第二章 これだけある法主の邪義・謗法

第二章のはじめに

 
大石寺が法義に対する純粋性をその行動のうえで極度に失ったのは、江戸時代であった。幕府権力におもねり、幕府が「朱印状」に基づき下す布施を「御本尊への供養」と認め、謗施(ぼうせ)に甘んじた。
 
要法寺出身の“法主”第二十世日典上人のとき、大石寺は幕府が下す「朱印地」を「供養」と認める旨の一札を公儀に対し差し入れている。このとき、大石寺には同じく要法寺出身の第十七世日精、第十九世日舜上人が「隠(いん)尊(そん)」として存命中であった。大石寺を權力におもねる軟風が支配していたのである。
 
同時代、不受不施派などは夥しい殉教者を出しながらも、幕府の下す布施を受けず、權力に対抗して己の信ずる法の純粋性を保とうとした。そのために不受不施派などはキリシタンに並ぶ弾圧を受けた。だが、これすらも大石寺の僧らにとっては、恐怖の眼をもってしか見ることができなかったようで、身延山久遠寺の挑発と圧迫に苦吟し、自己を保存するために謗施に甘んずることになるのである。
 
江戸時代における日蓮宗各派の動きは、京都あるいは身延山が中心であった。大石寺は人にその存在すら忘れられた一山寺として、なんとか存続していた。だが、寺としての隆盛などはまったく望めず人材も枯渇していた。そのため安土桃山時代から江戸時代にかけて九代百年にわたり、異流義を立てる京都要法寺から大石寺貫首(かんず)(現在の“法主”)となる僧を譲り受けることとなる。
 
当然のことながら、要法寺教学が大石寺に流入した。ことに第十七世の日精の謗法は目に余るものがあった。この日精の邪義を破折し、日興門流の教学を蘇生させたのは、第二十六世日寛上人であった。
 
だが、日寛上人によって復興された教学も、のちの悪比丘たちの影響により大石寺を末代に至るまで浄化するものではなかった。僧たちは、謗施に甘んじ行躰を時代とともに腐敗させ乱していく。
 
大石寺本末は江戸幕藩体制の支配構造に組み込まれ、寺社奉行の出先機関として民衆統治を代行した。
 
幕府は一部の宗派が勢力を拡大し、權力基盤を不安定にしないように、「自讃毀(じさんき)他(た)」(みずからのおこないをみずから褒め、他人をそしること)を禁じ、布教を制限した。これにより各宗派とも、新規の檀家獲得を望めなくなったが、一方で自宗の檀家を他宗派に奪われることもなくなった。
 
寺は檀家を管理し、キリシタンや不受不施派でないとの保証を“寺請証文”などによっておこなう「役所」となった。檀家はこれらの保証をしてもらうためにも、葬儀、法事にあたっては律義に布施を出さなければならなかった。各宗派の僧らは、幕府権力を背景に地域社会の人々の上に君臨しつづけたのである。
 
なおかつ、僧らは潤沢な資金を元に農民などを相手にして高利貸をおこない、債務不履行の農民から田畑を奪い、さらに、その田畑を経営して小作人から搾取したのである。
 
布教もせず、幕府公権力の威を借り、金に潤った僧らが腐敗堕落するのは当たり前である。大石寺も他宗派と同じように、まったくの葬式仏教と化し、宗開両祖の精神を忘れていくのである。
 
この僧の腐敗を決定的にしたのは、明治新政府が僧の妻帯を許したことによる。女犯による腐敗堕落は、大石寺の僧たちも例外ではなかった。外にあっては女道楽をなし、内にあっては宗政の権を握るため妻子を血族支配の手段とした。いま大石寺にはびこる血族支配の悪弊は、明治初期に始まるのである。
 
明治の新政府樹立以降、大石寺の僧たちは、国家神道を背景とする廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の波に呑まれないために、近代天皇制におもねり、法義を捨ててもその体制の中で主要な役割を果たそうとする。国家権力に対峙せず、国家權力に身を委ねることにより、自己の延命をはかろうとしたのである。
 
この思惑の延長線上に、大石寺の僧たちが邪宗と手をつなぎおこなった“立正大師号宣下(せんげ)”“勅額降(ちょくがくこう)賜(し)”などの妄動が位置づけられるのである。無論、このようなことに現を抜かす堕落した僧らに、法義を厳守することを求めることは到底無理なことである。
 
その僧形をなした俗人の典型は、“法滅の妖怪”の異名をとる第六十世日開であった。
 
本章では、大石寺が法義を曲げていく歴史的過程を抉(えぐ)る。

 

造仏(ぞうぶつ)読誦(どくじゅ)の謗法“法主”・第十七世日精

日精の邪義を根本より断ち切ったのか日寛上人

 
日蓮正宗の歴代の“法主”の中で、謗法を犯した者として特記しなければいけないのは第十七世日精である。
 
堀日亨上人は、『富士宗学要集』(第九巻)において、次のように記している。
 
「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山にその弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か」
 
京都・要法寺の出身であった日精が、要法寺の邪義を本宗に持ち込んでしまったと書いてある。だが、本山の大石寺においては造仏などおこなわれなかったことが、この文でわかる(ただし、戒壇の大御本尊を御影堂に安置し、内拝の形式を廃するなどの過ちをおこなった)。
 
ここで注意しなければならないのは、大石寺に与えた要法寺の影響が思ったほど少なかったことについて、「衷心の真情か周囲の制裁か」と書いているところである。
 
日精の著した文に、『随宜論』という一巻がある。日精が書いたときには無題であったが、後に『随宜論』といわれるようになったとされている。
 
日精はこの『随宜論』において、仏像の造立と法華経のすべてを読誦することの正当性を述べている。その『随宜論』の巻末は、次のように締めくくられている。
 
「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因て門徒の眞俗疑難を致す故、朦霧を散ぜんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」
 
この巻末の文によると、日精が法詔寺建立の翌年に仏像を造立したことによって、「門徒の眞俗疑難を致す」と記していることから、造仏によって宗内が相当に騒然となった様子がわかる。
 
それまで仏像を造り拝むなどということは謗法とされてきたのに、“法主”がそれをおこなったのだから大騒ぎになったのも無理のないことだ。『随宜論』巻末の文は、そのことを物語っている。
 
『富士宗学要集』に収録された資料などを総合すると、造仏をおこなった寺院は確認されるだけで、「法詔寺」「常泉寺」「青柳寺」「妙経寺」「本成寺」「久成寺」「長安寺」「本源寺」「鏡台寺」「常在寺」「実成寺」などに及んでいる。
 
また、京都要法寺で釈迦像が安置された本堂を再興するにあたっては、日精みずから助力したことが記録に残されている。
 
この日精が、宗内の造仏に反対する動きを封じるために著したのが先の『随宜論』だが、いったいそこにはどのようなことが書かれているのだろうか。代表的な箇所を紹介してみたい。
 
「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる。然るに今に至るまで造仏せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるが故なり」
 
日精は、造仏は当然のこととし、これまで仏像を造らなかったのは、大聖人がなされなかったことのみが理由だとしている。大聖人御在世にあっておこなわなかったのであれば、当然、弟子等が宗祖のなされなかったことをすべきではない。ところが日精はそうは考えない。本来造るべきものを、いわば習慣として造らないできただけなのだから仏像を造り安置してもかまわないというのである。
 
「権教(経)の意に約せば、造仏は悪趣に堕さざるの因、天上に生ずの縁なり。権経猶(なお)此(かく)の如し況んや実大乗の法華経は小善悉(ことごと)く成仏す、造像の大善は言論すべからず」
 
日精は、権教においてすら仏像を造ることは善因となる、実大乗の法華経においては小善はことごとく成仏する、仏像を造ることが大善であることは言うまでもないと強調している。恐るべき邪義である。
 
「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処(こしょ)定(さだ)まらざる故なり如何」
 
日蓮大聖人が鎌倉、伊豆、佐渡、身延などと諸所を転転とされ居処が定まらなかったことが、仏像を造立・安置されなかった理由であるとして、仏像を造らなかったことは日蓮大聖人の本意ではないと主張しているのである。
 
こうした類のことを御聖訓を引用しつつさまざまに論じた後に、日精は「古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」と結論づけている。
 
いやはやとんでもない“法主”がいたものである。
 
後に総本山第三十一世の日因上人は、この『随宜論』の巻末に筆を加え、「日因云、精師御所存ハ当家実義と大相違也」と、日精の考えは、富士大石寺の本当の教義と大きく違うとわざわざ断わり書きをし、邪義であることを断じている。
 
この日精の用いた邪義邪説は、京都・要法寺の広蔵院日辰の影響をまともに受けたものだ。この第十七世日精の邪義の影響は、第二十二世日俊上人、第二十三世日啓上人などによって正されるまでつづく。
 
最終的に要法寺の邪義を、その根本より断ち切ったのは、第二十六世日寛上人であった。
 
日精のような狂える”法主”が出たことに暗澹たる思いを禁じ得ないが、唯一の光明は、この日精の邪義に抵抗した僧俗のいたことが、当時の文献からうかがえることである。すなわち、日精みずから記しているように「門徒の眞俗疑難を致す」といった事実があったことだ。
 
理境坊(住職小川只道)の妙観講の機関誌『暁鐘』(一九九一年三月号)の「大御本尊と血脈相承」という一文には、次のような記述がある。
 
「大聖人御内証の法体が、日興上人より第三祖日目上人へ、日目上人より第四世日道上人へと、あたかも筒の中を水が流れるごとく、歴代御法主上人に血脈相承されてきたことを考えるならば、歴代の御法主上人を日蓮大聖人の御代管と仰いできた本宗七百年の伝統が、鮮明に理解されるのであります」
 
このような血脈観では、邪義を立てた日精の代で大聖人様の血脈はとだえたことになってしまう。日精以降は、筒の中を毒水が流れていることになる。事実は、正しい“法主”もいれば、邪な”法主”も出たということである。
 
”法主”の権威を尊極無上のものとするためにいたずらに言葉をもてあそぶのは、血脈がとだえているとする論拠をいともたやすく他宗派に与えてしまうことになる。
 
安易な宣揚は、日蓮大聖人の仏法に対して世人の誤解を生じさせることになりはしまいか。

 

日亨上人も『富士宗学要集』で日精の誤りを指摘

 
『富士宗学要集』(第五巻)に、日精の著した「日蓮聖人年譜」が収録されているが、ここでも邪義を述べている。これに対して、第五十九世日亨上人が「本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ホ(ぼ)批判を加ふ」と、その邪義に対し批判の筆を入れている。「本師」とは、いうまでもないが日精のことである。
 
日亨上人は、たとえ”法主”の立てた論であっても、邪義であればそれを指摘し、富士の正義を守ることを第一義に考えているのだ。
 
そのため日亨上人は、日精の手になる「日蓮聖人年譜」の中に、次に紹介するような加筆をし、日精の誤りを指摘している。まずは日亨上人の加筆の一つを紹介する。
 
「総別ハ法ノ本尊ノ立テ方ニ付テ本師未タ(だ)富士ノ正義ニ達セザルナリ本師ノ所論間々此底ノ故山ノ習(しゅう)情(じょう)隠顕(いんけん)ス注意スベシ」
 
「本師」すなわち日精が、あろうことか本尊の立て方において「富士の正義」を理解しておらず、出身の京都・要法寺の影響を見え隠れさせていることに注意すべきだと、日亨上人は但し書きをしている。日精は”法主”でありながら本尊に迷っていたのである。
 
他所に「此下本師ノ取リ方誤レリ」との日亨上人の指摘もある。日精が「観心本尊抄」の「仏像」や「宝軽法重抄」の「寿量品の釈迦仏」などの語句を曲解し、釈迦仏造立を正当化する間違った論を展開している箇所についてだ。
 
日亨上人が「此下辰師ノ造釈迦仏ノ悪(あく)義(ぎ)露顕(ろけん)セリ迷フベカラス」と指摘している部分もある。日精が「久(く)成(じょう)釈尊」を本尊とすることを述べているところである。この説に従えば、現実的には釈迦立像を本尊とすることになる。日精の主張が、「辰師」すなわち要法寺の広蔵院日辰の「悪義」そのものであることを指摘され、修学の僧俗に迷うなと、日亨上人は注意を喚起している。
 
日亨上人が「本師又謬(びゅう)義(ぎ)ヲ露ハス惑フベカラズ」と加筆し、後進の者が惑わないように注意している箇所もある。四菩薩を造立書写することが「戒壇の義」であると日精が記しているところである。日精は本尊に迷うのみならず、戒壇についても邪説を立てていたのだ。

 

日精が邪義を著した「日蓮聖人年譜」
日精が邪義を著した「日蓮聖人年譜」

 
日亨上人が「踏ヲ以テ事ト解スル是傍義ナリ正解ニアラズ」と加筆指摘している箇所もある。事の戒壇について「足を以て之を踏む故に事と云ふなり」と日精が記しているのは間違いであるということだ。日精は、日蓮大聖人の御遺命である「事の戒壇」を歪曲してしまっているのである。
 
日精の邪義は、要法寺の広蔵院日辰の影響によるもので、日辰の『読誦論議』の邪義のままに法華経一部の読誦すらも主張するに至る。
 
それに対して日亨上人は、「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」と加筆している。
 
本宗は法華経の方便品と寿量品を助行として読誦するが、日精は法華経一部八巻二十八品のすべてを読むことを指南したのである。これは日興上人の、
 
「今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か」(「五人所破抄」)
 
との誠めにも背くものであった。
 
日精の論は、要法寺の広蔵院日辰の教えに感化されたもので、富士大石寺の中に邪義を持ち込むものであった。
 
第二十六世日寛上人は、その著「末法相応抄」において、この広蔵院日辰の邪義を徹底的に破折している。この広蔵院日辰に対する破折の本意の一つには、日辰の論に擬して、日精らの邪義を当門流より根絶することであった。
 
日寛上人は「末法相応抄上」の冒頭において、「問う末法初心の行者に一経の読誦を許すや否や、答う許すべからざるなり」と書き起こしており、同様に「末法相応抄下」の冒頭には、「問う末法蓮祖の門弟・色相荘厳の仏像を造立して本尊と為すべきや、答う然るべからざるなり」と記している。

 

日寛上人直筆の「末法相応抄」
日寛上人直筆の「末法相応抄」
 

これは広蔵院日辰の代表作である『読誦論議』の冒頭の文、「問う法華円宗の意一部読誦を許すや、答えて云く、然る可きなり」、同じく日辰の『造仏論議』の冒頭の文である「問う本門円宗の意仏像造立の義を許すや、答えて云く然る可きなり」に対置したものと思われる。
 
日寛上人が「末法相応抄」を著してわざわざ広蔵院日辰を徹底的に破折したのは、日精などによって、本宗に要法寺の邪義が浸透したことによる。日精という”法主”みずからが邪義を用いたというこの史実は揺るぎのないものである。

 

謗施を受け生き永らえてきた大石寺

徳川幕府から徹底的に弾圧された不受不施(ふじゅふせ)派

 
古来より、天皇、貴族、将軍、大名などは、多くの僧を集め「千僧供養会(くようえ)」をおこなった。その法要をおこなうことは、施主本人の功徳善根を積むのみならず、先祖の菩提のためにも絶大の効用ありとされたのである。
 
豊臣秀吉は、その晩年にあって、文禄四(一五九五)年九月二十五日、方広寺大仏開眼のために千僧供養会をおこなった。この千僧供養会には、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出席を要請された。
 
日蓮宗の京都所在の各派に出仕の命が下されたのは、供養会を二週間余にひかえたときだった。日蓮宗各派は、京都の本国寺(のち本囲寺)に集まり、その対応を話し合った。
 
このとき、妙覚寺の日奥(ひおう)(不受不施派)は、たとえ国主であっても謗法からの供養を受けずと主張して譲らなかった。だが、日奥の主張は多数派に容れられず、他の者は千僧供養会に参加。一方で不参加の日奥は、「法華宗諫状」を豊臣秀吉に差し出した。
 
「時すでに法華の代なり。国また法華の機なり。しかればすなはち天下を守る仏法は、独り法華宗に限るべし。仏法を助くる国主は、専ら法華経を崇め給ふべし。所以に仏法世法相応ぜば、聖代速に、唐堯虞舜(とうぎゅうりよしゆん」)の栄に越へ、正法正義を弘通せば、尊体久しく、不老不死の齢を保ち給はんか」
 
日奥は、千僧供養会に参加しないのみならず、死を賭して秀吉へ帰伏を迫ったのであった。また翌年には、後陽成天皇に対し「法華宗奏状」をもって諫暁している。

 
以降、日蓮宗系の各派は、この日奥を中心とする不受派(謗法の者からの供養を受けない)と、受派(謗法の者からの供養を受ける)との、二つのグループに大きく分かれていく。
 
不受不施派(信者以外の者から布施を受けず、信者に対してしか読経などを施さない)領袖であった妙覚寺日奥が、権力者の迫害にあうのは、慶長四(一五九九)年十一月二十日、大坂城においてであった。慶長四年は、豊臣秀吉の死の翌年である。
 
豊臣秀頼の後見として、国家治世の権を握りつつあった徳川家康が、大坂城に日蓮宗の不受派と受派を呼び出し法論をさせたのである。もちろん徳川家康は行司役とはいえ、権力者の側から見て御しやすい受派を擁護したのは、いうまでもない。日奥の負けは当初より決まっていたようなものだ。
 
法論の最後に徳川家康は、日奥を「法華宗の魔王」と決めつけ、厳罰に処することを命じた。日奥は、その場で役人たちに袈裟、衣をはがされ、念珠を奪われた。そして、日奥は半年後、対馬に流罪になった。日奥は以降、十三年間にわたり対馬にて流人として生活する。
 
日奥の配流と並行して、日奥率いる不受派に対する徹底的な弾圧が加えられたことはいうまでもない。

 

日奥が豊臣秀吉宛に認めた「法華宗諌状」
日奥が豊臣秀吉宛に認めた「法華宗諌状」

 

日奥がはがされたとされる袈裟衣(妙覚寺蔵)
日奥がはがされたとされる袈裟衣(妙覚寺蔵)
 

このとき、日蓮正宗大石寺の様子はどのようなものだったろう。日亨上入は、「大仏殿千僧供養の時は地方寺院に其の災波及せず従って富士に何等の文献も存在せず」と『富士宗学要集』(第八巻)において述べている。当時、他宗派においてもそうだったが、各宗派の動きは京都中心であった。日蓮宗もまた例外ではなかった。
 
富士大石寺は地方にあったために、千僧供養会に発する日蓮宗各派の受不受の争いの外にいることができたのである。
 
だが、世は徳川の時代となり、江戸に幕府が移され、それに伴い幕府におもねる身延山久遠寺が力を持ちはじめる。身延は、不受派を弾圧する徳川幕府の威光を笠に着て、不受派の寺への圧迫を間断なくつづけた。
 
慶長十七(一六一二)年、対馬に流されていた日奥が赦免され京都に戻ると、不受派の者たちがにわかに勢いを増した。そのため、不受派と受派の対立は激しくなった。
 
寛永三(一六二六)年、二代将軍徳川秀忠夫人の弔いのとき、不受派の池上本門寺(日樹)は布施を受けず、受派の身延山久遠寺は布施を受けた。池上側は、謗法より布施を受けた身延を非難した。身延は、それに対抗するため幕府権力に池上を訴え出たのである。
 
寛永七(一六三〇)年、江戸城において池上(不受派)と身延(受派)が、それぞれの代表六人を一列に並べ、対座させて法論をおこなった。このとき、大坂城での徳川家康にならい、幕府が受派を援護したことはいうまでもない。
 
不受派は負け、後日、領袖たる日奥は再び袈裟をはがされ対馬への配流が決定した。だが、配流前に日奥が死んだので、その遺骨だけが対馬に送られた。幕府の不受派への弾圧は、たとえ死して骨になっても容赦なくおこなわれたのであった。池上の日樹も流罪となり、その他の高僧たちもことごとく追放された。
 
この「身池対論」(寛永七年二月)の後、身延は幕府権力を背景に不受派の寺を屈服させ、次々と支配下に置いていくのである。この「身池対論」の直後、身延は富士五山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、妙蓮寺)に対して、受派としての意思表明を同年七月に二度も迫っている。つづいて翌年にも二度(一月、七月)、身延は富士五山に対し、受派としての明確な意思表示を要求している。
 
身延の幕府権力を背景にしての富士五山に対する圧迫は、その後も数十年にわたってつづくのである。

 

日蓮大聖人の法義を捨て権力に屈した大石寺

 
富士大石寺は、「不受」の法義を捨てれば日蓮大聖人の教法に背くことになるので、身延側の罠にも似た難問の応酬にも態度を不明確にしてしのいだ時期もあった。
 
しかし、寛永十八二六四一)年、徳川家光の代に大石寺は六十六石八斗五升余の朱印状をもらう。受派として、公権力より下される禄を供養として受けることによって生活する道を選んだのだ。富士大石寺の法義の上での後退は、これだけにとどまらない。
 
寛文五(一六六五)年、幕府は、今後は寺領を供養として下付するとし、各寺に請書を提出するよう命じた。
 
この要請に大石寺は、公儀に「受派」であるとの証文を差し出した。第二十世日典上人の時代である。
 
大石寺は日蓮大聖人の弟子としての法義を捨て、国家権力の威迫の前に名実ともに屈服したのであった。日奥の率いる京都妙覚寺派などとは比べるべくもない不甲斐なさであった。
 
そのとき、公儀に提出した証文は次のとおり。
 
コ、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候

 

「日蓮宗不受不施派寺請禁止条目」(久遠寺蔵)
「日蓮宗不受不施派寺請禁止条目」(久遠寺蔵)
 

徳川家康の朱印状
徳川家康の朱印状
 

儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは各別にて御座候、傍つて件の如し。
 
寛文五年巳八月廿一日
 
本門寺、妙蓮寺、大石寺。
 
御奉行所。」(『富士宗学要集』第八巻)
 
それ以降、大石寺は幕府より下される寺領などを御供養であるとし、謗施(ぼうせ)をもって生活することに甘んじたのであった。
 
いうまでもないが、この謗施は、寺社奉行の下で徳川幕府の民衆支配を忠実に代行することによって得たものである。徳川幕府は寺社奉行の下に、本寺(本山)―末寺―民衆という支配構造をつくり、徳川三百年の礎としたのだ。
 
ちなみに、不受派の妙覚寺日奥に対する受派の領袖(りょうしゅう)は、本満寺(京都)日重であった。「閻魔法皇(えんまほうおう)」「五道冥官(ごどうみょうかん)」を書き込んだ導師本尊(第三章に詳述)のルーツである「臨終(りんじゅう)曼茶羅(まんだら)」のうち、現存するもののなかで、もっとも多く認めることができる書き手は、受派の領袖であるこの本満寺日重である。
 
日顕宗が、日重の流れを汲むニセ曼茶羅の導師本尊に固執するのは、受派として徳川幕府に媚び、民衆を圧迫し栄華を極めたことが忘れられないからだろうか。仏子に隷属を強いる日顕らの言い分の多くは、日蓮大聖人の教法に背いた、この受派の時代のものである。
 
江戸時代、徳川幕府は寺社奉行を設け、各宗派の本山および末寺を支配した。幕府は仏教各派を厳しく統制する一方で、檀家を法的に固定し僧の生活を保護してやることによって、民衆支配の一権力機構として利用したのであった。
 
そのため幕府権力は、本寺(本山)と末寺の支配-被支配の秩序を絶対のものとし、本寺を通して日本全国の末寺を統制した。また末寺は、檀家として属する民衆を、宗教思想のみならず社会生活の面に至るまで、幕府権力の代理人として支配したのであった。
 
寺請証文(宗旨手形)

 
民衆は、定められた寺に身許を保証してもらわなければ、結婚もできなければ奉公に出ることすらできない。
 
また、旅行もできなければ移住することも不可能だった。これが寺請制(てらうけせい)である。民衆は何かにつけて、キリシタンではなく檀家であるとの身許を保証してくれる「寺請証文」を寺院より発行してもらう必要があった。
 
江戸時代の寺院は、思想警察であり戸籍や住民票を扱う役所でもあったのだ。当然のことながら、信徒が本山へ参るための旅行をするとなれば、「寺請証文」が不可欠であった。いまに伝わる添書登山はここに由来する。
 
もちろん、富士大石寺およびその末寺も、徳川幕府の寺社奉行の統治下に置かれ、徳川幕藩体制を支える権力機構の一部と化していた。
 
日顕宗は、この徳川幕府の権力機構の一部として民衆支配をおこなっていた頃のことを勘違いして、本末の筋目がすなわち「本宗の化儀、化法」であると言いつのっているのである。
 
寺檀制度の発生は荘圍(しょうえん)制度崩壊の頃までさかのぼることができるが、社会的制度として確立したのは江戸時代である。この江戸時代に完成した宗教による民衆支配の方法を、日顕宗中枢はいま再び持ち出そうとしているのだ。
 
江戸時代、檀家の人々は「寺請証文」を出してもらうために、決められた法要の日に寺に参り、決められた法事をおこない、決められた「つけ届け」(江戸時代檀家であった塔中坊の檀家は、供養のことをいまでもこのように呼ぶ)をおこなわなければならなかった。
 
寺は、「寺請証文」を出す権限を持つことによって、実際のところ民衆の生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握っていた。寺がキリシタンでないことを保証してくれなければ、生命の保障はなかった。そのため僧は檀家に媚びへつらわれ経済的にも潤ったのである。

 

キリシタンでないことを証した「寺請証文」

 

権力におもねっていた象徴が大石寺の三門だ

 
日蓮正宗富士大石寺に参拝すると、まず目に入るのは、あたりを圧するようにそびえている三門(山門)である。晴れた日の、富士山を背景に、朱も鮮やかにどっしりと構えた三門は見事なものがある。
 
しかし、これは、正徳二(一七一二)年、総本山第二十五世日宥(にちゆう)上人のとき、大石寺は三門造営のために、黄金千二百粒と、天領(てんりょう)である富士山の材木七十本を幕府より受けた(『日蓮正宗富士年表』による)ことによりできたものである。
 
富士大石寺の入り口に偉容を誇る三門は、今日まで「富士の清流」の象徴とされてきたが、確固たる歴史から見れば、それは日蓮大聖人の法義を捨て、謗施を受けて命を永らえてきた大石寺の屈辱のモニュメントであったのだ。
 
徳川幕府の統治政策下にあって、寺社奉行(じしゃぶぎょう)に連なる寺院は、民衆を統治するために大変に大きな役割を果たした。寺院は民衆を支配する幕府の代務機関と化し、思想警察、市(区)役所的役割を担わされた。
 
民衆の間にキリシタンなどの、徳川幕府にとって危険な思想が発生しないかをたえず監視し、「寺請証文」という社会的な身分保証書を寺院が発行することによって、幕府は寺院を通して民衆の心的内面を管理し支配することに成功した。寺院は民衆支配の権限を幕府より分与され、それを代行することによって己の権威権力を保ち、民衆の上に君臨したのである。
 
また、民衆の改宗は幕府によって禁じられた。このことによって、各宗派寺院ともに、幕府権力にすがっている限りは絶対的な生活の保障を得ることができた。幕府の権勢を背景に、民衆にかしずかれ崇められる。そこには、宗教者としての根本的な腐敗が横たわっていた。

 

謗施を受けて建てた三門
謗施を受けて建てた三門

 

また一方で幕府は、民衆支配を代行する各宗派の僧侶の腐敗をもっとも怖れた。だが、ここでいう腐敗とは為政者から見た腐敗で、為政者側は布教をせず社会の秩序を乱さず妻帯せずして、そこそこの生活をする僧を望んだのである。もし、僧侶に対し庶民が不信を持てば、幕府がもっとも危惧するキリスト教の蔓延という事態すら惹起しかねない。「お上」である幕府に対する庶民の不信にもつながる。そこで幕府は、寺社奉行を通して各宗派を監視した。ことに、僧侶の風紀紊乱には目を光らせたのである。それでも、寺内に女性を引き込むなどの腐敗は横行した。この僧侶の統率にあたっては、本末関係(本山と末寺の絶対的な秩序立て)が大いに利用された。
 
大石寺が三門を建てるにあたり、徳川将軍の正室に莫大な黄金をもらい、寺社奉行より特別に材木を下賜された事実は、大石寺が国家権力による民衆支配の忠実な代務者であった側面を浮き彫りにする。
 
日蓮大聖人は鎌倉幕府のためには祈らなかった。人々の幸福のためにのみ法を説いた。
 
「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」(御講聞書)
 
【通解】世間の法とは、国王や大臣から所領をたまわり、官位
 
をおくられたとしても、そのことに染められず、謗法の供養を受けないことをもって世間の法に染められずというのである。
 
佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った宗祖日蓮大聖人に対し、鎌倉幕府は寺を寄進しようとした。だが宗祖は、鎌倉幕府による寄進の申し出を峻拒されている。しかるに、その末流たる大石寺の僧侶たちは、徳川幕府より材木を得、将軍の正室より黄金をもらうことによって、あの大きな三門を造り得たのだ。
 
今日、大石寺への登山者を偉容をもって迎える三門は、日蓮正宗信徒にとって誇りうるべきものではなかった。それは、江戸幕府統治下にあって権力におもねっていた頃の残澤(ざんし)でしかなかったのだ。
 
正しき仏法による民衆救済を叫んで国家権力と一人対峙し、死罪・流罪の極刑に処され身命を奪われんとした宗祖日蓮大聖人の教えと、いまにそびえる三門は、その依って立つ思想性のうえで完全に乖離(かいり)するものである。
 
三門に象徴されるのは、現在、信徒に対し「お目通り適わぬ身」などと言ってはばからぬ日顕宗僧らの権威権力的体質である。三門は日蓮大聖人の法義が寸分たがわず伝えられたことを示すのではなく、むしろその逆であったのだ。

 
ここに、江戸時代の大石寺の実態を知る上で、恰好の資料がある。
 
天保九(一八三八)年六月、大石寺が代官「豆州韮山江川太郎左衛門」に差し出した「口上覚」二四〇ページに原文掲載)である。この古文書は、寛永十二年十月十二日に大石寺の「本堂」「山門」「坊舎」が焼失したことを記し、つづけて次のように綴っている。
 
「本堂方丈坊舎等者再建致候得共、山門寳塔再建難及自力二」
 
(本堂、方丈、坊舎などは再建致し候えども、山門、宝塔の再建は自力に及び難く)
 
本堂、方丈、坊舎はなんとか再建したが、山門、宝塔(五重塔)の再建は自力ではとてもできなかったのだ。なお「方丈」は住職の住居、「坊舎」は僧坊のことを言い、僧俗の起居するところを指していると見られる。
 
「正徳二年文昭院様御代寺社御奉行本多弾正少弼様奉願上候處、於富士山御財木元材七拾本拝領被仰付御臺君従天英院一位様御金三百両被下置候右材木井被下金二而山門者其瑚出来仕」
 
(正徳二年文昭院様御代寺社御奉行本多弾正少弼様に願い上げ候ところ、富士山に於ける御財木元材七十本拝領仰せ付けられ、御台君従天英院一位様御金
 
三百両下し置かれ候。右材木並びに被下金にて山門は其の砌(みぎり)出来仕(つかまつ)る)
 
正徳二(一七一二)年、「文昭院様」すなわち六代将軍徳川家宣のとき、寺社奉行をしていた本多忠晴にお願いして、富士山の原木を七十本もらい受け、家宣の正室である天英院より三百両をもらい、山門(三門)を建てたと書いてある。正徳二年、総本山貫首は第二十五世日宥上人であった。日寛上人(第二+六世)の一代前の上人である。
 
この三門造営について、『日蓮正宗富士年表』には、「日宥幕府より大石寺三門造営につき黄金千二百粒及び富士山材木七十本を受く」と記述してある。「材木七十本」の記述は、古文書とも符合する。
 
「三門」が焼失したのは寛永十二(一六一二五)年。幕府より材木と金をもらったのは正徳二(一七一二)年。その間、七十七年の歳月が流れている。
 
大石寺が三門を焼失して後、七十七年も経なければ、それを再建できなかったという事実に注目しなければならない。それほど大石寺の寺勢は衰退していたのである。しかも幕府より材木、黄金を下賜(かし)してもらい再建したという冷厳な事実を見逃してはならない。法義を曲げ幕府に謗施をねだって寺の威勢を整えたのである。法を失った伽藍(がらん)仏教の最たる姿がそこにある。

 

宗門の謗法を象徴する常泉寺

本山だけでなく末寺も幕府権力と癒着して繁栄

 
時の権力者におもねり民衆を支配することにより栄えたのは、総本山である大石寺だけではなかった。末寺も同様の法義に反した生き方をすることにより栄えたのである。その象徴的な事例として、幕府のお膝下で栄華を極めた江戸・向島の常泉寺を挙げることができる。
 
『日蓮正宗富士年表』によると、常泉寺の開創について、「一五九六(文禄五)年二月七日、天台僧仙樹院日是江戸本庄牛島に常泉寺を創す」とある。
 
常泉寺は当初、大石寺の末寺ではなく天台宗の一末寺として開創されたのである。これを富士門流に改宗させたのは第十七世日精で、「一六三八(寛永+五)年十二月日精本行院日優を化し、江戸常泉寺・同塔中真光坊大石寺末となる」と『富士年表』に記されている。
 
江戸時代の「新編武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)」(『本所区史』=編集兼発行者・東京市本所区昭和六年六月二十五日発行=に収録)という書物に「常泉寺」についての記述がある。
 
「常泉寺法華宗駿河国富士郡上條村大石寺末久遠山と号す。本尊は本山二十五世日宥の筆せし三宝の板本尊を安ず。開山は六老僧日興上人にて、開基は仙樹院日是と称す」(「新編武蔵風土記稿」より引用)
 
この記述は、おもに江戸中期の常泉寺七代住職大信阿闇梨(あじゃり)日顕”(一七〇三年没)に関わるものと、当時の常泉寺の宝物についてである。もちろん、当時の常泉寺は邪宗から改宗した後で富士大石寺の末寺だった。
 
「新編武蔵風土記稿」には、次のようなことが書かれている。常泉寺七代住職の“日顕”という僧が京都にいたころ、御水尾院第一の皇女・無品内親王のひいきになり、祈疇などをおこなった。
 
延宝(えんぽう)七(一六七九)年、内親王の息女・天英院が六代将軍徳川家宣へ輿(こし)入れしたときに、“日顕”もいっしょに関東に下り、常泉寺に入った。
 
その縁故で、朝廷にも徳川家にも重んじられ、宝永七(一七一〇)年には幕府から三千四百坪の寺地を、あるいは「御仏供料」として三十石の「御朱印」をもらった。
 
なお、この「御朱印」をもらうことには大変な意味がある。幕府から「御朱印」を下された寺院は、いってみれば幕府から本山並の寺格を認められたに等しいからだ。
 
正徳元(一七一一)年六月には、城内本丸客殿を常泉寺の書院として賜りもした。同四(一七一四)年には、天英院から本堂造営費千五百両および仏具一切の寄進があった。
 
それらのことを、「新編武蔵風土記稿」は次のように綴っている。
 
「其後当寺第七世日顯は京都の産にて、後水尾院第一の皇女無品内親王の御取立にあつかり、屢(ますます)御祈祷(ごきとう)など命ぜられ、延宝七年内親王の御女天英院殿文昭院殿へ御入輿の時供奉して関東に下り、当寺に住しけるが御由緒をもて若君姫君及び及び御部屋齋宮御方等寺内に送葬し奉りしかば、宝永七年三千四百坪余の寺地を賜はり。同年西葛西領小谷野村にて本乗院殿御仏供料三十石の御朱印を附せらる。正徳元年六月御本丸御客御殿を賜て書院とし、同き四年天英院殿思召(おぼしめし)を以て本堂御造営及び客殿経仏具等一色寄付したまひ、同年又本堂建立のためとして金千五百両を下し賜はり」
 
この文からうかがえることは、常泉寺が天英院の帰依を背景に、徳川幕府から並々ならぬ庇護(ひご)を受けていたということである。下賜された「寺地」「御仏供料」「御本丸御客御殿」は幕府からの謗施である。
 
なお、ここで天英院からの供養も問題にしておきたい。なぜなら、詳しくは後で触れるが、天英院は観音、毘沙門、鬼子母神などにも信をとっていたようだからだ。したがって、天英院からの供養も謗施ではないかと、あえてここで問題を提起しておきたい。
 
読者の方々は、後述する天英院の信心の実体を見て、天英院からの供養が謗施であるかどうかを判断していただきたい。
 
ともかく、常泉寺が幕府から「寺地」「御仏供料」「御本丸御客御殿」などの下賜を受けたことが謗施であることに、誰も異論はないだろう。常泉寺は幕府から財を分かたれ、その威を借りて栄華をきわめたのである。
 
江戸時代、常泉寺の本堂、客殿、書院の釘隠しや屋根瓦には、徳川家の紋所(もんどころ)である葵の紋が使われていた。
 
教説を曲げず民衆救済のために不惜身命(ふしゃくしんみょう)の姿で、鎌倉幕府を諫暁された御本仏日蓮大聖人――。その末流が、将軍家の紋所を建物の随所に飾り、権勢を欲しいままにする。これにすぎた腐敗はない。していることは、まさに御本仏に対する違背である。
 
名刹(めいさつ)といわれてきた常泉寺の歴史は、日蓮正宗が幕府権力に癒着し、謗施を受け、繁栄してきたことを教えてくれる。これが、日蓮正宗の実体なのである。ということは、“富士の清流”などという言葉が、歴史的裏づけのない偽りの言葉だということでもある。

 

幕府や天英院から莫大な庇護を受けた常泉寺

 
常泉寺は幕府権力に癒着し、謗施を受け、栄華をきわめた。常泉寺は、一末寺としては破格の「御朱印」を幕府から下された。この過分の待遇の背景には、常泉寺七代住職の”日顕”と天英院とのかかわりがある。先述した内容と重複するが、もう一度、概略をまとめて記述する。
 
江戸時代において、日蓮正宗の大檀那であった天英院は、寛文六(一六六六)年、京都に生まれた。父は関白(かんぱく)太政(だじょう)大臣近衛茎熈、母は後水尾天皇の第一皇女級宮である。天英院は延宝七(一六七九)年に徳川家宣の正室となった。
 
“日顕”は、天英院の乳母の子供である。その縁により”日顕”は京都にいたころから、天英院の母の寵遇(ちょうぐう)を受け、天英院が徳川家に輿(こし)入れする際、護持僧としてともに江戸に下った。やがて、“日顕”は常泉寺七代住職になり、天英院は常泉寺の大檀那として同寺の繁栄を支える。
 
宝永七二七一〇)年、天英院と“日顕”のつながりから常泉寺に家宣の養女を葬うことになった。その際、幕府は家宣の養女のために常泉寺に三十石の朱印を与え寺地三千四百坪を下した。
 
徳川家宣の正室であった天英院の墓碑
徳川家宣の正室であった天英院の墓碑

 
本山である大石寺が、寛永十八(一六四一)年に幕府より下された朱印は六十六石八斗五升である。末寺の常泉寺がいかに破格の待遇を受けたかがわかる。
 
また、翌正徳元(一七一一)年には、幕府から江戸城本丸の御客御殿を常泉寺に下賜された。さらに、正徳四二七一四)年には、天英院より本堂造営のため千五百両も寄進されている。
 
徳川家の家紋(かもん)である「葵(あおい)の紋」を常泉寺の本殿、客殿、書院の釘隠し、屋根瓦の所々に使うことも許されている。このように、常泉寺は幕府や天英院から莫大な庇護を受けた。
 
この天英院も寛保元(一七四一)年二月二十八日、死去する。遺言によって常泉寺に天英院の遺品が奉納された。『富士宗学要集』(第八巻)によれば、天英院の遺品として、大聖人の木像、位牌(いはい)、大聖人の御真筆の曼茶羅を常泉寺に納めたと記されている。
 
「一、天英院様御持仏之有り候御本尊仏(大聖人木像)且亦応円満院殿無上法院(級宮常子内親王)予楽院殿(近衛基熈)妙教殿(妙敬日信豊姫)本乗院殿(斎宮御方)如是観院殿御位牌常泉寺え遣はさるべき由、天英院様思召に付き遣はされ候、之に依て御金百両下され候、公儀より一切御構(おかまい)は之無く候間其の以後之を存ずべく候、以上。(寛保元年)三月
 
一、天英院様御所持遊ばされ候、日蓮真筆の曼陀羅(仙師授与)一幅此度遣はされ候間、随分大切に仕り寺の什物(じゅうもつ)に仕り毎年二月十五日十六日廿八日、七月十六日十七日、十月十三日十四日十五日、右の通掛け置き参詣の者ども拝ませ申すべく候。(寛保元年)四月」(『富士宗学要集』第八巻より引用)
 
しかし、常泉寺に納められた天英院の遺品は、これだけではなかったようだ。
 
「新編武蔵風土記稿」(『本所区史』=編集兼発行者・東京市本所区昭和六年六月二十五日発行=に収録)には、
 
「坐像(ざぞう)釈迦仏一躯(いっく)(後水尾院法華経題目書写し給ひし紙をもて、御手つから作らせ給ふ。模糊(もこ)の像にて、第一皇女級宮御方に御形見として進ぜられしを、天英院殿に譲らせられ後当寺に納めたまひしなり)」
 
と記されており、『江戸から東京へ』(中公文庫矢田挿雲著)には、この「坐像釈迦仏」については、「天英院他界の後当寺に納まったものである」と記述されている。
 
そのほかにも、常泉寺に「宝物」として納められた天英院に縁のあるものとして、「新編武蔵風土記稿」には、次のように記されている。
 
「伽羅(きゃら)仏立像正観音一躯立像(りつぞう)毘沙門一躯(文昭院殿御守本尊なり)四天王四躯(元文の頃天英院殿御帰依にて浅草長遠寺より当寺に移されし像なり。以上六躯は昔別に堂ありてそれぞれに安置せしが、天英院殿三十三回御忌に当り御仏殿等御修造(しゅうぞう)遊ばされし時、何れも御取払となりし故其後は宝蔵に安置すと云)」
 
徳川家宣の守り本尊の立像観音像一躯、立像毘沙門像一躯。また、天英院により浅草長遠寺から常泉寺に移された四天王像四躯。これらの六躯の像は天英院三十三回忌(一七七三年頃)に宝蔵に安置されるまでは、それぞれ別の堂に安置されていたのだ。
 
なお、これらの像は、文脈からみて、天英院生前に常泉寺に寄進され境内に祀(まつ)られたものと思われる。総本山近くの「広宣流布された村・半野地区」同様、謗法が御本尊とともに常泉寺内に混在し祀られていたのだ。常泉寺は、このようにして栄えていたのである。
 
「新編武蔵風土記稿」には、常泉寺に「鬼子母神堂」があったことも記している。「鬼子母神堂」については、次のような但し書きがなされている。
 
「鬼子母神堂(天英院殿御寄付の像にして浅草妙音寺より移されしものなり)」
 
常泉寺内の「鬼子母神堂」は、天英院が浅草妙音寺からわざわざ鬼子母神像を常泉寺に移して祀ったことを縁起とする。
 
これが“富士の清流”の実態である。謗法の者から布施を受けないとして、不受不施派の多くの寺が徳川幕府から徹底弾圧を受けていた頃、常泉寺は幕府から謗施を受けて潤い、随所に「葵の紋」を飾り権勢を誇っていた。
 
それも、大檀那・天英院から寄進された観音像、毘沙門像、四天王像を堂を造って祀り、その他、邪宗の寺から移した鬼子母神まで祀ってである。
 
まさに、謗法まみれの常泉寺である。謗施にありつくために、日蓮大聖人の教法を忘れ去ってしまった売僧(まいす)の姿がそこにある。この常泉寺のありさまを見れば、身延派などの邪宗とどこが違うのかと思われる。
 
先に、天英院からの供養も謗施ではないかと記したのは、以上の理由からである。
 
天英院は、どうやら日蓮大聖人の教法を理解していなかったようである。というより、富士大石寺派の僧のいずれも、大檀那に真実の日蓮大聖人の仏法を教えなかったのではあるまいか。

 

謗法にまみれて彷徨してきた日蓮正宗

 
日精が、常泉寺を天台宗から宗旨(しゅうし)替えさせたのが、寛永十五(一六一二八)年。常泉寺を帰伏(きぶく)させた日精の代は、釈迦仏造立(ぞうりゅう)の大謗法がおこなわれたが、そのおよそ四十年後においても、常泉寺にはさまざまな謗法が安置されていたのである。
 
この常泉寺のありさまを見るにつけ、釈迦仏造立などは大石寺門流の謗法の一角に過ぎないと思われる。当時、常泉寺同様の謗法まみれの末寺が、日蓮正宗にはたくさんあったにちがいない。
 
ちなみに、天英院が江戸に下ったのは延宝七(一六七九)年、大石寺貫首(かんず)は第二十一世日忍上人。天英院が逝去したのは、寛保元(一七四一)年、大石寺貫首は第三十一世日因上人のときであった。
 
なお、『日蓮正宗富士年表』は、常泉寺にまつわる謗法の事実を意図的に隠し記述している。
 
釈迦は法華経五百弟子受記品第八において、衣裏珠(えりじゅ)の譬えを教えている。衣裏珠の譬えとは、
 
「ある貧しい人が親友の家に行き、もてなしを受けて酒に酔い眠ってしまった。その親友は急ぎの公用のため、出かけなければならなくなり、無価の宝珠(ほうじゅ)と呼ばれる珠(たま)を熟睡する彼の着物の裏に縫い込んでいった。貧しい男は、それとも知らず、国々を流浪し、貧窮した姿で再び親友を訪れた。親友はそれを見て驚き、宝珠のことを聞いた。その人が着物の裏を調べてみると宝珠があり、豊かな生活をすることができるようになった」(『新版仏教哲学大辞典』聖教新聞社刊より引用)
 
ということである。
 
この説話に出てくる、着物の裏に縫い込まれた宝珠を知らないで貧しいまま放浪する男と、宝珠が自身の着物にあることを教えた男と、どちらが感謝される正統な対象だろうか。言わずと知れたことである。
 
それにしても、釈迦の説法で、宝珠が着物の裏にあることを教えた男と、宝珠を着物に縫いつけた男と同一人物とされていることは実に興味深い。今日の創価学会と日蓮正宗の関係が、そのまま当てはまる説話である。
 
この釈迦の教えは、衆生(しゅじょう)に本より仏性(ぶっしょう)が備わっていることを示したものだが、日蓮正宗が謗法にまみれて七百年もの問、彷徨(ほうこう)してきた史実は、衣裏に宝珠があるのも知らず放浪した男の姿を彷彿(ほうふつ)させる。無論、宝珠の存在を教えたのは創価学会である。

 

邪宗の最高幹部に御開扉させた日布

謗法厳戒という意識がはなはだ低かった日蓮正宗

 
戦前、日蓮正宗の機関誌である『大日蓮』(昭和十年三月号)に、「日布上人をしのび奉(たてまつ)りて」と題する一文が掲載されている。そこには、日布が国柱会幹部や未入信者の宗教学者に対し、戒壇の大御本尊の御開扉(ごかいひ)をしたという記述がある。
 
「ある時姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生が登山されたことがあつた。上人の御導師で戒壇の御本尊の御開扉、終りて徐(おもむ)ろに参詣者に向直(むきなお)られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、佛祖三寳(さんぽう)も御滿悦(ごまんえつ)のことゝ存ずる。各々が無始以來の罪障(ざいしょう)消滅(しょうめつ)現當(げんとう)二世(にせ)の所願滿足と厚く御祈念申上げました。南無妙法蓮華経』と一拶された」(『大日蓮』昭和十年三月号)日布は、第五十五世で明治七年十二月に登座し、明治十八年六月に隠尊(いんそん)、大正八年三月に死去した。
 
それでは御開扉を受けた、「姉崎博士」「山川」「長瀧」なる人物は、どのような人々であろうか。
 
「姉崎博士」とは、言うまでもないが、高名な宗教学者である姉崎正治博士のことである。略歴を型どおりつづると、明治二十九年、東京帝国大学哲学科卒業。以降、宗教の発展を研究し、明治三十三年に東京帝国大学助教授となる。
 
明治三十八年には東京帝国大学に宗教学講座が開設されたが、その担任教授となった。昭和五年には日本宗教学会会長就任。姉崎博士は文字どおり日本宗教学の草分け的存在であり、重鎮(じゅうちん)であった。
 
その姉崎博士が、どのような経緯から国柱会の幹部と総本山大石寺に登山したかは不明だが、いずれにしても『大日蓮』の記述のとおり、御開扉を受けたのである。

 
一方、国柱会の「山川」「長瀧」とは、どのような人物だろうか。
 
国柱会幹部の「山川」とは、山川智応のことと思われる。山川智応は、明治十二年生まれ。明治二十六年に田中智学の立正安国会に入り、明治三十二年より田中智学の師子王文庫において活動。田中智学の直弟子である。「長瀧」とは山川智応と同様、田中智学の直弟子である長瀧智大のことと思われる。「山川」「長瀧」ともに国柱会の中枢(ちゅうすう)幹部である。
 
田中智学は十歳のとき(明治三年)、日蓮宗妙覚寺の河瀬日進に師事し得度(とくど)。明治十二年には日蓮宗を離れ還俗(げんぞく)。明治十七年に立正安国会を設立、布教活動をする。大正三年に国柱会を設立し、その開祖となる。以降、皇室重視の国体を宣揚する運動に傾いた。
 
国柱会は、本尊を佐渡始顕(しけん)の曼茶羅(まんだら)としている。所依(しょえ)の経典は法華経である。明治四十年よりは、日蓮宗身延山の輪番奉仕(りんばんほうし)などもしている。
 
断るまでもないが、国柱会と日蓮正宗の間には縁もゆかりもない。国柱会は、いわば日蓮宗身延派から分派した在家の仏教教団である。日蓮正宗からみれば、国柱会は明らかに邪義を立てている。
 
その邪宗の最高幹部二名に御開扉を受けさせたというのだから、当時の日蓮正宗にあっては、諺法(ほうほう)厳戒(げんかい)という意識が実に低かったのだと断定せざるを得ない。

 

御開扉を受けた姉崎正治博士
御開扉を受けた姉崎正治博士
 

 

御開扉を受けた国柱会幹部・山川智応
御開扉を受けた国柱会幹部・山川智応

 
この御開扉がおこなわれた年月を特定するのは、はなはだむずかしいが、推測すれば、国柱会が結成された大正三年から日布が死去した大正八年の問ということになるだろう。
 
昭和十年三月号の『大日蓮』においては、先に引用した文につづいて次のように記述されている。
 
「諸先生方は驚いたかも知れぬ。しかし上人よりして見れば當時高名な先生方も、學者も富豪も、村翁(そんおう)野媼(やおう)も擇(えら)ぶ所なく等しく佛子、等しく導びき等しく語るべきなりとせられたに違ひない。賢(けん)不肖(ふしょう)、貧富(ひんぷ)、老少(ろうしょう)、美醜(びしゅう)等に於て一異の相を見ざる所に超(ちょう)脱性(だつせい)が輝く。吾人は此の超脱性に封して等しく頭を下げさせられる。難有といふ宗教的情操はこんな所にあるのだな……と自分はツクヅク感じたことであつた」(同)
 
日布が邪宗の最高幹部をも「仏子」として遇したと賞賛しているのだが、謗法を責めずして詐(いつわ)り親しむことは、宗祖日蓮大聖人の固く誡(いまし)められたことである。その信心のイロハが、当時の日蓮正宗には失われていたのである。日蓮正宗機関誌にこのようなことを堂々と書いても、何ら問題にされることもなかったのだ。
 
隠尊(いんそん)であった日布みずから邪宗の最高幹部に御開扉を受けさせ、「各々ヨウコソの御登山、佛祖三寳も御滿悦(まんえつ)のことゝ存ずる」とは、実に恐れ入ったことである。
 
謗法に染まった日蓮正宗を、創価学会が今日に至るまで浄化してきたことが、この一事をもっても理解されるのである。いま日顕宗は、国柱会幹部が登山したのは日蓮正宗に恭順(きょうじゅん)してのことだと、歴史的裏づけのない反論をし、あまつさえ御開扉させるかどうかは“法主”の権能であるとしている。“法主”を、日蓮大聖人を超える“生き仏”として位置づけているのである。宗開両祖の教えは、早くも大石寺より失せてしまったようだ。
 
邪宗の者たちに御開扉をした第55世・日布
邪宗の者たちに御開扉をした第55世・日布
 

統合帰一・立正大師号宣下(せんげ)・勅額(ちょくがく)降賜(こうし)

謗法と同座し、統合帰一をすすめようとした日正・日開

 
日蓮宗各派が合同して日蓮大聖人に「大師(だいし)」号を天皇より賜りたいと運動した結果、大正十一年十月十三日、「立正大師」との大師号が宣下(せんげ)された。
 
これによって日蓮正宗を含めた日蓮宗各派は、“宗祖も「伝教大師」「弘法大師」に比肩しうる”と喜んだのである。
 
そもそも、天皇より大師号を宣下してもらおうと言いだしたのは、顕本法華宗の本多日生である。大正十年の聖誕(せいたん)七百年の年に、本多は大師号宣下を奏請(そうせい)しようと思いつき、国柱会総裁の田中智学に相談した。
 
田中智学は、「第一義悉壇(しつだん)」(仏が根本の真理を示し、真実の妙理に入る利益を与えること)からすれば請願するべきではないが、「世界悉壇」(世間の衆生が聞くことを願い欲するところとにしたがって法を説き、世間の正見(しょうけん)を得させること)の立場にのみおいて賛成するとした。本多日生は、この田中智学の見解に勇気づけられ、日蓮宗各派管長に呼びかけ、東郷平八郎、犬養毅などを発願者として請願運動を起こす。
 
この大師号宣下に見られるような日蓮宗各派協調の動きは、この大正十一年に唐突に起きたものではない。
 
これより前、大正初期から日蓮宗の池上本門寺に日蓮宗各派管長が「統合帰一(とうごうきいつ)」に基づいて集まっている。そのとき、この池上本門寺での「管長会議」を記念して写真撮影をしている。
 
この写真は『日宗新報』(大正三年十一月二十二日号)の表紙を飾っている。残念ながら当方の入手した写真は不鮮明なため掲載しないが、参考までに、『日宗新報』の写真説明を紹介しておく。

 

「〔管長會議記念撮影〕十一月八日池上にて
 
後列右より
 
阿部法運(日蓮正宗)
 
野口日主(顕本法華宗)
 
酒井日愼(日蓮宗)
 
梶木喜遠(本門法華)
 
坂井日受(法華宗)
 
近藤日侃(法華宗代理)
 
井上正山(本門宗)
 
前列右より
 
長谷川日感(本妙法華宗管長)
 
本多日生(顕本法華宗管長)
 
瀬島日濟(本門宗管長)
 
小泉日慈(日蓮宗管長)
 
阿部日正(日蓮正宗管長)
 
藤原日學(法華宗管長代表)
 
森智孝(本門法華宗代表)」
 
写真はやや不鮮明ながらも、写真説明のように前列後列に別れ、各派管長が並んでいる。日蓮正宗の薄墨(うすずみ)の衣が際立って見える。まぎれもなく謗法との同座である。
 
日正、阿部法運(のちの日開)は、五老僧の末裔(まつえい)らと野合(統合帰一)するために日蓮宗の池上本門寺をすすんで訪れ、謗法と同座し、統合のための具体的手続きを煮詰めていたのだ。
 
同月二十四日には各派の代表が集まり、第一回統合準備委員会が開かれている。
 
大正三年十一月八日、日蓮宗の池上本門寺に日蓮宗各派の管長が集まり、日蓮宗各派の「統合帰一」が話し合われ、各派の総意をもって「統合帰一」の基本方針が確認された。
 
この池上での「管長会議」には、総本山第五十七世日正、阿部法運が、日蓮正宗として参加。日正も「統合帰一」に賛同し署名した。
 
この後、「統合帰一」の基本線に沿い、同月二十四日には具体的な「統合帰一」のプロセスを練るために、各派合意のもと「第一回統合準備委員会」も発足した。だが、この「統合帰一」の動きは、まもなく破綻した。
 
しかしその後、日蓮宗各派の間に、「統合帰一」への動きが完全にとだえたわけではなかった。
 
日本は日清、日露戦争を勝ち、第一次世界大戦でも勝利をおさめる。この戦勝国日本のバックボーンをなす近代天皇制のもとで、各派が「統合帰一」して国運隆昌(りゅうせい)にひと役買おうとの時代的気運があったのだ。
 
天皇の御心(みこころ)に従い、聖旨(せいし)に報いんとする大義名分(たいぎめいぶん)に基づき、「統合帰一」の必要が叫ばれつづけたのである。それは、日蓮大聖人の教法に基づいた、教義的な純粋性を求める帰結としての団結ではない。ただ四分五裂(しぶんごれつ)の日蓮宗各派のありさまでは、日蓮宗総体がことごとく時代的貢献をなしえず、念仏、真言、禅などの他宗派に比べ相対的に社会的地位を失っていくとの危惧(きぐ)に由来するものであった。また明治維新以来、勢いを強める神道に対する焦りもあった。
 
いうなれば、近代天皇制のもとにおいて、自宗派がいかに確固たる地位を占めるかといった焦燥に基づく行動でもあったのだ。
 
それだけに、江戸時代以来つづいていた謗施をめぐる受派と不受派の深刻な対立も、教義上の決定的な相違も不問に付したまま、野合の動きを表面化することができたのだ。
 
その思想性のなさを象徴する動きのはしりが、大正三年十一月八日の「管長会議」である。
 
そこで決められた「統合帰一」の動きは、いったんは破綻したものの、天皇を頂点とする社会体制の中で確固たる地位を獲得しようとする日蓮宗各派の思惑により、その後、何度も浮上したのである。
 
謗法の僧らと仲よく記怠撮影した日正
 
池上本門寺での「管長会議」以降において、その顕著な動きとしてあげることができるのが、「立正大師」号をめぐる動きであった。
 
大正十一年九月十一日、「日蓮門下各派」の管長は連名で、天皇より日蓮大聖人に大師号を賜りたいと請願する。すなわち、「伝教大師」「弘法大師」などと同様の「大師」号がほしいと連署して願い出たのである。
 
「日蓮聖人大師号降賜(こうし)請願」と題する請願書に署名した各派管長は以下のとおり。
 
日蓮宗管長大僧正河合日辰
 
日蓮正宗管長大僧正阿部日正
 
顕本法華宗管長大僧正本多日生
 
本門宗管長大僧正瀬島日濟
 
本門法華宗管長大僧正尾崎日暲
 
法華宗管長大僧正津田日彰
 
本妙法華宗管長大僧正清瀬日守
 
日蓮宗不受不施派管長一等上座釈日解
 
日蓮宗不受不施講門派管長事務取扱権大僧正佐藤日柱
 
この請願書に応え、同大正十一年の十月十日、宮内省より「日蓮宗宗祖日蓮へ諡號(しごう)宣下(せんげ)候間來(きた)ル十三日午前十時參省(さんしょう)可有之(これあるべく)候也」との知らせが、各派管長宛に届いた。
 
日蓮大聖人御入滅(にゅうめつ)の日にあたる同年十月十三日、日蓮宗管長磯野日筵、日蓮正宗管長阿部日正、顕本法華宗管長本多日生、本門法華宗管長尾崎日暲、本門宗管長瀬島日濟代理井上日光、法華宗管長津田日彰代理荒川日治、本妙法華宗管長清瀬日守代理蓮池順良、日蓮宗不受不施派管長釈日解代理鷲日耀の八人は、宮内省に参省した。
 
宮内大臣より宣下(せんげ)書が各派管長に下された。大師号は「立正大師」とされた。添え状には次のように書かれていた。
 
「日蓮宗各派管長
 
今般特旨ヲ以テ其宗宗祖日蓮へ大師号宣下候事
 
大正十一年十月十三日
 
宮内省」
 
「宣下書」および添え状を下された後、各派管長を代表して、顕本法華宗管長の本多日生が宮内大臣より「謹話(きんわ)を承り」、一同は宮内省を退出、築地の水交社に向かった。
 
水交社とは、海軍将校のために社交・共済を目的にした団体である。同様なものとして、陸軍には偕行社があった。この築地の水交社で、日蓮宗管長の磯野日莚を導師として後の七人がそれに従い、寿量品を読経(どきょう)し唱題をおこなった。

 

日蓮宗管長の磯野日莚の導師で読経・唱題をする日正

 

さてここで歴史的な写真を紹介しよう。
 
「血脈(けちみゃく)相承(そうじょう)」「法水(ほっすい)写瓶(しゃびょう)」「富士の清流」「七百年の伝統」「本宗本来の化儀(けぎ)化法(けほう)」あるいは「謗法(ほうぼう)厳戒(げんかい)」―日顕宗の悪侶らが、信徒を従属(じゅうぞく)させるために使う、こうした常用句(じょうようく)がいっぺんにふっ飛んでしまう写真(下)である。
 
前列右から紹介しよう。顕本法華宗管長の本多日生、日蓮正宗管長の阿部日正、日蓮宗管長の磯野日筵、本門法華宗管長の尾崎日暲。後列は、それぞれ管長の代理で出席した本門宗、法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派の者たちである。
 
要するに日蓮正宗の総本山第五十七世日正が、謗法の僧たちと仲むつまじく写真におさまった謗法同座(どうざ)の証拠写真なのだ。
 
日蓮正宗“法主”の阿部日正が、日蓮宗管長の磯野日筵と顕本法華宗管長の本多日生との間に立って写っている、この写真は、宣下書を下された大正十一年十月十三日に撮影されたもので。撮影場所は水交社前と思われる。

 

邪宗の者らと記念撮影におさまった日正(前列右から2人目)
邪宗の者らと記念撮影におさまった日正(前列右から2人目)
 

金口(こんく)嫡々(ちゃくちゃく)唯授一人血脈相承を受けて登座しても、日蓮大聖人の生命も日興上人の精神も自動的には流れはしない。肝心なのは、本人の信心である。
 
阿部日正は、翌大正十二年八月十八日に死去した。大師号を請願(せいがん)した大正十一年の秋に下顎(したあご)にできた腫瘍が悪性のもので、翌年に死去したのである。“法主”であっても謗法を犯せば仏罰厳然(げんぜん)たるものがある。
 
ここで注目されるのは、日蓮正宗の管長が邪宗日蓮宗の管長にしたがって勤行をしても、それが日蓮正宗内でなんら問題にされなかったことである。このことは、創価学会出現以前の日蓮正宗においては“富士の清流”などといった意識は、さらさらなかったことを示しているといっても過言ではない。
 
このように、立正大師号を天皇から宣下(せんげ)されるにあたって、身延はその中心的役割を担ったのだが、それによって江戸時代以来、身延が日蓮宗各派の盟主であることを印象づけることに成功した。

 

日蓮宗の勅額(ちょくがく)降賜(こうし)の念書に署名捺印した日開

邪宗日蓮宗が、昭和六年の日蓮大聖人六百五十遠忌(おんき)を直前にして「大師号」の宣下を思い立ったのは、天皇の威光にすがり昔日の勢いを盛り返そうとする意図があったのである。
 
大正十一年十月十三日におこなわれた築地水交社での自我偶、唱題の最中、日蓮宗の酒井日愼(当時日蓮宗宗務総監、大正十五年に日蓮宗管長)は、「立正」の勅額(ちょくがく)降下(こうか)奏請(そうせい)を決意したと後に回顧(かいこ)している。
 
当時、日蓮宗宗務総監だった酒井日愼が、立正大師号の「立正」の文字を天皇に直接書いてもらい、それを額に入れて身延山の「御廟(ごびょう)」(祖廟(そびょう)ともいう)に掲げようと目論(もくろ)んだのであった。
 
その「勅額」を降賜(こうし)されることで、宗祖六百五十遠忌における日蓮宗の儀式に、他派に抜きん出た権威づけをしようとしたのだ。
 
そのために酒井日愼は、六百五十遠忌を前に勅額を天皇より降賜してもらうために活発な運動を開始した。
 
主な動きを記すと次のようなものであった。
 
○昭和五年六月二十四日、酒井日愼は供の者二名を連れ、国柱会総裁・田中智学を訪ね、勅額降賜を請願したい旨を述べ、田中に請願文起草(きそう)を依頼する。
 
○昭和六年二月十六日を期して田中智学は、勅額降賜の請願文草案を書きはじめ、三月十五日に完成。

 

  • 同年三月十六日、田中智学は池上本門寺に日蓮宗管長・酒井日愼を訪ねる。最終的に草稿を推敲(すいこう)し、日蓮宗では鎌倉大巧寺住職・片野玄貞を浄書者(じょうしょしゃ)とする。
  • 三月十七日、池上本門寺にて日蓮宗管長・酒井日愼は草稿(そうこう)を最終承認。
  • 三月十八日、田中智学、草稿を持して身延山久遠寺を訪ね、身延山久遠寺法主・岡田日蹄に草稿を見せる。岡田、草稿を承諾し署名捺印する。このとき、請願文提出を四月三日神武天皇祭当日と決定。この日午後、「祖廟」前にて上奏する請願文を朗読し、唱題などをおこなう。
  • 四月三日早朝、二十六日間をかけ鎌倉大巧寺住職・片野は五千六百字の請願書浄書を完了。請願書は、「立正大師六百五十遠忌二際シ勅額降賜ヲ請願シ奉ル件」と題され「身延山久遠寺住職岡田日歸」名で上奏された。

 
請願書の中には、
 
「朝廷幕府亦(また)法勳ヲ嘉賞(かしょう)シテ優遇殊恩頻(しき)リニ加ハル就中(なかんずく)代々紫衣(しえ)ノ榮格(えいかく)ヲ身延ニ賜ヒテ勅額道塲ト爲シ享保五年五月靈元上皇ハ日蓮大菩薩五大字ノ宸筆(しんぴつ)ヲ吾身延ニ降賜(こうし)シタマヒ法國ノ契應時ト倶(とも)ニ漸(ようや)ク熟セントシテ去ル大正十一年十月十三日遂ニ立正大師號宣下ノ天恩

 

昭和6年3月16日の池上本門寺における会議(右端が田中智学、2人目が酒井日愼)
昭和6年3月16日の池上本門寺における会議(右端が田中智学、2人目が酒井日愼)
 

ヲ拝スルニ至ル然ルニ近時世態ノ惡變(あくへん)國情ノ荒亂(こうらん)日ニ甚(はなはだ)シク國難内外二蓬勃(ほうぼつ)シテ人心安キヲ喪(うしな)フ」
 
といった文も見える。
 
当然のことながら日蓮宗は、この勅額降賜をもって、身延山久遠寺を日蓮宗各派の中心にすえようと図ったのである。いわゆる、祖廟(そびょう)中心主義を近代天皇制の中で実質化しようとしたのだ。
 
いつの時代にも、権力に取り入ることにより権勢を保持しようとする、日蓮宗身延派らしいやり方である。江戸時代には徳川幕府の権力を背景に不受不施派を弾圧し、その本寺末寺の乗っ取りに狂奔(きょうほん)した身延派の姿が想起される。
 
勅額降賜の請願は、昭和六年四月四日久遠寺住職・岡田日露名で一木喜徳郎・宮内大臣宛に提出した。と同時に、同趣旨の請願を田中隆三・文部大臣にも出している。
 
この請願書上奏(じょうそう)後まもなく、文部省より日蓮宗各派管長に身延山久遠寺に勅額を下賜することについて承諾をもらうようにとの達しが日蓮宗に届いた。
 
日蓮宗庶務部長・妙立英壽はすぐさま日蓮宗各派を訪ねた。各派管長に、身延山久遠寺に勅額が降賜されることに異議がないとの念書に、署名させるためであった。
 
このときの念書は、次のようなものであった。
 
「念書
 
宗祖立正大師六百五十年遠忌(おんき)ニ際シ御廟所(びょうしょ)在地山梨縣身延山久遠寺住職岡田日歸ヨリ及請願候立正大師勅額御下賜ノ件ハ本宗ニ於(おい)テモ異議無之候條速(すみやか)ニ御下賜有之候樣御取(おとり)計(はからい)相成度(あいなりたく)候也」
 
この念書に署名捺印した管長は、日蓮正宗管長・阿部日開をはじめとして、顕本法華宗管長・井村日威、本門法華宗管長・神原日祐、本門宗管長・富士日堂、法華宗管長・岡田日淳、本妙法華宗管長・小澤日寛、不受不施派管長・繹日壽、不受不施講門派管長・佐藤日柱などであった。
 
日開は昭和六年六月十二日に署名捺印。「念書」は各派管長より文部大臣・田中隆三宛に差し出された。
 
日蓮大聖人の聖骨が身延にあると認めた日開
 
妙立の奔走(ほんそう)により、各派管長の「念書」がとりつけられるのであるが、この文部省の念書とりつけの要請の裏には、ある事情があった。この間の事情について、当事者の田中智学は『田中智学自伝』(師子王文庫)の中に、次のように記している。

 

当時の事情を詳しく知るために、少々長くなるが引用する。
 
「そこで願書を提出して、一面は宮内大臣に吾輩(わがはい)が會(あ)ッて、實地(じっち)についてよく一木宮相にも話した、願書は今文部省から此方に廻ることになッて居るさうだから、何(いず)れお手許(てもと)に來るに違ひない、其の節は御前宜(よろ)しく御執奏(しっそう)方をお願ひするといッたところが、自分は職についてまだ先例を知らないが、さういふ例があるかないかといふ事であッたから、それは幾らもある、勅額を下賜(かし)された例は明治天皇の御時代にも道元輝師に承陽大師の勅額を賜はり、宇治の黄蘗(おうばく)山にも勅額を賜はッた例があるといッたらさういふ先例があれば取扱ひ上差支へないと思ふから、充分に力を盡くします、又日蓮聖人に封しては勅額を賜はるといふことは然るべき事と自分も考へるといふ挨拶であッた。
 
それから宮内省で調べて、日蓮聖人の墓は全く身延にあるかといふことを尋ねて來た、それは事實がこれを證明して居るから其の趣きを答へた、然るに日蓮門下の各教團に封して、宮内省から日蓮聖人の墓が身延にあるに相違ないかといふことを、各派の管長に向けて諮問した、これは若し苦情が出ると、宗派の事は昔からよく爭論が起り易いから、宮内省でも愼重の態度を取ッたのであらう、ところがこれは事實それに違ひないから、何(ど)の派の管長も師日蓮聖人の墓は身延に相違ないといふことを申上げたので、一ぺんに埒(らち)があいた、そして其の通知が、大聖人が身延にお入りになッた式の開闢會(かいびゃくえ)といふのがあッて、其の開闢會の日に宮内省から電報が來た」
 
文部省は勅額降賜にあたり、日蓮大聖人の墓が身延山にあることを、他の日蓮宗各派が認め、身延山久遠寺への勅額(ちょくがく)降賜(こうし)に皆が賛成するということが、絶対に必要な要件であると考えていたのだ。そのため、各派管長に「念書」を提出することを要請したのだった。
 
○昭和六年六月二十三日、宮内大臣・一木喜徳郎より文部大臣・田中隆三に、勅額下賜の内達がある。
 
○同年六月二十六日、文部省宗教局長・西山政猪より日蓮宗管長・酒井日愼宛に勅額下賜(かし)が伝えられる。日蓮宗身延派は、全国の寺院僧俗に「勅額拜戴式」の準備にかかるよう通達。
 
勅額降下の決定の知らせに欣喜(きんき)雀躍(じゃくやく)した日蓮宗は、七月二十八日に管長名で日蓮宗僧俗に対し「諭達」を出した。その「諭達」の中に、日蓮宗の勅額降賜に対する本音が記されているので、その一部を紹介する。
 
「高祖(こうそ)の大廟(たいびょう)は、一宗唯一つありて二なく三なきもの。洵(まこと)に擧宗渇仰(かつごう)の中堅にして、無過上の靈鎮(れいちん)たり。故を以て高祖滅後幾干もなく、六老中老相議して、守塔輪番の制を定め、常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)の嚴規(げんき)を立つ。後年輪番制を常住守塔制に改めたるも、延山住持は、尚塔頭の職を以て任とす、即ち延山の廟にあらず一宗の本廟なるが故なり」
 
身延が勅額降賜の気運に乗り、祖廟(そびょう)をもって日蓮宗各派の要(かなめ)にしようとの野心がありありとうかがわれる。この日蓮宗の目論(もくろ)みに、やすやすと手を貸した日蓮正宗管長・日開なるものがいたことは、実に残念なことであった。
 
阿部日開は、身延に「立正」と書かれた「勅額」が降賜されることに反対しないばかりか、日蓮大聖人の墓が身延にある、すなわち日蓮大聖人の聖骨が身延にあることすらも「念書」まで差し出し認めたのである。

 

信心もなく、身延の策動に乗せられた日開の罪は深い

 

  • 同年九月十八日、宮内省より身延山久遠寺住職・岡田日蹄宛に「御召状」が出され、勅額拝受のため十月一日に宮内省に出頭するよう伝えられた。

 
十月一日、宮中に参内(さんだい)した日蓮宗管長・酒井日愼、身延山久遠寺住職・岡田日歸ら十数名は、「立正」の勅額(ちょくがく)を下賜(かし)された。勅額を奉持(ほうじ)して、宮城外で六千余名の日蓮宗僧俗と合流、池上本門寺まで行列をした。池上本門寺では式典が盛大におこなわれた。
 
同日午後十一時二十分と五十五分に、特別の臨時列車が東京駅を出発した。午後十一時五十五分の列車に勅額は乗せられた。この臨時列車は富士駅を経て午前三時四十分に身延駅に到着。富士駅から身延駅までの身延線各駅では、身延の檀信徒が団扇(うちわ)太鼓(だいこ)をたたき唱題し、沿線は勅額奉讃(ほうさん)一色となった。
 
翌十月二日、身延山の棲神閣(祖師堂)において式典がおこなわれ、勅額は祖師堂に据えつけられた。この十月一日、二日にわたる池上、身延での式典の模様は、当時のマスコミ各紙により大々的に報じられた。

 

池上本門寺の山門を通過する行列
池上本門寺の山門を通過する行列

 

身延への臨時列車の車中
身延への臨時列車の車中

 

身延山久遠寺の三門に到着した一行
身延山久遠寺の三門に到着した一行

 
宗祖日蓮大聖人六百五十遠忌を彩る国家レベルの行事として、身延山久遠寺への勅額降賜はおこなわれたのである。一方、富士大石寺における六百五十遠忌は、地元消防団の協力による細々としたものであった。
 
勅額降賜は、日蓮宗が天皇の威光をもって祖廟(そびょう)中心主義を打ち固めようとした一大イベントだったのだ。
 
ここまで勅額降賜をめぐる日蓮宗の動きを詳述してきたのは、勅額降賜が祖廟中心主義をもって日蓮宗各派を束ねようとする日蓮宗身延派の政策によりおこなわれてきたことを、事実経過の上で確認するためであった。
 
すると、この日蓮宗身延派の策動に乗せられ、信仰信念もなく安易に同調してしまった第六十世日開の罪の深さが判然。明らかな謗法与同であり、ひいては墓輪番さえもないがしろにした五老僧の罪を曖昧にすることにつながる。
 
日開は、身延山久遠寺には御聖骨もなければ御廟(ごびょう)もなし、御廟なき所に勅額は無用と主張すべきだった。身延山久遠寺では、「祖廟」について次のように説明している。
 
「遺言にしたがって建立された日蓮聖人の廟墓(びょうぼ)で、塔中に入滅時に建立された五輪の墓を収め、地下の龕室(がんしつ)に御霊骨を奉安(ほうあん)する。祖師の廟墓なれば祖廟と称し、恋慕(れんぼ)渇仰(かつごう)の宗徒の参詣、日夜にたえない」(『身征山久遠寺』身延山久遠寺発行)
 
日蓮宗が「祖廟」を「廟墓」とも称し、「御霊骨を奉安する」としているかぎり、その「御廟」の所在を身延山久遠寺であると公に認め、文部大臣宛に「念書」を提出した日開の行為が、開祖日興上人に容認されるはずはない。
 
日淳上人の「祖廟中心主義の論を破す」(『日淳上人全集』下巻所収)の一部を抜粋(ばっすい)紹介する。この日淳上人の文を一読すれば、日開の犯した「念書」の過ちも歴然とする。

 

身延の祖廟に掲げられた「立正」の勅額

身延の祖廟に掲げられた「立正」の勅額

 
「世上に於て日蓮大聖人は身延山に御住居遊ばされ、久遠寺を建立し給ひ、尚墓所をば身延の沢に建つべしと仰せられてをるから大聖人御棲神(せいしん)の地は身延山であるとして日蓮門下に於ては身延山を中心としなければならぬといふ説がある。此の説は身延山が大聖人の御旧蹟(きゅうせき)であるといふことから一般世人の耳に入りやすく近来稍々(やや)もすると此説に雷同するもののあるのを散見する。
 
此等の説は一見人情の然らしむるところであつて深く問題視するには当らぬと考へられるが若し一歩立ち入つて考へるならば大聖人の教義の混濁は此処に原因するのであつて厳に批判して此の説を根絶しなくてはならない。何故かなれば身延山を旧蹟として尊重するものはその山に於ける混濁(こんだく)した本尊と教義とを許容し賛同するものであつてその事が大聖人に違背し奉り謗法の第一歩となるからである」
 
すなわち日淳上人の論に随えば、日開は身延を「祖廟」と認め、「大聖人に違背し奉り謗法の第一歩」を踏んだということになる。
 
この日蓮宗身延派が勅額降賜の「栄」に浴したことについて、日蓮正宗側はどのような気持ちを抱いていたのだろうか。
 
日蓮正宗機関誌『大日蓮』などには、勅額についての記述はない。「念書」提出の事実についても秘しているようだ。末寺である妙光寺の『妙の光』という新聞に、関連する記述をわずかに認めることができるので、その全文を紹介しよう。
 
「單稱(たんしょう)日蓮宗の本山身延山へ、勅額が下ることになり、關係者が準備協議中のこと、宗門が大きいが故に、そして社会的に活動して居るが故に、この有難い御沙汰(さた)を身延派が拜受(はいじゅ)することは、大聖の正統を傳(つた)へ、教義の眞正を誇る本宗僧俗として三考を要する事柄(ことがら)と思ひます」(昭和六年六月十六日号)
 
身延に勅額が降賜されたことに対する悔しさをうかがうことができる。だが、末寺数五十程度の弱小教団である日蓮正宗としては、身延に対抗しても一笑(いっしょう)に付される程度の存在でしかなかった。
 
それにしても、自派の管長である阿部日開が「念書」を提出したことが、身延への勅額降賜の一助となったことは、この記事の執筆・者はおそらく知らなかったのではあるまいか。
 
よくよく考えてみると、阿部日開の「念書」提出は、宗開両祖に対し汚物(おぶつ)を投げつけるようなものであり、すべての仏弟子に対する裏切りである。
 
いったい日開は、日興上人が一大決心をもっておこなわれた身延離山を、どのように受けとめていたのだろうか。なぜ、邪宗日蓮宗にこれほどまでに媚びへつらおうとするのか。そもそも、大石寺に伝わる「御聖骨」を何と思っていたのだろうか。
 
それはさておき、日開が身延にへつらって「念書」を提出したことで、日蓮正宗僧俗はこぞって恥辱(ちじょく)を受けたも同然となった。この恥をそそいだのは、創価学会である。
 
戦後、戸田会長の指揮の下に果敢な折伏戦を展開していた創価学会は、その教線を北海道小樽まで伸ばしていた。この小樽で、創価学会と日蓮宗身延派との法論がおこなわれたのは、昭和三十年三月十一日のことである。
 
このとき、創価学会は邪宗である日蓮宗身延派を徹底的に論破し、法論に勝利したのだ。
 
ここに初めて、室町、江戸を経て昭和の時代までつづいた、大石寺に対する身延山久遠寺の優位を打ち崩すことができたのである。

 

 

身延の邪義を破した小樽法論(右端が当時、司会をした池田名誉会長)
身延の邪義を破した小樽法論(右端が当時、司会をした池田名誉会長)

 

“法滅の妖怪”・第六十世阿部日開

大正から昭和初期にかけての宗内抗争の元凶(げんきょう)が日開

日顕の父・総本山第六十世日開は、大正から昭和初期にかけての日蓮正宗における、猊座をめぐる内部抗争の元凶(げんきょう)であった。第一章で記したように、総本山第五十八世日柱上人を引きずり降ろしたクーデターの黒幕は、日開である。
 
大正十四年、阿部法運は宗門ナンバー2の「総務」の地位にあったが、日柱上人によって辞職させられ、僧階も「能化(のうけ)」より降ろされてしまった。「能化」から降格させられると、法主になる資格がなくなる。阿部法運の失望は、大変なものがあったろう。また、日柱上人に対する恨みも、余人の想像を超えるものがあったのではないだろうか。
 
阿部法運が総務職を降ろされた表だっての理由は、宗教専門紙『中外日報』(大正十四年六月二十一日付)に掲載された、駒沢大学教授・清水梁山の談話に反論したことによる。清水梁山は当時、「日蓮宗界の学匠(がくしょう)」とされていた人物で、身延派の僧籍(そうせき)にもあったようだ。
 
この清水は、戒壇の大御本尊を否定する目的で、「祖師の日蓮聖人には、特にこれが本尊だと言って拝(おが)む可(べ)きものは何も無かったのである」と、日興門流としては決して認めがたい邪説を述べている。
 
阿部法運が、その清水の弁に反論することは至極(しごく)当然のことだったが、その反論の内容が、かえって清水らの好餌(こうじ)にされてしまったのである。
 
阿部法運は、日蓮正宗機関誌『大日蓮』(大正十四年七月号)に、「清水梁山氏を誡(いまし)む」と題する文を六ページにわたり掲載した。これが日蓮正宗内で問題にされることとなったのだ。

 

問題にされた箇所の一部を紹介する。
 
「故に宗祖の玉はく佐渡已前(いぜん)の法門は但(た)だ佛(ほとけ)の爾前經と思召(おぼしめ)せ云云との玉はれて佐渡已前に於(おい)ては。専ら只だ禪(ぜん)念佛等を破し玉ひ。眞言(天台眞言を含む)等には及び給はぬ」
 
「宗祖大聖人佐渡御流罪中は尚(なお)身業(しんごう)讀誦(どくじゅ)中にあらせらるゝを以て。破顯(はけん)の法門未だ充分に顯(あら)はされ給はぬ。
 
從つて未だ三大秘法の名目すら御示しなされてない」
 
日蓮大聖人が佐渡以前において、真言宗への破折をされていることは日蓮門下の常識である。また、竜ノ口の発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)後の佐渡期を「尚身業讀誦中」であるとして、重要法門を明かさなかったという論拠にすることは、はなはだしい妖説(ようせつ)といえる。
 
阿部法運の書いた「清水梁山氏を誡(いまし)む」という文は、そのほかにも随所に珍論、奇論が述べられている。この阿部法運の論は教義に違背(いはい)しているばかりか、他の宗派から物笑いの種とされたのだった。日柱上人が、阿部法運を「能化」から降格されたのも無理からぬことであった。
 
だが、阿部法運を「総務」の職からはずした理由は、法運が、この清水梁山の邪説に反論するにあたり、珍奇(ちんき)な教義違背の論を立てたということだけではなかった。
 
阿部法運は、日蓮正宗ナンバー2の高僧でありながら、行躰(ぎょうたい)はすこぶる悪かった。阿部法運が総務職から降ろされた理由は、表だっては清水との教義論争に異説をもって臨んだことになっているが、裏には行躰の乱れがあったのである。表の理由は単に口実で、行躰の乱れこそ、職を解かれ僧階を降ろされた真実の理由と思われる。
 
それを象徴するのが、阿部法運にまつわる隠し子の問題だ。阿部法運は、総務職にあるとき、隠し子をつくっている。大正十一年、法運四十九歳、相手の女性が二十六歳のときである。僧でありながら女犯(にょぼん)をした阿部法運は、実に破戒(はかい)僧だったのだ。
 
阿部法運は女犯をし、二十三歳も年下の女性に子供を生ませたが、女犯の罪が発覚することを恐れ、生まれた子供を認知もしなかった。この阿部法運が、隠し子をつくった六年後、権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)の末、日蓮正宗総本山第六十世として登座、日開と名乗るのである。
 
日興上人御遺誡置文に曰く。
 
「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁(じん)に於ては設い一旦の妖犯(ようはん)有りと雖(いえど)も衆徒に差置く可き事」
 
阿部法運の行状(ぎょうじょう)は、開山上人の御遺誡をも踏みにじるものであった。宗開両祖以来の正統嫡々(ちゃくちゃく)の血脈相承を受けたと高言する“法主”が、女犯(にょぼん)をし隠し子をもうけている破戒僧であったとは、御本仏をあざむくものである。

 
まさに、時は末法、“法主”は“法滅の妖怪”とは、このことである。
 
ちなみに阿部法運(明治六年八月二士二日生)は、十五歳当時(明治二十一年)に結婚し、一年余で離婚した。結婚した直後の明治二十二年七月に、阿部法運は得度した。得度の背景には、痴情(ちじょう)のもつれがあるとされる。阿部法運は明治二十三年、十六歳のときに離婚している。したがって、出家後まもなく阿部法運は「独身」となったのである。
 
日開は猊座に登るやすぐさま信夫(日顕)を認知した
 
話をもとにもどそう。阿部法運は女犯の破戒僧であり、問責(もんせき)を受けて当たり前の身でありながら、日柱上人の善導(ぜんどう)を逆恨(さかうら)みし、日柱上人を猊座より引きずり降ろすことを、すぐさま画策(かくさく)し始めた。
 
過ちを指摘されるや逆恨みし、逆上して攻撃をする。親の阿部法運も、子の日顕もよく似た習性を持っている。
 
阿部法運が失脚させられたのは大正十四年七月だが、その直後に日蓮正宗宗会の多数派工作を開始し、四カ月後の十一月には衆を頼んで、いったんは日柱上人にを表明させ、翌年にはクーデターを完了し、日柱上人を追放する。
 
阿部法運は、行躰(ぎょうたい)はすこぶる悪いが、密謀と政治手腕はなかなかのものがあった。なお、当時の日蓮正宗における派閥(法類と血族の混淆(こんこう))間の争いは、今日の比ではなく熾烈(しれつ)をきわめていた。猊座をめぐって、脅迫や金のやりとりが横行するほどに腐敗していたのだ。
 
阿部は、いったんは日亨上人に猊座を継がせるが、権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)と腐敗選挙の末に、昭和三年六月、ついに“法主”となる。阿部日開は、狙座に登った直後、それまで認知していなかった我が子、信夫を認知した。信夫が生まれたのは大正十一年十二月十九日。認知したのは昭和三年六月二十七日で、信夫が満五歳のときだった。信夫は、得度して信雄を名乗り、のちに猊座に登り日顕となる。
 
阿部日開が、信夫を産ませたのは、常泉寺に当時勤めていた彦坂スマという女性だった。日顕は、昭和五十四年八月八日におこなわれた日達上人の第初七日忌御題目講にあたり、次のように当時を追憶(ついおく)している。
 
「猊下(注=日達上人)の履歴(りれき)を拝しますと、最初に得度の前にお寺に上がっておられたのが、東京の常泉寺で、それから二・三年して日正上人の徒弟として出家得度を遊ばされて、その後でまたもう一辺常泉寺へおいでになって、在勤されているように思われますが、その時に丁度私の母親も、開師のおそばにおりましたので、常泉寺のまあ台所の方で働いておった訳で(以下略)」(『大日蓮』昭和五十四年九月号)
 
日達上人が、所化で常泉寺に在勤したのは大正十一年のことである。日顕の追憶によれば、この大正十一年の時点で、彦坂スマは「常泉寺のまあ台所の方で働いておった」ということになる。
 
日顕が生まれたのは同年十二月だから、日開(当時四十九歳)は台所で働いていたうら若い女性(当時二十五歳)と男女の関係を持ったことになる。明らかに女犯(にょぼん)であり、日開は破戒僧ということになる。
 
なお、彦坂スマの母、彦坂ぶんは正規の結婚は数カ月で、離婚後、独身のままでスマともう一人の男の子を産んでいる。男の子は、スマにとっては異父弟(いふてい)にあたる。異父弟は父に認知されているが、スマは誰からも認知されていない。

 
スマと日開の間に生まれ“法主”となった日顕         
スマと日開の間に生まれ“法主”となった日顕

 

彦坂スマ(出家して妙修と名乗る)と母ぶん(左)
彦坂スマ(出家して妙修と名乗る)と母ぶん(左)
 

彦坂スマは、二十歳のときに日蓮正宗に帰依したようで、それまでには天理教、キリスト教、国柱会などの宗教遍歴(へんれき)がある。彦坂スマは、生まれた境遇によるのだろうか、十代後半より宗教に興味を持っていたようだ。
 
彦坂スマが常泉寺に勤め始めたのは大正十年、二十四歳のときだった。このとき、阿部法運は四十八歳である。

 

日與上人の御遺誡を守ろうとする僧など日蓮正宗には一人もいなかった
 
この阿部法運が住職をする常泉寺の当時の様子を伝える文書がある。昭和二年十二月、阿部法運と管長選挙を争った有元廣賀派が、昭和三年三月十三日付で「聲明書(せいめいしょ)」を出している。その中に、阿部法運の行状に関して次のような記述をし、阿部の管長就任(しゅうにん)に反対している。
 
「勿論(もちろん)二三十年前の本宗ならば法義に暗い未熟者には、能化の位を授け優等寺院には住せしめて置ないのである。然に阿部師はテンゼンとして常泉寺に住し、妻子奴僕(ぬぼく)の愛惑(あいわく)に囚はれてゐるさへ不思議なるに、宗開兩祖の御顔に泥を塗り、知らざる眞似して管長法主たらんと劣惡なる運動したのである。之で何で宗旨教理の疑義を裁定することが出來ませうか、一宗僧俗の監督が届きませうか、我等は常泉寺々庭のビンランを見、阿部師の不學未熟に鑑(かんが)みて、之は出來ぬ相談である。宗門の不祥事(ふしょうじ)であると思ふのであります」
 
有元派の「聲明書(せいめいしょ)」は、まず阿部日開が「法義に暗い未熟者」であるとなじっている。そして、行躰(ぎょうたい)の悪さも槍玉(やりだま)にあげている。その表現たるや激越(げきえつ)である。
 
「妻子奴僕(ぬぼく)の愛惑(あいわく)に囚(とら)はれてゐる」
 
昭和三年三月の時点では、常泉寺にいる彦坂スマや信夫は、その夫婦親子関係の事実を追認され、宗内でも日開の妻子として実質的に認められる雰囲気にあったようだ。
 
しかし、ここでもっとも問題にされなければならないのは、「妻子」につづく「奴僕」の二字である。どう読んでも、日開が「妻子」のみならず、「奴僕」との「愛惑に囚はれてゐる」と、この「聲明書」は記しているのだ。
 
日開は、子供を産ませた彦坂スマ以外に、常泉寺女性従業員の誰かと男女の関係にあったことになる。それが宗内の噂となり相当、顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようだ。
 
有元派は、日開の愛欲に溺(おぼ)れた常泉寺での生活が「宗開兩祖の御顔に泥を塗」る行為であると批判しているのだ。そして、日開がみずからの行状(ぎょうじょう)の悪さを隠して管長法主になろうと運動をしていると、口をきわめて非を鳴らしている。
 
有元派は、「常泉寺々庭のビンラン」を問題にし、阿部が猊座に登ることは、「宗門の不祥事(ふしょうじ)である」とまで断じているのだ。いったい阿部法運が住職をしていた常泉寺は、どのようなありさまだったのだろうか。
 
有元派は、文書によって公然と批判しているのだから、根拠のないことではなかっただろう。繰り返すようだが、この「聲明書」から当時の状況を察すると、阿部法運は、常泉寺内において、複数の女性と関係を持っていた。その一人には子供(日顕)を産ませた。彦坂スマと、その間にできた子を、いつからともなく周囲も妻子と認めるまでになっていったようである。
 
日顕を産んだ彦坂スマは、昭和十年五月に得道(とくどう)し、尼となり「妙修」を名乗った。彦坂スマが阿部日開の籍に入るのは、昭和十三年二月十日のことである。
 
邪宗においても、尼はいまだに独身を不可欠の要件としている。妙修尼は日蓮正宗最後の尼だったが、婚姻をなした。それも、“法主”との婚姻である。
 
本当の意味での比丘、比丘尼は、その当時の日蓮正宗には、まったくといっていいほど存在していなかったが、まさに尼と“法主”の結婚は、日蓮正宗において独身僧、独身尼がいなくなってしまったことを象徴的に物語る事件だった。それ以降、日蓮正宗において、独身が僧の前提であるなどと考える者もいなくなった。

 

前列左端が彦坂スマ(妙修)、右端が日開
前列左端が彦坂スマ(妙修)、右端が日開

 
日興上人の御遺誡置文に曰く。
 
「先師の如く予が化儀(けぎ)も聖僧為(た)る可(べ)し」
 
日開と妙修は、“法主”あるいは最後の尼であるにもかかわらず、開祖のこの御遺誡置文を、二人して宗門公衆の面前であからさまに踏みにじってみせたということになる。
 
日開や妙修尼の悪業の影響だろうか、今日の日蓮正宗に巣くう悪比丘らは、日興上人の御遺誡置文を真摯(しんし)に受けとめ、遵守(じゅんしゅ)していこうなどという気風はまったくない。年月とともに、御遺誡置文は空文化されてしまつたのである。
 
同じく御遺誡置文に曰く。
 
「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」
 
日蓮正宗の僧および寺族は、とうの昔に日興上人より破門されてしまっている。その破門されてしかるべき偽(いつわ)りの僧形(そうぎょう)をなした者たちが、戒壇の大御本尊を擁して仏子らを破門にするというのだから、まさに、世は法滅の時である。

 

日開が住職をしていた頃の常泉寺と彦坂スマの住んでいた所
日開が住職をしていた頃の常泉寺と彦坂スマの住んでいた所
 

広宣流布とは無縁の存在だった宗門

第三世日目上人滅後は内紛と抗争、分裂の連続だった

 
大石寺は“邪宗・日蓮宗”としての歴史は長いが、“正宗”としての歴史は意外に短い。大石寺が邪宗・本門宗から分離・独立して「日蓮宗富士派」となったのが明治三十三年九月のことで、いまから九十三年前の出来事である。
 
また「日蓮正宗」と改称(かいしょう)したのが明治四十五年六月で、今年でたかだか八十一年に過ぎない。いままで言われてきた「富士の清流七百年」という偽りの謳(うた)い文句、脚色された宗門史にだまされてはならない。一教団の歴史といえども、その教団が勝手に改変したり、創作してよいものではない。
 
日顕宗の禿人(とくにん)たちが“みずからの教団史を、どのように脚色しようと勝手である”というなら厳しく指弾されるべきである。真実のところ、日蓮正宗の歴史は七百年ではなく、日蓮宗富士派の時期も含めて九十三年なのだ。
 
日顕宗の輩は「学会は破門されて新興宗教になった」などと主張しているが、それならば「日蓮正宗は明治後期に邪宗・本門宗から離脱した新興宗教」と言わねばならない。
 
学会の六十余年にわたる慈折(じしゃく)広布の燦然(さんぜん)と輝く歴史に比べ、八十年ないし九十年余の宗門史は、邪宗・日蓮宗時代からの残映(ざんえい)を色濃くひきずり、広宣流布とは無縁の存在ではなかったか。
 
以下、日蓮正宗の創作された歴史、宗門による仏法破壊の足跡および創価学会出現による日蓮大聖人の正法の躍動(やくどう)と復興の歩みを概括(がいかつ)してみる。
 
日興上人の滅後は日目上人、日道上人らによって大聖人の仏法が護持(ごじ)されてきたとされているが、日興上人には本六(日目上人のほか日華日秀、日禅、日仙、日乗)と新六(日道上人に加えて日代、日澄、日妙、日郷、日助)をはじめとする多くの弟子たちがいた。
 
彼らはそれぞれ各地で布教し、なかには寺院を建立した者もいる。大石寺、北山本門寺をはじめとして、日興上人やその弟子らを開祖(かいそ)とする各寺院の総体的な呼称を日興門流(富士門流)と呼ぶが、そのたどってきた道は、内紛と抗争と分裂の連続であり、大聖人、日興上人の清流は、あるときは分断され、また、あるときは謗法の濁流(だくりゅう)と合流し、富士の清流は途絶えていたのだ。
 
つまり、日目上人が美濃垂井(たるい)で遷化(せんげ)された直後、日道上人と日郷との問で起きた土地の所有権をめぐる確執(かくしつ)をはじめ、本六の一人である日仙と新六の一人・日代との方便品読不読の問答による日代の重須からの追放などに見られるように、日興門流、富士門流といっても、内部では確執、反目(はんもく)、対立、抗争、分裂が相次ぎ、いわゆる総本山―木寺というような秩序ある全国的な教団ではなく、清濁(せいだく)入り交じった分派の連合体ともいうべき弱小教団であった。
 
江戸時代にも、富士門流・大石寺は幕府から単独の教団としては認められてはいなかった。日蓮宗の勝劣(しょうれつ)派に属する少数派とみなされ、八品派、真門流、陣門流とともに勝劣派を形成していた。
 
徳川幕府によって寺院の本末帳が寛永九~十(一六一二二~一六三三)年に作成され、現存する本末帳が内閣文庫に保存されている。
 
これは寛永期における唯一の史料だが、その内訳のうち日蓮宗系を見ると、寛永十年一月の日付で甲州身延山久遠寺法花宗諸寺目録、妙泉寺寺領書付、本隆寺之帳があり、以下、京本国寺、京都寂光寺、京本満寺、京頂妙寺、京妙満寺、上京妙覚寺、洛陽本能寺、洛陽本禅寺、京妙顕寺、京妙伝寺、洛陽二条寺町要法寺、京立本寺、妙蓮寺(年号不記)の各末寺帳はあるが、ここには大石寺の末寺帳はない。幕府の通達の不徹底か大石寺の怠慢か、その点はわからない。
 
この末寺帳が、ほぼ完全な形でつくられたのは天明六(一七三六)年以降のことであった。この原本は現存していないが、写本は水戸市彰考館文庫に保存されている。
 
この天明六年の本末帳には確かに「大石寺派寺院本末帳」とあるが、それは小泉久遠寺、北山本門寺、西山本門寺、光長寺などとともに「法花宗勝劣派」として記載されている。江戸時代の大石寺は単独の教団ではなく、まぎれもなく「法花宗勝劣派」に属する寺院だったのだ。
 
話が本筋から少々外れるので簡潔に述べるが、当時は「“法主(住職)”」の名称は「富十大石寺○○嗣法(しほう)」となっていた。だが嗣法(法をつぐ)とは名ばかりで、たとえば、浅間(せんげん)神社に安置する御本尊を書写した、とんでもない謗法をおこなった“法主”もいた。三十三世日元(にちげん)である。
 
浅間神社といえば、古くからの富士信仰をもとに成立し、祭神は木花(このはな)開耶(さくや)姫(ひめ)命(のみこと)である。富士宮市東井出の浅間神社には宝暦十四(一七六四)年の、脇書(わきがき)に「本地久遠実成(じつじょう)釋尊(しゃくそん)垂迹(すいじゃく)富士浅間宮」等と認められた御本尊があるが、それには「富士大石寺三十三嗣法日元」との書き判がある。
 
明治になっても邪宗白蓮宗の同門として宗派を形成していた
 
さらに明治元年、日蓮教団は明治政府によって一致派と勝劣派の二派に統合され、次いで同九年に勝劣派は興門派、妙満寺派、本成寺派、八品派、本隆寺派の五派に分かれた。
 
このとき、大石寺は日蓮宗興門派に加わり、北山本門寺、西山本門寺、小泉の久遠寺、下条・妙蓮寺の富士五山ならびに保田・妙本寺、京都の要法寺、伊豆・実成寺とともに興門派の八本山の一つとなった。ここでも、いわゆる「邪宗・日蓮宗」である興門派の「同門」として宗派を形成していたのである。
 
興門派管長は、各本山の持ち回りであった。『富士年表』(富士学林発行)によると、興門派の歴代管長は次のようになっている。
 
〈就任年月日〉〈管長〉
 
一八七六年二月二十三日要法寺釈日貫(臨時)
 
一八七六年四月六日要法寺釈日貫
 
一八七九年五月三十日伊豆実成寺大井日完
 
一八八〇年五月十四日富士妙蓮寺堀日善
 
一八八一年五月十六日大石寺日布
 
一八八二年四月二十七日西山本門寺寿日顕
 
一八八三年九月十一日小泉久遠寺富士日霊
 
一八八四年十二月北山本門寺天野日観
 
一八八五年十一月十三日西山本門寺高橋日恩
 
一八八七年四月二十九日北山本門寺天野日観
 
一八八八年四月十三日保田妙本寺富士日勧
 
一八八八年十一月五日小泉久遠寺富士日霊
 
一八八九年四月六日富士妙蓮寺稲葉日穏
 
一八九〇年四月八日伊豆実成寺大井日住
 
一八九一年四月七日大石寺日応
 
一八九二年四月七目京都要法寺坂本日珠
 
一八九三年四月二十四日小泉久遠寺妙高日海
 
一八九四年五月一日西山本門寺寿日顗
 
一八九五年八月二十一日小泉久遠寺富士日霊
 
一八九六年六月十日北山本門寺芦名日善
 
一八九七年四月八日富士妙蓮寺稲葉日穏
 
一八九八年四月二日伊豆実成寺大井日住

 

この表で明らかなように、宗門・大石寺は長い間“謗法の管長”の支配下にあったのである。また、大石寺の日布、日応(にちおう)が管長であったときも“謗法の教団”を管理していながら、“善導(ぜんどう)も“破折(はしゃく)”もしなかった。
 
ただ、日応が明治二十三年、管長を退いた後に驥尾日守著の末法観心論について書面で興門派管長を難詰(なんきつ)したことが、当時の機関誌『法王』に掲載(けいさい)されている程度である。
 
このように指摘すると、日顕宗の狡猾(こうかつ)な坊主どもは多分、悪知恵を働かせて、日胤(にちいん)上人、日応らが再三にわたって独立願書などを提出するなど分離独立の運動を試みたが当局が認めなかった等々と弁明するだろう。
 
しかし、いかに言葉巧みに弁解しようとも、長い間「邪宗・日蓮宗」の輩と同門の「勝劣派」であり「興門派」であったという史実は変えられまい。
 
大正年間に、当時の日蓮正宗管長・阿部日正が邪宗・日蓮宗各派の管長と並んで喜んで記念撮影におさまり、さらに勤行まで一緒にしていた事実が発覚。“法統(ほうとう)連綿(れんめん)七百年”という伝説を信じていた純真な信徒は驚愕し、仰天した。
 
ところが、妙観講をはじめとする法華講員らは開き直って、「一緒に写真を撮ったからといって何が悪いか」「他宗の僧と並んで勤行しても、手を合わせていなければ謗法ではない」などと訳のわからない屁理屈を言っているようだが、なるほど宗史を見てみると、“記念撮影も勤行も、かつての同類・仲間との付き合いであったのか”と、妙に納得してしまう。
 
また、宗門は戦時中、すすんで神札を受けた。その言い訳として、現在の日蓮正宗時局協議会の坊主どもが、日蓮正宗を邪宗・日蓮宗と統合しようとする軍部の策謀から大御本尊と血脈を守るため「やむなくおこなった妥協が『神札』を受けることであった」(日蓮正宗時局協議会文書「日蓮正宗と戦争責任」より)などと愚にもつかない弁解をしていたが、これがいかにゴマカシの論法に過ぎないかがわかる。
 
大石寺は、もともと邪宗と同一の宗派に属し、明治三十三年までは邪宗教団を含む興門派の管理下に置かれていたではないか。
 
この興門派は、明治三十二年に「本門宗」と改称した。このときも大石寺は「本門宗」の一派となった。翌三十三年九月になって、はじめて大石寺のみが、この本門宗より離脱して「日蓮宗富十派」と称し、独立した宗門となったのである。
 
明治三十三年といえば、戸田城聖・創価学会第二代会長の誕生の年である。「日蓮正宗」の真実の歴史は、ここに始まるといっていいだろう。それまでは「邪宗・日蓮宗」としての、「謗法と同座」しての宗門史なのである。“富士の清流”など、どこに流れていたというのか。

 

明治37年、内務省の調査による日蓮宗各派の実勢

明治37年、内務省の調査による日蓮宗各派の実勢

(下段は女性)

 
日蓮宗各派と比べても弱小教団に週者なかった宗門
 
大石寺は長い間、“謗法の管長”の支配下に置かれていた。ちなみに、明治二十二年、日応が第五十六世“法主”として登座した際の興門派の辞令(じれい)は「駿河國富士郡上野村本山大石寺住職申付大石日応」(「興門大教院録事」より)となっている。いまで言うところの「法主」も、当時は“謗法の管長”によって「住職申付」られていたのだ。
 
それでは、大石寺が「日蓮宗富士派」と称して独立した当時、寺院、住職、信徒はどうだったか。寺院は八十七、そのうち住職は四十七人、檀信徒は約五万八千人程度であった。
 
これを日蓮宗各派の教勢(きょうせい)と比較してみよう。明治三十七年、内務省の調査によると前ページの表のとおりである。
 
この表で見ると富士派(現在の日蓮正宗)が、いかに弱小教団であったかが、ひと目でわかる。明治四十五年六月に富士派から「日蓮正宗」へと改称するわけだが、本来ならば「日蓮小宗」とすべきではなかったか。
 
否(いな)、いまからでも遅くはない。一千万信徒を破門にして一挙に明治時代と同じ程度の弱小教団になったのだから、「日蓮小宗」と改称すべきだと勧告しておく。それとも、この際、消えゆく将来の姿を見越して「日蓮消宗」とでも改称するのが妥当か。
 
日達上人は明治の中頃、東京には常泉寺、妙縁寺、常在寺、妙光寺の四カ寺しかなかったと言っている。この当時の、上野村の山寺・大石寺に登山する人などほとんどいなかった。
 
創価学会の登山会によって未曾有(みぞう)の七千万人が参詣したが、明治の頃は日顕流の表現で言うならば「チョボチョボ」にも満たない数であった。
 
たとえば、明治二十四年の虫払いには「六十有餘(ゆうよ)人々態々(わざわざ)登山せられたる深信感ずべし」(『布教會報』第貮拾四號)とある。二大行事の一つである御虫払いに、わずか六十数人が登山すれば、特筆すべき出来事だったのだ。
 
また明治二十六年の御寶物虫拂會には「陸續(りくぞく)登山せり其遠隔(えんかく)の地より登山せる人は東京常泉寺住職加藤氏外一名品川妙光寺住職富士本氏其他下山健治氏外三名……最も盛大なる法會(ほうえ)にてありき」(『法王』第四拾七號)と記録されている。合計しても三十人そこそこの参加者なのに「最も盛大なる法會にてありき」なのである。
 
創価学会の出現以前の総本山が、いかに衰微(すいび)していたかがわかる。このとき、「登山講」の設立などを考える者もあったが、満足な成果は望めなかったようだ。
 
貧しさの故か「富士有志親睦(しんぼく)道話會」の二百二十六名の人々に親睦(しんぼく)会の会場を提供し、御開扉の後、酒宴(しゅえん)を設(もう)けたり(『法王』第五拾五號)、日布が宗教学者の姉崎博士や国柱会の山川智応、長瀧智大らに御開扉をして、「佛祖三寶(さんぽう)も御滿悦(まんえつ)のことゝ存ずる」と挨拶したり(『大日蓮』昭和十年三月号)、お金さえもらえば謗法の者に対する御開扉さえ何とも思っていなかったようだ。
 
横浜在留のアメリカ人に大石寺の古器物を見せて拝観料二円をもらった(『法王』第五拾五號)のも明治二十七年のことである。
 
後年、日亨上人が戸田会長に対して「戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ」と述べた理由がうなづける。この「戸田さん」というのは「創価学会」と同義であろう。
 

過去の歴史も謗法
現在も、未来もまた謗法

 
この微弱(びじゃく)で貧しく、お金のためなら謗法を犯すことも厭(いと)わぬ教団が明治三十三年、戸田会長の誕生を希求(ききゅう)していたかのように、「日蓮宗富士派」としてやっと独立するのである。だが、独立した教団になったからといって、“濁流(だくりゅう)”が急に“清流”に変わったわけではない。
 
一例を挙げると、明治三十七年の日露開戦に際して、時の法主・日応は「……義戦を起こし給ふ」等々と、率先(そっせん)して戦争促進の「訓諭(くんゆ)」(二月十五日付)を出したり、「皇威(こうい)宣揚(せんよう)征露(せいろ)戦勝(せんしょう)祈禱(きとう)會(え)」などをおこなった。
 
これに加えて、信徒の浄財(じょうざい)を軍資金として献納(けんのう)したばかりか「戦勝守護の御本尊」一万幅を配布するという正法弘通の路線からの大脱線ぶりだった。「日蓮宗富士派」というのは“清流”どころか“泥沼”の様相を呈(てい)していたのである。そして、同四十五年六月に「日蓮正宗」と公称したが、この頃から宗門は謗法、教義逸脱(いつだつ)の最盛期へと向かう。
 
創刊したばかりの『大日蓮』には念仏、親鸞を賛嘆する論文が掲載(第一巻第二号)されたのをはじめとして、『大日蓮』『白蓮華』などの機関誌の広告欄には「日蓮上人の御影」「日蓮上人御真筆御本尊織込純金欄」「祈禱秘要録」「説教百座要集」「木魚」の宣伝文が氾濫(はんらん)、さらには浄土真宗、大谷派議制局、本派本願寺事務所が推薦する薬の広告などが数多く見受けられる。
 
無数ある謗法、教義逸脱のなかには打算的な利潤追求を目的とするものが目立つが、なかには当時の時代社会に対応しなければならない一面があったことも理解できないわけではない。だが、そうした条件を考慮しても、なおかつ、容認できない謗法が多すぎる。
 
牧口初代会長、戸田第二代会長が入信したのは昭和三年。謗法を糾弾(きゅうだん)して大聖人の仏法を復興させ、広宣流布していこうとの勇気ある決断であった。
 
この年には淫乱(いんらん)坊主・阿部日開が策略をめぐらして猊座を盗み取り、その子供である天魔の落とし子・日顕(当時は彦坂信夫、昭和三年に信雄と変更。母は彦坂スマ)が得度した。
 
広宣流布の大指導者・池田名誉会長が誕生したのは、この年の一月二日であった。
 
日顕はつまらないことにはすぐに不思議の因縁を感じるようだが、戸田会長の誕生と日蓮宗富士派の独立、池田名誉会長の出生と法滅の妖怪・日開の登座、その子である魔僧・口顕の得度という不思議な符合(ふごう)、峻厳(しゅんげん)な事実には、何も感じないのだろうか。
 
牧口初代会長、戸田第二代会長は、旧来の法華講では広宣流布はできないと判断し、昭和五年に創価教育学会を創設した。
 
以来六十余年、軍部、国家権力の弾圧や競い起こるさまざまな広布妨害の策謀のなか、歴代会長を軸とする創価学会の不惜身命(ふしゃくしんみょう)の戦いによって、広宣流布の大波は世界へと拡大され、百十五力国・地域で一千万人の人々が活躍するまでに大発展を遂げた。日蓮大聖人の仏法は、ここに大復興を成し遂げ、前代未聞の隆盛をみせるまでになったのである。
 
大聖人の創価学会に対する絶大な称賛は間違いない。創価学会の正義の仏法運動は御本仏の照覧の下、さらに共感の輪を拡げながら、世界の人々に受け入れられていくことだろう。
 
それに対して、宗門は狂乱法主・日顕にひきずられて「日顕宗」に成り下がり、日亨上人の「学会がなかったら日蓮正宗はつぶれたよ」と心配した言葉が現実のものになろうとしている。
 
過去の歴史も謗法、現在も、未来もまた謗法。日蓮正宗が真に“正宗”たりえたのは、創価学会とともに歩んだ六十年間のみであった。