日顕宗の主張する「血脈相承」のウソ

猊座を投げ捨て行方不明となった“法主”

ある日突然“蒸(じょう)発(はつ)してしまった第五十三世日(にち)盛(じよう)上人

大石寺の住職の地位を、日顕宗の僧たちは”猊座”と言う。そして、その座にいる者が広布を破(は)壊(かい)する三類の強敵(ごうてき)であれ、貧欲(どんよく)な食(じき)法(ほう)餓(が)鬼(き)であれ、その通称を“猊下”あるいは”御前様”、はたまた”御師範御法主上人猊下”などと呼んでいるようだ。

ところで大石寺の歴代住職の中で、この“猊座”を投げ捨てて隠遁(いんとん)し、行方不明になった”御前様”がいたとしたら、どうだろう。

しかも、次期”法主”への相(そう)承(じよう)もしないばかりか、人選もせず、ある日突然、姿を消したとあっては、たとえ信徒が少なく、参詣(さんけい)者もいない、さびれた貧(まず)しい山寺であったとしても、大事件になるに違いない。そんな、考えられないような大事件が江戸時代の末期、大石寺で現実に起こったのだ。

この大珍(ちん)事(じ)の主役を演じたのは、ほかでもない第五十三世日(にち)盛(じよう)上人、その人である。

まず、同上人の”行方不明”事件は、その経(けい)緯(い)が複雑怪(かい)奇(き)をきわめるので、初めにその概要(がいよう)を述べておく。

日盛上人は約二年半、猊座にあったが、退座接の原因は大石寺の火災であった。しかし、同上人が猊座に登ったあたりから、前任の第五十二世日(にち)霑(でん)上人との間にどうやら確執(かくしつ)があったようだ。

そのために、日霜上人は江戸へ出(しゆつ)府(ぷ)する。その日霑上人のもとへ大石寺の火災の報告が入り、急いで帰山した。だが、日盛上人は日霑上人を避(さ)けて下之坊へ隠遁(いんとん)し、その後は行方が分からず、消(しよう)息(そく)がとだえる。

その経(けい)緯(い)を書いた日需上人自筆の自伝が明治時代の機関誌『布教會報』に掲載(けいさい)されたが、あとで訂正記事が出て、肝心(かんじん)な箇所が「削除」されることになる。

このことに関連して日顕は、平成元年六月におこなわれた日霑上人第百回遠(おん)忌(き)の際、日霑上人が書き残した自伝の内容は一般信徒に知られたくない、と発言。宗門の歴史がこれまで脚色(きやくしよく)され、美化(びか)されてきたことを言外(げんがい)に匂(にお)わせた。

江戸末期から明治にかけての日霑上人と日盛上人との確執が、後(こう)述(じゆつ)するように半世紀以上も経(へ)た昭和に入って、「蓮葉庵系」(日露上人系)と「富士見庵系」(日英上人・日盛上人系)との対決、憎(ぞう)悪(お)となって激(げき)化(か)するのである。

それでは日盛上人の略歴から、ひととおり紹介しよう。

日盛上人は天保二(一八三一)年十月十一日、江戸・瀧山町に生まれ、同十三(一八四二)年十月に日英上人(大石寺第五十一世)の弟子として出家。文久二二八六二)年十月二十四日、三十一歳で大石寺の住職(第五十三世)となった。第五十二世の日霑上人が四十六歳の若さで退隠(たいいん)した後を受けての登座ということになる。

ここで一つ重大な疑問がある。それは日盛上人は本当に日霑上人から血脈相承を受けたのか、という点だ。

『富士年表』(日蓮正宗富士学林発行)では確かに、「十二月(注=日にちは不明)日霜法を日盛に付(ふ)す(霑伝)」と記(しる)されている。「霑伝」とは日霑上人自筆の『日霑上人伝』を指(さ)す。      

「日霑上人伝」の自筆

だが、その『日霑上人伝』をはじめ『霑上御自伝(霑師履歴)』 『日霑上人略伝』など、どれを見ても、この時期に日箔上人と日盛上人との間で相承の儀(ぎ)式(しき)がおこなわれたという記述はない。

ただし、次のような記述ならば前記の『日霑上人伝』などのいずれにもある。

「其(そ)の年十二月大衆檀(だん)徒(と)等、学(がく)頭(とう)広道院を大坊へ請(しょう)待(たい)す五十三世日盛上人是なり」

もし、『富士年表』の記述がこのことを指しているとすれば、「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ請待す」を、「日霑法を日盛に付す」というふうに意識的に置き換えたことになってしまう。記述を変じた裏には当然、宗門として知られたくない史実があるのである。

日霑上人は通算三度、登座しているが、二度目に猊座から退(しりぞ)くときは日胤(にちいん)上人(第五十四世)へ、三度目に猊座から退くときは日応(にちおう)(第五十六世)へ譲(ゆず)った。

『日霑上人伝』を見ると、この日胤上人、日応上人が登座するときの記述と、前記の日盛上人が登座したときの記述があまりにも違い過ぎるのだ。日胤上人のときには相承までの経過が詳(しよう)細(さい)に書かれている。重要な点なので該当(がいとう)箇所を引用(いんよう)してみる。

明治二年の項には、

「其夏阿州敬台寺英俊院登山す蓋(けだ)し昨年阪地に於(おい)て盟約(めいやく)せし事あるを以(もつ)てなり其の七月同人を学頭へ請(しよう)す其の十月廿日を以て予再び蓮葉庵へ退隠す年五十三。〈中略〉帳面証文手形を以て之を後住へ渡す其の十一月朔日(ついたち)学頭を大坊へ請す五十四代日胤上人是(これ)なり」(『日霑上人伝』より引用)

と記されている。

「英俊院」とは日胤上人のことであり、「盟約」により、まず日胤上人を学頭に任命し、のち猊座を譲(ゆ)った。

日霑上人はその経過について、日霑上人みずからの意思で「学頭を大坊へ請す」とし、日胤上人を後継(こうけい)と定(さだ)めて、手順を踏(ふ)んで相承したことを明記している。明治二年十一月のことである。

また、三度目に猊座から退隠するときについては、日亨上人が日霑上人に代わり、史実に基(もと)づき筆を進めている(注=『日霑上人伝』の一部は、日霑上人の残した史料により日亨上人が後に書き加えたもの)。

それによれば、「近々退隠の志念(しねん)を決し」て日(につ)布(ぷ)の再住を要請(ようせい)するが、日布が辞(じ)退(たい)したため日応へ譲ることになる、とある。さらに相承の式は「再々住なれば遠慮せしなり」として、日布と日応との間でおこなわれ、「同廿日夜目(め)出(で)度(たく)相承相(あい)済(す)みしと云(い)ふ大(おおい)に安心せり」(同)と書いている。明治二十二年五月のことである。

この日胤上人、日応のときの記述と、日盛上人のときの記述の違いを、なんと説明するのか。

『日霑上人伝』では日胤上人、日応のときの登座については、微(び)に入り細(さい)にわたって書いている。それなのに、一度目の日盛上人への相承については、「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ請待す」とあるだけだ。

これは明らかに、「大衆檀徒等」が霑師の意思の如何(いかん)にかかわらず、日盛上人を「大坊」に入れ猊座に登らせたことを示しているのである。

ここでもまた、日顕宗が事あるごとに持ち出す「血脈相承」の神話が崩(くず)れている。

日盛上人の行方不明の原因となったのは大石寺の大火

日盛上人の隠遁(いんとん)、行方不明の原因は、直接的には大石寺の大(たい)火(か)だった。『富士年表』には元治二二八六五)年二月二十八日の欄に、

「客殿・六壺・大坊焼失(霑伝)」

と記されている。つまり、この日は大石寺が火事になり、客殿も大坊もことごとく焼失してしまったのだ。

その昔「火事と喧(けん)嘩(か)は江戸の華(はな)」と言われていたが、大江戸八百八町のにぎわいとはまったく対照的だった片田舎の上野村(霑師の頃は上條村)の大石寺でも、火事と紛争(ふんそう)だけは大江戸にも負けていなかったようだ。さしずめ「火事と紛争は大石寺の常」というところか。

ちなみに大石寺では開創(かいそう)以来、十二件の火災があった。そのうち十一件は江戸時代以降に集中している。江戸時代の寛永十二(一六三五)年から同十五(一六三八)年にかけて檀(だん)家(か)制度が成立するが、大石寺が徳川幕府の手先となり、寺(じ)檀(だん)制度によって民衆を支配するようになってから火災が増えてきたことに注目したい。

しかも、大石寺とかつて同門であった重須本門寺や要法寺、それにいまだに日顕に与(くみ)している保田妙本寺、妙蓮寺、常在寺などの末寺を加(くわ)えると、『富士年表』に記載されている火災だけでも、なんと約百件にのぼる。驚くべき件数だ。

【大石寺の火災一覧(江戸時代以降)】

寛永八(一六三一)年十月十二日

大石寺諸堂焼失(石文)

寛永十二(一六三五)年

大石寺本堂、山門、坊舎残らず焼失(古文書)

文化四年(一八〇七)年五月十二日

大石寺塔中理境焼失(棟札)

安政五(一八五八)年五月二十五日

大石寺遠信坊・寿命坊・寳林坊・学寮四箇焼失(霑伝)

(編集部注・安政七年=万述元年の誤りか。回数に含めない) 

万延元(一八六〇)年二月二十五日

大石寺石之坊より出火、富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失(本書裏書) 

元治二(一八六五)年二月二十八日

大石寺宮殿・六壼・大坊焼失(霑伝) 

慶応元(一八六五)年十二月二十三日

大石寺蓮葉庵焼失(霑伝) 

明治四十二年(一九〇九)年六月八日

大石寺塔中百貫坊焼失(白蓮華四―六) 

大正十三(一九二四)年十月三十一日

大石寺塔中本境坊焼失(院二二五) 

昭和五(一九三〇)年六月四日

大石寺塔本境坊焼失(院二七五) 

昭和八(一九三三)年十月二十三日

大石寺蓮葉庵焼失(宗報A三七) 

昭和二十(一九四五)年六月十七日

大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壺)・客殿等五百余坪焼失(寺誌)

御書には、

「経に云(いわ)く『設(たと)い大火に入るも火も焼くこと能(あた)わず、若(も)し大水に漂(ただよ)わされ為(て)も其の名(みよう)号(ごう)を称(となう)れば即(すなわ)ち浅き処(ところ)を得ん』又云く『火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず』云云、あらたのもしや・たのもしや」(上野殿後家尼御返事)

と記されている。

日蓮大聖人は法華経の功(く)徳(どく)について、このように述べられているのに、大石寺で火災、焼失が相(あい)次(つ)いだという事実をどう見るべきなのか。

この頃から大石寺の坊主たちは堕(だ)落(らく)し、火の始末にもだらしがなくなるほど生活が乱れていたのか。大御本尊をお護(まも)りする強い信仰心、使命感が欠如(けつじよ)していたのか。

加護(かご)するべき諸天善神も見捨てていたのか。ともあれ、この相続く火災の記録は、すでに大石寺、富士門流より日蓮大聖人の仏法がとだえつつあったことを示してあまりある。

参考のために、大石寺で起きた主な火事を表にしてみた。何よりも現(げん)証(しよう)の厳(きび)しさを思い知らされる。

ところで、このうち元治二年二月二十八日に起こった火災は大(だい)惨(さん)事(じ)となった。『霑上御自伝(霑師履歴)』によると、

「二月廿八日ノ夜(や)半(はん)大坊ノ下(げ)男(なん)部屋ヨリ出火シ構内一(いち)宇(う)モ残ラズ焼(しよう)亡(ぼう)スト 是(これ)ヲ聴(き)キ大(だい)愕(がく)悲(ひ)動(どう)シ遽(にわか)ニ東行ヲ止(や)メ直(ただ)チニ帰山ヲ計(はか)ル」(富士学林教科書『研究教学書』より)

とある。夜半に下男部屋から出火して、客殿・六壼・大坊など残らず焼失したのであった。このとき前“法主”の第五十二世日霑上人は、二月初めに大石寺を出発して江戸に滞在中であった。だが、大火災の惨(さん)状(じよう)についての報告を受けて驚き、急いで帰山したというのである。

この元治二年の大火災と当時の”法主”・日盛上人について、日達上人は次のように述べている。

「第五十三世日盛上人の代になりますと、『元治二年乙(きのと)丑(うし)年(どし)二月二十八日客殿・六壺・大坊焼失(年表)』と、せっかく今まであった大坊も全部焼けてしまったのです。そのため、日盛上人は御隠居(いんきよ)なされたのです。それからまた、霑尊が再び猊座へつかれた」(『総本山大石寺諸(しよ)堂(どう)建(こん)立(りゆう)と丑寅(うしとら)勤行について』より一部抜粋(ばつすい))

だが事実は、日盛上人が隠居し、スムーズに日霑上人が再度の登座をしたわけではなかった。日霑上人が三月中旬(ちゆうじゆん)にいったん帰山したが、実は日盛上人は、大火の翌日には辞任していた(盛師御傅記)のである。五月になって第五十一世日英上人が、高齢にもかかわらず再び登座したが、約ニカ月間、”猊座”の空白(くうはく)があった。そこには火災だけではない、複雑(ふくざつ)な事情があったようだ。

その後の経過については『日霑上人伝』(堀日亨上人編)に詳(くわ)しく書かれているので、少し長くなるが引用(いんよう)する。

ここで紹介する『日霑上人伝』の一節は、明治二十四年五月十三日発行の『布教會報』(第貳拾壹號)で「削除」するとの「訂正(ていせい)記事」が掲載(けいさい)された「歴史的な意義のある文章」なので、とくに熟(じゆく)読(どく)していただきたい箇所である。

右の写真が「削除」された箇所の全文である。

「一山の大衆」とは大石寺の僧侶たちのことである。僧侶たちが大いに「沸騰(ふつとう)し挙って」日盛上人を追及した。それにはそれなりの事情があった。日霑上人はその事情をよく承知していたが、僧たちが日盛上人を追及するのを聞くに耐えず、密(ひそ)かに大石寺を下(お)りた。

「布教會報」(第二十一號)で「削除す」とされた箇所

ところが、日霑上人が下山したことに僧侶たちは驚き、日盛上人を追及するのをやめて仲直りしたうえ、塔中の代表として久成坊、檀家の代表として井出与五右衛門が第五十一世日英上人、第五十三世日盛上人の書簡(しよかん)を持参した。そのため日霑上人が帰山してみたところ、日盛上人は下之坊へ隠遁(いんとん)したというのである。

日霑上人と日盛上人の複雑な関係については、先に述べたとおりだ。日盛上人は日霑上人と会うことを避けて下之坊へ隠遁したというのが、日霑上人自身の言(げん)である。

「其の先非」というのは火災の責任という意味だとの説もあり、また日霑を隠居に追い込んだことを指すとの見方もある。

誰にも相承せずに失踪(しつそう)したことは史実にも明らか

第五十三世日盛上人の退座をめぐる騒動(そうどう)は、これから先がもっと衝撃的(しようげきてき)な内容になる。そのことを記述した『日霑上人伝』を引用してみよう。

「依(よ)って予は根方本広寺に留(とどま)り寄(き)宿(しゆく)して山に入らず使僧を以て盛師の還(げん)住(じゆう)歟(か)然(しか)なくば英師の御再住あらん事を只管(ひたすら)に懇望(こんぼう)す是に於いて衆檀会議の上、英師御再住の事に決し予を迎(むか)ふ到(いた)れば盛師亦(また)下之坊を脱し去り行(ゆく)衛(え)知れずと云々」

日霑上人は根方本広寺に留(とど)まって、日盛上人が猊座に戻るか、または日英上人が再び登座するよう強く望んだが、衆檀会議では日英上人が再び登座することに決まり、大石寺では日霑上人の帰山を促(うなが)した。すると日盛上人は「下之坊を脱し去り」、行方が分からなくなったというのである。

日霑上人は、第五十三世日盛上人が行方不明になったと明確に記述している。当然のことながら、相承の儀式などはおこなわれていない。なお、ここで記されている「衆檀会議」すなわち僧俗会議で次期”法主”が決められたことは、大いに注目に値(あたい)する。

その後には、

「之ニ依ツテ泰明、慈暢に命じ其の蹤(あと)を追ひ尋(たず)ねしむ三十余日を経て閏(うるう)五月に至り帰り白(もう)さく先(ま)づは豆(ず)相(そう)の湯(とう)治(じ)場(ば)を探(さぐ)り江戸三箇寺及び謗中を偵(うかが)ひ野州栃木、平井、佐野、上州、大胡等、心当りの場所は普(あまね)く訪(とぶら)ひしかども更(さら)に知れずと云々」

と書いてある。

日霑上人は、行方不明になった日盛上人を捜(さが)すために泰明、慈暢の二人を各地へ派遣(はけん)したが、依(い)然(ぜん)として行方が分からなかったというのだ。

ここで言えるのは、そもそも「大衆檀徒等」によって担(かつ)ぎ出され”法主”(大石寺貫首)となった第五十三世日盛上人が第五十二世日霑上人から相承を受けたかどうかには大きな疑問があるということである。おそらく相承はなされていないだろう。さらに、日盛上人退座にあたっては、明らかに相承をおこなっていない。

日盛上人みずからが火災の翌日に退座し、その後、誰にも相承せずに行方知れずになったということは確かである。

この宗門史上、前代未聞(ぜんだいみもん)の”法主”の失踪(しつそう)事件にもかかわらず、『富士年表』の「一八六五年」の項には、「2・28客殿・六壼・大坊焼失(霑伝)」と、『日霑上人伝』に基づいて火災のことを記したあと、失踪事件とそれに伴(ともな)う猊座の交替(こうたい)などは、以下のように、「石文」(大石寺文書)に基づくと簡単に記述してあるだけだ。

「5・7 日盛 大坊を辞(じ)し下之坊に移り、のち下野平井信行寺に赴(おもむ)く(石文)」

「5・7 日英再住(石文)」

「⑤・15 日英 大坊を辞し、日霑再住(石文)」(編集部注=⑤とは閏月を示す)

『富士年表』の「日盛 大坊を辞し下之坊に移り……」

から「日英 大坊を辞し、日霑再住」の箇所では、日霑上人の記録した大石寺内の騒動の経過が省(はぶ)かれている。

この直前の元治二年二月二十八日の火災の箇所では『霑伝』(『日霑上人伝』)を使用しておきながら、次の箇所では使用していないのである。実は、この『日霑上人伝』は、明治期の宗門機関誌である『布教會報』『法王』にも「日霑上人略伝」という題名で掲載(けいさい)されたことがあった。連載(れんさい)の開始にあたり、『布教會報』の発行人兼編(へん)輯(しゆう)人であった土屋慈観(後の第五十八世日(につ)柱(ちゆう)上人)は、

「此の傳(でん)記(き)や曾(かつ)て上人の自筆に成れる者にして一字一句たりとも予(よ)輩(はい)敢(あえ)て削(さく)補(ほ)文(ぶん)飾(しよく)するなし」(『布教會報』第拾七號)

と記している。日霑上人の自筆なので「予輩敢て削補文飾するなし」と、わざわざ断(ことわ)っているのだ。

ところが先に述べたとおり、『布教曾報』には「訂正記事」がすぐに掲載され、大幅に削除されることとなった。その「訂正記事」は次のとおり。

「前號(ぜんごう)日霑上人傳記中一山の大衆事情ありて大ひに沸騰(ふつとう)云云盛師謝(しや)表(ひよう)云云の處(ところ)聊(いささ)か憚(はば)かる廉(かど)も之れあるにつき茲(ここ)に之れを削除す」(『同』第貳拾壹號)となっている。

当時、機関誌の編集者は、いったんは掲載したものの“やはりまずい”と思ったのか、あるいは日盛上人に肩入れする誰かが強引に申し入れたのか、いずれにしても先に紹介した箇所を全文「削除す」としたのである。

だが、日霑上人五十回遠(おん)忌(き)に日亨上人の手で出版された『日霑上人伝』には、その箇所が削除されずそのまま掲載されている。宗史における少々不都合なことであっても、そのまま後世に伝えようとされた日亨上人の”英断(えいだん)”であったと思われる。

ともあれ、山寺の中でのすさまじい僧たちの確執(かくしつ)、権力争(あらそ)いを見ると、さすがは”紛争(ふんそう)の名門・大石寺”と感服(かんぷく)もするが、ともかく日盛上人は日霑上人の目から逃(のが)れるように、火災の責任を感じつつ隠遁(いんとん)、行方不明という大失態(だいしつたい)を演じてしまった。こういう大石寺住職がいたという事実だけは、しっかり認識(にんしき)しておきたい。

この事件については当時、要法寺系の玉野日志さえも言及(げんきゆう)している。日盛上人の出奔(しゆつぽん)は他宗派でも評判になるほど有名な事件であったようだ。

最後に、参考までに若(じやつ)干(かん)補(ほ)足(そく)すると、日盛上人は下之坊から姿を消して一時、行方不明であったが、「末寺歴代譜」によると、その後はかつて住職を務(つと)め、また両親が留守居(るすい)をしていたことのある栃木県の信行寺へ行った。明治六(一八七四)年、日盛上人と同じ富士見庵系の日胤上人が”法主”のときに初めて、東京・常泉寺の住職に返り咲いた。さらにその後、長野県に信盛寺を、また静岡県に妙盛寺をそれぞれ建立(こんりゆう)したほか、怪僧(かいそう)・清水梁山と問答するなど、それなりの足跡(そくせき)が見られる。

日盛上人の退座の仕方は、何とも無責任の限りである。しかしながら一面では、日盛上人が責任をとり潔(いさぎよ)く退座したことは評価できる。

在家に相承を託した第五十七世日正

異常とも思える事態の背景には日柱(につちゆう)人への相承を阻(はば)もうとした勢力が.

第五十七世日正(につしよう)は、大正十二年八月十八日に病気療養(りようよう)先の静岡県興津(おきつ)で死亡した。日正は興津の海岸沿(ぞ)いにある一軒家を借りて、供の者を従え療養していたのである。

この興津の一軒屋で、日正は日柱(につちゆう)上人に相承したのだが、きわめて特殊な、異常とも思える相承をした。相承を日柱上人に直接相承しないで、在家の者二名を療養先の一軒家に呼んで相承を預(あず)け、その二名の者が大阪・蓮華寺において日柱上人に相承を伝えたのだ。

そのことについて第六十六世日達上人は、日蓮宗の安永弁哲への反論の書である『悪書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』(昭和三+一年発行日蓮正宗布教会刊)の中で次のように記している。

「しかし思えば既(すで)に御(ご)心(しん)中(ちゆう)に深く決(けつ)せられることがあつたのであろう、大阪の中光達居士、牧野梅太郎氏とを召(め)されて、一切の者を遠ざけて後(こう)事(じ)を托(たく)されたのであつた。それで俄(にわ)かに両氏は日柱上人を蓮華寺に迎えたのである。(此れは日柱上人が御(お)節(せつ)介(かい)屋(や)の謀言(ぼうげん)に引き廻(ま)わされないようにとの深い思召(おぼしめ)しで、此に依(よつ)て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為(ため)であり、其の他の介入を斥(しりぞ)けるための計(はからい)であつた)かくて日柱上人との脈(みやく)絡(らく)は完全についたのである」

この文には重大なる史実が伏在(ふくざい)している。

日正が、わざわざ在家の者二名を呼び、相承を預けたのには、それ相応(そうおう)の理由があったのだ。その理由として、日達上人(この文の記述当時は総監)は、「此れは日柱上人が御節介屋の謀言に引き廻わされないようにとの深い思召し」と記述している。

この記述は、当時の異常事態を示唆(しさ)しているといっていい。謀言(ぼうげん)をもって日柱上人への相承を阻(はば)もうとしていた者がいたのである。そのため、日正は日柱上人に対して直接に相承をすることができず、やむなく「中」と「牧野」という二名の在家の者に相承を託(たく)し、日柱上人に伝えてもらったのだ。

第五十七世日正

再度、日達上人の引用文を見てみよう。相承を在家の二名に預けたのは、謀言を用(もち)いる者の邪(じや)魔(ま)を避(さ)けるためであったと記述し、次に、「此に依て日正上人と日柱上人と中、牧野両氏とだけで後継の事を取り運ぶ為であり、其の他の介入を斥(しりぞ)けるための計(はからい)であつた」となっている。

では、なぜ相承をするのに、在家の者に託すしか方法がなかったのだろうか?日達上人の婉曲(えんきよく)な記述の裏に、どのような隠(かく)された史実があるのだろうか?日正には供の者はいなかったのだろうか?

日達上人の『惡書板本尊偽作論を粉砕す』を注意深く読むと、次のような記述がある。

「日正上人の御病気の事であるが、大正十一年秋頃下(した)顎(あご)に極(きわ)めて小さな丁度(ちようど)楊(よう)子(じ)の先程のものが出来たので、東京の某病院で診察を受けられたが、何んだか判然(はんぜん)としなかつたのである。其の後に上京の節には同博士に診察を受けられたが、結局どうも此(こ)れは癌(がん)らしいと言うことになつて其の治療を受けられたのである。

大正十二年の入梅(にゆうばい)をひかえて僅(わず)か数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされたのである。然(しか)し上人の御健康を気(き)遣(づか)う周囲のものが此の夏は寧(むし)ろ、海岸に於(お)て御静養遊ばされた方が好(よ)くないかと云うことで、俄(にわ)かに一軒家を借りて其処(そこ)に御滞在をお願い申上げたのであつた。上人は蒲(ほ)柳(りゆう)の質であらせられて、常に其の御健康に就(つ)いて御(お)気(き)遣(づかい)申上げていたので有る。(此のことはむしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになつて笑つていられた)」

この記述の中で注意しなければならないのは、「俄かに一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであった」となっていることだ。

この文により、一軒家を借りたのは、日正の意志ではなかったことが判明する。「むしろ上人は弟子共が海水浴をしたいので家まで借りたと御考えになつて笑つていられた」のだ。

日正の興津滞在は、「大正十二年の入梅をひかえて」

という記述からしても、おそらく、六月初め頃から同年八月十八日の逝去(せいきよ)までということになる。とすると、日正の興津滞在は二カ月余だったわけである。

当時、日正は六十三歳だった。亡くなる二カ月前に、海岸沿いの一軒家で転(てん)地(ち)療(りよう)養(よう)していた。日達上人のほかの箇所の記述などから判断すると、日正自身は快活(かいかつ)に振(ふ)る舞(ま)っていたようだが、病状はかなり重かったと考えるのが妥(だ)当(とう)と思われる。

わざわざ東京まで出かけて診療を受け、「癌(がん)らしいと言うことになつて其の治療を受けられた」ということでもある。日正の家族の誰かが、余(よ)命(めい)について医師の宣告(せんこく)を受けていた可能性もある。日正のそばの者が、それを知っていたことも充分考えられる。

ともかく「弟子共が海水浴をしたいので家まで借りた」と、日正が言っていた事実からすれば、日正のそばで看病しながら海水浴をしていた者がいたのである。

”法主”の転地療養なのだから、弟子の僧が供していないと考えるほうが不自然だろう。

それならば、どうして、供の僧に手(て)配(はい)させて日柱上人を直々(じきじき)に呼ばなかったのか。なぜ、わざわざ在家の者二名を呼んで相承を託したのか。

この解答は、ただ一つ。供の僧が、謀言(ぼうげん)を弄(ろう)する「御節介屋」に通じており、日柱上人を直々(じきじき)に呼べば「他の介入」があるということである。

当時の日蓮正宗内では猊座をめぐるすさまじいまでの確執(かくしつ)があった

この解答を得れば、ここに恐るべき奸計(かんけい)が伏在(ふくざい)しているのを見抜くことができる。「俄(にわか)に一軒家を借りて其処に御滞在をお願い申上げたのであつた」のが、なぜかがわかる。「数日間の予定で興津に御出かけ遊ばされた」

日正が、どうして興津を死地(しち)とすることになったかがよくわかる。

興津に一軒家を借りたのは、日柱上人への相承を阻(はば)もうとする者たちの仕業(しわざ)なのだ。死期の近い日正を隔(かく)離(り)したかったのである。日柱上人に対抗して次期猊座を狙(ねら)っていた者がおり、その者の指(さし)図(ず)で日正を海岸の一軒家に隔離したのだ。

したがって日正は、そばに仕(つか)える反日柱派と思われるお供の僧の目をくらまして、在家の者二名を呼び相承を日柱上人に託したのである。このように考えれば、日達上人の次の記述も納得がいくのである。

「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言(ゆいごん)をするから皆んな呼んでおけとの仰(おお)せがあつたので、周囲の者は慌(あわ)てて、四方へ電報を打つやら電話を掛(か)けるやらしためである。其の夜半に於(おい)て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親(きんしん)への御遺言もあり、而(しこう)して夜はホノボノと明けゆく時、四方より重(おも)立(だ)つた人が駆(か)けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼べ、と仰せられて、一同は上人の枕(まくら)辺(べ)に集まつたのである。一同着(ちやく)坐(ざ)し終るや上人はずつと見廻わされて、やがて侍(じ)僧(そう)に紙と筆とを持つて来る様(よう)にと仰せられた。侍僧は静かに立つて用意をした。そこで上人は徐(おもむ)ろに『大僧正の権は大学頭日柱に相承する』と御遺言を遊ばされ、侍僧の認(したた)めた料紙を手にとつて御(ご)覧(らん)になり、更に署名と花(か)押(おう)とを認める様に命じ給(たま)い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図(おさしず)があつた。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである」

(『惡書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』)

この記述は、死去の直前に、日正が次期”法主”として日柱上人を指名するくだりだが、在家二名に託したとはいえ、すでに相承を終えている日正が、なぜ、いまわの際(きわ)に次期”法主”として日柱上人を表明しなければならなかったのかという必然(ひつぜん)が明白になってくるのだ。

日柱上人への血脈相承は、そばの者を含めて誰も知らなかったので、後の宗内混乱を心配し、皆を集め指名したのだ。

しかし、ここでまた新たな疑問がわく。宗内を混乱させないためならば、どうしていまわの際でなく、もっと早い時期に相承を発表しなかったのか、と。

この疑問を解(と)くカギも、先の推測(すいそく)に含まれている。早めに発表すれば、阻止(そし)されたり、覆(くつがえ)されたりする恐れすらある「介入」が予想されたということだ。

日正のそばに、ベットリとまとわりついた反日柱上人派に通じている者がいたということである。これのみが、日正がギリギリになって、すでに相承を譲(ゆず)っていた僧の名を明かしたという事情を説明できるのである。

死去を目の前にして気(き)息(そく)奄(えん)々(えん)の”法主”のそばで、相承の行方(ゆくえ)だけを気にかけ、弱りゆくのをじっと見ている者たちがいたのである。

それでは、日正に対して陰(いん)に陽(よう)に圧力をかけ、猊座を狙(ねら)っていた者は誰だろうか。日正が、在家の者二名に秘(ひ)密(みつ)裏(り)に相承を託さなければならないほどに……。

日達上人の『惡書板本尊偽作論を粉砕す』に、間接的ではあるが、その解答がある。

「御遷(せん)化(げ)の報が四方に伝えられるや、宗門は哀(あい)愁(しゆう)の底に落ちた、しかし此の時に於ても中には種々憶測(おくそく)をする者もあつて御遺言は日柱上人か日開(にちかい)上人かを確め様とする者もあつて、近(きん)侍(じ)の者にしきりと尋(たず)ねる者もあつた。近侍の者のうち次の座(ざ)敷(しき)にいた末輩(まつぱい)の者が、御声が聞えなかつたと答えたのが、一方に誤(あやま)つた噂(うわ)さとなつたのである。それは其の後葬送(そうそう)の席に於て日柱上人か日開上人かハッキリしなかつたいうではないか、と云う話が出たので、其の時日開上人は大学頭ではない筈(はず)だがと言つたら口を噤(つぐ)んで了(しま)つた。日開上人への御相承を期待した人達の心情を察(さつ)すべきである」

日柱上人と相承を争っていたのは、日開だったのである。この日達上人の記述は、当時の宗内が日柱派と日開派に割れていたことを描(びよう)写(しや)している。「葬送の席」においてすら、日正の声が「日柱上人か日開上人かハッキリしなかつたいうではないか」と、もめたのである。不(ふ)謹(きん)慎(しん)なことだ。

それにつけても、当時の日蓮正宗内では猊座をめぐって、すさまじいまでの確執(かくしつ)があったものだ。末寺の数が五十程度の弱小宗派のトップを狙い、末世の悪比丘たちが暗闘(あんとう)を繰り返していたのである。

「日開上人は大学頭ではない筈だがと言つたら口を噤んで了つた」という記述は、当時の宗規では「大学頭」が、次の“法主”となることが定められていたからである。このことはとりもなおさず、日開が宗規すら無視して、猊座を狙って画策(かくさく)していたことを示している。

“法主”になるためにあらゆる悪辣(あくらつ)手段を弄(ろう)した日開

さらに、歴史は下(くだ)ること昭和三年三月に、その史実は宗内において暴(ばく)露(ろ)された。

日亨上人後の猊座をめぐって、昭和二年十二月に阿部法運(のちの第六十世日開、日顕の父)と有元廣賀(当時総務)が宗門を真っ二つに割って選挙戦をおこなったのであるが、その選挙後、有元派は選挙の不当性を主張して『聲明書(せいめいしよ)』(昭和三年三月十三日付)を発表し、阿部法運の旧罪を暴(あば)いている。

日柱上人への相承をはばもうと画策した日開

「そも阿部師を管長たらしめんと企(くわだ)てたのは、遠く深いのであって、大正十二年八月、日正上人重患(じゆうかん)に陥(おちい)るや、彼等一派は名を正師の命を借りて、久しく大学頭として当然管長たるべき土屋日柱師を排斥(はいせき)し、阿部師を挙(あげ)んと、あらゆる悪辣(あくらつ)手段を弄(ろう)したのである」

ここに書かれていることは明白である。阿部法運は、日正が重体のとき、みずからの意志を日正の命であるとして、日柱上人を排斥(はいせき)したと記(しる)しているのだ。そして、阿部一派は法運を次期“法主”にするために、「あらゆる悪辣手段を弄した」と明記している。

さらには、日正を興津の一軒家に隔離(かくり)した日開の悪業について、日開に直接「上申書」(昭和五年四月三日付)をもって問い糾(ただ)している信徒がいる。

日開が謀(はか)ったクーデターにより日柱上人は放逐(ほうちく)されたが、その日柱上人を擁(よう)護(ご)していた信徒の西脇栄曽吉である。西脇は「上申書」に、次のように記している。

「然(しか)るに其(その)當(とう)時(じ)より柱師の偉大なる御人格を嫉(ねた)み諂(へつ)うふ阿部師を擁立(ようりつ)せんとする一派が正師の御病氣の重(じゅう)せらるくを見て早くも後繼(こうけい)法主の擁立を畫策(かくさく)し狂運動を成(な)せし事實(じじつ)はある書に明白なり正師の御病氣益々(ますます)重らせられ愈(いよいよ)興津へ轉地(てんち)療養の後は柱師の御枕頭(ちんとう)へ御近ずけ申さず彼の一派等は益々跋(ばつ)扈(こ)し或時(あるとき)は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強(きよう)言(げん)を以て大學頭職の辞職を强(きょう)要(よう)す」

日開は日正以後の猊座を狙って、日正が病気であるのをよいことに、あらゆる手段をもって日柱上人を排撃(はいげき)し、日正に近づけないように計り、大学頭職の辞職まで強要していたのだった。日達上人の著(あらわ)した『惡書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』に書かれていたことは、かくもおぞましい事実であったのだ。

クーデターによって“法主”を追い落とす

日柱上人への辞職勧告(かんこく)には宗会職員たちの密約(みつやく)があった

大正十四年十一月十八日、総本山大石寺において日蓮正宗の宗会が開かれた。宗会では、当初は日蓮宗身延派への対策を協議していたが、二十日になって、当時の”法主”である第五十八世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告(かんこく)したのである。

身延派対策を練(ね)っていた宗会が、突如(とつじよ)、”法主”の不信任案を成立させ、辞職勧告を決議した裏には、宗会議員たちの密約(みつやく)があった。いま風に言えば“クーデター”計画があったのだ。

大正十四年十一月十八日、宗会の初日に、正規の宗会進行の裏で密(ひそ)かに進められていた日柱上人追い落としの「誓約書」(全文)を紹介する。

少々、長くなるが注意深く読んでいただきたい。

「現管長日柱上人ハ私(し)見(けん)妄(もう)斷(だん)ヲ以(もつ)テ宗(しゆう)規(き)ヲ亂(みだ)シ、宗門統(とう)治(ち)ノ資格ナキモノト認ム吾(われ)等(ら)ハ速(すみや)カニ上人二隱(いん)

退(たい)ヲ迫(せま)リ、宗風ノ革新(かくしん)ヲ期(き)センカ爲(た)メ、佛(ぶつ)祖(そ)三寳(さんぽう)ニ誓(ちかつ)テ弦(ここ)二盟約(めいやく)ス不法行爲(こうい)左ノ如シ。

一、大學頭ヲ選任スル意志ナキ事

二、興學(こうがく)布教ニ無方針ナル事

三、大正十三年八月財務二關(かん)スル事務引繼(ひきつぎ)ヲ完了セルニモ不拘(かかわらず)、今ニ至(いた)リ食言(しよくげん)シタル事

四、阿部法運ニ對(たい)シ壓迫(あつぱく)ヲ加ヘ僧階降(こう)下(か)ヲ强(きょう)要(よう)シ之ヲ聽許(ちょうきょ)シタルコト

五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執(しつ)務(む)ヲ不可能ナラシム

六、宗内ノ教師ヲ無視スル事

七、自己ノ妻子ヲ大學頭ノ住職地タル蓮藏坊ニ住居セシムル事

八、宗制寺法ノ改正八十數年ノ懸案(けんあん)ニシテガイこう闔宗(がいしゅう)ノ熱望ナルニモ不拘(かかわらず)何等ノ提案ナキハ一宗統率(とうそつ)ノ資格ナキモノト認ム

實行(じつこう)方法左ノ如シ

一、後任管長ハ堀慈琳ヲ推薦(すいせん)スル事

二、宗制寺法教則ノ大改正ヲ斷(だん)行(こう)シ教學ノ大刷新(さつしん)ヲ企圖(きと)スル事

三、総本山ノ財産ヲ明確ニシテ宗門ノ財産トスル事

右ノ方法ヲ實行スルニ當(あたり)リ本聯盟(れんめい)ニ反スル者ハ吾人一致シテ制裁(せいさい)ヲ加ル事

以上ノ箇條(かじよう)ヲ証認(しようにん)シ記名調印スル者ナリ

大正十四年十一月十八日

宗會議員下山 廣健宗會議員早瀬 慈雄
宮本 義道小笠原慈聞
松永 行道水谷 秀圓
下山 廣琳幅重 照平
渡邊 了道水谷 秀道
井上 慈善
評議員水谷 秀道評議員高玉 廣辮
太田 廣伯早瀬 慈雄
松永 行道富田 慈妙
松本 諦雄西川 眞慶
有元 廣賀坂本 要道
中島 廣政相馬 文豊
佐藤 舜道白石 慈宜
崎尾 正道

前文は厳しい”法主”批判である。”法主”に対し「私見妄(もう)斷(だん)ヲ以テ宗規ヲ亂(みだ)シ」と決めつけている。ここで注目されるのは、”法主”を弾劾(だんがい)し隠退させることを「佛祖三寳ニ誓テ弦(ここ)ニ盟約ス」としていることだ。

この「誓約書」に署名捺印(なついん)した僧侶たちには、「三宝」(仏法僧)に当時の”法主”である日柱上人が含まれるなどといった意識はさらさらないことが判明する。

”法主”を批判すれば三宝破(は)壊(かい)であるとする日顕宗の邪義は、元来(がんらい)の日蓮正宗の教義とは無縁であり、近年、つくりだされたものなのだ。

日柱上人の不法行為として、「一」から「八」までの具体的事例があげられている。その中でことに注目されるのは、「四」である。

「阿部法運ニ対シ壓迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ强要シ之ヲ聽(ちょう)許(きよ)シタルコト」

阿部法運(後の日開)は、この宗会に先立つこと約四カ月前に日柱上人により処分されていた。阿部は総務(今の宗務総監)の職よりはずされ、能(のう)化(け)(”法主”になりうる僧階)より降格(こうかく)させられたのだ。このため”法主”になることが絶望的となった。日柱上人引き降ろしのクーデターの背景には、阿部に対する処分問題が尾を引いていたのである。

日柱上人追い落としに加担した第61世・日隆上人(右)と第64世日昇上人(左)

「七」も興味を引く。

「自己ノ妻子ヲ大學頭ノ住職地タル蓮藏坊ニ住居セシムル事」

大学頭(次の”法主”となることが約されているポスト)が当時は空席であったからだろう。日柱上人の妻子が住職のいない蓮蔵坊に住んでいたのだ。

「誓約書(せいやくしよ)」はクーデターのプランを記(しる)している。後任の管長(”法主”)として「堀慈琳ヲ推薦(すいせん)スル事」となっている。

これについても、日柱上人を追い落としたはいいが、クーデターの隠(かく)れた首謀者(しゆぼうしや)である阿部法運が、いきなり”法主”につくのでは強硬(きようこう)な反対も予想され都(つ)合(ごう)が悪いので、宗内に信望(しんぼう)が厚い、のちの堀日亨上人がかつぎ出されたとするのが、一般的な見方である。

だが、これは現在の日顕らの主張する血脈相承のあり方にまっこうから対立するものである。衆議によって現”法主”が引きずり降ろされ、次の”法主”が指名されるなどといったことは、当時の日本宗教界においては異例のことであった。今日(こんにち)、”法主”を絶対視する者たちは、この事態をどのように理解するのだろうか。そのうえ、クーデターから脱落(だつらく)する者に対して、「吾人一致(いつち)シテ制裁(せいさい)ヲ加ル事」としている。まさに血判状(けつぱんじよう)をもって僧らは”法主”打(だ)倒(とう)を盟約(めいやく)しているのだ。

宗会の日柱上人退座要求に激(げき)怒(ど)した檀家総代ら

クーデターは実行に移された。大正十四年十一月二十日、日蓮正宗宗会は次の決議をする。

「宗會ハ管長土屋日柱猊下ヲ信任セス」

不信任決議とともに、辞職勧告書も宗会で決議された。決議の主文は次のとおり。

「管長土屋日柱猊下就職以來何(なん)等(ら)ノ經綸(けいりん)ナク徒(いたず)ラニ法器ヲ擁(よう)シテ私利ヲ營(いとな)ミ職(しよつ)權(けん)ヲ濫用(らんよう)シ傖(そう)權(けん)ヲ蹂躙(じゆうりん)ス我等時勢二鑑(かんが)ミ到底(とうてい)一宗統御(とうぎよ)ノ重任ヲ托(たく)スルヲ得ス速(すみや)カに辭(じ)職(しょく)スル事ヲ勧告ス

大正十四年十一月二十日」

はたしてこうした事実を、金口嫡々(こんくちやくちやく)唯授一人相承(ゆいじゆいちにんそうじよう)のための次期”法主”選定(せんてい)の方法として受け入れることのできる僧俗がいるだろうか。日顕宗の主張する”血脈相承”のあるべき姿とは、あまりにかけ離れた史実である。

日柱上人に対する圧力は、宗会の決議だけではなかった。宗会の決議は二十日だが、宗会初日の十八日の夜半、日柱上人に対するイヤがらせが、すでにおこなわれていた。客殿で勤行中の日柱上人に対して、ピストルのような爆発音をさせて威(い)嚇(かく)したり、客殿に向かって瓦(かわら)や石を投げつけたのである。

当時の大石寺は、夜ともなれば静寂(せいじやく)そのものであったろう。そのしじまを破(やぶ)るような爆発音を響(ひび)かせ、瓦や石を投げつけたというのだから悪質きわまりない。

夜半の勤行ということだから丑寅(うしとら)勤行と思われるが、丑寅勤行中の日柱上人にイヤがらせをしたのは、二名の僧であった。ただし、この二人は、後に警察沙汰(ざた)となってから判明した実行犯のみで、この裏には教(きよう)唆(さ)した者がいたとされる。

日柱上人に対する陰(いん)に陽(よう)にわたる圧力は、相当(そうとう)なものがあったと思われる。

日柱上人は、これら宗会議員たちの圧力に押されたためか、二十二日に辞職の意志を表明、辞表を書いた。日柱上人の辞表提出を幸いとして、宗会議長の小笠原慈聞ほか三名は、同日すぐさま、文部省に届出をするために上京。翌々日の二十四日、届出の手続きを完了した。新しい法主は、先の密約(みつやく)どおり、のちの堀日亨上人とされた。

日柱上人が突然(とつぜん)退座の意志を表明したとの知らせは、大石寺の檀家総代(そうだい)らに伝わった。だが総代らは、自分たちに何の相談もなく、ヤブから棒(ぼう)に事が進められていることに猛(もう)反発。翌二十三日、宗会議員らのおこなっていることは許すことのできない暴挙(ぼうきよ)であるとして、宗会議員一人ひとりに檀家総代らが詰(つ)め寄(よ)るところまで、事態は紛糾(ふんきゆう)した。

宗会議長の小笠原慈聞らが、文部省宗教局に、日柱上人の退座、日亨上人の登座の届けを提出するために上京したことを知った檀家総代らは、追いかけるように、二十七日の早朝、三名の代表を急きょ東京に派(は)遣(けん)、文部省に事情説明、陳情(ちんじよう)をおこなった。もちろん彼らは、日柱上人に対する宗会の退座要求が不当であることを主張したのである。

文部省宗教局は、檀家総代らの陳情に基(もと)づき、二日後の二十九日、宗会側の主要人物である総務(現在の宗務総監)の有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(のちの第六+一世日隆(にちりゆう)上人)、松永行道(福岡・霑妙寺住職)を改めて召喚(しようかん)した。

文部省宗教局は、宗会側の“クーデター”に対して強い不(ふ)快(かい)感(かん)を抱(いだ)いていたようだ。下村宗教局長は三名の僧に対し、「貴僧等は社会を善導教化(ぜんどうきようけ)すべき責任の地位にありながら今回の暴挙(ぼうきよ)を敢(あえ)て為(な)すは何事か」(大正+四年十二月三日付『静岡民友新聞』)と厳しく追及(ついきゆう)し、そのうえで、四日後の十二月一日までに、宗会が突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を日柱上人より回収して、文部省まで持(じ)参(さん)し提出するよう命令した。

所轄(しよかつ)官庁の宗教局としては、一宗のトップ交代が、クーデターのような形でおこなわれたとあっては、監(かん)督(とく)不(ふ)行(ゆき)届(とど)きとなりかねないとの判断が働いたのではあるまいか。しかも、すでに辞表および就任の書類を受理(じゆり)したことでもあり、ゴタゴタが表面化することを避(さ)け、円満な交代であったことを装(よそお)うため、不信任決議書、辞職勧告書という不(ふ)穏(おん)当(とう)な書面を撤回(てつかい)させ預(あず)かろうとしたのであろう。

地元有力者も巻き込お紛争(ふんそう)となった大石寺のクーデター

宗会側の代表三名は、”日柱上人おろし”に成功して大喜びしていたところへ、宗教団体の監督に絶大な権力を持つ宗教局長から厳訓(げんくん)され、肝(きも)の縮(ちぢ)むような思いで大石寺に帰った。

もはやクーデターの成功を喜んでいるどころではない。ともかく宗教局長の命令どおり、十二月一日までに、不信任決議書と辞職勧告書を日柱上人より回収して文部省へ提出することが最優先の行動とされた。

帰山した三名は日柱上人に対し、二通の書面の返却(へんきやく)を懇請(こんせい)したが、書面はすでに檀家総代の渡辺登三郎の手に渡っていた。いまや立場は逆転し、三名の僧たちは檀家総代に返却を哀願(あいがん)するハメにおちいったのである。

だが檀家総代側も、これまでの経過からして、書面の返却を二つ返事で了承(りようしよう)するなどといったことはしなかった。

宗会側の僧三名は、日柱上人と上野村村長の立ち会いのもと、詫(わ)び状(じよう)を檀家総代に提出し、やっとのことで二通の書面を返却してもらった。僧が檀家総代に詫び状を入れたのも愉(ゆ)快(かい)だが、上野村村長が立ち会ったというのも抱腹絶倒(ほうふくぜつとう)ものである。

それはさておき、文部省宗教局長に恫喝(どうかつ)され、なんとしてでも不信任決議書と辞職勧告書を手に入れなければと、切羽詰(せつぱつ)まった思いに駆(か)られていた有元、水谷、松永の三名は、詫び状を信徒に差し入れるという予想外の出来事があったにせよ、回収すべき書面を手に入れることができた。

書面の提出期限の十二月一日、僧たちは大宮駅(今の富士宮駅)を午前五時三十二分の列車に乗り上京した。

昭和十三年頃の大宮駅

書面をたずさえた僧が緊張した面持(おもも)ちで宗教局長の前にあらわれたのは、当時の交通事情からして、おそらく午後の二時か三時頃ではなかっただろうか。

宗会側を代表する僧三名は、日柱上人に突きつけた不信任決議書と辞職勧告書を撤回(てつかい)のうえ、回収した。そして文部省宗教局長から指示された、提出期限の十二月一日当日、なんとか差し出すことができた。だが、それですんなりと事態が収拾(しゆうしゆう)され、新“法主”の誕生ということにはならなかったのである。

身延線を走っていた蒸気機関車(大正12年頃)

宗会議員や評議員のクーデター派は、次の”法主”にのちの堀日亨上人(当時は堀慈琳と称し立正大学講師であった)を擁立(ようりつ)するということで盟約(めいやく)し、日柱上人に辞表を書かせ、日亨上人の就任承諾(しようだく)も得たうえで、十一月二十四日に日柱上人の辞職届と日亨上人の就職届を添えて管長(”法主”)の交替を文部省に届け出ていた。

しかし日亨上人は、その後のゴタゴタに嫌(いや)気(け)がさし、新管長(”法主”)への就任を見合わせるとの意思表示をした。不就任を表明したのは、宗会側の三名の僧が宗教局長に弾呵(だんか)された十一月二十七日の直後と思われる。

一方、大石寺地元の檀家総代らは、日柱上人擁(よう)護(ご)の運動を広げるために、十二月二日に上京した。上京したのは渡辺、笠井、井手の檀家総代三名であった。三人の檀家総代は、篠原・東京信徒総務に面談、情報を交換するとともに今後の運動の展開などについて話し合った。

このとき総代らは、日亨上人がいったん意思表示した管長不就任をひるがえし、再び就任の決意をしたことを東京の地にて知る。日亨上人としては、自分が管長就任を承諾しなければ、日柱上人の辞表がすでに文部省宗教局に受理されている現状からして、管長不在の状態がつづき、無用の混乱を招(まね)くと判断したためと思われる。

この日亨上人が管長(”法主”)就任を再び承諾したことは、日柱上人を擁(よう)護(ご)しようとする大石寺の檀家総代らにとってはきわめて不(ふ)愉(ゆ)快(かい)なことであった。日柱上人派の不利な先行きを予想させたからである。

そして、このニュースは、檀家総代らが白糸村村長・渡辺兵定宛(あて)に打った電報によって、大石寺の地元にもたらされた。大石寺のクーデターは、すでに多数の地元有力者を巻き込んでの紛争(ふんそう)∈ふんそう∋になっていたのだ。

すでに十一月二十七日、大石寺の地元より三人の総代が、宗教局に日柱上人留任の陳情(ちんじよう)をしていたが、それ以来、静岡と東京の信徒は連携(れんけい)を取り合いながら、代表が連日、宗教局に押しかけた。

しかし日柱上人の辞職届と日亨上人の就任届が、監督官庁である文部省宗教局に受理されている以上、法的に有効であり、それを覆(くつがえ)すにはよほどの法的事(じ)由(ゆう)が必要となる。だが、日柱上人側も、クーデターを無(む)効(こう)にする決め手には欠けていた。

檀信徒による僧侶の“破門”まで決議された

さて十二月六日、日亨上人は、日蓮正宗の管長(”法主”)に就任するため大石寺に入山した。明けて七日、日亨上人は前管長の日柱上人に事務引き継(つ)ぎを申し入れる。ところが、事務引き継ぎに不可欠の檀家総代の立ち会いが得られず、引き継ぎはできなかった。総代がこぞって立ち会いを拒(きよ)否(ひ)したのだ。

新管長としての職(しよく)務(む)を遂行(すいこう)するために入山したにもかかわらず、事務引き継ぎができないため、日亨上人の管長就任は完全に暗(あん)礁(しよう)に乗り上げてしまった。

日柱上人は大坊にそのままいつづけたので、日亨上人はやむなく、塔中寺院の浄蓮坊に入った。これ以降、同じ大石寺の境内で、日柱上人を擁(よう)するグループと日亨上人を擁するグループとが二派に分かれ、深刻(しんこく)な対立をすることとなる。

日柱上人の側には、大石寺の檀家総代をはじめ、主に東京などの檀信徒がついた。大石寺の檀家総代らにしてみれば、全国から集まった僧らが、何の権限(けんげん)があって自分たちの大石寺住職(法主)を放鄭(ほうてき)しようとするのかということで、どうにも許せないものがあったのだろう。

当時の新聞などの論調(ろんちよう)を見れば、日蓮正宗という宗派(包括(ほうかつ)法人)の僧たちが密(みつ)議(ぎ)し、大石寺(被包括法人)を乗っ取ろうとしている、といった論調が目立つ。「大石寺派」(日柱上人のグループ)と「日蓮正宗派」(日亨上人のグループ)といった表現も、新聞報道の中に散見(さんけん)される。

両派が大石寺内で深刻な対立をつづけている十二月十日頃、ある事件が起きた。十一月十八日の宗会以来、本山に陣取(じんとり)り、阿部法運(のちの日開)の意を受けて日柱上人おろしの中核(ちゆうかく)として動いていた東京・品川の妙光寺住職・有元廣賀総務が、東京の信徒代表十二名によって強引に拉致(らち)され、東京に連れて行かれてしまった。

もともと日柱上人に対するクーデターは、この有元総務が、日柱上人に取り立てられた経過を無視して、日柱上人に敵対し、阿部法運側(がわ)に寝(ね)返(がえ)ったことによって可能になったとされる。ナンバー2のナンバー1への裏切りがあったればこそ、日柱上人降(お)ろしが成功したのだった。そのクーデターの首謀者(しゆぼうしや)の一人が、信徒らによってあえなく強制下山させられてしまったのだ。

大正時代の末寺住職は、日頃、信徒に世話になっている手前、信徒の意向に面と向かって抗(あらが)うことはできなかったようだ。

大正十四年は、両派ともに決定的な対抗策を講(こう)ずることもできないまま、暮れようとしていた。だが、暮れも押し迫(せま)った十二月二十八日、日柱上人側が動きを見せた。突如(とつじよ)、日柱上人が大石寺を下山し、東京に向かったのである。

日柱上人が新年も間(ま)近(ぢか)に迫った大正十四年十二月二十八日、大石寺を下山したのは、クーデター騒(さわ)ぎの後すぐさま旗(はた)揚(あ)げした正法擁(よう)護(ご)会など、日柱上人を擁護する東京の檀信徒たちとの連携(れんけい)をいっそう密(みつ)にするためであった。大石寺内における両派のにらみ合いという小(しよう)康(こう)状態を、檀信徒の力を借りて打破(だは)しようとしたのだ。

正法擁護会は、クーデター派僧たちの活動を阻(はば)むため、十二月中旬頃にはすでに結成されていたようだ。日柱上人が上京した十二月二十八日には、『正邪の鏡』という真相暴(ばく)露(ろ)の小冊子まで発行している。

あわただしい年の瀬のさなかにもかかわらず、新しくできた小冊子を目の当たりにし、日柱上人を迎えた正法擁護会のメンバーの意気は、天を衝(つ)くものがあったのではあるまいか。

正法擁護会を中核(ちゆうかく)とした日柱上人擁護の檀信徒は、新年早々(そうそう)、東京において全国檀徒大会を開くことを決定した。全国の檀信徒の声をもって、宗会クーデター派の非を天下に訴(うつた)∈うつた∋えることにしたのだ。

全国檀徒大会は、大正十五年が明けて間もない一月十六日の午後一時より、神田和泉橋倶楽部において開かれた。

この全国檀徒大会では次の五項目が決議された。一つひとつの決議を吟(ぎん)味(み)する中で、紛争(ふんそう)当時の状況を探(さぐ)ってみたい。

「一、管長即大導師の寳(ほう)位(い)を日柱上人に奉還(ほうかん)することに努力邁進(まいしん)すること」

日柱上人は日亨上人に相承をおこなっていないので、日亨上人は“法主”ではない。ただし、文部省宗教局に対し、日柱上人は管長の辞職届、日亨上人は就任届をそれぞれ出している。その限りにおいては日亨上人が管長であるとも言える。

すなわち檀信徒は、その当時の状況を、”法主”は日柱上人、管長は日亨上人と、本来なら一つであるべき”法主”と管長が、二つに分かれていると認識していたのではあるまいか。その現状認識が「管長即大導師」という表現に込められているようだ。

檀信徒は、相承が前”法主”である日柱上人の意思にまったく逆(さか)らっておこなわれようとしていることに、信仰上の危機感を持っていた。このようなことは六百有余年の大石寺の歴史においても、珍しいことである。

この下(げ)剋(こく)上(じよう)にも似た出来事は、同時の世相からしても、人々に受け入れられるものではなかった。

大正時代は近代天皇制国家のもとにあった。上(かみ)御一人の天皇より下(しも)万民に至るまでの不変の秩序立てこそ、優先されるべきことであった。その世相の中で、人々に範(はん)を垂(た)れるべき僧が、下剋上の手本を見せたのだから、世間注(ちゆう)視(し)の大変な騒動となってしまったのだ。

「二、戒壇の御本尊の開扉並(ならび)に檀信徒に授(じゆ)輿(よ)さる・御本尊の書冩(しよしや)は日柱上人に限り行はせられ血脈相承なき僧侶によつて行はれざる様適當(てきとう)の方法を講ずること」

檀信徒が、相承のなされていない日亨上人による御開扉、御本尊書写を拒否しているのである。”血脈”擁(よう)護(ご)の立場からの主張であるが、それは現実的には、日亨上人へのあからさまな拒否反応としてあらわれてしまった。よかれと思って管長を引き受け、早期に紛争(ふんそう)を解決しようとした日亨上人の苦(く)慮(りよ)のほどは、はかり知れないものがあっただろう。

「三、日柱上人を排斥(はいせき)し又は之に與(よ)同(どう)した僧侶に對(たい)しては我等の目的を達するまで一切の供養を禁止すると共に信仰上の交際(こうさい)を斷絶(だんぜつ)すること」

クーデターを起こした反日柱上人派の僧侶は養(やしな)わない、「信仰上の交際を断絶する」とまで檀信徒たちは声明している。

檀信徒による僧の”破門”である。”破門”の理由は、僧が”血脈”の本来あるべき筋道(すじみち)をはずし、衆を頼んで相承を強制して、”唯授一人血脈相承”を破(は)壊(かい)していると檀信徒たちは見ていたである。

「四、宗制寺法、教則の改正等は管長の寳(ほう)位(い)が日柱上人の奉還(ほうかん)せられた以後に實現(じつげん)される様に適當(てきとう)の処置を採(と)ること」

クーデター派に有利な規則の変更を阻(はば)もうとしたようだ。この時点で、両派ともに法的な検討を相当に詰(つ)めていたのではあるまいか。

「五、右の各項を實現するため數十名の實行委員を選定すること」

日柱上人復活に向けて、組織だった活動が全国規模(きぼ)で展開されることになった。

国家権力の介入によって選挙で管長を決めることに

この一月十六日におこなわれた檀徒大会は、クーデター派と日柱上人を擁(よう)護(ご)する反クーデター派が、完全に決裂(けつれつ)してしまい、一切の調停(ちようてい)が不可能であるとの印象を文部省宗教局に与えた。そこで宗教局は最後の決断を下す。

日蓮正宗の管長をめぐる紛争(ふんそう)を、話し合いによって解決できないと判断した文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定した。その決定は、全国檀徒会がおこなわれた一月十六日に日蓮正宗側に伝えられたようだ。そこで、規則に従(したが)い、管長候補者選挙が告(こく)示(じ)された。

投票は郵送あるいは本人持(じ)参(さん)をもっておこなわれ、二月十六日が投票締切(しめきり)。二月十七日、大石寺宗務院において開票されることとなった。被選挙権者の資格は権僧正(ごんそうじよう)以上であった。ただし阿部法運は、僧階降格一年未満であったため除外された。

その結果、当時の宗内で被選挙権を有する者は、日柱上人、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、堀慈琳(のちの旦・了上人、浄蓮坊)、水谷秀道(のちの日隆上人、本廣寺)の四名となった。一方、選挙権を有している者は八十余名いた。

日柱上人は選挙を有利にするため、一月二十五日、『宣言』を発表した。その内容の骨子(こつし)は、「選擧(せんきよ)に於(おい)て、日柱以外の何人が當選(とうせん)されたとしても、日柱は其人に對(たい)し、唯授一人の相承を相傳(そうでん)することが絶對(ぜつたい)に出來得べきものでない事を茲(ここ)に宣言する」というものであった。選挙で自分に投票しなければ、”血脈”が断絶することになるぞと威(い)嚇(かく)したのである。

なお『宣言』の全文は以下のとおり。

「宣言

一 日柱の管長辭職は、嚢(ひとえ)に評議員宗會議員並に役僧等の陰謀(いんぼう)と、其强(きょう)迫(はく)によつて餘儀(よぎ)なくせられたるものであれば元(もと)より日柱が眞(しん)意(い)より出たものでない。

か・る不合理極(きわ)まる経路に依(よつ)て今(こん)囘(かい)の選擧が行はれる事になつた。

斯(かく)の如(ごと)き不合理極まる辭職が原因となりて行はれる選擧に於(おい)て、日柱以外の何人が當選されたとしても、日柱は其人に對し、唯授一人の相承を相傳(そうでん)することが絶對に出來得べきものでない事を茲(ここ)に宣言する。

二 抑(そもそも)も唯授一人の相承は、唯(ゆい)我(が)與(よ)我(が)の境界(きようがい)であれば、妄(みだ)りに他の忖度(そんたく)すべきものでない。故に其(その)授受も亦(また)日柱が其法器なりと見込たる人でなければならぬ。

聞くが如くんば、日柱が唯授一人の相承を紹繼(しようけい)せるに對し、兎(と)角(かく)蜚(ひ)語(ご)毒(どく)言(げん)を放(はな)つ者ありと。これ蓋(けだ)し爲(ため)にせんとての謀計(ぼうけい)なるべきも、斯(かく)の如き者は、獅(し)虫(ちゆう)の族である。相承正統の紹繼者は、日柱に在(あ)り。日柱を除いて他にこれなき事を斷言(だんげん)する。

既に不合理の經路に依(より)て行はる・、今同の選擧であれば、これに依て他の何人が當選するとも唯我與我の主意に反するを以て、相承相傳(そうでん)は出來ないのである。乃(すなわ)ち佛勅を重んずる精耐に基(もとづ)く故である。斯の如く日柱が相承を護持(ごじ)する所以(ゆえん)は、謗(ぼう)徒(と)の爲に、宗(しゆう)體(たい)の尊嚴を冒(ぼう)瀆(とく)せられ、佛法の血脈を斷絶せらる・事を恐る・ゆへである。而(し)かも米國の民主主義や、露國の無政府共産主義の如き事が、我が宗門に行はれることになり、それが延(ひい)ては終(つい)に日本國體(こくたい)に及ぼす禍根となるを悲む所以である。

三 日柱は宗體を顛覆(てんぷく)せらるヽ事を痛嘆(つうたん)する者である。既にこれを憂慮(ゆうりよ)せる清浮の信徒は、奮起して正義を唱へ、相承紹繼の正統を、正統の正位に復(もど)すべく熱誠(ねつせい)活動して居るのである。苟(いやし)くも僧侶として信念茲(ここ)に及(およ)ばざる如きあらば眞(まこと)に悲むべきである。卽ち佛法の興廢(こうはい)は今囘の選擧によって定まるのである。願くば選擧に際し其の向背(こうはい)を誤まらざらんことを。

佛日を本然(ほんねん)の大光明に輝(かがや)かさんと願はん純正の僧侶並に信徒は、敢然(かんぜん)として三(さん)寳(ぼう)擁(よう)護(ご)に奉(ほう)ずるために、正路(しようろ)に精(しよう)進(じん)し、倶(とも)に共に宗(しゆう)體(たい)を援助するに勇猛(ゆうもう)なれ。

南無妙法蓮華経

大正十五年一月廿五日

総本山五十八嗣法 日柱 花押」

意に反して猊座を追われた日柱上人の無念さがひしひしと伝わってくる。日柱上人に退座すべき理由は何もなかった。阿部法運の僧階を降格したばかりに恨(うら)みを買い、クーデターを画策(かくさく)され、退座を余儀(よぎ)なくされたのだ。それも「陰謀(いんぼう)」「脅迫(きようはく)」によってなされたというのだから、穏(おだ)やかではない。

時の“法主”に信伏随従(しんぷくずいじゆう)していたのはたったの二名

さて、日注上人を雍立(ようりつ)する壇信徒の集まりである正法擁護会代表八名は、日亨上人に対して日柱上人の支援にまわってくれるよう懇請(こんせい)するため、大石寺の浄蓮坊を訪(たず)ねた。一月二十九日のことである。この日亨上人との会見には、大石寺の地元の檀家総代一名が同席した。

日亨上人と一同の会見は、一月二十九日から三十日にかけて数度おこなわれたが、日亨上人が懇請(こんせい)をキッパリと退(しりぞ)けたことにより、正法擁護会の工作は失敗した。

一月三十日、正法擁護会は大宮町(富士宮市)の旅館・橋本館に引き揚(あ)げ、夜遅くまで善後策(ぜんごさく)を協議した。日亨上人の説得に失敗した今、日柱上人の敗北はほぼ確定的である。そこで、正法擁護会の代表八名は、残された非常手段に訴(うつた)えることにした。

明けて一月三十一日午後一時、一行は大宮警察署を訪ね、疋田警部補に面会。午後二時七分、大宮駅発の列車で帰京した。正法擁護会の代表たちは、前年十一月の日蓮正宗宗会における不信任決議の不当性を訴え、日柱上人に対する脅(きよう)迫(はく)事件の捜(そう)査(さ)を疋田警部補に要請(ようせい)したようだ(注=時期の特定はできないが、日柱上人側が告(こく)訴(そ)していたことが後に判明する。これが後に日蓮正宗への警察の介入を招(まね)く)。

こうして、管長候補者の選挙がおこなわれたが、開票前日の『静岡民友新聞』大正+五年二月十六日付)は、次のように報じている。

「屡報(るほう)宗門の恥(はじ)を天下にさらし、宗祖以來七百年の誇(ほこ)り、血脈相承も棄(す)て・管長選擧に僧侶と檀信徒が對立(たいりつ)して醜(しゆう)箏(そう)をつづけてゐる日蓮正宗大本山富士郡上野村、大石寺の管長選擧も今十六日を以(もつ)て投票を終り明け十七日開票の筈(はず)だが、開票の結果は、檀信徒派擁立(ようりつ)の土屋前管長の當選は到(とう)底(てい)覚(おぼ)束(つか)なく僧侶派擁立の現管長事務扱、堀慈琳師の當選は疑ふ餘地(よち)なき確實なものと観測されてゐる。所轄(しよかつ)大宮署では開票當日の大混亂(こんらん)を豫測(よそく)して官、私服の警官十餘名特派し警戒に努(つと)める模様だ」

日蓮正宗の管長候補選挙の開票に警官十余名が動員されることが報じられている。この新聞記事は、日蓮正宗内の対立がいかにひどいものであったかを示している。

そして、いよいよ開票日当日を迎える。

二月十七日午前九時五分より、日蓮正宗管長候補者選挙の開票がおこなわれた。開票結果は次のとおり。

総投票数八十七票のうち、棄(き)権(けん)が二票、有効投票は八十五票であった。

八十二点当選堀 慈琳師
五十一点水谷秀道師
四十九点有元廣賀師
三点次点土屋日柱師

日柱上人の得点は、たったの三点であった。当人の一点もあるので、時の”法主”であった日柱上人に「信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゆう)」していた者は、たったの二名しかいなかったことになる。僧たちは、信徒には“法主”への「信伏随従」を強調するが、それはそのほうが自分にとって有利だと判断されたときだけである。

大正十五年二月の管長候補者選挙の投票結果は、僧の“法主”への「信伏随従」の程度を数量的に示(しめ)した数少ない事例である。「信伏随従」した者は、投票権を有した僧八十七名中たったの二名、二・二パーセントである。これが僧の「信伏随従」の数値である。お寒(さむ)い限りだ。

日柱上人擁(よう)護(ご)派からの訴えで警察の取り調べを受けた宗会職員ら

ともかく選挙は、日亨上人の圧倒的な勝利であった。

あとは形だけの評議員会を開き、日亨上人を管長と決定し、文部省に申請(しんせい)して認可をもらうだけとなった。

これで、まる三カ月にわたってつづいた泥沼抗争(どろぬまこうそう)にも終(しゆう)止(し)符(ふ)が打たれるかと思われた。だが、またも事態は暗転(あんてん)する。

反日柱上人派は、開票当日の午後、大奥(大坊)において、“戦勝”を祝って日亨上人を囲み歓談(かんだん)していた。

そこへ大宮警察署の疋田警部補が、数名の制服警官を伴(ともな)ってあらわれた。この日は形だけの捜査で終わったが、翌十八日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けることになる。

日蓮正宗宗会議長の小笠原慈聞を筆頭(ひつとう)に、宗会議員、評議員総計二十一名に対する告訴が、日柱上人擁(よう)護(ご)派より出されていたのだ。日柱上人がやむなく辞表を書いたのは脅(きよう)迫(はく)によるものだ、と訴え出ていたのである。

翌十八日は、あわただしく明けた。早朝、評議員会を開き、日亨上人を管長として文部省に申請(しんせい)することを決定。総務・有元廣賀、参事・坂本要道二名が旅装(りよそう)をして急きょ上京し、翌十九日には文部省に管長認(にん)可(か)に必要な書類を提出した。警察の介入に驚き、急いで法手続きを済(す)ませたのだ。

さて話は、警察の取り調べにもどる。

まず十八日は、小笠原慈聞ら九名が午前九時より取り調べを受けた。取り調べは、署内の武道場に全員を入れ、そこから順次一人ひとりを取り調べ室に呼び出して徹底的におこなわれた。調べは夜遅くまでつづいた。

小笠原らが取り調べを受けた大宮署

ここに至(いた)って、前年の秋以来つづいた日蓮正宗の宗内抗争(こうそう)は、警察権力の介入という最悪の事態に突入(とつにゆう)してしまったのだ。

訴えられた他府県に所在する僧たちは、後日順次、大宮署に召喚(しようかん)された。大宮署の苛(か)酷(こく)な取り調べは、その後も連日のようにつづいた。

二月二十四霞には早くも二名の者が書類を検事局に送られた。書類送検されたのは、日蓮正宗宗務院の加藤慈仁(慈忍という報道もある)と蓮成寺住職の川田正平(米吉という報道もある)の二名。この二名は前年十一月十八B、丑寅(うしとら)勤行中の日柱上人を脅(おど)すためピストルのような音をたてたり、瓦(かわら)や石を客殿に投げたことを自供した。

警察署から検事局に送られた書類には、そのほか水谷秀道(静岡県・本廣寺住職、のちの日隆上人)、小笠原慈聞(宗会議長)、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、相馬文覚(理境坊住職)、中島廣政(寂日坊住職V、西川真慶(観行坊住職)、小坂要道(百貫坊住職V、早瀬慈雄(法道院主管)、松本諦雄(『大臼蓮』編集兼発行入)、太田廣伯(静岡・蓮興寺住職〉などの名が載(の)っていた。日柱上人に対する脅迫の嫌(けん)疑(ぎ)をかけられていたのだった。さらに捜査は続行した。

大石寺の“法主”(管長)の座をめぐる争いは、脱(だつ)∈だつ∋することのできない袋(ふくろ)小(こう)路(じ)に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。だが解決の日は、意外にも早く来た。

三月六日午後一時五十三分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、侍(じ)僧(そう)と正法擁(よう)護(ご)会の者二名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。

そこで大石寺檀家総代三名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者二名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜までつづいた。

翌三月七日、日柱上人らは二台の自動車に分乗(ぶんじよう)して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。三月七日午前十時より総本山大石寺客殿において相承の会式を挙行、午後一時に終了。午後二時より酒宴となった。

三月八日午前0時より一時にかけて、相承が日柱上人と日亨上人の間で執(と)りおこなわれた。翌月の十四日、十五日には、日亨上人の代(だい)替(がわり)法要が催(もよお)された。

これをもって、日蓮正宗の“法主”の座をめぐる争いは終了した。

抗争(こうそう)劇は実にあっけない幕(まく)切(ぎ)れとなったのだが、日柱上人側が強(きよう)硬(こう)な態度から、一挙に柔(じゆう)軟(なん)な態度に転(てん)じた背景には、文部省の下村宗教局長の調(ちよう)停(てい)があった。

調停がおこなわれたのは、二月の終わりか三月の初めと思われる。大方(おおかた)の予想に反して、ただ一回の調停で和(わ)解(かい)が成立したという。

その場で五力条の合意を見た。残念ながら、文部省の誰が調停の現場に臨(のぞ)んだのかは判然(はんぜん)としない。だが、誰が代表で調停の現場に出て合(ごう)意(い)したにしろ、それに基づき両派のにらみ合いが解消されたことはたしかだ。

ただし、五カ条の合意内容は、当時複数の新聞で報じられている。

「一、宗(しゅう)體(たい)の維持(いじ)に就(つい)ては前法主派、法主互いに協力する事

二、新法主は山中及(およ)び宗門を改正する事

三、宗門の重大事に就て新法主前法主相談する事

四、新法主は宗門の雑事には容喙(ようかい)せぬ事

五、新法主は信俗の信行を増進する事」

この五項目以外にも、日柱上人の「隠尊(いんそん)料」が問題にされた。その内容については、正法擁護会のメンバーである田辺政次郎が、日亨上人登座後の同年九月、『異体同心の激文(げきぶん)』という文書の中で一部明らかにしている。

田辺は、日蓮正宗側が日柱上人に約した「隠尊料」の支払いを履(り)行(こう)しないということで合意内容を暴(ばく)露(ろ)したのである。

その中で田辺は、以下のことを明らかにしている。

「然(しか)して日柱上人御隠尊料は(現金三千圓之(こ)れは正鏡にも記(き)載(さい)あり)白米七十俵本山より供(く)養(よう)すべき内約を大石寺檀徒惣代(そうだい)人の意見として相談せし事、然れども此事は同三月八日御相承の後ち再び改め減額せられた即(すなわ)ち白米廿五俵現金壹千圓となりし是れも約束だけで實行(じつこう)はせぬ事に聞及(ききおよ)びたり」(注11『異体同心の傲文』一部抜粋(ばつすい)、文中『正鏡』とあるのは反日柱上人側の出した文書)驚くべき事実である。日柱上入を退座させ相承を円滑(えんかつ)におこなうために、「隠尊料」が支払われる約束になっていたと暴露しているのだ。しかも、それが相承を支障(ししよう)なくおこなう条件として、相承の前後に話されていた。

隠尊料は調停合意の時点では、現金三千円と白米七十俵が、大石寺檀家総代の意見として述べられた。新管長側が、それをその時点で承(しよう)諾(だく)したのかどうかは定かではないが、三月八日の相承の後で、現金一千円と白米二十五俵に減(へ)らされてしまったと、日柱上人側の田辺は暴露している。

田辺が隠尊料のことを暴露したのは、まだ宗内抗争の傷(きず)も癒(い)えぬ頃である。関係者全員が健在であろうし、田辺の記すことが、あながちウソとは思えない。隠尊料支払いの実行不実行が、日蓮正宗内で人口に膾炙するようになるとは、”金(こん)口(く)嫡(ちやく)々(ちやく)唯授一人相承”の金(きん)科(か)玉(ぎよく)条(じよう)も、当時はその権威を失ってしまっていたと思われる。

ちなみに現金一千円が今日のどの程度の金額に相当するか換算(かんさん)してみる。大正十五年当時、十キロの米はおよそ三円二十銭である。今日の米の値段をかりに十キロ五千円とすると、隠尊料の一千円は、現在の約百五十万円となる。公務員の初任給は大正十五年当時七十五円。現在十三万円として換算すると、大正十五年の一千円は現在の百七十万円となる。

もう一つおまけに換算してみよう。当時の『大日蓮』は十五銭、いまの『大日蓮』は三百円。すると隠尊料一千円は、約二百万円となる。

どうやら日柱上人の隠尊料は、現在の百五十万円~二百万円程度だったようだ。だが、日柱上人はそれすら与えられず、宗内の者ことごとくに敵対され、放逐(ほうちく)されたのだった。しかも猊座についていたのは、二年三カ月という短期間であった。日柱上人に対する日蓮正宗の僧たちの仕(し)打(うち)ちは、酷(ひど)いものがあった。

新しく登座した日亨上人は、学究肌(がつきゆうはだ)の方であるから、「隠尊料」の取引に関(かん)与(よ)することなど考えられない。

おそらく、このクーデターの筋書(すじがき)を書いた“政僧”たちが、日柱上人や正法擁護会の人々を宥(なだ)めるために、その場しのぎの懐柔(かいじゆう)をおこなったものだろう。人のよい日亨上人を利用し、日蓮正宗を我が物にしようとする”政僧”たちの息づかいが聞こえてくる。

日開らのクーデターにより”法主”の座を追われた日柱上人

クーデターを起こした“政僧”たちの中心にいたのか阿部法運(日開)

この”政僧”たちの中心にいたのが、阿部法運であることは、当時の宗内においては常識であった。阿部法運は自分が登座するために、さまざまな画策(かくさく)をおこなったのである。このクーデターのとき、阿部と手を握(にぎ)った有元廣賀は、昭和二年十二月におこなわれた第六十世”法主”を決める選挙において、阿部に対抗して出馬し死(し)闘(とう)を演じる。

選挙の結果は阿部の勝利となり、阿部は念願の猊座に登るのであるが、敗れた有元は『聲明書(せいめいしよ)』(昭和三年三月+三日付)を発表し、阿部法運の旧来の野(や)心(しん)を暴(あば)いてみせた。そこに書かれた阿部の策謀(さくぼう)は、まさに”法滅(ほうめつ)の妖怪(ようかい)”の面目躍如(めんもくやくじよ)たるものがある。この文を読めば、大正十二年より昭和三年に至る五年間、阿部がどのように策動(さくどう)したか、その概略(がいりやく)を知ることができる。

「けれども佛意彼等に組(くみ)せずして、柱師は五十八世の猊坐に上げられました。それ已(い)來(らい)、彼等は言を正師に寄(よせ)て、五十九代は阿部師、六十代は崎尾某なりとの妖言(ようげん)を放(はな)つて、金(きん)甌(おう)無(む)缺(けつ)の相承を瑾(きず)つけ以(もつ)て無智の人々を迷(まど)はしてゐるのである。之は許すべからざる陰謀(いんぼう)であるのに、之さへ選擧(せんきよ)の目的のために崎尾某は位二級も昇進さしたのである。怪躰(けつたい)な話ではありませぬか。

所が、胸の納(おさま)らないのは阿部師である。何とかして自己の名聲(めいせい)をあげんとし、日蓮宗界の學(がく)匠(しよう)清水梁山氏が、中外日報記者に話した片言(へんげん)をとらへて、輕卒(けいそつ)にも『清水梁山を誡(いまし)む』てう、怪(あやし)げな論文を大日蓮に掲(かか)げました。柱師之を閲覧(えつらん)せられて、その盲動(もうどう)と淺識(せんしき)とに驚かれ、一宗の総務として又能化の地位に置くべからずとなし、同氏を招き、これを叱責(しつせき)されたるに、師はその未(み)熟(じゆく)と、輕擧(けいきよ)を謝(しや)し、其職を辭(じ)するの止(や)むなきに至りました。然(しかる)に阿部一派では、之は、嚮(さき)に自分等が柱師を排斥(はいせき)せんとした腹愈(はらいせ)であると曲(きよつ)解(かい)して非常に柱師を怨(うら)んだのである。同時に後任となった有元師を嫉(ねた)んだのであります。柱師は決してかヽる凡情に制せられての事ではない。全く阿部師の論文は、本宗教義に悪影響を及ぼす事の重大なるを慮(おもんばか)りて、豫(あらかじ)め善所したのである。現に堀貌下が、まだ浮蓮坊にゐられる際、柱師の命によりて何とか救ふべき途(みち)がないかと、その続稿を閲(えつ)したが實(まことに)以(もつ)て愚(ぐ)劣(れつ)極まるもので、救ふべからざるを以て大日蓮に掲載(けいさい)しなかつたのであります。

かくて能化の地位をスベリ、管長候補者たる資格を失ふや、彼等一派は大に狼狽(ろうばい)し、いかにして之を復(ふつ)舊(きゆう)せんかと苦(く)心(しん)惨(さん)憺(たん)たるものであつた。恰(あたか)も大正十四年十一月宗會の開會に當(あた)りて、巧(たくみ)に人心の機微(はずみ)を探り、柱師の潔癖(けつぺき)衆憎と調和せざるを見て、堀師の人望を利用し同師を擔(かつ)ぎ、擧宗一致し柱師を隠(いん)退(たい)せしめました」

この『聲明書』を書いた有元は、クーデター当時は、阿部法運の後釜(あとがま)として総務の職に就(つ)いていた。

だがこの有元が、宗内ナンバー2の立場にありながら

任命者の日柱上人を裏切(うらぎ)り、阿部法運の画策(かくさく)に乗ったことが、日柱上人に対するクーデターが成功した主因(しゆいん)である。

『聲明書』は、このときの阿部と有元の野(や)合(ごう)の裏話まで披(ひ)露(ろう)している。

「十四年冬柱師不信認云々の時も、阿部一派の者は直(す)に阿部師を出す考えであつたヽめ、堀師を擧(あげ)るに随(ずい)分(ぶん)難(なん)澁(じゆう)したのである。我等は堀師を擧げないなれば不賛成ぢやと断(だん)言(げん)したので、彼等は不(ふ)精(しよう)々(ぶ)々(しよう)付て來たのであります」

まさにこのようにして堀日亨上人は、日柱上人に対抗する管長候補として”政僧”たちに担(かつ)ぎ出されたのである。だが、このような経過から総本山第五十九世として登座した日亨上人であったが、ぶざまな抗争で世間の顰(ひん)蹙(しゆく)を買っていた日蓮正宗にとっては願ってもない最適の“法主”であった。

もし日亨上人の入徳と識見(しきけん)がなければ、抗争がこのように一挙に解決することもなかっただろう。しかし、人徳、識見ともに、石山が仏教界に誇(ほこ)る至(し)宝(ほう)ともいえる日亨上人を、同門の者たちが抗争の中でこれ以降も容(よう)赦(しや)なく傷つけていったことは、かえすがえすも残念なことである。

日亨上人まで利用した“政僧”たち

心洗われる思いがする日亨上人の「お願い」

日亨上人は「聖訓一百題」(『大日蓮』大正+五年四月号)の冒頭に、登座後の心境について、次のように記している。

「私は三月の初(しよ)旬(じゆん)に改名を致しました、其(それ)は舊名(きゆうめい)を廢(はい)したのではない、世間公開に用ゆる権利義務の附(ふ)帯(たい)する通称が、宗制寺法と云ふ僧侶の法律の定めに依(よ)つて、名を變更(へんこう)したのであります」

登座したことにより、堀慈琳から堀日亨となったことについて、何の気(き)負(おい)いもなくこのように述べている。実に屈託(くつたく)のない人柄をうかがうことができる。つづいて、「尤(もつと)も戸籍役場の薹(だい)帳(ちよう)の名が變更せられて今後は永久に日亨と云ふ名を公私ともに用ひねばならぬ事になりました、併(しか)し舊名の慈琳と云ふ名は剃頭(ていとう)の小師たる廣謙房日成師が初夢の嘉(か)瑞(ずい)に依りて附けられ、日亨と云ふ諱(いみな)は大師範日霑上人が御附けになつたもので、共に私に取つては思ひ出深き稱(しよう)呼(こ)であります、雪仙だの水鑑だの惠日だのと云ふのは、寧(むし)ろ私自身に撰(えら)んだと云ふやうなものでありますから、何でもよいやうなものでござります」(「聖訓一百題」)

と述べている。そして、このあとにつづく日亨上人の言葉は、猊座に登っての率(そつ)直(ちよく)な心境を述べている。

「但(ただ)し法階が進んで通(つう)稱(しよう)が攣更(へんこう)したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一(いつ)向(こう)分(わ)明(か)りません」

(同)

周囲の者に、「現代における大聖人様」「大御本尊と不二の尊体」などと呼ばせている三宝破壊の日顕と比べるまでもない器の大きさ、心の清(せい)浄(じよう)さである。このようなことを吐露(とろ)してはばからない人が猊座にあったことがあるのだ。

「一年一年と老衰(ろうすい)の境に下りて白髪が増へる氣力が衰(おとろ)へる役には立たなくなる、此等の事は確實(かくじつ)でござりますが、信仰の向上人格の昇進は保(ほ)證(しょう)は出來ませぬ、慈琳が日亨と改名しても矢張り舊(もと)の慈琳の價値(かち)しかありませぬ事は確實であります」(同)

人としての徳の高さ、僧としての境(きよう)界(がい)の尊さが、ひしひしと伝わってくる。”法主”の座にあっても、御本仏日蓮大聖人の弟子として、僧分をまっとうしようとのひたむきさがある。近くによって学び、亀(き)鏡(きよう)としたい衝(しよう)動(どう)にかられる。

第59世・日亨上人

日亨上人は登座にあたり、宗内僧俗に次のような「お願い」もしている。一つひとつを読むにつれ、聖僧とはかくあるべきと、心を洗われる思いである。

「一、從(じゆう)來(らい)の僧俗御一同が信念の表象(しるし)を有形物(かたち)で奉納(ほうのう)なさるヽとき、即(すなわ)ち本山への御あげものは特に法主上人の御身に附(つ)く物に重きを置かるヽ様に見へます、美(び)麗(れい)なる袈裟(けさ)とか法(ほう)衣(い)とか白(しろ)無(む)垢(く)とかの衣類より珍しき貴(とうと)き菓子菓(か)實(じつ)等の食料品より手廻りの小道具までが、他に比較して不(ふ)平(つり)均(あい)に見へます、現に私の慈琳時代には法衣一枚御上げ下さる御方もなかつたが、日亨となつてから俄(にわか)に何を差上げやう彼(かに)を献じやうとの仰(おお)せを聞きますが、私は其を受用(うけもち)する徳がありませうか汗顔(かんがん)の次第であります」(「聖訓一百題」一部抜粋)

猊座に登ってからというもの、いただき物が多くなり、当惑されている様子がうかがえる。しかも身の回りの物が多く、これまであったものと比較しても不釣(ふつ)り合いであると述べている。そして、「私は其を受用する徳がありませうか」とまで言っている。

「今後幾年が此の平(へい)愚(ぐ)的(てき)羊(よう)僧(そう)が猊座を辱(はずか)しむる事もなく月を追ひ年を積むに從(したが)つて、何(なん)等(ら)かの功徳を宗門に建(た)つる事が出來たなら、其上(そのうえ)には如何(いか)なる上等珍(ちん)貴(き)の衣食を納めても苦しくない處(ところ)の人天の應(おう)供(ぐ)の資格が具備(ぐび)しませうが、先(ま)づ今の處(ところ)では凡僧唖(あ)羊僧(ようそう)で徒(いたずら)に師(し)子座(しざ)を穢(けが)すのみでありますから、無上の御供養は佛天に憚(はば)かり先師先聖に恐れ入つて受くる事が出來ませぬ、其れ計りでなく信(しん)施(せ)濫(らん)受(じゆ)の罪に依りて未來の惡(あつ)果(か)が恐ろしう御座ります」(同)

宗門に対してさしたる貢献もないうちに、「無上の御供養は佛天に憚(はば)かり先師先聖に恐れ入つて受くる事が出來ませぬ」と、明言している。

また日亨上人は、「信(しん)施(せ)濫(らん)受(じゆ)の罪に依りて未來の惡(あつ)果(か)が恐ろしう御座ります」とまで、記しているのである。

さらに、「其(そ)れで私に下さるものは左の範(はん)圍(い)に限りてをきたい」と、具体的に「本山への御あげもの」を限定している。

「○衣類等は安(あん)直(ちよく)な毛織物、毛斯(もす)類、木綿類に限る高(こう)價(か)な絹(けん)布(ぷ)は止(や)めてください、つまり私の着用した御(お)下(さが)りを所化小僧が憚(はばか)りなく受用(じゆよう)し得らるヽものにしてほしい」(同)

「○調度類の惣(すべ)ては安直にして丈夫向のもの即ち實(じつ)用(よう)一(いつ)點(てん)張(ばり)を主としたい」(同)

調度類は、実用第一にして簡(かん)素(そ)なものにしたいというわけだ。

「○食物等は成るべく普通の物(中流生活以下の)を御上(おあ)げなされたい、珍しき物や高價な物は一切法(はつ)度(と)たるべし殊(こと)に羊(よう)羹(かん)饅(まん)頭(じゆう)等の生菓子砂糖量の多い物は衛生(えいせい)にも良からざれば寧(むし)ろ禁物にしてほしい」(同)

食物は「中流生活以下」のものにしてほしいとは、なかなか言えないことである。

日亨上人は、つづいて次のようにも記している。

「斯(か)様(よう)に申(もうし)上(あ)ぐると折角(せつかく)の供(く)佛(ぶつ)の志(こころざし)を折(くじ)く事になる、信仰の善(ぜん)芽(が)を萎(しぼ)まする事にもなる、白鳥(はくう)の恩を黒鳥に報じ聖僧の恩を凡僧に報ぜよとの、宗祖俎大聖人の御仰せを用(もち)ひしめね事にもなる、何も貴僧(あなた)に献上(けんじよう)するのではない、御本佛大聖人に献上する積(つも)りでをる物を御(ご)辭(じ)退(たい)するのは却(かえ)つて宜(よろ)しからぬ事であると云(い)はるヽであらう、御(ご)尤(もつとも)の事であるが私一代は私の愚衷(ぐちゆう)を徹(とお)さして頂きたい、其(それ)で猶(なお)供佛報恩の御(お)意(こころ)趣(もち)が晴れぬなら、願(ねがわ)くば私物でなくて公物にして献上せられたい、其は何であるか、

一、佛具である。

一、器具である。

佛具としては上(かみ)は御(み)堂(どう)より下(しも)諸堂の荘(そう)嚴(ごん)具(ぐ)を始として諸式が餘(あま)り麄(そ)末(まつ)である様(よう)に思ふ勿體(もつたい)ない事である、毎日奉仕する私としては恐れ入る次第である、私共は襤褸(ぼろ)を下げても、御本尊様は莊(りつ)麗(ぱ)に御祭りしたいものである」(同)

日亨上人が常用していた杖とズダ袋

「現在の堂(どう)宇(う)も決して理想的ではないけれども此(これ)は少額の費用では何ともならぬ、佛具の完成なら多額を要せぬ、又御前机、御經机、或は何々と幾部にも切離(きりはな)して献上が出來る、必ず一人一氣にと云ふ譯(わけ)でないから都合がよい、但(ただ)し此は各位が思ひ思ひに御献上になつては統一がつかぬで諸堂を佛壇屋の店の様にしては困る、何(いず)れも本山へ御相談の上にせられたい、此迄(これまで)の佛具の献上(けんじよう)に此(この)傾向があつて随分無益(むやく)になつている物が多い」(同)

日亨上人のきめ細(こま)やかな気(き)遣(づか)いに、ただただ頭の下がる思いだ。

「又器具である此には本山専用の物もあるが、多くは御参詣の御客待遇に使用する物が多い、如何(いか)に御信仰からの御登山ぢやと云つても、麁(そ)末(まつ)な器で麁(そ)浪(ろう)な待遇を受けて満足せらるヽ御方が幾人あらう、本山でも注意するは勿論(もちろん)の事であるが行届く迄(まで)には容易ならぬ資力と日子(につし)がかヽる、御一同が思ひ附(つき)の物を本山に相談して御上げになれば造(ぞう)作(さ)もなく御自身も意(こころ)持(もち)がよい、此に均霑(きんでん)する他の信友も漏足される事で相互奉仕の思ひも届く事になる、併(しか)し從來も斯(かか)る事が無(なか)つたと云ふ譯(わけ)ではないが、私に盡(つく)してくださる分を此方(こちら)に廻(まわ)はされたいと念願するのである。

已(い)上(じよう)は別に各位にお願いすべき事を本題の改名に因(ちな)んで長々と申上げて貴重の誌面を塞(ふさ)ぎたる事を幾重にも御(お)詫(わび)するのであります」(同)

衷(ちゅう)心(しん)から敬服(けいふく)するのみである。

猊座神秘主義のかけらもない日亨上人の行(ぎよう)躰(たい)

登座から約二年後の昭和二年十一月二十日、時の”法主”であった日亨上人は、「告白」という一文を宗内に示した。日亨上人はこの文で、退座の意志を表明したのであった。

「告白」の序文には、「謹(つつし)んで宗内道俗一同に告ぐ」と表題がつけられており、本文は、「第一、管長となりし因縁」「第二、管長の任期」「第三、管長辭(じ)職(しよく)の素因」「第四、管長辭職の近因」の四つの章立てになっている。

まず序の「謹んで宗内道俗一同に告ぐ」の冒頭は、次のように始まっている。

「野衲(やのう)が管長法主職に就(つ)きしは止(や)むを得ぬ事情の爲(ため)であつて、始めから折を見て早(そう)晩(ばん)辭(じ)職(しよく)の積(つも)りであることは再々内表した事であれば、今同の辭職説が傳(つた)はりたりとて門下は敢(あえ)て驚くべきでない、却(かえ)つて實現(じつげん)の早きを祝(しゆく)せねばならぬ況(いわ)んや事情を知(ち)悉(しつ)せる評議員宗會議員の任にあるものは事情に迂(う)遠(えん)なる者に當(とう)然(ぜん)の理解を與(あた)ふべきである」(「告白」)

日亨上人は、自分はやむをえず管長”法主”となったので、登座のときから早めに辞職しようとの気持ちを持っていたことを述べ、辞意の固いことを示している。

この冒頭の文の後、日亨上人は「留任願」などが、次々と自分の所に送られてくることについて、

「若(も)し陽に此(この)月(つき)並(なみ)的(てき)美(び)動(どう)に托(たく)して隠(いん)に他を排濟するの行動に陥(おちい)るとせば頗(すこぶ)る宗門の天蘗不祥事(ふしょうじ)と云はねばならぬが、其を發生(はつせい)せしめし一半の責任は慥(たしか)に予が寡(か)黙(もく)による」(「同」)

と記している。日亨上人に対する「留任願」の背景には、次期”法主”の有力候補である阿部法運(のちの第六十世日開)に相承させたくない宗内勢力が動いていることを指摘しているのだ。”法主”の座をめぐって、当時の日蓮正宗内で葛藤(かつとう)があったことを、この記述は示している。

そこで日亨上人は、政治的な意図をもって退座するのではないことを、この「告白」の中で縷々(るる)述べるのである。日亨上人は、この序にあたる文を、「願わくば、至(し)信(しん)に精読(せいどく)して頂きたい」と、しめくくっている。

本文、「第一、管長となりし因縁」は、次のように始まる。

「何故に十數年の隱(いん)遁(とん)生活を止(や)めて最も性格不(ふ)相(そう)應(おう)の管長法主となりしやを先(ま)づ一言(いちごん)せざるべからず、大正十四年十一月の突發(とつぱつ)大事件について多數の人は此機會を以つて宗門興(こう)隆(りゆう)の爲(ため)に敢(あえ)て予(よ)を隱(いん)窟(くつ)より出(いだ)して無上法位に推上(すいじよう)せりと云へるが、或は御一同も然(し)かく考へて以つて兎(と)も角(かく)爲(い)宗(しゆう)安心の胸を撫(な)でをうされしならんが、予に取りては決して然(しか)らず、事件の責任其遠因(そのえんいん)自己にあり如何(いか)なる手段を取りても一(ひと)先(ま)づ此(この)紛(ふん)擾(じよう)を静めざるべからずと決して、水谷、有元、小笠原、幅重、四師の熱誠(ねつせい)を容(い)れたのである」(同)

大正十四年十一月の日柱上人に対する日蓮正宗宗会の退座要求によって起こった紛争(ふんそう)を鎮(しず)めるために、日亨上人はみずから登座したのだということを強調している。

日亨上人に登座を懇請(こんせい)したのは、水谷秀道(当時の役職・評議員、のちの第六+一世日隆上人)あるいは水谷秀圓(同・宗会議員、のちの第六+四世日昇上人)、有元日仁(同・宗務院総務)、小笠原慈聞(同・宗会議長)、福重照平(同・宗会議員)らのクーデター派であったことを明らかにしている。この四名の陰には、阿部法運が暗躍(あんやく)していたのである。

さらに、日亨上人は次のようにも記している。

「但(ただ)し大破裂の上には事後の収拾(しゆうしゆう)こそ必要と考がへ早くて三ケ月遅くて六ケ月を己(おのれ)が責任逃(とう)避(ひ)より起れる事件の爲の懺(ざん)悔(げ)奉仕卽(すなわ)ち罪亡(ほろ)ぼしの爲に粉骨(ふんこつ)する考にて殆(ほと)んど斷頭臺(だんとうだい)上(じょう)に昇る心持で晋(しん)座(ざ)したのであるが、少數なれども殊(しゆ)死(し)躍(やく)動(どう)の人々の爲に圓滿(えんまん)の収拾も出來ずさりとて中途放(ほう)棄(き)もなりがたく成り行きに引きずられて三ヶ月も六ヶ月も夢と去つたのである」

(同)

日亨上人が登座することを、「斷頭臺(だんとうだい)上(じょう)に昇る心持で晋座した」と述べていることは、実に注目される表現である。猊座自体を神秘化しようとする現在の日蓮正宗中(ちゆう)枢(すう)としては、好ましくない表現ということになるのではないだろうか。

猊座にありながら日亨上人がこうした表現を使っていることは、間接的であれ、猊座にある者が特別の境(きよう)界(がい)を有しているなどといった猊座神秘主義を否定することになりはしないだろうか。

猊座に登れば日蓮大聖人と同じ境界にあるといった“法主”絶対論を主張する者がいるが、日亨上人が猊座にあって、一日も早い退座を願っていたということは、実に俗っぽい人間的な感情である。

猊座にある者は御本仏と一体不二の境界にあるといったことは、ウソなのである。

それは、日亨上人が「聖訓一百題」で、登座されての心境を、「但し法階が進んで通(つう)稱(しよう)が變(へん)更(こう)したから從つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明(わか)りません」と率(そつ)直(ちよく)に述べていることからも明らかである。

日亨上人の宗門刷新(さつしん)の行動に宗内の多くの者は反発

日亨上人は、猊座に登ってからの大坊移転も不(ふ)本(ほん)意(い)だったようだ。

「此(これ)を以つて予の大坊移(い)轉(てん)は漸(ようや)く大正十五年四月九日であつた其(それ)も代(だい)替(がわり)蟲(むし)拂(ばら)會(いえ)が目前に迫るので舊(きゆう)隱(いん)坊(ぼう)からの通勤は大に穩(おん)當(とう)でないと云ふ多數の意見で自分は一生不動と定めてをいた淨蓮坊を出(い)でたのである」

(「告白」)

日亨上人は、大坊よりも住み慣れた浄蓮坊を好んだようだ。そのうえで、さらに心情を吐露(とろ)している。

「斯(か)様(よう)な有(あり)様(さま)は根本的に自分一代は變態(へんたい)の中(ちゆう)繼(けい)法主で强(し)いて御大事を相承して立派な法主貌下となつて見やうと云ふ心底は毛頭(もうとう)なかつたのである、先(ま)づ此事は昨年已(い)來(らい)の予の言動に徴(ちよう)して御了解なされたいと切望(せつぼう)する次第である」(同)

ここで日亨上人が、「變態の中繼法主」という表現を使っていることも驚きである。現在の日蓮正宗中枢の権威主義者たちは、「變態の中繼法主」という表現を見たら、卒倒(そつとう)するのではあるまいか。猊座神秘主義者は、この言葉をどのように理解するのだろうか。

しかも日亨上人は、「立派な法主猊下となつて見やうと云ふ心底は毛頭なかつた」とまで言っているのだ。

“法主”の座にあっても何の気負(きお)いもなく、恬(てん)淡(たん)としたものである。それでいながら、近代の日蓮正宗の中にあって傑(けつ)出(しゆつ)した碩学(せきがく)であり、自然と合(がつ)掌(しよう)したくなるような尊い人柄であったのである。

また、第三章「管長辞職の素因」で日亨上人は、自分が管長(法主)を辞職する原因として「内的」なものと、「外的」なものがあると述べている。

「内的」な辞職原因としては、次のようなことを挙(あ)げている。

自分の個性に適(てき)した新行動をとっても、宗内にある従来の慣(かん)習(しゆう)と合わず、そのために宗内の人間関係がギクシャクしている。自分の理想や個性とも合(がつ)致(ち)しない生活は、体調を壊(こわ)し、原因不明の病気を頻発(ひんぱつ)する。もし、ここで倒れるようなことになれば、宗内のためにもならず、厄介者(やつかいもの)として生涯を終えることになってしまう。二十~三十年来の願(がん)業(ぎよう)としてきた御書編纂(へんさん)などの聖(せい)業(ぎよう)も無に帰すことになる。それでは、死んでも死にきれない――と。

概(がい)略(りやく)このように日亨上人は記している。「告白」の原文は以下のとおり。

「内的の方から云へば己(すで)に第一に言明(げんめい)せる如く管長たる事を欲(ほつ)せざる其適當(てきとう)せざる性格であるから假(かり)に個性に適したる新行動を取りたるも何となくツリアヒが善(よろし)くない從來の習慣と相應(そうおう)せぬ自他上下シツクリせぬ釣(つ)り合はぬは不縁の基(もと)と云ふ語が此に當(あた)る此が抑(そもそも)の原因である始めから一年二年と永い事は持たぬ否(いな)持てぬのが當然(とうぜん)である、理想にも個性にもハマラぬ生活は色心二法を束縛(そくばく)する不快にする四大(しだい)の調和を失する從來曾(かつ)てなき原因不明の病氣を頻發(ひんぱつ)する、若(も)し此が爲に倒るれば宗門の爲にもならず厄介物(やつかいもの)として終ることは明白であるのみならず、二三十年必死と念願せし編纂(へんさん)著作の聖業(せいぎよう)も泡沫(ほうまつ)と散(ち)り失(しつ)する如何(いか)にも死んでも死にきれぬ殘(ざん)念(ねん)さである、此が先(ま)づ大々主因である」(同)日亨上人が宗門刷新(さつしん)のために「新行動」をとっても、宗内の多くの者がそれに反発してついてこなかったようだ。日亨上人は、かなり精神的不快を感じていたようだ。日亨上人としては、自分に不釣り合いの猊座にいるより、御書編纂(へんさん)などの「編纂著作の聖業」に打ち込みたかったのである。

広宣流布という目的意識を持って宗政に臨(のぞみ)み、実に真(しん)摯(し)な行(ぎよう)躰(たい)をもって日常生活を営(いとな)んでいた日亨上人に、誰も信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゆう)などしなかったものと見受けられる。

阿部法運ら宗内の実力者は、総本山第五十八世日柱上人を猊座より引きずり降ろすため、日亨上人の生真面目(きまじめ)さを利用したにすぎなかった。宗内総ぐるみで日柱上人をうまく退座させたいまとなってみれば、後継となった日亨上人の存在すら邪(じや)魔(ま)となってきたのだ。

宗内実力者たちが、何かにつけて日亨上人に反発したことは、この「告白」の文から充分にうかがえる。日亨上人の心労(しんろう)は限界に達していたのだった。

創価学会出現以前の大石寺は末(まつ)世(せ)の悪比丘たちの巣窟(そうくつ)

日亨上人は、退座するに至(いた)るみずからの「内的」要因を、このように開陳(かいちん)したあと、「外的」な退座要因を六項目にわたって示している。

日亨上人は、辞任原因となった「外的境(きよう)遇(ぐう)」の第一番目として、「一、監督の官憲(かんけん)に壓制(あつせい)せられて大正十四年十二月に舊(きゆう)例(れい)に無き管長候補者選擧(せんきよ)を爲(な)した事が如何(いか)にも忍(しの)ぶ能(あた)はざる屈(くつ)辱(じよく)なる事」と記している。同様の記述は、この章の書き出しにも見られる。

「自分が求めた譯(わけ)でもなく願つた譯でないが成行(なりゆき)と云ひながら兎(と)も角(かく)多數の僧分が警察沙汰(ざた)にまで屈辱を受けた外(ほか)に種々の汚(お)名(めい)を着せられ其(その)外(ほか)百(ひやつ)般(ぱん)の苦悩を忍んだ」(「告白」)

これについては先に詳しく述べたとおりである。いずれにしても、次期”法主”の選挙が「官憲に壓制」させられておこなわれたことが、日亨上人にとって「忍ぶ能はざる屈辱」だったのだ。

それは、国家権力介(かい)入(にゆう)による選挙を経(へ)て”法主”の座についた、自分自身の否定にもつながることだった。

みずからを「中繼法主」と何度となく称(しよう)していることは、この認識からくるものと思われる。

「告白」はつづけて、次のようにみずからの相承に論(ろん)及(きゆう)している。

「二、一時の中繼法主であれば御相承の大體などは強いて行ふにも及(およ)はざるべきを多方面の希望にまかせて官憲の口入(くちいれ)まで受けて不快なる型式を襲(しゆう)踏(とう)した事は、假令對者(たとえたいしや)の所爲(しよい)にして當方(とうほう)は受身であつたにもせよ拭(ぬぐ)ふべからざる汚(お)點(てん)なる事」(「告白」)

これがまた、飾らない日亨上人の面目(めんもく)を躍如(やくじよ)する記述である。

大正十五年三月七日の「御相承の大體」(相承の儀式)を、「不快なる型式」に基づいておこなったことが、自分にとって拭うことのできない汚点となったと述べている。

そして、日亨上人が「強いて行ふにも及ばざるべき」

「御相承の大體」を踏(ふ)まえなければならなかったのは、「多方面の希望」と「官憲の口入」によるものであったと明記している。「多方面の希望」とは、宗内僧俗の有力者たちのことであろう。また「官憲の口入」とは、文部省宗教局の介入である。

これらの関係者は、「御相承の大體」を一(いつ)件(けん)落(らく)着(ちやく)の儀式として大々的におこないたかったことと思われる。それに対して日亨上人は、官憲が事件を収拾(しゆうしゆう)するための一方策として相承の儀式を演出することに、癒(いや)しがたい屈(くつ)辱(じよく)感を味わったのであろう。

だが、現実は日亨上人の意志に反して進められ、三月七日午前十時より総本山大石寺客殿において相承の会(え)式(しき)を挙行(きよこう)、午後一時に終了。午後二時より酒宴(しゆえん)となった。

三月八日午前〇時より一時にかけて、相承の儀式がとりおこなわれた。

日柱上人は、一切の相承を済ませて総本山大石寺を去ったが、そのとき、山を降りる隠尊(いんそん)の日柱上人に対して、石を投げつけた僧までいたという。

創価学会出現以前の富士大石寺は、末(まつ)世(せ)の悪(あく)比(び)丘(く)たちの巣窟(そうくつ)と化していたのだ。

「三、次上の事より引いて日正師が特別の相承を預(あず)けたと云ふ者より其内容を聞き取りし事は上(じよう)求(ぐ)菩(ぼ)提(だい)の精耐に合ふやと憚(はばか)りをる事」(「告白」)

日亨上人は、管長(”法主”)辞職の一理由として、このように述べている。

第五十九世日亨上人は、当然のことながら第五十八世日柱上人より相承を受けている。相承の儀は、「官憲の口入」などもあり、大正十五年三月八日の未明におこなわれている。

このとき、日亨上人は日柱上人より十(じゆう)全(ぜん)の相承を受けたはずである。しかし、日亨上人は、第五十七世日正が「相承を預(あず)けた」という者に、血脈の内容を改めて聞いた、と「告白」に記しているのだ。

日亨上人が、なぜ日柱上人を飛び越え、日正から日柱上人への相承の内容を聞き直したのかということが問題になる。

「日柱上人から日亨上人へ、充分な相承がおこなわれていなかったのではないか」、あるいは「碩学(せきがく)の日亨上人から見て、相承の内容に不足を感じていたのではないか」などと、このことに起(き)因(いん)して、日亨上人が「告白」を書いた当時の日蓮正宗内に相当な物(ぶつ)議(ぎ)を醸(かも)すことになった。

日柱上人からの血脈相承に不充分なものを感じていた日事上人

ここで、日正が「特別の相承を預けた」と「告白」で書かれていることを理解するためには、第五十七世日正から第五十八世日柱上人への相承がどのようにおこなわれたかを確認しなければならない。

日正から日柱上人への相承は、尋(じん)常(じよう)ならざる状況下でおこなわれたのである。その原因は、ひとえに阿部法運(のちの日開)の猊座への妄(もう)執(しゆう)にあったといえる。

このことについてはすでに詳(しよう)述(じゆつ)したが、在家の者二名が仲介して相承がなされたのである。

阿部法運は、第五十七世日正の次を狙(ねら)い、それが果(は)たせないとわかると第五十八世日柱上人の次をまた狙い、それすらも有元派との野合を成立させるために果たせず、やむなく日亨上人を擁立(ようりつ)した。だが、みずからの僧階が復(ふつ)級(きゆう)するや、第五十九世日亨上人を孤立させ、早期退座を計(はか)ったのである。

日亨上人退座表明後、日柱上人引き降ろしのときに野合した阿部派と有元派は、今度は真っ向から対立。買収、脅(きよう)迫(はく)、利益誘導(ゆうどう)などによる最悪の選挙戦で、次期猊座を争う。このように日開は、相承の局(きよく)面(めん)においてことごとく攪乱(かくらん)の当事者となるのである。

日亨上人が相承の内容を改めて聞いたとする「特別の相承を預(あず)けたと云ふ者」とは、日達上人の著(あらわ)した『悪書板本尊偽(ぎ)作(さく)論を粉砕(ふんさい)す』(昭和三十一年発行日蓮正宗布教会刊)にも登場するが、「中光達」「牧野梅太郎」という在家の二名の者を指すと思われる。日亨上人は、相承について信徒二名より「其内容を聞き取りし事」が、いかにも残念だったのであろう。

日亨上人が「告白」の中で、「自分一代は變態(へんたい)の中(ちゆう)繼(けい)法主」と言われているのも、このような特(とく)殊(しゆ)な事情が背景にあったと思われる。

日亨上人が、日柱上人に対する相承を一時預かりした信徒から、誤解を恐れず相承の内容を聞き取られたことは、日亨上人が日柱上人から受けた相承の内容に不充分なものを、感じていたからとも考えられる。

「五、昨年の宗制改正案について自(みずか)ら七八の新案を参考に提出せしも起(き)草(そう)委員又は宗務職員又は評議員等が

其中の重大案までも殆(ほと)んと黙殺(もくさつ)せるを強(きよう)制(せい)し得ざりし平凡(へいぼん)管長の悲(ひ)哀(あい)否(いな)時期到(いた)らずと淡薄(たんぱく)に見切りを附(つ)けた事が却(かえ)つて無責任なりし苦しみに自ら堪(た)へ得ぬ事」

日亨上人は「宗制改正」をめざしていた。宗門の刷新(さつしん)を希望してのことであろう。ところが、それに対する宗門の反応は実に冷たいものだった。

「起草委員」「宗務職員」「評議員」のことごとくが日亨上人の意(い)向(こう)を聞かず、あろうことか「黙殺」したというのだからひどい話だ。

「宗制改正案」を宗会にかけて否(ひ)決(けつ)されたというのでなく、「起草委員」や「宗務職員」が日亨上人の職務上の指示を聞かなかったのだ。「信(しん)伏(ぷく)随(ずい)従(じゆう)」どころか、サボタージュによる反抗である。

日亨上人のめざした「宗制改正」がどのような内容であったのか、現在では知る術(すべ)もないが、日亨上人が考えていた案は、おそらく清新(せいしん)すぎて、堕(だ)落(らく)した僧たちから敬遠(けいえん)されたのだろう。

「起草委員」「宗務職員」「評議員」などに職務上の指示を「黙殺(もくさつ)」され、ボイコットされたのでは、退座したくなるのも無理はない。

だが、それでも日亨上人は、反抗した僧らを責(せ)めるよりは、それを実現する方向に押し切れなかったことを、「無責任」ではなかったかと自(じ)責(せき)しているのだ。

日亨上人は退座の「外的」原因の「六」として、次のように記している。

「六、就(しゆう)任(にん)已(い)來(らい)財物を私有せずして職員に充分の腕を揮(ふる)ふべき便(べん)宜(ぎ)を與(あた)えてをる、代替虫拂會の収入等の大部分をも修(しゆう)繕(ぜん)工事費に使用して収入に對して過(か)々(か)分(ぶん)の營繕(えいぜん)を爲(な)してをる爲(ため)に職員にも過分の辛(しん)勞(ろう)かけてをる計(ばか)りでない自分の懐(かい)中(ちゆう)に残るべきものなきを顧(かえり)み阻苦行をしてをるが、未(いま)だ法主も職員も大に務(つと)めたりと云ふ善聲(ぜんせい)を聞かぬのみか却(かえつ)て兎(と)角(かく)の惡評ありと聞く、此の調子では差迫(さしせま)る御(ご)遠(おん)忌(き)の報恩大事業などは出來る見(み)込(こみ)は立たぬ、此(この)不徳無能の法主は一日も永(なが)く位(くらい)すべからず寧(むし)ろ辭(じ)職(しよく)勧告状の來(きた)らぬを怪(あや)しむ位である」

日亨上人は宗務財政に口出しすることをせず、宗務職員に任(まか)せていたようだ。そして、総本山内の建築物の修理に相当なお金を費(つい)やし、そのために職員に大変な苦労をかけたことを記している。日亨上人御自身も、まったくお金のない様子だったようだ。

そこまで日亨上人や職員が一生懸命やっても、宗内では悪口しか言う者がいなかったと、日亨上人は嘆(なげ)いている。

日亨上人が退座したのは御書編纂(へんさん)などの聖業をなしとげるため

昭和六年には宗祖の第六百五十遠(おん)忌(き)が予定されていたが、自分が管長では「報恩大事業」などができないのではないかと危惧(きぐ)した。これもまた日亨上人退座の原因となった。

実のところ、宗内を二分する勢力であった阿部法運派と有元廣賀派はともに、みずからの領袖(りようしゆう)を立てて栄(は)えある第六百五十遠忌をおこなおうと考えていたのである。

したがって、日亨上人の指示を素直に聞くはずがない。足を引っ張れるだけ引っ張って、早期の退座を画策(かくさく)したのである。そのため日亨上人は孤立し、退座を余儀(よぎ)なくされたのだ。

そのうえ、日亨上人の身辺に不(ふ)測(そく)の事態が起きたのである。お側(そば)に仕(つか)える僧の中に精神に異常をきたした者が出たのだ。そのことについて、日亨上人は次のように記している。

「一時外界の大(だい)膿(たん)曲(きよく)邪(じや)輕(けい)薄(はく)の風波にもまれて遂(つい)に精紳に破(は)損(そん)を來たし信仰が高慢(こうまん)と正直が疑(ぎ)惑(わく)と小心が恐怖と變(へん)して、毎日怒り泣き恐れ笑ふて日を逸る狂(きよう)兒(じ)を近(きん)侍(じ)に出した、何と云ふ淺(あさ)間(ま)しい罪業であらうか罪は狂見にあり焉(いずく)んぞ吾(ご)徳(とく)を傷(きずつ)けんやと濟(す)まして居(お)れやうか法主の慈愛の下(もと)には病者も狂者も休まるべきである又斯(か)く信ぜられてをる況(いわ)んや拾(じゆう)數年教養の兒(こ)が俄(にわか)に此の體(てい)は唯(ただ)事(ごと)ではない、予(よ)が宿罪の然(しか)らしむる處(ところ)として自ら鞭(むち)うつても致し方はあるまい正しく御本佛の御教示であると深く信して、重役共に辭(じ)職(しよく)の承認も經(へ)ぬ間に御(お)大(たい)會(え)が濟むと直(ただち)に密(ひそか)に方(ほう)丈(じよう)を引き拂(はら)つて雪山坊に籠(こも)りて罪の兒の快復(かいふく)を所つてをる今日の哀(あわ)れな境(きよう)界(がい)である、是(これ)では予が如き小心の者でなくとも厚(こう)顔(がん)無(む)恥(ち)にあらざる限り平然として狂(きよう)兒(じ)を擁(よう)して法主の高位に安ぜられようか此が正しく辭職の近因であつて御本佛の懲誡であると謹愼(きんしん)してをる」(「告白」)

生真面目(きまじめ)な日亨上人にしてみれば、「罪は狂(きよう)兒(じ)にあり」といった我関(われかん)せずとの姿勢は、とてもとれなかった。日亨上人は「狂(きよう)兒(じ)を擁(よう)して法主の高位に安ぜられようか」との結論に達したのであった。このことが日亨上人退座の近因となった。日亨上人は、宗内刷新(さつしん)に英断(えいだん)を振るえない自分の「優(ゆう)柔(じゆう)不(ふ)斷(だん)の態度は遂(つい)に佛天の激怒に觸(ふ)れしものか」と総括(そうかつ)している。

だがここで念を押しておくが、日亨上人が「外的」原因として六項目を挙げていること、近(きん)侍(じ)に狂見を出したことなどは、あくまで日亨上人退座の「助(じよ)縁(えん)」にすぎない。

退座の「主因」は、あくまで「内的」なものにあった。どんなことがあっても、日亨上人は御書の編纂(へんさん)、『富士宗学全集』発刊などの聖(せい)業(ぎよう)をなしとげたかったのである。

重(ちよう)複(ふく)するようだが、その点に触れた日亨上人の記述を再び紹介する。

まず、退座の原因について日亨上人は、「卽(すなわ)ち此が素(そ)因(いん)となるものは内的方面が主因で外的境(きよう)遇(ぐう)が助縁である事は申すまでもない」と明言し、その退座の「内的」な動(どう)機(き)の結論として、「二三十年必死と念願(ねんがん)せし編纂(へんさん)著作の聖業も泡沫(ほうまつ)と散(ち)り失(しつ)する如何(いか)にも死んでも死にきれぬ残念さである、此が先(まず)大々主因である」と力説している。

日亨上人は、自分の今(こん)生(じよう)の使命は『富士宗学全集』の発行、御書編纂などの「聖業」にあると定(さだ)めていたのだ。末(まつ)世(せ)の悪(あく)比(び)丘(く)たちの葛藤(かつとう)に翻弄(ほんろう)され、本来の願業を中途で終わらせることなどあってはならないという切実な思いから退座を決意したのだった。

日蓮大聖人の教法は、一部の祭(さい)祀(し)特権階級(僧)の独占とされ、信徒は「知らしむべからず依(よ)らしむべし」との統(とう)治(ち)方針によって教学も知らず経も読まず折伏もせ

ず、ただ、長らく隷属(れいぞく)を強(し)いられてきた。日亨上人は、その停滞(ていたい)した宗風を払い、大衆が広宣流布の主体となって活躍することを願った。

日亨上人が生涯をかけて編纂した「富士宗学全書」全134巻

日亨上人は、本来秘(ひ)伝(でん)であるはずの「産(うぶ)湯(ゆ)相承書」「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」といった相承書の内容まで、『富士宗学全集』に掲載(けいさい)され公開した。

猊座に妄(もう)執(しゆう)をみせていた阿部法運などの浅ましい姿を、長年にわたり目(ま)の当たりして、将来、相承が曲げられずに伝えられるかどうか不安を覚(おぼ)えていたのではないだろうか。

あるいは、さかのぼって相承の内容を在家の者二名に聞かなければならなかった自身の恥(ち)辱(じよく)を、のちのち猊座に登った者に味わわせたくなかったからだろうか。はたまた、相承の内容すら公開すべき時にきていると感得(かんとく)されたのだろうか。

いずれにしても後年、創価学会が出現し、戸田城聖第二代会長の「御書全集」発刊の発願(ほつがん)に対し、日亨上人が快諾(かいだく)し精根をかたむけてその編纂にあたったのも実に不思議なことと思えるのである。

いつも紛争の中心にいた日開

腐敗選挙で管長になった者に「血脈相承」などありえない

総本山第五十九世日亨上人が、宗内に公(おおや)に辞意(じい)を明らかにしたのは、昭和二年十一月の御(お)会(え)式(しき)のときだったようだ。

このとき日蓮正宗は、蓮葉庵(れんようあん)系の阿部法運(のちの第六十世日開)擁立(ようりつ)派と、富士見庵系の有元廣賀擁立派に二(に)分(ぶん)されていた。

この御会式の十一月九日の朝、日亨上人の退座の意志を聞いて驚(おどろ)いた有元派のある人物は、日亨上人に対し、「猊下がいま御辞職になっては、折角(せつかく)安定した宗門が再び修(しゆ)羅(ら)の巷(ちまた)となります。留(りゆう)任(にん)をお願いします」と述べたが、日亨上人の辞意はあくまで固く、「亂(みだ)れるのは承知である、宗門が二分したら終(しまい)に落付(おちつく)所に落付のである。君達も大にヤリ甲斐のあるわけぢや、大にやれ」(有元派『聲明書』一部抜粋)と答えたという。

このとき、日亨上人は阿部派に宗務行政の実権を握(にぎ)られ、完全に浮かされた状態にあった。日亨上人の命じた宗門改革案は、宗務院の職員すらソッポを向き検討もされないようなありさまだった。

日亨上人は、もともと登座する意志はなかったのであったが、大正十四年十一月の日柱上人に対するクーデターに始まる宗内の大混乱を収拾(しゆうしゆう)するために、宗内多数派の推挙(すいきよ)(正確には工作に乗せられたと表現したほうがよいかもしれない)を受けて登座したのである。

ところが、そのような経(けい)緯(い)から登座したのに、阿部法運などが画策(かくさく)し宗務職員からも無視されている状況を一つの契機ととらえ、元来の教学研鑚(けんさん)の聖業にいそしむため、日亨上人は早期の退座を決意したようである。

日亨上人が辞意(じい)を表明するや、宗内はにわかに選挙ムードとなり、阿部派と有元派の激烈(げきれつ)な選挙戦が展開される。

日霑上人が隠居所としていた蓮葉庵

日亨上人登座まもなく、日柱上人より降(お)ろされた阿部法運は能(のう)化(け)への復(ふつ)級(きゆう)を果たしたが、阿部派は、その直後から日亨上人の孤(こ)立(りつ)化、早期退座を画策(かくさく)しはじめた。

阿部派は、日亨上人を孤立させ退座に追い込んでいっただけに、選挙への宗内工作のスタートは早かったようだ。一方、有元派にとっては寝(ね)耳(みみ)に水だった。

昭和二年には、阿部派は日亨上人にうまく根(ね)回(まわ)ししたと見えて、九名の自派の者を秘(ひ)密(みつ)裡(り)に、教師に特(とく)叙(じよ)した。これは有元派が当時追及したことであるが、客観的に見ても阿部派九名の特叙は、実に不自然きわまりない。有元派の追求は、本筋(ほんすじ)において正当であると思われる。

ついに”法主”の座についた日開

これは阿部派の管長選挙に向けての周(しゆう)到(とう)な事前準備をうかがわせるものである。御(お)会(え)式(しき)前の十月には、阿部派はすでに選挙の事前運動をしていたようだ。病気見舞い、観光にこと寄(よ)せての訪問、お土産(みやげ)攻勢を始めている。

腐(ふ)敗(はい)選挙ぶりは相当なもので、有元派が選挙後に、管長選挙における阿部派の不正を非(ひ)難(なん)し、『聲明書(こえめいしよ)』(昭和三年三月士ご日付)を出している。

「某(ぼう)寺住職の老齢(ろうれい)を奇貨(きか)とし、夜間品川よりの使(つかい)と僞(いつわ)はり、自動車に乗(のせ)て東京に誘(ゆう)致(ち)した上、酒食を饗(きよう)して居所を隱(かく)さしめ、醉へるに乗(じよう)じて轉(てん)居(きよ)届を出さしめ、投票用紙を其(その)所(ところ)に途つて强(しい)て阿部師に投票せしめんと企(くわだ)てたが、我等は辯護士を賴(たの)み談判(だんぱん)せしめ其の用紙を取戻(とりもど)しましたが、之には非常なる手(て)數(かず)と騒(さわ)ぎを演じました。又某寺住職は、途中に阿部一派の者に誘致されて某寺に連れられ、數人集まつて酒食を供し、巧(たくみ)に自由を拘束(こうそく)され、遂に阿部師に投票せしめられたのであります。又某寺老住職は、元より有元師に投票すべく佛天に盟(ちか)ひましたが、彼等運動員の脅(きよう)迫(はく)によりて不(やむお)得(え)止(ず)阿部師に投票したのである」

それだけに止(とど)まらない。

「法要に托(たく)して之を外出せしめ、我等との面接を不可能ならしめ。又は高等寺院に轉任(てんにん)又は位(い)階(かい)昇進等の好(こう)餌(じ)を喰(しよく)したり。又は免(めん)職(しよく)轉任等等で威(い)壓(あつ)したり。止(や)むことなき信徒の有力者を使用し强(きょう)壓(あつ)したり。或(あるい)は僞(ぎ)電(でん)を打つて有元師への投票を妨(さまた)げたりし事實は譯山(たくさん)あるのであります」

この有元派の『聲明書』に対し、阿部派の代表・富田慈妙は、『辯(べん)駁(ばく)書(しよ)』(昭和三年十二月二十九日付)をもって反論している。

「選擧當時某々(ぼうぼう)等阿部師を信じて同師に投票せしを開緘(かいかん)前、某に迫(せま)り恐ろしき言葉や振りで恐怖せしめた結果阿部師へ投票せし事を知り強(し)いて其(その)取消状を發(はつ)せしめたりと云ふ、又東北地方の某師などは恐怖のあまり全(まつた)く意(こころ)にもなき取消である故(ゆえ)に其惡(あく)辣(らつ)な人々の歸(かえ)るを待ち隣室に居(お)りて事(じ)實(じつ)を知りたる人等は、某師の上に同盾し直(ただ)ちに其事實を列(れつ)記(き)したる届書を以(もつ)て、宗務院に取消の眞意にあらざる事を申出されてある」

ある僧が脅(おど)されて、阿部法運に投票したことを有元派が聞き出し、強引(ごういん)にその取消状を宗務院宛(あて)に送らせた。

あるいは別の僧は、有元派の脅しによる恐怖から取消状を出したが、その僧が脅されていることを隣室で聞いていた者が、取消は真意でないと、これまた宗務院に届け書を提出したということである。

日英上人が隠居所としていた富士見庵

このような、選挙をめぐってのあからさまな抗争(こうそう)が、全国津々(つつ)浦々(うらうら)でおこなわれた。阿部派、有元派ともに、脅し、利益供(きよう)与(よ)、利益誘導(ゆうどう)をもって管長選挙を戦ったのだ。

この結果が、唯(ゆい)授(じゆ)一(いち)人(にん)血(けち)脈(みやく)相(そう)承(じよう)と神(しん)秘(ぴ)化(か)されるのである。仏子らは歪(わい)曲(きよく)された「血脈相承」を打破(だは)し、日蓮大聖人本来の「血脈相承」をはっきり認識しなければならない。真実の”血脈”は、御本仏より純真な信仰を貫(つらぬ)く仏子一人ひとりにつながるものなのである。

騒動の中(ちゆう)核(かく)には、いつも猊座への野心を抱(いだ)く日開がいた

昭和二年十二月十八日、日蓮正宗の管長が決定される日がやってきた。選挙権者が総本山に送ってきた管長選挙の投票用紙が入った封筒(ふうとう)を、開(かい)緘(かん)する開票日である。

日開と“法主”の座を争った有元廣賀

しかし、この日の総本山大石寺は物(ぶつ)情(じよう)騒(そう)然(ぜん)たるものがあった。阿部派が警察の出動を要請(ようせい)したからだ。警官隊に守られての開票となったのだが、それでも若(じやつ)干(かん)の小(こ)競(ぜ)り合いはあった。有元派の『聲明書』は、「宗務院を警官除に包(つつ)まし、柵(さく)を廻(めぐ)らし、縄(なわ)を張り出(で)入(いり)を禁じた」(『聲明書』一部抜粋)と開票日の様子を伝えている。

結果は、阿部法運五十一票、有元廣賀三十八票となった。だが、先述したような阿部派の急造選挙権者(教師)や、あからさまな選挙違反の問題などで、またも文部省宗教局の裁定(さいてい)を仰(あお)ぐに至る。

そして、選挙後の対立は告(こく)訴(そ)事件を引き起こすこととなった。第五十八世日柱上人に対するクーデターより始まった内紛(ないふん)のときも、大宮署

(現在の富士宮署)に告訴状が出され、日蓮正宗の主な僧が次々と取り調べを受けたが、第五十九世から第六十世への相承にあたっても、告訴事件が発生したのだ。

昭和三年一月二十六日付の『大阪時事新報』は、その告訴事件を詳(しよう)報(ほう)している。当時の日蓮正宗内部の状況がよくわかるので少々長くなるが全文を引用する。

なお、文中で日蓮正宗の宗(しゆう)勢(せい)について百五十の末寺、十七万の信徒と記述してあるが、実勢は、それぞれ三分の一と思われる。宗派維持のために、対外的に虚勢(きよせい)を張った発表をしていたようだ。

「日蓮正宗の權(ごん)僧(そう)正(じよう)ら訴へらる

背(はい)任(にん)横(おう)領(りよう)の名の下に

静岡県富士郡上野村の大石寺を総本山とし全国百五十の末寺十七万の信徒を有する日蓮正宗(旧日蓮宗富士派)に、昨年暮(くれ)から管長選挙に絡(から)まるお家騒動(そうどう)が持上(もちあが)り、文部省も成行(なりゆき)を正視して新管長への認可を見合せてゐるが、静岡県大宮警察署の依頼を受けて向島署では、二十四日午前十時新管長に当選した向島小梅一七五、常泉寺住職椹僧正阿部法運師を召(しよう)喚(かん)して長時間に亘(わた)つて取調べ、夕刻一(ひと)先(ま)づ帰宅を許したが一件書類は直(ただち)に大宮署に郵送した。

取調べの内容は秘されてゐるが、昨年十一月後任管長に選任せられたる前記阿部法運師と東京市外品川町南品川三木妙光寺住職権僧正有元広賀師が立候補し、十二月十八日開票の結果、五十一票対三十八票で法運師が当選した為(た)め落選派が承知せず、阿部法運師は本山宗務総監椹僧正水谷秀道師と共謀(きようぼう)し、本山の立(たち)木(き)を伐採(ばつさい)して選挙運動費に流用したとか、故管長大石日応師の隠居(いんきよ)で現在未亡人金子なか子と妙(みよう)傳(でん)女史の住む蓮葉庵の維持費二千円を横(おう)領(りよう)したとか攻撃の火の手を揚(あ)げ大紛(ふん)擾(じよう)を起し、終(つい)に広賀師の弟弟子で還俗(げんぞく)して東京府下千駄ケ谷中根某、元常泉寺執(しつ)事(じ)横浜市西戸部松本某が阿部法運師と水谷師を相手取り大宮署に背任横領の告訴を提起したものである」

横領の疑いなどで、阿部法運が向島署で取り調べられたのだ。なお、同時に告訴された「水谷秀道」とは、のちの総本山第六十一世日隆上人のことである。

有元派は『聲明書』(昭和三年三月十三日付)で、この告訴事件に触れている。これまた長文の引用となるが、歴史的な信憑性(しんぴょうせい)を保つために全文を引用する。

「我等に於(おい)て阿部水谷兩師を告訴したのは不都合ぢやと噂(うわさ)を聞てゐる。兩師が告訴されたのは新聞に出てる通り事實であるが、我等は決して告訴した覺(おぼえ)はないのであります。但(ただ)し蓮葉庵基本金四千圓は銀行預金にして置く旨(むね)應尊三回忌の際阿部師より報告された。依(よつ)て遺(い)弟(てい)の一人が、此の機會に於て阿部師に内容證明郵便を以(もつ)て照(しよう)回(かい)した所、阿部師より内容證明で目(もつ)下(か)銀行より引出(ひきだし)て自分に於て責任保管してゐるから安心せよ、應尊の七回忌に發表する返事があつたのである。

所(ところ)が甚(はなは)だ安心は出來ぬ。それは内○○○は某人(ぼうにん)が借用してゐるとの噂(うわさ)さがあり、○○○は銀座の某商店に貸付てあるとの事である。時(じ)節(せつ)柄(がら)大銀行でもいかぬのに個人貸付は最も危瞼である、況(いわん)や該金(がいきん)は淨(じよう)財(ざい)である。

コハ噂き信仰の凝(こ)りある、汗の油であるから、某人は、更(さら)に『來年六月の御七回忌まで待つまでもなく、此(この)機會に某保管の方法を示せ』と内容證明でやつたら、執事木村氏の名の下(もと)に旅行不在中云々との返事があつて今に何等の便りがないのである。之の返事のない所(しよ)置(ち)を何某(なにがし)に話した事がある。すると何でも何某が選擧不正に憤慨(ふんがい)して告訴したとの事であります。之の經(けい)緯(い)の精神が判(わか)れば、孰(いず)れが惡いかの判斷は付くのです。我等に於て告訴した覺(おぼえ)は毛頭ないのでありますが、蓮葉庵浄施(じょうせ)の基本金を兄弟子ぢやからとて、他に諮(はか)らないで勝手に怪(あや)しい貸付をするのは宜敷(よろしく)ないと思ひます。それも來年六月に發表すると云ふのであるから疑はれても仕方がないと思ひます。之も司(し)直(ちよく)の手が如何(いか)に動くか今後の問題と思ひます」(有元派『聲明書』一部抜粋)

官憲(かんけん)を巻き込んでの内紛(ないふん)は、とどまるところがなかったようだ。先の新聞記事によれば、横(おう)領(りよう)金額は二千円、有元派によれば四千円となっている。二千円の差額は、時間の経過とともに判明(はんめい)したその他の不明金であろうか。この告訴が、どのような結末(けつまつ)となったかについて、残念ながら手元にある資料では確認できない。阿部法運が逮捕された事実はないから、おそらくは金を都(つ)合(ごう)して元に戻し、刑事事件としては成立しなかったのではあるまいか。

文部省宗教局の認可が降(お)り、阿部法運が正式に管長となったのは、昭和三年六月二日のことであった。開票が前年の十二月十八日だから、認可まで約六カ月かかったことになる。その間、阿部と有元の両派が陳(ちん)情(じよう)を繰り返したことは言うまでもない。

総本山第五十八世日柱上人から第五十九世日亨上人への相承時には、文部省宗教局の行政介入によって紛争(ふんそう)解決し、第五十九世日亨上人から第六十世日開への相承も、結局、宗教局の異常な長期間にわたる裁定(さいてい)を仰(あお)ぎ、認可を得ることとなった。

当時の日蓮正宗は、実に内紛の絶(た)えない宗派であったのだ。それも官憲を巻き込んでの大騒動である。その騒動の核には、いつも猊座への野心を満々と抱(いだ)く日開がいた。

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