順の手で育てられた。15歳の頃に酒井家の江戸屋敷に勤める。
 
天和3年(一六八三)の夏、門番佐兵衛(常在寺信徒)の案内で上野下谷町の常在寺に行き、84歳という高齢の日精の説法を聞いて出家することを決意したが、このときは主君の許可が得られず同年12月に出家。日精はこれより約1カ月前に死去していたので第24世・日永のもとで修行に励む。初めは日如といい、後に日寛と改めた。字は覚真、大弐阿閣梨堅樹院と号す。
 
元禄2年(一六八九)に細草檀林に入檀、生来の聡明さと日夜の努力精進によって行学ともに進み、宝永5年(一七〇八)には細草檀林の第26代の化主になり日寛と改めた。正徳元年(一七一一)、日永の命により細草檀林から大石寺蓮蔵坊に移り、学頭職に就く。以来、御書謗義、五大部文段の著述、「六巻抄」の執筆など教学の振興に力を注ぐなか、享保3年(一七一八)3月、第25世・日宥より相承を受け第26世となった。
 
在位約3年の後、享保5年(一七二〇)には日養に相承して再び学寮に入り、御書などを講じた。しかし、日養が在位約4年で死去したことにより再び登座し約4年間在位する。教学の振興とともに大石寺の堂塔伽藍の建立に努め、学頭時代には日宥の三門の建立に、また、日養の客殿建設に尽力したほか、在職中は常唱堂や石之坊の建立、大梵鐘、青蓮鉢の鋳造を完成させるなど宗門の興隆に多大な功績を残した。

 

第27世・日養(一六七〇~一七二三) 俗名は不詳。幼少の頃に出家し日俊に師事。

細草檀林に学び、同檀林の第25代化主となる。常在寺の住持を経て日寛から相承を受け第27世となるが、在位4年にして54歳で死去した。

 

第28世・日詳(一六八一~一七三四) 出雲国(島根県)松江に誕生。俗姓は不明。

同国の要法寺末である日応に従い幼年の頃に出家。後に江戸に出て常在寺の日辰に師事した。細草檀林に学び、同檀林の第32代化主となる。その後大石寺の学頭職に進み、日寛の死去の後に貫首となり、第29世・日東に相承した後は蓮蔵坊に移って「当体義抄」を講義した。

 

第29世・日東(一六八九~一七三七) 阿波国(徳島県)で誕生。父は侍医の松岡玄朴常直で幼年時代に父と登山し、日永に従って剃髪した。細草檀林に学び、同檀林の第34代の化主となる。その後、享保17年(一七三二年)、44歳で日詳から相承を受け、在位5年で石之坊に閑居。京都、大阪、因幡国(鳥取県)、阿波国(徳島県)へ弘教。帰山の後、49歳で死去した。

 

第30世・日忠(一六八七~[七四三) 山城国(京都)に誕生。父は浄源、母を妙行というが俗姓は不明。大阪の蓮興寺で出家。その後に大石寺に登り、細草檀林に学ぶ。妙蓮寺日寿の要請に応じて妙蓮寺第25代となって日芳と称すが、のちに蓮蔵坊に移り、元文元年(一七三六)、日東から相承を受け大坊に入る。元文5年(一七四〇)、報恩坊を造営し、同年11月に日因に相承。京都、大阪を行化して帰山の後、円因坊を造営した。

 

第31世・日因(一六八七~一七六九) 磐城国(福島県)黒須野に誕生。父は法久日遠、母は妙久日成。下総国の豪族であった千葉忠常の末喬。幼少の頃に出家し磐城国黒須野の妙法寺日完の弟子となる。細草檀林に学び、同檀林の第37代の化主となる。
 
上総の広瀬に後の本城寺を建立。
 
元文元年(一七三六)に大石寺蓮蔵坊に移り、元文5年(一七四〇)には日忠から相承を受けた。伊勢の亀山の城主で後に備中・松山藩主となった板倉周防守勝澄を教化した。日因は隠退の後も貫首を凌ぐほどの力、勢いがあったという。

 

第32世・日教(一七〇四~五七) 甲斐国(山梨県)一之宮に大工の棟梁・石川伊兵衛の子として誕生。父の法名は随本、母は妙本。12歳のときに日養に従って出家し、細草檀林に学び、同檀林の第43代の化主となる。
 
その後、江戸下谷の常在寺の住職となり、次いで学頭として蓮蔵坊に移って御書を講じた。寛延3年(一七五〇)、47歳で貫首となり、在位7年で報恩坊に隠居した。

 

第33世・日元(一七一一~七八) 字は日芳、のちに文貞。横山阿闇梨持宝院と称した。正徳元年(一七一一)に江戸に生まれ、幼年で出家した。父は宇田天皇の末孫で横山河内守頼信の後胤・横山七兵衛慰源武備。細草檀林に学び、同檀林の第48代の化主となる。寛延3年(一七五〇)、蓮蔵坊に移り、学頭として御書を講じた。宝暦6年(一七五六)に日教より相承を受け、同年9月19日に座替わりの儀式をおこなう。
 
在位9年で第34世・日真に相承し石之坊に隠居するが、日真が死去したので第35世・日穏に相承した。宝暦14年(一七六四)には「浅間神社」に安置する御本尊を書写するという謗法行為をしている。
 

第34世・日真(一七一四~六五) 初め日賢、のちに完孝、江戸阿閣梨守要院と称した。正徳4年二七一四)、医師の荒川氏の子として江戸で誕生。幼少の頃に日詳に従って出家し、細草檀林に学び、同檀林の第50代の化主となる。宝暦6年(一七五六)、43歳で学頭として蓮蔵坊に移り御書を講じ、明和元年(一七六四)に51歳で貫首となる。翌年7月に52歳で死去。

 

第35世・日穏(一七一六~七四) 江戸・常在寺の日和の弟子となる。享保16年、16歳で細草檀林に学び、やがて同檀林の第52代化主となる。退檀した後、下総中田真光寺に移って有明堂を建立。後に江戸の常泉寺の塔中に住み弘教。明和元年(一七六四)、49歳で学頭として蓮蔵坊に移った。
 
翌年の明和2年(一七六五)7月には仙台法難に対処するため日浄寺へ下向。ところが7月26日に日真が急逝したため帰山し、同年11月に日元から相承を受けた。明和7年(一七七〇)、日堅に相承して東之坊に隠居し、仲田の草庵において59歳で死去した。

 

第36世・日堅(一七一七~九一) 駿河国富士郡上野郷市場村で邑長の清弥一兵衛定賢の子として誕生。幼名は熊之助。8歳の時に出家の契約をし、享保11年(一七二六)に日寛に従って出家。覚隆と名乗る。
 
同年秋、日寛の死去により日詳に随従し享保16年、15歳の春、細草檀林に勤学し、43歳で同檀林の第52代の化主となる。
 
明和3年(一七六六)、50歳のときに学頭として本山蓮蔵坊に移る。明和7年(一七七〇)4月、日穏より相承を受け、大坊に入る。書院を再建し、在位7年の後、日捧に相承して富士見庵(遠信坊)に隠居。

 

第37世・日棒(*王に奉)(一七三一~一八〇三) 本極阿閣梨久成院と称す。加賀国(石川県)金沢に誕生。俗姓は不明。幼少の時に他家の養子となるが12歳の時に養父と死別。出家を志して寛保2年(一七四二)4月、実父とともに大石寺に登山して日忠の弟子となり覚浄日円の名乗る。
 
寛保3年(一七四三)春、細草檀林に勤学したが、同年10月、日忠の逝去に伴ない江戸下谷・常在寺に仮住まいをして檀林まで往復すること26年、明和5年(一七六八)4月、38歳のときに檀林の第60代の化・王となる。同7年には学頭として本山蓮蔵坊に移り御書を講じた。安永5年(一七七六)5月、日堅から相承を受け46歳で貫首となり、在位8年の後、天明3年(一七八三)4月に第38世・日泰に相承して寿命坊に隠居した。
 
天明5年(一七八五)2月に第38世・日泰が早逝したことにより、同年6月には第39世・日純上人に相承。翌天明6年、日純
 
は病身のため引退を申し出た。そのため日〓は大坊に再住することになった。寛政元年(一七八九)春、宝蔵の再建に取りかかり、翌2年に完成。寛政3年(一七九一)7月に第40世・日任に相承して寿命坊に隠居。しかし、寛政7年に第40世・日任が49歳で、次いで翌年には第41世・日文が46歳で死去したことで、寛政8年(一七九六年)10月に第42世・日厳に法を相承した。
 
ところが、またしても翌9年に日厳が50歳で死去したので、大坊に入り、3年目の寛政11年、第43世・日相に相承して寿命坊に退いた。なお、ついでながら、この第43世・日相も47歳で死去している。38世から43世までの法主は、いずれも相承後短い期間で死去したため第37世・日〓の在位は初住8年、再住6年、再々住3年の合計17年になる。

 

第38世・日泰(一七三一~八五) 駿河国(静岡県)根方東井出村に、村長の小泉甚右衛門の子として誕生。幼少の頃に日東の弟子として契約したが、日東の死去により日忠に従って出家した。
 
延享元年(一七四四)春、細草檀林に入り、明和8年(一七七一)春、41歳のときに檀林の第61代の化主となる。同年冬、退檀して江戸で弘教し、安永5年(一七七六)に学頭として本山蓮蔵坊に移る。天明3年二七八三)、相承を受けて貫首となるが、天明5年(一七八五)に死去。

 

第39世・日純(一七三六~一八〇一) 字は日明、のちに活了遠妙阿閣梨専光院と称す。武蔵国(東京都)青梅で誕生。江戸・常泉寺日喜に従って出家し、後に日穏に随侍する。細草檀林に入り、同檀林の第64代の化主となった。退檀した後、安永5年(一七七六)に常泉寺の住職になり、天明3年(一七八三)には大石寺学頭寮に移って御書を講じる。
 
天明5年(一七八五)には第37世・日俸から相承を受けたが、日純は病身のため引退を申し出た。その後寿命坊に住し、下之坊を修復して天明8年(一七八八)に隠居。日純の死去はそれから13年も後の享和元年(一八〇一)のことで、隠居したのは「病身」のみが真の理由かどうか疑問視される。

 

第40世・日任(一七四七~九五) 初め日良といい、のちに完獄長好阿閣梨要行院と称した。奥州(福島県)岩瀬で岩瀬郡の邑長・松塚七兵衛の子として誕生。岩瀬郡守屋の満願寺日達(後に下野小金井の蓮行寺に移る)に従って出家した後、日真に随侍。
 
細草檀林に入って日泰に学び、天明4年(一七八四)に檀林の第69代の化主となった。同年、退檀した後、常在寺の住職になり、天明6年(一七八六)には大石寺蓮蔵坊に移って御書を講じた。寛政3年(一七九一)、49歳で第37世・日棒から付嘱を受けた。寛政7年(一七九五)6月、第41世・日文に相承し石之坊に隠居。同年8月に49歳で死去。

 

第41世・日文(一七五一~九六) 初め日善、のちに活音孝善院と称した。江戸に生まれ、俗姓は佐藤。幼くして日因に従って出家し、三智の名を与えられた。

日因の死去の後は日穏に随侍し、細草檀林に入り、天明6年(]七八六)に同檀林の第70代の化主となる。退檀した後、江戸下谷・常在寺の住職になり、寛政5年(一七九三)9月、大石寺蓮蔵坊に移って学頭となる。寛政7年(一七九五)6月、第40世・日任から相承を受けたが、翌年8月、46歳で他界した。

 

第42世・日厳(一七四八~九七) 字は宗礼、山川阿閣梨要順院と称す。奥州仙台城下に山川平兵衛の三男として誕生。宝暦9年(一七五九)春、奥州の末寺を巡教していた日真に従って12歳で出家した。
 
宝暦12年(一七六二)から細草檀林に入り、やがて同檀林の第71代の化主となる。
 
江戸小梅・常泉寺に住し、寛政7年(一七九五)10月、学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。寛政8年(一七九六)秋、第41世・日文が死去したため大坊に入り、第37世・日〓から相承を受けた。だが、翌寛政9年(一七九七)年7月に50歳で死去した。

 

第43世・日相(一七五九~一八〇五) 字は活如、初め日衣といい、後に忍行阿闇梨尚道院と称した。奥州陸前国(宮城県)宮城郡南宮村に賀川権八の次男として誕生。
 
父親は仙台法難によって三郡を追放され、のちに赦免された人。
 
明和7年(一七七〇)、12歳のときに父と登山して日穏上人にに師事し、安永元年(一七七二)春、14歳で細草檀林に入り、寛政7年(一七九五)春、同檀林の第76代の化主となる。寛政8年(一七九六)夏、江戸小梅・常泉寺の住職となる。常泉寺では土蔵を再建し、本堂の修理もおこなった。
 
寛政11年(一七九九)春、学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。同年11月、第37世・日俸から付嘱を受け貫首となった。文化2年(一八〇五)に47歳で死去した。

 

第44世・日宣(一七六〇~一八二二) 隆順真成院と称した。江戸に生まれ、幼年で出家し、日堅の弟子となる。細草檀林に学ぶが、寛政8年(一七九六)夏、細草檀林が焼失。伴頭寮が再建され、寛政10年に細草檀林の第77代の化主となる。同年秋、退檀した後、江戸・妙縁寺に住す。

享和3年(一八〇三)には学頭となって大石寺蓮蔵坊に移る。同年10月、第43世・日相から相承を受けた。文化4年(一八〇七)8月、第45世・日礼に相承して富士見庵(遠信坊)に隠居したが、日礼が翌年5月、46歳で急逝したため同年9月、第46世・日調に相承。文化11年(一八一四)に江戸小梅・常在寺に移ったが、文化13年(一八一六)9月、第47世・日珠が48歳で死去し、文化14年(一八一七)1月には、日調が52歳で死去したことで、同年2月に第48世・日量に相承し、文政5年1月に死去した。

 

第45世・日礼(一七六三~一八〇八) 活陳、鶴岡阿閣梨樹香院、玄成坊などと称した。江戸に生まれ、石倉善六の子供。幼年の頃に母と別れて養母に育てられ、7歳で出家した。日穏の弟子となり、次いで日堅に仕えて修学。さらに細草檀林に学び、上座に進む。寛政5年(一七九三)に退檀した後、江戸・常在寺の住持となり、文化3年(一八〇六)4月、学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。翌年8月、第44世・日宣から相承を受けたが、翌文化5年に46歳で死去。

 

第46世・日調(一七六六~一八一七) 賢存といい、後に淳明、後藤阿闇梨持勝院と称した。駿河国(静岡県)富士郡下中里村に口巴長の後藤孫兵衛の五男として生まれ、幼少のときに日泰に従って出家した。細草檀林に学び、寛政8年(一七九六)夏、檀林が焼失した際には中小路紅葉寮を再建し、享和2年(一八〇二)春、細草檀林の第78代の化主となる。同年、退檀して本山に登り、久成坊に約5年ほど在住した後、文化3年(一八〇六)、江戸・常在寺の住持となり、文化5年(一八〇八)には学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。同年9月、第44世・日宣から相承を受け43歳で貫首となった。

文化10年(一八一三)には第47世・日珠に相承したが、日珠が同12年(一八一五)、病気で退座したので、再び大坊に入り、文化14年に52歳で死去した。

 

第47世・日珠(一七六九~一八一六) 日珍といい、後に覚英、覚授阿闇梨浄明院と称す。加賀国(石川県)に金沢藩の家臣・小川弥右衛門の三男として生まれた。安永6年(一七七七)に出家し、天明4年(一七八四)に細草檀林に行き、日相のもとで修学する。

文化元年(一八〇四)に細草檀林の第79代の化主となった。同年、退檀して江戸・常泉寺境内の本行坊に仮住まいをしていたが、文化3年(一八〇六)に常泉寺の住職となる。文化6年(一八〇九)に学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。文化11年(一八一四)には第46世・日調から相承を受けたが、翌12年(一八一五)、寿命坊に閑居。

翌13年に48歳で死去した。

 

第48世・日量(一七七一~一八五一) 字は一要、久遠阿闇梨本寿院と称す。駿河国(静岡県)富士郡上野郷上条に清一覚良政の三男として生まれた。天明2年(一七八二)、12歳で出家し、寛政元年二七八九)に細草檀林に行き、日相のもとで修学した。文化5年(一八〇八)春、細草檀林の第80代の化主となった。同年、退檀して江戸下谷・常在寺の住職となる。文化12年(一八一五)に学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。文化14年(一八一七)、大坊に再住していた第46世・日調が死去したので、第44世・日宣から相承を受け貫首となった。

文政3年(一八二〇)、第49世・日荘に相承し寿命坊に隠居した。天保元年(一八三〇)5月、日荘の死去に伴ない大坊に再住した。翌年、第50世・日誠に相承し、再び寿命坊に隠居。天保7年(一八三六)5月、日誠が死去したため第51世・日英に相承した。

 

第49世・日荘(一七七三~一八三〇) 字は淳道、玉川阿闇梨真就院と称す。江戸に生まれ、俗姓は玉川。幼年時に日泰の弟子として契約し、天明元年(]七八一)8月、9歳で出家。寛政3年(一七九一)に細草檀林に行き修学。文化9年(一八一二)春、細草檀林の第82代の化主となった。
 
文政2年(一八一九)に学頭として大石寺蓮蔵坊に移り、翌年の文政3年(一八二〇)、日量から相承を受け貫首となった。
 
文政12年(一八二九)冬、年礼のため江戸へ下向し、天保元年(一八三〇)5月、次への相承もせずに常在寺で死去した。

 

第50世・日誠(一七九五~一八三六) 字は慈存、武蔵阿闇梨本勝院と称す。町田吉兵衛の三男として江戸に生まれた。6歳のときに日相の弟子として契約し、享和2年一八〇二)春、日相が年礼のため下向し、帰山のときに供をして登山した。
 
日相の死去の後は第46世・日調に随侍し、文化5年(一八0八)に細草檀林に行き、文政7年(一八二四)、細草檀林の第84代の化主となった。次いで江戸下谷・常在寺の住持となり、文政10年(一八二七)、江戸小梅の常泉寺へ移る。天保元年(一八三〇)秋、大石寺蓮蔵坊に移り学頭となる。翌年9月、日量から相承を受けたが、天保7年(一八三六)に相承せずに、41歳で死去した。

 

第51世・日英(一七九八~一八七七) 字は泰久院。文化2年(一八〇五)に出家。

文化6年(一八〇九)に細草檀林に勤学、同檀林の第86代の化主となる。次いで江戸・妙縁寺に住した後、天保7年(一八三六)秋、学頭として大石寺蓮蔵坊に移り、同年5月に第48世・日量から相承を受けた。この頃、大石寺では金貸し業をおこなっていた。
 
嘉永6年二八五三)、日霑に相承し、富士見庵に移る。しかし、日霑が相承した日盛が慶応元年(一八六五)に起きた大石寺の大火の後に、誰にも相承をしないまま下之坊へ移り、その後、一時行方不明になったことで、日英が再び大坊に入る。

第52世・日霑(一八一七~九〇) 文化14年に江戸小石川(東京都文京区)に生まれた。父は水戸藩士の鈴木惣左衛門、母は喜代。11歳のときに江戸・常泉寺住職の日誠について勉学する。その後出家する意志を固め、両親の反対を押し切って天保4年(一八三三)に得度し、慈成と称した。天保5年二八三四)に細草檀林に入る。天保7年に日誠が41歳で急逝したため、日英に随侍。嘉永元年(一八四八)4月、細草檀林の第89代の化主となって妙道院と称す。同年11月、退檀して下野国(栃木県)の淨圓寺に住し、さらに江戸の妙縁寺、常泉寺の住職となる。
 
嘉永6年(一八五三)2月、学頭として大石寺蓮蔵坊に移り、同年6月に日英から相承を受けた。万延2年(一八六一)1月に出府し、2月に江戸小石川水道橋で寺社奉行の青山大膳亮に諌状を手渡し、三日間抑留された。文久2年(一八六二)に日盛が登座したので、日霑は蓮葉庵に移らざるを得なかったようだ。日霑が日盛に相承したか否かは定かでない。
 
慶応元年(一八六五)、大石寺の大火の後で日盛が相承をせずに隠遁したので、日英が再び大坊に入ったが、翌年、要請を受けた日霑が再び登座。明治2年(一八六九)になって日霑は日胤に法を相承する。
 
日霑は、明治18年(一八八五)に日布が退座した後、明治22年(一八八九)に日応が登座するまでの間、三度目の大坊入りをする。京都要法寺から北山本門寺に入った玉野日志との間で数回の書状を往復させての問答は「霑志問答」として知られている。明治23年に死去。

 

第53世・日盛(一八三一~九二) 英勝院、広道院、板倉阿闊梨泰覚と称す。天保2年、江戸京橋の滝山町に板倉治兵衛の子として誕生。俗名は寿之助。12歳のときに日英について出家、弘化2年(一八四五)に細草檀林に入り、安政6年二八五九)11月に同檀林の第92代化主となった。同年12月に大石寺学頭となる。万延元年(一八六〇)6月に檀林を出て下野国(栃木県)平井信行寺の住職として寺社奉行に上申した。文久2年(一八六二)、相承の有無は定かでないが、32歳で第53世として登座した。在位4年。
 
慶応元年(一八六五)、大石寺の大火の後、相承もせずに隠遁、大石寺を去って下之坊に移る。日盛は一時は消息も途絶え、行方不明であった。その後、平井の信行寺に滞在。明治19年(一八八六)に興門大学林林長、次いで大石寺布教会を設立し会長となる。明治23年(一八九〇)11月20日、横須賀で清水梁山と問答。静岡県に妙盛寺、長野県伊那に信盛寺を建立した。明治25年に死去。

 

第54世・日胤(一八二九~八〇) 英俊院千葉阿閣梨春賢と称す。江戸京橋に具足町に鈴木久三郎の子として誕生。10歳のときに第51世・日英について江戸・妙縁寺で出家、弘化元年(一八四四)に細草檀林に入る。安政元年(一八五四)には京都伏見の大亀谷檀林に入って勉学し、安政6年二八五九)9月には能化に進む。同年11月に大阪・蓮華寺に移る。
 
明治2年(一八六九)7月に大石寺学頭となり、同年11月には日霑から相承を受けた。在位6年にして日布に相承するが、この頃、大石寺は「日蓮宗興門派」として邪宗各派と一体であったため、在職中から退座後も再三、大石寺独立の願書などを教部省に提出、誓願した。東京の常泉寺において52歳で死去。

 

第55世・日布(一八三五~一九一九) 泰隆または広宣院川越阿闇梨泰勤と称す。武蔵国(埼玉県)入間郡石井村に誕生。父の名は下山善助。7歳のときに日英について出家、18歳で細草檀林に入る。明治7年二八七四)12月に日胤から相承を受けた。明治22年(一八八九)、日応に相承した。国柱会の山川ら謗法の者が登山した際に、御開扉をおこない、勤行したあと丁寧に御礼の言葉まで述べた。

 

第56世・日応(一八四八~一九二二) 法道院大石阿閣梨慈含、あるいは日雄と称す。山梨県山梨郡加納岩村に誕生。俗名は直次郎、父の名は名取亦兵衛。11歳のときに日霑について得度し、16歳で細草檀林に入る。
 
明治17年(一八八四)に大石寺の宗務局長に就任。福島県信夫郡に広布寺を建立したほか法道会(法道院の前身)、自蓮院、神奈川教会を設立。同19年二八八六)に大石寺学頭となり、同22年(一八八九)5月、目布から相承を受けた。同24年(一八九一)には「日蓮宗興門派」の管長となる。
 
明治33年二九〇〇)に、大石寺は「日蓮宗興門派」から分離して「日蓮宗富士派」となる。同41年(一九〇八)に日正に相承した。明治37年の日露戦争に際し、一万体にものぼる”戦勝守護の御本尊”とやらを作成して売りさばいたのに加え、「皇威宣揚征露戦勝大祈禱會」をおこない、他宗の信徒を含めて「宗祖大聖人眞筆大御本尊」を一般公開し、そこで得た参拝者の浄財を戦費として軍に献納した。

 

第57世・日正(一八六一~一九二三) 事証院宮城阿閣梨慈照と称す。陸前国(宮城県)仙台に誕生。俗名は鼎介。父の名は阿部時孝。20歳のときに仙台の仏眼寺で日応について出家。
 
明治34年(一九〇一)、顕本法華宗の本多日生と公開問答す。同40年(一九〇七)に宗務院総務となり、翌年8月に学頭、富七学林総長、同年11月に日応から相承を受けた。大正元年(一九一二)6月10日、それまでの日蓮宗富士派から日蓮正宗に改称。
 
しかし、日蓮宗各派との親交は深く大正11年9月11日、各派の管長とともに署名し、「立正大師」の盆號の降賜誓願書を文部大臣、宮内大臣に提出した。
 
同年10月13Hの宣下書拝受に際しては身延派管長の磯野日筵、顕本法華宗管長の本多日生ら各派管長と共に参内、その後、築地水交社で身延派管長の磯野日筵の導師で勤行・唱題した。

 

第58世・日柱(一八六五~一九二八) 自鑑院寂照阿閣梨慈観と称す。愛知県春日井郡外山村に誕生。俗名は正吉。父の名は小出房二郎。明治10年、13歳のときに日霑について出家。
 
大正3年(一九一四)に大石寺学頭となる。学頭職を長く勤めた後、大正12年に貫首となった。第60世・阿部日開らによるクーデターのため失脚させられた。

 

第59世・日亨(一八六七~一九五七) 慶応3年2月24日、九州久留米藩士であった堀家の長男として久留米市小頭町に生まれた。明治17年(一八八四)、17歳のときに向井市次という人物に折伏されて入信。同20年に霑妙寺の住持であった妙寿尼に従って得度。
 
折から霑妙寺の入仏式のため下向中の日霑の弟子となり、同21年5月に師に随従して登山。同22年(一八八九)10月、日蓮宗興門派大石寺学林を卒業。同34年(一九〇一)5月に東京の常在寺住職、次いで10月には浄蓮坊住職を兼務する。同38年(一九〇五)9月、東京の常泉寺住職となり、能化に進む。
 
大正15年(一九二六)に日柱の退座に伴ない第59世として登座。しかし、阿部法運(日開)らの策謀により約1年半有余で退座を決意せざるを得ない立場に追い込まれ、日開に座を譲って総本山の雪山坊に引退。
 
日亨は6歳から祖父について四書五経や軍記類を学び、出家した後は千葉の保田妙本寺、下条妙蓮寺、重須本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺をはじめ京都要法寺、身延山、それに奥州など全国の寺院を回るなどして古文書の調査研究に励む。さらには東大史料編纂所へも通って歴史、風俗などの研究も続け、宗内外でも比類無き大学匠であった。著作は『富士宗学全集』全一三四巻、『富士宗学要集』はじめ多数。また創価学会による御書の編纂に協力した。昭和32年11月23日に死去。

 

第60世・日開(一八七三~一九四三) 証行院信夫阿閣梨法運と称す。明治6年8月23日、福島県信夫郡荒井村に誕生す。俗名は運蔵。父の名は阿部庄右衛門。明治22年に日応について得度し阿部法運と名乗る。
 
出家の動機は妻の浮気であったとの説が有力である。大正10年5月、宗務院総務となる。日開は日亨を退座に追い込むための陰謀をめぐらす。
 
昭和2年11年、日亨の辞意を受け有元広賀と管長選挙を争う。壮絶な謀略戦の末に51対38票の13票差で当選を果たす。選挙後も紛糾は続き、半年後に文部省の裁定によって昭和3年6月に登座するが、この後は未聞の大謗法の限りを尽くす。日開は登座後まもなく御本尊を誤写し僧俗によって退座を要求された。
 
昭和6年、日蓮大聖人第六五〇遠忌に際して、寄付金の多寡により御本尊に差別を設け、御本尊を金儲けのために利用した。
 
また、身延山に日蓮大聖人の正墓がある旨、署名、捺印して文部省、宮内省に提出。常泉寺住職時代、下働きの女性・彦坂スマに生ませた彦坂信夫がのちの日顕である、

 

第61世・日隆(一八七四~一九四七) 一道院秀道と称した。明治7年に宮城県栗原郡宮野村に生まれた。父の名は千田東四郎。12歳で得度。昭和2年3月に宗務総監、同年11月の日亨の辞意に伴ない管長事務.取扱となる。昭和4年8月、宗務総監に再任され、昭和9年には大石寺学頭となり、翌年6月には日開より相承を受けた。
 
日柱に対するクーデターの首謀者の一人。

 

第62世・日恭(一八六九~一九四五) 信譲院筑後阿閣梨慈謙と称す。明治2年9月16日、福岡県御井郡久留米京之隅三番目に生まれた。俗名は武雄。父の名は村上成幸。12歳で出家した。
 
昭和3年に宗務総監となる。同8年に再任され、昭和11年には大石寺学頭となり、翌12年11月には日隆から相承を受けた。昭和18年、軍部政府により書院には神棚を造って天照大神を祀った。また、創価教育学会に対し神札を受けるよう迫った。昭和20年6月17口、大石寺の対面所、大奥、書院、六壷、客殿などを焼失する大火災により竃に嵌まり込み、無残な姿で焼死した。

 

第63世・日満(一八七三~一九五一) 自照院讃岐阿閣梨慈円と称す。明治6年3月5日、香川県三豊郡常盤村流岡に誕生。俗名は吾郎。父の名は秋山村治。14歳で讃岐本門寺の小笠原口芳のもとで出家した。天台宗学林で修学。明治40年二九〇七)に名古屋の妙道寺の住職となり、昭和11年(一九三六)に宗務総監となる。口恭の無残な焼死によって昭和21年(一九四六)1月、隠居していた日隆から相承を受けた。
 
終戦後、総本山は深刻な食料不足と財政難に見舞われたが、そのなか日満は山林を伐採して私腹を肥やしたと言われて辞任に追い込まれ、昭和22年7月、第64世・日昇に相承した。晩年、高知県の本因妙寺で過ごし、昭和26年に死去。

 

第64世・日昇(一八七九~一九五七年) 慈眼院摂津阿闇梨秀円と称した。明治12年9月24日、宮城県栗原郡一迫村柳之目妙教寺に誕生。俗名は水谷明。13歳の時に父・水谷日喜について出家し、のちに日応の弟子となる。
 
明治41年(一九〇八)に栃木県の淨圓寺の事務取扱を命じられてから宗会議貝、評議員に選出されること3回。次いで静岡県の本広寺、妙盛寺、長野県の信盛寺の住職を歴任の後、昭和13年9月に宗務総監に就任した。同16年9月に宗務総監に再任され、同17年1月には常泉寺の住職に就いた。同21年(一九四六)11月、学頭になり、翌年1月に大石寺に晋山して、7月18日に日満から相承を受けた。日柱に対するクーデターの首謀者の一人。

 

第65世・日淳(一八九八~一九五九) 竜谷阿閣梨信乗院日淳と称す。明治31年10月10日、長野県上伊那郡伊那町(現在の伊那市)坂下町に誕生。幼名は寿万男。父の名は堀米歴太郎。上伊那郡の信盛寺で出家し、諦栄と名乗る。
 
その後、大石寺へ昇って日正の弟子となり、泰栄と改名。東京の妙縁寺に在勤し、早稲田大学文学部東洋哲学科を卒業。神奈川教会の担任教師、百貫坊住職を経て京都の住本寺住職事務取扱に任ぜられて京都に移り、竜谷大学研究科で天台教学を研究した。庶務部長、教学部長などを歴任した後、昭和23年に宗務総監となる。同31年(一九五六)2月に学頭になり、3月には日昇から相承を受けた。翌34年(一九五九)11月16日、日達に相承し、翌17日に死去。

 

第66世・日達(一九〇二~七九) 明治35年4月15日に東京市京橋区南鍛冶町(現在の東京都中央区)で細井潔の長男として誕生。5歳の時に東京・常泉寺の日亨のもとで修行し、9歳で日正を師として出家、精道と名乗る。
 
東洋大学、日蓮宗大学、竜谷大学で学び、堺の本伝寺および東京・常在寺の住職を勤めると共に宗務院庶務部長を経て、昭和31年5月に宗務総監となる。同34年(一九五九)11月16日、日淳から相承を受けた。日達の在職中は創価学会の赤誠の外護により総本山の広大な境域は整備・拡充され、諸堂宇の改修新築がなされた。創価学会の出現がなくては考えもおよばない大石寺開創以来の、かつてない壮大な大事業であった。

 

第67世・日顕(一九二二~) 大正11年12月19日に東京・向島で生まれた。父親は”法滅の妖怪”と言われた第60世・日開だとされている。母は常泉寺で下働きをしていた彦坂スマ。認知される前の名前は彦坂信夫。
 
昭和3年に出家。同22年5月に東京・本行寺の住職になり、次いで同38年4月から京都・平安寺の住職に。同52年11月からは東京・常泉寺の住職になった。この間、昭和36年から教学部長を務め、同54年5月に総監に就任。日達上人が同年7月22日に急逝したため第67世の貫首となる。
 
平成2年12月、謀略「C作戦」をもって創価学会破壊を企てるが失敗。

 

◆出典および参考文献一覧

 

創価学会発行『日蓮大聖人御書全集』/大石寺発行『昭和新定日蓮大聖人御書』/聖教新聞社発行『大自蓮華』/創価学会発行『富士宗学要集』/中外日報社発行『中外日報』/世界之日蓮社発行『世界之日蓮』/小笠原慈聞著『日蓮正宗入門』/日蓮正宗布教會大日蓮編集室発行『大日蓮』/日蓮聖人大師號追賜奉祝事務所発行『立正大師謹號奉戴記事』/師子王文庫発行『田中智學自伝』/『静岡民友新聞』/松本佐蔵発行『正邪の鏡』/日柱上人擁護の信徒が宗務院に提出した文書11通称『上申書』/日柱上人を退座に追いやった宗会議員の発行した小冊子『正鏡』/有元推薦人一同発行『聲明書』/愛山護法同志発行『辯駁書』/日亨上人の書いた『告自』/田辺政次郎が出した『異体同心の激文』/『聖教新聞』/細井精道発行『宗報』/内務省警保安局保安課作成『特高月報』/峯雪書房株式会社発行『法眼』/日蓮宗宗務院発行『勅額拝戴宗祖六百五十遠忌要録』/株式会社佼成出版社発行『近代日本宗教史資料』/正信会報編集室発行『正信会報』/日開上人遺弟一同編集並発行『日開上人全集』/日蓮正宗総本山大石寺発行『日蓮正宗歴代法主全書』/新人物往来社発行『創価学会戸田城聖』/株式会社和光社発行『人間革命』/聖教新聞社発行『戸田城聖全集』/聖典刊行会発行『日蓮正宗聖典』/白蓮華社発行『白蓮華』/聖教新聞社発行『人間革命』/株式会社国書刊行会発行『戦時下の仏教』/東京書籍発行『佛教語大辞典』/聖教新聞社発行『日寛上人文段集』/聖教新聞社発行『六巻抄講義』/『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗布教会編)/『東京朝日新聞』/『大阪時事新報』/法道會本部文書布教部発行『法之道』/布教會本部事務所発行『法王』/日蓮正宗総本山大石寺発行『日霑上人伝』/日蓮正宗総本山大石寺発行『日興上人日目上人伝』/日蓮正宗正統興門派大本山大石寺布教會本部事務所発行『布教會報』/緑星社発行所発行『目でみる富士宮の歴史』/国柱会発行『国柱会百年史』/創価学会発行『富士日興上人詳伝』/株式会社東西哲学書院発行「日蓮正宗大石寺』/株式会社学習研究社発行『日蓮の本』/読売新聞社発行『日蓮と法華経信仰』/報知社発行『日蓮聖人』/『辯惑観心抄』(発行者・早瀬道応)/芳賀書店発行『日本の地獄絵』/株式会社平凡社発行『別冊太陽地獄百景』/聖教新聞社発行『創価学会年表』/日蓮正宗仏書刊行会発行『日淳上人全集』/吉川弘文館発行『日本仏教史近世』/富士学林発行『日蓮正宗富士年表』/日本仏教学会西部事務所発行『日本仏教学会年報』/大東出版社発行『國譯一切経』/講談社発行『日本大蔵経』/『日蓮宗宗学全書』/同朋舎発行『真宗史料集成』/第三文明社発行『宗門問題を考える』/立正大学日蓮教学研究所『日蓮教学研究所紀要』/講談社発行『現代語訳親鶯全集』/日蓮正宗宗務院発行『日蓮正宗教師必携』/日本印度学仏教学会発行『印度学仏教学研究』/真宗典籍刊行会発行『真宗大系』/同朋社発行『龍谷大学善本叢書』/身延山専門学校出版部発行『本尊論資料』/平河出版社発行『道教の神々』/立正大学仏教学会発行『大崎学報』/法蔵館発行『日本宗教史研究2布教者と民衆との対話』/岩波書店発行「近世仏教の思想』/平楽寺書店発行『日蓮教学の諸問題』/日蓮宗和党会発行『日蓮宗葬儀の手引』/同朋社発行『史窓』/立正安国会発行『日蓮大聖人御真蹟御本尊集』/名著出版発行『葬送墓制研究集成第三巻先祖供養』/大法輪閣発行『葬式仏教』/山喜房仏書林発行『浄土宗大辞典』/大石寺発行『日興上人身延離山史』/聖教新聞社発行『仏教哲学大辞典』/評論社発行『江戸幕府の宗教統制』/海秀舎発行『興門教学の研究』/株式会社吉川弘文館発行『国史大辞典』/中公文庫発行『江戸から東京へ』/東京市本所区発行『本所区史』/会長就任七周年記念出版委員会発行『会長冩真集』/日本評論社発行『天皇制国家と宗教』/目蓮正宗仏生山蓮華寺発行『仏生』/株式会社丘書房発行『巣鴨プリズン記念写真集』
 
◆写真提供共同通信社

 

Untold History – Foreword

In Nichiren Buddhism, the most powerful and harmful of “the three powerful enemies”[1] is “the arrogance and presumption of those who pretend to be sages.” At the end of December 1990, the chief administrator and high priest of Nichiren Shoshu, Nikken Abe, revealed his true nature by behaving in just such a manner.

The year 1990 marked the 700th anniversary of the founding of head temple Taiseki-ji by Nikko Shonin. Nikko had left Mount Minobu with the aim of widely propagating Nichiren Buddhism. In October 1990, Soka Gakkai members, who are the disciples of the Buddha, gathered with pure faith at Taiseki-ji to participate in the auspicious, commemorative events.

At this very same time, however, beneath the surface of these celebratory events, Nikken and his associates were secretly looking for an opportunity to implement a plan they called “Operation C.”

As is well known by now, Operation C was a scheme to force the Soka Gakkai to oust Honorary President Daisaku Ikeda—to “cut” the president from the community of believers. If that turned out to be impossible, the plan was to excommunicate the Soka Gakkai as a whole. The eventual goal was to compel each member of the Soka Gakkai to leave the lay organization and become a member solely of a Nichiren Shoshu temple.

It has become obvious that more Operation C steps were taken by Nikken to make Gakkai members submit to his authority. He prohibited them from visiting the head temple to see the Dai-Gohonzon and he halted conferral of Gohonzon upon Gakkai members. Ultimately, he proclaimed that Gakkai members could never attain Buddhahood as long as they stayed with the Soka Gakkai.

Despite such opposition, members remained loyal to the Soka Gakkai. They successfully weathered the persecution stemming from “the arrogance and presumption of those pretending to be sages.” On November 28, 1991, Nikken and his priesthood, in another attempt to disrupt the unity of the members, excommunicated the entire Soka Gakkai. The organization remained unshaken, however, and Gakkai members deepened their faith in Nichiren Buddhism more than ever.

The members could clearly perceive that the Soka Gakkai is based on the Buddha’s will and decree to accomplish kosen-rufu, and that they themselves were the Bodhisattvas of the Earth. They sensed their profound connection with the founding Soka Gakkai presidents. They felt conviction in the nobility of their identity as Gakkai members derived from their understanding of the real history between the laity and the priesthood.

Before the Soka Gakkai’s emergence, Nichiren Shoshu was a small, weak school of distorted Nichiren Buddhism, just like the other Nichiren sects guided mainly by Kuon-ji, the temple located at Mount Minobu. The real history of Nichiren Shoshu has been a process of purification of the school resulting from the unparalleled faith of the Soka Gakkai’s three founding presidents. Nichiren Daishonin’s correct Buddhist teaching almost perished in Nichiren Shoshu but for the Soka Gakkai, which revived it, as the means to provide the most creative way of life amid the harsh realities of society.

When first Soka Gakkai president Tsunesaburo Makiguchi emphasized the theory of punishment, based upon the principle of gain and loss expounded in Nichiren Buddhism, the priesthood vehemently opposed it. The concept of retribution was nonexistant within Nichiren Shoshu’s understanding of Nichiren Buddhism.

The priesthood contended: “All believers of Nichiren Shoshu are already enlightened as they are. There is no way the enlightened would receive punishment.” Hokkeko[2] members also rejected Mr. Makiguchi’s theory of punishment, readily accepting the priesthood’s position. The priesthood wanted to keep believers dependent on the priest’s and priest’s prayers, and focused on soliciting large offerings at funerals and memorial services. They were not interested in members awakening to faith, devoting themselves to studying Nichiren Buddhism, or their committment to carrying out the daily practice of sutra recitation and chanting of Nam-myoho-renge-kyo—which the Gakkai did more assiduously than priests.

President Makiguchi emphasized the theory of negative effects all the more, resolutely determined to wipe out the shallow, erroneous understanding of Nichiren Buddhism rooted in the priesthood. He contended: “‘Those who vex and trouble [the practitioners of the Law] will have their heads split into seven pieces’ is written on the Gohonzon. Doesn’t this refer to the theory of punishment?”

Mr. Makiguchi also said: “Nichiren Daishonin states, ‘There are four kinds of punishment: general and individual, conspicuous and inconspicuous. The epidemics and famines that have attacked Japan, as well as the strife within the ruling clan and the foreign invasion, are general punishment. Epidemics are a form of inconspicuous punishment. The deaths of Ota and the others are both conspicuous and individual’ (The Writings of Nichiren Daishonin, vol. 1, p. 997). Doesn’t this refer to the theory of punishment?”

Mr. Makiguchi’s statements were like the roar of a lion king. Eventually, a few Nichiren Shoshu priests came to understand the theory of punishment and the power of the Law expounded in Nichiren Buddhism.

But because Nichiren Shoshu in general did not grasp this concept, it pathetically succumbed to pressure from the military government during World War II, disregarding the spirit of “never begrudging one’s life” and abandoned the correct teachings of Nichiren Daishonin. The priests expelled the leaders of the Soka Kyoiku Gakkai (the original name of today’s Soka Gakkai organization), treating them as nonbelievers. Additionally, they expelled Renjo Fujimoto, a priest who shared Mr. Makiguchi’s views. Nichiren Shoshu took all these actions in fear of govenment authority that was guided by national Shintoism.

Nichiren Shoshu had long ago lost Nichiren’s spirit to remonstrate with the misguided nation. Back in the Edo period (1603–1867), the priesthood had been given an official role in governing the populace and was satisfied with this role. At the very core of its existence, Nichiren Shoshu had developed the cowardly tendency to submit to governmental authority.

The corruption could be seen on an even deeper level, as they turned Buddhism into merely a religion whose sole purpose was to conduct funerals for lay followers. Following the lead of other erroneous Buddhist sects, Nichiren Shoshu went on to create a nefarious object it called the doshi Gohonzon[3]doshi means “a guide”—whose only purpose was to be enshrined for funeral ceremonies. It is unlike any Gohonzon inscribed by Nichiren.

Claiming that no one could attain Buddhahood after death without the inclusion of this special Gohonzon in the funeral service, Nichiren Shoshu priests behaved as if they alone had special powers to enable the deceased to attain Buddhahood. They steered living lay believers toward obediece by professing that they would all equally attain enlightenment. But when believers died, the priesthood intimidated the surviving family members, saying that only the priesthood’s prayers could enable the deceased to attain Buddhahood.

Immoral Nichiren Shoshu priests not only used the sham doshi Gohonzon as a tool to solicit offerings from families of the deceased but also indiscriminately issued the hand-inscribed joju Gohonzon without any standard of faith or practice in order to solicit more offerings from lay believers. Joju means “eternally dwelling.” Many longtime danto (Hokkeko) families residing in the vicinity of Taiseki-ji possess joju Gohonzon that were transcribed by various high priests, and regard them no more seriously than they might nice artwork. Even today, they say without hesitation, “As long as we make offerings to Taiseki-ji, the high priest will easily transcribe joju Gohonzon for us.”

In the early 20th century, during the time of the Russo-Japanese War, Nichiren Shoshu enshrined one of Nichiren Daishonin’s original Gohonzon so that anyone could pray before it for victory in the war. Additionally, they indiscriminately issued more than 10,000 okatagi (woodblock—printed) Gohonzon, including to non-believers, bearing an inscription dedicated to victory in the war.

At the turn of the thirteenth century, Nikko Shonin, the founder of Taiseki-ji, stated: “It is said here and there that some disciples (of our deceased mentor) are treating the Gohonzon inscribed by our mentor lightly, having it carved on a plank of wood and bestowing it upon those who are without faith. Niko and Nisshun are doing such a thing. In contrast, I, Nikko, transcribe the Gohonzon most respectfully and bestow it only upon my disciples, both lay believers and priests, who uphold the teaching without begrudging their lives, or who have suffered scars, or who were banished from their residence, or who have otherwise shown some faith” (The Guidelines for Believers of the Fuji School).

Successive high priests of Nichiren Shoshu misused the Gohonzon in a manner unbefitting the disciples of Nikko. Nichiren Daishonin’s strict teaching of admonishing slanderous acts and the spirit Nikko exhibited when he left Mount Minobu had both been lost within Nichiren Shoshu long before the Soka Gakkai’s emergence. Slanderous teachings and corruption were prevalent throughout the history of Taiseki-ji.

Taiseki-ji seemed to be slowly correcting its behavior after the appearance of the Soka Gakkai, but, in truth, its insidious latent tendency remained and resurfaced in the form of the insane scheme by Nikken and his associates. Nikken displayed the behavior of persecuting those who propagate the Law—“the arrogance and presumption of those who pretend to be sages.”

Nikko stated in a writing titled “Reply to Mimasaka-bo,” “When the lord of this land disobeys the Law, I will no longer dwell here, either.” He chose to depart from Mount Minobu (in spite of its close connection to Nichiren Daishonin) because he had inherited his mentor’s spirit to severely rebuke slander. Just as Nikko left Minobu, Nichiren Daishonin’s spirit has left Taiseki-ji, a place now governed by high priests who commit slanderous acts and persecute the Buddha’s disciples.

The immediate reason for Nikko’s departure was the slanderous action of the lord of the Minobu area, Hakiri Sanenaga. It was the priest Minbu Niko, however, who had influenced Sanenaga—because Minbu Niko taught him slanderous doctrines, Sanenaga’s faith was ruined. For instance, Niko had distorted Nikko’s admonition that disciples should not visit shrines of erroneous Buddhist schools, alleging to Sanenaga that Nikko was ignorant of the essence of Buddhism. Nikko wrote of the accusations made against him by Minbu Niko in “Reply to Hara”:

“It is written throughout ‘On Establishing the Correct Teaching for the Peace of the Land’ that the protective, benevolent deities will leave this country. But Byakuren Ajari (Nikko) only reads non-Buddhist writings, remaining ignorant of the essence of Buddhism. If a follower of the Lotus Sutra visits a shrine, the benevolent deities will also visit it. Hence you should visit it most respectfully.”

Regarding Minbu Niko distortions, Nikko wrote, “I, [Nikko], know that this behavior of Niko is a function of the heavenly devil (king devil of the sixth heaven) and therefore I am not frightened in the least. The benevolent deities say that they will abandon a slanderous country. Niko, even though a disciple propounds a different teaching, saying that they will come to any shrine if the follower of the Lotus Sutra should visit it. I, Nikko, feel it is difficult not to be punished for such slanderous behavior. I affirm that, from now on, I will banish such a study chief” (“Reply to Hara”). Nikken and his associates are committing the same sort of error as Niko did centuries before.

The Nichiren Shoshu priesthood contends that Nikken possesses the same life condition as Nichiren Daishonin. They diminish Nichiren Buddhism, worshipping Nikken’s ridiculous remarks as though they were the Buddha’s words, and advocating the erroneous teaching of “the high priest’s sole possession of the heritage of Buddhism” to justify their authority.

It is a fact that Nikken had a tomb erected at a Zen temple. The tombstone bore the inscription, “I, Nikken, have built this tomb for the enlightenment of the successive descendants of our family.” When criticized for this, Nikken brushed it off, saying, “I merely conducted a memorial service at my relative’s tomb that happens to have been built in a cemetery that shares space (with that temple).”

It is also a fact that Nikken hired a prostitute in Seattle. And he frequently consorted with geisha girls; as a case in point, a photo taken at an extremely expensive Japanese restaurant in Akasaka shows Nikken posed with several geisha. He displayed no sense of shame when these facts were revealed, even though at the time he held the supreme position of responsibility as high priest.

Nikko described how debased Minbu Niko had become: “Referring to April 8 as the date of the Buddha’s birth, [Niko] gave a lecture one night at a lay priest’s quarters. Niko not only received a monetary offering but also enjoyed sake there. The lay priest, sensing Niko’s desire [for drink], called on his wife and child to serve him the sake. Becoming drunk, Niko indecently raised his voice, which caused all those who heard him to ridicule his followers and associates. This is indeed shameful. No shame greater than this has ever befallen Nichiren. This is well known in society. Everybody knows about this” (“Reply to Hara”).

Nikken’s propounding slanderous teachings and engaging frequently in sexual escapades is identical in nature to that of Niko.

“You should be aware that the doctrine we uphold teaches that it will be a mistake if you do not abandon the teacher who opposes Nichiren Shonin” (“Reply to Hara”).

In light of this teaching, we should abandon all slanderous teachers. Soka Gakkai members are truly the Buddha’s disciples, and they have abandoned Nikken and have left Taiseki-ji. The truth is that Nikken and his priesthood were virtually excommunicated from the company of Nichiren Daishonin’s true disciples.

That is the point of this book .

November 28, 1993

Yu Fuwa, Editor of Jiyu

[EDITOR’S NOTE: Most successive high priests mentioned in this book will have the number of their term in office noted in brackets following their name. The Writings of Nichiren Daishonin will be referenced as WND followed by volume and page.]

 

[1] As described in the Lotus Sutra, there are three types of arrogant people who persecute those who propagate the sutra. (1) “The arrogance and presumption of lay people.” (2) “The arrogance and presumption of members of the Buddhist clergy” or arrogant priests. (3) “The arrogance and presumption of those who pretend to be sages” or arrogant false sages. This third category is described as priests who pretend to be sages and who are revered as such, but when encountering the practitioners of the Lotus Sutra become fearful of losing fame or profit and persecute them.

[2] Hokkeko refers to members of the Nichiren Shoshu lay organization or Danto. Hokkeko is translated as “Lotus School.” When the Soka Gakkai was founded in 1930, it formed its own lay organization affiliated with Nichiren Shoshu but not the Hokkeko.

[3] The doshi Gohonzon has inscriptions representing the “officials of hell,” where the dead dwell, not found on any other of Nichiren’s Gohonzon nor in any of his writings. The doshi Gohonzon is based on a superstitious view of hell, where the ten kings of hell dwell, that had become increasingly popular among Japanese in the 16th century. According to this folk belief, the dead will be judged by the ten kings of hell on ten “judgment days”: the seventh day after a person’s death, the fourteenth day, the twenty-first day, the twenty-eighth day, the thirty-fifth day, the forty-second day, the forty-ninth day, the one hundredth day, the one year anniversary, and three year anniversary. Using this superstition, priests encouraged believers to conduct a Buddhist memorial service on each occasion in order to collect offerings.

Chapter 1: The Fallacies Behind Nichiren Shoshu’s

Introduction

By emphasizing formalities, a religious body may use them to become authoritarian. In the process, it can lose its compassion to save people. The teaching of the Law as originally expounded by the Buddha to bring happiness to the people will lose its original power if used as the basis for the authority of the religious order.

When this happens the teaching of the Law is then utilized by those who hold power and authority to control their followers, rather than for the people’s happiness and wellbeing. In the Nirvana Sutra, Shakyamuni Buddha expressed his concern about what would happen to the teaching of the Law after his demise, in the Latter Day of the Law. In this sutra, Shakyamuni foretold the evil actions that would be taken by priests in the defiled Latter Day. He predicted that their evil deeds would be carried out through the misuse of the very Law that the Buddha had expounded.

The Nirvana Sutra reads: “After I have passed away . . . [After the Former Day of the Law has ended and] the Middle Day of the Law has begun and there will be monks who will give the appearance of abiding by the rules of monastic discipline. But they will scarcely ever read or recite the sutras, and instead will crave all kinds of food and drink to nourish their bodies. Though they wear the clothes of a monk, they will go about searching for alms like so many huntsmen who, narrowing their eyes, stalk softly. They will be like a cat on the prowl for mice. And they will constantly reiterate these words, ‘I have attained arhatship!’ Outwardly they will seem to be wise and good, but within they will harbor greed and jealousy. [And when they are asked to preach the teachings, they will say nothing,] like Brahmans who have taken a vow of silence. They are not true monks—they merely have the appearance of monks. Consumed by their erroneous views, they slander the correct teaching” (The Nirvana Sutra, quoted in “The Opening of the Eyes,” WND, vol. 1, p. 275).

Both good and evil priests speak about the teachings of the Buddha. At a glance, it is not clear which priests are correct and which are erroneous. What is the standard by which to judge? Whether they are good or evil should be based upon the actions they take to relieve the suffering of people. From that viewpoint, it becomes easier to judge who is the true votary of the Lotus Sutra. The true votary is devoted to the sacred mission of bringing absolute happiness to the people, while holding the perspective that every human being innately possesses the seed of enlightenment in his or her life.

Evil priests, however, exploit Buddhism in order to strengthen their authority. They use it as a tool to discriminate against people. They divide the people from the Buddha. While behaving as impeccable clergymen, their true nature is evil. This point applies even to the religious school that seemingly upholds the correct Law and teachings.

Today, if we observe other Buddhist schools in Japan it is obvious that they are becoming more democratized and are reducing their authority. Nichiren Shoshu, however, runs counter to this general trend. Ironically, Nichiren Shoshu is the sect most promoting authoritarianism in opposition to the rise of the Bodhisattvas of the Earth.

Where does the oppression of Nichiren Shoshu come from? It derives from the incorrect view of the heritage of Nichiren Buddhism. Nichiren Shoshu’s insanity stems from the idea that the high priest alone inherits the lifeblood of Buddhism. Until this incorrect view is rectified, Nichiren Shoshu will remain a corrupt sect.

The concept of a “heritage of Buddhism” has been the concern of many Buddhist sects. Any priest regarded as the inheritor of the heritage easily attains special status within a Buddhist order, and it is the erroneous view of the heritage of Buddhism that guarantees that status.

The chief administrator (high priest) of the Higashi Hongan-ji School of Jodo Shinshu (Pure Land school) once possessed unparalleled power and authority in Japanese religious society. Historically, he exerted extraordinary influence over both secular and religious matters.

The chief administrator position of this school has been inherited through the lineage of the Otani family, which carried on the bloodline of its founder, Kyonyo (1602). The Otani family was also related to the Japanese Imperial Family. In the Hokuriku area, where the Otani family is overwhelmingly powerful, lay believers of this school would drink the chief administrator’s bathwater when he visited the area to propagate the school’s teachings. The high priest of the Higashi Hongan-ji School was worshipped as a living Buddha who inherited the legacy of Kyonyo.

Today, however, the Otani family is steadily on the decline. Because of internal reforms, the position of chief administrator is no longer considered absolute in the Higashi Hongan-ji School. Currently, no one in the school would regard its chief administrator as a living Buddha.

The authority of the Otani family, once looked upon as no less significant than the emperor’s family—in fact, the wife of former emperor Hirohito and the wife of former chief administrator Mitsuaki Otani were sisters—has declined as the school has moved toward democratization.

The Higashi Hongan-ji School example is symbolic of the wave of democratization of Japan’s religious world. Other Japanese religious schools are going through similar changes—the distorted, illusory view of the heritage is being rejected. The idea that the Buddha’s heritage is a criterion for inequality among the people is being rejected even in schools that don’t embrace Nichiren’s teachings.

We can see, then, that Nichiren Shoshu is extremely anachronistic in the Japanese religious world. In Nichiren Shoshu, the high priest also performs the role of chief administrator, which means he possesses both the utmost religious authority and the utmost administrative and political power within the school. This centralized power is enormous, incomparable in Japanese religious circles today. For this reason, the high priest’s actions remain unchecked, no matter how insane they may become.

Those in the Nikken sect respond, “The high priest’s role in Nichiren Shoshu has a doctrinally special meaning, and it is completely different from the role of the high priest in heretical sects.” But, traditionally, the positions of high priest and chief administrator held the same significance in all Buddhist sects.

Historically speaking, the chief administrator of the aforementioned larger and more influential Higashi Hongan-ji School possessed supreme authority more powerful than that of the high priest of the smaller and weaker Nichiren Shoshu. Nonetheless, Higashi Hongan-ji steadily underwent democratization. This occurred because most of the leaders came to understand if a religious organization does not embrace people’s opinions it will lose its raison d’être in society. They developed this awareness because they wanted to continue propagating the school’s teachings.

In Nichiren Shoshu, however, the priests, who had rarely engaged in propagation, not only distanced themselves from the times but also acted in opposition to the rest of society. It was the Soka Gakkai that shouldered the mission of propagating the Law.

Nichiren Shoshu had established a religious authority completely detached from societal reality, a fact that underlies the foundation of their existence. Put another way, Nichiren Shoshu cloaks itself in assumed religious authority to try to offset its lack of power in society. This has become more conspicuous in recent years, fueled by the school’s distortion of the heritage of Buddhism and deification of the high priest.

First, it is important to note that such absolute power and authority—where the high priest is regarded as a living Buddha—did not previously exist in Nichiren Shoshu.

The main hall of Yobo-ji temple in Kyoto. Nichiren Shoshu imported their high priests from this Minobu-related sect for nearly a hundred years beginning in the early 17th century.

As I will explain later, various historical incidents demonstrate that the high priest is not a holy entity but rather a mundane administrator. For example, it happened that high priests were recruited from another sect because Taiseki-ji could not find a suitable candidates within its own school. Another high priest, Nitchu-[58th], was ousted from his position in a coup. And the next high priest, Nichiko-[59th], was chosen by election, based on an order from the Minister of Education to remedy a confrontation between two camps within the school.
Nichiko was later forced to resign because he could no longer fulfill his responsibility as high priest due to the malicious treatment he received from other senior priests. The next high priest, Nichikai-[60th], was chosen through an election mired in bribery and threats.

Even before the days of these high priests, Nichiren Shoshu possessed nothing remarkable in terms of authority and power. It was formerly called the Nikko School of the Nichiren Sect, a tiny Buddhist order with jurisdiction over only 50 local temples. It held so little influence over the history of Japan that it could not be even closely compared with the power and authority of the chief administrator of Higashi Hongan-ji School.

“The Twenty-Six Admonitions of Nikko” states “Do not follow even the high priest if he goes against the Buddha’s Law and propounds his own views.”

As is clear from Nikko Shonin’s statement that protecting the Law is more important than the authority of the high priest. Accordingly, there is no social or religious reason to justify the conferral of absolute power and authority upon the high priest of Nichiren Shoshu. Occasionally, over history, the position of high priest was given new powers to bolster a weak leader who would then become despotic, but it was an exception to the general rule.

Nikko regarded the position of high priest to be subordinate to the Law, but in recent years, Nichiren Shoshu has elevated the position to an extraordinary degree. This has been done in order to emphasize the priesthood’s significance and to consolidate the power and authority of the school.

Such actions are in contrast to the Soka Gakkai, which is based on the people. To make priests seem better and more important than ordinary people, the priest-centered Nichiren Shoshu actually revised its rules and bylaws to institutionalize the absolute authority of the high priest, going against the modern democratic trend. Nichiren Shoshu will isolate itself from Japan’s religious community unless it can achieve reformation from within.

Corrupted by their overemphasis of the sole transmission of the heritage through the lineage of successive high priests, no one in Nichiren Shoshu could utter a word against Nikken’s unilateral mismanagement of the school. Even Nichiren Shoshu’s own traditional doctrine has perished due to Nikken’s “holy” teaching.

It is uncertain how long Nichiren Shoshu’s dark days will last. It will never revive unless its priests sincerely listen to the voices of the Soka Gakkai members, who are devoted day and night to spreading Nichiren Buddhism. The priests must humbly and courageously reform the school from within, employing apology and self-reflection.

Otherwise, Taiseki-ji will continue to decay as a heretical temple that can only boast of storing treasures related to Nichiren Daishonin and of its historic connection to Nikko Shonin. It will become just like the Minobu School, noteworthy because it was once a hallowed site where Nichiren Daishonin had lived. Taiseki-ji has become heretical through the erroneous teachings of Nikken and will soon reveal to the world its decadence and ugliness.

In Chapter One, I will relate how some high priests acceded to their office. It will become evident how groundless it is for the Nikken sect to maintain that the high priest alone possesses the living essence of the Buddha, and that the water of the Law has flowed solely from high priest to high priest over the centuries.

The future of Nichiren Shoshu becomes clear when we recount how slanderous, corrupt and destitute Taiseki-ji had been before the appearance of the Soka Gakkai.

Recruiting High Priests From the Slanderous Yobo-ji Temple

In the late sixteenth century Nissho-[15th], came from Yobo-ji, a temple in Kyoto that belonged to a different Nichiren school.

Yobo-ji started out as Jogyo-in, founded by Nichizon, a disciple of Nikko. Nichimoku, the successor to Nikko, had died in Mino (in today’s Gifu prefecture) while on his way to Kyoto to remonstrate with the emperor. Nichizon, who had been journeying with Nichimoku, continued on to Kyoto and remonstrated with the emperor. Nichizon remained in Kyoto and later built Jogyo-in. In time, however, he came to oppose Nichiren’s teachings, and he installed a statue of Shakyamuni at Jogyo-in along with statues of Shakyamuni’s ten major disciples.

Jogyo-in later combined with Juhon-ji—a temple opened in Kyoto by Nichidai, Nichizon’s disciple—and became Yobo-ji. It was Kozo-in Nisshin who established this joint temple. Nisshin wrote treatises titled: A Discussion on Making Statues and A Discussion on Reciting the Sutra. In A Discussion on Making Statues, he insisted that Shakyamuni’s statue should be the object of worship. In A Discussion on Reciting the Sutra, he expounded the erroneous idea that recitation of all 28 chapters of the Lotus Sutra are necessary—the Fuji school advocates only recitation of portions from the “Expedient Means” and the “Life Span” chapters.

Nissho, the 57th high priest, transferred the heritage to lay believers.

Kozo-in Nisshin’s erroneous teachings are the basis of Yobo-ji doctrine. In 1558, when Kozo-in Nisshin wrote A Discussion on Making Statues, he asked Nichiin-[13th], to start an exchange with other Nikko schools, but Nichiin refused.

An exchange between Yobo-ji and Taiseki-ji did start, however, during the time of the next high priest, Nisshu-[14th]. Among the Yobo-ji priests invited was one named Nissho, who became Nisshu’s successor as high priest only two years after first visiting Taiseki-ji. This is confirmed in accounts from The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School.

In effect, then, Taiseki-ji had recruited a senior priest from Yobo-ji. Not only that, there was an instance where Yobo-ji sent another priest to Taiseki-ji when Nichiren Shoshu was in need of prospective priests. The purpose was to enable Taiseki-ji to prosper but it also gave Yobo-ji the upper hand in their relationship.

Nichiko Hori-[59th] openly discussed this historical fact in an interview in the November 1956 issue of The Daibyakurenge (the Soka Gakkai’s study magazine:

Nichiko Hori: There was a relationship between Yobo-ji and Taiseki-ji during the time of High Priest Nichiu. In addition, Nisshu of Taiseki-ji developed a relationship with the Yobo-ji chief administrator. Kuritaguchi no Sei, a powerful member of a prominent family, was instrumental in helping establish this relationship. Taiseki-ji went on to welcome many priests from Yobo-ji. It considered inviting Nissho, a famous Yobo-ji priest, who was a first-class scholar under Nisshin. He was famous in Kyoto. Invited by court nobles all over Kyoto, Nissho lectured in court circles and was invited to lecture at the Imperial court. He could expound on all kinds of subjects other than Buddhism, even on Shintoism. Nissho was a useful individual, and it was said that Taiseki-ji would prosper with him as high priest, but Yobo-ji would not let him go, for he was also very valuable to Yobo-ji.

The Daibyakurenge: Taiseki-ji took in another priest instead of him, right?

Nichiko Hori: Another priest, whose name was also Nissho (although spelled with a different Chinese character), came to Taiseki-ji. This Nissho was also very capable in many ways.”

We can see that high priests of Nichiren Shoshu were often recruited from Yobo-ji through the auspices of the influential Kuritaguchi no Sei.

The Daibyakurenge: One after another, priests from Yobo-ji assumed the role of chief administrator at Taiseki-ji, isn’t that right?

Nichiko Hori: Yes, in all, nine high priests in a row. At first, the priests who came to Taiseki-ji from Yobo-ji were well established. But after the 17th high priest, Nissei, the situation changed. Nissei came to Taiseki-ji while still young. After arriving at Taiseki-ji, he went to Edo and became successful. The priests who came to Taiseki-ji prior to High Priest Nissei had already matured as priests, while those after Nissei essentially grew up as acolytes at Taiseki-ji, [under his erroneous teachings].

The Daibyakurenge: It means that these acolytes didn’t contribute much to Taiseki-ji at first, doesn’t it?

Nichiko Hori: Right. Concerning the Yobo-ji doctrine, these young priests did not bring it to Taiseki-ji. Nonetheless, remnants of the Yobo-ji doctrine remained at Taiseki-ji. It was High Priest Nisshun, who had also come from Yobo-ji, who completely erased Yobo-ji’s influence from Taiseki-ji.

The Daibyakurenge: High Priest Nisshun set aside all the Buddhist statues, eventually destroying them.

Nichiko Hori: Yes, he got rid of the Buddhist statues.

It is noteworthy that Nichiko confirms how the negative Yobo-ji influence remained at Taiseki-ji.

Even though Yobo-ji regards Nichiren Daishonin as the founder of Nichiren Buddhism, its doctrine differs completely from that of Nichiren Shoshu. The fact that a priest recruited from Yobo-ji became high priest of Taiseki-ji only two years after he arrived is inexplicable in light of Nichiren Shoshu’s current stance on the absolute authority of the high priest.

Nissei Erects Statues of Shakyamuni

Nine consecutive high priests—Nissho-[15th], Nichiju-[16th], Nissei-[17th], Nichiei-[18th], Nisshun-[19th], Nitten-[20th], Nichinin-[21st], Nisshun-[22nd] and Nikkei-[23rd]—came over from Yobo-ji.

Nissho-[15th] and Nichiju-[16th] took office at Taiseki-ji after having been recruited as senior priests. The rest coming from Yobo-ji had transferred to Taiseki-ji as acolytes. In those days, however, many senior priests other than those who became high priests also transferred over, so the influence of Yobo-ji’s erroneous teachings must have been pervasive at Taiseki-ji.

In fact, Nissei-[17th], who apparently remained under the influence of Kozo-in Nisshin, actually erected statues of Shakyamuni at Taiseki-ji and promoted the erroneous teaching of venerating Shakyamuni.

Reading Nichiko’s Daibyakurenge interview, it is surprising to find him so candid in answering questions about the heritage of the school. We can see that he viewed the heritage and the position of the high priest to be transparent to the public. Nichiko’s perspective was very different from that of the Nikken sect, who feels that the high priest is “the Daishonin of the modern times” and that the laity must follow the priesthood without question.

The historical truth revealed by Nichiko Hori demonstrates the error of Nichiren Shoshu’s current contention that the high priest is the sole inheritor of the Law.

High Priest Nichijo Abandons His Responsibilities and Vanishes

The Nikken priesthood calls the position of chief priest of Taiseki-ji “the seat of the high priest.” The person in this position—regardless of character—is called “Geika (ultimately respectable),” or “Gozen-sama (His Majesty),” or “Lord of the Chair.” This is maintained even if he proves himself to be the leader of the three powerful enemies or a “Law-devouring hungry spirit.”[1]

But what do you call a high priest who abandons his position and disappears?

It must have been grave event indeed when the high priest, without having transferred the heritage to his successor, vanishes one day from the head temple. Even if it was a destitute temple where few believers visited, it is still unthinkable. Yet, during the Edo Period, this actually happened.

Nichijo-[53rd] was the one who disappeared from Taiseki-ji while still in office in 1865. The background story is very complicated.

Nichijo had been high priest for two and a half years, but then had to resign largely because of a fire that had ravaged Taiseki-ji.

It seems that around the time Nichijo took office there had been a conflict with his predecessor, Nichiden-[52nd]. Nichiden visited Edo to rectify this situation but returned to Taiseki-ji upon hearing about a fire that occurred there. To avoid encountering Nichiden, Nichijo retired to a neighboring temple, Shimono-bo. Later, he disappeared from Shimono-bo, and his whereabouts were unknown.

Nichiden’s own recollection of this incident is written in Organizational Publication for Propagation, Nichiren Shoshu’s Meiji Period publication. A correction was eventually added to his report, and a vital part of the story was erased.

In conjunction with this history, Nikken made a statement in June 1989, the 100th anniversary of Nichiden’s passing, claiming that there was a part of Nichiden’s memoir that should not be made known to lay believers. Thus, Nikken admits that part of the history of Nichiren Shoshu needs to be covered up.

The conflict between Nichiden and Nichijo took place between the end of the Edo period and beginning of the Meiji era (1868–1912). It intensified half a century later in the Showa period (1926–1989) in the form of hatred between the Renyo-an Group (Nichiden’s disciples) and the Fujimi-an Group (Nichiei and Nichijo’s disciples).

The following is an outline of Nichijo’s personal history:

He was born in Edo (now Tokyo) on October 11, 1831, and became an acolyte under Nichiei-[51st] in October 1842. He became chief priest (53rd high priest) of Taiseki-ji in October 1862, at 31. Youthful Nichijo was the successor to the 46-year-old Nichiden.

But there is a very serious question as to whether Nichijo truly received the heritage from Nichiden.

The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School reads, “In December (note: year unknown), Nichiden transfers the Law to Nichijo (Biography of Nichiden Shonin).” The citation is from The Biography of Nichiden Shonin, written by Nichiden himself.

Yet, there is no description of a transfer ceremony between Nichiden and Nichijo in Nichiren Shoshu’s official writings such as The Biography of Nichiden Shonin, The Biography of Teacher Nichiden, or The Summarized Biography of Nichiden.

The following description, however, is found in The Biography of Nichiden Shonin and other writings: “In December of that year, the priests and lay believers invited Study Chief Kodo-in to the Dai-bo (high priest quarters). Thus now we have the 53rd high priest, Nichijo.”

It seems that The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School changed the line “Nichiden transfers the Law to Nichijo” into the statement “. . . the priests and lay believers invited Study Head Kodo-in to the Dai-bo.” This indicates a historical fact that Nichiren Shoshu did not want known.

As a matter of fact, Nichiden took office as high priest three times. Upon retiring for the second time, he transferred the heritage to Nichiin-[54]; the third time, he transferred the heritage to Nichio-[56].

In The Biography of Nichiden, we can see that there is a big difference between the descriptions of Nichiden’s transfers to Nichiin and Nichio and that of his transfer to Nichijo. Here is a detailed account of his 1869 transfer to Nichiin:

In that summer, Eishu-in (Nichiin) of Kyodai-ji in Shikoku made a pilgrimage to Taiseki-ji. It was because there was an agreement made (between us) last year at Hanchi. In July of the same year, Nichiin Shonin was invited to assume the position of study chief. On October 20 of that year, at 53, I retired again to the Renyo-an lodging quarters . . . I transferred to my successor all legal documents including notebooks, deeds, and bills. On November 1, I invited the study chief to the Dai-bo. Now we have the 54th high priest, Nichiin Shonin. (The Biography of Nichiden Shonin)

Nichiden is claiming to have followed the procedures stipulated by the Rules of Taiseki-ji for his eventual appointment of Nichiin as high priest, first appointing him study chief and then transferring the heritage to him. These events took place in November 1869.

Nichiko-[59th] wrote about Nichiden’s third retirement. (Note: Nichiko made additions to The Biography of Nichiden Shonin, based on notes left by Nichiden.)

According to this added description by Nichiko, Nichiden requested Nippu to once again become high priest of Taiseki-ji, but Nippu declined. Nichiden then decided to transfer the heritage to Nichio, but the transfer ceremony actually took place between Nippu and Nichio. Nichiden felt that “he had better absent himself from this transfer ceremony since it would mean his involvement in a transfer ceremony for the third time.” He then writes, “I am greatly relieved that the transfer ceremony was auspiciously completed on the night of the 20th.” This all happened in May 1890.

What explanation can there be for the big difference between the descriptions of Nichiden’s transfer to Nichiin and Nichio and his transference to Nichijo?

The Biography of Nichiden Shonin describes in great detail Nichiden’s heritage transmissions to Nichiin and Nichio, but about the transference to Nichiin, it merely states, “. . . the priests and lay believers invited Study Chief Kodo-in to the Dai-bo.”

This indicates that Taiseki-ji believers forced Nichiden, despite his reluctance, to transfer the heritage to Nichijo.

Ultimately, this episode reveals that the alleged sanctity of the transmission of the heritage from high priest to high priest—which the Nikken sect continually emphasizes—is a myth.

Taiseki-ji Fire Causes Nichijo’s Disappearance

A huge fire at Taiseki-ji led directly to the retirement and disappearance of Nichijo. The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School in the entry for February 28, 1865, reads: “The reception hall, six-compartment quarters, and high priest quarters all burned down” (The Biography of Nichiden Shonin).

Edo was a crowded, busy city about which an old saying went, “Fires and quarrels are the flowers of Edo.” In contrast, Taiseki-ji is located in the countryside in quiet Ueno Village. Yet, fire and strife are commonplace in Taiseki-ji history.

Taiseki-ji has experienced twelve recorded fires since its founding. Eleven incidents occurred after the Edo period. The danka system (in which every family must belong to a particular temple in order to validate citizenship) was established between 1635 and 1638. It is noteworthy that fires occurred more frequently at Taiseki-ji after it began serving as an agent of the Tokugawa government, controlling people under the danka system.

It is even more astonishing that approximately 100 fires have been recorded in The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School, including those occurring at Omosu Honmon-ji, Yobo-ji, and other Taiseki-ji-affiliated temples such as Hota Myohon-ji, Myoren-ji and Jozai-ji.

Nichiren Daishonin writes: “The sutra reads, ‘If someone . . . should enter a great fire, the fire could not burn him . . . If one were washed away by a great flood and called upon his name, one would immediately find oneself in a shallow place.’ It also reads, ‘The good fortune you gain thereby . . . cannot be burned by fire or washed away by water.’ How reassuring! How encouraging!” (WND-1, 457).

Nichiren is describing the significant benefit of the Lotus Sutra, in contrast to the fact that Taiseki-ji underwent one fire after another.

Perhaps, the priests became more corrupt in their daily lives at Taiseki-ji around the time of the danka system inception, to the point where they became careless. Also, they may have been lacking in faith and sense of mission to protect Taiseki-ji and in turn were denied the protection that strong faith evokes. At any rate, the fact that Taiseki-ji experienced so many fire-related calamities shows that Nichiren’s Buddhism was lost at Taiseki-ji and other Fuji school temples.

The severity of retribution is obvious from this chart of major fires Taiseki-ji has experienced.

It was certainly a large fire that spread through Taiseki-ji on February 28, 1865. According to The Biography of Teacher Nichiden: “A fire broke out in a servant’s room at the high priest quarters on February 28, engulfing entire temples on the grounds of Taiseki-ji. I was astonished at this news and canceled my stay in Tokyo, returning to the head temple” (Research and Study Document of Fuji Academy).

According to this description, the fire that started in a servant’s room in the middle of the night consumed many buildings on the Taiseki-ji grounds including the reception hall, the six-compartment quarters, and high priest quarters. Nichiden-[52] was in Edo, and had been absent from Taiseki-ji during the month of February.

Nittatsu-[66] spoke about the fire of 1865 and about Nichijo-[53], the sitting high priest at the time:

During the time of 53rd High Priest Nichijo, there was a big fire on February 28, 1865, which burned down the reception hall, the six-compartment lodging, and the high priest quarters. Even the priesthood quarters were burned down. Because of this fire, High Priest Nichijo resigned, and Nichiden Shonin assumed the seat of high priest one more time. (Excerpted from “Regarding the Construction of Various Temples at Head Temple Taiseki-ji and Ushitora Gongyo”)

Things did not go so smoothly between Nichijo’s retirement and Nichiden’s reinstatement as high priest. Nichiden returned to Taiseki-ji in the middle of March, but Nichijo had already resigned as high priest on the day after the fire, according to The Biography of Teacher Nichijo. In May, Nichiei became high priest once again [the 51st and 53rd] despite his old age. But before he took office, Taiseki-ji had no high priest for about two months. It seems a complicated situation surrounds this void in the high priest lineage.

Here, I will quote The Biography of Nichiden Shonin, since it provides a detailed account of what happened at that time. The passage I introduce here deserves the reader’s close attention. It is historically significant, as it led to a correction and deletion later being published in Organizational Publication for Propagation, #21, on May 13, 1892.

According to this document, the fire upset many priests, and they banded together against Nichijo, whom they blamed. Though fully aware of Nichijo’s responsibility, Nichiden quietly left Taiseki-ji because he could not bear the attack on Nichijo.

Surprised at Nichiden’s departure, Taiseki-ji priests were left with the only choice — they had to make peace with Nichijo. The chief priest of the Kujo-bo lodging, on behalf of all the Taiseki-ji lodging temples, and Yogo Uemon Ide, on behalf of all Taiseki-ji lay believers, brought letters written respectively by Nichiei-[51st] and Nichijo-[53rd]. Because of this, when Nichiden returned to Taiseki-ji, Nichijo decided to retire to Shimono-bo temple.

I previously mentioned complications between Nichijo and Nichiden. Nichiden himself relates that Nichijo retired to Shimono-bo in order to avoid seeing Nichiden. There is a view that the fire forced Nichiden into his eventual retirement.

Nichijo Disappears Without Transferring the Heritage

The uproar over the retirement of Nichijo-[53rd] becomes more shocking after that. According to The Biography of Nichiden Shonin:

. . . I stayed at Honko-ji in Negata instead of returning to Taiseki-ji. Dispatching a messenger to Taiseki-ji, I conveyed my earnest request that either Nichijo Shonin should return to the position of chief administrator or Nichiei Shonin would reassume that role. It was decided through a conference of priests and lay representatives that the Rev. Nichiei would come back as chief administrator, while I was requested to return to Taiseki-ji. Then, the Rev. Nichijo left the Shimono-bo lodging temple, his destination unknown.

Nichiden indicates here that Nichijo went missing.

It is noteworthy that no transfer ceremony was held for the reinstatement of Nichiei as high priest; rather, it was determined at a priesthood and laity conference.

It is further written in The Biography of Nichiden Shonin:

. . . I ordered Taimei and Jicho to find out where Nichijo went by visiting the places he might have been. They returned in May after over 30 days travel, reporting to me that they first visited the hot springs in Zuso, three temples in Edo, and then visited some lay believers, trying to locate him. They could not find him even though they checked all possible locations in Tochigi, Noshu Province, Hirai, Sano, Joshu, Ohko and so forth.

It is questionable whether Nichijo-[53rd], upon becoming high priest of Taiseki-ji, received the heritage from Nichiden-[52nd]. Most likely, no official transfer ceremony took place. And when Nichijo retired, he also did not conduct a transfer ceremony for the next high priest. Nichijo chose to retire the day after the fire broke out and then disappeared without ever transferring the heritage.

Nichijo’s disappearance was unprecedented in Taiseki-ji history. Yet The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School only mentions the fire in the section for 1865:

[February 28], the reception hall, the six-compartment quarters and the high priest quarters all burned down (The Biography of Nichiden Shonin).

Furthermore, Taiseki-ji Records (Sekibun) gave merely this simple description of Nichijo’s disappearance and the ensuing change of high priests:

[May 7], Nichijo, vacating the high priest quarters, moved to the Shimono-bo lodging. Later, he departed to Shingyo-ji in Hirai, Shimono Province (Taiseki-ji Records).”

[May 7], Nichiei assumes the role of chief priest of Taiseki-ji (Taiseki-ji Document)”

[May 15], Nichiei leaves the high priest quarters, and Nichiden reassumes the role of chief priest of Taiseki-ji. (Note: This May is an extra month of May inserted into the lunar calendar. In the lunar calendar months reflect the lunar cycle, but then intercalary months are added to bring the calendar year into synchronization with the solar year.)

Additionally, The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School reads: “Nichijo, vacating the high priest quarters, moves to the Shimono-bo . . . Nichiei leaves the high priest quarters, and Nichiden reassumes the role of the chief priest of Taiseki-ji,” Nichiden’s description of internal strife at Taiseki-ji has been intentionally deleted.

This is clearly inconsistent. The Chronology of Nichiren Shoshu and the Fuji School references The Biography of Nichiden Shonin to describe the fire of February 28, 1865, but does not use the fire in regards to the high priest’s disappearance. In fact, The Biography of Nichiden Shonin (under the title of Summarized Biography of Nichiden) was used, but edited, in two of Nichiren Shoshu’s Meiji Period publications—Organizational Publication for Propagation and The King of the Law to refer to the fire, but not the departure [because of temple politics].

Jikan Tsuchiya, the publisher and editor of Organizational Publication for Propagation who later became Nitchu-[58th], wrote about Nichiden’s biography:

This biography was written exclusively by Nichiden Shonin. No word or phrase has been edited therein. (Organizational Publication for Propagation, #17)

As mentioned before, however, Organizational Publication for Propagation carried a correction that omitted a long portion of Nichiden’s words. The correction reads as follows:

The part of the previous issue that, quoting from Nichiden Shonin’s biography, refers to the great commotion among the people of Taiseki-ji and the apology offered by the Rev. Nichijo are omitted here since these descriptions are controversial. (Organizational Publication for Propagation, #21)

The entire section introduced in the previous issue was later taken out, either because the editor himself had second thoughts or because a Nichijo supporter strongly requested it.

The eliminated portion was included, however, in the version of The Biography of Nichiden Shonin published by Nichiko-[59th] on the 50th anniversary of Nichiden’s passing. Nichiko courageously conveyed for posterity exactly what had happened, despite possible embarrassment to Taiseki-ji.

The priesthood underwent intense conflicts and power struggles during that time period. Nichijo chose to escape from Nichiden. Feeling he was blamed for the fire, he retired and then disappeared—irresponsible behavior indeed.

Nichijo’s departure from Taiseki-ji seems to have been well known even to other Nikko schools including Yobo-ji.

Nichijo’s whereabouts were unknown for some time after disappearing from Shimono-bo, but, according to Record of Successive Chief Priests of Branch Temples, he had moved to Shingyo-ji, in Tochigi Prefecture, where he had once been chief priest. In 1874, when Nichiin (who belonged to the same faction as Nichijo) was high priest, Nichijo became chief priest of Josen-ji in Tokyo. After that, he built Shinjo-ji in Nagano Prefecture and Myojo-ji in Shizuoka Prefecture.

Nissho Transfers Heritage to Lay Believers

Nissho-[57th] died on August 18, 1923, in Okitsu City, Shizuoka Prefecture, where he was resting to recover from an illness. Some followers had been attending to Nissho, who was renting a house along the Okitsu coast.

It was in this house that Nissho transferred the heritage to Nitchu, but in a highly irregular manner. Instead of making a direct transmission to Nitchu, Nissho called in two lay believers and entrusted the heritage to them, asking them to complete the transference ceremony at Renge-ji in Osaka.

Nittatsu-[66th] refers to this extraordinary transaction in his 1956 work Refuting Evil: The Theory of Wooden Gohonzon Being Counterfeit (published by Nichiren Shoshu Fukyo Kai), his rebuttal against the contentions of Nichiren scholar Bentetsu Yasunaga of Nichiren Shu:

But High Priest Nissho seems to have already made a profound resolution. Inviting Messrs. Kotatsu Naka and Umetaro Makino, lay believers from Osaka, he transferred future matters to them while prohibiting all others from attending this transference. Very soon after, these two men welcomed Nitchu Shonin at Renge-ji. (This was done out of Nissho Shonin’s profound consideration for Nitchu Shonin, to avoid a situation where the latter might be swayed by a third party’s interference. Thus, the whole transference matter was carried out among Nissho Shonin, Nitchu Shonin, Mr. Naka, and Mr. Makino without intervention from other individuals.) Thus, Nissho Shonin’s transference to Nitchu Shonin was completed.

A grave historical fact is hidden here, as revealed by this sentence: “This was done out of Nissho Shonin’s profound consideration for Nitchu Shonin to avoid a situation where the latter might be swayed by a third party’s interference.”

This indicates an abnormal situation surrounding Nissho’s transference to Nitchu that there were radical opponents attempting to interfere with the process. Nissho had little option but to ask two lay believers, including Umetaro Makino, to accept the heritage and eventually transfer it to Nitchu.

Nittatsu further states: “Thus, the whole transference matter was carried out among Nissho Shonin, Nitchu Shonin, Mr. Naka, and Mr. Makino without intervention from other individuals.”

What sinister fact is hinted at in Nittatsu’s description? Why did Nissho feel compelled to entrust the heritage to lay believers? Couldn’t he have entrusted it to one of his priest disciples? A careful reading of Nittatsu’s Refuting Evil: The Theory of Wooden Gohonzon Being Counterfeit reveals the following statement:

As to the illness of Nissho Shonin, he had developed a tiny tumor, as tiny as the point of a toothpick, in the lower part of his chin, in autumn [1922]. He was examined at a hospital in Tokyo, but his case was not clearly diagnosed there. When he later returned to Tokyo, the same doctor examined him. His tumor appeared malignant, and he began cancer treatment. Just before the rainy season began in [1923], he went to Okitsu for a few days to recuperate. His supporters suggested that he recuperate near the beach, and he agreed to rent a house on the coast. Since High Priest Nissho was not physically robust, those surrounding him were always concerned about his health. (It amused the high priest to think his disciples had him rent a house near the beach because they enjoyed swimming.)

The part we need to pay attention to is the following section: “His supporters suggested that he recuperate near the beach, and he agreed to rent a house on the coast.”

So we can see from this passage that it was not Nissho’s intent to rent a house. Rather, “it amused the high priest to think his disciples had him rent a house near the beach because they enjoyed swimming.”

Judging from the line “Just before the rainy season began in [1923],” Nissho’s stay in Okitsu was from early June to August 18, 1923, a little more than two months.

Nissho was 63. He was recuperating at a house near the coast, two months before his passing. While, judging from Nittatsu’s other descriptions, Nissho seems to have been in high spirits, it seems reasonable that his illness was grave.

It is also said that he went all the way to Tokyo to receive cancer treatment. It is possible the doctor informed family members that Nissho would not live long. And conceivably, anybody attending Nissho could know of his doctor’s prognosis.

Also, it would have been unlikely that none of his priest disciples cared for Nissho during his recovery. Since Nissho had entertained the idea that they rented a house near the beach because his disciples enjoyed swimming, there must have been a disciple attending him.

If so, then why didn’t Nissho have a priest disciple arrange to transfer the heritage directly to Nitchu? Why did he take the trouble to entrust it to two invited lay believers?

There can only be one answer to this question—a priest attending Nissho must have been connected to one of Nissho’s enemies, and there would likely have been an intervention if Nitchu had been called to Nissho’s side for a direct transfer.

Desperate Power Struggle Over the Position of High Priest

From this perspective, we can now discern a formidable hidden conspiracy behind Nissho’s transfer of the heritage. We can see why Nissho was advised to rent a home near the coast and why despite the fact that he only “went to Okitsu for a few days to recuperate,” he actually would end up dying there.

Most likely, rivals of Nitchu vying for the high priest position had the dying Nissho moved to this house near the coast in order to isolate him from Nitchu and disrupt the transfer process.

Nissho countered, however, by calling in the two lay believers and entrusting them with the heritage for Nitchu while successfully keeping away an attendant likely aligned with the anti-Nitchu camp. This gives the correct context to the following description by Nittatsu:

In the meantime, in the evening of August 17, Nissho Shonin told us to gather all those key people the next morning, since he would then share his will. Those close to Nissho Shonin busily sent telegrams or made phone calls to follow his instructions. At midnight, he shared his will with his disciples. As dawn approached, key people gathered from all over. Around 5:00 a.m., Nissho Shonin called all those present to come to his bedside. After all of them were seated surrounding him, the high priest looked around and ordered his assistant priest to bring a brush pen and a piece of paper. The assistant quietly stood up to get all these things. At that time, the high priest expressed that he would transfer the position of high priest to Study Chief Nitchu. After looking at what his assistant had transcribed on the sheet of paper, the high priest ordered his assistant to affix his signature and seal. Holding out his hand, he ordered his assistant to help him affix his signature. With this done, he once again looked around and closed his eyes. (Refuting Evil: The Theory of Wooden Gohonzon Being Counterfeit)

This passage describes how, just before his death, Nissho designated Nitchu as his successor. It is clear from Nittatsu’s passage why Nissho had to again announce that Nitchu would be the next high priest, even though he had already transferred the heritage to Nitchu via the two lay believers.

To avoid confusion within the school, Nissho gathered all involved around him to assert that he had transferred the heritage to Nitchu, since no one, not even his attendant, had known about it.

This raises another question, however. If his intention was to save the school from confusion, why didn’t Nissho make it clear much earlier that he had transferred the heritage to Nitchu? The answer to this also lies in our earlier supposition. Had he tried to do so earlier, either the anti-Nitchu group would have blocked him, or he might have seen his decision reversed.

This means that a priest or priests in close proximity to Nissho opposed the transfer of the heritage to Nitchu; under the guise of attending to the dying high priest, they were mainly concerned with the heritage transfer. That explains why, just before his death, at the last moment, Nissho disclosed the name of the priest to whom he had made the transfer.

But who was pressuring Nissho overtly or covertly to the degree that he had to use two lay believers for the heritage transfer to Nitchu? The answer to this question is indirectly found in Nittatsu’s Refuting Evil: The Theory of Wooden Gohonzon Being Counterfeit.

As soon as the passing of High Priest Nissho was widely conveyed, Nichiren Shoshu fell into sorrow. Some, however, were busy guessing who would be the next high priest. They even tried to find out by asking those close to Nissho Shonin whether Nitchu Shonin or Nichikai Shonin would succeed him. One assistant priest, who was in the next room while Nissho Shonin was speaking, said that he could hardly hear what was said. This was mistakenly conveyed to certain individuals, inspiring rumors at one of the two camps. At the time of the high priest’s funeral, some said it was not clear whether Nissho Shonin had chosen Nitchu Shonin or Nichikai Shonin. When someone said that Nichikai Shonin had never assumed the role of study chief, the people of his camp became quiet. We should be sensitive to the feelings of those who were looking forward to succession by Nichikai Shonin.

Nichikai, Nikken’s father, competed with Nitchu to become high priest. Nittatsu’s description shows that Taiseki-ji was divided into their two respective camps. There was even a quarrel during Nissho’s funeral because “it was not clear whether Nissho Shonin had chosen Nitchu Shonin or Nichikai Shonin.”

Though, back then, Nichiren Shoshu was a very minor Buddhist sect with only 50 local temples, errant priests of the Latter Day of the Law fought a fierce battle in the shadows.

The statement “when someone said that Nichikai Shonin had never assumed the role of study chief, the people of his camp became quiet” indicates that according to the Rules of Nichiren Shoshu in those days, the study chief of Taiseki-ji was supposed to become the next high priest. Disregarding those rules, Nichikai was plotting to gain the post.

Nichikai Used Every Possible Means to Become High Priest

Another interesting fact was revealed in March 1928.

Following the retirement of Nichiko-[59th], there was a Nichiren Shoshu election campaign for high priest. Nichiren Shoshu was divided into two camps; one headed by Ho’un Abe, Nikken’s father, who later became Nichikai-[60th], and the other by Koga Arimoto (then general administrator). After the election, the Arimoto camp insisted the results were invalid and issued a “Clarification” (dated March 13, 1925) that revealed Abe’s shameful past activities:

There had been a long-term, profound plot to make the Rev. Abe the next chief administrator. When High Priest Nissho became seriously ill in August 1923, the Abe faction (using Nissho’s name without his approval) attempted to deny the promotion of Nitchu Shonin, the study chief who was in a position to naturally become the next chief administrator. Maliciously, they exerted every effort to promote their leader, the Rev. Abe.

What is written here is clear. When Nissho was seriously ill, Ho’un Abe invoked Nissho’s name to justify his own ambition, attempting to exclude Nitchu, while his faction used every possible underhanded means to make Abe the next high priest.

As to Nichikai’s dark plot to isolate Nissho at the house in Okitsu, a lay believer, Esokichi Nishiwaki, directly questioned Nichikai about it, through a writing titled “A Document of Opinion,” dated April 3, 1930. Nitchu had been ousted because of a coup orchestrated by Nichikai, but “A Document of Opinion” supported Nitchu:

The Rev. Abe was jealous and disrespectful because of the Rev. Nitchu’s great character. A group of people wanted to have the Rev. Abe succeed Nissho Shonin. Seeing that High Priest Nissho’s illness was worsening, this group schemed and campaigned to promote the Rev. Abe as the next high priest. As High Priest Nissho’s health declined, he relocated to Okitsu to recuperate. There, the Rev. Nitchu was not allowed near the high priest’s bedside. The anti-Nitchu group’s activities became ever more rampant; at times, they fabricated documents, and at other times they even resorted to violence. They forcefully demanded that the Rev. Nitchu resign from the position of study chief.

Nichikai took advantage of Nissho’s ill health to attack Nitchu in every possible manner. He also tried to keep Nitchu away from Nissho and called for Nitchu to resign as study chief. Refuting Evil: The Theory of Wooden Gohonzon Being Counterfeit is a record of this ugly confrontation between the two factions within Nichiren Shoshu.

A Coup to Remove the High Priest

Assembly Members’ Secret Agreement Results in Recommendation for Nitchu’s Resignation

An assembly meeting of Nichiren Shoshu began at the head temple Taiseki-ji on November 18, 1926. The assembly first dealt with measures Nichiren Shoshu would be taking against the Minobu Sect. During a November 28 session, however, the assembly decided that they could not trust Nitchu-[58th] and called upon him to resign.

The assembly had turned suddenly from the Minobu matter to their distrust of the high priest, resolving to oust him. Behind this resolution was a secret agreement among assembly members. It was a coup.

The following is a rather lengthy document of allegiance that was deliberated on behind the scenes at the assembly:

The current chief administrator, Nitchu Shonin, violates the Rules of this school with his biased view and judgment. We assert that he lacks the ability to govern this school. We demand that the high priest quickly retire to bring a fresh breeze of renovation to this school. For this reason, we have come to the following agreement, with our pledge in front of the three treasures of Buddhism that all we write here is true. The following are various aspects of Chief Administrator Nitchu’s unjust behavior.

  1. He has no intention to select the next study chief.
  2. He has no policy to enhance study and promote propagation.
  3. When he took over financial contribution matters in August 1924, he mismanaged them.
  4. He orchestrated the demotion of Ho’un Abe in the hierarchy of priesthood.
  5. By not abiding by the official rules, he made it impossible for chief priests and teachers to execute their responsibilities.
  6. He disregarded the teachers of this school.
  7. He allowed his wife and children to reside at Renzo-bo, the official residence of the study chief.
  8. The revision of the Rules and Bylaws of this school has been a vital matter for more than ten years. All have wanted to see this revision carried out, but his weak leadership prevented any proposal from being put forth. This indicates that he is unqualified to lead the entire school.

Proposed are the following practical actions.

  1. We recommend Jirin Hori to become the next chief administrator.
  2. We propose executing a major revision of the Rules and Bylaws of this school and plan a major study renovation.
  3. Clarification of the head temple’s assets. [There was confusion over just what were the assets of the head temple and accounting for them.]

In adopting these points, we understand there will be repercussions if they are violated. We sign our names here to express our agreement with all the above points.

November 18 in the 14th year of Taisho [1925]

Assembly member Koken Shimoyama

Assembly member Jiyu Hayase

Assembly member Gido Miyamoto

Assembly member Jimon Ogasawara

Assembly member Gyodo Matsunaga

Assembly member Shuin Mizutani

Assembly member Korin Shimoyama

Assembly member Shohei Fukushige

Assembly member Ryodo Watanabe

Assembly member Shudo Mizutani

Assembly member Jizen Inoue

Council member Shudo Mizutani

Council member Koben Kogyoku

Council member Kohaku Ohta

Council member Jiyu Hayase

Council member Gyodo Matsunaga

Council member Jimyo Tomita

Council member Teiyu Matsumoto

Council member Shinkei Nishikawa

Council member Koga Arimoto

Council member Yodo Sakamoto

Council member Kosei Nakajima

Council member Bungaku Soma

Council member Shundo Sato

Council member Jisen Shiraishi

Council member Shodo Sakio”

The initial part of this document harshly criticizes the high priest, asserting: “The current chief administrator, Nitchu Shonin, violates the Rules of this school with his biased view and judgment.” And the document is noteworthy for expressing the intention to impeach the high priest and make him retire because, as stated, “we have come to the following agreement, with our pledge in front of the three treasures of Buddhism that all we write here is true.”

Clearly, Nitchu, who was then Nichiren Shoshu high priest, was not considered part of the three treasures in the minds of the priests who signed this document. Today, however, the Nikken sect asserts that criticizing the high priest is an act that destroys the three treasures. This view, as we can see here, is incorrect as it is inconsistent with the traditional teaching of Nichiren Shoshu; it is a recent creation.

Eight examples of Nitchu’s supposedly erroneous behavior are cited. The fourth point is especially striking: “He orchestrated the demotion of Ho’un Abe in the hierarchy of priesthood.”

Ho’un Abe (the future Nichikai) had been reprimanded by Nitchu four months before the assembly convened. Abe was deprived of the position of general administrator. He was also demoted from the position of noke priests (an elite rank from which the next high priest is to be selected).

Because of this demotion, Nichikai’s path to becoming high priest was blocked. This act against Nichikai triggered the coup against Nitchu.

The seventh point is also intriguing: “He allowed his wife and children to reside at Renzo-bo, the official residence of the study chief.”

Nitchu’s wife and children must have been living at Renzo-bo because at that time there had been no appointed study chief. (Whoever would have been in the position of study chief would have expected to become the next high priest.)

The document of allegiance described a planned coup against Nitchu. According to this plan, Nitchu’s successor would be Jirin Hori (who later became Nichiko-[59th]).

It is generally believed that the well-trusted Nichiko Hori could have been a steppingstone toward eventual transference of the heritage to Nichikai. If Nichikai, the chief promoter of the coup, had become high priest immediately after Nitchu’s ouster, there would have been strong opposition from Nitchu’s camp.

What happened back then runs completely counter to the contentions of Nikken and his priesthood regarding how the heritage transfer should be conducted. It was highly unusual in Japan’s religious world for a sitting high priest to be dethroned and his successor to be designated by assembly members. How do those who regard the high priest as absolute explain what happened?

Head of Laity Infuriated by Demand for Nitchu’s Resignation

The coup was put into action with this November 20, 1926, resolution: “The assembly does not trust Chief Administrator and High Priest Nitchu Tsuchiya.”

They put forth a vote of no confidence in Nitchu, together with a resolution urging him to resign:

Chief Administrator and High Priest Nitchu Tsuchiya, since his inauguration has failed in his governance of this school. Taking advantage of his position, he pursued his own gain. Abusing the authority of his position, he trampled upon the rights of the priesthood. In light of this, we can no longer entrust him with the role of governing the entire school. Therefore, we recommend his swift resignation.

November 20 [1926]

Would today’s Nikken sect accept such an unorthodox method of choosing the next high priest? The heritage is supposed to be transferred from high priest to high priest along the lineage of Taiseki-ji. Yet, the historical facts are far removed from that procedure.

Pressure on Nitchu consisted of more than just the assembly resolution. The resolution was made on November 20, but an incident on November 18 had already greatly disturbed Nitchu. While he was carrying out midnight gongyo in the reception hall, someone threatened him, and there was a sound like a gunshot. Also, some people threw stones at the reception hall.

These actions to disturb Nitchu during midnight gongyo were carried out by two priests, but it seems they were just executing a plan devised by senior priests behind the scenes.

And it appears that what Nitchu experienced was quite serious.

Pressured by the assembly members, Nitchu expressed his intention to resign on November 22 and prepared a letter of resignation. Gladly accepting it, Assembly Chairperson Jimon Ogasawara[2] and other priests went to Tokyo that same day to submit Nitchu’s letter of resignation to the Ministry of Education. They completed the reporting procedure on November 24. As secretly agreed upon beforehand, the new high priest was to be Nichiko Hori.

The news that Nitchu was abruptly intending to resign reached the head of the Taiseki-ji lay group, who became furious that everything had been quickly done without consulting the laity. The situation worsened to where lay society leaders vehemently protested against each of the assembly members on the following day, November 23.

Learning that the priests had gone to Tokyo to submit the notice of Nitchu’s resignation and Nichiko’s inheritance, the lay leaders dispatched three representatives of their own to Tokyo to propose a counter opinion with the Ministry of Education. They begged the Ministry to nullify the assembly’s decision, insisting it was invalid.

Hearing the petition from the Taiseki-ji lay representatives, the religious bureau of the Ministry of Education summoned the three key figures of the assembly: General Administrator Koga Arimoto, who was chief priest of Myoko-ji in Shinagawa, Tokyo; Shudo Mizutani, who later became Nichiryu-[61st]; and Gyodo Matsunaga, who was chief priest of Denmyo-ji in Fukuoka.

It seems that the religious bureau was deeply dissatisfied by the coup carried out within Nichiren Shoshu. Mr. Shimomura, the bureau chief, severely admonished the three representative priests, asking, “Even if you are responsible for guiding and educating society, why did you take such an irrational action?” (December 3, 1925, issue of Shizuoka Minyu Shimbun). Additionally, the religious bureau ordered the representative priests to retrieve the documents given to Nitchu concerning the no-confidence vote and the recommendation for his resignation, and submit them to the Ministry.

The religious bureau, which is responsible for such matters, was likely afraid of bad publicity if it allowed the high priest’s removal to go through. The Ministry of Education did not want the school’s inner strife to become public.

Taiseki-ji Coup Involves Powerful Local Citizens

While initially delighted at having removed Nitchu, the three assembly representatives now returned to Taiseki-ji shaken by the religious bureau’s strict reaction. This bureau possessed absolute authority in its supervision of Japan’s religious organizations. As ordered by the bureau, they had to collect the two documents from Nitchu by December 1.

Upon returning, they requested that Nitchu return the two documents but discovered that the papers had already been given to Tosaburo Watanabe, the head Taiseki-ji lay believer. The representatives no longer held the upper hand; they had to beg Mr. Watanabe to hand over the documents.

At first, the lay leader would not return them—he was resentful of the assembly’s unilateral dismissal of High Priest Nitchu.

The three assembly representatives, with Nitchu and the mayor of Ueno village as witnesses, submitted a written apology to the head of the lay believers. After that, they finally got back the two documents. It was amazing to have priests apologize to lay believers. It was also amusing to see the mayor involved in this sordid drama.

On December 1, the deadline for submitting the documents to the religious bureau, the three priests caught a 5:32 a.m. train at Omiya (now Fujinomiya) Station to Tokyo. It must have been 2:00 or 3:00 in the afternoon when they finally went before the religious bureau chief with the documents.

Things did not, however, unfold as smoothly as the assembly representatives wished regarding the official inauguration of a new high priest.

The priests and lay leaders who joined together to support the coup had secretly agreed to recommend Nichiko Hori (he was called Jirin Hori in those days and was a lecturer at Rissho University) to become next high priest. They forced Nitchu to write the letter of resignation, and received agreement from Nichiko concerning his inauguration. The representative priests submitted to the Ministry of Education the letters of Nitchu’s resignation and Nichiko’s commitment to serve as high priest.

Nichiko was disgusted with the situation at Taiseki-ji, however, and expressed his desire not to take office. Right after November 27, the date on which the three priests were severely admonished by the religious bureau chief, Nichiko announced his intention to withdraw.

In the meantime, the Taiseki-ji lay leaders—Mr. Watanabe, Mr. Kasai, and Mr. Ide—went to Tokyo on December 2 on a mission to protect Nitchu. The three met with Mr. Shinohara, general administrator of the Tokyo lay group, to exchange information and discuss their strategy.

The Taiseki-ji lay leaders learned in Tokyo that Nichiko had changed his mind about withdrawing and had determined to become the new high priest. It seems Nichiko wanted to avoid Nichiren Shoshu having no chief administrator at all. Since Nitchu’s letter of resignation had been officially accepted by the Ministry of Education religious bureau that meant that there was no high priest.

Nichiko’s change of mind was disconcerting for the Taiseki-ji lay leaders, who were supporting Nitchu; it foreshadowed their defeat. Events were underway that would make the coup a success.

News of Nichiko’s change of mind spread to the Taiseki-ji area via a telegram the lay leaders sent to Heijo Watanabe, mayor of Shiraito. The coup that was underway at Taiseki-ji was now affecting a lot of influential people in the Taiseki-ji vicinity.

Ever since their first meeting, the lay representatives visited the religious bureau day after day to advocate having Nitchu remain as high priest, and they gathered increasing support from lay believers in Shizuoka and Tokyo.

The fact was, however, that the religious bureau had already formally accepted Nitchu’s resignation and Nichiko’s acceptance. Nichiko’s position as new high priest was already legal. To reverse the situation, powerful legal evidence would have to be submitted, and Nitchu’s camp lacked such evidence.

Lay Believers Decide to Excommunicate Priests

Nichiko arrived at Taiseki-ji on December 6 to take office as the new chief administrator (high priest). The next day, December 7, he requested that Nitchu, the former chief administrator, transfer all administrative work to him. But the transfer did not take place because the lay leaders (whose presence was required for the official transfer) had refused to be present.

Nichiko’s inauguration, then, was stalled from the beginning because he could not receive the administrative work from his predecessor.

Also, since Nitchu still resided at the high priest’s lodging, Nichiko had no choice but to stay at the Joren-bo lodging. This led to a serious confrontation between Nitchu’s and Nichiko’s respective camps.

Nitchu’s supporters included the Taiseki-ji lay leaders and other temple members in Tokyo. It made no sense to the lay believers that the priests who gathered at the head temple from all across the country were authorized to kick out the new chief priest (high priest) of Taiseki-ji.

Looking at how newspapers dealt with Taiskei-ji’s internal strife, it sounds as if the priests of Nichiren Shoshu stationed outside the head temple were attempting to gain control of Taiseki-ji. Expressions such as “Taiseki-ji camp” (Nitchu’s group) and “Nichiren Shoshu camp” (Nichiko’s group) were seen here and there in articles covering the discord.

An incident occurred around December 10, when the two camps were locked in serious confrontation. General Administrator Koga Arimoto, the chief priest of Myoko-ji in Shinagawa, Tokyo—who was close to Ho’un Abe (who later became Nichikai-[60th]) and was a core leader of the anti-Nitchu group—was kidnapped by twelve Tokyo lay believers and taken to Tokyo.

The coup against Nitchu is said to have become possible because General Administrator Arimoto, who was Nitchu’s second-in-command, decided to side with Ho’un Abe’s camp—this, despite the fact that it was Nitchu who had appointed Arimoto as general administrator. So Nitchu’s demotion only became possible because of Arimoto’s betrayal. With this kidnapping, a major coup participant was forced to leave Taiseki-ji through the power of lay believers.

Local temple chief priests, it seems, could not oppose the will of their lay believers, who were taking care of them financially and in various other ways, during the Taisho Period (1913–28).

As the year 1926 was ending, both camps seemed at an impasse. On December 28, however, only a few days before the New Year, the Nitchu side made a move. Nitchu suddenly left Taiseki-ji for Tokyo in order to deepen his communication with lay believers there, including the True Law Protection Group, which had arisen amid the uproar over the coup. Nitchu tried to enlist the laity to resolve the confrontation between the two priesthood camps.

The True Law Protection Group was apparently formed as early as mid-December in response to pro-coup priests’ activities. By December 28, when Nitchu arrived in Tokyo, the group had already published a booklet titled Mirror of Right and Wrong to reveal the truth about the ongoing strife.

Members of the True Law Protection Group must have been in very high spirits with their newly published booklet and with High Priest Nitchu beside them in Tokyo. The lay believers who supported Nitchu (the core being the True Law Protection Group) decided to hold a kickoff for lay believers nationwide in Tokyo soon after New Year’s Day. And they decided to use their strong voices as aggrieved lay believers to appeal to society about the assembly members’ unjust coup.

The kickoff took place at the Izumibashi Club in Kanda, Tokyo, on January 16. The following five points were adopted at the meeting:

  1. ”We should devote ourselves to making efforts to have Nitchu Shonin return to the treasure seat of chief administrator that is equal to that of the grand leader.”

Their contention was: Since Nitchu did not transfer the heritage to Nichiko then Nichiko could not be the chief administrator (high priest) of Taiseki-ji. But Nitchu had already turned in his letter of resignation to the Ministry of Education religious bureau, and Nichiko had submitted a letter of inauguration to the same bureau. Legally, then, Nichiko could be considered the legitimate chief administrator.

It is possible that according to the lay believers then, the high priest was still Nitchu while the chief administrator was Nichiko. But in Nichiren Shoshu, one person was traditionally supposed to assume both roles. This idea seems to underlie their expression “the treasure seat of chief administrator that is equal to that of grand leader.”

There was a real crisis of faith in the hearts of these lay believers because the heritage transmission was about to be recognized despite the will of the former high priest, Nitchu. Such a situation had rarely occurred in Taiseki-ji’s 600-plus-year history.

Also, it was unheard of in those days that the desires of common lay people would triumph over those of religious professionals (the priesthood).

Taisho Period Japan was a modern nation under the emperor system. The nation’s organizational model was to establish an unchanging order with the emperor from the top on down to all ordinary people. But, in a display of very poor timing, and contrary to the trend of the times, the Nichiren Shoshu priesthood was now exemplifying an institution in which the ultimate authority had been toppled. The Nichiren Shoshu/Taiseki-ji conundrum garnered strong public attention.

  1. “We should take proper action to ensure that High Priest Nitchu alone be the one to conduct gokaihi (door-opening) ceremonies with the Gohonzon of the High Sanctuary, and that he alone should be the one to transcribe the Gohonzon for temple members and other lay believers. No other priests, as they have not inherited the heritage of this school, should fulfill such vital functions.”

The lay group here rejects the idea of gokaihi ceremonies and transcription of Gohonzon being carried out by Nichiko, seemingly out of a desire to protect the heritage of Taiseki-ji. In reality, the lay group merely wanted to conspicuously reject Nichiko as high priest. Nichiko, who had dared to take on the role of chief administrator in order to resolve the school’s internal strife, must have suffered greatly over the laity’s rejection.

  1. “We will stop making offerings to those priests who deny Nitchu Shonin or lend support to the anti-Nitchu Shonin movement until we fulfill our purpose. We will also abandon our ties in faith with them.”

The situation had evolved to where certain priests were excommunicated by the laity. The lay believers’ action seems based upon their observation that the priesthood had deviated from the correct lineage of faith by forcing the heritage transfer.

  1. “Proper action should be taken so that the illegal revision of the Rules, Bylaws, and study provisions will be reversed.”

Here, the laity tries to stop the change of Rules that were favorable to the camp that carried out the coup. At that point, both sides were engaged in discussion about the legal actions they should take.

  1. “More than ten committee members should be selected to execute these four points.”

A very organized activity was about to be carried out on a national scale, moving toward the reinstatement of High Priest Nitchu.

Election of Chief Administrator Through Intervention of National Authority

Because of the lay members kickoff on January 16, the Ministry of Education religious bureau had the impression that the two sides in this disagreement were completely hostile to one another and that efforts to reconcile them would be fruitless. As a result, the bureau rendered its final decision.

The bureau judged that the current strife could not be resolved through dialogue. It was therefore decided that the chief administrator would be arrived at by election. It seems this decision was conveyed to Nichiren Shoshu on January 16, when the laity kickoff was held. The election of candidates for the next chief administrator was announced to the public in accord with the Rules of Nichiren Shoshu.

Voting was done either by mail or in person. February 26 was the deadline. It was agreed that all the votes would be counted at the Administrative Office of Taiseki-ji. Possible candidates for chief administrator would be priests of higher rank. Ho’un Abe was excluded for candidacy, however, because he had been demoted a rank one year before.

For this election, only four priests qualified as legitimate candidates for the position of high priest. They were High Priest Nitchu, Koga Arimoto (chief priest of Myoko-ji in Shinagawa ward, Tokyo), Jirin Hori (who would later be called Nichiko and was residing at Taiseki-ji’s Joren-bo lodging), and Shudo Mizutani (who later became Nichiryu-[61st]). More than 80 priests were eligible to vote.

On January 25, Nitchu issued a declaration, asserting: “Whoever may be elected other than I, Nitchu, I hereby declare that in no way will he be able to transfer the heritage that each of the successive high priests of this school inherited from his immediate predecessor.” He threatened voters by saying that the transmission of the heritage of Taiseki-ji will be discontinued should a future high priest be chosen by election. The text of his declaration is as follows:

Declaration

  1. Were I to resign from the position of chief administrator, my resignation would not reflect my true intention; it would be a result of plots against me and intimidation by members of the assembly and some executive priests. There are unjust actions behind this election.

I hereby declare that whoever may be elected through this unjust election (other than I, Nitchu), will in no way be able to transfer the heritage in the way that the heritage has been handed down through the lineage of the successive high priests.

Since the transfer of the heritage is a matter solely between one high priest and another, it is not a subject that others should regard casually. Whoever shall inherit the heritage from me, therefore, must be a person whom I, Nitchu, can trust as capable of inheriting the Law. I hear, however, that there are people who utter poisonous words against the heritage that I, Nitchu, solely inherited from the former high priest. Such words are merely the product of a plot against me. Those who utter such slander are precisely the parasites in the bowels of a lion king. The heritage of this school has been transferred to Nitchu through the correct lineage of the successive high priests. I assert that the heritage of this school exists only within the life of Nitchu, nowhere else.

Since the election will be held in a very unjust manner, no transfer of the heritage (which is supposed take place between one high priest and another based upon their supreme life condition) is possible, no matter who may be elected. This is again because the transmission of the heritage is to be carried out based upon the spirit that respects the Buddha’s mandate. Nitchu upholds the heritage because I am afraid that otherwise the essence of this school will be profaned and the lifeblood of Buddhism will be lost.

I am deeply concerned that the correct way of this school will be overturned. Pure, concerned believers are now courageously advocating justice in a passionate attempt to restore the legitimate way of heritage transmission. It will be truly lamentable if your faith as priests falls short of this correct endeavor. The rise or decline of Buddhism will be determined by this election. I sincerely wish for you to make the right choice in the election.

To those priests and lay believers who, with pure and correct faith, wish to let the sun of Buddhism shine with its original, great light: Devote yourselves to the correct path and be courageous in upholding the correct establishment of this school so that you can dauntlessly protect the three treasures.

Nam-myoho-renge-kyo.

January 25, [1926]

Nitchu

Head Temple 58th High Priest

(and his seal)

Through this declaration, we can sense Nitchu’s profound regret at having been ousted as high priest. He’d had no reason to resign, but because he’d demoted Ho’un Abe in the priesthood hierarchy, the latter held a grudge against him and he was toppled by a coup. His resignation was a result of conspiracy and intimidation.

Only Two Priests Demonstrated Devotion to High Priest Nitchu

Eight representatives of the True Law Protection Group visited the Joren-bo lodging at Taiseki-ji to entreat Nichiko to change his mind and support Nitchu. It was January 29. Also attending this meeting with Nichiko was a leader of the local Taiseki-ji lay believers.

They actually met with Nichiko several times over two days. But the True Law Protection Group’s maneuvering failed; Nichiko resolutely turned down their entreaty.

On January 30, the group’s representatives arrived at Hashimoto Inn in Omiya Town (currently, Fujinomiya City) and discussed until late in the evening what they should do. It seemed certain that Nitchu would be defeated now that their efforts to persuade Nichiko had failed. They decided to take extraordinary action.

They went to the Omiya Police Station at 1 p.m. the next day, January 31, and met with Deputy Police Chief Hikita. They then returned to Tokyo on the 2 p.m. train. These True Law Protection Group representatives seem to have asked Mr. Hikita to investigate the incidents to intimidate Nitchu. They pointed out that Nichiren Shoshu assembly’s non-confidence resolution against Nitchu the previous November was invalid. (Note: Later, it was discovered that Nitchu’s camp filed a lawsuit over this incident. This lawsuit prompted police to eventually investigate Nichiren Shoshu.)

The election for high priest was thus conducted. Shizuoka Minyu Shimbun dated February 12, 1926, published the following article:

Taiseki-ji, a major temple of Nichiren Shoshu located at Ueno Village in Fuji County, is now engaged in an ugly internal dispute. The school is divided in a confrontation between priesthood and laity over the election of its chief administrator. Nichiren Shoshu seems to have abandoned the school’s proud 700-year tradition, established during the days of Nichiren through the traditional transmission of the heritage of his Buddhism. Its shame is now being exposed to the public. Voting in this election ends on the 16th, with vote counting to start on the morning of the 17th. It is predicted that the Rev. Tsuchiya, the former chief administrator, who is supported by the laity, has no chance to win in this election. The Rev. Jirin Hori, the chief administrator’s current secretary, who is backed by the priesthood, will doubtless win. The Omiya Police Station, which is responsible for security of the area that includes Taiseki-ji, is planning to send more than ten plainclothes police to prevent possible disruption as major chaos is expected on vote-counting day.

More than ten policemen were to be mobilized to protect the counting of the votes for the next chief administrator. This article shows the severity of the confrontation within Nichiren Shoshu.

The counting of votes started at 9:05 a.m. on February 17. The total number of votes possible was 87. Two people abstained. The total number of valid votes was 85 [points were assigned based on first, second and third place votes]. The outcome is as follows:

Priest Jirin Hori: 82 points. (Elected)

Priest Shudo Mizutani: 51 points. (Elected)

Priest Koga Arimoto: 49 points. (Elected)

High Priest Nitchu: 3 points

The incumbent, Nitchu, received only three votes. Since Nitchu voted for himself, this means that only two other people voted for him. In other words, only two people were faithful to him. Though priests stress absolute obedience to the high priest, it seems they only follow him obediently when doing so is beneficial to them.

The election gave a rare look at the degree to which the priesthood’s obedience to the high priest was quantifiable. Only two out of the 87 voters absolutely followed the incumbent high priest—a pathetic 2.2 percent!

Pro-Nitchu Lawsuit Prompts Police Investigation of Assembly Members

Nichiko obtained an overwhelming election victory. Next, a committee meeting affirmed his succession to the role of chief administrator and received approval from the Ministry of Education on his inauguration.

It appeared that the three months of murky discord had finally come to an end. But the new situation created a new round of hostility.

The anti-Nitchu group had a happy moment with Nichiko in the center, celebrating his victory at the high priest lodging on the afternoon of the vote-counting day. That is where Deputy Police Chief Hikita of the Omiya Police appeared together with several other uniformed officers. Their investigation was brief on that day, but Mr. Hikita told all those involved in the election to appear at Omiya Police Station the next day, February 18.

The pro-Nitchu group had filed a suit against 21 people (including Nichiren Shoshu Assembly Chairperson Jimon Ogasawara, assembly members, and committee members) who were opponents of Nitchu. The pro-Nitchu group charged that the opposing group had coerced Nitchu’s letter of resignation.

In the early morning of February 18, a committee meeting was held, and it was decided that Nichiren Shoshu would apply immediately to the Ministry of Education for their endorsement of Nichiko as new chief administrator. General Administrator Koga Arimoto and Director Yodo Sakamoto hurried to Tokyo and submitted the necessary paperwork the following day, February 19. Astonished at the police intervention, they were expediting legal procedural matters.

Back at the Omiya Police Station, nine people, including Jimon Ogasawara, were questioned starting at 9 a.m. All nine had been gathered first in a large room within the police center. They were then called one by one into an investigation room. Questioning continued into late evening.

Priests residing in other prefectures were later summoned to the Omiya station. An intense investigation continued there for several days. The conflict within Nichiren Shoshu had reached its lowest point.

By February 24, the prosecution had been sent an investigation report on two individuals—Jinin Kato of the Nichiren Shoshu Administrative Office and Shohei Kawata, chief priest of Renjo-ji. The pair confessed to having fired a gunshot and throwing stones at the reception hall in an effort to intimidate High Priest Nitchu during midnight gongyo the previous November 18.

The report also included such names as Shudo Mizutani (chief priest of Honko-ji in Shizuoka prefecture, who later became Nichiryu-[62nd]), Jimon Ogasawara (assembly chairperson), Koga Arimoto (chief priest of Myoko-ji in Shinagawa, Tokyo), Bunkaku Aishima (chief priest of the Rikyo-bo lodging), Kosei Nakajima (chief priest of the Jakunichi-bo lodging), Shinkei Nishikawa (chief priest of the Kangyo-bo lodging), Yodo Kosaka (chief priest of the Hyakkan-bo lodging), Jiyu Hayase (chief priest of Hodo-in), Teiyu Matsumoto (editor and publisher of Dai-Nichiren), and Kohaku Ohta (chief priest of Renko-ji in Shizuoka prefecture). In the police report, they were mentioned as suspected intimidators against Nitchu. The investigation continued.

Strife over the chief administrator position continued. It was the worst situation that had ever developed at Taiseki-ji. But one day, it all came to a sudden, unexpected end.

On March 6, Nitchu, his wife, his attendant priest, and two members of the True Law Protection Group gathered at Fuji Station, then set off by car to Hashimoto Inn in Omiya Town. There, they joined the three leaders of the Taiseki-ji lay believers for a discussion. That evening, they were met by the two True Law Protection Group members from Tokyo. The discussion continued until late in the evening.

The following morning, March 7, Nitchu and the others returned to Taiseki-ji in two cars. The purpose of their visit was to conduct a public transfer ceremony for Nichiko. The ceremony took place at 10 a.m. at the reception hall. A congratulatory reception followed at 2 p.m.

A private transfer ceremony was conducted between Nitchu and Nichiko for one hour, starting at noon on March 8. The following month, on April 14 and 15, an inheritance ceremony was conducted to officially introduce the new high priest, Nichiko.

This brought to an abrupt end the drama over the position of high priest of Nichiren Shoshu. This resolution was a result of a reconciliation effort by Mr. Shimomura, the Ministry of Education religious bureau chief, who was instrumental in softening the attitude among Nitchu’s camp.

Mr. Shimomura’s efforts were likely made in either late February or early March. Five points were agreed upon during the meeting.

It is not clear who from the Ministry was there to witness the reconciliation. It is certain, however, that the two camps reached an agreement at the reconciliation session. Several newspapers reported on the five points of agreement:

  1. The pro-former-high-priest group and the pro-current-high-priest group shall cooperate in order to maintain the legitimate establishment of this school.
  1. The new high priest shall reform Taiseki-ji and this school.
  1. Both former and current high priests shall discuss this school’s matters of great importance.
  1. The new high priest shall not involve himself in the school’s trivial matters.
  1. The new high priest shall devote himself to promoting faith and practice among both priesthood and laity.

One sticking point in the delicate negotiations was the matter of retirement benefits for Nitchu. Masajiro Tanabe, a True Law Protection Group member, revealed this in a document called “A Document of Exhortation for Many in Body, One in Mind” in September after Nichiko’s inauguration:

In the meantime, the retirement fee for High Priest Nitchu was 3,000 yen in cash (which is also reported in “Correct Mirror,” a document disseminated by the anti-Nitchu group.) The Taiseki-ji lay society’s representative secretly discussed with outgoing High Priest Nitchu what he might think of an offer of 70 sacks of white rice. But the retirement offering was later reduced to 25 sacks of rice and 1,000 yen in cash, after the transmission of the heritage was conducted on March 8. It is said that even this reduced offering was not distributed as promised to the former high priest Nitchu.

Astonishing. This document reveals that Nitchu, in return for a smooth transfer of the heritage, was promised a retirement of 3,000 yen in cash and 70 sacks of white rice. This was allegedly proposed by the Taiseki-ji lay believer leaders. It is not certain whether the new high priest’s group approved this offer, but Tanabe, who sided with Nitchu, disclosed that the award was reduced to 1,000 yen and 25 sacks of rice after the transmission was completed.

Tanabe revealed this secret retirement was proposed at a time when the scars of internal strife had not yet completely healed. He does not seem to be lying. Whether the retirement bonus was paid must have been a subject of interest among the priests and believers of Nichiren Shoshu. The sanctity of the heritage transmission from one high priest to another, the source of Nichiren Shoshu priesthood pride, was severely tarnished in those days.

At the time, 1,000 yen would be the equivalent of 1.5 to 2 million yen (approx. 19,000 to 25,000 dollars) today.

After all this, the retirement award money and rice were not given to Nitchu. Almost all the priests and lay believers opposed him, eventually banishing him. He had been high priest for only two years and three months, and the treatment he received from other Nichiren Shoshu priests was awful.

It is inconceivable, however, that the scholarly and honorable Nichiko would be involved in reneging on Nitchu’s retirement payment.

The idea for this deal was likely drawn up by priests with political interests who had carried out the coup against Nitchu. Their purpose would have been to nullify the influence of Nitchu and the True Law Protection Group. We can sense behind the scenes the intention of these priests to use Nichiko to put Nichiren Shoshu under their control.

Nikken’s Father, Who Became 60th High Priest Nichikai, Was at the Center of the Coup

It was commonly known that Ho’un Abe was at the center of priests seeking political power. Abe was also involved in various plots to become high priest. Koga Arimoto, another political priest behind the coup, also became a candidate in another high priest election as a fierce rival Ho’un Abe after Nichiko resigned in November 1926.

Abe won the election, finally placing himself on the high priest’s throne. The defeated Arimoto issued a statement (dated March 13, 1928) revealing Ho’un Abe’s machinations from 1924 to 1928. What it describes is how Abe behaved as a devilish function (King Devil of the Sixth Heaven) appearing in the Latter Day to decimate the teaching of the Law.

The Buddha’s will did not support their scheme. The Rev. Nitchu became 58th high priest. Ever since then, the political priests schemed, saying that the 59th will be the Rev. Abe and that the 60th will be Sakio and so on. In this way, they disparaged the impeccable reputation of the school’s heritage transmission. In their unpardonable plot, Sakio was promoted two ranks higher in the priesthood hierarchy for the sake of the upcoming election. Isn’t this strange?

The most frustrated person, however, was the Rev. Abe. In a desperate attempt to enhance his reputation, he contributed an article to Dai-Nichiren, titled “Admonishing Shimizu Ryozan.” This article attacked remarks made in an interview by Mr. Ryozan, a scholar of Nichiren schools in Japan. When High Priest Nitchu saw the article, he was astounded at the Rev. Abe’s immaturity and lack of consideration, to the point where the high priest directly reprimanded him, stating that Abe was not suitable to be general administrator or to retain noke status in the hierarchy of priesthood. Although the Rev. Abe apologized, he was still compelled to resign from his positions.

Abe and his associates developed a profound grudge against High Priest Nitchu, and regarded the high priest’s action as revenge against the group’s scheming. The Abe group also developed a grudge against the Rev. Arimoto, who acceded to the Rev. Abe’s former position. The action taken by High Priest Nitchu, however, was not based upon secular emotionalism, it was precautionary, taking into account the terribly negative impact that the Rev. Abe’s article have and how that would reflect on the teachings of this school. As a matter of fact, High Priest Nitchu asked the Rev. Hori (who was then at the Joren-bo lodging) if there was any way to save the Rev. Abe’s article. The Rev. Hori replied that the article was extremely poor and that it was not advisable to publish it in Dai-Nichiren. Thus it was not published.

This was how the Rev. Abe lost the position of noke, which made it impossible for him to be a candidate for chief administrator. Outraged by this development, he and his associates searched desperately for a way to regain his position. The Abe group paid careful attention to the sentiments of the people at the assembly meeting in November 1925.

Recognizing that Nitchu’s personality did not harmonize with other priests and lay believers, and taking advantage of the general respect shown to the Rev. Hori, the Abe group supported Hori’s candidacy and succeeded in creating an unfriendly atmosphere throughout the school toward Nitchu, who eventually was forced into retirement.

The author of the statement, Arimoto, had acceded to Abe’s position of general administrator at the time of the coup. It was Nitchu who had appointed Arimoto to this number-two position, and it was Nitchu who was betrayed when Arimoto joined Abe in his scheming. Arimoto’s betrayal was most instrumental in making the coup successful.

The statement reveals the secret story behind this alliance:

In winter 1925, when distrust of High Priest Nitchu became an issue, the Abe group was ready to put the Rev. Abe in the position of chief administrator. It was a tremendous job to convince the group of the necessity of promoting the Rev. Hori for high priest. Since we asserted that we would not support the Rev. Abe unless they would uphold the Rev. Hori for now, the Abe group reluctantly followed our instructions.”

In this way, the political priests used Nichiko Hori against Nitchu.

As the new high priest, Nichiko-[59th] was the ideal person to restore Nichiren Shoshu’s reputation; the school had tarnished its image terribly through its ugly internal squabbles.

Without Nichiko’s demonstration of virtue and discernment, there could not have been a peaceful resolution. Nichiko was indeed a treasure Taiseki-ji could boast about—it is a shame that he was further hurt by his colleagues’ scheming and plotting.

‘Political’ Priests Use Nichiko for Their Purposes

‘My Wish’—Nichiko’s Heart-Warming Memoir

Nichiko wrote a memo to the priesthood titled “My Wish,” in which he described his honest feelings during this tumultuous period. His personal impressions as the new high priest also appear at the very beginning of “One Hundred Sacred Lessons” [April 1926 issue of Dai-Nichiren].

I changed my name in early March. I did not abandon my old name; all I did was change my name based upon the Rules and Bylaws of this school for the priesthood in dealing with matters of correctness and obligation in secular, public documents.

It turned out that I had to use the name Nichiko publicly and privately for good, since the name change was registered at the government office. My old name, Jirin, had been given to me by my first mentor, Koken-bo Nichijo, who came up with it based upon a New Year’s Day dream. “Nichiko” was given to me by Nichiden Shonin, a great mentor. Both names are very special to me. Such names as Sessen, Suika, and Enichi are the names I gave to myself, so I have no special feeling toward them.

He also spoke frankly about his feelings after taking office:

I have no idea of how much my character has improved as an individual in proportion to the rise of my position in the priesthood hierarchy and in accord with the change of my name.

This remark reflects Nichiko’s character and heart, in stark contrast to Nikken, who insists he is “the Daishonin in modern times” and “as respectable as the Dai-Gohonzon.”

Year after year, I am aging and weakening. My hair has become increasingly gray, and my spirit has been on the decline. And I am becoming more useless. These are sure things. I cannot say how much my faith and character are improving. Certainly, my value as an individual has not changed at all despite my name change from Jirin to Nichiko.

Here, we can deeply sense his virtue as an individual and noble life condition as a priest. Even when he first attained the position, it was apparent the humility with which he tried to fulfill his mission as both a priest and a disciple of Nichiren Daishonin.

Upon taking office, Nichiko issued the following candid request to the priesthood and laity. This, certainly, is what a priest should be.

It seems to me that when priests and lay believers make offerings to the head temple as a token of their faith, they tend to offer finery to the high priest such as an elegant kesa robe, a clergyman coat (hoi), or white Japanese middle wear. They also offer rare and precious candies and fruit and even household items. These all seem overwhelmingly luxurious compared to ordinary offerings made to other priests. For example, when I was just Jirin, no one gave me a hoi. But after I became Nichiko, I hear people say they would like to offer this or that to me. Since I have no virtue to receive such offerings, I feel I don’t deserve them.

From this, we can tell that he was embarrassed to receive so many, often luxurious, offerings.

I am a common, ordinary, unaccomplished priest—if, month by month and year after year for the coming years, I can bring some benefit to this school without disgracing the seat of high priest, I may become qualified to receive humane or heavenly offerings, perhaps even the clothing of high and rare quality. I am, however, still a plain, elementary priest disgracing the seat of the lion king. Therefore, I am not in a position to receive high-quality offerings. And I don’t want to put myself before the Buddha and benevolent deities as a greedy, shameless priest. Also, I don’t want to put myself before my most respectable mentor and past sages. Also, I am afraid of the effect I may receive in the future due to the sin of recklessly accepting offerings from believers with sincere faith.

He clearly asserts here that he feels he has not made much contribution to this school yet. And he sets a clear limitation as to what the head temple should receive as offerings:

Offerings of clothing should be limited to inexpensive clothes. Please do not offer expensive silk goods. If you offer clothing, please make it the type that I can comfortably hand down later to acolytes.

And I request that any furniture offered should be inexpensive, robust and practical.

If you offer food, please offer ordinary foods usually preferred by those who live a below-middle-class lifestyle. Rare foods and expensive offerings should be absolutely prohibited. Please refrain from offering yokan, manju or sweet desserts—they are not good for health, since they contain lots of sugar.

Specifying that offerings should be meager and humble was no small declaration. He continued:

If I say this, some may say: “You’re limiting one’s sincere resolve in making offerings to the Buddha. You’re diminishing the good root of one’s faith. You’re not employing Founder Daishonin’s teaching that the debt of gratitude one owes to a white crow may be repaid to a black crow.[3] I am not making offerings to you, I am giving you these things as if giving them to the true Buddha Daishonin. If you refuse to accept them, you are doing something incorrect.” What they say makes sense, but while I am high priest of this school, please let me have my own way in this regard. Please understand how I feel toward this matter. And if you still disagree with me and really want to make the sincerest offerings to the Buddha out of gratitude, please make offerings that benefit the public, not private gifts to me.

What are public offerings? One category would be Buddhist altar accessories. Another would be various Buddhist items.

Speaking of altar accessories, I think what we have at the Mieido and other temples, which is supposed to dignify the Gohonzon, is very indecent. I am sorry for the Gohonzon. As I serve the Gohonzon every day, I really feel sorry for it. It is OK that us priests possess shoddy Buddhist goods, but I would like us to dignify the Gohonzon in a splendid manner.

He further stated:

The current temples on the head temple grounds are in need of attention. But we cannot improve them with a small amount of money. When it comes to having a complete set of wonderful Buddhist altar accessories, we don’t have to spend too much money—a table before the Gohonzon, a sutra table, or other goods can even be offered separately. One person does not have to offer a complete set of altar accessories at one time. If various people make random offerings of Buddhist furnishings on their own, the various temples of the head temple may look like Buddhist altar shops, which is not wise. Therefore, in making such offerings, please coordinate with the head temple prior to your purchases. A lot of offerings in the form of Buddhist furnishings that were thus far made seem to have been wasted since they were given to the head temple without any planning.

As to the offerings of Buddhist goods, some of them are used exclusively for the head temple. Many others are used for welcoming visitors. Few would be satisfied on their pilgrimage to the head temple should they be served with poor merchandise despite their sincere faith. Of course, the head temple will be very careful about treating our visitors well, but it may take a great amount of money and time before we can have a complete set of serving ware. If well-wishing believers have a good prior discussion with the head temple before making offerings in the form of Buddhist goods, they can select items on their own that accord with the head temple’s needs. That way, other believers who may use such items will also be satisfied as well as the people who donated them. Such a great way of mutual service was found in the past as well, but it is my sincere wish that our believers will spend for our general Buddhist materials rather than just for my sake. I sincerely apologize for having used too much space on the topic to express my personal requests, which I should have made separately to individuals.

He retains my wholehearted respect.

No Sign of ‘Mysticism in High Priest Position’ in Nichiko’s Actions

Nichiko wrote an article titled “Confession” on November 20, 1927, two years after he was inaugurated, expressing his intention to resign as high priest.

The foreword to “Confession” is titled “My Sincere Exhortation to All Priests and Lay Believers of This School,” and the rest consists of four parts: 1. “Process Behind My Becoming Chief Administrator”; 2. “Term of Chief Administrator”; 3. “Cause for Resignation of High Priest”; 4. “Immediate Cause for Resignation from Position of Chief Administrator.”

The foreword begins:

I assumed the roles of chief administrator and high priest for unavoidable reasons. From the inception of my inauguration, I repeatedly expressed my desire to resign from these positions as early as possible. Therefore, if you have heard of my resignation, don’t be shocked. Rather, you should celebrate my early departure. At the same time, those members of the assembly who are aware of the reality of this school should be able to let those who are not so aware of the situation to know about this change (“Confession”).

Nichiko shows here that from the time of his inauguration he had strongly intended to resign. He felt he should do so early, because becoming chief administrator and high priest had not been his true desire. He merely took the office because others had persuaded him.

In the next sentence, Nichiko described receiving one letter after another requesting him not to resign.

My silence is partly responsible for this conflict, which we may have to regard as an extremely unfortunate incident for this school if a group of people were marginalized over this ordinary, positive change. (“Confession”)

Nichiko is hinting that, although he had received many such letters, there seemed to be a group who specifically did not want Ho’un Abe to become the next high priest. In those days, apparently there were strong opinions and substantial agitation regarding the high priest position.

Nichiko explained in his “Confession” that political considerations were not the reason he contemplated resigning. He concluded his foreword to “Confession” by saying “I wish for you all to read this document most carefully.”

The first section of the main text, titled “Process Behind My Having Become Chief Administrator,” reads as follows:

I first have to explain why I came out of retirement after more than ten years to assume the roles of chief administrator and high priest, positions unsuitable to my character. Many people refer to the great incident that broke out in November 1925, saying I was pulled out of the gloomy cave of retirement and promoted to the ultimate position of the Law for the good of this school. All of you shared the same feeling that our school would be secured through my inauguration. I felt differently, however. I believed that the original cause for this grave incident existed within me. Hence, I was resolved to quiet this disturbance by any means. With this determination, I accepted the earnest request from the four teachers, that is, Mizutani, Arimoto, Ogasawara, and Fukushige. (“Confession”)

He explains that he was inaugurated to calm the situation that arose from the Nichiren Shoshu assembly’s November 18, 1925, resolution asking Nitchu to resign as high priest.

He discloses that those who entreated him to become high priest were the pro-coup priests: Shudo Mizutani (committee member; later Nichiryu-[61]), Shuin Mizutani assembly member; later Nissho-[64]), Nichijin Arimoto (assembly member and general administrator), Jimon Ogasawara (assembly chairperson), and Shohei Fukushige (assembly member). Ho’un Abe, who was planning to be next high priest, was manipulating these priests behind the scenes.

Nichiko continues:

But I thought it necessary to put an end to the incident, which was so divisive to this school. Therefore, I assumed the role of chief administrator, feeling as if I had been placed on the guillotine. I was determined, however, to exert myself to rectify the sin I committed by avoiding my original responsibility as chief administrator, figuring that I would spend at least three months or at most six months (at this responsibility). I could not, however, bring satisfactory solution to this internal strife, due to some desperate manipulations behind the scenes. Therefore, I could not resign halfway through without accomplishing anything. (“Confession”)

Indeed noteworthy is the description of his feeling upon taking office as new high priest: “I assumed the role of chief administrator, feeling as if placed on the guillotine.”

Nichiko’s expression must sound unpalatable to the current Nichiren Shoshu leaders, who exalt the position of high priest. As Nichiko was in that very position, doesn’t his description here demystify it? Doesn’t it defeat the idea that whoever holds that position has a special life condition?

Today, Nichiren Shoshu propounds that once someone becomes high priest, he obtains the same life condition as Nichiren Daishonin. Nichiko, in contrast, was humanistic; while holding the seat of high priest, he sought the earliest retirement.

Nichiko’s statement in “One Hundred Sacred Lessons” about his feelings upon inauguration, completely undermines the idea that the person at the seat of high priest possesses the same life condition as Nichiren Daishonin. Nichiko said: “I have no idea how much my character has improved as an individual in proportion to my rise in the priesthood hierarchy and in accord with the change of my name.”

Many in Nichiren Shoshu Oppose Nichiko’s Renovations

It seems that having to move to the high priest quarters upon taking office was against Nichiko’s intention. He writes:

. . . I finally moved to the high priest quarters on April 9, 1926. I left the Joren-bo, where I had once decided to dwell for the rest of my life, since many felt it was improper for me to commute from that retirement lodging to the reception hall area; the scroll-airing ceremony, which was always held at the reception hall, was near at hand. (“Confession”)

Furthermore:

Although I am high priest for now, my thought is that I am a temporary, interim high priest. I have had no intention whatsoever to become an honored high priest who inherits the heritage of this school. First, I earnestly want my sentiment to be understood by all people, as it was reflected in my behavior ever since last year. (“Confession”)

It is surprising that he uses the expression “a temporary, interim high priest.” Today’s authoritarian Nichiren Shoshu priesthood would be dumbfounded by it. I wonder how those priests who “deify” the position of high priest would react to Nichiko’s words.

Nichiko went on to say, “I have had no intention whatsoever to become an honored high priest who inherits the heritage of this school.”

He had no affectation as high priest, but he was an outstanding scholar in modern Nichiren Shoshu. He was of noble character, the type of person before whom you would want to put your palms together in respect. In the third chapter of his “Confession,” “Cause for Resignation of High Priest,” Nichiko writes that he had both internal and external reasons for wanting to resign.

As his personal reasons, he explains, in effect, that he had taken actions that reflect his character, but not the conventional way of Nichiren Shoshu. Accordingly, his relations with other priests were not smooth. His lifestyle as high priest did not match his ideals and character. His health declined, and he was assailed by an unidentifiable illness. Should he collapse, he said, it would not be good for the school. Nichiren Shoshu would have a hard time taking care of him. The sacred task to which he had been devoted for the past twenty to thirty years—the compilation of Nichiren Daishonin’s writings—would remain unfulfilled. In that case, he wouldn’t be able to die in peace. Here is the actual text of his remarks:

Talking about my personal reasons, as I stated in the first point, the role of chief administrator does not fit my character. If I behave in a way that suits my personality, my behavior may not be what is expected of a high priest. I may develop unfitting relationships with others. I may also develop disharmonious relations with my seniors and juniors. These things will definitely occur. Because of these personal reasons, I am only able to assume the role of chief administrator briefly, for one or two years. To live a lifestyle that matches neither my ideal nor my character disturbs and discomforts my mental and physical health. It may give me frequent bouts of undefined illness, mysteriously caused by disharmony of the four elements. Should I fall to such illness, it won’t be good for this school. Not only that, I will have ended my life as an obvious troublemaker. It would be very regrettable were I to allow the sacred editorial work I have desperately wanted to accomplish for the past twenty or even thirty years to go unfinished. Should that happen, I would not be able to die in peace. This is the primary reason I want to resign. (“Confession”)

It seems that many in Nichiren Shoshu did not welcome Nichiko’s innovative actions. And Nichiko seemed dissatisfied spiritually as high priest. Instead of staying in a position that did not suit his character, he would have rather spent his time and energy on the sacred task of compiling Nichiren Daishonin’s writings.

Also, it appears that no one felt obliged to follow him with absolute obedience, even though he was dedicated to Nichiren Shoshu administrative matters with a clear sense of purpose toward kosen-rufu, and living a sincere and humble daily existence.

Powerful priests such as Ho’un Abe took advantage of Nichiko’s sincerity and honesty in order to oust Nitchu. Once the school was rid of Nitchu, Nichiko’s presence became annoying to them.

Those in power within Nichiren Shoshu opposed Nichiko in many ways, which is obvious from his “Confession.” His spiritual worries had already reached the limit of his capacity.

Evil Priests Entrenched Before Soka Gakkai’s Appearance

After disclosing his internal reasons for wanting to resign, Nichiko gives six external reasons. First:

It was an unbearable disgrace to conduct an election for the position of chief administrator in December 1925, having been pressured by the local government agent responsible for the management of religious organizations.

A similar description can be seen in the initial part of this chapter.

This evolution I neither sought nor desired, but many priests had to go through the disgraceful circumstances of being involved in a police investigation. Not only that, they were defamed in many ways. I had to put up with all sorts of anguish. (“Confession”)

I referred to this previously in detail. It was an “an indelible disgrace” to Nichiko that the election of a new high priest was conducted under the supervision of the police. Constantly aware that he came to the position through the intervention of national authority, he repeatedly referred to himself as “an interim high priest.”

In his “Confession,” he wrote about the heritage transmission in which he took part:

Since I was an interim high priest, I felt that I should not have to go through a major transmission ceremony; I did so, however, in response to various people’s desire and the government officials’ intervention. That I went along with this uncomfortable formality is, to me, a permanent disgrace, as I was so passive in the face of third-party pressure. (“Confession”)

Here, in great honesty, he asserts that the heritage transfer ceremony on March 7, 1926, was a disgrace.

Nichiko points out various people’s requests and the national authority’s intervention as the reasons he had to go through the uncomfortable formality of the heritage transmission.

The “various people” must be referring to powerful priests and lay believers within Nichiren Shoshu. The national authority’s intervention indicates the Minister of Education religious bureau.

Those people seem to have wanted to conduct the transfer ceremony in a grand manner so that it would clearly signal the end of strife within Nichiren Shoshu. Nichiko, however, felt disgraced by the fact that the national authority used the sacred transfer ceremony as a means to end the internal squabbling.

Things went ahead, contrary to Nichiko’s will. The public transfer ceremony was conducted March 7 at 10 a.m. at the Taiseki-ji reception hall. It ended at 1 p.m. A congratulatory reception followed at 2 p.m. An hour-long private transfer ceremony between the old and new high priest was conducted at midnight on March 8.

After completing the heritage transmission to Nichiko, Nitchu left Taiseki-ji. A priest allegedly threw stones at the departing Nitchu.

Thus, before the Soka Gakkai appeared, Taiseki-ji was a Latter Day of the Law hotbed of errant priests.

Nichiko refers to another reason he wanted to resign:

  1. The fact that I heard the contents of the heritage from lay believers assigned by High Priest Nissho was very puzzling; I wonder if what I had to do is in sync with the Buddhist spirit of ‘seeking enlightenment through a senior.’ [priest, not laity] (“Confession”)

Nichiko received the heritage from Nitchu in a transmission ceremony conducted at midnight on March 8, 1926, through the intervention of the national authorities.

It would seem logical that Nichiko thoroughly received the heritage from Nitchu at that ceremony. He writes in “Confession,” however, that he’d had to ask the person who temporarily received the heritage from Nissho-[57th] about the contents of the heritage. This begs the question: why?

A commotion arose within Nichiren Shoshu, compelling some to worry that the heritage transfer from Nitchu to Nichiko was insufficient, or to worry that Nichiko—who was known as a great scholar—had perceived something lacking in Nitchu’s transfer to him.

Nichiko Sensed Something Missing in Heritage Received From Nitchu

We need to confirm how the transmission of the heritage between Nissho and Nitchu was conducted in order to understand Nissho’s statement quoted in “Confession” that “I entrusted a special heritage.”

The heritage transfer was conducted under very unusual circumstances, the source of which was Ho’un Abe’s attachment to the position of high priest. As explained in detail earlier, the transfer between Nissho-[57th] and Nitchu-[58th] was conducted with two lay believers as middlemen.

Nitchu, the 58th high priest was ousted in a coup led by Nichikai.

Ho’un Abe aimed at succeeding Nissho, but his plan was not realized. Then, he focused on succeeding Nitchu, which he ultimately could not pursue because it would mean uniting with Koga Arimoto’s faction. He had no choice but to temporarily support Nichiko. As soon as Abe regained the priesthood rank he had once lost, however, he schemed to isolate Nichiko and urge him toward early resignation.

After Nichiko’s retirement, the Abe and Arimoto factions that had previously cooperated to oust Nitchu, became fiercely opposed, culminating in a terrible election for the next high priest in which bribery, intimidation and favoritism prevailed. Ho’un Abe, brought confusion to the stage upon which the heritage was to be transferred.

Ho’un Abe later became Nichikai the 60th high priest. He is the father of Nikken, 67th high priest.

The specific person “upon whom High Priest Nissho entrusted the heritage” and the individual whom Nichiko asked about its contents are mentioned in Nittatsu’s Refuting Evil: The Theory of Wooden Gohonzon Being Counterfeit. How regrettable that he had to deal with these two lay believers—Tatsu Nakamitsu and Umetaro Makino—regarding the heritage they temporarily received from Nissho to pass along to Nitchu.

Again in “Confession,” Nichiko shares his view that “I am an interim high priest,” surely referring to this unusual transfer. Since he had to humbly confer with these two lay believers, he must have felt the heritage he received from Nitchu was insufficient.

The fifth point is as follows:

  1. Even though I submitted seven or eight new ideas for reforming the Rules of this school, which included very important proposals, the drafters, administrative office staff and assembly members gave them the silent treatment. As I could not force my ideas upon them, sadly, I was powerless as chief administrator. I relinquished my ideas, telling myself that the time had not come yet for them to be enacted. As a result, I felt irresponsible, which caused me unavoidable pain.

Nichiko wanted to revise the Rules of Nichiren Shoshu in hopes of reforming the school. But the priesthood coldly ignored his intentions, silently killing his ideas.

Nichiko’s ideas were not overtly rejected at the assembly meeting; rather, the Nichiren Shoshu staff priests just ignored his instructions. In other words, they protested against Nichiko by not doing their jobs instead of obeying him without question.

There is no way of knowing the reforms Nichiko sought. His ideas must have been too innovative. Rejection by the Nichiren Shoshu staff must have contributed heavily toward his desire to resign.

Nichiko labeled himself “irresponsible” either for not standing up to those priests who stood against him or for not maintaining his resolve to realize his reformation plan.

Here, he describes his sixth external reason for resignation:

  1. Ever since I took office, I felt lacking in personal assets. I left the staff to responsibly fulfill their roles. The income from the scroll-airing ceremony that commemorated my inauguration was used for repair work on some of the head temple buildings. Despite our income, we spent so much money on the improving our structures that the staff had to go through excessive hardship. I myself have almost no money in my pocket; I am living a life of austerity. Yet, I have not heard any positive comments that the high priest and staff are doing a great job. Rather, I hear negative comments about us. Under such circumstances, I am not sure we can successfully hold an upcoming event to commemorate the passing of the founder and show him our debt of gratitude. Such an incapable high priest lacking in virtue should not stay in the supreme position for long. I wonder why I have yet to receive a letter recommending my resignation.
Nichiko Chooses Resignation to Work Toward His Sacred Mission—The Compilation of Nichiren’s Writings

Nichiko, the 59th high priest, devoted his life to compiling the writings of Nichiren Daishonin that were published in cooperation with the Soka Gakkai under second president Josei Toda.

In 1931, a great undertaking celebrating the 650th anniversary of Nichiren Daishonin’s passing was scheduled at the head temple. Nichiko thought that such a significant event should not be carried out under his administration. This was another reason he chose to resign.

In fact, Ho’un Abe’s group and Koga Arimoto’s group, the two dominant factions at Nichiren Shoshu, were both planning to hold significant 650th anniversary services conducted by their respective group leadership.

Accordingly, neither group heeded Nichiko’s instructions. They ignored him as much as possible; and Nichiko, in isolation, felt he had no choice but to resign.

On top of that, there was a particularly troubling incident. A priest who attended Nichiko became mentally unstable. As Nichiko relates:

From among the assistant priests who were serving me, I acquired an acolyte who lost his sanity. Buffeted by the stormy waves of frivolousness and wickedness in the outer world, his mind broke down, his faith filled with arrogance, his honesty becoming doubt, and his small-mindedness becoming fear. Thus he would spend each day in anger, tears, fear and empty laughter. What awful karma this is! Sinful is this insane boy. But how can I just go about blaming him for hurting my virtue? Both the ailing and the insane should be at peace under the compassion of the high priest. People have such belief. It is indeed unusual that such a young priest, who has been nurtured for more than ten years in this school, should suddenly go insane. It would unlikely be pointless to just accept it as my karma to have such an assistant priest in my environment. Deeply believing that this is how the true Buddha is teaching me things, I secretly gave up my place and isolated myself at the Sessen-bo lodging right after the oeshiki ceremony was over, even without having obtaining permission from other executive priests regarding my resignation. Here at this lodging temple, I am praying for the recovery of this sinful boy. This is how miserable I am. I am a small-minded person, but how can I shamelessly and peacefully remain in the highest position of high priest? This is justifiably an immediate reason to resign. Taking the current situation as the Buddha’s punitive admonition, I am now in isolation.

Nichiko refused to be indifferent to this unexpected situation. He concluded that he could not assume his high priest responsibilities with an insane acolyte around him. This incident became an immediate cause for his retirement. Reflecting on his not acting boldly for the renovation of Nichiren Shoshu, Nichiko’s assessment was, “My indecisive attitude has finally incurred the fury of the Buddha and heavenly gods.”

On thing to add here, however, is that all these external causes as well as his attendant having become insane were no more than supplementary reasons for his resignation.

His primary reason for resigning was internal. He had a burning desire to accomplish such sacred undertakings as compiling Nichiren Daishonin’s writings (Gosho) and the publication of Complete Works of the Teachings of the Fuji School.

Nichiko emphasizes this internal reason:

It would be so regrettable if I allowed the sacred editorial work that I desperately wanted to accomplish for the past twenty to thirty years to go unfinished. If this should happen, I won’t be able to die a peaceful death. This is my primary reason for resigning.

He had decided these should be his lifetime accomplishments, and he resolved to resign, determined that the conflicts caused by evil priests in the Latter Day of the Law would not sway him and keep his sacred work from being done.

The Nichiren Shoshu laity has been enslaved under the authority of the priesthood, which claims that Nichiren Daishonin’s teachings belong only to the priests and urges lay believers to depend on priests. The laity is nurtured to become dependent. Lay believers are encouraged neither to study nor propagate Buddhism.

Nichiko, trying to expel the stagnated air from Nichiren Shoshu, wished for the people to play a chief role in propagating the Law.

In Complete Works of the Teachings of the Fuji School, Nichiko made public the contents of such transfer documents as “Transfer Teachings on First Bath,” “The Transmission of Seven Teachings on the Gohonzon,” and “The Transmission of Three Points on the Gohonzon” that were supposed to be treated as secret teachings.

Nichiko must have worried that the transfer documents could be distorted, judging from the ugly behavior of priests like Ho’un Abe.

Or he may have wanted his juniors to not undergo the shame he had to as high priest, the deplorable situation where he had to hear from two lay believers about the contents of the heritage. Or he merely might have perceived that the time had come to publicize the contents.

It seems indeed wondrous that Soka Gakkai second President Josei Toda vowed to publish Gosho Zenshu (Complete Works of Nichiren Daishonin) together with Nichiko.

Nichikai Underwent Constant Strife

No Heritage for Someone Who Became Chief Administrator Through Corrupt Election

Nichiko publicly revealed his intention to resign at the November 1927 Oeshiki ceremony.

Nichiren Shoshu was divided into two camps—the Renyo-an Group in support of Ho’un Abe (who later became Nichikai-[60th]), and the Fujimi-an Group headed by Koga Arimoto.

A certain individual who was surprised at Nichiko’s retirement announcement at the Oeshiki ceremony, allegedly said to him:

If you quit as high priest now, this school, which has finally been stabilized, will undergo another furious battle. Please stay in the position. (from “A Document of Message”)

With firm determination, Nichiko replied:

I know further chaos will come. The division of this school into two entities will eventually cause things settle down in the way they are supposed to. You people may become excited about this seeming turmoil, or you may feel content as you may find it worth your challenge. Do as much as you want. (from “A Document of Opinion”)

Since all administrative matters were then under the Abe group’s control, Nichiko was powerless. The Taiseki-ji Administrative Office staff treated him coldly and disregarded his reformation proposal.

Nichiko had had no desire to become high priest. He was inaugurated to resolve major confusion at that had become obvious through the November 1925 coup against Nitchu. It may be more precise to say that the majority group within Nichiren Shoshu used Nichiko to realize its scheme.

Since he was now being ignored as a result of the Abe group’s influence within Nichiren Shoshu, despite having cooperated with the school’s anti-Nitchu groups since taking office, Nichiko seemingly resolved to retire early in order to focus on his study of Nichiren Buddhism.

Upon hearing of his intention to retire, Nichiren Shoshu went into election mode, sensing a fierce contest between the Abe and Arimoto groups.

After Nichiko’s inauguration, Ho’un Abe, who had earlier been demoted by Nitchu from the rank of noke[4] was reinstated as a noke priest. It was around that time that the Abe group began to plot Nichiko’s isolation and eventual early retirement.

The Abe group, having successfully seen Nichiko removed from administrative matters, now maneuvered toward victory in the upcoming high priest election. The Arimoto camp was unprepared.

In 1927, seemingly having laid the groundwork with Nichiko, the Abe group, secretly had nine members promoted to the position of teacher. It was highly irregular for that sort of special promotion to be given within the school, and the Arimoto group naturally took issue.

This demonstrates the Abe group’s well-planned preparations for the upcoming election. The Abe camp seems to have already started its election campaign in October, before Nichiko had even revealed his intention to resign. Before the official commencement of the election, the Abe group was visiting ill priests and their families, stopping over at priests homes during trips, and sending gifts to priests eligible to vote.

The Abe group seemed relentless in its corrupt efforts to win. After the election, the Arimoto group issued its own document (dated March 13, 1928) to criticize the Abe group’s campaign wrongdoings. It reads in part:

Considering a certain temple’s chief priest to be too old, this person, lying about being a messenger from Shinagawa, had the priest driven by night to Tokyo. He secretly served this priest sake and a meal. As the priest became intoxicated, he filled out an address-change document, attempting to have him vote for Teacher Abe by sending a ballot to this new address. Via an attorney, we went to great pains to reclaim this ballot. Also, the Abe group kidnapped another temple chief priest. While dining with people from the Abe group, this chief priest was denied his freedom until he eventually agreed to vote for Teacher Abe. Yet another temple chief priest, who had vowed to the Buddha and heavenly gods that he would vote for Teacher Arimoto, was intimidated by the Abe group’s campaigners into voting for Abe.

Also:

There are many actual cases in which the Abe group hindered the Arimoto group from obtaining votes. For instance, the Abe group forced a chief priest to go out to conduct a believer’s memorial service, thus making it impossible for our group to contact him. Also, the Abe group tried to buy a vote by telling a chief priest he would be transferred to a more-prestigious temple or be promoted within the priesthood hierarchy. And they threatened to fire or transfer another chief priest unless he voted for the Rev. Abe. And they pressured another chief priest to vote for the Rev. Abe using a powerful lay believer. And they sent a misleading telegram to prevent another chief priest from voting for the Rev. Arimoto.

Jimyo Tomita, representing the Abe group, rebutted the document with his “A Document of Rebuttal” (dated December 29, 1928), which states in part:

Other priests were coerced into voting for Teacher Abe. The Arimoto group discovered this and had one of them write to the Administrative Office about a change of mind. Another priest, from the Tohoku region, sent the Administrative Office a letter expressing his change of mind, fearing intimidation from the Arimoto group. A priest from the Abe group, hearing about such intimidation by the Arimoto group, sent a new document to the Administrative Office pointing out that the priest’s reversal did not reflect his true intention.

Election campaign battles like this took place across the country. Both the Abe and Arimoto groups used the tactics of intimidation and bribery.

Despite the ugly election process, because of Nichiren Shoshu’s claim that the high priest alone possesses the Nichiren Buddhism heritage through the Taiseki-ji lineage, once a person is inaugurated into the high priest’s seat, he is automatically cloaked in the mystification of the position. The Buddha’s children—the disciples of Nichiren Daishonin—need to correct this distorted view. We must deepen our awareness of Nichiren’s original teaching regarding the heritage of his Buddhism. The true heritage of Nichiren Buddhism resides within the life of each person who, with pure faith in Nichiren Daishonin’s original teaching, is connected with Nichiren himself.

Ambitious Nichikai Was Always at Center of Conflict

December 18, 1927, was the date a new chief administrator was to be determined. It was vote-counting day at the head temple—eligible voters had sent in their votes.

Taiseki-ji was in an uproar that day, as the Abe group had asked for police mobilization. The vote counting was conducted, supervised by the police. Yet there were minor skirmishes here and there on the head temple grounds. The Arimoto group’s “A Document of Message” depicts Taiseki-ji that day.

Ho’un Abe received 51 votes while Koga Arimoto garnered 38. The Ministry of Education religious bureau had to help assess the election validity because various violations had occurred, including the aforementioned sudden increase of nine (eligible to vote) teachers courtesy of the Abe group.

Charges were filed at Omiya (currently, Fujinomiya) Police Station resulting from the confrontation between the two groups, which continued even after the election. The strife that had started with the coup against Nitchu-[58th] resulted in this legal action. Major Nichiren Shoshu priests were investigated one after another. A similar police investigation was conducted regarding the transition from 59th to 60th high priest.

The following lawsuit was detailed in the January 26, 1928, issue of Osaka Jiji Shimpo. It is a rather long quote, but it illustrates the internal condition of Nichiren Shoshu at that time.

Incidentally, this article reports that Nichiren Shoshu had 150 local temples with 170,000 believers. The reality, it seems, was only one-third of that figure. Nichiren Shoshu apparently gave false statistics to boost its image.

Embezzlement Suit Filed Against Nichiren Shoshu Senior Priest

Nichiren Shoshu (formerly, the Nichiren Shu Fuji School), whose head temple is Taiseki-ji of Ueno village, Fuji county, Shizuoka prefecture, with 150 branch temples and 170,000 believers throughout the country, has been undergoing internal strife since the end of last year, which causes the Minister of Education to refrain from approving the appointment of the new chief administrator. The Mukojima Police Station, requested by the Omiya Police Station of Shizuoka prefecture, interrogated for several hours the Rev. Ho’un Abe, chief priest of Josen-ji (175 Koume, Mukojima). Mr. Abe, who holds the title of gon-no-sojo in the priesthood hierarchy, was announced as having been elected new chief administrator. He was temporarily allowed to return home in the evening. A record of the investigation was immediately sent to the Omiya Police Station.

The contents of this investigation were kept secret. The aforementioned Ho’un Abe, who was elected as next chief administrator last November and Koga Arimoto, chief priest of Myoko-ji (Mitsuki, Minami-Shinagawa, Soto-Shinagawa-cho, Tokyo), with the title of gon no sojo in the hierarchy of priesthood, ran for this election. After votes were counted on December 18, Ho’un Abe had won the election 51 to 38. Dissatisfied with this result, the Arimoto group filed a lawsuit at the Omiya Police Station, claiming that Rev. Ho’un Abe had used the value of the head temple’s trees to fund his election campaign in collusion with the Rev. Shudo Mizutani, general administrator of the General Administrative Office; that the Rev. Ho’un Abe had embezzled 2,000 yen as a maintenance fee for Renyo-an where Nakako Kaneko, widow of the former chief administrator Nichio Oishi, and a woman named Myoden reside. This lawsuit was filed against the Rev. Ho’un Abe and the Rev. Mizutani by Mr. Nakane (Sendagaya, Tokyo), who is now a layperson and was once a junior priest to the Rev. Koga Arimoto, and Mr. Matsumoto, former secretary of Josen-ji (Nishitobe, Yokohama City).

Ho’un Abe was interrogated at Mukojima Police Station for suspicion of bribery. Shudo Mizutani, against whom a charge was also filed, later became Nichiryu-[61st].

In “A Document of Message,” the Arimoto group touched upon this lawsuit:

Rumor has it that our side having filed a lawsuit against the Rev. Abe and the Rev. Mizutani was not beneficial to us. As the newspapers reported, it was a fact that both of them were sued, but we ourselves did not file this lawsuit. The Rev. Abe, however, reported on the occasion of the third anniversary of Nichio’s passing that Renyo-an’s basic fund of 4,000 yen would be kept in the bank as savings. At this time, one of Nichio’s disciples sent a certified letter to the Rev. Abe to confirm this matter. The Rev. Abe responded by certified mail that this money was withdrawn from the bank, that it was responsibly kept by him, that he should rest assured that there would be no problem, and that the Rev. Abe would make a new announcement of this money on the occasion of the seventh anniversary of Nichio’s passing. Nichio’s disciple, however, was not convinced by this report. It was rumored that some of this 4,000 yen was lent to a certain individual. There was another rumor that some of this 4,000 was lent to a certain shop in Ginza. Today, even big banks do not lend money so easily. It is most dangerous to loan money to individuals. The money we are talking about had been offered in good faith by sincere believers, a crystallization of their genuine faith and hard work. The disciple sent another certified letter to the Rev. Abe, demanding that he disclose immediately how he would be keeping the money, instead of waiting for the seventh anniversary of [Nichio’s] passing the following year. The Rev. Abe’s temple’s secretary, the Rev. Kimura, then replied that the Rev. Abe was out of town. Since then, there has been no further response from the Rev. Abe. We told another individual about the Rev. Abe’s silence. As a result, this individual, objected to the result of the election, is said to have sued the Rev. Abe. We can tell which side is wrong once we understand what happened in this lawsuit, which we did not file. We think it inexcusable that the Rev. Abe, a senior priest, made a loan of Renyo-an’s funds, which came from believers’ pure faith, to another individual, without having discussed the matter with others. It is only natural that [Nichio’s] disciple could not trust the Rev. Abe, who says that he would disclose the matter the following June. We will see how the police investigate this matter.

Nichiren Shoshu’s inner conflicts, which involved the police, seemed endless. According to the news article, the amount of money embezzled was 2,000 yen. By the Arimoto group’s reckoning, however, it was 4,000 yen. The 2,000-yen differential may point to money whose use was later revealed, even though how it was used remains unknown. Regrettably, because of limited information, the lawsuit outcome is unknown. Ho’un Abe was never arrested. Perhaps, his case did not become a criminal case, as he might have justified using the money to make both ends of the balance sheet meet.

On June 2, 1928, Ho’un Abe, with permission from the Ministry of Education religious bureau, formally became Nichiren Shoshu chief administrator. As the vote counting had been held the previous December 18, it means it took six months to get governmental approval. Of course, both the Abe and Arimoto groups repeated their respective petitions to the government.

Nichiren Shoshu had previously resolved internal conflict through intervention by the Ministry of Education religious bureau regarding the transfer from Nitchu-[58th] to Nichiko-[59th]. Now the school required an abnormally long period of reconciliatory support from the religious bureau to gain governmental approval for the transition from Nichiko-[59th] to Nichikai-[60th].

It was a religious school in which conflicts arose one after another, major conflicts involving the national authorities. Nichikai (Nikken’s father), with his sights set on being high priest, was always at the center of controversy.

[1] One of the thirty-six types of hungry spirits listed in the Meditation on the Correct Teaching Sutra. According to this sutra, one who preaches the Buddhist Law, or teachings, out of the desire to gain fame or profit is reborn as a Law-devouring hungry spirit.

[2] Jimon Ogasawara, would later play a key role in the priesthood’s wartime behavior, proposing that Nichiren Shoshu adopt the doctrine that the Buddha is subordinate to the Shinto deity.

[3] This is from a story found in Chang-an’s Annotations on “The Treatise on the Observation of the Mind.” When a snake was about to bite the king, who was laying on the grass resting, a white crow flew down to alert the king. Saved from the danger, the king ordered his vassals to find the bird, but they were unable to do so. Determined to express his appreciation, the king then bestowed his favor on a black crow.

[4] Noke is an exclusive group of the highest-ranking priests. There are only five or six noke at any one time.

Chapter 2: Slanderous Teachings

Introduction

In the Edo Period [1603 to 1867], the purity of Taiseki-ji’s teachings and actions were greatly diminished. Succumbing to the authority of the Tokugawa shogunate government, Taiseki-ji began accepting offerings to the Gohonzon from the government.

Taiseki-ji submitted a document of acceptance of land that the government had given as an official offering at the time of Nitten-[20], who came from Yobo-ji in Kyoto. There were two retired high priests at Taiseki-ji then who also came from Yobo-ji—Nissei-[17] and Nisshun-[19]. Currying favor with the government, Taiseki-ji was permeated with slander.

In those days, many members of another Nichiren school, the Fujufuse (never-accept-and-never-offer), had become martyrs because of the school’s refusal of slanderous government offerings. Fujufuse protested the government’s religious impurity, endeavoring to protect the integrity of the Law they believed in. For this reason, the school was heavily persecuted in Japan, as much as were Christians. Taiseki-ji priests, intimidated by these events, capitulated and accepted government offerings in order to preserve their security, all the while having to deal with pressure from the Minobu school.
Various Nichiren-affiliated schools were centered in Kyoto or on Mount Minobu. Taiseki-ji was merely a tiny, forgotten mountain temple, barely surviving. It lacked capable priests and any prosperity was unimaginable. For this reason, over a century spanning the Azuchi-Momoya (1573–1603) and Edo periods, Yobo-ji in Kyoto, whose teachings differed with them fundamentally, sent several priests who eventually became Taiseki-ji’s chief administrator (high priest). Nine high priests in all, Nissho-[15] through Nikkei-[23], originated at Yobo-ji.

Yobo-ji doctrine naturally flowed into Taiseki-ji. Most notable were the terrible imported teachings of Nissei-[17]. Nichikan-[26] would refute Nissei’s doctrine and restore the Nikko school’s original teachings. But Nichikan’s recovery efforts were not sustained for very long because of the influence of evil priests within the school. Over time, the Taiseki-ji priesthood, satisfying itself with offerings from slanderous entities, became increasingly corrupt.

Taiseki-ji and its local temples were incorporated into the establishment of the Edo and local governments. As an agent of the magistrate that dealt with temple and shrine matters, they contributed to governing the people. The Edo government prohibited sects from praising themselves and criticizing other sects, and in order for the foundation of governmental authority to remain secure, it curtailed the freedom of propagation so that certain sects wouldn’t become too powerful. Thus, no religious school could obtain new believers; on the other hand, none had to worry about losing the believers they had to other sects.

Temples therefore became agencies to control their believers on behalf of the government. They also issued religious identity documents that, among other things, guaranteed that believers were neither Christian nor Fujufuse school believers.

As a result, priests now reigned over believers, who were obligated to make offerings to their respective temples at funerals, memorial services, etc., and now had to depend on these temples to guarantee their religious status.

Furthermore, Nichiren Shoshu priests, with their sizable and growing financial resources, engaged in lending money to farmers at a high interest rate. If farmers could not repay the debt, their rice fields were seized and managed by the priesthood.

So, with an affluence acquired with governmental backing, and a lack of propagation effort, it is only natural that the priesthood became corrupt. Following the trend of the times, Taiseki-ji became a “funeral Buddhism” temple, devoid of the spirit of Nichiren Daishonin, the founder of Nichiren Buddhism, and Nikko Shonin, the founder of Taiseki-ji.

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