地涌(じゆ)からの通信: はじめに

三類の強敵(ごうてき)のうち、最強にして最悪のものが僣聖増上慢(せんしようぞうじようまん)である。日蓮正宗にあって”法主”という最高位にある日顕が、借聖増上慢としての正体を露(あらわ)にしたのが平成二年十二月末であった。

この平成二年は、開祖日興上人が世界広宣流布を期して身延を離山し大石寺を開創(かいそう)されて、ちょうど七百年目にあたる。同年十月には大石寺において、創価学会に集(つど)う仏弟子らが開創七百年を慶祝(けいしゆく)しての諸行事を献身的におこなっていた。

ところが、この慶祝行事の裏で、日顕らは謀(ぼう)略(りやく)「C作戦」を発動する機会を虎(こ)視(し)眈(たん)々(たん)と狙(ねら)っていたのであった。

「C作戦」とは、いまでは衆(しゆう)知(ち)のように、宗門が池田名誉会長の追放を創価学会に迫り、もしそれが不可能となれば創価学会総体を”破門”にし、一人ひとりの創価学会員が団結を解(と)いて檀徒となるよう仕向けようとしたものである。

屈服(くつぷく)しない創価学会員には戒壇の大御本尊の御開扉をさせない、御本尊を下付しない、あるいは成仏しないという脅(おど)しをもって臨(のぞ)もうと日顕が計画していたことは、その後の経過でも容易にうかがえる。

だが創価学会員は、創価学会が仏(ぶつ)意(い)仏(ぶつ)勅(ちよく)の和合僧団であるとの本義に目覚(めざ)め、僭聖増上慢の惹起(じやつき)した難をよくしのいだ。平成三年十一月二十八日、日顕らは創価学会員の団結を乱す目的で最後の手段に訴え、創価学会総体を”破門”にした。しかし、真正の和合僧団である創価学会は微(び)動(どう)だにしなかった。それどころか、創価学会員は日蓮大聖人の仏法の本質を、よりいっそう身近なものとして感じ始めた。

創価学会員は、創価学会が仏意仏勅の団体であることを覚(かく)知(ち)し、みずからも地涌の菩薩であるとの自覚を深(しん)化(か)させたのであった。また、創価学会歴代会長との仏法上の不思議な縁(えにし)も実感したのである。それらの確信の大きな裏づけとなったのは、創価学会と日蓮正宗の正しい歴史を初めて知り得たことにあった。

創価学会出現以前、日蓮正宗は身延山久遠寺に率(ひき)いられる日蓮宗同様に、邪宗の呈(てい)をなしていた。それを創価学会三代にわたる会長が忍従(にんじゆう)の心をもって浄(じよう)化(か)してきたのが、真実の歴史であった。日蓮大聖人の仏法は日蓮正宗において隠没(おんもつ)しようとしており、創価学会がそれを現実の社会に息づく生活法として蘇(そ)生(せい)させたのである。

牧口常三郎創価学会初代会長が罰論(ばちろん)を言い出したとき、日蓮正宗の僧たちは大変な拒否反応を示した。それまでの日蓮正宗には、罰論などなかったのである。

日蓮正宗の僧たちは、「日蓮正宗の信者は、皆が皆、即身成仏している。成仏した者に罰が出ようか」と、牧口会長の罰論に反発し、法華講も喜んでそれに同調した。僧にしてみれば懶(らん)惰(だ)懈(け)怠(たい)の宗風こそが、最良の温(おん)床(しよう)であったのだ。下手(へた)に信徒が正信に目覚め、教学を研鑚(けんさん)し、勤行唱題をするよりは、僧を頼みにし葬式や法事に多額の供養をしてくれることこそが望みであった。

牧口会長は日蓮正宗にはびこる邪義邪法を駆(く)逐(ちく)するために、毅(き)然(ぜん)としていっそう強く罰論を述べた。

「御本尊に認(したた)められた『若有悩乱者(もしのうらんするものは) 頭破作七分(こうべわれてしちぶんとなる)』の御文は罰論ではないのか」

「日蓮大聖人曰く『罰は総罰・別罰・顕(けん)罰・冥(みよう)罰・四候、日本国の大疫病(えきびよう)と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり』と、これは罰論ではないのか」

牧口会長の師子吼(ししく)を聞き、日蓮正宗の中にも日蓮大聖人の仏法に説(と)かれた罰論を理解する者が、わずかに現れた。だが、哀(あわ)れなるかな、戦中の法難にあたって宗門は総崩(そうくず)れとなり、不(ふ)惜(しやく)身(しん)命(みよう)の仏語を忘れ日蓮大聖人の教法を捨て去ったのであった。

さらに見苦しいことには、創価教育学会幹部を信徒除名にし、正信の僧・藤本蓮城も一宗擯斥処分にした。ただ、国家神道の領(りよう)導(どう)する国家権力の猛威を恐れたが故である。

日蓮正宗には、もはや日蓮大聖人の国家諌暁(かんぎよう)の精神は流れていなかった。江戸時代、幕府の民衆統治の代行機関に成り下がってから、権力に阿(あ)諛(ゆ)追(つい)従(しよう)する悪弊(あくへい)が骨の髄まで浸透(しんとう)していたのである。

腐(ふ)敗(はい)は、それだけにとどまらない。寺請(てらうけ)制度の中で檀家を食いものにしてきた日蓮正宗は葬式仏教化し、邪宗に習い「導師本尊」というニセ曼茶羅までつくり出していたのである。

信徒は、死者の成仏を祈る特別の「導師本尊」なくしては死後成仏しないとし、僧のみに死者を成仏させる特別の権能(けんのう)があるかのように立ち振る舞った。信徒が生あるときには、信者はみな成仏すると懶(らん)惰(だ)懈(け)怠(たい)を教え、一度死せると即身成仏をさせる力は僧のみにありと遺族を脅(おど)したのだった。

悪比丘らはニセ曼茶羅「導師本尊」のみを収(しゆう)奪(だつ)の小道具にしてきただけではなかった。真正の「常住御本尊」すら、供養の代(だい)価(か)を得るために乱発してきたのであった。大石寺周辺の根(ね)檀家は歴代”法主”の御本尊を、あたかも軸物(じくもの)のように何体も持っている。そして、現在でも「供養をすれば、”御前さん”はいつでも”常住御本尊”を書いてくれる」と言ってはばからないのである。

そのほか、日露戦争に際しては、もったいなくも日蓮大聖人の御真筆を掲(かか)げて”出(で)開(かい)帳(ちよう)”をおこない、戦勝祈願の万に及ぶ「御形木(かたぎ)御本尊」を宗内外にばらまいた。

日興上人曰く。

「一、御筆の本尊を以て形木に彫(きざ)み不信の輩(やから)に授与して軽(きよう)賤(せん)する由(よし)・諸方に其の聞(きこ)え有り所謂(いわゆる)日向・日春等なり。

日興の弟子分に於(おい)ては在家出家の中に或(あるい)は身(しん)命(みよう)を捨て或は疵(きず)を被(こうむ)り若(もしく)は又在所を追放せられ一分(いちぶん)信心の有る輩に忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり」(富士一跡門徒存知の事)日蓮正宗の代々の”法主”は、日興上人の末流にあるまじき本尊雑(ぞう)乱(らん)をなしてきたのである。宗祖日蓮大聖人の謗(ほう)法(ぼう)厳(げん)戒(かい)の教えも、日興上人の身延離山の精神も、創価学会出現以前の日蓮正宗においては死(し)滅(めつ)していたといえる。そこまで大石寺には邪義が横行(おうこう)していたのである。

その邪義も、創価学会の出現により、徐々にではあるが浄化されたかに見えた。だが、それは伏在(ふくざい)していた。このたび、長年にわたり日蓮正宗に浸透(しんとう)してきた邪義は”日顕狂乱事件”として顕(けん)在(ざい)化(か)し、”法主”日顕は悪(あつ)鬼(き)入(にゆう)其(ご)身(しん)の姿を現じ僭聖増上慢と化したのであった。

日興上人が日蓮大聖人由縁の身延山を離山されたのは、

「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由(よし)」(美作房御返事)

との、日蓮大聖人の謗法厳戒の精神を受け継がれてのことであった。「地頭」が仏法に違(い)背(はい)するとき、日蓮大聖人はそこには住まれないということである。となれば大謗法を犯(おか)し、仏弟子を迫害するような”法主”が支配している大石寺に、日蓮大聖人の御(おん)魂(たましい)が所在(しよざい)しないことは無論のことである。

日興上人が身延を離山された直接の原因は、地頭たる波(は)木(き)井(り)実(さね)長(なが)(南部六郎)の犯した謗法にあるが、波木井にその謗法を犯させたのは悪師・民(みん)部(ぶ)日(に)向(こう)である。日向が邪義を教え、波木井の信心を破ったのであった。たとえば、神社不参詣(さんけい)の教えについても、民部日向は日興上人(白(びやく)蓮(れん)阿(あ)闇(じや)梨(り))が仏法の「至(し)極(ごく)」を知らないとして、波木井入道に次のように教えていた。

「守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一篇(いつぺん)にて候へども、白蓮阿闊梨外(げ)典(てん)読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候。法華の持者参詣せば、諸神も彼の社檀(しやだん)に来(らい)会(え)すべく、尤(もつと)も参詣すべし」(原殿御返事)

日興上人は民部日向が邪義を説いたことについて、

「白蓮此の事は、はや天魔の所(しよ)為(い)なりと存じ候いて少しも恐れ進(まい)らせず、いかに謗法の国を捨てて還(かえ)らずとあそばして候守護神の御弟子の民部阿閣梨参詣する毎(ごと)に来(らい)会(え)すべしと候は、師(し)敵(てき)対(たい)七逆罪に候はずや。加(か)様(よう)にだに候はば、彼の阿闇梨を日興帰依(きえ)し奉り候はば、其の科(とが)日興遁(のが)れ難(がた)く覚え候。今より以後かかる不法の学頭をば接(ひん)出(しゆつ)すべく候と申す」(同)と、書き遺(のこ)されている。この民部日向と同然のことを日顕らがおこなっている。

日蓮大聖人の仏法を隠し、日顕のたわごとを”仏語”として崇(あが)め、それを正当化するため「唯授一人血脈相承(ゆいじゆいちにんけちみやくそうじよう)」の邪義を振り回し、日顕は日蓮大聖人と同じ境界(きようがい)にあるとうそぶく。禅寺に墓を建て「為先祖代々菩提 建立之日顯 花押」と墓石に刻(きざ)んでも、共同墓地に親戚の墓が建ったので法要をおこなっただけと言う。シアトルで買春し、赤坂の超高級料亭で芸者に酌(しやく)をさせ興(きよう)じ芸者に囲まれて写真におさまっても、出家の身でありながら恥とも思わない。

日興上人は、民部日向の堕落(だらく)のさまを記されている。

「同八日仏生日と号して、民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出すのみならず酒を興ずる間、入道其の心中を知って妻子を喚(よ)び出して酒を勧(すす)むる間、酔狂(すいきよう)の余り一声を挙げたる事、所従春属(しよじゆうけんぞく)の嘲弄口惜(ちようろうくちお)しとも申す計(ばか)りなし。日蓮の御恥何事か之に過ぎんや。此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり」(同)

邪義を弄(もてあそ)び邪淫(じやいん)乱行を常とする日顕は、民部日向の姿そのものである。

「元より日蓮聖人に背(そむ)き進(まい)らする師共をば捨てぬが還(かえ)って失(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか」(同)

謗法の師は捨てねばならないというこの法門の故に、真の仏弟子である創価学会員は日顕を捨て大石寺を去ったのである。日顕らは、日蓮大聖人の本眷属(ほんけんぞく)より破門になったのだ。

本書は、その証拠を示す最良の書といえよう。

平成五年十一月二十八日

『地涌』 編集長  不破 優

〔追記〕本書中、明らかな大謗法を犯した”法主”の上人号は剥奪(はくだつ)した。日精、日布、日応、日正、日開、日恭など。

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