第三章 折伏精神のかけらもない売僧たち

第三章のはじめに

エセ宗教者は、民衆から膏血(こうけつ)をしぼりとる。

乞食(こじき)を三日すればやめられぬというが、その乞食は憐憫(れんびん)の情を「旦那」方にかけてもらうために、道端(みちばた)で夏は熱気と照り返しに耐え、冬は寒空の下、身を震わせ、膝(ひざ)を屈し頭を垂れ哀切(あいせつ)こもる声を出し、自尊心(じそんしん)のかけらも捨てねばならない。そして「チャリン」という音でもすれば、「おありがとうございます」と愛想(あいそ)の一つも言わねばならない。それでも三日やればやめられぬということなのだから、これに比べると坊主は一日やるとやめられぬということになる。

最上等の座布団を敷いて上座にすわり、威厳(いげん)を保って仏の話の一つもすれば、世間では地位も名誉もあるものが涙の一つも流して、三世を通暁(つうぎょう)する僧と崇(あが)める。そのうえ、酒食のもてなしを受け、帰るときには大枚が懐(ふところ)にある。これはやはり、一日やるとやめられぬ。

おまけに、国家権力が身分を保障し、下賜金(かしきん)まで渡してくれるとなおさらであろう。

出家するとき、いかに清浄(せいじょう)無垢(むく)な信仰心を抱(いだ)いていた者も、飽食(ほうしょく)と金に浸かる中で道念(どうねん)を失う。日蓮正宗の歴史を振り返るならば、なおさらその感を深くする。その堕落(だらく)と腐敗(ふはい)の歴史を経て、現在の日蓮正宗が存在するのである。

大石寺近くにある“広宣流布された村”は、その日蓮正宗の堕落と腐敗の歴史を如実に示している。“広宣流布された村”とは富士宮市半野地区のことである。この半野地区は、江戸時代に村全体が日蓮正宗妙経寺の檀徒となった。百五十世帯のうち五世帯を除いて、すべて日蓮正宗の檀徒で、現在は大石寺の塔中坊に所属している。

だが、この村の現状は“謗法の村”そのものである。江戸時代に村民がこぞって帰伏(きぶく)した妙経寺の跡地に大石寺が「御影堂」を建てたが、その「御影堂」はいま「しめなわ」がされ「金毘羅神社」になっている。

「御影堂」の中には金毘羅神社の神体が中央にあり、その左右に日蓮大聖人の御影一体、板御本尊二体(第二十七世日典上人、第五十一世日英上人筆)が安置されている。

村には「文殊堂」もある。「文殊堂」には賽銭(さいせん)箱があり、「しめなわ」もされている。安置されているのは板本尊(第六十二世日恭(にっきょう)筆)だが、祭りのときにはこの板本尊に文殊菩薩の絵像がかけられる。

この村の村民、つまり大石寺の「根檀家(ねだんか)」といわれる人たちは、大石寺の僧たちより信心を教えられていないのである。だが、御本尊は“法主”直筆(じきひつ)の常住本尊を何体も持っている。「つけ届け」(供養)の代価としてもらったものである。これらの檀徒の家には、随所に稲荷大明神、水子地蔵、その他もろもろの「神」がまつられている。

大石寺の僧は信心を教えず、葬式や法事に際し“供養”を受け取ることだけしてきた。謗法厳戒などと言えば檀家がいなくなるので、うるさいことは長年にわたり言わずにきたのである。そして、まとまった供養をすれば、常住御本尊や板本尊を渡してきた。

この大石寺周辺の実状は、大石寺の真実の歴史を物語るものである。半野地区は、葬式仏教として生業(なりわい)を立ててきた大石寺の出自(しゅつじ)を示すものであるといえる。創価学会出現前、大石寺から正法は失せていた。

法を失った多くの売僧(まいす)が、日蓮大聖人の仏法をもって乞食以下の卑(いや)しい心根(こころね)を隠し生きてきたのである。

本章には、謗施(ぼうせ)を貧り高利貸しをし、ニセ本尊である導師本尊をもって人の死への恐怖につけこみ、折りあらば本尊すら売り、平気で女犯(にょぼん)をしてきた悪比丘たちの姿が縷々(るる)とどめられている。

 

高利貸しをして民衆から搾取(さくしゅ)

僧たちの欲望と民衆蔑視(べっし)が仏法を滅ぼした

仏教が滅びるのは、僧の腐敗による。僧が民(たみ)の呻吟(しんぎん)する声を聞かず、悲しみを共にせず、ただ民を蔑(さげす)み享楽(きょうらく)にふけるとき、仏教は滅びる。

なぜ、釈尊誕生の地であるインドで仏教が滅びたのか。

理由は、僧が慈悲の心で民衆に接することをせず、収奪(しゅうだつ)の対象として民衆に接したことによる。僧は宗教的権威を振りかざして民衆に臨(のぞ)み、畏怖の念を抱かせ、収奪をほしいままにした。インドで仏教が滅亡した背景には、欲望に支配された僧たちの心の腐敗がある。

さらに、僧伽(さんが)(教団)が経済的基盤を確固たるものにしたことが、僧の腐敗を大いに助長させたともいえる。

釈尊滅後、インドにおける仏教教団はアショーカ王などの外護(げご)により教団財産(土地、金、建物)を増大させていった。財産は、土地からの利益と、貸し付けの利子で太っていった。

財産が増えるにつれ、僧は托鉢(たくはつ)をする必要もなくなり、次第に民衆から遊離(ゆうり)した存在となっていく。ついには、衆生済度(さいど)のために法を説いた釈尊の精神など、かけらもなくなってしまった。

その結果、長年の間に民衆は仏教への信仰を失い、果ては憎悪(ぞうお)の対象としてさえ見るようになった。このようにして、インドにおいて仏教は死滅したのである。

中国を経て日本に伝来した仏教は、あくまで権力者たちのものであった。権力者に扶養され、権力者の先祖の菩提(ぼだい)を祈り、治世(ちせい)のために鎮護(ちんご)国家を祈った。

このように仏教が伝来した当初は、おおむね仏教は権力者たちのために存在した。そして、それに抗して勃興(ぼっこう)
したのが鎌倉仏教である。しかし、江戸時代になって仏教はおしなべて幕府権力の一部を形成し、民衆統治(とうち)の出先機関となってしまった。その代償(だいしょう)として、江戸時代の各派寺院は、「朱印(しゅいん)」(下賜米(かしまい))という形で幕府から経済的保護を受け、社会的地位を保つことができた。

諸宗派は、本寺末寺とも寺請(てらうけ)制度という幕府の政策により檀家を永久的に確保することができた。末寺は布教の意欲を失い、定められた檀家から二重三重に収奪(しゅうだつ)することのみに腐心(ふしん)するようになる。

諸宗派とも、寺檀制度によって檀徒を縛りつけ、その檀徒から執拗に金を奪いとるために葬式仏教と化していった。葬儀で取り、法事で何度も何度も布施を取った。信仰を失った聖職者たちが宗教的権威を保持するためにとる方法は、いつの時代も同じである。

当時、その度重なる収奪を可能にしたのは、庶民の間に根強くはびこっていた地獄信仰であった。そのような世相の中で、裕福な寺院は宗教的権威を誇示するため、競って大伽藍(がらん)の建立をおこなった。伽藍は、仏像の置き場や坊主の寝床ではあっても、民衆が仏法について語り合う場所ではなかった。

大伽藍は聖職者の腐敗を隠し、その偉容で民衆を圧し、隷属(れいぞく)させることを容易にするものであった。したがって、大伽藍は形式仏教化した各寺院にとって不可欠なものだったのである。

しかし、檀家からの収入だけでは大伽藍を建立するのには無理があった。そこで、寺院は有力者から金を出させ、その金を高利で民衆に貸し付けるという、いわゆる高利貸しをはじめた。金の貸付先は、主にその寺院の檀家や周辺の農民などであった。

農民らは土地を抵当に寺院から金を借り、年貢の上納(じょうのう)分の不足を補った。だが、長い年月のうちには、凶作などで利息を払うことができず、抵当に入れた土地を寺院に取りあげられることも少なくなかった。

寺院は、農民などから取り上げた土地を小作地として農民に貸し付けた。農民たちは寺院に取られた土地を今度は小作人として耕作し、寺院には小作料を、役所には年貢を払わされることとなったのだ。

このように、江戸時代の寺院は、民衆の信仰のよりどころとなるものでは決してなかった。寺院は、幕府の権力機構の一部として檀家制度の中にがんじがらめに民衆を縛りつけ、ただ収奪しつづけたのである。

坊主らは、権力者の庇護(ひご)を受けて民衆を見下し、威張り、手を替え品を替えて民衆からなけなしの金を奪いつづけた。

 

寺に参詣(さんけい)しなければキリシタンとしてお上に訴えるぞと脅し、寺に参詣すれば信仰心の篤さを布施で示せと迫り、僧に逆らえば地獄に堕ちると脅したのだ。そこには、民衆救済の慈悲心などかけらもない。あったのは、民衆からの飽くなき収奪と、自身を権威づけようとする高慢さのみであった。

謗施や高利貸しの利息で伽藍を整えていった大石寺

それでは、大石寺の場合はどうだったのだろうか。事実は、大石寺も邪宗と何ら変わりはなかったのである。幕府権力になりかわって民衆を支配し、葬式仏教と化して民からの収奪を繰り返した。ときには、布教による弾圧を受けることもあったが、その熱心な布教をおこなったのは在家の人々だった。

大石寺門流の出家たちは、江戸幕府におもねり、布教も民衆の幸せも忘れ、惰眠(だみん)を貧(むさぼ)っていたのである。

寛永十二(一六一二五)年十月十二日、大石寺は大火に包まれ、本堂、山門、坊舎など残らず焼失した。この頃、身延山久遠寺が幕府権力を背景に、不受不施派(たとえ国主からの供養であっても、それが謗施であれば受け取ってはならない、信徒でない人々に法施をしないとする派)などの寺を次々と支配下に置きはじめた。

日蓮大聖人の教えを守り、謗施を受けない日蓮系の各派に、身延山久遠寺は国主からの施を受けるかどうか迫り、対応にスキがあれば幕府権力と一体となって弾圧し、その寺院を自己の傘下に入れた。

こうした意図のもと、身延山久遠寺は大石寺を含む富士五山(富士大石寺、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、妙蓮寺)に対しても、幕府からの謗施を慎んで供養として受けるという意思表明をするよう四度にわたり迫った。

大石寺は、態度を不明確にしてしのいだ時期もあったが、ついに北山本門寺、妙蓮寺ともども寛文五(一六六五)年、寺領を幕府からの供養として受け取る旨の請書を公儀に提出した。これこそ、大聖人の弟子として受けてはならない謗施を供養として受けるとの変節の証文である。

「一、指上(さしあ)げ申す一札の事、御朱印頂戴(ちょうだい)仕(つかまつ)り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受不施方の所存とは各別にて御座候、仍つて件の如し。

寛文五年巳八月廿一日

本門寺、妙蓮寺、大石寺。

御奉行所。」

(『富士宗学要集』第八巻)

 

日蓮大聖人の教えに違背(いはい)し、大石寺は謗施(ぼうせ)を受け延命(えんめい)を図る。幕府の権威に額(ぬか)づいた大石寺は、この謗施によって伽藍(がらん)を整えていく。仏法の本質を失い、皮相的な繁栄を求めたのである。

正徳二(一七一二)年、大石寺は先の大火で焼失した三門(山門)の再建を寺社奉行・本多弾正少弼に願い入れた。その結果、幕府天領から伐採(ばっさい)した大木七十本を拝領し、同時に六代将軍・家宣の正室である天英院から三百両をもらい三門を再建したのである。

そもそも、寛永十二(一六一二五)年に大石寺が焼失した原因は何だったのか。一宗の本山が焼失するには、それだけの理由がある。それは言うまでもなく、仏の法が失われ、守護の善神が去ったからである。

大石寺では、焼失の三年前に戒壇の大御本尊を御影堂に安置し公開した。時来たりて本化(ほんげ)国主到来の日まで堅く護らなければならない大御本尊を、広宣流布の日を待たず公開したのであった。

このときの大石寺貫首(かんず)は、第十七世日精だった。日精は、このほかにも造仏(ぞうぶつ)読誦(どくじゅ)という邪義まで構えていた。そのため、大石寺は焼失したのである。ところが、当時の大石寺の者たちは、謗法を犯したことを懺悔(ざんげ)滅罪(めつざい)するどころか、幕府権力にすり寄り、謗施を受けることによって再び繁栄しようと考えたのである。

大石寺は、膨大(ぼうだい)な謗施を江戸幕府から受けることにより、寛永十二年の大火で焼失した建物のほとんどを再建する。だが、このとき焼失した五重塔(宝塔)の再建は、寛延二二七四九)年まで待つことになる。

『富士年表』によれば、延享三(一七四五)年に五重塔の再建がはじまった。五重塔再建のため総工費として、板倉周防守勝澄の一千両寄進(きしん)を含む四千両をかけ、寛延二年にようやく完成をみるのである。

前章で、天保九(一八三八)年に、大石寺が伊豆韮山(にらやま)の代官・江川太郎左衛門に差し出した古文書を紹介した。実は、この古文書には五重塔再建にまつわる驚くべき記述がある。

 

伊豆・韮山の代官・江川太郎左衛門英竜
伊豆・韮山の代官・江川太郎左衛門英竜

「其の餘金(よきん)貸附(かしつけ)の利銀相(あい)積(つも)り、延享年中、五重之宝塔迄再建仕(つかまつり)候(そうろう)」(大石寺が天保九年に伊豆韮山の代官.江川太郎左衛門に差し出した口上覚より一部抜粋。以下「口上覚」)

大石寺は、天英院からもらった金で三門の再建をしたが、その余剰金(よじょうきん)で金貸し業をしていたのだ。その金貸しで得た利息を貯めて五重塔の再建資金としたのである。

さらに古文書には、大石寺が五重塔再建後も残余の金を元に金貸しをしていたことに論及(ろんきゅう)している。邪宗同様、金を儲け、堂塔(どうとう)伽藍(がらん)を建立していったのだ。

「右残金を以て御祠堂田と為し相求め置き候。回徳金を貸附け置候……」(「口土覚」)

古文書に明記されたとおり、大石寺は三門の余剰金同様、五重塔を再建した残金でこれまた金貸しをしていたのである。

五重塔建立を願っていた第二十六世日寛上人は、

「覚。

一、金子(きんす)二百両、但八百粒なり、右は日寛が筆のさき(先)よりふり(降)候御本尊の文字なり、今度(このたび)是(これ)を三宝に供養し奉り永(ながら)く寺附の金子(きんす)と相定め候畢(おわ)んぬ、され(然)ば御本尊の文字変じてこ(黄)がね(金)とならせ給へば此のこがね(黄金)変じて御本尊とならせたまふ時此の金を遣ふべし、さ(然)なき(無)時堅く遣ふべからず、後代の弟子檀那此の旨守らるべきなり。

 

大石寺が韮山の代官に提出した「口上覚」


享保十一丙午年六月十八日日寛。

老僧中、檀頭中。」(『富士宗学要集』第八巻)と遺書状を残している。

日寛上人の願いは、幕府からの誘施で建立することでもなく、まして、信徒の御供養で金貸しをし、それで儲けた金で建立することでもない。折伏弘教による信徒の赤誠(せきせい)によって建立することであったのだ。

しかし、日寛上人没後の大石寺は、日蓮大聖人の弟子として大きく道を踏み外していく。民衆を収奪の対象としながら、その一方で権力者に媚びることにより、自己の繁栄を期すのである。

貸し金の取り立てまで権力に願い出ていた

大石寺は、江戸時代の邪宗の寺々が歩んだのと同じ腐敗への道を歩んだのだ。邪宗の寺同様、大石寺も信徒の御供養で金貸し業を営み、それを五重塔の再建資金にあて、さらにその余剰金(よじょうきん)を使って金儲けを企(たくら)んだ。だが、その企みも打ちつづく凶作(きょうさく)でつまついてしまった。

「近年、打ち続く凶作之上、天保五年四月八日、富士山より大水押し下り御祠堂田、多分に流失仕(つかまつ)り、修覆も行き届かず、誠に以て難渋(なんじゅう)仕(つかまつ)り候」(「口上覚」より一部抜粋)

凶作がつづき、天保五(一八三四)年に起こった大水により所有の田畑は流失し修復もおぼつかない状況となった。そこで、大石寺は奉行所に泣きついたのだ。

「併(あわ)せて御威光(ごいこう)を以て是(これ)迄(まで)利銀不納も御座(ござ)無(な)く候えども、当時之世柄にては、萬一(まんいち)滞(とどこお)り之儀、御座候節は、愁訴(しゅうそ)奉るべき儀も、御座有るべき候間、其の節は何卒(なにとぞ)格別之御慈悲を以て、御取り立て成し下し置かれ候らはば、有り難き仕合せと存じ奉り候」(同)

大石寺の言い分は、これまで幕府権力の「御威光」をバックに金貸し業を営んできたので、農民などに貸し付けた「利銀」の滞納もなかったというものである。

しかし、相次ぐ凶作や大水などで農民などに貸し付けた金が無事返済されるのか心配になってきた。そこで、農民などへ貸し付けた金の返済が「萬一滞り之儀」の場合は、大石寺が「愁訴」するので、「其の節は何卒格別之御慈悲を以て」農民より貸付金を取り立ててほしいと嘆願しているのである。

大石寺は大聖人の法を説くでもなく、幕府よりの下賜金や信徒からの御供養を、貧しい庶民へ貸し付け、人々の膏血をしぼりとっていたのだ。当時の邪宗と同じ寺院経営の仕方である。

信徒からの御供養は、御本尊に対してなされたものである。その信徒からの御供養を民衆から収∋するための原資とし、民に貸し付け、金儲けをし、私腹を肥やす。あげくの果てに、金貸しがうまくいかなくなれば代官所に「御慈悲」を請い、呻吟(しんぎん)する民からの強権的取り立てを要請する。

苦悩に喘ぐ民を救うため、身命(しんみょう)を懸けて権力に立ち向かい立正安国を願った日蓮大聖人の精神が、この大石寺のどこにあるだろうか。

「此の国は誘法の土なれば守護の善神は法味(ほうみ)にうへて社(やしろ)をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、仏陀(ぶつだ)化をやめて寂光土(じゃっこうど)へ帰り給へば堂塔・寺社は徒(いたずら)に魔縁(まえん)の栖(すみか)と成りぬ、国の費(ついえ)・民の歎きにて・いらかを並べたる計りなり」(新池御書)

【通解】この国は誘法の国土であるので守護の善神は法味に飢えて社を捨てて天に上られたので、社には悪が入り替わって多くの人を導いている。仏は化導をやめて寂光土へ帰られたので堂塔や寺社はいたずらに魔のすみかとなってしまった。国費と民の労役によって、いらかを並べて建っているだけである。

御塔橋を渡った杉木立(すぎこだち)に囲まれた高台に建っている五重塔は、高利に喘(あえ)ぐ民の歎(なげ)きによって建立された建造物だったのである。折伏弘教の精神を忘れ去り再建されたこの五重塔が、宗門が繁栄のよりどころとしていた幕府権力の崩壊とともにさびれていったのは故なきことではない。

明治の時代に入り、大石寺の悪比丘(あくびく)たちは五重塔の銅瓦(どうがわら)を売り飛ばし、その金で酒樽(さかだる)を並べ飲み食いさえした。その荒れ果てた五重塔を、日寛上人の願いどおりに折伏弘教の証しとして、“仏法西漸(せいぜん)”の意を込めて信徒の赤誠(せきせい)によって修復したのは戸田城聖創価学会第二代会長である。

大聖人の法義を曲げ、権力におもねった大石寺。布教もせず貧しき人々に信徒の御供養を貸し付け、その金で堂塔(どうとう)伽藍(がらん)を造り飾り立て、あまつさえ貸し金の取り立てまで権力に願い出た大石寺。信徒の御供養や民の歎(なげ)きを食い物にして、享楽(きょうらく)にふけっても何ら恥じることがない大石寺。大石寺もまた、法滅の時である末法の埒外(らちがい)ではなかったのだ。大石寺に日蓮大聖人の正法正義を呼び戻したのは、創価学会の出現による。

いかに「法灯(ほうとう)連綿(れんめん)七百年」「富士の清流」などという美辞麗句(びじれいく)でみずからを装い、信徒をだまそうとしても、史実を隠し通すことはできない。この汚辱(おじょく)にまみれた日蓮正宗を浄化(じょうか)し、大聖人直結の信心で世界の民衆に大聖人の真実の教えを弘めてきたのは、ほかならぬ創価学会なのである。

 

高利貸しをして建てた五重塔

 

宗門の堕落を助長(じょちょう)した僧の妻帯

妻帯している僧を「在家同然」と喝破(かっぱ)した日亨上人

 

日蓮正宗の僧が生涯を通して遵守(じゅんしゅ)しなければならない掟(おきて)は、御開山日興上人の「二十六箇条御遺誡(ゆいかい)」である。それを守ることは日興上人の厳命(げんめい)である。

日興上人みずから、この御遺誡の最後に、「此の内一箇条に於(おい)ても犯す者は日興が末流に有る可(べ)からず」と念を押している。日蓮正宗の僧は一箇条たりとも絶対に破ってはいけないのだ。

この御遺誡の中に、僧の妻帯と女犯(にょぼん)について触れられた条目(じょうもく)がある。

「先師の如く予が化儀も聖僧為(た)る可し、但し時の貫首(かんず)或は習学の仁に於ては設(たと)い一旦の妖犯(ようはん)有りと雖(いえど)も衆徒に差置(さしお)く可き事」

この条目について第五十九世日亨上人(畑毛の猊下と呼ばれた碩学(せきがく))は、自著『富士日興上人詳伝』の中で次のように述べている。

少々長くなるが、この条目に触れている箇所の全文を以下に紹介する。

「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。

なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風(へいふう)とみて、その内自然に振粛(しんしゅく)して、宗祖開山時代の常態(じょうたい)に帰るべきを祈るものである。大聖人は戒の相用を排斥(はいせき)せられたが、全然解放せられた無戒主義でない。五・八・十具の小乗戒を捨て、また十重四十八軽の大乗梵網(ぼんもう)戒(かい)を捨てられたが、無作の本円戒は残されてあり、そのための本門戒壇であり、その戒相の内容は明示せられてないが、小乗・大乗・迹門の戒相によらぬのみであり、それを無作と名づけてみても、けっして放縦(ほうじゅう)不羈(ふき)なものでない」(日亨上人著「富士日興上人詳伝』より)
まず日亨上人は、冒頭(ぼうとう)で「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる」と述べている。宗内ことごとく妻帯の様相を呈している今日、にわかに非妻帯の聖僧の出現があるとも思えず、暗澹(あんたん)たる思いで嘆(なげ)いたのではあるまいか。

その日亨上人が宗内の現実を直視したうえで、将来において「宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである」と述べている。裏を返せば、今の宗内の妻帯の状況は「常態」ではない、つまり異常な事態であるということだ。

「宗祖開山時代」のように、独身の聖僧たちによって日蓮正宗の僧が占められることを「祈るものである」としている。この日亨上人の「祈る」の言葉に、本宗の未来を思う切実な願いが込められているように思えるのである。

「開山上人がこの法度(はっと)に『先師の如く聖僧たるべし』と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埒(ほうらつ)破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埒を誡(いまし)めた文もあるが、この淑行(しゅくぎょう)聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行(おぎょう)を恥づる有羞(うしゅう)僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢(きょぎかん)と罵(ののし)り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽(いつわ)らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる」(同)

日亨上人は、御開山日興上人が「先師の如く聖僧たるべし」と述べられていることを強調している。日蓮大聖人が、無戒でありながら「聖僧」であられたことを、弟子の日興上人が証明されていると述べているのだ。

日亨上人は妻帯している僧を「在家同然」と決めつけ、それを否定している。

また日蓮正宗の僧の中に、妻帯の現実を開き直って現状追認(ついにん)してしまう様子のあることも厳しく批判している。

妻帯している僧がその自分の偽(いつわ)りの姿を羞(は)じるのを見て、身と心の一致しない偽りの者と罵(ののし)り、かえって妻帯している自分を正当化する傾向が宗内にあることに、憤(いきどお)りを隠さない。

日亨上人は、日興上人の御遺誡の件(くだん)の条目について、「この条目はいまは死んでおる」と結論し、いまの僧侶の妻帯の状態は「一時の変体」であるとしているのだ。

「次に『時の貫首(かんず)或は習学の仁』等の文は、難解である。『貫首』の二字は、明かであるも『習学の仁』は、一応はとくに学窓(がくそう)に入っておる人で、そのために天台等の談所に遊学しておる人と見るべきで、それが悪縁に引かれて、女犯(にょぼん)しても、還俗(げんぞく)破門せしめずして衆徒のままとし、学僧としての当然の昇進を止め、また貫主の高位を貶(おと)して下位に沈まするということと解釈する外(ほか)はない。こういうひじょうの事態が、かならず起こるべきとしてその用意に作られた法度(はっと)では恐らくあるまい」

「一旦の妖犯(ようはん)」すなわち女犯の罪を犯した者をどうするか。「貫首或は習学の仁」においては、女犯しても還俗破門に処さず、「衆徒」として僧社会の下位に位置させよと述べている。今でいえば、女犯した“法主”あるいは優秀な僧についての特例である。

いずれにしても、日興上人が御遺誡を定めたとき、よもや貫首(“法主”)以下の僧ことごとくが妻帯するなどという奇怪(きっかい)なことが、みずからの末流に生ずるなどとは、予想だにしなかっただろう。「一旦の〓犯」とは、あくまで妻帯していない僧が女犯をした場合の戒(いまし)めである。もとより僧の妻帯など、論外である。

ということは、一般的に女犯した僧は、本来であれば還俗破門になって当然と理解される。

日亨上人はこの条目について、紹介した引用文のように解釈したうえで、日興上人がこの条目を書かれた背景にある史実にも注目している。

「これをまた、その現在の史実に照らしてみるに、重須の後董は日代上人でこの問題にはいる仁でなく、また同山に習学の若徒は見当たらぬ。大石の後董は、日目上人で七十四歳であり、信行具足(ぐそく)の聖僧でその憂(うれい)は全然ない。目師の後を受くべき日道上人も、若徒でなく習学の仁でもない。大学日乗の実児であり、ともに出家した民部日盛は、長く鎌倉遊学で興目両師の器許(ききょ)するところで、あるいはこの仁が目師の跡を継ぐべきであるに、親父の流れを悪しく汲(く)んで女犯の疑いがあったのかも知れぬ。そうでなければ、開山上人の立法があまりにも将来の夢に過ぎぬことになる。

以上、この御置文を見る方々、願くはこの三様の意図であらんことをねがうのである」(同)

日蓮正宗の僧俗は、血族支配の悪弊(あくへい)が顕著になってきている現在、いま一度、妻帯について考えてみる必要がある。

また何よりも、日興上人の御遺誡を厳守(げんしゅ)しなければならない。その範があれば、僧俗和合の道はおのずから開かれる。

妻帯を許可された僧たちはまたたく間に堕落していった

僧が奔放(ほんぽう)に妻帯を始めたのは、いつの頃からなのか。本来、出家とは家を出た者のことであり、すでに妻子を有する者の場合、妻子との縁を断ち切って仏門に入ったのであった。もし僧が女性と交わったりすれば、女犯(にょぼん)の破戒僧としてさげすまされた。

それでも堕落した僧の中には、下働きの女性であるなどという口実を設(もう)けて、寺の中に女性を置く者がいたりした。徳川幕府は、こうした僧の風紀の乱れに厳しく目を光らせた。

江戸時代、宗教は幕藩(ばくはん)体制を支える権力機構の一部であったことから、宗教家の腐敗は「お上」に対する人心の不満の引鉄(ひきがね)になりかねないので、宗教家の風紀紊乱(びんらん)には幕府はことさら敏感な反応を示したのである。

女犯の僧に対する刑罰は、寺持ちの僧すなわち住職においては、遠島(えんとう)(島流し)であった。また、所化僧の場合は、晒(さら)し者にされたうえで、それぞれの宗派の寺法において裁(さば)かれたが、まず例外なく寺から追放された。

それでも僧の堕落に歯止めをかけることはできず、幕府はひんぱんに女犯の僧を流罪に処したり、江戸においては日本橋のたもとに晒(さら)し者にしたりした。僧の女犯は、僧の自戒(じかい)ではなく幕府の強権によってかろうじて止められていたといえる。

ところが、明治時代に入って様相は一変することとなった。明治五(一八七二)年四月二十五日、太政官(だいじょうかん)布告第一三三号が出された。それは「自今僧侶肉食(にくじき)妻帯蓄髪(ちくはつ)等可為勝手事但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」(今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず)という内容である。この太政官布告によって、僧の肉食、妻帯、蓄髪が許された。

江戸時代、幕府が諸宗教の布教に強い制約を設けたことによって、日本の宗教はことごとく活力を奪(うば)われていった。その一方で、寺檀制度によって各寺の檀徒が固定化されることによって、僧の生活が保障されていた。

この民衆救済の活力を失った宗教家たちが、明治維新後の解放感の中で、妻帯を許され、またたく間に堕落していったのは、むしろ当然の帰結(きけつ)といえる。

明治十(一八七七)年九月、浄土宗の僧である福田行誠は、この太政官布告による仏教界の放埒(ほうらつ)ぶりを憂(うれ)い、その布告の撤回(てっかい)を明治政府に求めた。

仏教界の一部のこうした反発に対し、明治十一(一八七八)年二月、内務省は、「従前古来の所業を禁止せし国法を廃(はい)せられ候趣旨(しゅし)の止め、決して宗規関係之なき訳に候条、此旨心得の為相違候事」との番外通達を出している。

すなわち明治五年に出した「肉食、妻帯、蓄髪を認める」の太政官布告は、従来、国法をもって厳禁(げんきん)していたことを廃止するとの趣旨であり、各宗の宗規もその太政官布告に則(のっと)れと命令しているものではないと通達したのだ。

だが実際には、明治五年の太政官布告によって、各宗派とも僧の妻帯は当たり前のようになってしまった。

この明治政府の出した、僧の「肉食、妻帯、蓄髪を認める」という太政官布告の背景には、明治政府の廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)の統治政策があるとするのが、今日の大方の見方である。

明治政府という近代天皇制国家は、国民を統治し国威(こくい)を発揚(はつよう)していくうえにおいて、神道を国の基においた。天皇を万世一系・皇統(こうとう)連綿(れんめん)の神格を有する現人神(あらひとがみ)と位置づけ、国民をその神民(臣民)とすることによって、国家の統治を容易かつ強固なものとしようとしたのである。

だが、国家神道を国民に徹底するうえで、仏教思想は邪魔(じゃま)なものであった。仏教は江戸時代にあっては、国家権力を補完(ほかん)するものとして骨抜きにされたうえで重用されたが、神道を国の基とする明治の時代になって、一転、邪魔物視されることとなったのだ。明治政府の廃仏毀釈政策は、その代表例である。

この明治五年の太政官布告も、そうした政策の一環(いっかん)をなしている。退廃(たいはい)した仏教界に渦巻く女犯への放縦(ほうじゅう)な欲望―、その欲望にそれまでタガをはめていたのは、ほかならぬ徳川幕府の強権であった。

明治政府はその女犯への欲望を解き放ってやることによって、日本の仏教界を腐敗・弱体化させ、神道の社会的地位を相対的に高めようとしたのだ。

日蓮正宗も、明治政府の腐敗・弱体化政策の罠(わな)に簡単にはめられてしまった。以来百余年。今日、日蓮正宗の僧侶社会は一部の血族によって支配される、特殊な閉鎖的集団となってしまっている。

その血族集団が宗教的権威を独占し、民衆の信仰の活力を血族の繁栄のみに利用しようとしている。日蓮正宗は宗団の底流にあるこの前近代的構造を破壊しなければ、現代社会に適応することは不可能である。

妻帯により出家集団の根本的腐敗が始まった

いま日蓮正宗の抱える腐敗、堕落、退嬰(たいえい)、無気力、葛(かっ)藤(とう)、争闘(そうとう)、権勢(けんせい)、虚栄(きょえい)、これらことごとくの問題の基底(きてい)に、妻帯の業因(ごういん)が横たわっている。日蓮正宗僧侶にとって妻帯について考えることは、不可避(ふかひ)の今日的問題といえる。

総本山第五十二世日霑(にちでん)上人は、明治の時代にあって日蓮正宗僧侶の妻帯の現状を憂(うれ)い、次のように語っている。

日霑上人の憂宗(ゆうしゅう)の指南は、今日においても不朽(ふきゅう)のものであることは言うまでもない。かなりの長文となるが、精読(せいどく)を願いたい。

「(略)肉食妻帯する者ありとも夫(そ)れは其の宗々の掟(おきて)もあることなれば、天下の法律をさへ犯さざれば夫れ等の事は朝廷に於ては御構(おかまえ)ひなきことそ、佛祖の制禁を守り、宗意を全(まっと)ふするも、制禁を犯し宗意を破るも、其れは僧等の自主自由たるべしとの御趣意(しゅい)を以て一(ひ)とたび、已後の僧侶に於て肉食妻帯勝手たるべしとの御布達が出るや否(いな)や、諸宗の僧侶其に悦(えつ)をなし實(じつ)に佛にもまさる朝廷の御慈悲かなと涙を流してありがたがり、今まで隠し置きたる大黒とやら云ふ者を、急に明るき所へ引き直し、葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さずと云ふ石碑(せきひ)の立たる表門より、魚商人を呼び入れ入院の祝儀(しゅうぎ)に魚肉を以て檀家を饗應(きょうおう)し或は男子女子の節句とて本堂の前に幟(はた)を建て、雛(ひな)人形をかざりし寺もありしなど、申す風聞(ふうぶん)も有たことでござるが實に苦々(にがにが)しき咄(はなし)ではあるまいか、夫れは諸宗一同おしなべてそうでもあるまい中には昔しに愧(は)ぢず護法(ごほう)の志を勵(はげ)まし、堅く佛祖の宗意を守り持戒清潔たる僧衆も、あるではござらふが、右申すごとく舊(きゅう)政府の如く嚴重(げんじゅう)に行はれし時でさへ、犯戒の者多くありしことでござれば、是の上の所は實に以て思ひ遺らるゝ事で、是れ即(すなわ)ち徒が我れと廢佛(はいぶつ)の災(わざわ)を招くと申は是のことでござる、爰に一僧有りて難じて云く末法は無戒なること論なし、故に傳教大師の末法灯明記に、設(も)し法末の中に持戒の者あらば、既に是れ恠異なり、市に虎の在るが如し、

 

第52世・日霑上人

 

此れ誰か信ずべけんと釋(しゃく)し給ふ。今は是れ末法も末法、已(すで)に末法に入て八百絵年の末に及べり、其上彼の記の中に末法無戒の時名字の比丘の妻を、蓄(たくわ)へ子を挾(さしはさ)むとも、苦しからざるの明文を引證(いんしょう)し給ふ則ち賢愚經の文に若し檀越(だんのつ)あらん、將來の末世に、法乗盡(つ)きんとす、たとひ妻を蓄はへ、子を挾ばさむとも四人已上の名字の信は、まさに敬視すること、舎利弗大目連の如くすべし等と見へたり、爾(しか)らは末法我等ごとき名字の信は妻を帯し子を持つとも、法義をさへ守らば、苦しからざるは素(もと)より佛の御免にして、加(くわう)るに今天朝の御許可ある上は、公然妻帯するとも、何の不可あるべき、爾るを上代清世の時の、祖師の掟(おきて)を固守して、末法下れる時の僧等に引當(ひきあ)て、是を以て廢佛(はいずつ)を我より、招くの基と云はんは、所謂(いわゆる)舊弊(きゅうへい)頑固(がんこ)の甚(はなはだ)しきものと云つべしと申されし趣(おもむ)きでござるが、是は己れが田地に水を引かんとする、得手勝手の僻(へき)法門と申ものでござる、まづ傳教大師末法灯明記に言ふ處(ところ)の持戒と云は論なく小乗の二百五十戒等を、一(ひと)つも破らず持つ者を持戒と云ふたことで、文の意は設(も)し佛滅度の後正像二千年過ぎて、持戒はさて置き、破戒すらなき一向無戒なる、末法の時に當て、彼の律宗の如く二百五十戒等を一も破らず是れを持てりと云ふ者あらば是れは恠しむべきの甚しきなり。譬(たと)はゞ千里の藪(やぶ)は置て雀(すずめ)の宿るべき篁(たけ)も見へぬ、東京抔の如き賑(にぎわい)の市中に虎が出たりと云ふが如く、是れは僞(いつわ)りの中の僞り、誰か是を信ずべきと、彼の律宗の誑惑(おうわく)を破し給ふ御釋(しゃく)でござるちや、女犯肉食の如き禁制は出家の常行にして末法今の時といへども、其の位なことを、犯さぬ出家はいくらもあることぢや、已に越後の謙信抔は、古今勇猛の大將で手つがら多くの人をも殺し、火をも放ち殊(こと)に川中島の合戦に武田信玄の旗本へ只(た)だ一騎にて切込み信玄と太刀打せし様などは中々人間業とは思はれぬ勢で斯(かか)る猛將も一旦(いったん)出家入道の姿となりし上は、生涯精進闕妻(けっさい)で有たと申すことでござる、亦(ま)た彼の石田三成に組せし安國寺惠瓊なども出家の身ながら武將に等しく終身軍事にのみ奔走(ほんそう)し終に關ケ原の役には、一方の大將謀主となり甲冑を着て弓箭(きゅうせん)刀鎗(とうそう)を手に握り、果ては首を獄門にかけられた惡僧ぢや、亦た支那には明の道行と云ふ僧は明の大宗に逆をすゝめ、其甥惠を追出し、明朝を奪はせ、終身軍事に奔走し、亦政事にも關係して黒衣の宰相(さいしょう)と呼ばれし事で、佛門より是れを見れば、法中の賊(ぞく)とも云べき悪僧でござるぢや、爾に是の二僧亦共に終身肉を食せず、其の君より侍女を賜(たま)はりし事も有たれども、更に身に近づけなかつたと申すことでござる斯かる人々すら猶(なお)愼(つつし)まれたる此の二箇條なれば、いかに末法の僧なればとて此の位なことを犯さざる者は随分澤山(たくさん)あるべきなれば、何ぞ是れ等をさして、市に虎あるが如く、珍しき事と釋し給ふの理(ことわり)あるべき爾らば此の釋に言ふ處の持戒とは全く小乗の二百五十戒等のことなるは論なきことでござる亦た賢愚經の文を以て、一途に妻を帯し子を持つことを、許したもふ文と、思ふは文盲(もんもう)の至りでござる、此の文に正使の二字あれば是はかりそめの御言葉でござるぢや、今具(つぶ)さに文の意を申さば、若有(にゃくう)檀越(だんのつ)と云ふは將來末世に佛法を護持(ごじ)する、在家の人に遺(のこ)し給ふ御言葉で意は我が滅後將來末世に、吾が正法を、護持する檀越は兼(かね)て心得あるべし、將來末世に於て吾が正法正に滅盡(めつじん)せんと、欲する時に當りては正使吾が禁戒を破り比丘の行儀を失ひ、妻を蓄へ子を挾む程の亂行(らんぎょう)をなす、名字の僧なりとも、若し四人已上(いじょう)の僧衆を其の室に同宿せしめ能々和合して爭(あらそい)をなさざるに於ては、是れ今や滅盡せんとする、吾が佛法の種を植え、能く傳(つた)へ持たしむる處の者であれば、我が將來に佛法を信敬(しんぎょう)し、護念(ごねん)ある檀那に於ては必ず此の乱行の僧の罪を問はず常に佛法を護持する、其の功を賞して、是を敬ひ視(み)ること、舎利弗目蓮の如くすべしとの經文て全く故なく猥(みだ)りに、妻子を蓄へる事を許したまふ、文にはあらざるなり。大聖人の御書に、大集經に云へる、五箇の五百歳の後に、無智無戒なる沙門(しゃもん)を失(とが)ありと云ふて是れを悩ますは此の人佛法の、大灯明を滅せんと思ふと、説(とか)れたりと遊ばされ、開山師の御遺戒(ゆいかい)に、先師の如く予が、化儀は、聖僧たるべし、但し時の貫首、習學の仁に於て、縱(たと)ひ一旦の妖犯(ようはん)ありといへども、衆徒に差(さし)置くべき事と、あるも同じ意にして文意を云はゞ、予が聖僧の化儀を破り、淫事(いんじ)を犯せし者なりとも、若し習學勉強にして、大法傳弘(でんぐ)の志し深き者に於て、時の貫首日興になりかはりて、彼れが一旦の犯罪を許し、大衆の中に加へ置くべしとの御意にして是れ亦た決して、故なく犯戒の者を許したまふ事ては御ざらぬじや、爾るに他宗門の僧徒が前に申ごとく、末法灯明記や賢愚經の文を依怙(えこ)として、妻帶肉食勝手たるべきの、御布達に牽強(けんきょう)附會(ふかい)し、此濫行(らんぎょう)をなして、自ら廢佛を招くは是非(ぜひ)もなきことなれども責ては我が門下許(ばか)りも斯(かか)る了簡(りょうけん)違ひなく、佛祖開山の御垂誡(すいかい)を守て、大法廣布(こうふ)の礎(いしずえ)を定めおきたきことでござる、大聖人の最蓮房へ賜はりし御書に云く、一御状に云く十七出家の後ちは、妻子を帶せず肉を食(くら)はず等云々、權教を信する大謗法の時の事は何(いか)なる持戒の行人といへども、法華経に背(そむ)く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千倍劣るなり、彼の諺法の比丘は、持戒なりといへども、無間に堕(お)つ正法の大俗は破戒なりといへども、成佛疑ひなきものなり、但し今の御身は、念佛等の權教を捨てゝ、正法に歸(き)する故に、誠に持戒の中に清浄の聖人なり、尤(もっと)も比丘と成ては權宗の人尚(なお)然(しか)るべし、況んや正法の行人おや、假使(たとい)權宗の時の妻子なりとも、かゝる大難に遇(あ)はん時は振り捨て・正法を弘通すべきの處に、自の地躰の聖人、尤も吉よし、尤も吉し相構へて相構へて向後も、夫妻等の寄せ來るとも、遠離(おんり)して一身に障碍(しょうげ)なく、國中の謗法をせめて、釋尊化儀を資(たす)け奉るべき者なり等云々それ箇様(かよう)に御妙判(みょうはん)遊ばされてござれば、是に背き天朝の御許しを、悦(よろこ)んで肉食妻帶の身を甘んずる一宗の僧侶は他門にもせよ自門にもせよ、皆是れ釋尊宗祖の化儀を破り、自ら廢佛を招くの輩(やから)ではござるまいか、爾ら自門中の僧侶たらん者は、先(ま)づ學問もせねばならぬが、夫(それ)よりも信心と身の行ひが肝要でござる、なんぼ博學(はくがく)秀才にして、内外典籍(てんせき)を胸に浮べたる僧たりとも、其身(そのみ)信心なく、行ひ亂暴(らんぼう)たらば還(かえっ)て在家の信を破り、自ら廢佛を招くの基となるべし亦同御書に曰く法華經の行者は、信心退轉(たいてん)なく身の詐親(さしん)なく、一切法華經に其身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申(もうす)に及ばず、息災延命(そくさいえんめい)にして勝妙の大果報を得、廣宣流布の大願をも成就すべきなり、南無妙法蓮華經南無妙法蓮華經斯く遊ばされてござれば、兎角(とかく)に大法の流布は眞俗の信心と行力とによるべきことでござる。(以上完)」

明治五年に出された太政官布告によって、“肉食妻帯蓄髪勝手たるべし”とのお達しが出たことによって、日本仏教界の僧職にある者が宗旨の隔(へだ)てを超えて、肉食妻帯蓄髪に走った。その出家という大前提をみずから破壊する破戒僧たちを憂(うれ)える先達(せんだつ)たちも、宗旨を超えて数多くいた。その人々は、妻帯女犯(にょぼん)が仏教を根本より腐敗させてしまうと危惧(きぐ)したのであった。

出家と名乗る者が女犯、妻帯する、この絶対的矛盾(むじゅん)を、文明開化の風潮(ふうちょう)の中でごまかすことのできない“僧”たちは、あらゆる宗団において仏教の危機を説いた。だが、いったん放たれた欲望を止めることはできなかった。煩悩(ぼんのう)の業火(ごうか)が道心をも焼きつくし、出家という名を有名無実にしてしまった。

ここより出家集団の根本的腐敗が始まる。出家の者たちは、みずから好んで人間の業火の中に身を投じたといえる。肉親と縁することにより生じる逃(のが)れがたき人間の業を断ち切り、一途(いちず)に衆生済度のために出離正道した者たちが、己の煩悩癒(いや)し難(がた)く、再び愛憎(あいぞう)渦(うず)まく業の世界へ舞い戻ったのだ。

これより出家を名乗る者たちの在俗の者たちに語れぬ苦悩が始まる。

 

機関誌に謗法広告を載(の)せる無節操

金ほしさに法義も平気で踏み外した日開

明治時代の大石寺は、一部の僧侶の乱脈(らんみゃく)によりひじょうに疲弊(ひへい)していた。大石寺というだけで、地元では塩一升も貸してくれないありさまであった。

明治・大正期の日蓮正宗の機関誌は『白蓮華』だった。この『自蓮華』は明治三十九年六月五日、「日蓮宗富士派宗務院」(日蓮正宗は明治四十五年までは、日蓮正宗富士派と名乗っていた)の名で、正式に「機関雑誌」として「公認」されている。以後、同誌には、宗派としての人事、公達(院達)などが掲載(けいさい)される。いわば、いまの『大日蓮』にあたる。

この正規の機関誌を維持(いじ)するにも、当時の日蓮正宗(日蓮宗富士派)は資金難のために悪戦苦闘していた。

そのため、『白蓮華』の第一巻第一号は「白蓮華の發刊(はつかん)に就きて」「白蓮華の發刊を祝す」という二つの文に続いて「功徳の母」と題する文を掲載している。『白蓮華』発刊に対する寄付を要望し宗内に呼びかけているのだ。その文を読めば、機関誌を発行するにあたって資金の捻出(ねんしゅつ)に、いかに苦慮(くりょ)していたかが手に取るようにわかる。

「一金の浄財は福徳圓滿(えんまん)なる、未來の大果を産(う)み出す處(ところ)の大功徳と變(へん)ずるのである、實(じつ)に一擧両得の大佛事ではあるまいか」

以上のように、まずは功徳を力説し、すぐさま、

「『白蓮華』の發行せらるゝは、実に現今の機擬(きぎ)に適切なる布教の機關であると思ふ、此事業を見の素振聞かぬふりして、之が補助をせなかつたなら、宗祖本佛に封し奉りて罪障(ざいしょう)を背負はなければならぬ」

と、『白蓮華』発行に協力しない者は罪障を背負うと脅している。

その後につづく言葉もふるっている。

「諸君に懈怠(けたい)謗法の罪を造らせないように、豫(あらかじ)め警告するのである」

この表現は実にストレートだ。『白蓮華』の発行に協力しない者は「懈怠謗法」だとしている。

いずれにしても『白蓮華』発行は、日蓮正宗あげての事業であり、布教の要(かなめ)に位置するものであった。それだけの金科玉条を翳(かざ)しての出版であったが、金のためには実に節操(せっそう)がなかった。協力しなければ「懈怠謗法」とまで威丈高(いたけだか)に述べていながら、『白蓮華』発行にたずさわった僧らは、金のために謗法を甘受(かんじゅ)してしまうのだ。

掲載されている広告は、実にお粗末(そまつ)なものである。とてもではないが、宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人に言上(ごんじょう)のしようがない代物ばかりである。ここにその一部を紹介する。

まずは達磨(だるま)の絵が大きく描いてある広告である(上段図参照)。仏具店の広告だが、「木魚」「般若心経」「仏像」まで、日蓮正宗の機関誌で宣伝することはあるまいにと思う。

この広告は大正二年二月七日発行の第八巻第二号より始まり、同年十二月まで十一回連続で掲載される。翌大正三年にも、二月、五月、七月と掲載され、つごう十八回も登場した。

 

「達磨」を使った広告

この当時の『白蓮華』の発行責任者は阿部法運である。阿部法運といえば、のちの総本山第六十世日開のことで、当代日顕の父にあたる。

いかに困窮(こんきゅう)しているとはいえ、達磨の絵を機関誌に大きく掲載して、お金をもらうようになってはおしまいである。

この達磨の広告は、傲(おご)れる出家に供養する信徒のありがたさを教えて余りあるが、一方で日蓮正宗の僧が、謗法に対してかつてはさして厳しくなかったこと、金がなければ平気で法義も踏み外したことを物語っている。

大謗法のきわめつけは御本尊をあつらえた織物広告

そのほかにも、『白蓮華』に掲載された謗法広告には驚くべきものがある。“達磨の絵の広告”などは、まだ序の口。大謗法のきわめつけは、日蓮大聖人のおしたためになった御本尊をあつらえた織物の広告である。

掲載した広告の写しをじっくり見ていただきたい(一五六ページ参照)。

まず一行目に、「日蓮上人御眞筆御本尊織込純金欄(らん)」とある。.日蓮大聖人の御真筆の御本尊を純金欄の下地に織り込んだものとの意味である。細かな宣伝文を読むとわかるが、大きさは縦一尺七寸・横五寸五分余というから、縦約五十センチ・横約十六センチである。

「紺紙(こんし)金泥(きんでい)に描きたるものより尚(なお)一層鮮麗(しょうれい)」といった表現、「一枚の紺地純金欄へ緻密巧妙(ちみつこうみょう)に織り現はしたり」と記していることなどから想像するに、どうもこの「御本尊」は、金糸の散りばめられた紺色の地に、文字を金糸で織り込んだものと思われる。紺のバックに金の文字ということになるわけだが、かなり不気味な雰囲気のものが想像される。

広告文中において注目されるのは、「我宗祖日蓮上人」といった記述があることだ。この広告を掲載しているのが日蓮正宗の機関誌『白蓮華』であることから、広告の対象者はもちろん日蓮正宗の僧俗である。だから「我宗祖日蓮上人」といった表現をもって、日蓮正宗の僧俗に、この織物の「御本尊」を買うことを勧(すす)めたものと思われる。

織物の「御本尊」なるものを売っている者が、「我宗祖日蓮上人」と、日蓮正宗僧俗に同志的親近感をもって呼びかけていることに、少なからず抵抗を感ずる。

それにしても、この紺地に金文字の「御本尊」を売っている大謗法者が、日蓮正宗の機関誌に堂々と広告を載(の)せていた事実には驚愕(きょうがく)せざるをえない。「一幅特價(とっか)金貮圓」ということだから、当時にしてみれば大金である。日蓮正宗の信徒の中に、大枚二円を支払って織物の「御本尊」を買った者は何人いただろうか。

業者がこのような大謗法を犯して儲(もう)けたお金を、当時の日蓮正宗僧侶が、たとえ広告代の名目であれ受け取っていた事実は、絶対に許せないことである。まさに与同罪まぬかれ難いものがある。

また、織物の「御本尊」を売っていた業者が、「御本山用達」を名乗っていることも驚きである。それに「御本尊」を広告に出し、「天下一品」とはいったいどういう感覚であろうか。

この織物の「御本尊」の広告は、大正二年発行の『白蓮華』第八巻第十号以降、つこう七回掲載されている。当時の『白蓮華』の発行人は日顕の父・阿部法運であった。阿部法運が発行人になってからというもの、謗法広告の掲載の度合は飛躍(ひやく)的に増えたのである。

ここで想起(そうき)されるのは、理境坊住職の小川只道である。平成三年六月、小川は、大石寺を見学に訪れた医師会の人たちから謗施(ぼうせ)を受けとり、「パンフレット」と「羊羹(ようかん)」の代金だったと言い逃れをしている。

日顕が、未入信の人たちから謗施を受けとった売僧(まいす)・小川只道を処分しないので不思議に思っていたが、父である日開が、謗法広告を掲載してお金を受けとり平気でいたのを見ていると、日顕が小川を罰することができないのは無理からぬことだと合点(がてん)がいく。

『白蓮華』(大正二年十一月発行)は、ごていねいにも「謹告(きんこく)」として、「皆さん此(この)廣告(こうこく)を是非(ぜひ)見て下さい」と書いている。その左に、この「日蓮上人御眞筆御本尊織込純金欄」の広告が出ている。

「謹告」には次のような文も出ている。

「本年もまさに歳晩に近つき整理上の都合も御察し下され且(か)つ本誌の慧命を續(つづ)くと思食(おぼしめ)し本誌購讀料金の未納分を御捨置(おすておき)なく御拂込(はらいこみ)被下度(くだされたく)希望致候也白蓮華社會計部」

 

「祈祷秘要録の広告」
「祈祷秘要録の広告」
なんだか、読んでいるだけでみじめになってくる。宗開両祖の末流としての気概(きがい)など、とてもではないが認め難い。このときの発行人も阿部法運であることは言うまでもない。『白蓮華』掲載の広告を見れば、日蓮正宗の僧侶が謗法払いにまったく無関心であったことがわかる。

今日に至っても、日蓮正宗の法華講の中に、謗法を祀(まつ)っている者が多いのも、なるほどとうなずけよう。

邪宗邪師の出版物まで機関誌で宣伝していた宗門

日蓮正宗の機関誌であった『白蓮華』の謗法広告は、これまで紹介したもののほかにも数多くある。

「北天教光社」の広告も、日蓮正宗の機関誌に載(の)せるようなシロモノではない。

まず同社は、『祈禱(きとう)秘要録』という本を宣伝している。宣伝文には次のようにある。

「本書は祈禱界無二の寶典(ほうてん)にして、祈禱修法、呪術一切、御符(ごふ)一切、すべて祈禱の要訣(ようけつ)を録せるものにして實に衆生救護(くご)の大秘典也本書あれば如何(いか)なる祈禱法も爲(な)し得らるべし從來秘して傳(つた)へずと云へる非文明の沙汰(さた)を破りて本書出でたり」

「本光院編」ということだから、どこかの邪宗の寺でつくられたのだろう。「祈禱修法」「呪術一切」「御符一切」が書いてあるようで、この本が「衆生救護の大秘典」を自称しているのには、顔をしかめざるをえない。

日蓮正宗の僧侶は、邪法邪師の本を自宗の機関誌で宣伝させ、お金をもらっていたのだ。貧(ひん)すれば貪(どん)するというが、あまりに浅ましい姿である。

『説教百座要集』という本の広告も出ている。宣伝コピーを読めば、どうやら説法のタネ本のようである。このタネ本を買った日蓮正宗の僧が、浄土宗、禅宗などの坊主とまったく同じエピソードを引きながら、口蓮大聖人の仏法を宣揚(せんよう)している情景を想像すると、なんともおぞましいものを感ずる。

創価学会が出現する以前の日蓮正宗の僧は、この程度であったのだ。

これらの広告は、大正三年三月号発行の『白蓮華』などに、先述した織物の「御本尊」の広告と一緒に掲載されている。このときの発行人も、日顕の父・阿部法運である。

このような歴史的事実を見ていけば、創価学会出現前の日蓮正宗が、いかに濁(にご)りきったものであったかが充分に理解される。この濁りきった法脈を正し、日蓮大聖人の仏法を蘇(よみがえ)らせたのは、言うまでもないが創価学会であった。

かつての貧しかった時代には謗法を排除(はいじょ)することもできなかった僧侶たちが、いま創価学会の寄進により裕福(ゆうふく)になると、ベートーベンの「歓喜の歌」すら謗法であるとして創価学会員に歌うなと「指南」する。

日蓮正宗の僧は、信徒をいじめるときだけ謗法厳戒(げんかい)を口にするのである。その証拠に、塔中坊の根檀家(ねだんか)に対しては、どんなに謗法まみれであっても何も言わない。日蓮正宗の僧侶たちは、黙って供養する者には実に甘いのだ。

ここに日蓮正宗僧侶の本質があらわれていることを見逃してはならない。彼らは、日蓮大聖人の教えを信徒支配の道具に使っているだけなのである。信徒に向かって声高に「正法正義」を述べるとき、その裏には信徒支配の欲望のあることを見抜くべきだ。

もう一つ謗法広告を紹介しておこう。

「丸岡衛生堂」より発売されている「六神丸」という薬の宣伝である。大正二年五月発行の『白蓮華』に掲載されている。

 

「六神丸」の広告

「丸岡衛生堂」はこの「六神丸」を宣伝するにあたり、「大谷派議制局ヨリ賞讃(しょうさん)書賜」と記したり、「本派本願寺事務所」「本山本法寺貫主伊藤日修猊下」より賞讃されたことを宣伝文句にしている。ここで紹介したカギカッコ内の文字は、広告の中でずば抜けて大きく書かれている。

日蓮正宗の機関誌が、東本願寺や日蓮宗他派に賞讃されていることを、わざわざひきあいに出した広告を掲載するとは、はなはだしい無節操(むせっそう)さである。

『白蓮華』には、このたぐいの宣伝が、これでもかこれでもかと掲載されている。

ちなみに、『白蓮華』を発行していた「白蓮華社」は総本山大石寺内にあった。

大御本尊の写真まで撮らせていた宗門

一閻(いちえん)浮提(ぶだい)総与(そうよ)の大御本尊の写真を掲載した本がある。写真は、御宝蔵に御安置されていた大御本尊を、至近(しきん)距離(おそらくは数メートル)から撮影したものである。この写真は、縦十・三センチ、横七・三センチの大きさで掲載されている。

大御本尊の写真を掲載している本は、明治四十四年十一月十日、報知社より発行された『日蓮上人』で、著者は熊田葦城(本名熊田宗次郎)である。

熊田葦城著の『日蓮上人』は、明治四十四年、『報知新聞』に連載されたものだ。執筆(しっぴつ)当時、熊田は浄土宗の信者であったが、この『日蓮上人』と題する伝記を著(あらわ)したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の信徒になった。

さて、この熊田の『日蓮上人』には、先述したように一閻浮提総与の大御本尊の写真が掲載されているが、その写真の下の解説文には次のように書かれている。

「これ日蓮上人より日興上人に傳(つた)へられたる本門戒壇の大本尊なり丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏(ほうぞう)す由井一乗居士特に寄贈(きぞう)せらる」

この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊の写真を熊田葦城に渡したということだ。

熊田は、日蓮正宗機関誌『白蓮華』(大正四年十一月七日発行)に「余の改宗せし顛末(てんまつ)」と題し、入信の経緯(けいい)を書いている。その中に、「由井幸吉君は日蓮宗の碩学(せきがく)にして、最も余の記事を歓迎せられし一人なり」と記している。

 

ここに「日蓮宗の碩学(せきがく)」とあるのは、身延派を指す「日蓮宗」ではなく、日蓮大聖人を宗祖とするという意味での「日蓮宗」であり、由井は日蓮正宗の信徒である。この手記によれば、熊田は大正二年五月、由井幸吉の折伏により入信した。

この由井幸吉が「由井一乗」である。由井一乗は、大正十五年一月号の『大日蓮』に名刺広告を出している。肩書は大講頭である。

熊田がその著『日蓮上人』に、一閻浮提総与の大御本尊の写真を掲載したのが明治四十四年。その写真解説文には由井一乗が写真を提供したことが明記されているのに、由井は日蓮正宗内でなんら処罰(しょばつ)もされなかったのだ。

『日蓮上人』に掲載された大御本尊の写真を見ると、燈明(とうみょう)がともっている。左右に一本ずつのロウソクが点灯(てんとう)しているのである。察するに、この大御本尊の写真は決して盗み撮りされたものではない。盗み撮りしたのであれば、燈明をともす時間も惜(お)しむだろう。

御開扉のときに盗み撮りしたとも考えられるが、狭い宝蔵の中でそれは不可能である。しかも宝蔵内は薄暗く、撮影に充分な露光(ろこう)を得ることはできない。ライティングかフラッシュが必要である。故に御開扉のときに盗み撮(ど)りすることは絶対に不可能である。

また当然のことながら、在家の由井が勝手に宝蔵に入ることも不可能だ。よって、この大御本尊の撮影は、由井の独断(どくだん)ではなく、僧の了解をもっておこなわれたと結論せざるを得ない。それも一部の僧ではなく、“法主”および能化クラスの了解があったものと思われる。いや、全山あげての了承があったとするほうが自然かもしれない。

念のために記すと、明治四十四年当時、日蓮正宗には第五十五世日布、第五十六世日応が隠尊(いんそん)としており、第五十七世日正が“法主”をしていた。

 

「日蓮上人』に掲載された戒壇の大御本尊の写真

 

この一閻浮提総与の大御本尊の撮影が、日蓮正宗内で物議(ぶつぎ)をかもしたという記録は見当たらない。大御本尊の撮影は日正らの了解をもっておこなわれ、由井一乗から熊田に渡ったと見るのが妥当だ。

広宣流布のプランも情熱もまったく欠落していた日蓮正宗

熊田の『日蓮上人』伝は、史実を克明(こくめい)に調べている。また、熊田は未入信ながら、ほぼ大石寺側に立って記述している。

『日蓮上人』には、付録(ふろく)として、「日蓮宗身延久遠寺監督権僧正武田宣明」が熊田に宛てた手紙が掲載されている。

手紙の内容は、熊田の『日蓮上人』が「単に興門派の所伝にのみ拠(よ)りて日蓮宗の史実を参案とし給はざりしは甚(はなは)だ遺憾(いかん)に存候」として、抗議をしたものだ。熊田の書いた『日蓮上人』伝は身延派の憤激(ふんげき)を買ったようで、バランスを取るため、付録として身延派の僧の抗議文を掲載したものと思われる。

逆に言えば、熊田の著書『日蓮上人』に対する富士大石寺側の評価はそれだけ高かったのだろう。一閻浮提総与の大御本尊が撮影され熊田に渡った背景には、そのような事情があったと推測(すいそく)される。

それを裏づける広告が、昭和七年一月号の『大日蓮』に掲載されている。

その広告は「熊田葦城先生著日蓮大聖人」と大書され、次のような宣伝文が続いている。

「本書は熊田葦城先生が心血(しんけつ)をそゝひで執筆(しっぴつ)せられた、宗祖日蓮大聖人の御一代の歴史でありまして数ある日蓮大聖人の御傳記中尤(もっと)も正確のものであります」また定価二円を、日蓮大聖人六百五十年「御遠忌(おんき)記念」として、一円三十銭に値引きしていることも告げている。広告主は「大日蓮社」。日蓮正宗機関誌『大日蓮』の発行元である。

これらの事実から推(すい)して、一閻浮提総与の大御本尊の写真が流出したことについて、日蓮正宗の僧侶の面々は何の痛痒(つうよう)も感じていなかったことが判明するのである。

「此の御筆(おふで)の御本尊は是れ一閻(いちえん)浮提(ぶだい)に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然(しか)れば則(すなわ)ち日興門徒の所持の輩(やから)に於(おい)ては左右無く子孫にも譲(ゆず)り弟子等にも付嘱(ふぞく)すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可(べ)し、是れ偏(ひとえ)に広宣流布の時・本化国主御尋(たずね)有らん期(とき)まで深く敬重(けいちょう)し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)

 

日興上人の遺言により、本化の菩薩が到来する日まで固く守るように誡(いまし)められている大御本尊を、写真に撮って世間に公開するとは、日興上人の末流としての自覚に欠けるのもはなはだしい。御本仏日蓮大聖人の御遺命を無視し、大聖人を裏切る行為である。「守護」を命じられている者が、勝手に大御本尊を写真に撮って世間に公開するなど、絶対に許されるべきことではない。

熊田の著書『日蓮上人』に一閻浮提総与の大御本尊の写真が掲載されたことからはっきりしたことそれは、少なくとも明治の終わりから大正、さらに昭和の初めにかけての日蓮正宗の僧たちには、広宣流布の時を、自分たちでどのように構築していくかというプランも、その前提となる大情熱もまったく欠落していたということだ。

「本化国主の御尋ね」を、より現実的なものとして感じていれば、時が来れば本門戒壇堂に安置されるべき一閻浮提総与の大御本尊を、写真に撮って公表するなどということはありえない。法義の根幹(こんかん)を完全に忘れ去った姿であったことがうかがえる。

熊田葦城に一閻浮提総与の大御本尊の写真を渡した由井一乗は、昭和四年五月十三日、総本山第六十世日開より総講頭に任命された。そのとき、日開より由井一乗に「賞與大漫荼羅」(賞与御本尊)と賞状が与えられた。

賞状には、由井を称えて、「多年爲法外護(げご)ノ勳功(くんこう)ニ依(よ)リ大漫荼羅ヲ賞與(しょうよ)シ之ヲ表彰(ひょうしょう)ス、昭和四年五月十三日総本山日開在判」とある。

一閻浮提総与の大御本尊の写真を世間に公表してしまった謗法の者が、総講頭に任じられ、賞与御本尊を下され、外護の勲功を称(たた)える賞状までもらっているのだ。

由井一乗が総講頭に任命されたのが昭和四年五月。創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長の入信は前年の昭和三年六月頃である。

後に戸田会長がしばしば語ったとされる、「我々は謗法の真っ只(ただ)中にに敵前上陸した」との発言が、実感をもって蘇(よみがえ)る。一閻浮提総与の大御本尊を守護すべき日蓮正宗にしてから、このようなありさまだったのだ。

 

北条弥源太が御供養した宝刀が盗難

室刀盗難事件を内密に処理しようとした宗門

小笠原慈聞が主宰(しゅさい)していた月刊誌『世界之日蓮』(昭和十六年十一月号)は、驚嘆(きょうたん)すべき事件を報じていた。宗祖日蓮大聖人が所持(しょじ)されていた、総本山大石寺のかけがえのない寺宝(じほう)ともいうべき「三條小鍛冶宗近の宝刀」などが、御宝蔵(ごほうぞう)から盗(ぬす)まれていたことを暴露(ばくろ)したのである。

「三條小鍛冶宗近の宝刀」とは、北条弥源太(やげんた)が日蓮大聖人に御供養申し上げた物で、宗祖日蓮大聖人は諸国への弘通(ぐつう)に、この太刀(たち)を所持されていたことが記録に残されている。

ちなみに、北条弥源太について触(ふ)れれば、北条弥源太は日蓮大聖人御(ご)在世(ざいせ)中、鎌倉幕府の実権を握(にぎ)る北条氏の一門でありながら、大聖人門下であった人である。

生没(せいぼつ)年など詳しいことは不明だが、文永五年十月、日蓮大聖人は「十一通御書」を認(したた)められたが、その一つは北条弥源太に宛(あ)てられたものであった。幕府権力に真(ま)っ向(こう)から折伏をもって臨(のぞ)まれた日蓮大聖人から見ても、北条一門である北条弥源太は、戦略(せんりゃく)的にも重要な役割を果たすべき立場にあったようだ。

その北条弥源太が、日蓮大聖人に太刀と刀合(あ)わせて二振(ふたふ)りを御供養申し上げたことがある。このことに触れて、日蓮大聖人より北条弥源太に宛られた御書が現存(げんぞん)している。

「又御祈禱(きとう)のために御(おん)太刀(たち)同(おなじ)く刀あはせて二つ送り給(たま)はて候、此の太刀はしかるべきかぢ・作り候かと覚へ候、あまくに或(あるい)は鬼きり或はやつるぎ・異朝(いちょう)には・かむしやうばくやが剣(つるぎ)に争(いか)でか・ことなるべきや・此れを法華経にまいらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀・

 

今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬(たと)えば鬼の道心(どうしん)をおこしたらんが如(ごと)し、あら不思議や不思議や、後生(ごしょう)には此の刀を・つえとたのみ給うべし」(弥源太殿御返事)

【通解】また御(ご)祈禱(きとう)のために太刀と刀と合わせて二振りをお送りいただきました。この太刀は相当な刀鍛治(かじ)がつくったと思われる。日本の天国(あまくに)あるいは鬼切(おにきり)あるいは八剣(やつるぎ)、外国(中国)の干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)の剣とどうして異(こと)なるであろうか。これを法華経(御本尊)に供養されたのである。あなたのお持ちの時は悪の刀であったが、今は仏前に来たのであるから善の刀である。譬えば鬼が道心を発したようなものである。後生はこの刀を杖(つえ)と頼みなさい。

この日蓮大聖人ゆかりの太刀と刀は、富士大石寺の寺宝として後世(こうせい)に伝えられてきた。「富士大石寺明細誌(めいさいし)」(『富士宗学要集』第五巻収録)には、「太刀三条小鍛冶宗近作二尺一寸一腰蓮祖(れんそ)の所持(しょじ)諸国弘通(ぐづう)の節(せつ)之(こ)レを帯す、北条弥源太殿より之レを献(けん)ず」と記されている。

この太刀と同時に北条弥源太より、日蓮大聖人に御供養された刀は、「富士大石寺明細誌」に記された刀のいずれに該当(がいとう)するかは、寡聞(かぶん)にして特定できないが、おそらくは先の太刀につづいて記(しる)されている「劔久国作九寸五分一口蓮祖弘通の節笈(おい)中に入る」ものではないだろうか。

いずれにしても昭和十六年十一月に、日蓮大聖人が身近(みぢか)に置かれていた太刀が盗まれたことが、表沙汰(おもてざた)になったのだ。『世界之日蓮』には「寶刀(ほうとう)盗難(とうなん)事件」として、次のような記事が掲載されている。

「十月初め愚生(ぐせい)の手元へ二本の『ハガキ』が配達された。『本山大石寺門徒有志』として一、昨年六月某日(ぼうじつ)夜本山御(ご)寶藏(ほうぞう)の錠前(じょうまえ)を破壊(はかい)してある事を翌日発見、其筋(そのすじ)の出張を請(こ)ひ内部を調べたるに『重寶(じゅうほう)』に異状なしとし、其(その)まま放任(ほうにん)せり。

二、然るに本年四月十五日靈寶(れいほう)虫拂(むしばらい)に際し什寶(じゅうほう)入れの長持(ながもち)を檢(しら)べたる處(ところ)驚(おどろ)くべし『三條小鍛冶宗近の寶刀』(大聖人所持)『波平行安』の銘刀(めいとう)(富田家寄附)外(ほか)六點(てん)計八點の銘刀紛失(ふんしつ)せることを發見し、総代は驚愕(きょうがく)措(お)く處(ところ)を知らず、是を宗務當局(とうきょく)に申込むと、此又(これまた)驚くべく當局は『警察署にすら盗人(ぬすっと)の逃げ入る當節(とうせつ)である』と放言(ほうげん)し、之(これ)を『秘密』に付(ふ)すべしと命ぜり、依て爾來(じらい)何等(なんら)かの措置(そち)をとるものと信じ、隱忍(おんにん)今日に及びたるに、今以(いまもっ)て其の様子も見えざるは奇怪(きかい)と申す外(ほか)なし。

三、右什寶(じゅうほう)入れの長持(ながもち)には『什物帖(じゅうもつちょう)』、二冊入れ置きたるに、之を破毀(はき)せるものか見(み)當(あた)らず、然(しか)らば右銘刀(めいとう)の外(ほか)何物が紛失(ふんしつ)せるや不明にして、今後調査の資料なきことを悲しまざるを得ない」(『世界之日蓮』昭和十六年十一月号)

この記事から確認できる事実は、「昨年六月某日(ぼうじつ)夜」御(ご)宝蔵(ほうぞう)の錠前(じょうまえ)が壊されていたが、このとき、一応は異状(いじょう)がないとされた。だが、昭和十六年四月十五日の虫払いに際し、日蓮大聖人所持(しょじ)の刀など八振(ふ)りの銘刀がなくなっていることが判明(はんめい)したのだった。

なお、「昨年六月夜」とは、昭和十五年六月十四日の夜のことである。

この宝刀盗難(とうなん)事件に対し、総本山第六十一世水谷日隆上人率(ひき)いる日蓮正宗中枢は、内部の責任を追及(ついきゅう)することもなく不問(ふもん)に付(ふ)し、事(こと)を内密(ないみつ)に処理しようとしていた。しかし、それを反主流であった小笠原慈聞らが公(おおやけ)にし、責任を追及しはじめたのだった。

この盗難事件は、日本の宗教界にとっても注目するに値(あたい)する不祥事(ふしょうじ)であった。『世界之日蓮』がこの事件を報じる直前、『中外日報』(昭和+六年十月九日付)が、「奇怪(きかい)大石寺に盗難無責任な本山當局」と題して同盗難(とうなん)事件を報道している。

報道内容は、先に紹介した『世界之日蓮』が掲載(けいさい)した「本山大石寺門徒有志」が出した「ハガキ」の文面を紹介するものであった。

 

御宝蔵の宝物を処分して私慾(しよく)にふける僧がたくさんいた

それでは、御宝蔵に厳重(げんじゅう)保管されていた宝刀は、誰が盗(ぬす)んだのか。いまだもって犯人は不明である。だが、当時、『世界之日蓮』などが指摘(してき)しているように、捜査(そうさ)当局は内部犯行と見ていた。

御宝蔵には「一夜番」という不寝番(ふしんばん)の僧が、事件当時もついていた。その者との連携(れんけい)がなければ、宝刀を盗(ぬす)み出すことは不可能である。もし「一夜番」の油断(ゆだん)をついたにしても、多くの長持(ながもち)の中から、金銭的価値のある刀八振りを所蔵(しょぞう)した長持を開け、それを盗み出すことは、とうてい不可能である。当時の捜査当局の睨(にら)んだとおり、内部犯行と見るのが妥当(だとう)だろう。

室町時代には、大石寺を丸ごと銭二十貫文で売りとばした三人の悪僧がいた。江戸時代にも、御宝蔵の中の宝物がしばしばなくなったようだ。堀日亨上人は、『富士宗学要集』(第八巻)に、「蜂須賀家臣斎藤忠右衛門等状」を紹介している。その書状の前文において、日亨上人は次のように書いている。

 

「祖滅(そめつ)三百五十九年此、敬台院の命(めい)を受けて斎藤武知の両臣が細密(さいみつ)懇切(こんせつ)に大石寺を護持(ごじ)するの件々此の状に溢(あふ)れたり、宝物(ほうもつ)厳護(げんご)の為(ため)に宝蔵番(ほうぞうばん)の僧員を増すべき事(こと)宝物の出納(すいとう)を大事にする事、什物(じゅうもつ)の法衣の扱を大事にして缺損(けつそん)無きやう注意する事、惣(すべ)て什物は永遠に寺附き常住(じょうじゅう)物、住職は交代のものなれば什物宝物を大事に扱(あつか)ふ事、住職によりては缺損の什物を補充(ほじゅう)して不都合(ふつごう)なからしむる仁(じん)もあるが、多くは什宝(じゅうほう)を売却(ばいきゃく)して私慾(しよく)にふけるもあり、宝物は当番交代の彼岸(ひがん)、盆、会式(えしき)前と三度に改めて受渡(うけわたし)を為(な)すべく虫払の日は七月の初に定めて準備を怠(おこた)らぬやう等数々の注意が為(な)されてある其(その)文の底には暗(あん)に精師(せいし)の住職として物質的扱ひぶりの不満が洩(も)らされてるやうで、能所(のうしょ)の性格の相違(そうい)や周囲の人々の感情も加(くわ)はつて居(い)るものと見ゆる」

当時の大檀那である敬台院が、「宝物厳護の為に宝蔵番の僧員を増すべき事」などを家臣(かしん)を通じて助言しているのだ。この文の中で注目されるのは、大石寺住職の「多くは什宝(じゅうほう)を売却して私慾(しよく)にふけるもあり」とされている点である。

御(ご)宝蔵(ほうぞう)にある宝物を処分(しょぶん)して、私慾にふける住職が多くいたのだ。住職がそうなら、その他の末僧に至ってはまったく信用ができない。そこで、相互監視(かんし)のためにも「宝蔵番」を増やせと助言している。大石寺の僧の中に、盗人(ぬすっと)がいることは、昭和の時代に始まったことではないのだ。

明治に入ってからは、大石寺の僧の放蕩(ほうとう)三昧(ざんまい)は限度を超えたものがあり、塔中(たっちゅう)のそこかしこで樽酒(さかだる)を囲(かこ)んで酒盛りをしていた。ために地元の大宮(富士宮市)あたりでは、大石寺だといえば塩の一升も貸さなかった。

あげくの果ては、遊興(ゆうきょう)費にこと欠いて、五重塔の銅瓦(どうがわら)をトタン板に替え、その銅瓦を売って代価を呑(の)み代にする坊主まであらわれたのである。

そして、昭和十五~十六年頃に至っては、日蓮大聖人由縁(ゆえん)の宝刀まで紛失(ふんしつ)してしまう。それも悪僧の内部犯行であることは、まず間違いない。

これが、創価学会出現以前の大石寺の赤裸々(せきらら)な姿である。末法の御本仏である日蓮大聖人の教法(きょうほう)を弘通(ぐつう)しなければならない富士大石寺にしてからが、まさに“法滅(ほうめつ)”そのままの姿を現じていたのだった。

 

「戦勝守護の本尊」を“販売”

日露戦争勃発(ぼっぱつ)をいいことに御本尊を売った日応

俗に“戦争屋”と言われる人々がいる。武器などを売って荒稼(あらかせ)ぎをする死の商人たちである。ところが、宗教界にも“戦争屋”がいる。やはり、戦争を渡りに船と荒稼ぎする輩(やから)である。

第五十六世・大石日応も、あるいは戦争屋といえるかもしれない。

日応は日露戦争にあたり、「御本尊一萬幅」を「特志者(とくししゃ)」に授与していた。「特志者」とは、一往は特別の供養をした檀信徒(だんしんと)のことである。その「特志者」に御本尊を授与していたと言えば聞こえはいいが、一万体を一挙(いっきょ)に授与するとなればおだやかではない。換言(かんげん)すれば、戦争勃発(ぼっぱつ)をよいことに、御本尊を売っていたに過ぎないのである。

当時、「東京市深川区東元町十八番地」に法道会本部は所在していた。法道会は、現在、豊島区に所在する法道院の前身にあたる。法道会本部が機関誌として発行していた『法乃道』の編集兼発行人は、早瀬慈雄。いまは故人となった日蓮正宗重役で法道院主管・早瀬日慈の父である。

この『法乃道』(明治三十七年四月発行第拾貮編)に、「皇威(こうい)宣揚(せんよう)征露(せいろ)戰勝大祈禱會(きとうえ)」についての記事が掲載(けいさい)されている。その記事の一部を抜粋(ばっすい)紹介しよう。

「尚(な)ほ法道會に於ては兩日(りょうじつ)參拜(さんぱい)者の淨財(じょうざい)を總(す)べて軍資金の内へ獻納(けんのう)しまた戦勝守護の御本尊一萬幅を特志者に授與(じゅよ)せられたり」(『法乃道』明治三十七年四月発行第拾貮編)

日露戦争の必勝を期(き)して「大祈禱會(きとうえ)」をおこない、そのとき集まった浄財(じょうざい)すなわち御供養は、すべて軍資金として「獻納(けんのう)」したというのである。御供養は御本尊へ捧(ささ)げられたもので、たとえ出家であれ、それを広宣流布のため以外に使用することはできない。

あろうことか、その御供養を軍へ戦費(せんぴ)に供(きょう)してくれと差し出したというのだから、その狂乱(きょうらん)ぶりはとうてい日蓮大聖人の末流(まつりゅう)と認めがたいものがある。そもそもの日蓮正宗(当時は日蓮宗富士派)は、ここまで狂っていたのである。

ここで「兩日」となっているのは、日露戦争開戰(明治三十七年二月十日)間もない三月十二日、十三日の「兩日」である。この両日、深川区の法道会本部で「皇威宣揚征露戰勝大祈禱會」が執行(しっこう)された。そして、このとき「祈禱會」」に参加し供養した者に、「戰勝守護の御本尊」が与えられたのである。

このときの「祈禱會」の様子についても、『法乃道』(同)は記述している。

「今其景況(けいきょう)を記(しる)さんに十二日は曇天(どんてん)なりしも兼ねて廣告並(ならび)に建札(たてふだ)等の手配行届きしを以(もっ)て自他の参拝者陸續(りくぞく)と詰掛(つめか)けぬ而(しか)して須彌壇(しゅみだん)は最も質素に而(し)かも嚴正(げんせい)に荘嚴(そうごん)せられ期定(きてい)の時刻に至(いた)り法主日應上人は僧衆を隨(したが)へて法席に就(つ)かせられ宗租大聖人眞筆大御本尊を開扉し讀經唱題等如法(にょほう)の式典を行はせられ尋(つい)で教會擔任(たんにん)教師早瀬慈雄は演壇に立(たち)祈禱會執行の旨意(しい)を演(の)べそれより有元氏土屋慈觀氏並に法主日應上人の演説ありたり」(同)と、まあこのような具合であった。

「祈禱會」では、質素であるが厳正に荘厳された「須彌壇」が設(もう)けられたことがわかる。その「須彌壇」に安置されたのは、「宗祖大聖人眞筆大御本尊」であった。「法主日應上人」が僧何名かを随(したが)えて読経唱題し、参拝者に「宗祖大聖人眞筆大御本尊」を御開扉したのだ。

その後、教会担任教師・早瀬慈雄と有元、土屋慈観、そして大石日応が説法をしたというのが、十二日の「祈禱會」のあらあらの様子である。

「戦勝守護」本尊を授与した第56世・日応

だが、ここでもっとも注目しなければならないのは、紹介した引用文の前の部分である。そこには、「兼ねて廣告並に建札等の手配行届きしを以て自他の参拝者陸續と詰掛けぬ」(同)となっている。いったいどこに「廣告」「建札」を出したのであろうか。

ここで思い起こされるのは、大正十年二月十六日、日蓮大聖人御聖誕七百年に際し、カーチス号という複葉機に御本尊を奉掲(ほうけい)し、空より布教のためのビラを撒(ま)いた事例である。

この史実(しじつ)からしても、大石日応が日露戦争の戦勝祈願をすることを知らせる「廣告」「建札」は、一般世間を対象になされたと見るべきだろう。それは「自他の參拝(さんぱい)者陸續(りくぞく)と詰(つめ)掛(か)けぬ」との表現からもうかがえる。これはいわゆる世間一般でいうところの“出(で)開帳(かいちょう)”がなされたと判断すべきだろう。

邪宗では“秘仏”を寺から出し、わざわざ都会や他地方に運び、自宗他宗の檀信徒にかかわらず拝(おが)ませ、布施を集めることをする。これを“出開帳”というが、日応も、日蓮大聖人御真筆の御本尊を信者であるなしにかかわらず拝ませ、自他宗の別なく金を集め、それを軍資金として軍に提供したというのである。

ここで「戦勝守護の御本尊一萬幅」は、誰に与えられたのかという疑問が涌(わ)く。「特志者」ということであるから供養をした、原則的には檀信徒ということになるのだが、実際はどうであったろうか。

法道院法華講は、今でも二千名の実勢(じっせい)であるという。その事実を踏(ふ)まえれば、「御本尊一萬幅」が檀信徒だけに与えられたとは思えない。

明治三十七年におこなわれた内務省の調査によれば、日蓮宗富士派の檀家数は一万六五五人、信徒数は一万四三六九人である。この檀信徒の数からすれば、自宗内に「御本尊一萬幅」を求める「特志者」を募ることは不可能である。

にもかかわらず、『法乃道』に「御本尊一萬幅」の記述があるのは、この号だけである。そうすると「特志者」という表現は、金を出す者すべてという意味ではあるまいか。日露戦争開戰にあたり反ロシア感情の沸騰(ふっとう)する巷に、金と引き換(か)えに一万幅の御本尊が消えていったようである。

『法乃道』(同)の記事は、

「因(ちな)みに云(い)ふ此(この)戰勝守護の御本尊は尚(なお)廣(ひ)ろく特志者に授與(じゅよ)せらるゝに付(つき)希望の人々は法道會本部に申込まるべきなり」と報じている。控え目にみて「特志者」が日蓮正宗の檀信徒であるとしても、金さえ出せば「戰勝守護の御本尊」を与えるという行為は許されるべきではない。

それも、開戦間もなく社会全般を蔽(おお)う異常な雰囲気の中で、大衆の不安心理に便乗(びんじょう)しての”商法”となればなおさらである。まさに嘆息(たんそく)せざるを得ない事態である。

 

六百五十遠忌の金集めに御本尊を売った日開

第六十世日開も御本尊を金集めの道具に使っていた。

ここに、昭和四年九月に「総本山第六十世日開」の名で出された「宗祖大聖人六百五拾御遠忌(おんき)御報恩記念事業資金募緣序」という文書がある。宗祖日蓮大聖人六百五十遠忌を翌々年に控(ひか)え、浄財(じょうざい)勧募(かんぼ)を宗内に訴えたものである。

日開はこの文書で宗内に六百五十遠忌の記念事業として、

「興學(こうがく)布教傳道(でんどう) 文書出版 五重之塔大修繕(しゅうぜん) 客殿の改修山門其他(そのほか)諸堂(どう)宇(う)の應急(おうきゅう)修理等の完成を期せんとす」

と表明し、次のように総本山の窮状(きゅうじょう)を記している。

「現在總本山の諸堂宇中殊(こと)に山門五重之塔の如(ごと)きは荒廢(こうはい)不朽(ふきゅう)甚(はなは)だしく時に應急(おうきゅう)の修繕(しゅうぜん)を加(くわ)ふるも今や姑息(こそく)の手入れも及ばず大修繕を要するに際し 一山の資材に據(よ)るは到底不可能の事に屬(ぞく)す 若し現狀の儘(まま)に委(まか)せんか 下種三寶(さんぽう)の大寶殿も再び修理の途(みち)なきに至らむ」

信者に供養を求めるというのに、まるで泣き落としである。あわれなるかな、売僧(まいす)にとって総本山の荒廃すらも、金を集めるための格好(かっこう)の材料となるのである。

ちなみに、ここで荒廃の極(きわ)みにあるとされている五重塔は、葺(ふ)いてあった銅瓦(どうがわら)を明治時代に総本山に巣(す)くう悪侶らがトタンに替え、銅瓦を売って飲み代などの遊興(ゆうきょう)費にしたため、屋根も軒(のき)も柱の一部さえも腐ったのである。

この五重塔は、時代は下ること昭和二十八年、戸田城聖会長率(ひき)いる創価学会により、やっと修復されたのである。この経過からして、日開が六百五士遠忌にあたり鳴り物入りで五重塔の修理を呼びかけたが、修復はおこなわれなかったようである。

売僧たる日開は、この六百五十遠忌記念事業を大義名分にしての金集めにおいて、御本尊をその道具に使っている。

 

日開の出した「宗祖大聖人六百五拾御遠忌御報恩記念事業資金募緣序」

同文書には、「御遠忌記念事業費寄附金募集及賞與(しょうよ)規定」が定められている。その第六条には、日蓮正宗が御本尊を金集めに使った打ち消しがたい史実(しじつ)を物語っている。以下、その引用。

「第六條寄附金完納者ニハ賞與大漫荼羅、尊號(そんごう)、賞状ノ三種ヲ以テ賞與(しょうよ)ス

一、壹千圓以上完納者ニハ賞與大漫荼羅及永代尊號ヲ授與(じゅよ)ス

二、五拾圓以上完納者ニハ大漫荼羅ヲ授與ス

三、弐拾圓以上完納者ニハ尊號ヲ賞與ス

四、弐拾圓以下完納者ニハ賞状ヲ授與ス」

「壹千圓」(現在の百五十万円相当)を供養すれば、「賞與大漫荼羅及永代尊号」を与えられる。「賞與大漫荼羅」は賞与大御本尊のこと。「永代尊号」は今でいう法名、戒名のことである。

今日の日蓮正宗の僧は、戒名をつけなければ成仏しないなどといっているが、かつては「壹千圓」も供養すれば、御本尊のおまけとして成仏を保証する「永代尊号」がもらえたのである。

「二」は「五拾圓」を供養した場合の褒賞(ほうしょう)を定めている。

「五拾圓」(現在の七万五千円相当)を供養すると、「大漫荼羅」を授与するというのである。

 

大聖人の第六百五十遠忌に際し大石寺が発行した「大法會奉行案内」

先の「賞與大漫荼羅」とこの「大漫荼羅」とに、どのような差があるのかについては寡聞(かぶん)にして知らない。知る必要も感じない。

はっきりしていることは、日蓮正宗“法主”たる日開が、宗祖日蓮大聖人が末法の民衆救済(さいど)のために顕(あらわ)された御本尊を、金集めの演出として差別化して売り出したということである。それも、宗祖日蓮大聖人の六百五十遠忌にである。

日開という売僧(まいす)にとっては、宗祖の死も御本尊も、金集めの口実(こうじつ)に過ぎないのである。

 

正邪のわきまえがなかった日蓮正宗の僧ら

さて、二年も前から金集めの大義名分に利用された六百五十遠忌であったが、いよいよ昭和六年の十月九日から十六日までの八日間、「宗祖日蓮大聖人第六百五拾遠忌」が日蓮正宗総本山大石寺でおこなわれることとなった。その六百五十遠忌参加者のために日蓮正宗大石寺がつくった「大法會奉行案内」という文書がある。この文書は、一枚の紙の表裏に印刷されている。

表には、「參拝のすゝめ」として大石寺の縁起(えんぎ)、「參拝案内」として「順路、交通」「宿泊」などが書かれている。傑作(けっさく)なのは、「當山(とうざん)附近の名所」が書かれていることである。「當山附近の名所」として次のようなものが挙げられている。

「▽下之坊南十八丁

▽妙蓮寺仝十四丁

▽北山本門寺東二十丁

▽西山本門寺西南二里余

▽駒止の櫻北二十丁

▽曽我神社仝廿五丁

▽工藤祐經の墓仝一里

▽音止の瀧仝一里余

▽白糸の瀧仝

▽人穴仝三里

▽猪之頭瀑園仝三里

▽富士頂上東北六里半

▽天母山東一里半」

「曾我神社」「工藤祐經の墓」は、「曾我物語」の素材となった曾我兄弟の仇(あだ)討(う)ちに由来するものであるが、神社まで案内して六百五十遠忌大法会への参加を募(つの)るほどに、日蓮正宗は落ちぶれていたのである。

「北山本門寺」にしても、この昭和六年当時は日蓮正宗が袂(たもと)を分かった本門宗に帰属していた。「西山本門寺」にしても同じである。いずれも教義を異(こと)にしている邪宗である。そのような邪宗の寺をも「名所」と案内するほどに、日蓮正宗の僧には正邪の弁(わきま)えがなかったのである。

その「名所」案内の上欄に「参拝」として、「本門戒壇大御本尊」「大聖人御肉牙生骨」「大聖人造初御影」「大聖人御霊骨」が説明文とともに紹介されている。まるで京都あたりの観光寺の案内書と変わりはない。

裏には「日蓮正宗総本山大石寺全図」が描かれており、自動車、汽車の時刻表が出ている。この裏にも「當山霊寶の主なる物」が、次のように列記されている。

「□本門戒壇大本尊 宗祖大聖人弘安二年十月十二日御筆

□御肉牙御生骨 宗祖大聖人御生前の御肉歯

□大聖人造初御影 法孫日法上人謹作木像御丈二寸二分

□紫宸殿御本尊 弘安三年三月宗祖大聖人御筆

□本門寺重寶御本尊 弘安三年十一月仝上

其他宗祖開山御筆御漫荼羅二十餘幅

宗祖御自筆御消息三十余通

開山上人御自筆御消息四十九通

□宗祖御所持太刀宗近作一口

□開山行者太刀宗近作一口

□國寶太刀吉用作一口

□紫銅巻龍三具足(宗祖御所持雨所三具足ト稱ス)

□其他古文書、古器物、古來傳持ノ美術品多數アリ」

戒壇の大御本尊も「古文書」「古器物」「美術品」も、同じ「當山霊寶」として一括(いっかつ)して扱われている。日開ら当時の日蓮正宗の僧が、どのような問題意識で大石寺で営(いとな)みをしていたかが、如実に伝わってくる記述である。

日露戦争当時、第五十六世日応は「御本尊一萬幅」を守り札のごとく売りさばき、第六十世日開は昭和六年の宗祖大聖人六百五十遠忌にあたり、御本尊を差別化し、金集めの道具とした。

この日開は、御本尊の誤写(ごしゃ)事件を起こしたが、日開の犯した御本尊誤写を追及した急(きゅう)先鋒(せんぽう)は、その後、戒壇の大御本尊の写真を“お守り”として「二円」で売る小笠原慈聞であった。売僧らが教義を盾(たて)に人を責めるとき、口にする大義名分は卑(いや)しき心を隠しているにすぎない。

 

死の恐怖につけこんだニセ本尊(導師本尊)

「十王信仰」「地獄信仰」という迷信を背景につくられた導師本尊

鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山などの各時代の人々を支配した考えは、末法思想であった。世相(せそう)もまた末法の世を裏(うら)づけるかのように、殺戮(さつりく)、強奪(ごうだつ)、下剋上(げこくじょう)の武力のみが公然(こうぜん)と幅(はば)をきかせ、飢餓(きが)が横行(おうこう)していた。

そのため、民衆は日常的に死を意識し、その死もまた今日のような安穏(あんのん)な死ではなく、刀刃(とうじん)によるもの、飢えによるものなど、いわゆる非業(ひごう)の死を意識していたにちがいない。

骸(むくろ)もあちこちに見かけ、埋葬(まいそう)することもなく路傍(ろぼう)に捨(す)てられたものからは腐臭(ふしゅう)が漂(ただよ)い、新しい骸は野犬や獣(けもの)の餌食(えじき)となり、古い骸は蛆(うじ)のすみかとなったことだろう。

まさに、この世は地獄絵の世界であり、そうした状況の中で聞く地獄の話に、人々は恐怖、戦慄(せんりつ)した。その恐怖、戦慄の度合(どあ)いは、科学がすすみ、あらゆる情報機器に囲まれた現代人には、とうてい理解できないことである。

もし、地獄を意識した昔の人々の心情を少しでも理解したいと思うならば、人里離(ひとざとはな)れた真っ暗な谷間で、ランプ片手に地獄に関して説かれた「経」を読んでみることも一計(いっけい)ではあるまいか。

たしかに、地獄思想は人間の心にある弱き心をからめとり、心の中に虚(うつ)ろで真っ黒な空洞(くうどう)を開けるだけの力がある。誰もが持つ暗愚(あんぐ)な心を引き込むだけの力を持っている。誰もが抱(いだ)く「死」への恐怖心が、地獄を身近(みぢか)なものにし、地獄への陥穽(かんせい)をいっそう大きく広げていく。

地獄は、生きている者にとっても恐怖となるが、その恐怖心はまた死者への憐憫(れんびん)の情をわかせることにもなる。父が、母が、夫が、妻が、わが子が地獄の責(せ)め苦(く)に嘆(なげ)いているのではないだろうか、もしそうだとしたら、それを助ける手立てはないだろうか。

すべての人間が持つ「死」への恐怖、縁(えん)ある者への晴。この、きわめて人間的な感情に葬式仏教は寄生(きせい)し、売僧(まいす)たちは何百年にもわたって、それを食い物にしてきたのだ。

あげくのはては、日蓮大聖人の偽書(ぎしょ)までつくり、人々の地獄への恐怖をあおり、追善供養を余儀(よぎ)なくさせ、ことあるごとに布施(ふせ)を巻き上げようとしたのである。

日蓮正宗の葬儀において奉掲(ほうけい)される導師本尊には、日蓮大聖人が御本尊の中に認(したた)められたことのない「閻魔法皇(えんまほうおう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」の二つの名が書き入れられている。地獄を代表するこの二つの名が書き入れられることにより、この本尊が死者の成仏に特別の効果があると装(よそお)ったのである。

つまり導師本尊(導師曼荼羅)は、「十王信仰」「地獄信仰」という迷信(めいしん)を背景につくられたニセ本尊だったのである。

日蓮宗身延派などにおいては、「閻魔法皇」「五道冥官」が書き加えられた曼荼羅を、特別に「臨終(りんじゅう)曼荼羅」と呼んでいるようだ。この「臨終曼荼羅」もまた、日蓮大聖人滅後に創作(そうさく)されたものであることはいうまでもない。

 

地獄絵図

日蓮宗において「臨終曼荼羅」とは、生者(せいじゃ)が臨終を間近にして授(さず)かったものであった。地獄に堕ちるのではないかという不安を生者から拭(ぬぐ)い去るために、特別に顕(あらわ)され、与えられたものである。

立正大学の松村寿巌教授によれば、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した「臨終曼荼羅」のうち、現存する最古(さいこ)のものは京都本圀寺第十六世日禛の筆によるものだという。

日禛は、天正二十(一五九二)年に「臨終曼荼羅」を書いている。天正二十年は、安土桃山期である。それ以降、江戸期の宝暦十三年(一七六三)年に身延山久遠寺第四十三世理天院日見までのものが、日蓮宗では現存しているようだ。

日蓮宗の「臨終曼荼羅」の多くは、曼荼羅上部に法華経の要句(ようく)を書き入れている。これもまた日蓮正宗の導師本尊と共通の特質である。

「閻魔法皇」「五道冥官」を配した「臨終曼荼羅」は、日蓮宗においては江戸期の寛文年間(一六六一年~一六七二年)を頂点に、時の経過とともにすたれていった。一方、日蓮正宗においては、今日に至るまで、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)之(の)印文(いんもん)」として葬儀専用の曼荼羅として重用(ちょうよう)されてきたのだ。

 

地獄絵図

それでは、今日の日蓮宗において、「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」を配した曼(まん)荼羅(だら)は、まったくその姿を見なくなったのだろうか。いや、現在も日蓮宗では同様の曼荼羅は用いられている。

ただし、死者のまとった麻(あさ)や木綿(もめん)、白紙などの白衣の腰から上の部分に、「閻魔法皇」「五道冥官」を配した曼荼羅を書き、経帷子(きょうかたびら)として使用している。この経帷子は別名・臨終曼荼羅、曳覆(えいふく)曼荼羅とも称(しょう)する。

この場合の臨終曼荼羅は、前に述べた臨終を間近にした生者に与えられた臨終曼荼羅とは意味合いを異(こと)にする。日蓮宗では、この経帷子を死者に装束(しょうぞく)として着させることにより、地獄の苦悩より脱(だつ)せしめることができるとしているのである。

死者に追善(ついぜん)をするにあたり特別の効能(こうのう)ありとする日蓮宗の経帷子は、日蓮正宗の導師曼荼羅と共通する役割を担っている。

 

日蓮宗各派が葬式仏教化していくなかではびこってきた臨終曼荼羅

日蓮宗において「閻魔法皇」「五道冥官」を特別に配した臨終曼荼羅(生者に与えられたもの)は、京都本圀寺第十六世の日禛のものが最古として現存しているが、そのほかにも、京都本満寺一如院日重、京都立本寺日泰、中山法華経寺日賢、池上本門寺日樹などのものが残っている。

臨終曼荼羅は、「十王信仰」「地獄信仰」に色濃(いろこ)く染(そ)まった民衆にとり入るため、日蓮宗各山でなかなかに重宝(ちょうほう)されたものであったようだ。

京都本圀寺の日禛が臨終曼荼羅を書いた天正二十(一五九二安土桃山期)年以前に、日蓮正宗に導師本尊を認(したた)めた者がいれば、その者が日蓮宗各派にさきがけてニセ本尊を創出(そうしゅつ)したことになるのだが、おそらく、本圀寺日禛より古い導師本尊は現存しないだろう。

それでは、いつ日蓮正宗に「閻魔法皇」「五道冥官」を配したニセ本尊が入り込んできたのだろうか。あくまでこれは推測(すいそく)にしかすぎないが、桃山期、第十五世日昌上人の登座(一五九六年)から江戸中初期、第二十三世日啓上人退座(一六九二年)までの要法寺系九代の法主の間において、用いられるようになった可能性が大である。

江戸時代、日本の各派仏教は寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)に統率(とうそつ)され、幕藩(ばくはん)体制を積極的に担(にな)う役割を負(お)わされた。それとともに、実質的に布教を禁じられ、収入拡大の道として葬式仏教化してゆくのである。

 

受派の領袖・本満寺日重が元和7(1621)年に書いた「臨終曼荼羅」の座配図

(*図右上)
死者の経帷子に書かれた邪宗・日蓮宗の「曳覆曼荼羅」 (*図左下)

日開が書いたニセ本尊である「未来曼荼羅」(枢や骨壺の中に入れた)
(*図右上)

葬儀において掲げないと成仏しないとする日顕が書いたニセ本尊の「導師本尊」 (*図左下)

 

寺社奉行は、三代将軍家光の時代に制度化された(一六一二五年)。以来、各派仏教は民衆を抑圧(よくあつ)する側(がわ)にまわり、死および死後への恐怖を煽(あお)り、それを唯一(ゆいいつ)まぬかれる方法として僧への従属(じゅうぞく)を強(し)いたのであった。

その従属の証(あか)しは、布施(ふせ)の額(がく)のみにより計(はか)られたといっても過言(かごん)ではないだろう。僧は徳川幕府の強権(きょうけん)と民衆の「死」への恐怖を最大限利用して、民衆から収奪しつづけたのである。

当時、民衆救済の情熱を失った多くの僧が熱心におこなったことといえば、幕府の権威・権力を背景に民衆を支配することと、葬儀・法事を利用して金儲(もう)けをすることだけだった。臨終曼荼羅が世にはびこることになったのは、日蓮宗各派が急速に葬式仏教化していったからにほかならない。

総本山大石寺第十五世日昌上人(一五九六年登座~一六二二年寂)の時代は、京都本満寺の日重が盛(さか)んに、臨終曼荼羅を顕(あらわ)していた頃である(現存する臨終曼荼羅のうち日重のものは最多で六体が確認されており、その六体は一六〇〇年から一六二二年の間に書かれている)。

日重から直接ではないにしても、京都ではびこったであろう臨終曼荼羅の影響が、京都要法寺出身の“法主”により大石寺にもたらされたとするのは、格別(かくべつ)無理な推論(すいろん)ではないだろう。

ニセ曼荼羅である導師本尊に認(したた)められている「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」は、日蓮大聖人の御書には一カ所も出てこない。

導師本尊に「五道冥官」が書き込まれていることを理由に、ニセ曼荼羅と断定(だんてい)する本紙『地涌』の指摘に反論するために、日顕宗の教学関係者は「五道冥官」あるいは「冥官」の言葉を、日蓮大聖人の御(ご)聖訓(せいくん)の中に探(さが)そうとしている。

だが、その試(こころ)みは徒労(とろう)に終わるだけである。「五道冥官」「冥官」という言葉は、日蓮大聖人の御書の中にはない。あるのは「五道」という言葉だが、それも「六道」と並記(へいき)されている事例(じれい)のみである。「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」も「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」も一切、日蓮大聖人の御書中に見いだすことはできない。

念のために記すと、「五道」は三カ所に登場する。繰り返すようだが「五道冥官」「冥官」は、まったく登場しない。「五道」が登場する箇所(かしょ)は次のような御書の文中である。

「三千塵点(じんてん)の当初(とうしょ)に悪縁(あくえん)の酒を呑(の)みて五道六道に酔(よ)い廻(めぐ)りて今謗法の家に臥(ふ)したり」(御義口伝)

【通解】迹門(じゃくもん)の意は、釈迦仏法の衆生は三千塵点劫(じんてんごう)という遠い

 

昔に、悪縁の酒、不信、謗法の心をおこして、その結果地獄から人、天にわたる五道、六道の不幸な生活を酔いめぐってきて、今また邪宗、謗法の家に生まれたというのである。

「我等(われら)衆生・五百塵点の下種の珠(たま)を失(うしな)いて、五道・六道に輪廻(りんね)し、貧人(ひんじん)となる」(御講聞書)

【通解】私たち衆生は、五百塵点劫に下種された珠(仏種(ぶっしゅ))を失って、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界の五道や、天界を含めた六道を輪廻して、貧人となって生まれるのである。

「設(たと)い又在在諸仏土(ざいざいしょぶつど)・常与(じょうよ)師(し)倶生(ぐしょう)の人なりとも・三周(さんしゅう)の声聞(しょうもん)の如(ごと)く下種の後に・退大取小(たいだいしゅしょう)して五道・六道に

沈輪(ちんりん)し給(たま)いしが・成仏の期(ご)・来至(らいし)して順次に得脱(とくだつ)せしむべきゆへにや」(最蓮房御返事)

【通解】たとえまた「在在、諸仏の上に、常に師と倶に生ぜん」という人でも、三周の声聞のように、下種された後に大乗を退転し小乗に堕(お)ちて五道・六道に深く沈んできたのが、成仏の時がきて順次に得脱されるゆえであろうか。

引用した御書のいずれも、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)と並列的(へいれつてき)に述べられている。「五道」も、「五道冥官(みょうかん)」といった「十王信仰」や「地獄信仰」に裏づけられたものとは異質(いしつ)なものである。

なお、日蓮大聖人の御書には「閻魔(えんま)」「閻魔法王」あるいは「地獄」などの名称(めいしょう)が登場するが、御本仏日蓮大聖人が「閻魔」「閻魔法王」あるいは「地獄」を記(しる)されるときは、信徒に対し、生きているときに信仰に励(はげ)むことを諭(さと)されてのことである。

「十王信仰」や「地獄信仰」などのように死者への追善(ついぜん)を強要(きょうよう)し、はては法要のたびごとに布施(ふせ)を信者から巻き上げようとする、葬式仏教的な考えとは正反対の目的で使用されている。成仏は本人の生前(せいぜん)の信仰にかかっていると終始(しゅうし)教えられているのだ。

それに反し、導師本尊は用語的にも歴史的にもまぎれもなく「十王信仰」「地獄信仰」に根づくものである。故人の成仏を、出家を呼んでの儀式の如何(いかん)に委(ゆだ)ねているのである。

 

日蓮大聖人の教法と「五道冥官」はまったく無縁

結論的にいえば、日蓮大聖人の教法(きょうほう)と「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」とはまったく無縁(むえん)で、それを御本尊中に認(したた)められるなどといったことはありえないことである。導師本尊(導師曼荼羅)は、ニセ物以外の何物でもない。導師本尊は、日蓮宗各派が葬式仏教化するなかでデッチ上げられたもので、檀徒を支配し収奪(しゅうだつ)するためのものなのである。

念のため、宗教法人立正安国会が日蓮大聖人の御(ご)真筆(しんぴつ)を集大成した「御本尊集目録(もくろく)」に当たり、そこに集められている百二十三体の御本尊の写真でも確認したが、「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」「五道冥官」の名はなかった。

余談(よだん)になるが、日蓮大聖人御入滅(にゅうめつ)に際し、枕頭(ちんとう)に掛けられたと伝えられている御本尊に、「臨滅(りんめつ)度時(どじ)の本尊」と呼ばれる御本尊がある。現在は、鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺に格蔵(かくぞう)されている。弘安三年十月に大聖人が認(したた)められた御本尊である。

この由来(ゆらい)は、日興上人の弟子である日代が日郷に与えた書状の中に、「御円寂(えんじゃく)の時の件(くだん)の曼荼羅を尋(たず)ね出(いだ)され懸(か)け奉(たてまつ)ること顕然也(けんねんなり)、勿論(もちろん)なり」(宰相阿闍梨御返事)とあることによるとされている。

この「臨滅度時の本尊」にも、「閻魔法皇」「五道冥官」は配されていない、他の御本尊同様に、該当する座配には「天照大神」と「八幡大菩薩」が配されている。

日蓮大聖人の御入滅にあたり枕頭に奉掲(ほうけい)されたとされる「臨滅度時の本尊」の由来が正しければ、臨終にあたり特別に奉掲(ほうけい)しなければならない、導師本尊のような別格の本尊などないということが歴史的に実証(じっしょう)されることになる。

ともあれ、「五道冥官」という、日蓮大聖人のまったく使われたことのない名称を御本尊の中に書き入れた導師本尊がニセ物であることは、あまりにも明白である。日顕は今後、このようなインチキ曼荼羅を書くようなことがあってはならない。

日蓮正宗宗務院は、一刻(いっこく)も早くニセ曼荼羅である導師本尊を末寺より回収すべきである。

日蓮正宗総本山大石寺発行の『昭和新定日蓮大聖人御書』には、「十王讃歎鈔(さんたんしょう)」「回向功徳鈔」などが収録(しゅうろく)されているが、これらは日蓮大聖人の御筆(おふで)になるものではなく、まったくの偽書(ぎしょ)である。

いずれの偽書も、死者が地獄で責(せ)め苦(く)にあっている様(さま)を詳細(しょうさい)に記述し、その苦しみから救う方法はただ一つ、僧を呼んで追善供養をすることだと、しつこいほど繰り返し述べている。

「十王信仰」「地獄信仰」の完成型は、僧による追善供養によって死者が救われるということである。すなわち死者の救済(きゅうさい)に、出家の介在(かいざい)が不可欠だとするものである。

しかし、本来、日蓮大聖人の教法にのっとる追善は、出家や在家に関係なく、生者(せいじゃ)の信心いかんにかかっているとされる。同じ追善の言葉を使っても、ここに大きな本質的な違いがある。

日蓮正宗の末寺の中には、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』に「十王讃歎鈔」が収録されていないことを不足に思ってか、『昭和新定日蓮大聖人御書』から、わざわざ「十王讃歎鈔」をコピーにとり、配(くば)っていたところもあった。「十王讃歎鈔」に説かれている、僧が介(かい)しての七日ごとの法要の必要性が、何よりも魅力的だったのだろう。

日蓮大聖人御入滅後に著(あらわ)された他宗派の文である『善光寺縁起』『塵添埃嚢鈔』に書かれた内容が、「十王讃歎鈔」にそのまま記(しる)されており、そのことからみても、「十王讃歎鈔」が偽作(ぎさく)であることは学問的に証明されている。

「十王讃歎鈔」は、いまでは学問的に西暦一三九六年~一四一一年の間につくられたものと特定されるまでになっている。ちなみに、日蓮大聖人は、西暦一二二二年の御生誕で、御入滅は一二八二年である。

思想的には「十王讃歎鈔」は、偽書「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」(一一九〇年~一二〇〇年の間につくられた)や「浄土見聞集」(一三五六年浄土真宗の存覚が著した)などの系譜(けいふ)に連(つら)なるものである。

十王とは、死者を期日ごとに裁(さば)く王で、初七日・秦廣王(しんこうおう)、二七日・初江王(しょうこうおう)、三七日・宗帝王(そうたいおう)、四七日・五官王(ごかんおう)、五七日・閻魔王(えんまおう)、六七日・變成王(へんじょうおう)、七七日・泰山王(たいぜんおう)、百箇日・平等王(びょうどうおう)、一周忌・都弔王(とじょうおう)(都市(とし)王(おう))、三回忌・五道(ごどう)輪轉王(りんてんおう)の十王を指す(「十王讃歎鈔」による)。

ともかく、「十王讃歎鈔」の内容は、日蓮大聖人の仏法とは異質(いしつ)の実に無慈悲なものであり、そこにあるのは、民衆に対する堕地獄(だじごく)の脅(おど)しのみである。このような偽書が、なぜ今日まで日蓮大聖人の御書として半(なか)ば信じられてきたのか、不思議でならない。

やはり、僧侶の祈念によってのみ成仏も追善もなされるといった、出家の側(がわ)の傲(おご)りが、「十王讃歎鈔」へ向けられる眼を曇(くも)らせてきたのだろう。

 

僧による追善のみで死者か救われるとする偽書「十王讃歎鈔」

偽書「十王讃歎鈔」については、大石寺発行の『昭和新定日蓮大聖人御書』の第一巻に全文が収録(しゅうろく)されている。興味のある方は一読されたい。ただし後味(あとあじ)は、すこぶる悪いものとなろう。最後まで読み切るには、異常な性向(せいこう)でもなければ耐(た)え得ないのではあるまいかとも思える代物(しろもの)である。

 

「十王讃歎鈔」は、なかなかの長文だが、その意を汲(く)んで趣旨(しゅし)をもっとえげつなく露骨(ろこつ)に表現したものに、「回向功徳鈔」がある。その冒頭(ぼうとう)の一部を紹介する。

「涅槃経(ねはんぎょう)二云(いわ)ク、死人に閻(えん)魔(ま)王(おう)勘(あ)へて四十九の釘(くぎ)をうつ。先(まず)目に二ツ、耳に二ツ、舌に六ツ、胸に十八、腹に六ツ、足に十五打ツ也(なり)。各々(おのおの)長サ一尺也取意(なりしゅい)。而(しか)ルに娑婆(しゃば)に孝子(こうし)有(あり)て、彼(かれ)追善の為に僧を請(しょう)ぜんとて人をはしらしむる時、閻魔王宮に此事知(このことしれ)て先(ま)ツ足に打たる十五の釘をぬく。其故(そのゆえ)は、佛事(ぶつじ)の為に僧を請ずるは功徳の初なる間、足の釘を抜ク。爰(ここ)に聖霊(しょうりょう)の足自在也。さて僧来て佛を造(つく)り、御経を書ク時、腹の六の釘を抜ク也。次に佛を作り開眼(かいげん)の時、胸の十八の釘をば抜ク。さて佛を造リ奉(たてまつ)り、三身の功徳を読ミ上ケ奉て、生身の佛になし奉り、冥途(めいど)の聖霊の為に説法し給(たま)へと読ミ上ケ候時、聖霊の耳に打て候ヒシ二ツの釘を抜ク也。此佛(このほとけ)を見上(みあ)ケまいらせてをがむ時に、眼に二ツ打チたる釘(くぎ)を抜キ候也。娑婆(しゃば)にて聖霊の為に題目を声をあげて唱(とな)へ候時、我志(こころざ)す聖霊も唱フる間、舌に六ツ打て候ヒシ釘を抜キ候也。而(しか)ルに加様(かよう)に孝子有て迹(じゃく)を訪(とぶら)へば、閻(えん)浮提(ぶだい)に佛事をなすを閻魔法王も本(もと)より権者(ごんしゃ)の化現(けげん)なれば是(これ)を知(しり)て罪人に打チたる釘を抜キ免(めん)じて候也。後生を訪(とぶら)ふ孝子なくば何(いず)レの世に誰か抜キえさせ候べきぞ。其上(そのうえ)わづかのをどう(茨棘)のとげのたちて候だに忍び難(がた)く候べし。況(いわん)や一尺の釘一ツに候とも悲しかるべし。まして四十九まで五尺の身にたてゝは何とうごき候べきぞ。聞クにきもをけし、見ルに悲シかるべし。其を我も人も此(この)道理を知ラず、父母兄弟の死して候時、初七日と云フ事をも知ラず、まして四十九日百箇日と云フ事をも、一周忌と云フ事をも、第三年と云フ事をも知ラず、訪ハざらん志(こころざし)の程浅猿(ほどあさまし)かるべし。聖霊(しょうりょう)の苦患(くげん)をたすけずんば不(ふ)孝(こう)の罪(つみ)深し。悪霊(あくりょう)と成てさまたげを成し候也(以下略)」(総本山大石寺発行「昭和新定日蓮大聖人御書』より一部抜粋)以上のように、「回向功徳鈔」は初めから、僧を呼びに行っただけで死者の足に打たれた十五の釘が抜かれると、露骨(ろこつ)に僧の存在意義を強調しており、「聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し、悪霊と成てさまたげを成し候也」とまで言って脅(おど)している。なお、冒頭の涅槃経云々はまったくのウソ。

死者を安(やす)んじ成仏させることができるのは僧だけだと、執拗(しつよう)に述べているのだ。ニセ曼荼羅である導師本尊を掲(かか)げ、僧が引導(いんどう)を渡さなければ成仏しないと信者を脅す日顕宗の教義と同類のものである。

ニセ曼荼羅である導師本尊に書かれている「閻魔法(えんまほう)皇(おう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」の背後(はいご)には、偽書(ぎしょ)を御書となす悪(あく)比丘(びく)らの頽廃(たいはい)があるのだ。

偽書「十王讃歎鈔」には、日蓮大聖人の御書にはない「冥官」という言葉が三カ所登場する。このこともまた、偽書「十王讃歎鈔」とニセ曼荼羅・導師本尊が、通底(つうてい)していることを示しているのである。

さらに、「五道冥官」は親鷲の「和讃」にも登場する、あるいは念仏の始祖(しそ)である善導の『法事讃』に「五道太山」が登場するがそれにも通じていると見られる。「五道冥官」は、念仏の思想的系譜(けいふ)の延長線上にあるともいえる。

導師本尊―実に奇怪(きっかい)なるニセ本尊である。

 

唱題折伏に励み、広布に生涯を捧げた人が成仏しないはずがない

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「但(ただ)在家の御身(おんみ)は余念(よねん)もなく日夜朝夕(にちやちょうせき)・南無妙法蓮華経と唱え候て最後臨終の時を見させ給へ、妙覚(みょうがく)の山に走り登り四方を御覧(ごらん)ぜよ、法界(ほうかい)は寂光土(じゃっこうど)にして瑠璃(るり)を以(もっ)て地とし・金(こがね)繩(なわ)を以て八(やつ)の道をさかひ、天(そら)より四種の花ふり虚空(こくう)に音楽聞え、諸仏・菩薩はみな常楽我浄(じょうらくがじょう)の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列(つら)ならん、法華経はかかる・いみじき御経にて・をはしまいらせ候」(松野殿御返事)

【通解】在家の身としては、ただ余念なく、日に夜に、朝に夕に南無妙法蓮華経と唱えて、最後臨終の時を見なさい。妙覚の山に走り登って、頂上から四方を御覧なさい。法界は寂光土であり、瑠璃を以って大地とし、黄金の縄で涅槃にいたる八つの道の境をし、天からは曼(まん)陀(だ)羅(ら)華(け)等の四種類の花がふり、虚空に妙なる音楽が聞こえ、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の四徳の風にそよめいている。我等も、必ずその仏・菩薩の数の内に連なるであろう。法華経はこのようにすぐれた経なのである。

「今生(こんじょう)につくりをかせ給ひし小罪(しょうざい)はすでにきへ候いぬらん、謗法の大悪は又法華経に帰(き)しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山(りょうぜん)にまいらせ給いなば・日いでて十方(じっぽう)をみるが・ごとくうれしく、とくしにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」

(妙心尼御前御返事)

【通解】今生につくりおかれた小さな罪はすでに消えてしまったことであろう。謗法の大悪もまた、法華経に帰依(きえ)されたことにより消え失(う)せるにちがいない。やがて霊山に参(まい)られたならば、太陽が出て士方世界を見晴らすようにうれしく、早く死んでよかったと喜ばれることであろう。

 

また、日蓮大聖人はもったいなくも、次のようにも仰せになっている。

「我(われ)より後に来(きた)り給はん人人は此の車にめされて霊山へ御出で有るべく候、日蓮も同じ車に乗りて御迎いにまかり向ふべく候、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」(大白牛車御消息)

【通解】日蓮より後に来る人々は、この車に乗られて霊山へおいでになられるがよい。そのとき、日蓮も同じ車に乗ってお迎えに向かうであろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

御本仏日蓮大聖人は、みずから弟子を迎えるとまでおっしやっているのだ。

一度でも御題目を唱えた者は、みな仏なのである。まして、仏意(ぶつい)仏勅(ぶっちょく)の不思議な団体である創価学会に縁(えん)し、広宣流布の陣列(じんれつ)に加わった者が成仏しないはずはない。

「問うて云く法華経の意をもしらず只(ただ)南無妙法蓮華経と計(ばか)り五字七字に限りて一日に一遍(いっぺん)一月乃至(ないし)一年十年一(いち)期生(ごしょう)の間に只(ただ)一遍なんど唱えても軽重(けいちょう)の惡に引かれずして四(し)悪趣(あくしゅ)におもむかずついに不退(ふたい)の位(くらい)にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり」(法華経題目抄)

【通解】問うていうには、法華経の意味も知らず、ただ南無妙法蓮華経とだけ五字七字の題目のみを、一日に一遍、一日あるいは一年、十年、一生の問にただ一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣にいかないで、ついには不退転の位に到達(とうたつ)することができるのか。答えていうには、いかにもそのとおりである。

また、仏法の本義からみれば、人間は死して成仏するのではない。日蓮大聖人の教えを信じ、唱題折伏に励(はげ)む人々はことごとく、すでに成仏の境界(きょうがい)にあるのだ。

「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、『若(も)し能(よ)く持(たも)つこと有れば即ち仏身を持つなり』」(上野殿後家尼御返事)

【通解】生きておられたときは生の仏、今は死の仏、生死ともに仏である。(法華経の)即身成仏という大事の法門は、このことを説きあらわされたのである。法華経の第四の巻・宝塔品に「若し能く(この経を)持つ者は仏身を持つ者である」とある。

どうして、広宣流布に生涯を捧(ささ)げた人、あるいは一度でも南無妙法蓮華経を唱えた人が、成仏していないといえるのだろうか。

 

信心する者は生死を超えて成仏の境界にある

「導師本尊がニセ曼荼羅というのなら、これまで導師本尊で葬儀をおこなった故人は不成仏ではないか」との悪比丘らの難癖(なんくせ)も、日蓮大聖人の大慈大悲によれば風の前の塵に等しい。御本仏日蓮大聖人を純真に慕(した)う人々に対し、御本仏は慈愛(じあい)をもって次のように仰せになっている。

「設(たと)い殿の罪ふかくして地獄に入(い)り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用(もち)ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗(やみ)に月の入るがごとく湯に水を入れるるがごとく冰(こおり)に火を・たくがごとく・日輪(にちりん)にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ」(崇峻天皇御書)

【通解】もし、あなたの罪が深くて地獄に堕(お)ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたと一緒(いっしょ)に地獄へ入ろう。日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におられるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇(やみ)の中に月が入って輝(かがや)くようなものであり、また湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷に火をたいて溶(と)かしてしまうようなものであり、また太陽に闇(やみ)を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄(じごく)即(そく)寂光(じゃっこう)の浄土(じょうど)となるであろう。

「四条金吾が罪深くして地獄に行くのであれば、私も一緒に地獄に行こうではないか」との御本仏日蓮大聖人の大慈(だいじ)大悲(だいひ)と、「導師本尊を掲(かか)げなければ地獄に堕(お)ちるぞ」と脅かす日顕宗の輩を対比してみれば、多くの言葉はいるまい。

日蓮大聖人の教えを懸命(けんめい)に実践してきた弟子を、いかに御本仏が思いやられたかを知れば、広宣流布に生き抜いた同志たちが、霊山(りょうぜん)においていかなる称賛を受けたかを確信することができる。

まして、その後において子々孫々が純真なる信心を貫(つらぬ)き、故人を追善(ついぜん)することは甚深(じんしん)なる意義がある。

「今日蓮等の類(たぐ)い聖霊(しょうりょう)を訪(とぶら)う時(とき)法華経を読誦(どくじゅ)し南無妙法蓮華経と唱(とな)え奉(たてまつ)る時・題目の光無間(むげん)に至りて即身成仏せしむ」(御義[伝)

【通解】今、日蓮大聖人およびその門下が、大御本尊に結縁(けちえん)して亡くなった人を法華経方便品第二、寿量品第十六を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養する時、題目の光が無間地獄に至って、即身成仏することができる原理である。

 

南無妙法蓮華経に縁(えん)した衆生は無量(むりょう)の功徳を受け、信心する者は生死を超(こ)えて成仏の境界(きょうがい)にある。さらに仏子らの唱える追善の題目は、とこしえの別離(べつり)となる死を超えて、無限の彼方(かなた)を照らすのである。

どのような理由をもって、導師本尊を掲(かか)げなければ不成仏というのか。

故人の信心は強盛(ごうじょう)にして、遺族の信心もまた純真であるのに、法脈に忍び込んだ「閻魔(えんま)法皇(ほうおう)」「五(ご)道(どう)冥官(みょうかん)」障(さわ)りをなし得ようや。先立った仏子らの成仏は、疑いのないことである。

ただし、導師本尊の過(あやま)ちを指摘(してき)されたのちも、それに執着(しゅうちゃく)し、導師本尊を掲げぬ葬儀では不成仏と謗(そし)る徒輩(とはい)は、もはや日蓮大聖人の弟子とはいえない。まさしく謗法の者である。

 

「十王讃歎鈔」のタネ本とされる「地蔵十王経」は偽経

これまで、宗祖日蓮大聖人の御書とされてきた「十王讃歎鈔」が、実は偽書(ぎしょ)であることについては先に述べたが、この「十王讃歎鈔」は、「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」(以下「地蔵十王経」と略す)を種本(たねほん)にしてつくられた。この「地蔵十王経」は鎌倉初期に日本においてつくられたことが、今日では学問的に証明されている。

この「地蔵十王経」、当時のふれこみでは中国の高僧である蔵川という人の作とされていた。ところが、それは真っ赤な偽(いつわ)り。日本で偽作されたものだった。

この偽経(ぎきょう)は、鎌倉、南北朝、室町時代を経(へ)て江戸時代へとつづく武家社会において、追善(ついぜん)の宗教的根拠(こんきょ)とされた。武家社会に横行(おうこう)した殺生(せっしょう)や人倫(じんりん)にもとる行為に対し、後ろめたさを感じた人々が、追善をしなければとの強迫(きょうはく)観念(かんねん)にとらわれたのだろう。

日本に十仏事(ぶつじ)(初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周忌、三回忌)が定着するにつれ、この偽経「地蔵十王経」が重宝(ちょうほう)され、各宗派別に、この「地蔵十王経」をタネ本として、さらに新たな偽書がつくられたのだった。

「地蔵十王経」をタネ本としたものとしては、件(くだん)の「十王讃歎鈔」以外にも、空海(くうかい)の作と伝えられる『弘法大師逆修日記』、法然(ほうねん)作と伝えられる『金剛宝戒釈義章』など多くの書がある。

すなわち、偽経「地蔵十王経」は、鎌倉初期に偽作(ぎさく)され、それ以降の日本宗教界に強烈(きょうれつ)な影響を与えた。今日、伝えられる「十王信仰」「地獄信仰」は、その源(みなもと)をこの偽経に発するとまでいえるのである。

偽経が日本の思想、風俗(ふうぞく)をつくり出したのだ。恐るべきことである。この偽経の真実の作者は、いまだに不明である。「地蔵十王経」では、追善(ついぜん)の必要を執拗(しつよう)に説いている。次にその代表的箇所(かしょ)を紹介する。

「亡人苦に逼(せ)められて愁歎(しゅうたん)し、頌(ず)して曰く。

七七箇日を待つて飲食(おんじき)せずして寒(かん)に逼(せ)めらる。男女遺財(いざい)を以つて早く善を造して我を扶(たす)けよ。

設(も)し親禁ぜられて獄に入らば子として静かに家に居る哉(かな)。何(いか)に況(いわ)んや閻獄(えんごく)の苦をや。頭の燃ゆるすら猶喩(なおたとえ)に非(あら)ず」

「縁ある人の男女亡人を救はんと欲(ほっ)せば、今日追善に八齋戒(はっさいかい)を受けよ。福力殊勝(ふくりきしゅしょう)なり。男女瞋(いか)ること勿(なか)れば能(よ)く亡苦(ぼうく)を救ふ」

故人が遺(のこ)した財をもって追善供養せよと記している。

この「地蔵十王経」と、日蓮大聖人の御書を擬(ぎ)した「十王讃歎鈔」は、文の構成、文章ともに酷似(こくじ)している。また「十王讃歎鈔」には、「されば十王経には二七日は亡人奈河(なか)を渡るとあり」という記述もある。たしかに「地蔵十王経」には、「二七亡人奈河を渡る」と記述されている。

すなわち、ここでいう「十王経」とは「地蔵十王経」

のことである。この記述をみても「十王讃歎鈔」が「地蔵十王経」を参考につくられたことは明らかである。

悪辣な脅しばかり繰り返す偽書「十王識歎鈔」

「十王讃歎鈔」は「地蔵十王経」同様、初七日、二七日(十四日)、三七日(二十一日)、四七日(二十八日)、五七日(三十五日)、六七日(四十二日)、七七日(四十九日)、百箇日(ひゃっかにち)、一周忌(き)、三回忌ごとに、十人の王が入れ替わり立ち替わり、死者が生存中に犯した罪を裁(さば)くとする。

このとき、死者がそれぞれの王に辱(はずかし)められ責められるのを助けるのは、残された夫や妻や子をはじめとする親類縁者の追善供養しかないと説くのである。

以下、忌日(きじつ)ごとに裁く王の名と、その王の責めから死者を救うために追善供養をせよと記している箇所(かしょ)を紹介する。引用文は、すべて日蓮大聖人の御書を偽(いつわ)る「十王讃歎鈔」(『昭和新定日蓮大聖人御書』大石寺発行)である。

まずは初七日において、秦廣王(しんこうおう)より死者は次のように申し渡される。

「時に大王汝(なんじ)今まではゞかるところもなく道理だてを申(もうし)つるに、などてや今返事をば申さぬとせめ給(たま)へば、勅定肝(ちょくじょうきも)に銘(めい)じて泣クより外(ほか)の事はなし。此時我心(このときわがこころ)を恨(うら)み、千度百度悔(くゆ)れども後悔先(こうかいさき)にたゝず。故に後世を心(こころ)に懸(か)クべき事肝要也(かんようなり)。徒(いたずら)らに多くの月日を送り居てで剩(あまつ)さへ罪業(ざいごう)を犯し・又三途(さんず)の古郷に還(かえり)て、重(かさね)て苦(くるし)ミをうけん事更(さら)に誰をか恨(うらま)んや」

【通解】そのとき、閻魔大王が、お前はいままで遠慮(えんりょ)もなく理屈を言っていたのに、なぜいまは返事をしないのかと責められたところ、大王の言葉が肝に銘じて、泣くよりほかにはない。そのとき、自分の心を恨み、千回、百回と悔いても、後悔先に立たずである。だから、後世を心に懸けることが肝要なのである。いたずらに多くの月日を送っていて、そのうえに罪業を犯し、また三途(三悪道)の故郷に帰って、重ねて苦しみを受けることは、さらに誰を恨んだらよいのか。

これが、その後につづく、死者に対する地獄の責(せ)め苦(く)の伏線(ふくせん)となる。

二七日初江王(しょこうおう)

「さても罪人、妻子の追善(ついぜん)今や今やと待ツ處(ところ)に、追善をこそせざらめ、還(かえっ)て其(その)子供跡の財寶(ざいほう)を論じて種々の罪業を致(いた)せば、罪人彌々(いよいよ)苦をうく。哀(あわ)れ娑婆(しゃば)にありし時は、妻子の為(ため)にこそ罪業を造(つくり)て、今かゝるうきめを見るに、少しの苦を輕(かろ)フする程の善根(ぜごん)をも送らざること恨(うら)み限りなし。貯(たくわ)へ置(おき)し財寶一(ひとつ)だにも今の用にはたゝざりけりと、一方(ひとかた)ならぬ悲シさに泣キさけぶこそ哀れなれ。大王是(これ)を御覧(ごらん)じて、汝が子供不孝(ふこう)の者也、今は力及ばずとて地獄に堕(おと)さる。又追善をなし、逆謗(ぎゃくぼう)救助の妙法を唱へ懸(か)クれば成佛(じょうぶつ)する也。然(しか)れば大王も歓喜(かんき)し給ひ、罪人も喜ぶ事限無(かぎりな)シ」

【通解】ところで、罪人が妻子の追善をいまかいまかと待つところに、追善するどころか、かえってその子どもが親の残した財産を争って、さまざまな罪業をつくるので、罪人はいよいよ苦しみを受ける。哀れなことに、娑婆にいたときは妻子のために罪業をつくって、いまこのような憂(う)き目を見ているのに、少しの苦しみを軽くするほどの善根さえも送らないことに対して恨みは限りがない。貯(たくわ)えておいた財宝の一つさえもいまの(苦を救う)役には立ちはしないと、このうえない悲しさに泣き叫ぶさまこそ哀れである。閻魔大王は、これをご覧になって、お前の子供は不孝者である。いまは私の力も及ばないと言って、地獄に堕(お)とされるのである。また、追善をおこない、五逆罪と正法誹謗(ひぼう)の者も救い助けることのできる妙法を唱えて回向(えこう)すれば成仏するのである。そうすれば大王も歓喜され、罪人も喜ぶことは限りないのである。

 

秦広王(京都・浄福寺本「十王図」土佐光信作・室町時代)

 

三七日 宗帝王(そうたいおう)

「去リながら娑婆(しゃば)に子供もあまた候間(そうろうあいだ)、其(その)中ニ若(もし)も孝子有(あり)て定(さだめ)て善根を送ル可(べく)候。偏(ひとえ)に大王の御慈悲にてしばらおまちそうらなげおもていか

且(しばら)く御待候(おまちそうら)へと歎(なげ)き申せば、大王面(おもて)には瞋(いか)り給へども内には御慈悲深き故に、汝(なんじ)が罪業一々に隠(かく)レ無キ上は地獄に堕(おと)すべけれども先々待(まずまずまつ)べしと宣(おたま)ふ。然(しか)れば罪人の喜ヒ限無シ。此如(かくのごと)ク待チ給(たもう)に孝子善根をなせば、亡者(もうじゃ)罪人なれども地獄をまぬがるゝ也。されば大王も追善を隨喜(ずいき)し給て、汝には似ざる子供とて、褒美(ほうび)讃歎(さんたん)し給フ也」

 

【通解】しかしながら、娑婆に子供がたくさんいるので、その
初江王(同)

宗帝王(同)

なかに、もし親孝行な子がいれば、かならず善根を送ってくれることだろう。ひたすら、大王の御慈悲によってしばらくお待ちくださいと嘆いて言ったので、閻魔大王は顔では怒っていても内心は慈悲が深いため、お前の罪業がすべて明らかなので、地獄に堕とすべきであるけれども、しばらく待っていようと筈.日われた。そこで、罪人の喜ぶことは限りない。このように待っているあいだに孝子が善根を積むと、亡者は罪人であっても地獄に堕ちることを免(まぬか)れるのである。だから、大王も追善を随喜されて、お前には似ないよい子であるとほめられ、賛歎するのである。

 

四七日 五官王(ごかんおう)

「さて暫(しばら)く息を續(つづ)カせて大王宣(のたまわ)く、汝能聞(よくきけ)、娑婆にある妻子懃(ねんご)ろに訪(とぶら)フならば先々(さきざき)の王の前にて善處(ぜんしょ)の生に轉(てん)ぜらるべきに、汝死して後は我身のさはぐり(詮議(せんぎ))世を過クべき嗜(たしな)み計(ばかり)にて、汝が事をば打(うち)忘れてとぶらふ事もなし。之ニ依(よって)此まで迷ひ來る。佛(ほとけ)説キ置キ給ふ妻子は後世の怨(あだ)なりとは此謂也(このいわれなり)。今此(この)苦に代(かわ)れりや否(いな)ヤ。然るに恨(うら)むべき我身をば恨みずして冥官(みょうかん)を恨る事愚癡(ぐち)の至極也(しごくなり)」

【通解】そして、しばらく息をつづかせてから、閻魔大王は、お前よ、よく聞け。娑婆にいる妻子が心から弔ったならば、前の王のところで善処に転じて生まれたはずなのに、お前が死んだ後は我が身のことを考え、世を過ごす苦労ばかりをしていて、お前のことなど忘れて弔うこともない。そのために、ここまで迷ってきたのである。仏説に、残しておいた妻子は後世の怨である、とあるのはこのためである。いま、この苦しみに代わることができるかどうか。ところが、恨むべき我が身を恨まずに、冥官(閻魔大王のこと)を恨むことは愚(おろ)かの極(きわ)みである。

 

五七日 閻魔王(えんまおう)

「構へて構へて亡魂(ぼうこん)の菩提(ぼだい)をとぶらひ給ふべし。又化(け)ノ功己(こうおのれ)ニ歸(き)ス(す)の道理なれば、亡者(もうじゃ)をとぶらふも我身

 

五官王(同)

 

の爲なり。所詮(しょせん)亡者の浮沈(ふちん)は追善(ついぜん)の有無(うむ)に依ル也。此等の理(ことわり)を思て自身も信心を催(もよお)し、六親(ろくしん)をも回向(えこう)あるべし。中にも閻魔大王の御前(ごぜん)にして大苦を受(うく)る故三十五日の追善肝心(ついぜんかんじん)也。此砌(みぎり)に善根(ぜんこん)をなせば、悉(ことごと)く鏡の前にうつる時、大王を始(はじめ)として諸(もろもろ)の冥官(みょうかん)等も隨喜(ずいき)し給フ也。又罪人もとぶらひを受て喜フ事限無シ。此如(このごと)ク作善(さくぜん)の多少功徳の淺深(せんじん)を分別し、或は成佛(じょうぶつ)シ、或は人間、或は天上に送り、或は又次の王へ遣(つか)サ被(る)也」

【通解】くれぐれも、亡き魂の菩提を弔いなさい。また、化の功徳は己(自分自身)に帰るという道理なので、亡者を弔うのも我が身のためである。結局、亡者の浮沈は追善の有無によるのである。こうした道理を考えて、自分自身も信心を起こし、肉親にも回向すべきである。なかでも、閻魔大王の御前において大苦を受けるので、一二士五日忌の追善が肝要である。そのときに善根をおこなうと、ことごとく(浄頗梨(じょうはり))の鏡に映って、閻魔大王をはじめとして諸々の冥官等も歓喜するのである。また、罪人も弔いを受けて喜ぶこと限りがない。このように、(大王は)善根の多少と功徳の浅深を分別して、あるいは成仏、あるいは人間、あるいは天界に送り、あるいは次の王のもとへと送りやるのである。

 

六七日 變成王(へんじょうおう)

「孝子(こうし)の善根忽(たちまち)に顯(あらわ)るれば大王是(これ)を御覧じて、此罪人には娑婆(しゃば)に追善あるぞや、早々(そうそう)ゆるすべし、と獄卒共(ごくそつども)に下知(げち)し給へば、即(すなわ)チ縛繩(ばくじょう)を解(とき)て生處(せいしょ)を善處(ぜんしょ)に定めらる。時に取て喜び譬(たと)へん方なし。餘(あま)りのうれしさに是を子共(こども)に知せばやと又泪(なみだ)をぞ浮(うか)べける。或は又其子悪事をなす時は、其親彌々(いよいよ)苦を増てそれを地獄へ遣被(つかわさる)也。故に能々(よくよく)亡者をとぶらふべき事也」

【通解】孝子による追善がたちまちに顕れると、閻魔大王はこれをご覧になって、この罪人には娑婆において追善があるぞ、すぐに許してやれと獄卒どもに命じられて、即座に捕縄(ほじょう)を解いて、善処に生まれるように定められる。そのときの罪人の喜びようはたとえようもない。あまりのうれしさに、このことを子供に知らせてやりたいと、また涙を浮かべていた。あるいはまた、その子供が悪事を犯すときは、その親はますます苦しみを増して、地獄へ追いやるのである。それゆえに、よくよく亡者を弔うべきなのである。

 

閻魔王(同)

 

七七日 泰山王(たいせんおう)

「若跡(のしあと)の追善懃(ねんご)ろなれば、悪處(あくしょ)の果轉(かてん)じて善處(ぜんしょ)に生をうく。是(これ)故に四十九日のとぶらひ惣うに營(いとな)むべし」

【通解】もしも、死後の追善がねんごろであれば、悪処に生まれる果報が転じて、善処に生まれることができる。このために、四十九日忌の弔いをねんごろにおこなうべきである。

 

百箇日 平等王(びょうどうおう)

「今頼(たの)む方とては娑婆(しゃば)の追善計(ついぜんばかり)也。相構(あいかま)へて相構て追善を營(いとな)み、亡者(もうじゃ)の重苦(じゅうく)を助くべし」

【通解】いま頼りにするのは娑婆の追善ばかりである。くれぐれも追善をおこない、亡者の重い苦しみを助けるべきである。

 

「かゝる厚恩(こうおん)を蒙(こうむ)れば身の徒(いたず)らに月日を送りて居て、三途(さんず)の重苦に沈みたる親の菩提(ぼだい)を弔(とむら)はざらんは淺間敷(あさましき)

 

變成王(同)

 

泰山王(同)

事也。爭(いかで)か諸天悪(にく)み給はざらんや。其上多くは子を思ふ故に地獄の重苦を受る事あり。構へて弔フても弔フべきは二親(ふたおや)の後生(ごしょう)菩提也」

【通解】このような厚い恩を受ければ、我が身がいたずらに月日を送っていて、三途(三悪道)の重い苦しみに沈んでいる親の菩提を弔わないということは、あさましいことである。どうして諸天が憎まないことがあるだろうか。そのうえ、多くは子供を思うために(罪を犯して)地獄の苦しみを受けることがある。くれぐれも、弔っても弔うべきなのは両親の後生であり、菩提である。

 

一周忌 都弔王(とちゅうおう)

「汝(なんじ)は我身を思はぬ不當(ふとう)の者なれども妻子孝養(こうよう)の善人也。此一周忌の營(いとな)みに依(より)て第三年の王へ送被(おくらる)」

【通解】お前は、我が身を思わない不法な者であるけれども、妻子は孝養する善人である。この一周忌の追善によって、第三年の王のもとへと送られた。

 

三回忌 五道輪轉王(ごどうりんてんおう)
 

「五道転輪王」
「五道転輪王」
「若(もし)又追善をなし、菩提を能々(よくよく)祈れば成佛セ令(し)メ或は人天等に遣被(つかわさる)也」

【通解】もしまた追善をおこない、菩提をよくよく祈れば成仏させる。あるいはまた、人界・天界などにつかわされるのである。

平等王(同)

 

都弔王(同)

なんとも悪質な脅(おど)しばかりの繰り返しである。人の不幸を飯(めし)の種(たね)にしようとする売僧(まいす)の魂胆(こんたん)が丸見えの文である。愛別(あいべつ)離苦(りく)にあえぐ者を脅迫(きょうはく)し、向こう二年間はしっかりつかまえて収入源にしようとしている。なんとも、おぞましいかぎりである。

この卑(いや)しい文が、宗祖日蓮大聖人の御(ご)聖訓(せいくん)とされてきたのだ。それだけではない。信徒を欺(あざむ)く悪比丘の小道具として何百年もの間、珍重(ちんちょう)されてきたのだ。ここでの追善とは、とりもなおさず僧を呼んでの法要のことで、もちろん、それには供養(布施)がつきものである。

 

「十王讃歎鈔」の基底(きてい)にあるのは出家の堕落、傲慢(ごうまん)、怜悧(れいり)

この「十王讃歎鈔」が、天下の偽書(ぎしょ)「地蔵十王経」を種本(たねほん)にしてつくられたことを示すために、酷似(こくじ)した何カ所かを以下に並記(へいき)して紹介する。

「之ニ依(より)テ此山を死出(しで)の山とは云フなり。足のふみどころも覺(おぼ)えねば、嶮(けわし)き坂に杖(つえ)を求ムれども與(あたう)ふる人もなく、路の石に履(くつ)を願へどもはかする人もなし」(「十王讃歎鈔」)

「閻魔(えんま)王國の堺(さかい)は死天門の南門なり。亡人の重過(じゅうか)あるは兩莖(りょうけい)相ひ逼(せま)つて、奏(そう)(月へんに奏)を破り、膚(はだ)を割(さ)き、骨を折り、髄(ずい)を漏(もら)す。死して天に死を重ぬ。故に死天と言ふ。此れより亡人向つて死山に入り、險坂(けんはん)に杖を尋ね、路石に鞋(くつ)を願ふ」(「地蔵士王経」)

 

「今前後に鬼どもの怖(おそろ)しさ、目もあてがたしと見ゆ。又岸の上に大なる木あり、此は衣領樹(えりょうじゅ)と名(なづ)く。此上に一の鬼あり、懸衣翁(けんねおう)と名く。又樹木の下に一の鬼あり懸(けん)衣嫗(ねう)と名く。此鬼罪入の衣裳(いしょう)を剥取(はぎとり)て上なる鬼に渡せば、即請取(うけとり)て木の枝に此を懸(かく)る」(「十王讃歎鈔」)

 

「官前に大樹有り。衣領樹と名く。影に二鬼を住す。

一を奪(だつ)衣婆(えば)と名(なづ)け、二を懸衣翁と名く。婆鬼(はき)は盗業(とうごう)を警(いまし)めて兩手の指を折り、翁鬼(おうき)は義無きを惡(にく)んで頭足を一所に逼(ちじ)め、尋(つ)いで初開の男をして其の女人を負(お)はしめ、牛頭(ごず)、鐡棒(てつぼう)をもつて二人の肩を挟(はさ)み、追うて疾瀬(はやせ)を渡し、悉(ことごと)く樹下に集む。婆鬼は衣を脱(ぬが)せしめ、翁鬼は枝に懸けて罪の低昂(ていこう)を顯(あらわ)し、後、王廳(おうちょう)に送る」(「地蔵十王経」)

 

「又大城の四面に鐡(てつ)の牆(へい)を圍(かこ)へり。四方に各人鐡の門を開く。門の左右に又壇荼(だんだ)幢(どう)あり、幢(はた)の上に同人頭(どうにんず)あり、能(よ)ク人間(にんげん)の振舞(ふるまい)を見ル事明(あきら)か也」(「十王讃歎鈔」)「大城の四面に周園して鐡牆(てつしょう)あり。四方に鐡門を開けり。左右に檀荼憧有り。上に人頭の形を安んず。人能く人間を見ること掌中(しょうちゅう)の菴羅菓(あんらか)を見るが如し」(「地蔵十王経」)

 

「次に別院あり、光明院と名く。此院内に九面の鏡あり、八方に各一の鏡を懸ケたり。中臺(だい)の鏡を淨頗梨(じょうはり)鏡(きょう)と名ツクる也」(「十王讃歎鈔」)

「次ぎに二院有り。一を光明王院と名(なづ)け、二を善名稱院と名く。光明王院、中殿の裏に於(おい)て、大鏡臺(きょうだい)有つて光明王鏡を懸(か)く。淨頗梨鏡と名く」(「地蔵十王経」)

 

「獄卒(ごくそつ)を召(めし)てこれなる罪人は倶生神(ぐしょうしん)の札を疑ひ兎角(とかく)云フ計(ばかり)なし。夫(それ)倶生神と云フは汝(なんじ)と同時に生れて、影の身にそふ如(ごと)くに付そひて、須臾(しゅゆ)の間も身を離れず注し置キたる札なれば、毛のさき程も違(たが)ふべからず。それに尚面(なおおもて)の墨(すみ)を諍(あらそ)はゞ、よしよし淨頗梨の鏡にて汝(なんじ)が諍を止ムべしと仰セあり。鬼共勅定(ちょくじょう)を蒙(こうむり)て罪人の左右の手を取提げ、光明院の宮殿を開き九面の鏡の中に此罪人を置クに、一々の鏡の面に一期(いちご)の間作りたる罪業殘(のこり)無し。又人にしらせず心一ツ思ひし念々の悪業まで、一も残らず浮びうつりて隈もなし」(「十王讃歎鈔」)

「閻魔法王此の王鏡に向つて自心の事、三世の諸法、情、非情の事を鑑(かんがみ)るに皆悉(ことごと)く照す。然(しか)も復(また)た八方に圍(かこ)むに方毎(ほうごと)に業鏡(ごうきょう)を懸(か)く。一切衆生の共業増上(くぎょうぞうじょう)の鏡なり。時に閻魔王、同生神(どうしょうしん)の簿(ぼ)と人頭の見とをもて亡人を策髪(さくはつ)し、右遶(うにょう)して見せしむ。即ち鏡の中に於いて前生(ぜんしょう)に作(な)す所の善福惡罪を現ず。一切の諸業各形像を現ずること、猶(なお)し對(たい)せる人の面、眼、耳を見るが如し」(「地蔵十王経」)

これ以外にも、たくさん似た箇所がある。日蓮大聖人の作とされてきた「十王讃歎鈔」は、まぎれもなく偽経(ぎきょう)「地蔵十王経」を種本につくられたものだ。このような代物(しろもの)が、長年日蓮大聖人の御書と思われてきたことが不思議でならない。

日蓮正宗において、今日まで「即身成仏之印文(そくしんじょうぶつのいんもん)」とされてきた導師本尊に書き込まれている「五道冥官(みょうかん)」。この「冥官」という言葉は、偽書「十王讃歎鈔」にしか出てこない。いうなれば導師本尊の根拠は、この「十王讃歎鈔」にしか求めることができないのだ。

その「十王讃歎鈔」が、いまや偽書であることが歴然(れきぜん)とした。しかも、人の不幸と悲しみにつけ入り、人の抱く死への恐怖に依(よ)って、信徒を僧に隷属(れいぞく)させ、追善供養を強要(きょうよう)しようとしているのだ。

まことに「十王讃歎鈔」は、稀代(きだい)の悪書である。そして、導師本尊とこの偽書「十王讃歎鈔」は、まったく相通(あいつう)ずるものがある。導師本尊と「十王讃歎鈔」の基底(きてい)に横たわっているものは、出家の堕落(だらく)、傲慢(ごうまん)、怜悧(れいり)などなどである。

恐るべきは邪師の邪智(じゃち)である。信徒は確固たる信仰観を持たなければ、悪侶に何百年にもわたって誑(たぼら)かされることになるのだ(なお本文中の「地蔵十王経」は、『國譯一切経』大集部五矢吹慶輝訳による)。

 

日蓮正宗の代々の法主はニセ曼荼羅を顕(あらわ)してきしてきた

これまで御本尊の書写といえば、金(こん)口(く)嫡々(ちゃくちゃく)の血脈相承を受けた“法主”が、血脈を相承したことによって達し得た特別の境界(きょうがい)でなされるものだと思われていた。

“法主”には日蓮大聖人、日興上人と寸分(すんぶん)たがわぬ生命が流れ、その発現(はつげん)としての御本尊書写があると主張する者もいた。

ところがどうだ、その金口嫡々唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈相承の“法主”が代々にわたり、ニセ曼荼羅である導師本尊をつくり出してきたのだ。

本紙『地涌』が、導師本尊に「閻魔(えんま)法皇」「五道冥官(みょうかん)」など、日蓮大聖人の御(ご)図(ず)顕(げん)された本尊にない、得体の知れないものが書き込まれていることを指摘しても、拝(おが)んでいる側の信徒は、「そんな字があったかな」といった程度である。

それも当然である。信徒は、動転(どうてん)した葬儀の場で短い時間しか導師本尊を見る機会がないのだから、「閻魔法皇」「五道冥官」などの文字に気づかないのは無理のないことだ。

しかし、書写する“法主”の立場となれば、どういうことになるのか。

かつて総本山第六十世の阿部日開は、「仏滅後二千二百三十余年」と御本尊の讃文(さんもん)を書くべきところを、「仏滅後二千二百二十余年」と書き、「ただ漫然之(まんぜんこれ)を認(した)ため何とも恐懼(きょうく)に堪(た)えぬ」として謝罪したことがあった。

だが、導師本尊の「閻魔(えんま)法皇」「五道冥官(みょうかん)」となれば、「漫然」と書写したということにはならない。ハッキリと意識して書いたものだ。

“法主”に許された行為は、あくまで本尊の「書写」である。「書き写す」ことが許されているのであって、勝手に御本尊をつくり出してよいというものではない。にもかかわらず、代々の”法主”は、日蓮大聖人御(ご)図(ず)顕(げん)の御本尊とはまったく異質(いしつ)なニセ曼荼羅を顕(あらわ)してきたのである。

冒頭にも触れたように、“法主”は金(こん)口(く)嫡々唯授一人(ちゃくちゃくゆいじゅいちにん)血脈相承に基づき、特別な境界(きょうがい)で御本尊を書写するものとされてきた。ところが、その特別の境界にあるはずの法主が、ニセ曼荼羅を書写して何の違和感(いわかん)も抱(いだ)かなかった。

ということは、“法主”には特別の境界などないということになる。論理的な当然の帰結(きけつ)として、こう結論づけざるを得ないのである。

もっとある。「未来本尊」という本尊がある。人が生まれた時、あるいは入信時において、その成仏を保証する本尊である。多くは戒名とともに授(さず)けられた。導師本尊のミニチュア版ともいえるものだが、この未来本尊は枢(ひつぎ)に中にいれられたり、骨壺(こつつぼ)の中に入れられ、成仏への霊験(れいけん)あらたかとされたものである。

悪比丘らは信徒の生の時にあって、早くも死を先取りして金に代えようとしたのである。

「法主になっても、特別な人間になるわけではない」と日亨上人

総本山第五十九世日亨上人は、登座前と登座後も、自分に特別の変化はないと次のように明記している。

「但(ただ)し法階が進んで通稱(つうしょう)が變更(へんこう)したから從(したが)つて人物も人格も向上したかどうか私には一向分明(わか)りません」

(『大日蓮』昭和十五年四月号「聖訓一百題」より一部抜粋)日亨上人が登座した後に、このように明言しているのだから、“法主”になったからといって急に特別の精神世界に入れるものではない。まして、不可思議な生命の境界に遊戯(ゆうぎ)できるなどといったことはまったくない。

人柄のよい人間は“法主”になっても、おそらく人柄がよいであろうし、威張(いば)りたい卑(いや)しい性根(しょうね)の者は、“法主”になればいっそう威張るだろう。

野心を持った者が“法主”になれば、それまで猫をかぶっていても豹変(ひょうへん)してしまうケースもあるだろう。相当に自己に厳しくなければ、驕慢(きょうまん)の故に己の信仰を壊(こわ)すことにすらなるだろう。

“法主”となることは、それがそのまま特別の人間になることを意味しない。金口嫡々唯授一人血脈相承といっても、生命的不可思議な境界がそれによって付与(ふよ)されるわけではないのだ。

それでは、金口嫡々唯授一人血脈相承というオドロオドロしい表現は、何を意味するのだろうか。血脈相承とは、僧伽(さんが)すなわち和合僧団のトップとしての権能(けんのう)が引き継がれることと認識すべきではないだろうか。

一宗を統理する「貫首(かんず)」としての権限が譲渡(じょうと)されることをもって、宗教的装飾(そうしょく)をこらして金口嫡々唯授一人血脈相承がなされたと称(しょう)してきたと理解すべきだ。

そうでなければ、金口嫡々唯授一人血脈相承を受けた“法主”が、「十王信仰」や「地獄信仰」という邪義(じゃぎ)を象徴(しょうちょう)する「閻魔(えんま)法皇」「五道冥官(みょうかん)」などという名を、真顔で書写しつづけるといった馬鹿げた事実を説明できはしない。

今日においては、“法主”と呼称(こしょう)をしている、いわゆる「大石寺貫首」に、教義の解釈権(かいしゃくけん)や御本尊書写の権限(けんげん)が集約(しゅうやく)されている。「貫首」に不可思議な生命的境界がないとわかったいま、これらの教義解釈権や御本尊書写の権限が「貫首」に一任されてきたことは、和合僧団の決まり事としてなされてきたのだということが理解できる。

御本尊書写についていえば、かつては末寺住職も書写していた。建前(たてまえ)の理由としては、交通が不便で本山まで御本尊をいただきにあがれないといったことが言われているが、実際は大石寺のすぐそばの末寺でも本尊を書写している。本尊書写は、時代時代において和合僧団の決まり事の中でおこなわれてきたのである。

しかし、御本尊の書写と下付も、どれほど厳格(げんかく)なルールに基(もと)づいておこなわれたのか、疑問に思われる点が多い。

書写については、導師本尊というニセ曼荼羅を代々にわたり書写してきたことからみても、いずれかの時代にルールが乱れたことは歴然(れきぜん)としている。

 

一方、下付はといえば、近年においてさえも、大石寺の塔中(たっちゅう)寺院の根檀家(ねだんか)に対しては、“つけ届け”(根檀家では御供養をこのように呼ぶ習慣がある)がされれば、“法主”直筆(じきひつ)の本尊が下付されてきたのである。そのため、根檀家は代々の“法主”の御本尊を何体も、まるで軸物(じくもの)のように収納して所持(しょじ)している。

そして、“法主”の直筆による御本尊(常住本尊)以外は仮(かり)本尊だというのである。つまり、御形木御本尊や末寺住職の書写した御本尊は、仮本尊とされてきたのだ。

「此に於(お)いて有師仮(かり)に守護及び常住の本尊をも・末寺の住持(じゅうじ)に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ・即本文の如し、但(ただ)し有師已前已(いぜんすで)に此の事ありしやも知るべからず、然(しか)りといへども此は仮本尊にして形木同然の意なるべし」(『富士宗学要集』第一巻「有師化儀抄註解」)

【通解】ここにおいて日有上人は、仮に守護の本尊および常住の本尊さえも、末寺の住職が書写して、檀那や弟子に授与してもよいとされたことは、本文のとおりである。ただし、日有上人以前にそうしたことがあったかどうかはわからない。しかし、これは仮の本尊であって、形木の本尊と同じ意義であろう。

ということになれば、根檀家(ねだんか)が何体も持ってお巻きしたまま収納している本尊が「本本尊」で、何十人も折伏して生涯を広宣流布に懸(か)けた創価学会員の特別御形木御本尊、御形木御本尊は「仮本尊」ということになる。事実、今日までは、そのように立て分けられてきた。

自分が何十年も拝んできた御本尊様が仮本尊だったとは……。熱心に信仰してきた創価学会員にとって、このことはどうにも理解しがたいことだし、また受け入れがたいことではないだろうか。しかし、それは事実である。

常住御本尊をいただけるまでの信心に至っていない者が受持(じゅじ)を許される本尊が、仮本尊である。多くの創価学会員の家に御安置されている御形木御本尊は、末寺の住職が書写した本尊同様、宗門では今日まで仮本尊として位置づけられてきたのだ。

自分の御本尊が仮本尊であるという事実をどうしても受け入れがたい人は、自宅に御安置申し上げている御本尊様の脇書(わきがき)を見ればよい。願主は空白となっているはずである。

何十年も真面目に信仰しても仮本尊しかいただけなかったということについて、憤懣(ふんまん)やるかたないものを感ずる人は、それだけ僧たちが信徒を差別してきたのだと知るべきだろう。

とはいえ、受持している本尊が仮本尊であっても、御本仏日蓮大聖人の慈悲は広大無辺(こうだいむへん)にして実に公平であった。仮本尊の御安置とはいえ、しっかり信心した者は功徳にあふれ、本本尊を何体も持っていても根檀家たちは罰(ばち)の生活をしている。

要は、清浄(せいじょう)なる和合僧団の中で育(はぐく)まれた正しい信心こそ肝腎(かんじん)なのである。

 

世界広布の進展にともない御本尊書写のあり方も問われてくる

御本仏日蓮大聖人の仰(おお)せに曰く。

「然(しか)れば久(く)遠実成(おんじつじょう)の釈尊と皆成仏道(かいじょうぶつどう)の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但(ただ)日蓮が弟子檀那等の肝要(かんよう)なり法華経を持(たも)つとは是(これ)なり、所詮(しょせん)臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是(ぜ)人命(にんみょう)終為(じゅうい)千仏授手(せんぶつじゅしゅ)・令(ふょう)不恐怖(ふくふ)不堕(ふだ)悪趣(あくしゅ)』と説かれて候、悦(よろこ)ばしい哉(かな)一仏二仏に非(あら)ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎(らいごう)し手を取り給はん事・歓喜の感涙(かんるい)押え難(がた)し」(生死一大事血脈抄)

【通解】このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴(しょうちょう)である久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つはまったく差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことが日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである。

所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励(はげ)み、南無妙法蓮華経と唱える人を普(ふ)賢菩薩勧発品(げんぼさつかんぼつぽん)には「是(こ)の人命終(みょうじゅう)せば、千仏の手を授(さず)けて、恐怖(くふ)せず、悪趣に堕(お)ちざらしめたもことを為」と説かれている。喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏ではなく千仏までも来迎し手を取ってくださるとは歓喜の涙、押さえがたいことである。

 

ここに仮本尊(末寺住職書写の本尊、御形木御本尊)、本本尊(“法主”書写の本尊)の差別を超(こ)えた仏力法力の実在(じつざい)がある。御本尊のありがたさがあるのだ。それは、すべて御本仏日蓮大聖人の慈悲(じひ)広大の故である。

世界広布間近(まぢか)となった今日、信徒は、本本尊たる常住御本尊をいただける見込みがあるのだろうか。結論を先に言ってしまえば、世界広布が進展(しんてん)すればするほど、本本尊はいただきにくくなる。信徒における本本尊護持(ごじ)者の率は減ってしまうのである。

化儀の広宣流布においては、本尊流布こそ主眼(しゅがん)である。宗開両祖の御(ご)遺命(ゆいめい)を拝(はい)して、本尊流布に挺身(ていしん)すべきときである。ところが、化儀の広宣流布が進むにしたがい、信徒における本本尊護持者の率は減ってしまうのである。

御本仏日蓮大聖人の仰せに曰く。

「ただをかせ給へ。梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)等の御計(おんはからい)として、日本国一時に信ずる事あるべし。爾時(そのとき)我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」(上野殿御返事)

【通解】ただ放(ほお)って置きなさい。梵天(ぼんてん)や帝釈(たいしゃく)等のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるであろう。そのとき、私ももとから信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。

実際にこのような事態になったらどうするのだろうか。日亨上人は、このことについて次のように記している。

「然(しか)りといへども宗運漸次(ぜんじ)に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛(さかん)なるに至らば・曼荼羅授与(じゅよ)の事豈(あに)法主御一人の手に成ることを得んや、(中略)或(あるい)は形木を以て之を補(おぎな)はんか」(『富士宗学要集』第一巻「有師化儀抄註解」)

【通解】しかし、宗運がしだいに開けて、異民族や海外で妙法を唱えることが盛んになるときがきたなら、曼荼羅(御本尊)を授与することが、法主ただ一人の手でできるであろうか。あるいは、形木本尊をもって補うことになるのだろうか。

世界広布の進展によっては、御本尊書写の在(あ)り方も問われるべきなのだ。実に残念なことだが、いまの宗門はいたずらに権威を振りかざす者ばかり多く、日亨上人のような開明(かいめい)的な僧侶はきわめて少ないようだ。

 

御本尊書写は和合僧団の厳格な規律に基づいておこなわれるべきだ

“法主”が一日三体の御本尊を書写したとして、一年間で約一千体。十年で一万体。それでも、現在の信徒の一パーセントも本本尊を所持(しょじ)できないことになる。こう考えていくとき、世界広布の時にあたっては、御本尊書写の方法も改めて考えなければならないということになるのは自明(じめい)の理(り)である。

まして、“法主”が特別の境界(きょうがい)にあって御本尊書写しているのではなく、導師本尊の例でもわかるように、何代にもわたりニセ曼荼羅を間違ったまま写しつづけているとなれば、書写の技法(ぎほう)すらも考え直さなければならない。御本尊書写は、もともと和合僧団の厳格なる規律(きりつ)に基づいておこなわれるべき性格のものである。

近代になって印刷技術が進み、交通通信網(もう)が整備されるにともない、御本尊書写(印刷を含む)の権限は和合僧団のトップである「貫首(かんず)」に集中されてきた。それでも十年くらい前までは、東京の末寺である法道院(主管・早瀬日慈)において御形木御本尊は印刷されてきた。しかも、印刷された御本尊は“法主”による開眼もなく、そのままダンボール箱につめて地方に発送されていた。

御本尊に関わる権限が、「貫首」にほぼ完全に集中されたのは、意外にもごく近年のことなのだ。

しかし、残念なことには、御本尊書写に関わる権限が「貫首」によって完全掌握(しょうあく)された段階において、今回の日顕狂乱事件が起きてしまった。そして、日顕は創価学会という和合僧団を破壊し、信徒を隷属させる目的で本尊を下付しないとウソぶいているのである。

本来、御本尊は、御本仏日蓮大聖人が末法の民衆救済のために御(ご)図(ず)顕(げん)されたものである。「貫首」はその大慈大悲を受け継ぎ、民衆救済のために死(し)身(しん)弘(ぐ)法(ほう)の戦いをしなければならないのだ。

ところが、日顕に見られるように、己(おのれ)の権威・権力を守らんがために、日蓮大聖人の仏法を封建(ほうけん)思想の殻(から)に閉じ込め、和合僧団すらも私物化しようとしているのである。

日蓮大聖人の仏法は、民衆のためのものである。御本尊が民衆救済の目的で御図顕されたことは間違いのないことである。日蓮大聖人の仏法を信ずる者は、ことごとく仏の子であり、それらの者が集まるところは和合僧団である。

だが、身軽法重(しんきょうほうじゅう)の行者として広宣流布の先陣(せんじん)を切らなければならない日蓮正宗中枢(日顕宗)は、日蓮大聖人の民衆救済の仏法を捨て、悪(あ)しき封建思想に凝(こ)り固まり、民衆支配に腐心(ふしん)している。「毒気(どっけ)深入(じんにゅう)失本心故(しっぽんしんこ)」とは、このことである。

そのために、日蓮正宗中枢は現在、和合僧団の埒外(らちがい)に位置している。御本尊書写の権能(けんのう)を集中的に握っていた者たちが正信を失い、和合僧団より脱落(だつらく)。しかも、僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)の姿を現じている。

その結果として、仏子らが集(つど)える和合僧団は、本来ならば和合僧団として必然(ひつぜん)的に有している御本尊書写及び下付の権能を表面的には失うことになった。

御本尊書写及び下付の権能は、もともと広宣流布を推(お)し進める和合僧団に備わったものである。したがって、その権能は回復されなければならない。回復による書写は和合僧団の厳格(げんかく)な規律に基づきおこなわれるべきである。その規律は仏意を受けた和合僧団において決定されるべきだ。

これまで正体すらも明らかでなかった僣聖増上慢が、いま現実のものとなったのは、時のしからしむるところである。これによって、このたび創価学会が第二十六世日寛上人の御形木御本尊を授与することを制定し実行したのは、まことに時にかなったことなのである。師を中心に団結し、広宣流布の戦いを、新たなる次元に突入させるべき時にきている。日蓮大聖人の本義に、よりいっそう近づくことである。

 

“富士の清流”など、まったくの幻想(げんそう)

史実の裏づけのない「貌座神秘主義」

日顕宗では「富士の清流」「七百年の伝統」などという言葉を、己の尊厳(そんげん)を確保し権威を高めるための常用句としている。だが、史実に照らしてみて、本当にそのように誇(ほこ)れるのだろうか。いや、そうではない。

「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)」「血脈相承」といっているが、貫首(かんず)や“法主”の継続の中に、神秘的(しんぴてき)なものの継承(けいしょう)があったかといえば、これまたそうではない。まったくの幻影(げんえい)だった。

それでは、日蓮正宗にとって確かなことは何かといえば、地涌の菩薩が澎湃(ほうはい)と出現しはじめるときまで、戒壇の大御本尊をなんとか無事に伝えてきたということである。

とはいえ、戒壇の大御本尊の周辺に生きてきた僧たちが、正法正義に基づき、毅然(きぜん)たる謗法厳戒(げんかい)の姿勢で今日まで戒壇の大御本尊を厳護(げんご)してきたかといえば、これまたちがう。

室町期(第九世日有上人の時代)には、留守居(るすい)役(やく)の三人の悪僧が、戒壇の大御本尊ごと大石寺を売り飛ばしてしまったという事実もある。

その後も、時の権力に圧迫(あっぱく)されながら、権力に媚(こ)び、邪宗に膝(ひざ)を屈(くっ)して、なんとか生き延(の)びてきたのだ。その間、おびただしいほどの諺法を犯し、知ってか知らずか邪義に染(そ)まってきたのである。

それでも、なんとか仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の団体である創価学会が出現するまで、戒壇の大御本尊をお護(まも)り(正確には護られてきた)してくることができた。

御開山日興上人曰く、

「此の御筆(おふで)の御本尊は是(こ)れ一閻浮提(いちえんぶだい)に未(いま)だ流布せず正像末(しょうぞうまつ)に未だ弘(ぐ)通(つう)せざる本尊なり、然(しか)れば則(すなわ)ち日興門徒の所持(しょじ)の輩(やから)に於(おい)ては左右無く子孫にも譲(ゆず)り弟子等にも付(ふ)嘱(ぞく)すべからず、同一所に安置し奉(たてまつ)り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏(ひとえ)に広宣流布の時・本化国主御尋(たずね)有らん期まで深く敬重(けいちょう)し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)

【通解】この大聖入御自筆の御本尊は、一閻浮提(全世界)にいまだ流布せず、正法・像法時代にはいまだ弘通していない本尊なのである。したがって、日興の門徒で御本尊を所持する者は、簡単に子孫に譲ったり、弟子などに付属してはならない。

一カ所に御安置申し上げて、(本弟子)六人が一同でお護(まも)りすべきである。これも、ひとえに広宣流布の時がきて、正法を受持した本化の国柱(上行菩薩を棟梁(とうりょう)とする地湧の菩薩)からお尋ねがあるときまで、深く敬(うやま)い大切にしていくべきである。

戒壇の大御本尊が、今日まで伝えられてきたのは何のためか。ひとえに、地涌の菩薩が雲集(うんじゅう)する、その時代のためであった。

「血脈」とか「相伝」といった、宗教的用語で表現していることの実体(じったい)は、とりもなおさず、戒壇の大御本尊を化儀の広宣流布の時にあたって、地涌の菩薩に無事に伝えることである。

これ以外に、「血脈」とか「相伝」などはありえない。ましてや、「相承」を受けると特別の宗教的境界(きょうがい)に及ぶなどということは、唾棄(だき)すべき愚論にすぎない。

もし仮に“法主”の座にある者が不可思議なる宗教的境界にあり、宗開両祖と同様の境界に達しているとするなら、日蓮正宗の“法主”が「五道冥官(みょうかん)」などという邪義に基づく名を、代々にわたって導師本尊に書き込むはずはない。

それを何百年もおこなってきたということは、“法主”が不可思議な宗教的境界にはないという証左(しょうさ)である。

それでは、「猊座神秘主義」という言葉に象徴(しょうちょう)されるような特殊(とくしゅ)な力が“法主”にないとすれば、相承とはいったい何であったのか。その実体は、先述したように謗法に染(そ)まりながらも戒壇の大御本尊を、かろうじて地涌の菩薩出現の今日まで伝えてきたということだ。戒壇の大御本尊が仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の団体である創価学会の出現のその日まで伝えられたという事実が、相承においてもっとも意義あることなのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「当(まさ)に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王(けんおう)と成(な)つて愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成つて正法を弘持(ぐじ)す」(観心本尊抄)

 

【通解】まさに知るべし、この四菩薩は折伏を現ずるときには賢王となって武力をもって愚.王を責(せ)め誡(いま)しめ、摂受を行ずるときは聖僧となって正法を弘持するのである。

この化儀の広宣流布の時代まで戒壇の大御本尊が無事伝えられ、そこに地涌の菩薩が雲集(うんじゅう)したという現実にこそ、日蓮大聖人の慈悲が広大無辺にして末法万年尽(まっぽうまんねんじん)未(み)来際(らいさい)まで民衆を救済しうるという、根源的(こんげんてき)な力が顕示(けんじ)されているのだ。

日蓮正宗の歴史において、もっとも確かにして不可思議なことは、日蓮大聖人が末法の民衆の幸せのために御(ご)図(ず)顕(げん)された戒壇の大御本尊のもとに、地涌の菩薩が雲集(うんじゅう)したという現実である。創価学会は、末法の御本仏日蓮大聖人の御言葉を虚妄(こもう)にしないために出現したのだ。

これこそ確固(かっこ)たることである。

この現実を直視(ちょくし)しないで、血脈を“法主”一人の独占とするような痴(おろ)かをなしてはならない。法流は“法主”の威力で継(つ)がれたのではなく、仏意仏勅の和合僧団・創価学会の出現により正法が蘇(よみがえ)ったのである。したがって史実の裏づけのない「猊座神秘主義」のような、人間の上に人間をつくる愚(おろ)かな幻影は捨て去るべきだ。

 

謗法厳戒の精神がまったくなかった宗門

はっきり言っておこう。創価学会出現までの日蓮正宗には、「富士の清流」といわれるような謗法厳戒の精神はなかった。

「地頭(じとう)の不法ならん時は我も住むまじき由(よし)、御(ご)遺言(ゆいごん)には承(うけたまわ)り候へ」(美作房御返事)

このように日興上人は、御本仏日蓮大聖人の御真意(しんい)を書き残されている。本来ならば、大石寺に宗祖の御魂(おんたましい)は住まないところであったのだ。

だが、謗法に染まりながらも大石寺に戒壇の大御本尊が伝えられてきたという、御本仏日蓮大聖人の御慈悲は実に甚深(じんじん)であった。

それ故に、戒壇の大御本尊を慕(した)う地涌の菩薩たちが、「謗法の真(ま)っ只中(ただなか)に敵前上陸した」(戸田城聖第二代会長の言葉)のである。宗門の内も外も謗法だらけであった。また、世の中は軍国主義が席巻(せっけん)し、まさに暗黒の時代であった。

しかし、牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長の生命を賭(と)した戦いによって、機は熟(じゅく)し、大法興隆(だいほうこうりゅう)の民主の時代を招来(しょうらい)することができたのである。そしていま、池田大作名誉会長の指揮(しき)により、閻(えん)浮(ぶ)提(だい)広宣流布は現実のものになろうとしている。

これこそが、ゆるがせにできない事実なのである。戒壇の大御本尊のもとに創価学会が出現したこと、初代、二代、三代会長が広宣流布を推(お)し進めてきたこと、これ以外に確かなことはない。また、これ以上、不可思議なこともない。これこそ、日蓮大聖人の慈悲が末法万年尽(まっぽうまんねんじん)未(み)来際(らいさい)に及ぶ現証(げんしょう)なのである。

「富士一跡門徒存知の事」に明記(めいき)してあるように、本化(ほんげ)地涌の菩薩に戒壇の大御本尊を無事伝えるよう御開山日興上人より仰(おお)せつかった僧らが、何をもって大御本尊と地涌の菩薩の間に立ちはだかろうというのか。言(ごん)語(ご)道断(どうだん)である。

それだけではない。戒壇の大御本尊を地涌の菩薩に無事伝えるべきことが、金(こん)口(く)嫡々唯授一人(ちゃくちゃくゆいじゅいちにん)血脈相承の本(ほん)旨(し)であるのに、血脈相承を猊座を神秘化し地涌の菩薩を圧迫する“道具”にしようとする。

まるで蔵番(くらばん)が鍵(かぎ)を握(にぎ)りしめ、主人が訪れたのに鍵を渡さないようなものだ。人を誑(たぼら)かし、自分が主人だと偽(いつわ)っているのだ。日顕のおこなっていることが、まぎれもなくそれである。“悪(あっ)鬼(き)入(にゅう)其(ご)身(しん)”とはこのようなことを言うのである。

大聖人の御金言を現実のものとしている創価学会員こそ真の仏の眷属

猊座神秘主義者は、「本尊三度相伝」「御本尊七箇相承」などの相伝書をもって“法主”(貫首(かんず))の座を宣揚(せんよう)し、それ以外にも甚深(じんじん)の口伝(くでん)があるとしている。だが、宣揚の前提になっている秘伝(ひでん)であるべき相伝書が、日蓮宗各派の他山でも相伝書とされていることを知らなければならない。

しかも、その相伝書は大半がまったく同一文の写本(しゃほん)である。もちろん、大石寺にあるものも写本である。

総本山第五十九世日亨上人が、『富士宗学要集』の中七相伝書を掲載(けいさい)し、秘伝書とされてきたものを公開した背景には、日蓮宗各派の他山に同様のものがあるという現実があったのだ。

「血脈」「相伝」といった言葉に幻惑(げんわく)されてはならない。繰り返すようだが、代々の会長のもとに団結し、日蓮大聖人の教えのままに広宣流布を進めている創価学会の現実の姿。これ以上の不思議はないのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「いかにも今度(このたび)・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊(しゃくそん)久(く)遠(おん)の弟子たる事あに疑はんや、経に云く『我(われ)久遠より来(この)かた是(これ)等(ら)の衆を教化(きょうけ)す』とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非(あら)ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし」(諸法実相抄)

【通解】このたび、信心をしたからには、どのようなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となりとおしていきなさい。

日蓮と同意であるならば、地涌の菩薩であろうか。地涌の菩薩であると定まっているならば、法華経従地涌出品第十五に「これらの地涌の菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのは、このことである。

末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の分(わ)け隔(へだ)てをしてはならない。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのである。

はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第(しだい)に唱え伝えてきたのである。未来もまたそうであろう。これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか、広宣流布のときは日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。

この日蓮大聖人の御(ご)金言(きんげん)を現実のものにしているのは、ほかでもない池田名誉会長率(ひき)いる創価学会である。

創価学会員にとってかけがえのないものは、日蓮大聖人の仰(おお)せを現実のものとしようとする創価学会であり、みずからも含めてそこに集(つど)う地涌の菩薩たちである。創価学会員は、自分たちが仏の眷属(けんぞく)であることを一大確信することこそ肝要(かんよう)なのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る程(ほど)の者は宝塔(ほうとう)に入るなり」(御義口伝)

創価学会員は、自身の尊厳(そんげん)に目をひらくべきだ。

さて、ここまで論及(ろんきゅう)しても、日顕宗の悪侶らは僧の尊厳を強調し、信徒の尊厳は僧に劣(おと)ると主張することだろう。そうであるなら、創価学会出現以前の日蓮正宗の尊厳はどれほどあったのだろうか。

それを史実に基づき認識(にんしき)しなければならない。日蓮正宗の代々の“法主”が、ニセ曼荼羅である導師本尊を何百年にもわたり書写してきた、その史実から目をそらすことは許されない。

 

「血脈相承」「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)」「富士の清流」「七百年の伝統」「本宗本来の化儀化法」などという言葉に、ぬぐいがたい憧憬(しょうけい)を持っている日顕宗の人たちも、史実に剋目(かつもく)すれば、みずからの幻想(げんそう)を打ち砕(くだ)くことになることだろう。

仏法は観念世界にあるのではなく、現実世界に息づいている。迷妄(めいもう)を払い、歴史に真実を求めるべきである。