地涌(じゆ)からの通信: はじめに

三類の強敵(ごうてき)のうち、最強にして最悪のものが僣聖増上慢(せんしようぞうじようまん)である。日蓮正宗にあって”法主”という最高位にある日顕が、借聖増上慢としての正体を露(あらわ)にしたのが平成二年十二月末であった。

この平成二年は、開祖日興上人が世界広宣流布を期して身延を離山し大石寺を開創(かいそう)されて、ちょうど七百年目にあたる。同年十月には大石寺において、創価学会に集(つど)う仏弟子らが開創七百年を慶祝(けいしゆく)しての諸行事を献身的におこなっていた。

ところが、この慶祝行事の裏で、日顕らは謀(ぼう)略(りやく)「C作戦」を発動する機会を虎(こ)視(し)眈(たん)々(たん)と狙(ねら)っていたのであった。

「C作戦」とは、いまでは衆(しゆう)知(ち)のように、宗門が池田名誉会長の追放を創価学会に迫り、もしそれが不可能となれば創価学会総体を”破門”にし、一人ひとりの創価学会員が団結を解(と)いて檀徒となるよう仕向けようとしたものである。

屈服(くつぷく)しない創価学会員には戒壇の大御本尊の御開扉をさせない、御本尊を下付しない、あるいは成仏しないという脅(おど)しをもって臨(のぞ)もうと日顕が計画していたことは、その後の経過でも容易にうかがえる。

だが創価学会員は、創価学会が仏(ぶつ)意(い)仏(ぶつ)勅(ちよく)の和合僧団であるとの本義に目覚(めざ)め、僭聖増上慢の惹起(じやつき)した難をよくしのいだ。平成三年十一月二十八日、日顕らは創価学会員の団結を乱す目的で最後の手段に訴え、創価学会総体を”破門”にした。しかし、真正の和合僧団である創価学会は微(び)動(どう)だにしなかった。それどころか、創価学会員は日蓮大聖人の仏法の本質を、よりいっそう身近なものとして感じ始めた。

創価学会員は、創価学会が仏意仏勅の団体であることを覚(かく)知(ち)し、みずからも地涌の菩薩であるとの自覚を深(しん)化(か)させたのであった。また、創価学会歴代会長との仏法上の不思議な縁(えにし)も実感したのである。それらの確信の大きな裏づけとなったのは、創価学会と日蓮正宗の正しい歴史を初めて知り得たことにあった。

創価学会出現以前、日蓮正宗は身延山久遠寺に率(ひき)いられる日蓮宗同様に、邪宗の呈(てい)をなしていた。それを創価学会三代にわたる会長が忍従(にんじゆう)の心をもって浄(じよう)化(か)してきたのが、真実の歴史であった。日蓮大聖人の仏法は日蓮正宗において隠没(おんもつ)しようとしており、創価学会がそれを現実の社会に息づく生活法として蘇(そ)生(せい)させたのである。

牧口常三郎創価学会初代会長が罰論(ばちろん)を言い出したとき、日蓮正宗の僧たちは大変な拒否反応を示した。それまでの日蓮正宗には、罰論などなかったのである。

日蓮正宗の僧たちは、「日蓮正宗の信者は、皆が皆、即身成仏している。成仏した者に罰が出ようか」と、牧口会長の罰論に反発し、法華講も喜んでそれに同調した。僧にしてみれば懶(らん)惰(だ)懈(け)怠(たい)の宗風こそが、最良の温(おん)床(しよう)であったのだ。下手(へた)に信徒が正信に目覚め、教学を研鑚(けんさん)し、勤行唱題をするよりは、僧を頼みにし葬式や法事に多額の供養をしてくれることこそが望みであった。

牧口会長は日蓮正宗にはびこる邪義邪法を駆(く)逐(ちく)するために、毅(き)然(ぜん)としていっそう強く罰論を述べた。

「御本尊に認(したた)められた『若有悩乱者(もしのうらんするものは) 頭破作七分(こうべわれてしちぶんとなる)』の御文は罰論ではないのか」

「日蓮大聖人曰く『罰は総罰・別罰・顕(けん)罰・冥(みよう)罰・四候、日本国の大疫病(えきびよう)と大けかちとどしうちと他国よりせめらるるは総ばちなり、やくびやうは冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり』と、これは罰論ではないのか」

牧口会長の師子吼(ししく)を聞き、日蓮正宗の中にも日蓮大聖人の仏法に説(と)かれた罰論を理解する者が、わずかに現れた。だが、哀(あわ)れなるかな、戦中の法難にあたって宗門は総崩(そうくず)れとなり、不(ふ)惜(しやく)身(しん)命(みよう)の仏語を忘れ日蓮大聖人の教法を捨て去ったのであった。

さらに見苦しいことには、創価教育学会幹部を信徒除名にし、正信の僧・藤本蓮城も一宗擯斥処分にした。ただ、国家神道の領(りよう)導(どう)する国家権力の猛威を恐れたが故である。

日蓮正宗には、もはや日蓮大聖人の国家諌暁(かんぎよう)の精神は流れていなかった。江戸時代、幕府の民衆統治の代行機関に成り下がってから、権力に阿(あ)諛(ゆ)追(つい)従(しよう)する悪弊(あくへい)が骨の髄まで浸透(しんとう)していたのである。

腐(ふ)敗(はい)は、それだけにとどまらない。寺請(てらうけ)制度の中で檀家を食いものにしてきた日蓮正宗は葬式仏教化し、邪宗に習い「導師本尊」というニセ曼茶羅までつくり出していたのである。

信徒は、死者の成仏を祈る特別の「導師本尊」なくしては死後成仏しないとし、僧のみに死者を成仏させる特別の権能(けんのう)があるかのように立ち振る舞った。信徒が生あるときには、信者はみな成仏すると懶(らん)惰(だ)懈(け)怠(たい)を教え、一度死せると即身成仏をさせる力は僧のみにありと遺族を脅(おど)したのだった。

悪比丘らはニセ曼茶羅「導師本尊」のみを収(しゆう)奪(だつ)の小道具にしてきただけではなかった。真正の「常住御本尊」すら、供養の代(だい)価(か)を得るために乱発してきたのであった。大石寺周辺の根(ね)檀家は歴代”法主”の御本尊を、あたかも軸物(じくもの)のように何体も持っている。そして、現在でも「供養をすれば、”御前さん”はいつでも”常住御本尊”を書いてくれる」と言ってはばからないのである。

そのほか、日露戦争に際しては、もったいなくも日蓮大聖人の御真筆を掲(かか)げて”出(で)開(かい)帳(ちよう)”をおこない、戦勝祈願の万に及ぶ「御形木(かたぎ)御本尊」を宗内外にばらまいた。

日興上人曰く。

「一、御筆の本尊を以て形木に彫(きざ)み不信の輩(やから)に授与して軽(きよう)賤(せん)する由(よし)・諸方に其の聞(きこ)え有り所謂(いわゆる)日向・日春等なり。

日興の弟子分に於(おい)ては在家出家の中に或(あるい)は身(しん)命(みよう)を捨て或は疵(きず)を被(こうむ)り若(もしく)は又在所を追放せられ一分(いちぶん)信心の有る輩に忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり」(富士一跡門徒存知の事)日蓮正宗の代々の”法主”は、日興上人の末流にあるまじき本尊雑(ぞう)乱(らん)をなしてきたのである。宗祖日蓮大聖人の謗(ほう)法(ぼう)厳(げん)戒(かい)の教えも、日興上人の身延離山の精神も、創価学会出現以前の日蓮正宗においては死(し)滅(めつ)していたといえる。そこまで大石寺には邪義が横行(おうこう)していたのである。

その邪義も、創価学会の出現により、徐々にではあるが浄化されたかに見えた。だが、それは伏在(ふくざい)していた。このたび、長年にわたり日蓮正宗に浸透(しんとう)してきた邪義は”日顕狂乱事件”として顕(けん)在(ざい)化(か)し、”法主”日顕は悪(あつ)鬼(き)入(にゆう)其(ご)身(しん)の姿を現じ僭聖増上慢と化したのであった。

日興上人が日蓮大聖人由縁の身延山を離山されたのは、

「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由(よし)」(美作房御返事)

との、日蓮大聖人の謗法厳戒の精神を受け継がれてのことであった。「地頭」が仏法に違(い)背(はい)するとき、日蓮大聖人はそこには住まれないということである。となれば大謗法を犯(おか)し、仏弟子を迫害するような”法主”が支配している大石寺に、日蓮大聖人の御(おん)魂(たましい)が所在(しよざい)しないことは無論のことである。

日興上人が身延を離山された直接の原因は、地頭たる波(は)木(き)井(り)実(さね)長(なが)(南部六郎)の犯した謗法にあるが、波木井にその謗法を犯させたのは悪師・民(みん)部(ぶ)日(に)向(こう)である。日向が邪義を教え、波木井の信心を破ったのであった。たとえば、神社不参詣(さんけい)の教えについても、民部日向は日興上人(白(びやく)蓮(れん)阿(あ)闇(じや)梨(り))が仏法の「至(し)極(ごく)」を知らないとして、波木井入道に次のように教えていた。

「守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一篇(いつぺん)にて候へども、白蓮阿闊梨外(げ)典(てん)読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候。法華の持者参詣せば、諸神も彼の社檀(しやだん)に来(らい)会(え)すべく、尤(もつと)も参詣すべし」(原殿御返事)

日興上人は民部日向が邪義を説いたことについて、

「白蓮此の事は、はや天魔の所(しよ)為(い)なりと存じ候いて少しも恐れ進(まい)らせず、いかに謗法の国を捨てて還(かえ)らずとあそばして候守護神の御弟子の民部阿閣梨参詣する毎(ごと)に来(らい)会(え)すべしと候は、師(し)敵(てき)対(たい)七逆罪に候はずや。加(か)様(よう)にだに候はば、彼の阿闇梨を日興帰依(きえ)し奉り候はば、其の科(とが)日興遁(のが)れ難(がた)く覚え候。今より以後かかる不法の学頭をば接(ひん)出(しゆつ)すべく候と申す」(同)と、書き遺(のこ)されている。この民部日向と同然のことを日顕らがおこなっている。

日蓮大聖人の仏法を隠し、日顕のたわごとを”仏語”として崇(あが)め、それを正当化するため「唯授一人血脈相承(ゆいじゆいちにんけちみやくそうじよう)」の邪義を振り回し、日顕は日蓮大聖人と同じ境界(きようがい)にあるとうそぶく。禅寺に墓を建て「為先祖代々菩提 建立之日顯 花押」と墓石に刻(きざ)んでも、共同墓地に親戚の墓が建ったので法要をおこなっただけと言う。シアトルで買春し、赤坂の超高級料亭で芸者に酌(しやく)をさせ興(きよう)じ芸者に囲まれて写真におさまっても、出家の身でありながら恥とも思わない。

日興上人は、民部日向の堕落(だらく)のさまを記されている。

「同八日仏生日と号して、民部入道の室内にして一日一夜説法して布施を抱き出すのみならず酒を興ずる間、入道其の心中を知って妻子を喚(よ)び出して酒を勧(すす)むる間、酔狂(すいきよう)の余り一声を挙げたる事、所従春属(しよじゆうけんぞく)の嘲弄口惜(ちようろうくちお)しとも申す計(ばか)りなし。日蓮の御恥何事か之に過ぎんや。此の事は世に以て隠れ無し、人皆知る所なり」(同)

邪義を弄(もてあそ)び邪淫(じやいん)乱行を常とする日顕は、民部日向の姿そのものである。

「元より日蓮聖人に背(そむ)き進(まい)らする師共をば捨てぬが還(かえ)って失(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給うべきか」(同)

謗法の師は捨てねばならないというこの法門の故に、真の仏弟子である創価学会員は日顕を捨て大石寺を去ったのである。日顕らは、日蓮大聖人の本眷属(ほんけんぞく)より破門になったのだ。

本書は、その証拠を示す最良の書といえよう。

平成五年十一月二十八日

『地涌』 編集長  不破 優

〔追記〕本書中、明らかな大謗法を犯した”法主”の上人号は剥奪(はくだつ)した。日精、日布、日応、日正、日開、日恭など。

第四章 創価学会出現の意義

第四章のはじめに

平成二年十二月二十七日、日顕は宗規「改正」にことよせ、広宣流布の大功労者である池田大作創価学会名誉会長を突如として総講頭職より実質的に罷免(ひめん)した。これが謀略(ぼうりゃく)「C作戦」の開始であった。
 
だが、真に仏弟子たる創価学会員の前進を阻(はば)み、悪僧たちが創価学会組織を切り崩そうとする事件は、日顕に始まったことではない。
 
昭和五十三年~五十四年当時、正信会の僧たちが猊座の権威を背景に創価学会を圧迫した。悪僧たちは教義上なんら謗法でもない「御本尊謹刻(きんこく)」を、日達上人の勘違(かんちが)いという事実を曲げてまで謗法と言いつのり、創価学会に謝罪させ、隷属(れいぞく)させようとした。しかし、創価学会は宗門の理不(りふ)尽(じん)な仕打ちに対しても、広宣流布の大願成就のために僧俗和合を第一義とし、忍従(にんじゅう)して、宗門に対し変わらぬ赤誠(せきせい)をもって尽くした。
 
日達上人没後(ぼつご)の昭和五十四年八月、日顕が登座したが、創価学会は以前にもまして宗門に尽くし、莫大(ばくだい)な供養をした。ところが日顕は、広宣流布の大願を忘れ、池田名誉会長を追放し創価学会を手中(しゅちゅう)にしようとの野心を抱き、「C作戦」という謀略を実行に移した。
 
「C作戦」は池田名誉会長を追放することを目的とし、もしそれができなければ、創価学会総体を“破門”にし創価学会員を動揺(どうよう)させ、その一部を切り崩し檀徒にしてしまおうとの作戦であった。
 
日顕らは、広宣流布を強力に推進する精鋭(せいえい)部隊よりも、盲従(もうじゅう)するだけで広宣流布大願成就など考えていない檀徒組織の形成を願ったのである。日顕らが「C作戦」によって得ようとしたのは、つまるところ金であり、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の放縦(ほうじゅう)なる生活以外の何ものでもなかった。
 
日蓮正宗の僧が、みずからの安寧(あんねい)を計るため、あるいは自己の体面を保つために、仏意仏勅の創価学会を裏切ったことは歴史上たびたびあった。正信会や日顕による裏切りが初めてではないのである。
 
その最大の裏切りは戦中にあった。戦中、宗門は国家神道に領導(りょうどう)された国家権力の猛威(もうい)を恐れ、身延派に追随(ついずい)して御書を自主的に発禁とし、日蓮宗の他派にさきがけ御書を一部削除(さくじょ)した。そして、信徒団体である創価教育学会に対し、神札を受けるよう命じた。
 
創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城聖理事長

 

(いずれも当時)は、日蓮大聖人の法義に違背(いはい)した宗門の命令を拒否し、正法正義を貫(つらぬ)いた。だが宗門は、この正信の仏弟子たちを、“指南”に従わないことを理由に登山停止処分とした。
 
牧口会長ら創価教育学会幹部は、神札を焼却したなどの行為が「神宮」の尊厳を冒瀆(ぼうとく)するものであるとして、昭和十八年に治安維持法違反、不敬罪により逮捕された。ちなみに、治安維持法違反の最高刑は死刑である。宗門は創価教育学会弾圧の巻き添えとなることを恐怖し、創価教育学会員たちを信徒除名処分とした。
 
さらに宗門は、末寺の庫裡(くり)に神札を祀(まつ)るよう宗内に徹底し、日蓮大聖人の仏法を投げ出し、わが身の安泰(あんたい)のみを計ったのであった。
 
そのあげく、大石寺の大坊は、故国から半(なか)ば強制的に連れてこられた朝鮮義勇軍の宿舎として徴用(ちょうよう)され、日本軍将校の手によって大坊の大書院に神棚がつくられ、神札が祀られた。この腰抜けの末裔(まつえい)に宗祖の御怒りのないわけがなく、昭和二十年六月大坊は焼失し、時の“法主”日恭は紅蓮(ぐれん)の炎の中で無惨(むざん)な焼死を遂(と)げた。
 
だが宗門は、これだけの仏罰を蒙(こうむ)りながら総懺悔(ざんげ)もせず、僧の体面を保ち信徒の上に位置することのみを考えていた。
 
しかし、広宣流布の潮流(ちょうりゅう)は確実にうねりを増していた。戸田会長は終戦間近に迫った昭和二十年七月三日、奇跡的に生きて獄を出た。これより、戸田会長の死身弘法の戦いが始まり、七十五万所帯におよぶ大折伏戦が展開されることになるのである。
 
その聖業の骨格が形成されつつあった昭和二十七年四月、大石寺で宗旨建立七百年大法要がおこなわれた。このとき、戦中、神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)論を唱え宗門を撹乱(かくらん)し創価教育学会弾圧の近因をつくった小笠原慈聞が登山。創価学会青年部は小笠原を牧口会長の墓前で謝罪させた。
 
ところが、戦中、小笠原同様の変節(へんせつ)をしていた日蓮正宗のことごとくの僧の心中はおだやかでなく、追及が自身に及ぶことを懸念(けねん)し、奸計(かんけい)をもって戸田会長を貶(おとし)めたのである。
 
本章においては、日蓮正宗に巣くった“法滅の妖怪”たちの悪業を、日本の歴史の流れの中で活写(かっしゃ)し、その一方で仏意仏勅の和合僧団・創価学会出現の必然と仏法上の意義を示す。

 

国家神道に随従し戦争協力した宗門

大聖人の教法を曲げ戦争遂行のため報国翼賛

昭和二十年八月、日本が敗戦に至るその日まで、既成(きせい)仏教はほぼ例外なく戦争に協力し、国民を戦争に駆(か)り立てる役割を担(にな)った。
 
日蓮正宗も他の邪宗同様に、国家神道に随従(ずいじゅう)し日蓮大聖人の教法を曲げ、戦争遂行(すいこう)のための報国翼賛(よくさん)をおこなった。日蓮正宗がそれらの愚(おろ)かな行為をおこなったのは、国家権力による弾圧を恐れてのことであった。その国家権力が宗教界を威圧(いあつ)するために使った法律は、不敬罪と治安維持法であった。
 
不敬罪は、明治二十二年制定の帝国憲法第三条の「天皇は神聖(しんせい)にして侵(おか)すべからず」を根拠にするもので、明治四十年に定められた改正刑法の第七十四条に違反した罪を指す。第七十四条は、
 
「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に対し、不敬の行為ありたる者は、三月以上五年以下の懲役(ちょうえき)に処す」
 
と、不敬罪を定めている。
 
また治安維持法は、大正十四年に施行(しこう)され、昭和三年には緊急勅令(ちょくれい)で、最高刑がそれまでの「懲役十年」から「死刑又は無期懲役」に変えられた。
 
治安維持法第一条には、次のように定められている。
 
「第一条国体を変革することを目的として結社を組織したる者、又は結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は、死刑又は無期、もしくは五年以上の懲役、もしくは禁錮(きんこ)に処し、情を知りて結社に加入したる者、又は結社の目的遂行の為にする行為を為(な)したる者は、二年以上の有期の懲役又は禁錮に処す。
 
私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者、結社に加入したる者、又は結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は、十年以下の懲役又は禁錮に処す。
 
前二項の未遂(みすい)罪は、これを罰す」
 
この第一条を読めば明らかなように、治安維持法は、共産主義者、無政府主義者などの左翼陣営に向けられたものであった。
 
ところが、昭和十六年三月、治安維持法は三度目の改定がなされた。そこでは「神宮」の「尊厳を冒瀆(ぼうとく)」することも新たに刑罰の対象とされた。明らかにそれは、国家神道の下に宗教統制をすることを目的にしており、宗教弾圧の刃(やいば)となるものであった。
 
「第七条国体を否定し、又は神宮もしくは皇室の尊厳を冒瀆すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者、又は結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者は、無期又は四年以上の懲役に処し、情を知りて結社に加入したる者、又は結杜の目的遂行の為にする行為を為したる者は、一年以上の有期懲役に処す。
 
第八条前条の目的を以(もっ)て集団を結成したる者、又は集団を指導したる者は、無期又は三年以上の懲役に処し、前条の目的を以(もっ)て集団に参加したる者、又は集団にかんし前条の目的遂行の為にする行為を為したる者は、一年以上の有期懲役に処す」
 
国家権力が、治安維持法を改定し、法の網(あみ)を広げ厳罰(げんばつ)化していった背景には、思想統制、宗教統制をおこなうことにより、戦争遂行を容易(ようい)なものにしようとの意図があった。したがって日本が戦争に深く入り込めば込むほど、弾圧(だんあつ)のための法は整備されていったのである。
 
昭和に入っての日本は、軍国化の一途(いっと)をたどる。主な動きを拾ってみると、昭和二年金融恐慌(きょうこう)、同三年張作霖爆殺、同六年満州事変勃発(ぼっぱつ)、同七年五・一五事件、同八年国際連盟脱退、同十一年二・二六事件、同十二年日中戦争勃発(蘆溝橋事件)、日独伊防共協定成立、同十三年国家総動員法施行、同十五年日独伊三国軍事同盟締結、大政翼賛会発足、同十六年太平洋戦争勃発、などである。この世相を背景に、国家神道への宗教統制が強められていき、弾圧事件が相次ぐ。
 
昭和十年、大本教弾圧(幹部六十名検挙(けんきょ)、六十一名起訴(きそ))。同十一年には、マスコミによる大本教を「邪教」「国賊(こくぞく)」と攻撃するキャンペーンを背景に、警察による神殿爆破がおこなわれ、大本教は所有地約五万坪を超安値で売却(ばいきゃく)させられた。のち教祖の出口王仁三郎は、治安維持法違反で一審判決は、無期懲役(ちょうえき)となる。

 

同十一年、ひとのみち教団弾圧(幹部十数名検挙)、新興仏教青年同盟弾圧(百六名検挙、二十九名起訴)。
 
同十三年、ほんみち(天理本道)弾圧(四百余名検挙、二百三十七名起訴、教祖大西愛治郎は一審、二審とも無期懲役)。
 
同十四年、灯台社弾圧(百十五名検挙、五十二名起訴、明石順三は大審院で懲役十年確定)。
 
治安維持法が改悪された昭和十六年は、新宗教およびキリスト教各派の検挙がつづく。御国教、大自然天地日乃大神教団、如来教、忠孝陽之教、御幸神教団、本門仏立講尾鷲道場、プリマス・ブレズレン、耶蘇基督之新約教会などが弾圧された。
 
同十七年、キリスト教ホーリネス派弾圧(牧師百三十四名検挙、二百七十教会解散)。
 
同十八年には創価教育学会への弾圧がおこなわれ、牧口会長以下二十一名が不敬罪、治安維持法違反で検挙された。
 
戦時下において、国家権力による宗教弾圧は容赦(ようしゃ)なくおこなわれた。だが実際のところ、信仰信条をまっとうして弾圧された宗教者はほんのごく一部で、圧倒的多数の者は弾圧を恐れ、信仰信条を曲げたのであった。
 
日蓮正宗の僧も、藤本蓮城(出家して間もないため僧階も一番下の三等学衆)一人を除いてすべての僧が、国家権力の圧迫の前に屈服(くっぷく)した。日蓮正宗は日蓮宗各派に及んだ国家権力による恫喝(どうかつ)にすくみ、日蓮宗身延派などと同調し右顧左(うこさ)眄(べん)を繰り返すだけであった。

 

深編笠で出廷した出口王仁三郎(右端)

 

昭和十六年の御書削除決定は日蓮宗各派の中でも突出していた

日蓮宗各派に対する国家権力の圧迫を象徴する事件として、「日蓮大聖人御書一部削除(さくじょ)問題」「曼荼羅国神勧請(こくじんかんじょう)不敬問題」をあげることができる。
 
国家権力は、日蓮大聖人の御書の中に天皇や神に対する不敬があるとして削除を求め、また御本尊の中に「天照太神」「八幡大菩薩」という「国神」が書き込まれていること、しかも「釈迦牟尼仏」などというインドの「神」より低いところに位置していることも問題にされたのである。
 
まず「御書一部削除問題」であるが、それに先鞭(せんべん)をつけたのは内務省警保局で、昭和七年十月のことであった。龍吟社が日蓮大聖人の六百五十遠忌を記念して出版した、『日蓮大聖人御遺文講義』の第十三巻に収録された「四条金吾殿御返事」「崇峻天皇御書」にある天皇に関する記述が不敬にあたるとして、削除命令を出し削除させた。
 
昭和九年、この日蓮大聖人の御書に不敬の言句(げんく)ありとする問題がマスコミによって報道され、社会問題化した。その口火となったのは、同年四月に発行された浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(平楽寺書房)に対し内務省が出した削除命令であった。
 
それに対し編者の浅井要麟・立正大学教授は、「日蓮聖人の観たる国家及社会」と題する論文を発表して抵抗した。

「仏教の如き世界的普遍妥当(だとう)性のある宗教に国境のあるべき筈(はず)がない。殊(こと)に三界を吾(わ)が所有とし、その中の衆生を悉(ことごと)く吾が子とも感じて、慈(じ)念(ねん)止(や)むことなき吾が聖人の救済の範囲を東方の粟散国、蕞爾(さいじ)たる日本国に限るとせば、自(みずか)ら教を小にし、聖人無限の慈悲を制限するものである。若(も)し不幸にして吾が一乗同信の信友の問に、かかる誤謬(ごびゅう)に陥(おちい)るものがあれば、あたら閻(えん)浮(ぶ)第一の大教を駆(か)って、民族宗教化せんとするものであって、法華経伝弘(でんぐ)の将来の為に艮(まこと)に悲まざるを得ない」(浅井要麟の論文より)

日蓮宗(身延派)も、内務省側が強行に出るなら、それを鵜呑(うの)みにして全面譲歩(じょうほ)するわけにはいかないとの姿勢を示した。
 
このため内務省は日蓮宗当局者を次々と呼び出した。

 

日蓮宗は、姉崎正治・東大教授、山田三良・東大教授、佐藤銑太郎・海軍中将、山川智応(国柱会幹部)の四名に交渉を委嘱(いしょく)した。
 
四名は内務大臣、文部大臣に対し御書削除命令の撤回(てっかい)を要望して交渉をおこなった。その結果、不敬にあたると誤解(ごかい)を招くような御書を、宣伝的な文書に引用しないことを条件に、削除命令は見合わされることになった。
 
この後、天皇や「国神」に関する御書の一部が、伏字(ふせじ)で出版されることが多くなった。
 
昭和十二年は「曼荼羅国神勧請(かんじょう)不敬問題」が表面化した年である。同年三月、兵庫県神職会会長の徳重三郎らが、日蓮大聖人の御図顕された御本尊における天照太神の座配(ざはい)に問題があるとし、真言宗の本(ほん)地(ち)垂迹(すいじゃく)説、臨済宗の授戒(じゅかい)和(わ)讃(さん)中の語句ともども、不敬であるとして神戸地裁に告発した。
 
この告発は却下(きゃっか)され日蓮宗各派はことなきをえたが、国家神道一色に染(そ)まった社会情勢の中で、「御書一部削除問題」「曼荼羅国神勧請不敬問題」はいやがおうでも社会問題化し、日蓮宗各派内部にもこの問題について萎縮(いしゅく)の風潮が顕著(けんちょ)に見られるようになった。
 
日本は時代の流れとともに軍国化し、戦域を急速に拡大していくのであるが、この戦争に国民をこぞって駆り立てるために、昭和十二年八月二十四日、近衛文麿内閣は「国民精神総動員実施要綱」を決定し、九月九日に内閣訓令(くんれい)をもってそれを実施させた。

 

靖国神社の臨時大祭

 
「蘆溝橋事件」「上海事変」とつづき、日本が日中戦争の泥沼へと、戻ることのできない歩みを始めた頃のことであった。
 
この「国民精神総動員運動」は昭和十五年に大政翼賛(たいせいよくさん)会へと発展する。その年の十月十二日に、総理官邸において大政翼賛会の発会式がおこなわれた。大政翼賛会の総裁には総理大臣の近衛文麿が就任し、各県に支部が置かれ、支部長には各都道府県知事があてられた。
 
昭和十六年三月、日蓮宗(身延派)はそれまでの「国民精神総動員立正報国運動」を発展的に解消し、「大政翼賛会立正報国運動」を開始した。
 
同年五月、新「日蓮宗」(身延派、顕本法華宗、本門宗の三派合同)は「宗綱(しゅうこう)審議会」において、御書の一部を削除するための検討を始めた。
 
その検討の結果、同年六月、御書七十余編中の二百八カ所の削除を正式決定、文部省にその旨を報告した。
 
しかし、文部省はそれらを不充分であるとし、日蓮宗(三派合同、以下単に日蓮宗と記述)に再検討を命ずる。
 
文部省の強硬(きょうこう)な姿勢を前に、日蓮宗側は譲歩(じょうほ)の道を選んだ。八月、日蓮宗は加藤文雅編の『日蓮大聖人縮刷遺文集』(霊艮閣版)を絶版にし、発売頒布(はんぷ)を禁止した。このとき、日蓮宗宗務院より出された「告示第八號」は、以下のようなものであった。
 
「告示第八號
 
寺院住職、教會(きょうかい)主管者、教師、僧侶並ニ檀信徒中本宗所依(しょえ)ノ釋書(しゃくしょ)宗祖ノ御文書ハ從來故加藤文雅編集(へんしゅう)ニ係ル靈艮閣藏版ノ日蓮聖人御遺文ヲ依用シ來(きた)リタルモ其ノ中ニハ國體(こくたい)思想ノ昂揚(こうよう)セラレツツアル現代ヨリ見レバ鎌倉期ノ一般時代思潮ニ基キ神佛本迹等國體明徴(めいちょう)ニ副(そ)ハザル箇處(かしょ)有之ガ爲ニ宗祖ノ尊皇護國(ごこく)ノ根本觀念ヲ誤解(ごかい)スルモノアルヲ懼(はばから)レ今般宗務院ニ於テ其ノ版權(ばんけん)ヲ攝収(せっしゅう)シテ之ヲ絶版ニ附シ發賣(はつばい)頒布ヲ禁止ス依テ本宗徒ハ爾今(じこん)ソノ依用ヲ禁ズ
 
追テ今後依用ノ御文書集ハ目下編纂(へんさん)進行中ナリ
 
右告示ス
 
昭和十六年八月十八日
 
宗務院」
 
この日蓮宗がおこなった霊艮閣版御書絶版の動きに呼応(こおう)して、日蓮正宗でも「御書刊行ニ関スル件」という宗務院よりの「院達」を「宗内教師」宛(あて)に出している。
 
その全文は、次の通り。

 

ほぼ日蓮宗の文と同じである。日蓮宗宗務院が八月十八日に御書(霊艮閣版)の刊行を禁止したが、それに追随(ついずい)して同月二十四日、ほぼ同様の文面で、日蓮正宗宗務院も御書全集の刊行を禁止したのである。
 
日蓮正宗の屈服(くっぷく)はそれだけに止(とど)まらなかった。
 
同年九月二十九日には、日蓮正宗教学部長名で御書(雪山書房発行)の本地垂迹説にかかわる十四カ所の字句を削除することを発表した。
 
宗門はこのとき、
 
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり上一人より下万民に至るまで之れを軽毀(きょうき)して刀杖(とうじょう)を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之れを逼責(ひつせき)するなり」(聖人知三世事)
 
という、日蓮大聖人が末法の御本仏としての確信を述べられた箇所までも削除している。
 
なお、合同した日蓮宗各派が合議して御書の一部削除を決めるのは、昭和十九年四月のことであるから、日蓮正宗のこの時期における御書一部削除の決定は、日蓮宗各派でも突出(とっしゅつ)したものであったといえる。
 
同年四月に削除された箇所は百三十五カ所。ただし、法華宗は賛成しなかった。
 
少し時は前後するが、日蓮正宗宗務院は、御書の刊行を禁止する昭和十六年八月二十四日の直前、同月二十二日に御観念文を改竄(かいざん)する院達を出している。皇国史観に基づき、初座の観念文を中心に改竄をおこない、「皇祖天照太神」「皇宗神武天皇」に始まる代々の天皇に対する感謝を明記した。

 

御書の刊行を禁止した「院第二一七七號」

 
国家神道に領導(りょうどう)された国家権力に屈して、観念文を改竄し、御書の刊行を禁止し、御書の一部を削除するという大罪を犯した日蓮正宗は、宗教的にはもう骨抜きにされたも同然で、教義に違背(いはい)し、ただひたすら大政翼賛運動を推進、戦争協力をおこなう。

 

日蓮大聖人の御書を戦意鼓舞(こぶ)のため悪用した日恭

昭和十六年十二月八日、日本は米英に宣戦を布告し太平洋戦争が始まった。このとき日蓮正宗管長の第六十二世鈴木日恭は、「訓諭(くんゆ)第二十九號」を「宗内一般」に対して発し、太平洋戦争への戦意を鼓舞(こぶ)した。
 
「訓諭」は次のように始まっている。
 
「本日米國及英國ニ對シ畏(おそれおお)クモ宣戰ノ大詔煥發(おおみことのりかんぱつ)アラセラレ洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)感激ニ堪(た)エス惟(おも)フニ我帝國ガ暴戻(ぼうれい)ナル蒋政權ヲ膺懲(ようちょう)シ東亞新秩序ノ建設ニ着手(ちゃくしゅ)シテヨリ既ニ四年有餘漸次(ぜんじ)其ノ實(じつ)ヲ擧(あ)ゲ今ヤ日滿支三國ハ

 

御書削除を通達した「學第八號」

 

友誼愈々(ゆうぎいよいよ)厚ク共榮ノ樂ヲ偕(とも)ニス然(しかる)ニ英米兩國ハ此ノ實情(じつじょう)ニ眼ヲ敞(おお)ヒ終始重慶政權ヲ援助シテ我相闘(あいたたか)ハシメ」
 
この後も開戦の必然性を縷々(るる)述べ、それにつづいて、「幸ヒ帝國ハ御稜威(みいつ)ノ下忠勇(ちゅうゆう)無(む)双(そう)ノ陸海軍アリ既ニ戰端開始第一日ニ於テ驚嘆(きょうたん)スヘキ戰果ヲ擧(あ)ケラル我等感謝ニ堪(た)エス戰ノ前途亦(また)以テトスルニ足ルモノアリ併(しか)シ乍(なが)ラ今次ノ大戰ハ四圍(しい)ノ狀勢ニ鑑(かんが)ミ長期ニ亘(わた)ルハ免(まぬか)レサルトコロ我等ノ一大覺悟(かくご)ヲ要ス」
 
「御稜威」とは、神格を有する天皇の威光(いこう)のことである。その“現人神(あらひとがみ)”の下にある陸海軍が十二月八日に多大な戦果をあげたことに「感謝」し、長期戦を覚悟するように述べたものだった。
 
そして最後に、
 
「本宗宗徒タルモノ須(すべから)ク聖慮(せいりょ)ヲ奉體(ほうたい)シ佛祖ノ遺訓(いくん)ニ基キ平素鍛錬(たんれん)ノ信行ヲ奮(ふる)ヒ堅忍(けんにん)持久百難ヲ排シ各自其ノ分ヲ竭(つく)シ以テ前古未曾有(みぞう)ノ大戰ニ必勝ヲ期セムコトヲ右訓諭ス」
 
と締めくくっている。
 
「聖慮」すなわち天皇の考えを戴(いただ)いてまではともかくとしても、「佛祖ノ遺訓ニ基キ」と、日蓮大聖人の教えすら戦争に利用したのである。
 
『大日蓮』昭和十七年一月号は、太平洋戦争開戦の昂奮(こうふん)さめやらぬ論調が占めている。
 
「宣戰布告の大詔(おおみことのり)を拜(はい)して光輝(こうき)ある元朝(がんちょう)を迎ふ」(柿沼廣澄記述)と題する一文は、
 
「見よ!亞細亞(あじあ)の一角に、東亞民族開放の聖火は燃上した。數世紀に渡る英米の桎梏(しっこく)は吾が大和(やまと)民族の神鋒(しんぼう)によつて打壊(だかい)せられ、亞細亞十億の民族を堅く縛(ばく)したる英米の鐵鎖(てっさ)は吾が神兵の剣(つるぎ)によつて見事切斷(せつだん)せられた」
 
という、激越(げきえつ)な調子で始まる。あまつさえ日蓮大聖人の御書を、戦意鼓舞(こぶ)に悪用し、
 
「恐懼(きょうく)吾等は先帝陛下より立正と諡號(しごう)を勅宣(ちょくせん)あらせられた大聖人の門下である『日蓮は日本第一の忠の者なり、肩を並ぶる人は先代にあるべからず後代にもあるべしと覚(おぼ)えず』といはれた宗祖の門流である。文永弘安の二大役を前にしては『少しも妻子眷属(けんぞく)を憶(おも)ふことなかれ権威(けんい)を恐ることなかれ』と大聖人より戒(いまし)められた弟子檀那の徒である。大詔を拜して東條内閣総理大臣は『帝國の隆替(りゅうたい)東亞の興廃正(こうはいまさ)にこの一戰にあり、一億國民が一切を擧げて國に報(むく)ひ國に殉(じゅん)ずるの時は今であります』と血涙(けつるい)を以ての放送は今尚(いまなお)吾等の耳(じ)朶(だ)にある。正に然(しか)り。『命限りあり惜(おし)むべからず』の聖言を實踐(じっせん)するは此の時である。日蓮正宗の門下諸君、『一閻浮提第一の本尊此の國に建つべし』の大聖の念願に殉(じゅん)ずるも正しく今の時である」
 
と述べている。
 
『大日蓮』同号には、「新春の慶(よろこ)びを述る言葉」と銘打(めいう)った管長・鈴木日恭の新春の挨拶(あいさつ)が掲載されている。
 
その文を読めば、当時の日蓮正宗が国民を戦争に向かわしめようという国家意志の代行機関であったように思える。日恭の文の一部を紹介する。
 
「此處(ここ)に於て銃後國民は老幼男女の別なく、聖戰に挺身(ていしん)する戰士と心得勝利に醉(よ)はず勝つて兜(かぶと)の緒(お)を締(し)めて堅忍(けんにん)不(ふ)抜(ばつ)の精神と鐵石(てつせき)の如き團結(だんけつ)を以つて各々其(その)持場を守り。大勇猛心(ゆうみょうしん)を起こし。信心を倍増し、謹(つつし)んで大詔(たいしょう)を奉體(ほうたい)し、盡忠報國(しんちゅうほうこく)の至誠(しせい)を貫(つらぬ)かん事を、祈願(きがん)するのみそれ國土の安穩(あんのん)と天下泰平(たいへい)とは妙の祭りを行つて、始めて成就する事を得ん
 
『妙とは生なり』『法とは死なり』
 
妙とは八紘(はっこう)一(いち)宇(う)を言ひ法とは天壌無窮(てんじょうむきゅう)の根源を意味するなり即(すなわ)ち八紘一宇の使命遂行に對(たい)して、一死報國の誠(まこと)を捧げ『世界とは日本國なり』の實顯(じつげん)こそ宗祖出世の御本懷(ほんかい)である」

 
太平洋戦争宣戦詔書

 

このように戦争協力にひた走る日蓮正宗内にあって、さらに国家神道におもねっていたのが大僧都の小笠原慈聞であった。

 

神本仏迹論で宗内の覇(は)を握(にぎ)ろうとした小笠原慈聞

小笠原は、“法主”である日恭に書簡(しょかん)を送り、わざと答えにくい「仏本神迹」に関する質問をするなどした。その返事の中で、日恭が不敬罪にあたるような筆禍(ひっか)を犯すよう仕掛けたのである。小笠原は日恭を失脚させ、みずからが日蓮正宗の指導的立場に立とうと企(たくら)んでいた。
 
小笠原の、日恭および隠尊(いんそん)となった日開らへの『世界之日蓮』(小笠原が主宰した月刊誌)を通しての攻撃は、派閥(はばつ)争いの趣(おもむき)が強かった。
 
背景には、昭和三年の管長選挙で阿部日開派と有元廣賀派に分かれて買収や脅迫(きょうはく)をともなう熾(し)烈(れつ)な争いをした怨念(おんねん)がある。
 
日柱上人に対するクーデターで阿部と組んだ小笠原は、この選挙では有元派につき阿部の追い落としを計った。だが選挙の結果は阿部の勝利と出、これ以来、小笠原は反主流となり冷や飯を食うこととなった。その怨念の故に、小笠原は執拗(しつよう)に宗内を撹乱しつづけたのである。さらに、主流派と小笠原ら反主流派との確執(かくしつ)の背景には、蓮葉庵系と富士見庵系という日蓮正宗の底流(ていりゅう)に長年にわたりとぐろを巻く、二大派閥の対立があった。
 
小笠原は、軍人や政治家にも気(き)脈(みゃく)を通じた者が多く、さまざまな画策(かくさく)をつづけるのだが、昭和十七年九月十四日、日蓮正宗は宗務総監・野木慈隆名で、ついに小笠原を擯斥(ひんせき)処分にし宗外に追放する。この小笠原追放が実現したのは、堀米泰栄教学部長(のちの日淳(にちじゅん)上人)の尽力による。
 
だが、その擯斥処分は、小笠原の掲(かか)げる神本仏迹の邪義を破すものではなかった。
 
小笠原の擯斥処分を伝える宗門文書は、次のとおり。
 
「特第三一號
 
日蓮正宗小田原教會主管者
 
小笠原慈聞
 
今般(こんぱん)宗制第三百九十一條ニ依リ管長の裁可(さいか)ヲ得テ別紙ノ通リ懲戒(ちょうかい)ニ付シ宣告書ヲ及送附
 
昭和十七年九月十四日
 
日蓮正宗宗務總監野木慈隆
 
宣告書
 
日蓮正宗小田原教會主管者
 
大僧都小笠原慈聞

 

主文擯斥(ひんせき)ニ處(しょ)ス
 
理由
 
其の方儀一、昭和七年より昭和十七年に至る宗費賦課(ふか)金を拒否して納付せず二、布教監の職は既(すで)に消滅したるに拘(かかわ)らず異議(いぎ)を唱へて公用し三、昭和十六年七月三十日附特第五號を以て其の以前の刊行物中不(ふ)穩當(おんとう)なるものは各自適(てき)宜(ぎ)處(しょ)理(り)を爲(な)すべき樣申達し置きたるに却(かえっ)て自ら不(ふ)穩當(おんとう)となすものを取出し信徒を使嗾(しそう)して共に之を世上に吹聴(ふいちょう)す右の行爲は其の證憑(しんぴょう)明白にして之を宗制に照して判ずるに第一の行爲は宗制第三百八十九條第一號に第二の行爲は同條第三號に第三の行爲は宗制に明文なきも宗務院の命令に從はざるのみならず宗門教學の刷新(さっしん)に協力せず故意(こい)に宗門の治安を亂(みだ)すものにして現下最も嚴重(げんじゅう)に戒(いまし)むべき行爲と認む
 
依テ主文ノ通リ處分ス
 
昭和十七年九月十五日
 
日蓮正宗管長鈴木日恭」
 
これに対し小笠原は、自分の処分を決めた参議会は出席者が定足数に至らず流会になったものであるから、処分は無効であると主張した。その上で小笠原は、宗内が宗費未納などにかこつけ及び腰で処分の挙に出たことを笑い、
 
「この首斬(しゅざん)の一宗擯斥(ひんせき)の極(きわま)つたのが九月十二日の夜であつたさうな。てうど『龍の口御難』の夜であることは、實(じつ)に奇(く)しき因縁で、『此程の悦(よろこ)びは笑へよかし』と恐悦(きょうえつ)してゐる次第…『龍口御難』も一回の門注所の吟味(ぎんみ)をなさず。この断罪(だんざい)も一回の査問もしない。いよいよ以て奇とすべしだ」(『世界之日蓮』昭和十七年十一月号)
 
と、嘲笑(あざわら)っている。
 
さらに小笠原は、日蓮正宗中枢が自分を処分した真因は、みずからの唱える神本仏迹論にありと、『世界之日蓮』誌上で解説している。
 
「併(しか)し宣告書の三ケ條で首を斬(き)つたが、その眞實(しんじつ)の理由は他にありだ。それは鈴木管長から昨年書状を以て寄せられた、自分の『神本』説は『佛本説』を宗體(しゅうたい)とする日蓮正宗近來の説を破ることとなり、許すべからざるものとの建前から來てゐるのである。だが思へ…佛本説であつては大漫荼羅の…國神勧請(かんじょう)の解決は出來ない。(此事は何れに近日別冊として説明する)然(しか)に頑迷(がんめい)固(こ)陋(ろう)なる宗門徒は自分の神本説を否定し寄ると障(さわ)ると『自分の擯斥』を提唱しつつあつたが、先般鏑木氏の聲明(せいめい)に依つて爆發した結果が、この擯斥となつて現れたのである」(同)

 

この時期、小笠原は神本仏迹論をもって宗内における覇(は)を握ろうとした。これに対し日蓮正宗中枢は、小笠原の主張する邪義の域まで法を曲げることはできなかった。ところがその後まもなく、日蓮正宗は一宗を挙げて、小笠原の神本仏迹の域に入ったとしか思えないような行動をとっていくのである。

 

伊勢神宮の遙拝(ようはい)まで指示命令していた宗門

神本仏迹の邪義をもてはやす小笠原を破門にした日蓮正宗ではあったが、先述のとおり、昭和十六年にはすでに御書の発刊禁止、一部削除をおこない、すでに宗教的な節操(せっそう)をみずから放棄(ほうき)していた。このことからも容易に想像できたことであったが、日蓮正宗が、小笠原が導こうとした神本仏迹の邪義に次から次へと侵されていくのは、ただ時間の問題であったのだ。
 
昭和十七年十月十日、日蓮正宗宗務院は神宮遥拝(ようはい)をするように院達を出す。その全文は、以下のとおり。
 
「院第二三二八號
 
昭和十七年十月十日
 
日蓮正宗宗務院
 
住職教師會主管者殿
 
今般(こんぱん)文部次官より官文三三四號を以て別記の通り通牒(つうちょう)有之たるに付御承知の上其趣旨(しゅし)を檀信徒一般に徹底せしむる樣周(しゅう)知(ち)方可然(がたしかるべく)御配意相煩(あいわずら)はし度(たく)
 

 
官文三三四號
 
文部次官印
 
日蓮正宗官庁殿
 
神嘗祭(かんなめさい)當日神宮遙拜(ようはい)に関する件
 
神嘗祭當日遙拜時間の設定に關しては客年十月八日附官文三七八號を以て通牒致したる處(ところ)聖戦下愈々(いよいよ)神嘗祭ノ眞意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(學、校、所、舎)職員をして當日午前十時を期し一齊(いっせい)に各在所に於て神宮を遙拜せしむる樣可然御配意相煩度」
 
小笠原破門後わずか一カ月にしてこのような院達を出すのでは、小笠原の擯斥(ひんせき)処分は法義を守るためではなく、派閥争いのためであったと言われても仕方があるまい。日蓮正宗宗務院は、神宮遥拝を宗内に徹底する大謗法の示(じ)達(たつ)をしていたのである。
 
なお神嘗祭とは、伊勢神宮の収穫祭のことで、一八六九(明治二)年に皇室祭(さい)祀(し)に定められた国家神道の重要

 

行事の一つである。毎年十月十七日に行われ、宮中においては現人神(あらひとがみ)である天皇が伊勢神宮を遙拝(ようはい)し、また宮中三殿の一つである賢所(かしこどろこ)で親祭を執(と)りおこなう。この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布にほかならない。この意義に則(のっと)り、十月十七日当日は午前十時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遙拝させるように、宗務院は僧たちに命じたのである。
 
これに先立つ同年(昭和十七年)九月十八日、総本山において日寛上人御正当会がおこなわれた。当時の『大日蓮』(昭和十七年十一月号)は、戦時色一色に染まった模様を次のように報じている。
 
「常唱堂參道入口には、百貫坊大村壽道(敬華)師の筆になる『満月の虎』の勇壮(ゆうそう)米英物かはと言ふが如き闘志満々たる気分を醸成(じょうせい)させられた。
 
參道兩側には師独特の胸底(きょうてい)より迸(ほとばし)り出た時局川柳並(ならびに)祖訓、肺腑(はいふ)を抉(えぐ)るが如き言々句や、絵筆の運びは、參詣者をして爆笑の中に時局を認識せしめた好材料であつた。
 
其中の一部を発表します。
 
川柳
 
東条首相
 
人情首相、国はがつちり長期戰

 

伊勢神宮(内宮)

 

出征(しゅっせい)家族
 
父の留守、堅く守つて恙(つつが)なし
 
戰線にて
 
月明り、もう一度見る子の写真
 
二三十億貯蓄
 
隣組、出せばまだ出るこの力
 
債券
 
米英を叩(たた)きつぶすはこの巨彈
 
落合慈仁師、常唱堂にて御説法初め十數人なりしも、師の言々句句は戦地仕込の雄弁其のものの如く、銃前に、銃後に説き来り、説き去り、ために善男善女は堂に満ち、參詣者をして上人の御遺德を慕(したわ)しめ、且(か)つ十分なる時局を認識せしめ得た事は、大いに師に対して感謝する所があった」(『大日蓮』昭和十七年十一月号より)少々長い引用となったが、紹介したのは、日蓮正宗が戦争遂行にあたっての「国民精神総動員運動」を積極的に担(にな)っていた様子が手に取るようにわかるからである。
 
この後、昭和十七年十一月十九日には、日蓮正宗報国団が結成されている。いうまでもなく、報国団とは国民を戦争に駆り立てるためのものである。この報告団は大政翼賛会の下に組織されたもので、各宗派ごとに結成された。この日午後四時、日蓮正宗報国団の結成式が大客殿大広間においておこなわれ、儀式は開式之辞、宮城遙拝(ようはい)、国歌奉唱、祈念感謝、詔書奉読、読経唱題、役員推薦(すいせん)、総裁訓辞、国旗授与、宣誓(せんせい)、団長挨拶、報国団経過報告、記念撮影、万歳奉唱、閉式とつづいた。
 
宮城遙拝(宮中三殿・現人神に対する拝礼)、詔書奉読などが注目される。
 
「日蓮正宗報国団々則」には、本部は日蓮正宗宗務院に置かれ、分団が宗務支院に置かれていたこと、総裁には管長が就任することが定められている。この報国団の目的について同規則には、
 
「本團は肇國(ちょうこく)の聖意を体し擧宗一致時難(じなん)克服、挺身皆労(ていしんかいろう)以て宗教報國の完遂(かんすい)を期す」
 
と明記されている。
 
また、団員の構成については、
 
「本團は本宗の全僧侶檀信徒を以て組織し本宗の僧侶檀信徒たるものは必ず本團に入團するものとす」
 
となっている。
 
そして、昭和十八年度の事業項目として、献金並軍機献納資金、傷病(しょうびょう)兵慰問(いもん)並慰問品、興亜開発事業、報国勤労作業、僧侶の錬成(れんせい)、一般信徒の錬成、救急施設、社会事業促進などが挙げられている。
 
現人神を国の頂点に戴(いただ)いた国家神道を基となす国家は、その戦争目的遂行(すいこう)のために、仏教諸派に金、物資、人を調達させたのであった。日蓮正宗も、時代の趨勢(すうせい)とはいえ、その一翼(いちよく)を担ったわけである。同年十二月八日、概要(がいよう)のなった日蓮正宗報国団の人事が発表されている。報国団々長には宗務総監心得であった崎尾正道、同副団長には庶務部長であった渡邊慈海が任命された。

 

国家神道になびいてしまい創価教育学会幹部を除名した宗門

全国の各支院ごとに報国団分団が結成されたが、ここでは、昭和十八年一月十五日におこなわれた名古屋の第七分団の結成式における、“法主”鈴木日恭の祈願文の一部を紹介したい。
 
「今次大東亞戰役は皇國の興廢(こうはい)を堵(と)せる振(しん)古(こ)未曾有(みぞう)の大戰にして東亞に於ける米英の禍(か)根(こん)を除去(じょきょ)し大東亞隣邦(りんほう)の共存共榮を遂(と)げんとする實(じつ)に邦家(ほうか)自衛の止(や)むなきに出づる所なり。御稜威(みいつ)の下忠誠勇(ちゅうせいゆう)武(ぶ)なる我皇軍將兵の勇戰奮闘(ふんとう)に依る大捷報(しょうほう)は荐(しき)りに至ると雖(いえど)も、彼等敵米英は豊富なる資源と執拗(しつよう)なる民族性とにより、將(まさ)に一大反撃を企(くわだ)てんとしつゝあり。畏(おそれおお)くも聖上陛下には昨冬十二月十二日伊勢神宮に御親拜と拝承(はいしょう)し奉る、是れ赤子(せきし)たる我等國民の齋(ひと)しく恐懼(きょうく)感激する所なり。
 
されば、勇躍(ゆうやく)軍に從ふもの元より身命を鴻毛(こうもう)の輕(かろ)きに比し、傷つき病(や)むも猶(なお)且(か)つ再起出陣を願ふ、銃前斯(か)く如く、銃後の衆庶亦然(しゅうしょまたしか)り戰時資材の製作に、輸送(ゆそう)の完璧(かんぺき)に各自奉公の誠を盡(つく)して生産増強に死力を效(いた)して間然(かんぜん)する所なく、或は軍人遺家族の後援に將又英靈(はたまたえいれい)の祭祀(さいし)に其の周到鄭重(しゅうとうていちょう)を極(きわ)む。爲めに士気愈々軒昂(いよいよけんこう)たり」
 
日恭はこの祈願文の中で、天皇が伊勢神宮に「親拝」したことについて、「恐懼感激」と述べている。
 
また「英霊の祭祀に其の周到鄭重を極む」と、靖国神社への戦死者奉(ほう)祀(し)を評価している。これらはいずれも、日蓮大聖人の御精神にまったく反した行為である。
 
祈願文の最後は、
 
「願くば佛祖の威力冥(みょう)に加し、顯(けん)に利益(りやく)し以て本分團をして宗教報國の大使命を達成せしめられんことを経文の如く諸(しょ)餘(よ)怨敵皆悉摧滅(おんてかいしつさいめつ)病即消滅(びょうそくしょうめつ)不(ふ)老(ろう)不(ふ)死(し)ならしめ給へ。
 
南無妙法蓮華経」
 
と締(し)めくくられている。
 
また、同日の訓辞(くんじ)においても日恭は次のように述べ、天皇の伊勢神宮参拝を賛嘆(さんたん)している。

 

「畏(おしれおお)くも聖駕伊勢路に嚮(むか)ひ國威の宣揚(せんよう)を御祈願あらせ給ひしを拜聞し、実に恐懼に堪(た)へず、我宗徒たるもの正に一大勇猛心(ゆうみょうしん)を振起し挺身(ていしん)報國、上(かみ)御宸襟(しんきん)を安んじ奉り下(しも)令法久住を期すべきの秋(とき)に相當れり」
 
このような日蓮正宗報国団の結成式が次々と全国でおこなわれ、“法主”たる日恭の指南により、宗内の僧俗が日蓮大聖人の仏法の名の下に、戦争に向かわされたのであった。
 
この宗内の様子を見るとき、官幣(かんぺい)大社である伊勢神宮の神札を受けない創価教育学会の存在を、宗門中枢がどのように思っていたかは容易に想像できるのである。
 
昭和十八年六月、宗門は創価教育学会幹部を総本山大石寺に呼び出し、第六十二世日恭および日亨上人立ち会いの下、庶務部長・渡邊慈海より、
 
「『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうか」(戸田城聖著『創価学会の歴史と確信』より)と申し渡した。だが牧口常三郎創価教育学会会長は、日蓮大聖人の仏法に反するとして、これを拒否。その後、牧口会長は六月二十八日に再び登山し、大坊対面所で日恭に対し、“神札甘受(かんじゅ)”は過(あやま)ちであるとの諫暁をしている。宗門は神札甘受の申し渡しを聞かない創価教育学会幹部たちを登山停止の処分に付(ふ)した。
 
その後間もない七月六日、牧口会長は折伏先の伊豆下田で官憲(かんけん)に逮捕され、戸田理事長(当時)も東京で逮捕された。
 
この創価教育学会への弾圧(だんあつ)により、創価教育学会幹部総勢二十一人が検挙(けんきょ)され、牧口会長は昭和十九年十一月十八日に獄中死し、戸田理事長は終戦の年(昭和二十年)の七月三日まで、二年間にわたり不当に拘留(こうりゅう)された。
 
創価教育学会への弾圧が始まる少し前、六月十六日には日蓮正宗の僧侶・藤本蓮城が「不敬罪並びに人心惑乱(わくらん)事件」で検挙されている。
 
昭和十八年夏日蓮正宗は、自門の僧俗に対し弾圧の手が伸びたことに対し、ただ驚愕(きょうがく)し逃げまどうのみであった。日蓮正宗は逮捕された藤本蓮城を一宗擯斥(ひんせき)処分にして僧籍を剥奪(はくだつ)し、牧口会長ら創価教育学会幹部を信徒除名にし、累(るい)がみずからに及ばないようにした。
 
そして八月二十一日、二十二日と二十五、二十六日の二回に分け、教師錬成(れんせい)講習会を大石寺で開催し、「寺院にあっては庫裡(くり)に神札を祀(まつ)るよう」周知徹底した。

 

ついには神社への参拝を指示する院達まで出していた日恭

同年九月十三日には、「布教区宗務支院幹部」宛(あて)の「軍人援護張化運動実施大綱に關する件」についての院達が出されている。
 
「軍人援護張化運動」の「趣旨(しゅし)」は、次のようなものであった。
 
「戰局の苛烈(かれつ)深刻なる情勢に對應(たいおう)し全國民直(ただ)ちに一丸(いちがん)と成り大東亞戰争完遂(かんすい)に邁進(まいしん)すべきの秋(とき)、茲(ここ)に軍人援護強化運動を實施し愈々(いよいよ)國民の戰意を昂揚(こうよう)し相率(ひき)ゐて戰力増強に努め、前線將兵をして後顧(こうこ)の憂(うれい)なからしみ益々軍人援護の強化を圖(はかり)り以て聖旨に應(こた)へ奉(たてまつ)らんとす」(『大日蓮』昭和十八年十月号より)
 
その目的の第一は、「戰意の昂揚」にあり、それについては、
 
「詔勅(しょうちょく)の聖旨を奉體(ほうたい)して愈々(いよいよ)三千年の傳統(でんとう)的精神を發揚(はつよう)し銃後國民の戰意を更に強固にすると共に、我が國體(こくたい)の本義に基く軍人援護精神を昂揚(こうよう)し前線將兵の志氣を鼓舞(こぶ)するに努むること」
 
と明記されている。以下、「戰力の増強」「援護の強化」などが列記されている。この国民に対する戦時教育を、日蓮正宗は宗内に広く実施したのであった。
 
同年十一月一日、日蓮正宗宗務院より「宗内一般」に出された、明治節についての院達は、神社への参拝を指示するものであった。その院達(全文)を紹介する。
 
「號外宗内一般
 
昭和十八年十一月一日
 
日蓮正宗宗務院
 
明治節奉祝(ほうしゅく)實施(じつし)要綱
 
一、趣旨
 
謹(つつし)みて明治節を壽(ことほ)ぎ奉り明治天皇の御聖徳を仰ぎ御鴻業(こうぎょう)を偲(しの)び奉ると共に併(あわ)せて宏謨(こうぼ)に翼賛(よくさん)し奉れる先人奉公の赤心(せきしん)を證(しょう)し苛烈(かれつ)深刻なる戰局の現段階にありて愈々(いよいよ)必勝の信念を堅持(けんじ)し總力(そうりょく)を擧(あ)げて戰力を増強し以て聖戰完遂(かんすい)に邁進せんことを期す
 
二、實施方法
 
十一月三日午前九時を期し「國民奉祝の時間」を設定し左の要領により國民奉祝の途を講ずること。尚ラジオは同時刻に國民奉祝の時間の放送を行ふこと
 
(一)各家庭に於ては「國民奉祝の時間」に夫々(それぞれ)宮城遙拜(ようはい)を行ふこと
 
(二)官公衛、學校、會社、工場、船舶、團體(だんたい)等に於ては奉拜式を行ひ且必勝祈願をなすこと
 
(三)官國弊社以下神社於ては明治節祭を執行せらるゝにつき市町村民はなるべく參拜と必勝を祈願をなすこと
 
(四)その他の場合にありては國民各自『國民奉祝の時間』を銘記(めいき)し同時刻には夫々在處(ざいしょ)に在りて宮城遙拜を行ふこと」
 
この十一月九日、十日は、「宗祖大聖人御大會法會」がおこなわれたが、いずれの儀式も戦争協力の行事が折り込まれていた。
 
九日午後二時には客殿で「國(こく)威(い)宣揚(せんよう)皇軍武運長久戰傷病將士全快祈念一般願御開扉」がおこなわれ、午後八時からは御堂において「御説法並に日蓮正宗報國團大講演會」が催(もよお)された。翌十日午後二時よりは客殿において「大東亞戰争戰没英靈追悼(ついとう)並に一般願」がおこなわれ、午後七時からは御堂において「御書講並ニ決戰精神昂揚(こうよう)布教大講演會」が催された。
 
さて、ここまで日蓮正宗が国家神道に追従(ついじゅう)し、宗内の僧俗を戦争に駆り立てるという、いわば戦意鼓舞(こぶ)の一翼(いちよく)を担ってきたことを記した。だが、日蓮正宗は即物(そくぶつ)的にも戦争協力をしてきたのだった。日蓮正宗の戦争責任を書く場合、大石寺の建物、仏具、樹木などが軍用に供されたことを見逃すわけにはいかない。
 
日蓮正宗の『富士年表』(富士学林発行)には、昭和十八年六月二十日に、「大石寺静岡県の要請(ようせい)により勤労訓練生宿泊所となる」と記されている。徴用(ちょうよう)された工員たちの宿泊所となったのだ。
 
訓練は短期間でおこなわれ、第一回の訓練生の退所は七月九日であった。翌日の十日には、すぐさま第二回の訓練生が入所になった。訓練生には、高僧が講義をおこなったりもしている。
 
こうして、総本山大石寺の建物が国家総動員の拠点として使用されはじめた。
 
これについて、「寺院解放が叫ばれつゝある今日一億国民の修練(しゅうれん)道場として国家の要請に応(こた)ふることは最も時宜(じぎ)に適したる処置と言ふべきである」と、当時の宗門機関誌『大日蓮』(昭和十八年八月号)は記述している。
 
昭和十九年一月には、大石寺境内にそびえる巨木が軍用に供出(きょうしゅつ)された。その供出を報ずる『大日蓮』の記事の一部を紹介する。
 
「我が靈域(れいいき)の良材○○石を供出(きょうしゅつ)以つて縣下(けんか)に示し米英撃滅(げきめつ)の船筏(せんばつ)たらしめんとす之(こ)れ然(しか)しながら佛祖の安國立正の素願に叶(かのう)ふものゝ又皇謨(こうぼ)奉行の一端(いったん)たらずんばあらず、今此の老杉や曩に供出せる大梵鐘(ぼんしょう)と共に常恒に妙法の聲(こえ)を聞き、我山の神韻(しんいん)を伝ふるもの、又以て皇國の急を思ふや必せり、船舶となりては皇軍の兵糧戎器を速(すみや)かに運載(うんさい)し、佛祖の御心となりては凶敵(きょうてき)の胸に立つ矢彈とならん然らば即(すなわ)ちこの老杉は聖戰奉行天行を翼賛し本地の心を行ずる大菩薩たるべし」

 

昭和十九年十二月に入ると、大坊に朝鮮義勇軍の農耕隊がやって来た。
 
義勇軍とは名ばかりで、日本の植民地とされていた故国より半(なか)ば強制的に動員されてきた人たちであった。彼らは日本人将校の命令によって、強制労働に付されていたのだ。大坊は朝鮮義勇軍の駐屯(ちゅうとん)所となり、大坊の大書院に神札が祀(まつ)られた。日恭は、この書院に隣接する大坊の大奥で無惨(むざん)な焼死をする。
 
日蓮正宗の戦争協力というテーマで書いてきた本稿をくくるにあたり、どうしても最後に記しておかなければならないことがある。それは、戦意鼓舞(こぶ)を目的とした奇異(きい)な戒名を“法主”日恭が信徒に与えつづけていたことである。日恭は敬虔(けいけん)なる人の死をも戦意鼓舞に利用しつづけたのであった。宗教者として、これほど犯罪的なことがあろうか。
 
最後に“法主”日恭がつけた、その「尊号」(日号のついた特別な戒名)を紹介し、本稿を終える。
 
○忠良院顯照日善居士賀忠院報國日明居士立正院護國日忠居士軍勇院大行日邦居士(『大日蓮』昭利十八年六月七日付)
 
○殉國院顯正日義居士忠烈院當千日代居士勇進院護國日殉居士堅忠院敏撻日征居士大忠院珠江日艦居士(『大日蓮』昭和十八年七月七日付)
 
○大乘院顯忠日富居士廣宣院正道日戰居士忠誠院節義日雄居士誠忠院勇武日戰居士顯彰院克忠日孝居士殉國院歡喜日光居士武勳院芳香日傳居士太洋院安國日辰居士至誠院賢忠日盛居士忠良院勇猛日進居士純忠院武勇日精居士大乘院忠勳日親居士報國院義烈日清居士勇壯院達道日義居士大義院恭儉日忠居士信義院勇進日敬居士大忠院奉公日省居士義勇院報國日稔居士忠節院勇健日猛居士一誠院武勳日芳居士興國院誠忠日永居士武功院高節日喜居士大誠院忠勇日勝居士盡忠院興亞日松居士清忠院武功日勝居士立正院顯忠日雄居士顯武院安洋日清居士大勇院寶舟日孝居士壯烈院勇義日榮居士(『大日蓮』昭和十八年八月七日付)

 

牧口、戸田両会長の逮捕、下獄(げごく)

宗門は弾圧を逃(のが)れるため全末寺に神札を祀(まつ)るよう指示

宗門が創価教育学会に「神札」を受けるよう命じた昭和十八年六月、創価教育学会に対する治安維持法違反、不(ふ)敬罪(けいざい)を理由としての本格的な弾圧(だんあつ)が始まり逮(たい)捕(ほ)者(しゃ)が出た。
 
逮捕されたのは、創価教育学会理事の有村勝次と中野支部長の陣野忠夫であった。逮捕されたのは六月二十九日、二人は淀橋警察署に留(りゅう)置(ち)された。
 
つづいて七月六日には牧口常三郎会長が、折伏で訪れた伊豆の下田で逮捕され、下田警察署に留置され、翌七日警視庁に押送(おうそう)された。牧口会長の逮捕された六日には戸田城外理事長(当時)も逮捕され高輪警察署に留置された。戸田理事長も、のち警視庁に留置される。
 
七月六日には、他に理事・稲葉伊之助、理事・矢島周平などが東京で逮捕された。
 
牧口会長が布教先の伊豆・下田で逮捕されていること、中枢幹部を一斉検挙(いっせいけんきょ)をしていることからして、警察による長期間にわたる内偵(ないてい)がおこなわれ、逮捕にあたっては綿密(めんみつ)な準備がなされていたと結論される。
 
六月二十九日の理事・有村や中野支部長・陣野らの逮捕は、水面下で長期間つづけられてきた捜査が、顕在(けんざい)化(か)するきっかけとなったと見るべきである。
 
有村、陣野らを一週間調べただけで創価教育学会中枢に対する組織的な一斉検挙がなされることなどありえない。十全(じゅうぜん)の捜査が長期にわたりなされていたと思われる。
 
事実、この弾圧が本格化する同年四月、戸田会長の経営する平和食品㈱の専務である本間直四郎(創価教育学会理事)ほか一名が、経済統制法違反の疑いで別件逮捕され、長期にわたる取り調べを受けていた。

 

牧口会長が折伏に訪れ座談会を開いた伊豆・下田の蓮台寺(地名)

 

(左)牧口会長が逮捕された岸宅(当時の家屋は昭和28年に焼失)

(右)牧口会長が連行されて歩いた須崎街道

 
創価教育学会幹部の逮捕は有村、陣野らの後も相次ぎ、七月二十日には、副理事長・野島辰次、理事・寺坂陽三、理事・神尾武雄、理事・木下鹿次、幹事・片山尊が警察に逮(たい)捕(ほ)された。
 
この昭和十八年七月以降も逮捕が相次ぎ、昭和十九年三月までに総計二十一名が逮捕された。
 
国家権力による弾圧は、日蓮正宗の信徒団体である創価教育学会に対するものだけではなかった。日蓮正宗僧侶である藤本蓮城(本名秀之助)も、創価教育学会の有村・陣野らが逮捕される少し前の六月十六日、不敬罪等の容(よう)疑(ぎ)により逮捕されている。
 
藤本は昭和二年ごろ日蓮正宗に入信し、昭和十六年に出家し僧侶となった経歴の持ち主。この藤本と同時に、藤本に随(したが)う高塩行雄も逮捕されたが、高塩は逮捕直後より「改悛(かいしゅん)の情顕著(けんちょ)」ということで起訴(きそ)猶(ゆう)予(よ)となり、藤本のみが九月二十二日に起訴となった。
 
宗門は創価教育学会幹部の逮捕にあわてふてめき、創価教育学会幹部らを信徒除名にし、藤本蓮城も擯斥(ひんせき)処分にし僧籍を剥奪(はくだつ)した。なお藤本は、昭和十九年一月十日に極寒の長野刑務所で衰弱死する。
 
これら僧俗に官憲(かんけん)の手が及んだ八月下旬、宗門は教師

 

牧口会長が留置された下田警察署

 

錬成(れんせい)会を開き、各末寺の庫裡(くり)に神札を祀(まつ)ることを末寺住職に指示した。
 
宗門は、日蓮大聖人の教法を信ずる僧俗を見捨て、国家神道に迎合(げいごう)することをもって国家権力の弾圧(だんあつ)から逃(のが)れようとしたのである。その理由はただ一つ、弾圧され我が身が拘束(こうそく)されるのが怖(こわ)かったのである。
 
創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城聖理事長は、警視庁を経(へ)て巣鴨の東京拘置所に拘置(こうち)された。巣鴨の東京拘置所とは、戦後巣鴨プリズンとしてA級戦犯(せんぱん)が収容されたところである。場所は現在の東京都豊島区東池袋にあたり、いまではサンシャイン60が建っている。
 
牧口会長、戸田理事長は、東京拘置所の一番西に位置し、主に政治犯、思想犯が拘置されていた独房ばかりからなる第六舎の監房(かんぼう)にそれぞれ入れられていた。
 
当時の取り調べは、今日のような尋常(じんじょう)なものではない。非国民扱(あつか)いをされ、当事者のみならず家族も大変な思いをした。また法の運用はデタラメで、いつ釈放(しゃくほう)になるともしれず、食糧難(しょくりょうなん)のため獄中で衰弱死(すいじゃくし)、あるいは餓死(がし)する者も出るありさまであった。

獄中にあっても毅然(きぜん)たる態度で国家諫暁をした牧口会長

牧口会長が獄中にあって、いかなる決意で官憲(かんけん)の取り調べに臨(のぞ)んだかは、いまに残る「牧口尋問(じんもん)調書」により知ることができる。牧口会長は検事の取り調べに対し、日蓮大聖人の仏法の正しさを述べ、獄中ながら毅(き)然(ぜん)たる姿で国家諫暁(かんぎょう)している。
 
牧口常三郎初代会長の獄中での戦いをうかがうことのできる予(よ)審尋問(しんじんもん)調書が、特別高等警察の「厳(げん)秘(ぴ)」資料である『特高月報』(昭和十八年八月分)に掲載されているので、その一部を紹介したい。
 
獄にあった牧口会長は、神札などの謗法払いについての予審判事の尋問に答えている。
 
牧口会長は判事の尋問に淡々と答えているようだが、実は死を賭(と)して国家諫暁しているのである。答えている内容は、明らかに治安維持法に違反している。治安維持法に違反した者の最高刑は死刑である。もちろん牧口会長はそれを知った上で、諫暁しているのである。
 
「取払(とりばら)ひ撤去(てっきょ)して焼却破棄(はき)等して居(お)るものは、國家が隣組其他夫々(となりぐみそのたそれぞれ)の機関或(あるい)は機会に於て国民全体に奉斎(ほうさい)せよと勧めて居ります処(ところ)の伊勢大廟(たいびょう)からだされる天照皇太神(てんしょうこうたいじん)(大麻)を始め明治神宮、靖国神社、香取鹿島神宮等其他各地の神宮・神社の神札、守札(まもりふだ)やそれ等を祭る神棚及び日蓮正宗の御本尊以外のものを祭った仏壇や屋敷内に祭ってある例へば荒神(こうじん)様とか稲荷様、不動様と謂(い)ふ祠(ほこら)等一切のものを取払ひ、焼却破棄さして居ます。
 
就中(なかんずく)天照皇太神宮の大麻は、最近殆(ほとん)ど何(いず)れの家庭でも奉斎して居りますから、一番取払ひの対象になって居ります。取払い撤去の趣旨(しゅし)はそれ等のものを各自が家庭内に奉斎して信仰の対象と為(な)す事は御本尊の信仰を雑乱(ぞうらん)する事になり、謗法になりますのと一面に於ては天照皇太神宮の大麻等を家庭内に奉斎する事は前に申し上げた理由から、却而(かえって)不敬に当りますから撤去(てっきょ)するものであります。
 
勿論(もちろん)、之等(これれ)の神宮神社仏寺等へ祈願の為参拝する事も謗法でありますから、参拝しない様に、謗法の罰は重いから、それを犯さない様に指導して居るのであります」
 
また、「法華経の真理から見れば日本国家も濁悪(じょくあく)末法の社会なりや」との尋問(じんもん)に答えて、
 
「釈尊の入滅(にゅうめつ)後の一千年間を正法(しょうほう)時代、其後(そのご)の一千年間を像法(ぞうほう)時代と称し、此の正法像法の二千年後は所謂(いわゆる)末法の時代で法華経が衰(おとろ)へ捨てられた濁悪雑乱の社会相であります」
 
と述べている。
 
神国であるべき日本も、末法の社会相であると牧口会長は断じたのであった。また『立正安国論』の史(し)観(かん)に基(もと)づいて、法華経の衰えるのを看(かん)過(か)するようなことがあれば国が滅(ほろ)ぶと主張している。
 
「国には内乱・革命・飢饉(ききん)・疫病(えきびょう)等の災禍(さいか)が起きて滅亡(めつぼう)するに至るであらうと仰せられてあります。
 
斯様(かよう)な事実は過去の歴史に依(よ)っても、夫(そ)れに近い国難が到来(とうらい)して居ります。現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張(やは)り謗法国である処(ところ)から起きて居ると思ひます」
 
戦争が現人神(あらひとがみ)・天皇の名のもとに聖戦とされた時代に、日蓮正宗の教えを奉(ほう)じないが故に起きた災厄(さいやく)であると主張するのは並のことではない。それを獄中において陳述しているのである。当時の状況下でこのような主張をなすことは、死をも意味することであった。まさに、末法の御本仏日蓮大聖人の折伏精神を帯(たい)しての師子吼(ししく)といえる。

 

師弟不二で戸田理事長も国家権力に敢然(かんぜん)と立ち向かった

戸田理事長も師たる牧口先生に思いを致しながらも、取り調べに敢然(かんぜん)と立ち向かい、日蓮大聖人の仏法を奉じて一歩も引かなかった。獄にあっては日蓮大聖人の御書、法華経をひもとき、唱題につぐ唱題の日々であった。
 
ここでは、戸田理事長の獄中での生活をしのぶために、戸田理事長が獄中において書いた書簡(しょかん)の一部を紹介する。
 
▼昭和十九年二月八日に夫人に宛(あ)てた手紙の一部。
 
「一月十日ニ非常ナ霊感(れいかん)ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥(ふと)リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」
 
▼昭和十九年二月二十三日に同夫人に宛てた手紙の一部。
 
「御書(日蓮大聖人遺文集)ダレカラカ借リテ下サイ。珠(じゅ)数(ず)ノ差シ入レ願ウ。法華経ノ講義書、千種先生カ堀米先生カラカ借リテ入レテ下サイ(ナルタケ一冊カ二冊ノモノ)」
 
▼昭和十九年九月六日に夫人に宛てた手紙の一部。
 
「決シテ、諸天、仏、神ノ加護ノナイトイウコトヲ疑ッテハナリマセヌ。絶対ニ加護ガアリマス。現世ガ

 

牧口・戸田会長が拘置された東京拘置所

 

安穏(あんのん)デナイト嘆(なげ)イテハナリマセヌ。真ノ平和ハ清浄(せいじょう)ノ信仰カラ生ジマス。必ズ大安穏ノ時ガマイリマス。信心第一、殊(こと)ニ子ドモノ為ニハ、信仰スル様(よう)。ゴ両親トモ、信心ハ捨テマセヌ様」
 
▼昭和十九年九月六日に子息に宛てた手紙の一部。
 
「オ父サントハマダマダ会エマセヌガ、二人デ約束シタイ。朝何時デモ君ノ都合ノヨイ時御本尊様ニムカッテ題目ヲ百ペン唱エル。ソノ時オ父サンモ、同時刻ニ百ペン唱エマス。ソノウチニ『二人ノ心』ガ、無線電信ノ様ニ通ウコトニナル。話モデキマス。コレヲ父子(おやこ)同盟トシヨウ。オ母サンモ、オ祖父サンモ、オ祖母サンモ、入レテアグテモヨイ。オ前ノ考エダ。時間ヲ知ラセテ下サイ」

 

東京拘置所の階段の窓                       

 
東京拘置所の独居房の扉

 

東京拘置所の共同風呂

 

さらに、出獄直後の昭和二十年九月の妹の主人宛の書簡を読んでいただきたい。信仰信念を貫(つらぬ)いた者のその事実の前に感動あるのみである。
 
「K雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連(つ)らなり、独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯(きょうがい)を体験し、仏教典の深奥(しんおう)をさぐり遂(つい)に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥(おう)義(ぎ)とが相(あい)一(いっ)致(ち)し、日本を救い、東洋を救う一大秘(ひ)策(さく)を体得(たいとく)いたしました。(中略)私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。
 
在々諸仏(ざいざいしょぶつ)土(ど)常(じょう)与師(よし)倶(ぐ)生(しょう)
 
と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
 
私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、

 

東京拘置所の二階大廊下


 

先生が師匠の時には私が弟子になりして過去も将来も離れない仲なのです。こんなことを言いますと、兄貴は夢のようなことを言っている、法華経にこりかたまっていると一笑(いっしょう)に付するでしょう」
 
この一文につづいて何ごとをか書くことなどとうていできないが、凡(ぼん)愚(ぐ)の者にも、創価学会の出現の不思議が五体に伝わってくることだけは確かだ。

 

牧口.戸田両会長の捨身の戦いかあって広宣流布の時は開かれた

昭和二十一年十一月十七日、牧口会長の第三回忌法要が東京・神田の教育会館においておこなわれた。列席者は五~六百人であったという。このとき戸田会長は師・牧口会長を偲(しの)び、次のように話している。
 
「思い出しますれば、昭和十八年九月、あなたが警視庁から拘(こう)置(ち)所(しょ)へ行かれるときが、最後のお別れでございました。
 
『先生、お丈夫(じょうぶ)で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでございました。
 
あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました。
 
わたくしも後をおうて巣鴨にまいりましたが、朝夕、あなたはご老体ゆえ、どうか、一日も早く世間へ帰られますように、御本尊様にお祈りいたしましたが、わたくしの信心いまだいたらず、また仏(ぶつ)慧(え)の広大無辺にもやあらん、昭和二十年一月八日、判事より、あなたが霊鷲山(りょうじゅせん)へお立ちになったことを聞いたときの悲しさ。杖(つえ)を失い、燈(ともしび)を失った心の寂(さび)しさ。夜こと夜ごと、あなたを偲(しの)んでは、わたくしは泣きぬれたのでございます。
 
あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄(ろうごく)まで連れていってくださいました。そのおかげで、『在々諸仏(ざいざいしょぶつ)土(ど)・常(じょう)与師倶(よしぐ)生(しょう)』())と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読(しんどく)することができました。なんたるしあわせでございましょうか。
 
創価教育学会の盛んなりしころ、わたくしはあなたの後継者たることをいとい、さきに寺坂陽三君を推(お)し、のちに神尾武雄君を推して、あなたの学説の後継者たらしめんとし、野島辰次氏を副理事長として学会を総括(そうかつ)せしめ、わたくしはその列外に出ようとした不(ふ)肖(しょう)の弟子でございます。お許しくださいませ。しかし、この不肖の子、不肖の弟子も、二か年間の牢獄(ろうごく)生活に、御仏を拝したてまつりては、この愚(ぐ)鈍(どん)の身も、広宣流布のために、一生涯を捨てるの決心をいたしました。ご覧くださいませ。不才愚(ぐ)鈍(どん)の身ではありますが、あなたの志(こころざし)を継いで、学会の使命をまっとうし、霊鷲山(りょうじゅせん)会(え)にてお目にかかるの日には、必ずや、おほめにあずかる決心でございます。
 
謹書 弟子城聖申す」
 
昭和二十五年十一月十二日には、牧口会長の第七回忌法要が同じく東京・神田の教育会館でおこなわれた。このときの戸田会長の話。
 
「先生といえば戸田、戸田といえば先生といわれた仲で、昭和十八年の嵐にあったときも、もうこれで、先生とお会いできないと思っておりましたのに、警視庁の調べ室でいっしょになることできました。そのとき先生は、家から送られた品物のなかに、カミソリがはいっておりました。先生は、それをいかにもなつかしそうに、裏かえし、表かえして見ていたのです。なにかの思い出もあるかのように、ほんとうに恋しそうにながめているのです。

 
大聖人の教えを奉じながら獄死した牧口初代会長

 

獄中から夫人に宛てた牧口会長の手紙

 
そのときに、同志稲葉君を蹴(け)った刑事で斎木とかいったと思う男が、ものすごい声をはりあげて、『牧口、おまえは、何をもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ』と、どなりつけました。
 
先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は創価教育学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ。しかし、仏の金言むなしからず。わたくしが帰ったとき、斎木のいちばんいとしいと思っていた子供どもが、頭から貯水池にはいって死んだのです。ちょうど三年以内です。そのときのわたくしの恐ろしさ、今日、わたくしは初めてこのことを申します。
 
それから、巣鴨に移されるとき、先生と対面がゆるされました。わたくしは、
 
『先生、おからだをたいせつに』
 
と申しました。わかれて車に乗るとき、先生は、
 
『戸田君は、戸田君は』
 
と申されたそうです。
 
『わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く出られますように。わたくしはいつまで、長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように』
 
と唱えた題目も、わたくしの力のたりなさか、翌年、先生は獄死されました。
 
『牧口は死んだよ』
 
と知らされたときの、わたくしの無念さ。一晩中、わたくしは獄舎(ごくしゃ)に泣きあかしました。
 
先生のお葬式はと聞けば、学会から同志が、藤森富作、住吉巨年、森重紀美子、外一、二名。しかも、巣鴨から、小林君が先生の死体を背負って帰ったとか。そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知って来ぬのか、知らないで来ないのか。
 
『よし!!この身で、かならず、かならず、法要してみせるぞ!』
 
と誓ったときからのわたくしは、心の底から、生きがいを感じました。
 
先生の生命は永遠です。先生が、いま、どこにいられるか。猊下の御導師により、門弟らがともどもに唱える題目、先生はこの仏事につながれております。ここは寂光(じゃっこう)土(ど)です。先生の生命は、こつぜんとしてここにあらわれております」
 
獄中にあって日蓮大聖人の仏法を奉(ほう)じ、師匠を慕(した)い懸命(けんめい)に戦った戸田会長を、同じ信仰を持つ者として偲(しの)ぶことができることは、創価学会員にとって無上(むじょう)の誇りである。
 
なお、牧口会長は、昭和十九年十一月十八日に巣鴨拘(こう)置(ち)所(しょ)で亡くなったが、その前日十七日に同拘置所六舎の独居房から病監(びょうかん)に移った。
 
牧口会長は病監に移るに際し、下着を着替え足袋(たび)を履(は)きかえ威儀(いぎ)を正(ただ)したという。病監に移る途中、足元がもつれ転んだが、看守(かんしゅ)が手を貸そうとするのを断り、一人で最後まで歩き病監に入り、病監に入るとすぐ昏睡(こんすい)状態となったことが伝えられている。翌十八日朝、牧口会長は巣鴨拘置所病監で息を引きとった。
 
牧口会長の遺体は頭と顔を白い布で蔽(おお)い、縁戚(えんせき)の使用人であった小林秋高という人が、巣鴨拘置所から牧口会長の自宅(現在の豊島区目白)まで背負って帰っていった。
 
獄中での死ではあったが、自ら装束(しょうぞく)を整えられ覚悟(かくご)の死であったことがうかがわれるのである。

 
東京拘置所の病監中央廊下

 

日恭は、なぜ非(ひ)業(ごう)の死を遂(と)げたか

 

日恭が大聖人の弟子でないことは御金言により明らか

 
日顕宗では、大石寺第六十二世日恭の死にざまが世に出ることを非常に恐れていた。
 
日恭の無(む)惨(ざん)な死が真実となれば、“法主”を“現代における大聖人様”と崇(あが)め、その生き仏に“信伏随従(しんぷくずいじゅう)”することを根本教義とする邪宗日顕宗にとっては、はなはだ不都合なことになる。
 
それだけに日恭の死にまつわる真実を、歴史の奥底に隠(かく)しておきたいのである。
 
では日恭は、いかなる死に方をしたのであろうか。
 
昭和二十年六月十七日、大石寺は炎に包まれた。対面所裏より出火した炎は対面所、客殿、六壷、大奥などを焼き尽くした。朝四時まで燃え盛ったといわれる炎は、第六十二世日恭の生命を奪(うば)った。
 
焼け跡から発見された日恭の焼死体は、仏法の厳しさを示して余りあるものであった。日恭は、大奥一階部分の、主に従業員などが食事をしていた食堂の一角にあった竈(かまど)で発見されたのである。日恭は竈の中に下半身が嵌(は)まり込み焼け死んでいた。
 
しかも無残なことには、下半身と腹わたは焼けず、生身のままで、上半身のみ黒焦(こ)げとなって死んでいたのであった。
 
日恭は前日、静養先の隠居所からたまたま大石寺に戻り、火事の夜、大奥二階にあった管長室に泊まった。日恭は巨(きょ)軀(く)と病気のために歩行困難であった。
 
その日恭が火に巻かれ、すみやかに逃げることができなかったのは無理からぬことであった。
 
おそらく、火事のため大奥二階の床が焼け落ち、日恭は一階に落ち、意識のあるまま竈に嵌(は)まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている。
 
時の法主が本山で無惨な焼死をしたことは、仏法の因果からして当然のことであった。
 
軍部の猛(もう)威(い)を前にして恐怖し、御書削除(さくじょ)、御観念文の改竄(かいざん)、そして神札甘受(かんじゅ)と大聖人の教えを次々と打ち捨て、その上あろうことか、仏意仏勅の団体である創価学会(当時・創価教育学会)を自己保身の故に見捨てた宗門に、厳罰(げんばつ)が下ったのだ。
 
念を押しておくが、この文章は、日顕宗の主張するような、「御歴代を貶(おとし)めんとする」目的で書いたものでは決してない。仏法の因果律の厳しさを読者に知ってもらおうとしたものである。
 
したがって、この文章それ自体が汚(けが)らわしいのではなく、日恭の死が汚らわしいのである。故に、「文は人なり」との日顕宗の批判はあたらない。
 
この事実を、まず明確に認識する必要がある。竈(かまど)に嵌(は)まり込み、上半身が焼け焦(こ)げ下半身と腹わたが焼け残った死体について、耽美(たんび)的な文章をもって表現できうる人はいない。
 
日蓮大聖人曰く。
 
「『今畏(い)の遺(い)形(ぎょう)を観(み)るに漸(ようや)く加(ますます)縮小し黒(こく)皮(ひ)隠隠(いんいん)として骨其露(それあらわ)なり』等云云、彼(か)の弟子等は死後に地獄の相の顕(あら)われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失(とが)をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(報恩抄)
 
【通解】「今、善(ぜん)無畏(むい)の遺体を見ると、次第に体が収縮し、黒皮に覆(おお)われて、骨が露(あら)われている」等とある。彼の弟子等は、死後に無間地獄に堕(お)ちた相が顕(あらわ)れたことを知らずに、師の徳を宣揚(せんよう)しようと思ったが、書き現(あらわ)した文は、善無畏の堕地(だじ)獄(ごく)の失(とが)を書き残してしまった。死んでしまったので、体が次第に縮(ちぢ)まり、小さくなり、皮膚は黒く、骨が露れている等と書いてある。人が死んだ後に色が黒いのは、地獄の業であると定めることは、仏陀の金言なのである。
 

無惨な焼死をした第62世・日恭

 

日顕宗は、この無惨な死を描写(びょうしゃ)された御本仏の御聖訓についても、「文は人なり」と批判し、文を書いた日蓮大聖人を卑(いや)しむというのであろうか。
 
峻厳(しゅんげん)なる仏法の因果律を教えるために、御本仏といえども、不成仏の死について露(あらわ)な真実を伝えられているのである。
 
日恭は、戦時下にあって国家権力の猛(もう)威(い)を恐れ、戦争翼賛(よくさん)の訓(くん)諭(ゆ)、伊勢神宮遥拝(ようはい)の院達(いんたつ)、御書の字句を削除、御観念文の改竄(かいざん)、神札甘受(かんじゅ)などの大謗法を犯した。
 
さらには、日蓮大聖人の教えどおり謗法厳戒にして折伏弘教に精進(しょうじん)していた創価教育学会・牧口常三郎会長らが、昭和十八年七月に治安維持法違反、不(ふ)敬罪(けいざい)の容疑で逮捕されるや、同会長らを信徒除名にした。それが日恭である。
 
日蓮大聖人の弟子、とりわけ“法主”として絶対なしてはならないことを数限りなく犯したのであるから、日恭が厳然(げんぜん)たる仏罰を蒙(こうむ)って無残な死を遂(と)げたのは、仏法の因果律に照らして、むしろ当然すぎるほど当然なことである。
 
したがって、日恭の仏罰厳然たる死の姿を真実のままに認識することは、仏法を正しく学ぶうえで非常に重要なことといえる。
 
“法主”であっても、謗法を犯し仏子を迫害すれば、臨終において堕地獄の相を現ずることとなる。すなわち、“法主”であろうと謗法を犯し仏子を迫害すれば成仏しない。
 
それでは火事の原因は、何であったのだろう。ほかならぬ大火は、所(しょ)化(け)の失(しっ)火(か)により起きたのである。

 

日恭の死にざまは、生きなから無間大城(むげんだいじょう)に堕ちた提婆達多と同じ

大奥に隣接する部屋(対面所の廊下をはさんで北側)の押し入れが出火場所。そこで増田壌允という所化が、ロウソクを立てて足袋か何かを乾(かわ)かしていて、そのうち眠ってしまい火事となったという説があるが、それは言い訳であったと思われる。真実は、その所化が押し入れに隠れてタバコを吸っていてボヤを出し、いったんは消したが完全に消えておらず、一時間くらい経過してから再び燃え上がり大火となったということである。

 

昭和初期の大坊建物配置図

 

このような事実もあり、大石寺においては、火事の直後には、所化による失火ということが定説であったようだ。それを宗門はいつの頃からか、日本人将校に不満を持つ朝鮮兵が、将校の宿泊所となっている対面所に放火したと言いはじめた。人道上許すことのできない、卑(ひ)怯(きょう)で差別的な責任の押しつけである。
 
宗門は創価学会に対しても、社会に対しても、この偽(ぎ)説(せつ)を今日まで長年にわたり主張し、朝鮮の人々に火事の責任を転(てん)嫁(か)してきた。
 
前ページの建物配置図を見ていただきたい。種々の資料、情報から判断するに、出火場所は対面所北側の廊下を隔(へだ)てた部屋であったようだ。出火時刻は、昭和二十年六月十七日午後十時三十分頃。火は対面所と二階建ての大奥(木造二階建)を、ほぼ同時に焼き、その後、東南に向けて延焼(えんしょう)し、大書院を焼き、つづけて六壷、客殿を焼き尽くした。
 
約二百五十畳の大書院には神棚が祀(まつ)られ、二百名とも三百名とも伝えられる朝鮮兵がザコ寝していた。朝鮮兵はなかば強制的に日本に連れてこられ、大石寺周辺で開墾(かいこん)や農耕に従事させられていた。
 
この朝鮮兵たちが、大書院のみならず客殿をも宿泊所としていたということも伝えられている。
 
いずれにしても、大奥そばの将校宿泊所となっていた対面所を含め、大書院、客殿、厨房(ちゅうぼう)などを兵たちがわがもの顔で使い、大奥の一部を除いて、大坊はほぼ兵営と化していたのである。
 
僧たちは、兵たちに威(い)圧(あつ)され肩身の狭(せま)い思いで生活していた。日恭が大石寺にいなかったのは、病気が表立っての理由とされているが、このような生活環境も、日恭が大石寺より遠のいていた原因の一つであったと思える。
 
総本山大石寺のありさまと日恭の行動を合わせ考えるに、日恭には、兵に蹂躙(じゅうりん)されつつある大石寺に残り、体を張ってでも大御本尊を守ろうとの気(き)迫(はく)はさらさらなかったようだ。おおむね日恭は、軍になされるままであったのだろう。
 
なお、建物配置図を見てもわかるように、神棚の祀(まつ)り込まれた大書院は、大坊の一角をなし大奥に隣接する、大石寺にとって主要な建物であった。
 
また、大御本尊まします御宝蔵(ほうぞう)の間近でもあった。この大石寺中枢に謗法を祀り込まれてしまっていたのだ。日蓮大聖人は末流の不甲斐(ふがい)なさを、どれほど嘆(なげ)かれたことであろうか。
 
大石寺を紅(ぐ)蓮(れん)の炎で包んだ大火が鎮(しず)まったのは、翌十八日午前四時頃のことであった。日恭の焼死体が発見されたのは、大奥の焼け跡からであった。客殿焼け跡より焼死体発見とする説もあるが、大奥の焼け跡からというのが正しい。
 
日恭は当夜、大奥二階に泊まっていたが、火のまわりが早く、当人も巨(きょ)軀(く)と持病の疝気(せんき)(漢方で、大小腸・生殖器などの下腹部内臓が痛む病気)のため、歩行が不自由であり耳も遠かったため逃げ遅れたと思われる。
 
この火事の犠(ぎ)牲(せい)者は、日恭一人のみであった。
 
日顕宗は、日恭の無(む)惨(ざん)な死にざまについて書いた『地涌』の記事は、邪宗日蓮宗の坊主・安永弁哲の書いた『板本尊偽作論』をタネ本にしていると中傷(ちゅうしょう)している。邪宗日蓮宗の坊主の名を出すことにより、日恭の無惨な死が信憑(しんぴょう)性のないものであるとしたいのであろう。
 
だが、真実は、時の隔(へだ)たりをこえて今回明らかとなったのである。
 
何しろ、この“法主”の無惨な死を見つめることは、仏法の厳しき因果律を学ぶことに通じるのだ。日恭の死を仏罰であると厳粛(げんしゅく)に受け止めることが、仏弟子として肝要(かんよう)なことなのである。
 
当時の管長代務者である中島廣政は、昭和二十年九月の妙光寺彼岸会で、日恭の死について、考えられないような不運が重なった結果であると話している。
 
「書院には三百名の農耕兵が居(お)りましたが或(ある)事情のため消火に協力出来ず、門前にあった消防自動車は故障のため使へず、上井出から來た戰車學校の自動車はガソリンを忘れたため是亦(これまた)役に立たず、富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸(いち)早く出動準備を整へたのでありますが、署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過(すご)し上野署よりの應援(おうえん)要請で駆著(かけつ)けた時は火は既(すで)に客殿に移り、手の下(くだ)しやうもないと云(い)ふ此上(このうえ)ない悪條件揃(ぞろ)ひであって、洵(まこと)に宿命と申す外(ほか)はないのであります」
 
そのうえで中島は、日恭の死を、「大聖人大慈の御誡(いましめ)」であると素直に受け止め、彼岸会において宗門大衆を前に話している。
 
たしかに、これほどの不運が重なることも珍しい。まさに罰以外の何ものでもない。
 
そのうえ、これこそ罰を認識する核心部分であるが、竈(かまど)に嵌(は)まり込み、逃げるに逃げられず上半身黒焦(こ)げ、下半身生身の無惨な死に方を日恭はしたのである。
 
さすがに当時の宗門中枢も、この不運が重なった結果、総本山大石寺が大火に焼け落ちて“法主”が無惨な死を遂(と)げた事実に直面し、かりそめであれ謗法に染(そ)まった過去を懺悔(ざんげ)していたのである。
 
その歴史的事実に目をつむり、宗門は事ここに至ってまで日恭の死を美化し真実を隠蔽(いんぺい)することに腐(ふ)心(しん)している。そのような愚(おろ)かなことはもうやめるべきだ。
 
時はすでに、“法主”の権威をもって真実を隠蔽することを許さない。仏道を志(こころざ)す者であれば、事実を事実として認め、仏法の本質を学ぶべきである。
 
なお余談になるが、邪宗日蓮宗の坊主・安永弁哲の書いた『板本尊偽作論』のネタを提供したのは、日蓮正宗の妖僧・小笠原慈聞である。『板本尊偽作論』は、日蓮正宗内の長年にわたる出家同士の確執(かくしつ)が、形を変えて表面化したものであるとも言える。
 
末法において度(ど)し難(がた)きは、法盗(ぬす)っ人(と)たちである。

 

火事の原因を所化の失火と知りながら朝鮮兵による放火だとウソをついた宗門

昭和二十年九月、妙光寺を訪れた日蓮正宗管長代務者・中島廣政は、彼岸会の説法の席で、同年六月十七日の大奥、大書院、客殿などを焼いた大石寺の火事の原因について、「一所化の失火」であることを認めており、このときの説法の内容は記録に残されている。
 
そのほか、当時の大石寺の状況に詳(くわ)しい僧らも、懐古(かいこ)談の中に、「小僧の失火」と記している者もいる。なかには火を出した小僧の名として「増田壌允」の名を挙げている者もいる。
 
これらのことから、出火の原因が所化の失火であることは、火事直後の大石寺内においては定まった説であったことがうかがえる。事実、当時、大石寺にいたある僧侶は、「所化によるタバコの火の不始末」であったと明言している。
 
ところが、大石寺はいつの頃からか、この大火は日本軍将校に不満を持った朝鮮兵が、将校宿舎となっていた対面所に放火したことにより発生したと言いはじめた。
 
内部の者による失火では体裁(ていさい)が悪いと考え、大火の責任を、なかば強制的に連行されてきた朝鮮兵に転(てん)嫁(か)しようとしたのである。
 
このデマの元となったのは、日蓮宗の坊主である安永弁哲が著(あらわ)した『板本尊偽作論』を破折するため、日蓮正宗側が出版した『惡書板本尊偽作論を粉砕(ふんさい)す』(日蓮正宗布教会刊)である。この本の編集ならび発行者は「日蓮正宗布教会」、取扱所は「大日蓮編集室」で、昭和三十一年九月三十日に発行された。
 
この日蓮正宗の公式的な見解がまったくのウソであったため、以後、大火の責任が「朝鮮兵」になすりつけられることとなったのである。
 
『悪書板本尊偽作論を粉砕す』には、次のように出火の状況が書かれている。
 
「先(ま)づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距(ほどへだ)てた所に応接室の対面所という建物があつた。世界大戦も漸(ようや)く苛烈(かれつ)になつて来て、陸軍では朝鮮の人達を悉(ことごと)く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居(い)たが、大石寺も其の宿舎となつた為(た)め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居(お)つた。そして此(こ)れを訓練する将校が二十数名も対面所に宿泊していたのである。丁度(ちょうど)静岡市空襲の晩に此れ等(ら)の兵隊がガソリンを撤布(さんぷ)して、将校室となつていた其の対面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに将校は身の廻りの者を持つて僅(わず)か三尺の縁側(えんがわ)の外に逃げるのが漸(ようや)くであつたのである。火はやはり殆(ほと)んど同時に管長室に燃え上つたのである。侍(じ)僧(そう)は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之(こ)れまた漸く逃れたのである。此時(このとき)には一山の者が駆けつけたが、最早(もは)や、手の施(ほどこ)し様(よう)もなかつたのであつて、忽(たちま)ちのうちに二階建は焼失して了(しま)つたのである。一同は其れよりも延焼(えんしょう)を防ぐべく努力したが、遂(つい)に客殿、書院、土蔵を灰燼(かいじん)に帰(き)せしめたのである」

 

昭和初期の大坊(右の建物が大奥、左が対面所)

 

以上の『惡書板本尊偽作論を粉砕す』の記事には、随所(ずいしょ)にウソの記述が散見(さんけん)されるのであるが、並んで建っている対面所と大奥が、たちまちのうちに火に包まれたという文章全体のトーンは正しいと思われる。
 
管長代務者の中島廣政も、先の妙光寺における彼岸会で、「出火の場所は御居間(二階)の階下に隣(とな)る押入で三尺の廊下を隔(へだ)てた對面(たいめん)所には農耕隊の将校が寝て居たのでありますが火の廻はりが急なため身を以(もっ)て逃れ軍服を取出す遑(いとま)さへなく」と話したことが記録されている。
 
また日本軍将校が、軍服のみならず、軍人の魂ともいえる軍刀を焼失したと懐(かい)古(こ)談(だん)に記している者もいる。これらのことからして、対面所とそれに隣接(りんせつ)した大奥が、ほぼ同時に火に包まれたことは想像に難(かた)くない。
 
管長代務者・中島が「御居間」と話しているのは、大奥二階の管長室のことであろうと思われる。出火は、日恭の寝ていたすぐ下の方であったのだ。これでは日恭が逃げることができなかったのは無理からぬこと。
 
しかも日恭は先述したように、巨体で、疝気(せんき)と足腰が弱って歩行困難であった。そのうえに耳も遠かったのである。
 
また、この焼死をする昭和二十年六月十七日の九日前に会った信徒は、
 
「昭和二十年五月東京大空襲の時大久保の家が焼失し、その年の六月八日登山して上人にお目通りを願つたとき御短冊(たんざく)の寓意(ぐうい)を御伺いしたら上人はいや別に意味はない思いついて書いて上げたのだと仰(おお)せられお耳がお惡かつたので質問を書いてお目にかけ御答を仰(あお)いだ。お目通りするなり『国諫(こっかん)のことか』と仰せられた。それ程当時は国諫が宗内の問題になつていた。それは御遷化(せんげ)九日前のことである」(『唯信唯行』より一部抜粋)
 
と、当時、日恭の耳が聞こえなくなっていたことを記述している。火の廻りが速く、巨体の上に持病で歩行困難、そして耳が聞こえなかったため、日恭は焼死したのである。
 
宗門の出した『惡書板本尊偽作論を粉砕す』には、「皆んな上人が戦場の如(ごと)き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂(つい)に力の及ばざるを御考えなされて、寧(むし)ろ自決なされたと拝(はい)せられる。思えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌(りゅうしょう)を祈り、国民の安泰(あんたい)を願い、日々夜々一宗を督励(とくれい)し祈願をこめ給いしに、遂(つい)に敗戦を眼前(がんぜん)に控(ひか)え、既(すで)に力及ばず、老躰(ろうたい)を焼いて国家の罪障(ざいしょう)を滅(めつ)せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」
 
と書かれているが、これは日恭の死を美化しているだけのことである。日恭はただ逃げ遅れて死に、それも竈(かまど)に嵌(は)まり込み上半身は黒焦(こ)げとなり下半身と腹ワタのみが残ったのである。
 
そもそも日恭が死んだのは、大奥である。251ページの図を参考にしてもらいたいが、対面所と大奥はほぼ同時に焼け始め、その後、火は大書院から客殿へと延焼(えんしょう)していった。
 
十七日午後十時半頃に出火し、翌朝四時頃まで約五時間半にわたり、燃えつづけたのである。日恭が焼け死んだときは、まだ対面所と大奥が燃えているだけで、日恭が死を思いつめるほどの段階ではない。
 
大奥から逃げおおせた日恭が、客殿の延焼を見て、客殿の火に身を投じ「自決」したというのならともかく、事実は火事がいくらも広がっていない出火初期に大奥で焼け死んでいたというのだから、日恭はただ単に逃げることができず横死(おうし)したと判断するのが妥当(だとう)である。
 
もし、この段階で責任を感じ「自決」を覚悟したとなれば、日恭は相当なあわて者ということになる。
 
もっとも、自決するのに竈(かまど)に入る者などいない。
 
『惡書板本尊偽作論を粉砕す』に書かれている、
 
「灰燼(かいじん)の中から上人の御遺骸(いがい)を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、其の御内仏の前辺(あた)りにうつ伏せになつてをられたと思はれる姿勢が拝せられた」
 
などといった表現は、まったくの作り話。朝鮮兵が放火したという話と同じ類(たぐ)いである。
 
日蓮大聖人曰く。
 
「聖人は横死(おうし)せず」(神国王御書)
 
日恭は仏罰により、無惨(むざん)な焼死を遂(と)げた。人は“法主”の地位にあるだけでは、聖人ではないのである。
 

狸祭(たぬきまつり)事件と小笠原慈聞の復権(ふっけん)

小笠原慈聞こそ許すべからざる仏法上の仇(あだ)

「狸祭(たぬきまつり)事件」とは、宗旨建立七百年慶讃(けいさん)大法要のおこなわれた昭和二十七年四月二十七日の夜に起きた事件で、このとき創価学会青年部は、日蓮正宗の「僧侶」(学会側は僧籍にあるとは思っていなかった)である小笠原慈聞に詫(わ)び状を書かせた。
 
詫び状は、創価学会青年部に戦中の邪義を追及され、牧口常三郎創価学会初代会長の墓前で、小笠原みずから筆をとって書いたもの。以下は、そのとき書いた謝罪文の全文である。
 
謝罪状
 
私の神本仏迹は盲(ママ)説である日蓮大聖人様の清浄なる法門を乱しました事は誠にもつて外(げ)道(どう)の極(きわ)み
 
日蓮正宗内の獅(ママ)子身虫(しんちゅう)なる事を深く御詫び申し上げると共に今後の言動を慎(つつ)しみます
 
昭和廿七年四月廿七日
 
小笠原慈聞日蓮大聖人様
 
この謝罪の背景には、小笠原の戦中における言動がある。小笠原の戦中の暗躍(あんやく)は、まぎれもなく昭和十八年七月の牧口会長(当時)、戸田理事長(同)ほか十九名の創価教育学会幹部逮捕の近因(きんいん)となったのである。したがって、獄中死した牧口会長を師と慕(した)う戸田第二代会長にとっては、小笠原は仇敵(きゅうてき)であったのだ。
 
小笠原は戦中、神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)という時流に迎合した邪義を唱え、果ては日蓮正宗を日蓮宗(身延派)に合同させようと策し、その成功の暁(あかつき)には、みずからが日蓮宗の宗務総長、大石寺の「貫首(かんず)」あるいは清澄寺の住職となるとの密約(みつやく)さえ得ていたとされる。その野望(やぼう)を実現するために、時の“法主”であった日恭になんとか不(ふ)敬罪(けいざい)の罪を着せ逮捕させようと計った。
 
とりあえず日恭の逮捕はまぬかれたが、日蓮正宗は、弾圧(だんあつ)を恐れるあまり、謗法厳戒(ほうぼうげんかい)の禁を破り、ますます神道を容認(ようにん)する羽目(はめ)になった。宗門としては昭和十七年九月十四日、小笠原を擯斥(ひんせき)処分にしてみせたものの、小笠原は時の大政翼賛運動などの応援も得て、いっそう執拗(しつよう)に、また陰険(いんけん)に野望の実現を計ろうとしたのだった。
 
この処分直後、国家権力の介入を恐れた宗門は、伊勢神宮遙拝(ようはい)の宗務院通達を、昭和十七年十月十日に檀信徒宛に出すことになる。
 
この小笠原の策謀(さくぼう)こそまさに、戦中の宗門謗法化にはずみをつけ、創価教育学会弾圧の引き金(がね)になり、ひいては総本山大石寺の大火、日恭の焼死に至るまでの総本山荒廃(こうはい)の一因ともなったのであった。小笠原こそは、ひとり創価学会のみならず日蓮正宗においても、本来は許すべからざる仏法上の仇(あだ)であったのだ。
 
昭和二十七年当時、戸田会長から見れば小笠原は、過去を謝罪(しゃざい)させるということもさることながら、将来の宗門を考えると、断じてその根を断ち切らなければならない存在として映っていたと思われる。
 
話は一年ほど前にさかのぼる。昭和二十六年五月一日の『聖教新聞』は、ある信者の話として、小笠原に関する記事を掲載している。
 
「あの時の事を振返つてみれば○○○○という悪坊主あり、石山(せきざん)を身延に売りつけ、自分は清澄寺の住職になる条件で、水魚会(すいぎょかい)とかを牛耳(ぎゅうじ)つて、なんとか仏説というような妙な学説で時の政府にこびて日恭猊下をいじめたそうだ。そんな坊主がまた石山にいる。それがために創価学会の牧口先生も難を受けたらしい。猊下も御気の毒である。一国の諫暁(かんぎょう)を後廻しにして一山の守りを固うせねばならない程の状態であつた。これが大聖人様の御本意か。当時の坊主も坊主ならば信者も信者だ」

 

神本仏迹論の邪義を唱えた小笠原慈聞

 
ここに書かれた石山とは大石寺のことである。この小笠原に関する記事は、二日後におこなわれた創価学会会長推戴(すいたい)式での戸田城聖氏の発言へとつながる。

 

僧籍になかった小笠原がなぜ事件の前に復帰したのか

昭和二十六年五月三日、東京・墨田区の常泉寺で創価学会会長推戴式がおこなわれ、第二代会長に戸田城聖氏が就任した。この式で就任したばかりの戸田会長は、「私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする」
 
との一大決意を述べた。
 
当時の学会は五千名程度。その際、宗門を代表して式に列席した細井精道日蓮正宗庶務部長(のちの日達上人)にたいして、戸田会長ならびに柏原ヤス理事(当時)は次のように要望した。
 
「戦時中神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)といふ学説を作つて時の管長上人を悩まし当局に依(よ)る学会大弾圧の発端(ほったん)をなした小笠原慈聞という悪僧が今以(もっ)て宗門に籍(せき)をおいている、といふ事である、今学会は全国大折伏に死身(ししん)になつて起(た)つたのである、どうか御本山においてもかゝる徒輩(とはい)が再び内部をかきみだす事無く、眞(しん)に学会の前途(ぜんと)を理解され護(まも)つて頂き度(た)いと望む所であります」(『聖教新聞』昭和二十七年五月十日付)
 
この戸田会長らの発言に対して細井庶務部長は、
 
「現在宗門にはかゝる僧侶は絶対に居りません、小笠原は宗門を追放されて居る」(『同』)
 
と、小笠原の存在を全面否認(ひにん)した。
 
この細井庶務部長の発言は、宗門全体の意向を受けたもので、決して単独で判断したものではないと思われる。
 
というのも、先述した推戴(すいたい)式に先立つ五月一日付の『聖教新聞』に掲載された、ある信者の小笠原の僧籍(そうせき)復帰を示唆(しさ)する記事について、宗務院庶務部はわざわざそれを否定する「お断り」を、昭和二十六年五月三日付で『大日蓮』(日蓮正宗機関誌)の五月号に発表しているからだ。
 
「◎お断り
 
一、日蓮正宗の僧と称して高瀬某が福島県下を俳徊(はいかい)して寺院や信徒の家に立ち廻る由(よし)ですが、右の如き人は本宗の僧籍にはありませんから間違いないやう願います。

 
二、五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告(こく)訴(そ)し日蓮正宗を解散せしめやうとした坊さんが総本山に居る旨(むね)書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りませんことを明(あきら)かにして置きます。
 
昭和二六、五、三
 
宗務院庶務部」
 
このことが後に起きる狸祭事件の伏線(ふくせん)となった。
 
一年後の昭和二十七年四月、総本山大石寺において宗旨建立七百年慶讃(けいさん)大法要(以下立宗七百年大法要と略す)がおこなわれた。日蓮大聖人が建長五年四月二十八日に立宗を宣言されて七百年を数えるに至ったことを祝う大法要であった。
 
創価学会はこの立宗七百年大法要を記念し、『日蓮大聖人御書全集』を発刊した。また四千名規模の登山をおこない、大法要を荘厳(そうごん)ならしめた。この立宗七百年大法要の最中である四月二十七日、牧口会長の墓前で、小笠原は前掲(ぜんけい)した謝罪文を書くのである。
 
この翌日、創価学会青年部有志は、本山塔中(たっちゅう)理境坊の門前に告文を発表した。
 
告!!
 
戦時中軍部に迎合(げいごう)し神が本地(ほんち)で久遠元初(くおんがんじょ)自(じ)受用身仏(じゅゆうしんぶつ)は神の垂迹(すいじゃく)也との怪(け)論(ろん)を以て清純の法燈(ほうとう)を濁乱(じょくらん)し創価学会大弾圧(だんあつ)、初代会長牧口常三郎先生獄死の近因(きんいん)を作(さく)したる張本人(ちょうほんにん)小笠原慈聞今日厚顔(こうがん)にも登山せるを発見せり、依(よ)つて吾等学会青年部有志は大白法(だいびゃっぽう)護持(ごじ)の念止(や)み難(がた)く諸天に代つて是非(ぜひ)を糾(ただ)したるもこゝに小笠原慈聞の謝罪を見たり、依つて今後の謹慎(きんしん)を約して放免(ほうめん)せり、狸祭の由来顛末(てんまつ)くだんの如し
 
立宗七百年記念大法会の日
 
創価学会青年部有志
 
しかし宗門側は、この小笠原に対する学会の直接行動に非常に強い拒否反応を示した。
 
まず一つは、大法要中に騒(さわ)ぎを起こしたということがいかにも許しがたい、二つは、神本仏迹が邪義であるとしても、その当否を判断するのは“法主”の専決(せんけつ)事項であり、信徒の立場で僧を問(と)い糾(ただ)すことは、その“法主”の権威を踏(ふ)みにじるものである、三つは、法衣を着た者は“法主”の法類(ほうるい)である、それを信徒の立場でいじめるのか、といったことなどが問題にされた。
 
だが学会側から見れば、これはおかしなことである。先述したように、一年前の戸田会長就任の際、宗門は小笠原は僧籍にないことを正式表明していたのだ。したがって、上記の二、三の事由は該当(がいとう)しないと考えられる。
 
ところが摩訶不思議(まかふしぎ)なことに、小笠原は大法要の直前の四月五日に擯斥(ひんせき)処分を免除(めんじょ)され、僧籍(そうせき)を回復していたと宗門より発表されたのである。
 
それも、事件後の四月三十日に印刷されたとする『大日蓮』に発表された。この『大日蓮』は五月中旬頃に檀信徒に配布されたが、創価学会側は、その『大日蓮』を見て意外な事実を初めて知ったのであった。

 

僧の権威だけを守ろうとする堕落(だらく)した出家たち

昭和二十七年四月三十日発行の『大日蓮』四月号は、小笠原の僧籍復帰を、宗内に次のように伝えている。
 
「令第三十一號
 
岐阜縣武儀郡美濃町
 
本玄寺内 舊大僧都小笠原慈聞
 
右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦(とくしゃ)復級せしめる
 
但(ただ)し住職を認めその他の利權(りけん)は保留(ほりゅう)する
 
昭和二十七年四月五日
 
日蓮正宗管長水谷日昇
 
宗務總監高野日深

 

特赦理由書
 
岐阜縣武儀郡美濃町
 
本玄寺内小笠原慈聞
 
右者昭和十七年九月十四日附に擯斥處分(ひんせきしょぶん)を受けたるものであるが其(そ)の後改悛(かいしゅん)の情も認められ同本人も老齢のこと故関係信徒の特別なる懇願(こんがん)等もあるので情状(じょうじょう)を酌量(しゃくりょう)し且(か)つ本年は宗旨建立七百年の佳年(かねん)に當り慶祝(けいしゅく)すべき時であるから特別なる計(はか)らいを以て宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條に依り特赦復級せしめ住職權のみ認める
 
昭和二十七年四月五日
 
日蓮正宗管長水谷日昇」

 

これは、創価学会側にとって寝(ね)耳(みみ)に水のことであった。一年前の会長推戴(すいたい)式の前後に小笠原が僧籍にないことを重々確認していたのに、四月二十七日に小笠原を糾弾(きゅうだん)した後になって、その前の四月五日に僧籍復帰を赦(ゆる)されていたことが公(おおやけ)にされたのだ。
 
学会側から見れば、立宗七百年大法要の日に、僧籍にない者が僧衣を着て臆面(おくめん)もなく登山していることは、公然と小笠原を糾(ただ)す一つの理由でもあったのだった。だが、この『大日蓮』の発表によって、その根拠(こんきょ)はくつがえされることになった。
 
戸田会長は、後に宗務院に提出した昭和二十七年六月二十七日付の始末書の中で、その意外さについて述べている。
 
「尚(なお)小笠原慈聞氏は事件直後に聞きました所では、慶祝記念に当り特赦(とくしゃ)され僧籍に復帰を許されたとの事でありますので、宗務院よりの発令の有無(うむ)と理由の示(じ)達(たつ)を糾(ただ)して居りました所、四月三十日附印刷発行になる大日蓮紙第七十四号に発表されたものが、五月中旬に配布されましたが、今尚(いまなお)かかる主張をなす僧侶として本山に居る事は了解(りょうかい)に苦しむのであります」
 
小笠原復帰の意外さと、その処置を平然とおこなった宗門に対する無念さがうかがわれる。この『大日蓮』の発表は、まさに攻守(こうしゅ)ところを変えるほどの衝撃的(しょうげきてき)なものであった。
 
しかしここに、ある疑惑(ぎわく)が浮かんでくる。それは、小笠原の復帰を公表する作業が四月二十七日の狸祭事件後に、急きょおこなわれたのではないかという疑惑である。
 
この頃の『大日蓮』は毎月七日に印刷発行されている。奥付も、この昭和二十七年四月号以外は皆それぞれの月の七日で、この四月号のみ四月三十日発行となっている。従って、この四月三十日という日付は、明らかに遅れてつくられたことを示している。
 
この日付は、『大日蓮』が第三種郵便物として許可をもらっていることから、月一回必ず出しているという体裁(ていさい)を取るために付けられたものだと判断できる。そのためには四月三十日はギリギリの日付である。実際はそれより何日か遅れていたのではあるまいか。四月末に発行したとなれば、もっともあわただしい大法要の直前に編集作業をしたことになり、不自然である。
 
『大日蓮』の発行が遅れたのはこの号が特例(とくれい)であるので、大法要があったために遅れたと判断するのが自然だ。となれば、大法要後、おそらく五月七日発行の五月号と同時併行(へいこう)で編集、制作がなされたと思われる。まずこの『大日蓮』四月号の五月印刷発行の疑惑を確認し、そのうえで、小笠原の復帰が「狸祭事件」(四月二十七日)後、戸田会長が「宗務院よりの発令の有無と理由の示達を糾(ただ)し」(前出「始末書」)てから急きょ、日付をさかのぼっておこなわれたのではないかと思われる節(ふし)を指摘(してき)しておこう。
 
四月五日付で小笠原以外にもう一人、特赦(とくしゃ)を受けた者がいる。権大僧(ごんだいそう)都(ず)の井口琳道である。井口は昭和二十二年四月の総本山所有山林売却に際し不正の行為があったとして、同二十三年十月に僧階を六級降ろされていた。それを小笠原と同じ日の四月五日付で、「復級復権」させたとされている。これが「令第三十號」として先に出されている。その後に「令第三十一號」として小笠原の「復級」が出されている。
 
この順序に疑問を持つ。
 
僧の世界において僧階は絶対の序列(じょれつ)である。それは通常の行動においても厳正(げんせい)に守られている。にもかかわらず、同じ四月五日の特赦であるのに、僧階の低い「権大僧都」の特赦(とくしゃ)を「大僧都」より先に出すのは明らかにおかしい。小笠原の特赦は、井口の四月五日より実際は遅く発令されたことを意味している。
 
後で詳述することになるが、小笠原は昭和二十一年三月に、すでに特赦で復級(ふっきゅう)している。その事実と考え合わせると、この小笠原の「復級」の決定および『大日蓮』への公告は、戸田会長を罰するために捏造(ねつぞう)されたことが明々白々な、あまりに破廉恥(はれんち)な行為である。
 
ただただ僧の権威のみを守ろうとする、堕落(だらく)した出家の奸智(かんち)をそこに見る。堕落した者にとって仏法の正邪は二の次なのである。表だっては高邁(こうまい)なことを述べているが、自分たちの立場が脅(おびや)かされるのではないかと、戦々兢々(せんせんきょうきょう)としているだけなのである。もっとも恐れるべきものは、宗祖日蓮大聖人のお怒りであることを忘れているのだ。

 

大謗法の小笠原の責任は問わず創価学会のみを追及する僧ら

狸祭事件に対する日昇上人の怒りは相当なものがあったと伝えられる。『大日蓮』の小笠原の僧籍の復帰を捏造(ねつぞう)した記事なども、庶務部のレベルでできることではない。
 
当然のことながら、創価学会を罰するという“法主”の強い意志のもとに、さかのぼって急きょ出された僧籍復帰の特赦(とくしゃ)と思われる。
 
この“法主”の激昂(げきこう)のさまは、宗内に次々と伝わった。『大日蓮』の“虚構(きょこう)”の特赦発表の後、宗内で一段と学会批判の勢いが増す。

 

大阪、京都、奈良、兵庫、滋賀などを布教区とする日蓮正宗の第八布教区は宗務支院総会を開き、十二名の住職が連名で、学会の行動を批判する決議をおこなった。その決議文の一部を紹介する。
 
「一、宗建七百年の最も慶祝(けいしゅく)せらるべき大法要中、然(しか)し神聖(しんせい)なるべき管長法主上人猊下の御書講中本事件を起し、尚(なお)且(か)つ清浄(せいじょう)なる山内を汚(けが)し深信なる全国各檀信徒に対し信仰の動揺(どうよう)を與(あた)へ時と処(ところ)とを撰(えら)ばざる行為は事の善悪如何(いかん)に関らず天人共に許さざる所と断ず。
 
二、本不祥(ふしょう)事件は創価学会対小笠原慈聞師との個人問題でなく宗務当局を無視したる行為は宗門全僧侶及び檀信徒に対する最大の侮辱(ぶじょく)と断定する」
 
大謗法かつ破仏法の小笠原の責任は一切問わず、創価学会のみを追及する一方的な決議であった。要は信徒の分際(ぶんざい)で僧の誤(あやま)りを責(せ)めることはけしからんということに尽きる。
 
五月二十三日には小笠原がパンフレットを出している。この中で小笠原は、狸祭事件で戸田会長らに暴行(ぼうこう)を受けたなどと事実を歪曲(わいきょく)し、告(こく)訴(そ)の意思表明をしている。また神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)の邪義についても、
 
「戦時中に私がこの神本仏迹論を取り上げたのは、この理論を楯(たて)に日蓮宗各派取(と)ツチメルに実に恰好(かっこう)の資料となると考えたからであります。然るにこの本意を知らないで、本宗内から小(こ)股(また)を取られたのは遺(い)憾(かん)千万(せんばん)であつた」
 
と開き直っている。また学会側の主張する、小笠原が戦時中に大石寺を身延に吸収させようとしたということについても、
 
「この問題は見当(けんとう)違いの言いがかりである。私は身延を大石寺に引張り込む算段(さんだん)であつたが、皆々様が不賛成で成り立たなかつたのである」
 
「戦時中は仕方なく国策(こくさく)に順応(じゅんのう)するのが国民の義務という。私もこの見地から合同も止(や)むを得ぬ、もつとも戦後はいずれ元へ戻る。その時には身延寺から沢山(たくさん)の御土産を持つて帰る心算であつた。本宗の正法正義はそうなくてはならないからである」
 
などと言い訳にもならない世(よ)迷(まよ)いごとを述べている。
 
時の“法主”日恭を特高に不(ふ)敬罪(けいざい)で検挙(けんきょ)させ、その後で自分が一切を支配しようと画(かく)しておきながら、戦後はそのように開き直ってみせる。このような最低の人間も、法衣を着れば僧として信徒は敬(うやま)わなければならないというのだ。
 
狸祭事件がなければ、のうのうと大僧(だいそう)都(ず)として信徒の上に立っていたのであるから恐ろしい。日蓮正宗の中には仏法を規範(きはん)とした正邪は存在していなかった。実際にあったのは僧と信徒の差別だけであったと言える。この後、記述する事件の諸相(しょそう)はそのことを裏づける。
 
六月一日には『読売新聞』(静岡版)が創価学会に関する捏造(ねつぞう)記事を掲載(けいさい)した。見出しは、
 
「会長の入山禁止大石寺前管長暴行事件創価学会に断元日共党員が指導?本山と対立・会員二万の学会」
 
といったものであった。当時、日本共産党は破防法適用団体として非合法化されていた。昭和二十六年六月の朝鮮戦争の開戦、同年七月のレッド・パージにつづき、狸祭事件の直後の五月一日にはメーデー事件も起きていた。
 
この世情を背景にして、学会に共産党員が入り込んでいるかのように報道させ、学会を弾圧(だんあつ)させようとした者がいた。その者の流した操(そう)作(さ)情報に『読売新聞』が乗せられたのだった。読売新聞東京本社は学会の抗(こう)議(ぎ)を認め、静岡支局を訪ねるように述べた。学会は支局を訪れ事情を正した。
 
根気強い創価学会側の真相究明(しんそうきゅうめい)の作業によって、操作情報を流した者が明らかになり、その人物が謝罪(しゃざい)したのは一カ月余りも経(た)った七月に入ってからのことであった。その人物については後述する。
 
その真相究明(しんそうきゅうめい)の作業がつづけられている間にも、宗内の状況は創価学会にとって、どんどん不利になっていった。

 

学会に対する厳しい宗内世論に真っ向から対(たい)峙(じ)した戸田会長

狸祭事件(四月二十七日)後の昭和二十七年六月といえば、日蓮正宗の宗内世論は創価学会に対して厳しくなる一方であった。この宗内世論に、戸田城聖創価学会会長は真っ向から対(たい)峙(じ)した。
 
六月十日には会長名で「宣言」を出している。「宣言」は、日蓮大聖人の仏法に照(て)らして学会青年部は小笠原を「徹底的に責(せ)めた」ことを述べ、「吾人は小笠原慈聞は僧侶とは思はず、天魔の眷属(けんぞく)と信ずる」と断じている。そして末(まつ)尾(び)を次のように結んでいる。
 
「吾人は清純(せいじゅん)なる日蓮正宗守護の為に御本尊の御本意及び御開山日興上人御遺戒を遵守(じゅんしゅ)して、仏法破魔(はま)の天魔小笠原慈聞に対し、彼の魔力を破り去る日迄(まで)勝負決定(けつじょう)の大闘争を行うものである。
 
右、仏法守護の為これを宣言す」宗内世論の圧力に対して、仏法守護のために一歩も引かないとの闘争宣言であった。しかしその決意をあざ笑うかのように、宗門の僧たちは戸田会長処分へと動く。
 
六月二十六日から二十九日までの四日間、日蓮正宗宗会が開催された。
 
この宗会においては「宗制の修正」「宗規の原案」が検討(けんとう)されるとともに、もう一つの重要案件(あんけん)である「大法会不(ふ)祥(しょう)事件」が審議(しんぎ)された。
 
宗会二日目の二十七日、細井庶務部長より戸田会長の提出した「始末書」が紹介された。「始末書」はまず小笠原が僧籍にあるとは思っていなかったこと、戦中の神本仏迹(しんぽんぶっしゃく)を立てての策謀(さくぼう)は許すことができないこと、事件当日においてもまったくもってその邪義を立てたことを素直に認めなかったことなどが述べてあった。
 
また、戸田会長ほかの学会側の者が暴行(ぼうこう)を加えていないことについては、
 
「此の事実万一将来物議(ぶつぎ)をかもした時、証人が無くては真実とならないと思いましたので、最初から御立合を願つた小樽教会の阿部尊師、名古屋の妙道寺様、寂日坊の所化さん、三人にお聞取り願います」
 
と述べ、小笠原への法論が非暴力的におこなわれたことを主張している。また小笠原が僧として在籍していることは「了解(りょうかい)に苦しむ」と述べたうえで、文末を、
 
「その故に私共と小笠原慈聞氏との関係は未(いま)だ『末』は決して居りませんので全体の始末書とは申しかねますが当日の始末をあらあら御命によつて始末書にしたためました」
 
と結んでいる。
 
宗会は、この戸田会長の「始末書」が紹介されたあと、秘密会に入った。会議は夜遅くまでつづけられた。
 
明けて二十八日は早朝より宗規の審議(しんぎ)がなされ、ようやく夜の七時半過ぎになって、宗会議員一同によってつくられた狸祭事件についての決議文が提出され、全員が

 

細井精道庶務部長(のちの日達上人)

 

賛成の意思表示をした。
 
決議文の結論をいえば、小笠原については「宗制宗規に照(てら)し適切な処(しょ)置(ち)を望む」といったもので、宗会としての処分の意思表示はいわば保(ほ)留(りゅう)となっている。ところが、一方の当事者である戸田会長には厳しかった。
 
「一、大講頭戸田城聖氏は本宗々制第三十條を無視し、本年四月廿七日本宗僧侶小笠原慈聞師に対し計画的と見做(みな)される加害暴行(かがいぼうこう)をし、記念法要中の御法主上人を悩まし奉るのみならず、全国より登山せる旦信徒に信仰的動揺(どうよう)を與(あた)えたる事件は開山以来未曾有(みぞう)の不祥事(ふしょうじ)である。依(よっ)て今後集団、個人を問はず、かかる事件を絶対に起こさざる事を條件(じょうけん)として左の如(ごと)き処分(しょぶん)を望む。
 
一、所属寺院住職を経(へ)て謝罪(しゃざい)文を出すこと
 
一、大講頭を罷(ひ)免(めん)す
 
一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 
以上のように、一方の戸田会長についてのみ具体的に処分を指定したのであった。
 
また、戸田会長が証人を出してまでして暴行の事実を否定していたのに、証人三人の証言を聞くこともなければ、処分される戸田会長本人の言い分も聞くことなく、秘密会の審(しん)議(ぎ)のみで、一方的に「計画的と見做(みな)される加害暴行をし」と断定したのであった。
 
信徒の人権も人格も無視した、出家の思い上がりに依(え)拠(きょ)した裁きであった。
 
また宗会議員のなかに、戦時中、小笠原と同様に、日蓮大聖人の仏法の本義を忘れ、大政翼賛的な活動に血(ち)道(みち)を上げていた者が多数いたことも笑(しょう)止(し)なことであった。昭和十七年六月に牧口会長、戸田理事長(当時)ら学会幹部に神札を受けるように申し渡した渡邊慈海などが裁(さば)く側にいるのだから滑稽(こっけい)でさえある。なお、渡邊慈海は後年、創価学会の折伏精神を心から賛嘆(さんたん)していたことを付記しておく。
 
この決議の後、宗務総監以下の三人の役僧が辞意を表明した。その中で一番の創価学会の理解者であり、この事件において“法主”の勘(かん)気(き)とみずからの学会庇護(ひご)の気持ちの板ばさみとなった細井庶務部長は、辞意を表明した際、次のように苦(く)衷(ちゅう)を語った。
 
「私としては小笠原師にだまされた事を明(あきら)かにしておる為、学会に味方しておるが如(ごと)き誤解(ごかい)を受けておるので、たとへ公平なる処(しょ)置(ち)をとつても、宗門人には公平と思はれないと思うから此の際辞職して各位の信任あるお方によつて、公平なる処置を決して頂きたい」
 
この宗務役員の辞任は、宗会四日目の二十九日に宗会の決議として慰(い)留(りゅう)がなされたので、それを受けて全員留任となった。細井庶務部長は留任要請(ようせい)が宗会よりなされた際、その発言の機会をはずさず、
 
「なるべく寛大な処置をとる様に御願いしたい」
 
とわざわざ発言している。宗会の学会に対する厳しい評価を考えると、ずいぶん思い切った学会擁護(ようご)の発言であった。だが、それも真実を知る者としての後ろめたさの故であったかもしれない。

 

出家の権威のみをふりかざす宗会議員

戸田城聖会長に対する、
 
「一、所属寺院住職を経(へ)て謝罪(しゃざい)文を出すこと
 
一、大講頭を罷(ひ)免(めん)す
 
一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 
との三つの処分を要請(ようせい)した日蓮正宗宗会(昭和二十七年六月二十六日~二十九日)の最終日の二人の議員の発言は、僧のずるさを証明して余りあるものがある。
 
一人は宗会議員の柿沼廣澄である。戦時中、戦争協力の旗(はた)ふり役の一人であった。
 
「単なる法議法論の理の法門を弄(ろう)することをやめよう。納得のゆく人柄、所謂(いわゆる)僧侶としての品位の欠如(けつじょ)が実はこの不(ふ)祥(しょう)事件の原因であると、吾と吾が身を鞭(むち)うつものである」
 
神本仏迹論(しんぽんぶっしゃく)の正否(せいひ)の吟味(ぎんみ)から、戦中の種々の問題に宗内の関心が進まぬように先手(せんて)を打っているのである。実にうまい言いまわしで保身を図(はか)っている。
 
また閉会の間(ま)際(ぎわ)にも、宗会議員の秋田慈舟が同様の発言をしている。秋田は二年前の昭和二十五年、大石寺の観光地化計画を積極的に進めていたが、戸田会長に登山会を実行され、自分の計画が中止されたことを内心では恨んでいたと推測(すいそく)される。
 
しかし、秋田の話は、
 
「今回の事件は、全く僧侶の教(きょう)化(け)指導力の不足によるものと思う。これを機会として宗内信徒の正しい指導育成に努力することを誓(ちか)つて円満和合の宗風を確立し、その実現を誓い、法主上人を通じて宗会議員一同、戒壇の大御本尊様に懺悔(ざんげ)を致したく懺悔文を作成した」
 
などと、きれいごとに終始(しゅうし)している。
 
ところが、である。秋田は陰険(いんけん)な策謀(さくぼう)をなしていたのだった。
 
先述した『読売新聞』(昭和二十七年六月一日付静岡版)の「会長の入山禁止大石寺前管長暴行事件創価学会に断元日共党員が指導?本山と対立・会員二万の学会」の見出しで報じられた捏造(ねつぞう)記事のネタ提供者は、この秋田であったのだ。
 
この僧は、公(おおやけ)の場ではきれいごとを言いながら、裏にまわっては、操作(そうさ)情報をマスコミに提供していたのだ。
 
宗会後の七月十三日、秋田は学会青年部に追及され、『読売新聞』にネタを提供した事実を認め陳謝(ちんしゃ)した。
 
さて、宗会の戸田会長処分要求決議を知らされた創価学会青年部は、宗会議員一人ひとりに対し、徹底した説得を開始した。それに対して直(ただ)ちにその非(ひ)を認める者もいれば、開き直る者もいた。
 
そこで明らかになったのは、予期(よき)していたことではあったが、日蓮正宗宗会議員が出家の権威(けんい)をふりかざすのみで、なんら大法弘通を考えていないということであった。
 
なかでも宗会議長の市川真道の場合は、象徴的(しょうちょうてき)であった。学会青年部の追及に対して、市川は話し合いを放(ほう)棄(き)し、自寺の信者の中の不良たちに因縁(いんねん)をつけさせている。
 
「市川氏は急に座(ざ)をはずして本堂へ行つてしまい学会員が『先生逃げるとは卑(ひ)怯(きょう)ですよ、おもどり下さい』と言いかけると『この野郎』と一人がとびかかり、皆総立ちとなつて学会員を取りまいた。それと同時に入口からドヤドヤと『ケンカか、おれらが仕(し)末(まつ)してやろう』『何をいつてやがるんだ外へ出ろ、外へ出ろ』とどなりながら数名の者が入つて来たので、みるとアロハシヤツ、土足、入墨一見(いっけん)して暴力団の不良連中である事がわかる(中略)丁度(ちょうど)警察官がこの場にかけつけて来たので、暴力団の不良は取り静める事が出来たが、中にはハンマーを面談中の我々に投げつけようとした者もいたしこん棒を束(たば)にして持つて来ていたのである」(昭和二十七年七月二十日付「聖教新聞』)
 
日蓮正宗の僧の中にもずいぶんと程度の悪い者がいたことに唖(あ)然(ぜん)とさせられる。それも宗会議長となれば、何をかいわんやである。
 
この市川は、戸田会長処分を要請(ようせい)した宗会の閉会式において、宗会を代表して先の自分の発言とほぼ同じような「懺(ざん)悔(げ)文」を奉読(ほうどく)した。
 
「顧(かえりみ)るに斯(か)くの如(ごと)き問題の起(き)因(いん)は吾等僧侶の教(きょう)化(け)指導力の不足に因(よ)る事と思ひますから、将来宗内信徒の正しき指導育成に一層努力して真の円満和合の宗風を確立し、その実現をお誓(ちか)ひして、茲(ここ)に、御法主上人猊下を通じ戒旦(かいだん)の大御本尊様へ衷心(ちゅうしん)より懺悔申上げます」
 

大御本尊に「懺悔」しているはずの者が、純粋な信仰心からの信徒の行動に対して、ヨタ者の暴力をもって応(こた)えようというのだ。
 
戸田会長がみずから筆を執(と)っていた『聖教新聞』(昭和二十七年七月二十日付)のコラム「寸鉄」は、その舌鋒(ぜっぽう)を堕落(だらく)した僧に向けている。
 
「一、折伏を命とし本山を護(まも)る事を名誉としている学会に何で宗会議員はケンカを売つてくるんだ
 
二、若い者が怒り出しているだけならまだよいが、おぢいちやん連まで鉢(はち)巻(ま)きをし出したでは、一(ひと)荒(あ)れ荒れるかな
 
三、無調査の論告、野(や)蛮(ばん)時代の政治よりもなお悪い、さては宗会議員諸公七百年前を想い出したな
 
四、七百年前を想い出してもよい大聖人様の折伏の姿なら良いが平左衛門の真似(まね)ぢや困つたもんだ
 
五、宗会議員諸公は平左衛門の後身(こうしん)か、事情も調べず義理もたださず論告(ろんこく)するとは
 
六、平左衛門の後身宗会議員と現(あらわ)る。仏恩広大(ぶつおんこうだい)にして逆縁(ぎゃくえん)の輩(やから)、今大聖人様の仏法の中に生まれて、唯(ただ)一人の大信者をそねみ恨(うら)む、習性恐るべし」
 
まことにもって、いまの日蓮正宗の状況を言い得ているようで妙である。かつての仏敵(ぶつてき)も今生(こんじょう)に勢(せい)ぞろいか、頃(ころ)やよし。

 

学会を切り崩す僧は「魔性の伴侶(はんりょ)」と断じた戸田会長

昭和二十七年の狸祭当時の、戸田城聖創価学会第二代会長が書いたものの中には、日蓮正宗総体の腐(ふ)敗(はい)に対する厳しい批判が相次いでいる。
 
まずは、狸祭の二日前の四月二十五日に書かれた『大白蓮華』の巻頭言(かんとうげん)。
 
「御本尊の威光(いこう)をかりて、折伏の系統(けいとう)を、自分の子分とみなす徒(と)輩(はい)がある。折伏が、真の慈悲ではなくて、大親分になってみたいという考え方から、あるいは本性的の働きから、この形をやるものがある。これは、増上慢の形であって、私の徹底的排撃(はいげき)をする徒輩である。この形は、寺院にも、時々みうけられるが、学会内にも、時おり発生する毒茸(どくきのこ)である。この毒にあてられた者が、四、五十人の折伏系統をもつと、寺の僧侶と結託(けったく)して、独立する場合があるが、末法大折伏の大敵である。これを許す御僧侶は、慈悲の名に隠(かく)れた魔の伴侶(はんりょ)とも断じたい思いであるが、御僧侶は尊きがゆえに、言うにしのびない」
 
創価学会の組織切り崩(くず)しを許す僧侶に対し、戸田会長は心中にて、まさに「魔性の伴侶」と断じているのだ。
 
次に、同じく戸田会長の書いた「寸鉄」を紹介する。
 
昭和二十七年五月十日付『聖教新聞』
 
「十、狸まつりはあんまりやるな、狸まつりをあんまりやられるような事はするな、やつた者が悪いか、やられた者がわるいか、謹しんで日興上人様に伺(うかが)い奉(たてまつ)れ」
 
同年六月一日付『聖教新聞』
 
「戦国風景
 
大宮人は畑を開墾(かいこん)したり薯(いも)を作つたり、若い武士を養成しようともしない、ひたたれをつけて威張(いば)る事だけ知つている。地方の城主は破れた城で貧乏で兵隊もいないのに平気な顔。熱心な侍(さむらい)大将が兵隊を集めて訓練して殿様の御守護につけると、威張る事ばかりやつていてさつぱり武士共は心服(しんぷく)しない。大敵が目の前に来ているのにこれでいいのかと百姓共が心配している」
 
同年七月一日付『聖教新聞』
 
「二、狸祭が悪いのか、狸を見逃して本山へ登らせたのが悪いのか
 
三、狸を把(つか)んだのが悪いのか、信者を化(ばか)す狸が悪いのか
 
四、狸を把むのに少し騒々(そうぞう)しかつたからといつて文句をいうてるやつ等は、狸がおつた方がいゝというのか
 
五、寸鉄居士、生ぬるい事をいうな、文句をいうてるやつ等は狸の一味ぢやよ、或(ある)いは小狸だよ
 
六、そんな事はなかろう、狸の一味や小狸がいるなら若い者が、ほつとくかい、狸が把みたくつて把みたくつてたまらんやつ等なのに
 
七、寸鉄居士、間抜けるなよ、しつぽを出さない狸は把めるかい、それがな、そろそろしつぽを出しかけたんだよ
 
八、若い者共はそのしつぽを把まんのかよ
 
九、若者曰(いわ)く寸鉄居士少しこの頃どうかして居らんか、そのしつぽを眺(なが)めて、もう少し出るぞといつて手ぐすね引いて待つているんだ、京都に一匹居るそうな、東京もくさい、名古屋もくさい、旅費をためうためうつて大変な意気込みだ、寸鉄居士目があつたらよく見ろ
 
十、余り騒(さわ)いでは相成らん、余り騒ぐと親方さんに叱(しか)られるぞ」
 
同年七月十日付『聖教新聞』

「一、宗会の決議では我等の会長が登山止めなそうな、物騒(ぶっそう)な世の中になつたものだ
 
二、忠義を尽して謗法を責めて御褒(ほう)美(び)あるかと思つたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子共『俺達も一緒に登らんわい、フン』だつてさ
 
三、なにが『フン』だい。決つてるじやないか、日本全国の信者の声だつてさ、嘘(うそ)もよい加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉(えば)ばること許(ばか)りを知つとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。
 
四、蒲田の支部長曰く『信者の声』かどうか、学会の総力をあげて全国信者から『宗会』が『醜怪(しゅうかい)』())か、『学会』が『悪会』か投票を取ろうじやないかと。
 
六、寸鉄居士会長先生に御伺(うかが)いをたてたら『あんまり騒ぐなよ、こんな目出度(めでた)いことを』とニヤリさ。
 
八、こらこら騒ぐな『ニヤリ』を説明してやるからな、如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)に仰せあり
 
『真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定(ごうてきけつじょう)せり。されば此の経を聴聞(ちょうもん)し始めん日より思い定むべし』。三類の悪人の仕(し)業(わざ)の中に『遠(おん)離(り)塔(とう)寺(じ)』())と言つて寺から追い出すやり方がある。悪人共がさ」
 
これは驚いた。「遠離塔寺」とはまぎれもなく、「C作戦」のことではないか。「C作戦」は仏が予見したとおり、「三類の悪人の仕業」なのだ。
 
昭和二十八年十一月二十二日におこなわれた創価学会第九回総会で、戸田会長は次のように発言している。
 
「さて今、柏原君の話の中に破和(はわ)合僧(ごうそう)と有つたが僧とは社会を指導し人を救う資格を持つのが僧である。心中では互(たがい)に憎しみ猫がねずみを伺(うかが)う様に形は法衣をまとつても僧ではなく、いま学会の組長、班長が一生懸命(いっしょうけんめい)で一切の人々の為に働いている姿こそ真の僧と云へるのである。
 
此の結合を破る者には必ず罰が有る。嘘(うそ)だと思つたらやつてみ給へ」

 

小笠原は晩年になって創価学会を賛嘆(さんたん)した

創価学会の青年部を中心とした宗門に対する法論と説得によって、状況は徐々に変わってきた。
 
宗会の三項目の処罰(しょばつ)(謝罪文提出、大講頭罷(ひ)免(めん)、登山停止)の要求は、ついに実現に至らなかった。七月二十四日、すべてを収拾(しゅうしゅう)すべく、日昇上人より戸田会長に「誡告(かいこく)文」が出された。それには、
 
「宗内の教師僧侶は白衣の沙(しゃ)弥(み)に至るまで総(すべ)て予(よ)が法類(ほうるい)予が弟子である若(も)し其(そ)れ此の教師僧侶を罵詈(めり)し侮(ぶ)辱(じょく)するならば法主たる予が罵詈され予が面に唾(つば)されるものと身に感じ心をいためているのである」
 
と、出家の者たちを、仏法の正否を超えてかばってみせ、さらに大講頭については、
 
「尚(なお)法華講大講頭の職に於(おい)ては大御本尊の宝前に於て自ら懺(ざん)悔(げ)して大講頭として耻(は)ずるならば即座に辞職せよ若(も)し耻じないと信ずるならば心を新たにして篤(あつ)く護(ご)惜建立(しゃくこんりゅう)の思をいたし総本山を護持し益々身軽法重(しんきょうほうじゅう)死(し)身(しん)弘(ぐ)法(ほう)の行に精進(しょうじん)すべきである」
 
と述べている。
 
これに対して戸田会長は、「御詫状(おわびじょう)」を奉呈(ほうてい)している。
 
「御詫状」とはいえ、その内容は、宗内の謗法を断ずる意欲に満ちたものであった。
 
「只(ただ)宗内に於(お)いても余りに謗法に傾き過ぎたり大白法の信奉に惰(だ)弱(じゃく)なる者を見る時、況(いわん)や宗外の邪宗徒をせめる時は宗開両祖の教(おしえ)を胸に深く刻(きざ)むが故に、決定的な闘争になる傾きがあるのであります。これが行き過ぎのなき様に深く会員を誡(いまし)めて指導致しますが『護(ご)法(ほう)』の精神に燃ゆる所生命を惜(おし)まぬが日蓮正宗信者なりとも亦(また)日夜訓(おし)えて居ります為に、その度を計りかね名誉も命も捨てて稍々(やや)もすれば行過ぎもあるかも知れませんが、末法の私共は十界互具の凡夫であり愚者(ぐしゃ)でありますから宏大(こうだい)の御慈悲をもつて御見捨てなく御指導下さる様重ねて御願いします」
 
言葉丁寧(ていねい)な中にも、断固たる決意がうかがわれる。また、大講頭職についても、
 
「誡告(かいこく)の御文に『恥(は)ずるならば大講頭職を辞(じ)せよ』と御座居ましたが、猊下の宸襟(しんきん)を悩まし奉つた事は恐れ多いと存じますが宗開両祖の御金言には露(つゆ)ばかりも違(たが)わざる行動と信じます故に、御本尊様の御前にして日蓮正宗の信者として自ら恥じないと確信し大講頭職は辞しません」
 
と、一歩も引く気配すら見せていない。言外に仏法上の正邪を行動規(き)範(はん)としない、大聖人の仏法を忘れた宗門に対する憤(いきどお)りすらただよわせている。
 
七月二十六日、創価学会会長・戸田城聖名で、
 
「全学会員の御僧侶に対する“狸祭事件”に関しての闘争を停止すべき事を命ずる」(一部抜粋)
 
との「行動停止命令」が出された。

 

ところが小笠原は、創価学会戸田会長以下幹部に対する告(こく)訴(そ)をおこなっていた。九月二日、国家警察本部富士地区署は、戸田会長以下十二名に出頭を要請(ようせい)。まず和泉覚理事(当時)は同日から丸一日、戸田会長は翌日から丸一日、事情聴取(ちょうしゅ)のため留(りゅう)置(ち)された。
 
これは、小笠原が、自分が面倒(めんどう)を見ていた(寺の一部を貸し与え開業させてやっていた)医師にウソの診断書をつくらせ、暴行事件をデッチ上げたことによる。また小笠原の弁護士は、戦中より親交のあった三宅重也という人物であった。
 
戦時中、日蓮宗身延派に所属していた三宅は小笠原とともに、日蓮宗の翼賛的(よくさんてき)合同を策(さく)して積極的に暗躍(あんやく)していたのであった。
 
この小笠原に対して日昇は、九月九日「誡告(かいこく)文」を送ったが、小笠原はそれに対し「人権蹂躙(じゅうりん)」であると告(こく)訴(そ)をチラつかせて、文書をもって宗門すらも脅(おど)しにかかった。
 
このときの文面は公表されていないが、小笠原にしてみれば、実は昭和二十一年三月に僧籍復帰していたものを、何の都合か昭和二十七年四月に復帰したことにされ、そのうえ、誡告までされてはかなわぬといった気持ちがあったのだろう。宗門も弱味を握(にぎ)られ侮(あなど)られたといえる。
 
しかし、この小笠原を細井庶務部長は、小笠原の自坊である岐阜県本玄寺において説得した。そのとき本玄寺の檀信徒も、小笠原が猊下まで告訴に及んでいる事態を初めて知り、小笠原の非(ひ)を責(せ)めた。孤立(こりつ)した小笠原はついに謝罪し、一切の告訴を取り下げたのであった。
 
が、宗門はこれだけのことをした小笠原に対して、何ら実質的な処分を下さなかった。ここにも僧籍復帰の怪(かい)が尾を引いていると思われる。
 
ところでその後、小笠原はどうなったか。小笠原は戸田会長の行動に感服(かんぷく)し、敬愛(けいあい)の情を抱くに至るのである。
 
ここに、小笠原の書いた、昭和三十年五月二十五日発行の『日蓮正宗入門』という本がある。この前書きで創価学会および戸田会長を評し、次のように記している。
 
「その信徒の強烈(きょうれつ)なる、その抱(ほう)負(ふ)の偉大なるため、永年沈衰(ちんすい)してゐた本宗も俄(にわか)に活気を帯(お)び生き吹き還(かえ)すに至り、今や全国で正宗信者の無い土地は無く広宣流布の魁(さきがけ)をなすに至つたことは、只管(ひたす)ら感激の外(ほか)はありません。自分は不徳にして一時調子に乗りその為に学会と争論の不幸を醸した事のありました事は、誠に遺(い)憾(かん)の至りでありましたが、翻然大(ほんぜんだい)悟(ご)逆即順(ぎゃくそくじゅん)の筋(すじ)目(め)を辿(たど)り爾(じ)来(らい)我宗門の人とは宜(よろ)しく学会精神を躰得(たいとく)し、それを基調として進行せざるべからずと提唱(ていしょう)するに至りました。かく言ひますと、之れは諛(へつら)へる者と評せらるべきも、道理と実際の指す所でありますから仕方ありません」二部抜粋)
 
戸田会長の偉大さの一分を証明する結末であった。小笠原は昭和三十年十二月三日、八十歳の生涯(しょうがい)を閉じた。小笠原は晩年にあっては創価学会の折伏を賛嘆(さんたん)し、協力を惜(お)しまなかったということである。小笠原の葬儀にあたり、創価学会青年部は香典として「一万円」を送った。
 
小笠原の覚醒(かくせい)は創価学会青年部の強折(ごうしゃく)によるところが大きい。小笠原の一生をたどり、戦時中神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)、狸祭、晩年を思うとき、戸田会長の偉大さ、仏法の不思議に思いが至るのである。

 

敗戦直後の小笠原の僧籍復帰は宗内では周知の事実だった

ところで、小笠原の僧籍復帰問題には、在家の思いもつかない出家総ぐるみとなってのカラクリが隠されていた。実は、小笠原が僧籍復帰したのは、昭和二十七年四月の立宗七百年大法要の直前ではなく、終戦間もない昭和二十一年のことであった。このことは日蓮正宗の僧のほとんどが知るところであったが、出家の側より秘密は漏(も)れなかった。
 
この事実を踏(ふ)まえれば、小笠原の僧籍復帰を『大日蓮』にわざわざ偽装(ぎそう)して発表したこと、戸田会長の処罰(しょばつ)を求めた宗会の議決、宗門中枢のおこなった戸田会長への「誡告(かいこく)」などが、いかに悪辣(あくらつ)な企(たくら)みによってなされたかを知ることができる。
 
この事実は、出家の者たちが自分たちの共通利益のためには、情理(じょうり)を超えて結束(けっそく)することを示している。
 
出家が在家の上に位置したいという気持ちは、まさに本能的なものである。ことに布教活動をしない僧侶集団は、その位置関係以外に自己の存在の保証を得られないことを敏感に知っている。したがって、在家集団の台頭(たいとう)に実に臆病(おくびょう)になり、過剰(かじょう)な反応を示すのだ。
 
それでは、敗戦直後の小笠原の僧籍復帰が宗内において周(しゅう)知(ち)のことであったことを、年代をさかのぼりながら立証(りっしょう)していきたい。
 
それを確認することは、僧侶がみずからの権威を守るためには、事実をねじ曲げても信徒を処罰するという、その本質に根差(ねざ)した卑怯(ひきょう)を暴(あば)く作業でもある。
 
狸祭りの前年の昭和二十六年十一月十三日、徳島県の敬台寺において、同寺の再建落慶法要がおこなわれた。
 
このときの模様を、宗門機関誌の『大日蓮』(昭和二十六年十一月号)が報じている。
 
「十一月十三日の吉辰(きっしん)をト(ぼく)して本堂再建落慶入佛式は前日の雨模様も朝から晴れ渡つて一天晴朗(せいろう)の旭日(きょくじつ)輝く内に準備は着々と整(ととの)ひ正午より開修(かいしゅう)された。
 
式典次第
 
正午開始一落慶入佛式読経敬白文祝辞
 
午後二時開始一御会式読経申状捧読檀徒
 
精霊回向講演記念撮影
 
本玄寺小笠原慈聞師、城山寺藤川徹玄師、立正寺秋山円海師、大乗寺秋山慈本師、本因妙寺河辺慈篤君等、神戸より二名淡路より一名高知より数名の参詣者あり満堂煽(あふ)るる盛大なる式典を賑々(にぎにぎ)しく修す事が出来たのは唯々(ただただ)佛天冥護(みょうご)の而(しか)らしむる所と感銘(かんめい)いたす次第です」(『大日蓮』昭和二十六年十一月号より引用)
 
「本玄寺小笠原慈聞」は、その法要の来賓(らいひん)の最上席として記録されている。
 
この記事から確認されることは、小笠原以外に城山寺藤川徹玄、立正寺秋山円海、大乗寺秋山慈本、本因妙寺河辺慈篤など四名の僧侶が列席していることである。
 
昭和二十五年の『大日蓮』八月号は、「小笠原慈聞著」の『法華経玄理一念三千の法門』という本の宣伝を出している。広告文の中には「多年のうん畜(ちく)を傾けて法華経の秘蔵(ひぞう)を開きたる力作、その内容は本宗傳統(でんとう)たる教観(きょうかん)の優秀性を主張する」といった箇所がある。小笠原の肩書は「元日本大學宗教科講師、世界之日蓮主幹」となっている。
 
昭和二十五年の『大日蓮』三月号は、讃岐本門寺の梵鐘(ぼんしょう)が再興(さいこう)されたことを報じている。
 
「●本山本門寺梵鐘再興
 
讃岐本門寺に於(おい)ては昨秋發願(ほつがん)の梵鐘を門中しゆう素異体同心精進の結果、僅(わず)か百日余にして此の程(ほど)再興しその撞初(しょうしょ)式法要を二月五日正午より執行(しっこう)した。
 
式次第左の通り
 
第一號鐘午前十一時客殿大玄關前に集合
 
第二號鐘全十一時半出發行列順序先導(高齡者五名)―樂人十名―稚兒七十名―貫主(駕)伴〓二名―鑄匠黄地佐平氏、小笠原慈聞師―塔中末寺住職―委員長眞鍋伊三郎氏―総代安藤秀信氏外四名―梵鐘委員福岡一郎氏外十名―委員世話人大平薩珍氏―前川茂氏外三十名―一般参列者約五十名」(『大日蓮』(昭和二十五年三月号)より引用)
 
この記事により、二月五日の撞初式に小笠原が出席したこと、その式にあって「貫(かん)主(ず)」につづいて梵鐘をついたことが判明する。
 
同じく日蓮正宗の機関紙である『宗報』の昭和二十二年九月号は、「美濃町だより」と題する小笠原の投稿(とうこう)を載(の)せている。そこには、本玄寺において八月十八日に法会がおこなわれ、組寺の四名の住職が来会、「小笠原主管」が第五十七世日正の追想(ついそう)を話したことが記されている。記事全文は、次のとおり。
 
「◎美濃町だより日正上人を開(かい)基(き)とする本玄寺にては、八月十八日同上人廿五囘忌正當法會謹修(きんしゅう)。小川、本江、關戸、太田等組寺住職來會、小笠原主管の日正上人の追想論あり、組寺は別段に一般參會者には赤飯を振舞(ふるま)ひ、近來同(どう)區(く)に稀なる集まりであつた。
 
(小笠原、投)」(『宗報』昭和二十二年九月十五日付より引用)
 
また同号には、「讃岐行」という「細井」(細井精道庶務部長・のちの日達上人)署名の一文が載(の)せてあり、讃岐本山本門寺の御虫払い法要について書かれている。これには本門寺一門の僧侶以外に、小笠原ほか四名の僧が訪れ、参列している。小笠原はそのとき、説法を皆の前でおこなっている。
 
この記事を記述した細井庶務部長は、のち昭和二十七年の狸祭事件において、小笠原の僧籍復帰が問題になったときも同様に庶務部長である。このことにより細井庶務部長は、昭和二十七年四月五日付で出された小笠原のニセの僧籍復帰にも深く関(かん)与(よ)し、それを偽(ぎ)装(そう)するための『大日蓮』(昭和二十七年四月号)の発刊についての事情も知(ち)悉(しつ)していたものと判断される。それだけにこの「讃岐行」の記事は注目に値(あたい)する。昭和五十三年宗内を騒然(そうぜん)とさせた「御本尊謹刻(きんこく)問題」にも共通する事件の本質が垣(かい)間(ま)見える。僧の権威が真実より優先されたのだ。
 
以下、讃岐行の記事全文を紹介する。
 
「讃岐行
 
朝霞(ちょうか)の目の前にビルヂングの如きに出會(であ)つてねむい目を見開いた時は早朝四時、それは一千五百噸(トン)の紫雲丸、宇野―高松連絡船、日本が終戦後の誇り得る新造船であつた、なんと大きいこと船體(せんたい)に複線のレールを引込んで二列車そのまま運搬することが出來、階上には滿員一列車の千数百人と荷物が全部入れて餘(よ)猶(ゆう)があつた。
 
今まで四國へ渡ること六、七度今度ばかりは機(き)關(かん)の響(ひびき)の外(ほか)何の動揺もなく疊(たたみ)に座つたままと云ふ形容詞にて四國へ渡つてしまつた。自分の所管事務の爲めに。
 
舊友(きゅうゆう)秋山圓海師の立正寺に一泊し初めて讃岐本山本門寺の御(お)蟲拂(むしばらい)法要に參列(さんれつ)した、法要は大攣(たいへん)盛大で本門寺一門の僧侶は勿論(もちろん)本玄寺小笠原慈聞師、本應寺小野慈憲師、秋山圓海師、高知秋山慈本師と私が列席し貫主相馬日鳳師の導師のもとに滞(とどこお)りなく執行(しっこう)せられた、小笠原師の御説法に續(つづ)いて私も講座を汚(けが)する光榮(こうえい)に浴(よく)した。
 
私は同寺の寶物(ほうもつ)、宗祖の御(ご)眞筆(しんぴつ)御本尊、二祖日興上人の數幅(すうふく)の本尊に參拝(さんぱい)し並(ならび)に宗祖夢の御(み)影(えい)と宗祖御筆三面大黒天を拝觀(はいかん)した。
 
その日は古川慈雄師の專要坊に小野師、大川慈章師と夜半に及んで談笑(だんしょう)し遂(つい)に一泊し翌朝相馬師初め一同の親切を謝(しゃ)し立正寺に引きげ秋山師の御親切に甘へて歸山することを得た。
 
顧(かえり)みれば本門寺は昨年めでたく歸(き)属(ぞく)するまで永年本宗と袂分(たもとわか)ちて居つたその間、信仰上、化儀上何等本宗との相違を起さなかつたことは驚異とする所であり又嬉(うれ)しく感じた、もし信仰が頽(くず)れてゐたらあの三面大黒天なんかおそらく鑼(どら)と太(たい)鼓(こ)で宣傳(せんでん)して四國中に出開扉でもしてゐたことであろう、そんなこともなく、ただ寶物(ほうもつ)は寶物として寶藏(ほうぞう)に納(おさま)つて置いた所に彼等の清い信仰があつたのだ、もし他宗のやり方からすれば寶物は寶物でも集金用の寶物となるのである。而(しか)も薄墨(うすずみ)の衣に白五條で道行には被布(ひふ)を用ひてゐた、私はただ嬉(うれし)かつた。
 
昨年寺となつた立正寺の秋山師近日に寺となる城山寺の藤川徹玄師等一すじに富士の信仰に生きて來た人々だが、本門寺一門も人知れず清い信仰を傳(つた)へて來たことが認められる、日本再建の今日讃岐一圓否四國一圓が協力一致し正宗の紋章を輝かし正法布教に全力を集中せられることをお願ひする
 
(細井)(八月三日)」(『宗報』昭和二十二年九月十五日付より引用)
 
細井精道庶務部長は、法要において小笠原につづき説法をしていた。

 

戦中の大謗法を反省することなく始まった宗門の戦後を象徴する小笠原の復帰

さらに衝撃(しょうげき)の事実はつづく。
 
昭和二十二年四月二十八日付をもって、日蓮正宗宗会議員の選挙結果が発表されたが、『宗報』(同年六月号)にその詳細(しょうさい)が報じられている。
 
二十一名が立候補して十六名が当選したが、小笠原は四十四票を獲得(かくとく)して十七位の次点に泣いている。このように宗会議員に立候補していたのであるから、日蓮正宗内で小笠原の復帰を知らぬ者などいなかったということになる。
 
『宗報』(同)に紹介された選挙結果は、以下のとおり。
 
「昭和二十二年四月廿八日
 
宗會議員總選擧投票開緘
 
一、選擧長佐藤舜道
 
一、投票管理者細井精道
 
一、選擧事務参與千種法輝
 
矢崎豊道瀬戸恭道
 
一、選擧立會人井口琳道
 
能勢安道前川慈覚
 
一、投票用紙配布總數一一五
 
一、投票着數一〇〇
 
一、投票未着數一五
 
一、有効投票數九四
 
一、無効投票數六
 
一、八拾五票當選柿沼廣澄
 
一、八拾二票當選大石菊壽
 
一、七拾九票當選高野法玄
 
一、七拾六票當選堀米泰榮
 
一、七拾四票當選佐野慈廣
 
一、七拾四票當選落合慈仁
 
一、七拾二票當選秋山教悟
 
一、七拾票當選小川慈大
 
一、六拾九票當選眞弓智廣
 
一、六十八票當選渡邊慈海
 
一、六十八票當選關戸慈晃
 
一、六十二票當選古川慈雄
 
一、六十二票當選舟橋泰道
 
一、五十六票當選秋田慈舟
 
一、五十一票當選佐久間慈敬
 
一、四十六票當選高木慈嚴
 
一、四十四票次點小笠原慈聞
 
一、三十五票澁田慈旭
 
一、二十八票早瀬道應
 
一、二十七票市川眞道
 
一、二十三票杉谷香道
 
昭和二十二年四月二十八日以下略
 
宗務院」
 
狸祭事件に際し、創価学会および戸田会長の罪をデッチ上げるため、昭和二十七年四月五日に小笠原が僧籍復帰したと創価学会側に宗門より伝えられたことが、いかに詐(さ)術的(じゅつてき)であったかということが分かる。

 

昭和二十一年六月十五日発行の『宗報』第二号(何月号という表示はない)に、「讃岐本門寺一行の登拝(とうはい)」と題する記事が掲載(けいさい)されている。このとき、讃岐本門寺一行を歓迎(かんげい)する日満上人の小宴(しょうえん)がもたれたが、それには小笠原も同席している。
 
「同夜六時より法主上人御招待の小宴あり此日東京より這回特赦(しゃかいとくしゃ)に依(よ)り復歸された小笠原慈聞師も大聖教會總代岡本涙翁、鈴木杢吉兩氏と共に登山して席に加(くわ)はり」(『宗報』第二号抜粋)
 
と記述されているのだ。「特赦に依り復帰」と書かれていることに注目しなければならない。
 
いったい小笠原が、昭和十七年九月十四日の擯斥(ひんせき)処分の後、僧籍復帰になったのはいつなのか。昭和二十一年五月十五日発行の『宗報』第一号が小笠原の復帰を公告している。
 
「令第二二號
 
香川縣三豊郡下高瀨村
 
元大僧都小笠原慈聞
 
右者宗制第三百九十四條及同第三百九十四(ママ)條ニ依(よ)リ特赦復級(とくしゃふっきゅう)セシム
 
昭和二十一年三月三十一日
 
管長秋山日滿
 
特赦理由書
 
右者昭和十七年九月十四日宗制第三百八十九條ノ一同條ノ三ニ依(よ)リ擯斥處分(ひんせきしょぶん)受ケタルモノナルモ其(その)後(ご)改悛(かいしゅん)ノ情顯著(けんちょ)ナルヲ認メ宗制第三百九十四條及同第三百九十五條ニ依リ復歸、復權、復級セシムルモノナリ」
 
小笠原の僧籍復帰は、敗戦後間もない昭和二十一年三月三十一日に、「令第二二號」として示(じ)達(たつ)されていたのだ。
 
日蓮正宗の戦後が、戦中の大謗法を悔(く)い改(あらた)めることなく始まったことを象徴(しょうちょう)して余りある小笠原の復帰であった。

 

小笠原を復級させた第63世・日満上人

 

また、昭和二十一年三月、「令第二二號」が出され、小笠原が特赦(とくしゃ)復帰しているにもかかわらず、宗門みずからの体面を守り戸田会長を罰するためだけに、昭和二十七年四月に「令第三十一號」として、重複(ちょうふく)して小笠原の特赦復帰を管長名でおこなったのである。憎(にく)むべき出家の謀略(ぼうりゃく)である。

 

法滅尽の時こそ大法弘通の時

身延との論争にも負け御本尊も誤写した日開

昭和三年は、広宣流布の流れの中で特筆(とくひつ)すべき年である。
 
宗門においては、現“法主”である日顕の父・日開が、この年の六月猊(げい)座(ざ)についた。この日開は、のちに御本尊を誤(ご)写(しゃ)する大謗法を犯しながら、それを指摘されると、“法主”の権威をもって開き直った。
 
また宗務院総務当時は、身延系の清水梁山に論争を挑(いど)みながら、かえってその弟子に論駁(ろんばく)され沈黙(ちんもく)し、大石寺の面目(めんもく)をつぶした前歴を持つ。この清水を批判した阿部法運(当時)の拙劣(せつれつ)な文を、時の日柱上人が怒り、阿部の僧階を落とし総務職をもはずした。
 
だが、それを恨(うら)んだ阿部法運は、日柱上人引き降ろしの黒幕として暗躍(あんやく)する。この日開、行躰(ぎょうたい)においても実に乱れたものがあった。日開は、日蓮正宗の法灯がまさに消えんとする、法滅尽(めつじん)の時を象徴(しょうちょう)するかのような“法主”であった。日開の登座により日蓮大聖人の仏法は、大変な危機を迎える。だが大悪は、来るべき大善の予(よ)兆(ちょう)でもあった。真実の地涌の菩薩が、日蓮大聖人の仏法に縁したのである。
 
意義深い昭和三年―。牧口常三郎創価学会初代会長、戸田城聖創価学会第二代会長の日蓮正宗への入信は、同年の六月頃と伝えられる。
 
池田大作創価学会第三代会長(現名誉会長)の誕生は、同年一月二日である。
 
昭和三年は、まさに仏(ぶつ)意仏勅(いぶっちょく)の和合僧団・創価学会の黎明(れいめい)の年である。この創価学会の黎明のとき、後に御本尊を誤写してしまう最悪の“法主”が、日蓮正宗に誕生したのである。宗門と創価学会の暗と明、この相対に仏法の不思議を感じる。

 

牧口常三郎創価学会初代会長と戸田城聖第2代会長

 
それ以降、宗門は暗をますます暗とし、創価学会は日蓮大聖人の教法を松明(たいまつ)のごとく、宗内外の暗(あん)夜(や)に高々と掲(かか)げていく。そして昭和二十年の終戦に至る。まさに法滅尽(めつじん)の時は、すなわち大法弘(ぐ)通(つう)の黎明期だった。暗即明であったのだ。
 
戸田会長は創価学会出現について、昭和二十八年に次のように話している。
 
「学会の組織に、批判は絶対にいけません。学会を離れて功徳は絶対ありません。増上慢(ぞうじょうまん)のように聞こえるかもしらんが、畑(はた)毛(け)の猊下(堀日亨上人)は、私にこんなことを申された。『あなたが、四百年前に生まれてきていたら、日蓮正宗はこれほど滅(ほろ)びはしませんでしたろう』と。
 
このおことばに対して、私はお答え申しあげた。
 
『猊下が、いまお生まれになったから、私も、猊下に三十年おくれて生まれてまいりました』と。
 
事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。(中略)学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」(昭和二十八年五月十七日東京・王子百貨店ホール第二回足立支部総会)
 
日亨上人、戸田会長の間で交(か)わされた不思議な会話である。戸田会長が、「猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである」との直載な表現。
 
今日、このような発言をする大信者がいたならば、日顕は「驕慢(きょうまん)謗法!」と叫ぶだけであろう。それだけ、現在の宗門では信仰とは無関係の権威・権力が幅を利(き)かせはじめたのである。
 
先の戸田会長の発言は、仏法の深遠さに裏(うら)打(う)ちされているが故に、人々の胸奥(きょうおう)に感動のうねりを起こすのである。
 
戸田会長は次のようにも話している。
 
「それからもうひとつ。いま法滅尽(めつじん)の時である。日蓮正宗の末寺の屋根は落ち、畳は破れはてて、まさに日蓮正宗はつぶれそうになっていたのである。この日蓮正宗をつぶれないようにしたのは、創価学会です。
 
堀猊下がいつか、『戸田さん、あなたがいなかったら日蓮正宗はつぶれたよ』とおっしゃったことがあった。このように、正宗がつぶれそうになったとき、学会が出現したのです」(昭和二十九年九月三十日東京・豊島公会堂九月度本部幹部会)
 
日蓮正宗がつぶれそうなとき、創価学会が出現したことは、まぎれもない史実である。

 

畑毛で談笑する日亨上人と戸田第2代会長

 

“折伏の人”“実行の人”であった牧口会長

創価学会の誕生は、初代の牧口常三郎会長あったればこそである。
 
昭和二十二年におこなわれた創価学会第二回総会に出席した堀米日淳上人(ただし当時は登座前)は、牧口常三郎初代会長を偲(しの)び、「講演」をした。日淳上人は、牧口会長を想(おも)い起こし、牧口会長について二つの特質を述べている。
 
「牧口先生は、非常に慈悲の深い方でありましたが、此のことは先生が、日蓮聖人の御書に、涅(ね)槃経(はんぎょう)の文をお引きなされた『慈(じ)無くして詐(いつ)はり親しむは、是れ彼れが、怨(あだ)なり』といふ点を常に、口にせられたが此れは先生が、自らの境地を端的(たんてき)に表現するものにして余(よ)ほど感じて居られたやうでありました」(昭和二十二年十月十九日東京教育会館創価学会第二回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
日淳上人はこう述べた後、「初めて会はれた人に対しても、そこに少しの隔(へだた)りもおかず慈悲平等の上に接せられるといふ風でありました」(同)と牧口会長の印象を述べ、そのうえで、「反面にまた非常に、物事に厳格(げんかく)な気質を持つて居られて、何事によらず、厳格に判断し、厳格に処理をするといふ行き方をせられたと思ひます」(同)と語っている。
 
日淳上人は、牧口会長について次のように結論した。
 
「先生は、非常な慈悲心と厳格さとを以(もっ)て他に対せられた」(同)
 
日淳上人は、牧口会長の二つの特質として「慈悲」と「厳格」を挙(あ)げている。また、日淳上人から見た牧口会長は、“折伏の人”“実行の人”であった。
 
「牧口先生の折伏のことでありますが、折伏といへば先生、先生と言へば折伏のことと、ことほどさように、先生と、折伏とは、重要なものでありますが、これはいふ迄(まで)もなく深く大きな慈悲心を持たれた先生が、思ひやりの止(や)むに止まれぬ心からの救済(きゅうさい)の現れでしかも真実に、而(しか)も忠実でありなほかつあの厳格が、折伏の形をとられたのであります。『彼が為に悪を除くは此れ彼が親なり』この文は先生が、信条とせられたところであります。価値に於(おい)て行動の世界を直(ちょく)視(し)せられつつあつた先生は、一にも二にも実行で、理念的なものは、聞いても居られないといふ風にいらだたしさを感ぜられたようでありましたが、この本質のうちからあの折伏の行が、発露(はつろ)せられたのだと私は考へて居ます。
 
もとより、妙法の信に住(じゅう)せられた先生が、日蓮聖人の折伏の行範(ぎょうはん)を追はれたのはいふまでもありませんが、しかしそれは、追はれたといふより先生の生来(せいらい)の行き方が、妙法により開顕(かいけん)され天眼(てんげん)されたといふのが当つてをると思ひます」(同)
 
日淳上人はこのように、牧口会長が“折伏の人”であり、“実行の人”であったことを述べている。そして、最後に日淳上人は、牧口会長について仏法の本質論から述べている。これはとりもなおさず、創価学会出現の淵源(えんげん)に触(ふ)れた言葉でもある。
 
「私は先生が、法華によつて初めて一変(いっぺん)された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によつて開顕し、その面目(めんもく)を発揚(はつよう)なされたのだと、深く考へさせられるのであります。そうして先生の姿にいひしれぬ尊厳(そんげん)さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かつたのであります。あの荊(いばら)の道を厳然と戦いぬかれた気(き)魄(はく)、真正(しんせい)なるものへの忠実、私は自ら合掌(がっしょう)せざるを得なくなります」(同)
 
日淳上人の牧口会長に対する気持ちは、このようなものであった。日蓮大聖人の仰(おお)せのままに生きた牧口会長に対し、心の底から湧(わ)く尊敬の気持ちを、日淳上人は押さえきれなかったのだ。そこには僧俗の隔(へだ)てはない。
 
日淳上人は戸田第二代会長に対しても、たとえ難い尊敬の念を抱いていた。日淳上人は、昭和三十一年に第六十五世として登座した。昭和三十三年四月二日に戸田会長が逝去(せいきょ)したが、その直後、五月三日におこなわれた創価学会第十八回総会において、戸田会長と創価学会について次のように話している。
 
「御承知の通り法華経の霊山(りょうぜん)会(え)において上行(じょうぎょう)を上首(じょうしゅ)として四大士があとに続き、そのあとに六万恒(ごう)河(が)沙(しゃ)の大士の方々が霊山会に集まつて、必ず末法に妙法蓮華

 

牧口常三郎創価学会初代会長

 

経を弘(ぐ)通(つう)致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を会長先生が末法に先達(せんだつ)になつて呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即(すなわ)ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上に呼び出したのが会長先生だと思います」(昭和三十三年五月三日東京メモリアルホール創価学会第十八回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
このように、日淳上人は明快(めいかい)な言葉をもって、戸田会長および創価学会の仏法上の位置づけをしている。
 
日淳上人は、さらに創価学会こそ仏語を実(じつ)語(ご)となす広宣流布の主体であり、時にかなって出現した「仏の一大集り」であると、次のように話している。話した時期が、戸田城聖創価学会第二代会長逝去(せいきょ)の直後であることに留意(りゅうい)して、読んでいただきたい。世間が、戸田会長亡(な)き後の創価学会は空中分解するであろうと嘲笑(ちょうしょう)していた時期である。
 
「正法は必ず広宣流布する、これらはもう仏の誓いでございます。後(ごの)五(ご)百歳(ひゃくさい)に広宣流布して鳩(く)槃(はん)荼(だ)等にその便りを得せしむることなしとおつしやつてある。その誓が実現しなければ仏様は真実を述べられたということはないわけです。ですから、これからが、いよいよ広宣流布へ進んで行く段階になつたと思うのであります。会長先生は基(き)盤(ばん)を作つた、これからが広布へどんどん進んで行く段階であろうと思うのでございます。(中略)どうかその意味におかれて、先程来大幹部の方、役員の方々、又皆様方が相(あ)い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会厳然未散(りようぜんいちえげんねんみさん)と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば真の霊山で浄土、仏の一大集りであると私は深く敬意を表する次第であります」(同)
 
日蓮大聖人の御在世と滅後を俯(ふ)瞰(かん)して語られる仏法の

 

第65世・日淳上人

 

“時”。その“時”にかなって出現した「霊山一会厳然未散」「真の霊山で浄土」「仏の一大集り」と日淳上人が称(たた)える創価学会。この久(く)遠即末法(おんそくまっぽう)の実相に、仏法の醍(だい)醐味(ごみ)を感ずる。
 
日淳上人は、この「御講演」の最後を、
 
「宗門も及ばずながら皆様方といよいよ相(あい)呼(こ)応(おう)致しまして、会長先生のあの大きな仕事に報(むく)いて一生懸命にやるつもりでおりまする。どうか一つ皆様のいよいよ御健闘(けんとう)の程(ほど)をお願い致しまして、私の講演を終ることに致します」(同)
 
との言葉で結んでいる。たとえようのない慈愛に満ちた言葉である。そこには権威・権力の片鱗(へんりん)すらない。このような“法主”のもとであれば、自然に「僧俗一致」もなされるだろう。
 
日淳上人は、昭和三十四年一月一日の『聖教新聞』に「年頭の辞(じ)」を寄せているが、そこでも戸田会長について、「まことにその言行は地涌千界(せんがい)の眷属(けんぞく)の出現ならではなし得ないところでありました」(昭和三十四年一月一日付『聖教新聞』)と断言(だんげん)している。

 

終戦まで枚挙(まいきょ)にいとまがないほど謗法を犯してきた日蓮正宗の僧侶

宗祖・日蓮大聖人の仰(おお)せに曰(いわ)く。
 
「末法当時は久遠実成(じつじょう)の釈迦仏・上行(じょうぎょう)菩薩・無(む)辺行(へんぎょう)菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心(かんじん)たる南無妙法蓮華経の七字計(ばか)り此の国に弘まりて利生得益(りしょうとくやく)もあり上行菩薩の御利生盛(さか)んなるべき時なり、其の故は経文明白なり道心堅固(どうしんけんご)にして志(こころざし)あらん人は委(くわし)く是を尋(たず)ね聞くべきなり」(法華初心成仏抄)
 
【通解】末法の今は、久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘められる法華経二十八品の肝心である南無妙法蓮華経の七字ばかりが、この国に広まって、利益や得益(とくえき)もあり、上行菩薩の御利益が盛んになるべき時である。そのゆえは経文に明白である。道心が堅固であり、志のある人は、詳しくこれを尋ね聞くべきである。
 
明治五年に僧侶の妻帯(さいたい)が許されてからの日蓮正宗僧侶の堕(だ)落(らく)ぶりは、まさに坂道を転(ころ)げ落ちるの観があった。すでに明治時代、“法主”の座をめぐって、僧侶間の暗闘(あんとう)が演じられている。
 
大正時代には、日蓮正宗僧侶の実力者たちが密約(みつやく)して、時の法主・日柱上人に対してクーデターを起こし、有無を言わさず法主の座より引きずり降ろした。
 
昭和時代に入ってからの日蓮正宗は、日開の御本尊誤(ご)写(しゃ)事件、宗門による御書の一部削除、神札甘受(かみふだかんじゅ)や神社参拝の信徒への指示、戦争協力など、枚挙(まいきょ)にいとまのない謗法を犯した。
 
そしてついには、軍部によって総本山内大書院に神棚(かみだな)を祀(まつ)り込まれ、昭和二十年六月十七日に大坊が焼失し、日恭は焼死した。
 
ただ一人、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲(かか)げた創価教育学会は、国家権力によって徹底的に弾圧(だんあつ)された。昭和十九年十一月十八日、牧口常三郎初代会長は獄中(ごくちゅう)にて殉教(じゅんきょう)した。
 
日蓮正宗はまさに瀕(ひん)死(し)の状態であった。日蓮大聖人の大白法(だいびゃくほう)はまさに滅尽(めつじん)しようとしていた。
 
だが、大法弘通の第一歩は、この法滅尽のときに始まった。戸田城聖創価教育学会理事長(当時)が、昭和二十年七月三日、豊多摩刑務所(現在の東京都中野区にあった。出獄の少し前に巣鴨の東京拘置所より移された)より出獄(しゅつごく)したのだ。
 
出獄した戸田理事長の胸中(きょうちゅう)には、正法流布への大確信が燃えていた。
 
「ちょうど、牧口先生の亡(な)くなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議(ふかしぎ)の境涯(きょうがい)を、御本仏の慈悲によって体得(たいとく)したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦(ほうえつ)とで毎日暮らしたのであった。

 

戸田会長が出獄した豊多摩刑務所(写真は昭和57年当時)

 
その取り調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるようななさけなさ。心のなかからこみあげてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御仏にささげる決意をしたのであった」(戸田城聖会長著「創価学会の歴史と確信」『戸田城聖全集』所収)
 
だが、日蓮大聖人の嫡流(ちゃくりゅう)である日蓮正宗のありさまは、“法主”日恭の焼死に象徴(しょうちょう)されるように、宗門総じて仏罰をこうむり、極端に衰(すい)微(び)していた。
 
総本山大石寺の経済的復興(ふっこう)は、戸田会長が昭和二十七年に登山会を開始したことにより、ようやく始まったのである。それまでの日蓮正宗は、まさに赤貧芋(せきひんいも)を洗うがごとき状態であった。
 
戸田理事長率(ひき)いる創価学会は、社会の濁乱(じょくらん)と宗門の凋落(ちょうらく)をものともせず、莞(かん)爾(じ)として広宣流布への歩みを進めていた。

 

戸田城聖第2代会長自筆の「創価学会の歴史と確信」

 

第二代会長就任に当たって大折伏線を宣言した戸田会長

昭和二十六年五月三日、戸田会長は第二代会長就任(しゅうにん)

 

式の「会長就任の挨拶(あいさつ)」において、次のように述べている。
 
「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く御(み)教書(きょうしょ)を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、一人一人が邪教(じゃきょう)と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに御本尊様を持たせることです。こうすることによって、はじめて本門の戒壇ができるのである。
 
御本尊様の真の功徳がわかる究(く)竟即(きょうそく)の位(くらい)の前の、分真即(ぶんしんそく)が、すなわち折伏することなので、これが真にあなたたちのためだから、広宣流布をやりなさいというのであります。(中略)一対一のひざづめ談判(だんぱん)によって、広宣流布は成し遂(と)げられるのである。
 
以上、述べたことは、みんな自分のためであり、いま、わたくしたちは、大きな本門の戒壇を建てるための、一つ一つの土台石を運んでいるのであります。みなさん、真に命をかけて、御本尊様へご奉公しようではありませんか」(昭和二十六年五月三日東京・常泉寺第二代会長就任式『戸田城聖全集』所収)
 
この会長就任式では、戸田会長によって、「会長就任の決意」も披(ひ)瀝(れき)された。

 

戸田城聖創価学会第2代会長推戴式

 

「ここに、不思議のことありて大確信を得、会長就任の決意を固めたしだいである。大聖、宗(しゅう)旨(し)御建立の後、立正安国論をおしたためあって七百年、大陸は中共勢力の席巻(せっけん)するところとなり、朝鮮に世界の兵力集まっての戦乱である。
 
このとき、手をこまねいて見すごすならば、霊鷲山(りょうじゅせん)会(え)にて、いかなるお叱(しかり)あるべきか。しかれば、無(む)間(げん)地(じ)獄(ごく)疑いなし。今後、どしどし無理な注文をだすことと思うが、ぜひ、通していただきたい。
 
私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でする。もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺(い)骸(がい)は品川の沖に投げ捨てていただきたい」(同)
 
広宣流布成就(じょうじゅ)に向かって、七十五万世帯の折伏の実践(じっせん)を宣言したのだ。ちなみに、「戸田会長推戴賛(すいたいさん)意(い)署名簿」に署名した学会員は、三千八十余名であったと伝えられる。
 
同年十一月、戸田会長は、「日蓮正宗滅(ほろ)びんとしているときに立ったみなさまの福運は大きいのです。御本尊様を信じ、功徳を受けようではありませんか」(昭和二十六年十一月十八日東京・中野歓喜寮牧口初代会長八回忌法要『戸田城聖全集』所収)と呼びかけている。
 
断るまでもないが、「日蓮正宗滅びん」としていたのだ。それが、今日、日蓮正宗が創価学会によって宗史始まって以来の繁栄(はんえい)を遂(と)げると、“法が尊(とうと)いのだから、日蓮正宗が興隆(こうりゅう)するのは当たり前である”と、日蓮正宗中枢は言うのである。
 
そして創価学会に感謝しないばかりか、さらには「C作戦」を発動して創価学会を解体し、学会員を檀徒として日蓮正宗にいただこうと画策(かくさく)していたのだ。
 
理不(りふ)尽(じん)と言えば、これほど理不尽なことはない。不知(ふち)恩(おん)の一語に尽きる。いまの宗門中枢は、信徒団体が無償(むしょう)の献身(けんしん)をしても、それに応(こた)えるだけの慈悲を持ち合わせていない。信徒が奉仕すればするほど当然であるとふんぞりかえり、いよいよもって傲慢(ごうまん)になるだけだ。

立宗七百年を契機(けいき)として大前進を開始した創価学会

崇高(すうこう)なテーマが穢(けが)れてしまう、話を元に戻そう。
 
戸田会長は、日蓮正宗が衰退(すいたい)し、日蓮大聖人の仏法が滅尽(めつじん)しようとしているときこそ、広宣流布の時であると、繰り返し話している。
 
「法のうえからみると、日蓮大聖人様が御出現のときは、天台法華はほとんど滅びていた。いま創価学会が活躍するときは、もったいなくも富士大石寺はまさに破滅にひんしている。御本山を守り、自身の寺をあがめようという信者はなく、ろくでもない信者ばかりになった。ひどい寺では、信者が六、七軒しかないところもあった。御僧侶も生きているのですから、米らしいものを食わなければならない。屋根は落ち、畳は破れ、本堂はみるにしのびないありさまになり、まさに正法は滅せんとしているのです。いまでも地方にいくと、これが日蓮正宗の寺かと思うよう情けない寺がたくさんあります。
 
世界に誇(ほこ)る大仏法の衰(すい)微(び)の姿は、悲しむべき状態です。法華経にあるように、法滅の時にあたってこそ、広宣流布の機会なのです」(昭和二十九年九月十九日東京・中央大学講堂第三回築地支部総会『戸田城聖全集』所収)
 
法がまさに滅尽しようとするときこそ大白法興隆の兆(きざ)しであるとする戸田会長の大確信は、仏法の裏づけによるものだ。獄中の「不思議のこと」があったればこその正観(しょうかん)である。
 
日蓮大聖人の仏法を流布するにあたって、立宗七百年は大きな意味を持つものであった。会長就任半年後、すなわち立宗七百年を翌年に控(ひか)えた昭和二十六年十一月におこなわれた創価学会第六回総会において、戸田会長は次のように誓っている。
 
「次に学会の目的について述べるならば、奇(く)しくも、日本国に仏法渡(と)来(らい)してより七百年、末法御本仏日蓮大聖人様ご出現あそばされ、権実雑乱(ごんじつぞうらん)を正されて七百年、大聖人様立宗なされてより七百年を明年にひかえる今日、日本国あげて本尊雑乱の時はきたのであります。学会はいま、日蓮大聖人様の命(めい)をうけて、弘安二年十月十二日にお顕(あらわ)しになられた、一閻(いちえん)浮(ぶ)提総(だいそう)与(よ)の大御本尊様を、日本に流布せんことを誓う」(昭和二十六年十一月四日東京・家政学院講堂創価学会第六回総会)この立宗七百年を目前にした戸田会長の一大確信、この大情熱があらゆる障(しょう)魔(ま)を打ち払い広宣流布の時を大きく切り拓(ひら)いていったのだ。
 
立宗七百年を契(けい)機(き)とした創価学会の大前進は、後年、登座を目前に控えた総本山第六十五世日淳上人によって、次のように評されることとなる。
 
「しかし末法に入って千年のうち、はやくも九百年は過ぎました。もとより末法は千年に区切ることはありませんがともかく千年の終りに近づいて開宗七百年を転(てん)期(き)として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯(ただ)ならないものがあると思います」(昭和三十一年一月一日付『聖教新聞』「開宗七百年を迎へて」)
 
立宗七百年(昭和二十七年)の六月三十日、戸田第二代会長は、「七百年の意義」と題する論文を書いている。
 
仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の和合僧団である創価学会の本質論が、ここに記されている。以下にその一部を抜粋(ばっすい)する。
 
「百六箇抄(血脈抄、日蓮正宗門外不出の相伝抄)にいわく、
 
『(()下(げ)種(しゅ)の今(こん)此(し)三界(さんがい)の主の本迹久遠元初(ほんじゃくくおんがんじょ)の天上天下・唯(ゆい)我(が)独尊(どくそん)は日蓮是(これ)なり、久遠は本・今日は迹(しゃく)なり、三世常住の日蓮は名(みょう)字(じ)の利(り)生(しょう)なり』
 
このおことばを信じなければ、予(よ)のごとき理(り)即(そく)の愚(ぐ)人(じん)、いかにして彼らの迷妄(めいもう)を破れん、悲しきかな、悲しきかな。眼(まなこ)あらん者は、この御抄を拝して、日蓮大聖人様が末法の本仏たること、いささかも疑いなきであろう。
 
されば、七百年の今日、七文字の法華経は、近くは日本の民衆、遠くは朝鮮、中国、インドの民衆を救わんこと、つゆ疑いなきことである。仏法もまたもってかくのごとし、正像(しょうぞう)には西より東に向かい、末法には東より西に行くの予言、かならず的中しなければならぬ。いかんとなれば、御本仏の予言であるからである。しからば、いつをもって、その時と定むるやというに、予は立宗七百年を期として、これより盛(さか)んに広宣流布することを断定(だんてい)するものである。
 
いかんとなれば、大聖人様御在世中、仏力・法力の威(い)力(りょく)によって起こりえなかった七難のうちの最後の一難、他(た)国侵逼難(こくしんぴつなん)が日本国土に起こり、そのときは、日本を襲(おそ)ったところの梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)の一群、辰巳(たつみ)の方(ほう)より早風(はやて)のようにきたではないか。由比(ゆい)ケ浜辺において、大聖人様凡身(ぼんしん)を捨てて仏身を現ずるとき、明星天王、辰巳より大なる光りものを送っておよろこびを申しあげ、いま広宣流布の前兆(ぜんちょう)として、他国侵逼難のとき謗法の国を攻めさせたもう梵天、帝釈は、同じく辰巳の方より威力をあらわして広宣流布を智者に知らしめたではないか。また日本の国に起こりつつある七難は、一国あげての飢(き)饉(きん)といい、自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)といい、徐々(じょじょ)にあらわれつつあるではないか。また、かならずやこのとき、大聖人様の命(めい)を受けたる折伏の大闘士があらわれねばならぬと、予は断ずるのである。
 
この折伏の大闘士こそ、久(く)遠元初(おんがんじょ)においては父子一体の自(じ)受用身(じゅゆうしん)であり、中間(ちゅうげん)には霊鷲山(りょうじゅせん)会(え)において上行菩薩に扈(こ)従(じゅう)して、主従の縁を結び、近くは大聖人様御在世のとき、深き師弟の契(ちぎ)りを結びし御方であるにちがいない。この御方こそ大聖人様の予言を身をもって行じ、主師親の三徳の御本仏を妄(もう)語(ご)の仏ならしめずと固く誓って、不(ふ)自惜身命(じしゃくしんみょう)の行を励(はげ)むにちがいないと固く確信するものである。
 
わが創価学会は、うれしくも、このとき、誕生したのである。広宣流布の大菩薩ご出現に間に合うとやせむ、間に合わぬとやせむ、ただただ宗祖日蓮大聖人様、御開山日興上人様の御命にまかせ、身命(しんみょう)を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである。
 
会員諸君に告ぐ。
 
われらこそは、えらばれたるところの末法御本仏の弟子であり、家(け)来(らい)であり、子どもである。主人の命(めい)を奉(ほう)じ、父の慈悲にむくい、師の教えにしたがって、広宣流布のさきがけをしようではないか。その福運たるや、無量無辺であることを、予はまたここに断言するのである。本尊流布のご奉公こそ、御本仏大聖人様の心からおよろこびのことであり、われら宿命打破の根源(こんげん)の方法である。七百年以前の最初の題目の一声、弘安二年十月十二日の一幅(いっぷく)の大曼(だいまん)荼羅(だら)、ただただ、ありがたさに涙あふるるものである」(昭和二十七年六月三十日論文「七百年の意義」)
 
志ある人は、『戸田城聖全集』(聖教新聞社刊)に全文が所収(しょしゅう)されているので、熟読いただきたい。
 
戸田会長が、「予は立宗七百年を期として、これより盛んに広宣流布することを断定するものである」と宣言していること、「折伏の大闘士」と「大菩薩」とに立て分て、それぞれの出現の必然(ひつぜん)を述べていること、「身命を捨ててあらあら広宣流布なして、大菩薩のおほめにあずかろうとするものである」と述べていること等々、この戸田会長の論文には、法華経以来の仏法の深(じん)秘(ぴ)が燦然(さんぜん)

 

ありし日の戸田第2代会長

 

と輝(かがや)いている。
 
なお付(ふ)言(げん)すれば、先述したように、日蓮正宗宗会は昭和二十七年六月二十九日、戸田城聖会長に対する処罰を“法主”に求め、次のような決議をおこなっている。
 
「一、所属寺院住職を経(へ)て謝罪文を出すこと
 
一、大講頭を罷(ひ)免(めん)す
 
一、戸田城聖氏の登山を停止す」
 
戦時中、神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)を唱え、牧口初代会長獄(ごく)死(し)の近因を作った小笠原慈聞を、立宗七百年法要において、創価学会青年部が牧口会長の墓前で謝罪させたことに対し、宗会が処罰を求めたものだ。
 
この不当な処罰要求が日蓮正宗の僧たちによって決議された翌日、すなわち六月三十日に戸田会長の論文「七百年の意義」は書かれたのだった。甚深(じんじん)の確信の発(はつ)露(ろ)である。

創価学会の要(かなめ)は師弟不二の絆(きずな)にある

さて立宗七百年も暮れようとする、昭和二十七年十二月七日におこなわれた創価学会第七回総会において、日淳上人(当時は日蓮正宗宗務総監)は次のように講演した。
 
「創価学会が人類の幸福の為に着々と自他共にその幸福を実現している事は尊い事であり何とも申し様(よう)の無い尊さを感ずる次第である。学会は人類の幸福を願いとし、正しい宗教、信仰を招来(しょうらい)せしむる事に大願(だいがん)を置かれて日夜活躍している。(中略)日蓮大聖人は四弘(しぐ)誓願(せいがん)は、只七文字の題目を唱え、我も致し人をも導く事による以外には途(みち)は無いと説かれて居る。この道は容(よう)易(い)ではないが、皆様と共に人類の幸福の為愈々精進(いよいよしょうじん)して行く以外にはない。広宣流布の為の大折伏は学会の皆様へ御願い申します」(昭和二十七年十二月七日東京・中央大学講堂創価学会第七回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
日淳上人は、昭和三十一年三月に登座し第六十五世となったが、創価学会に期待し全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せて、その年の十二月に次のように話している。
 
「先程来(さきほどらい)いろいろ研究発表、体験発表、あるいは全国の現況報告あるいは代表決意等承(うけたまわ)りまして私は心から感激を致しております。
 
ただその全部を要約(ようやく)致して申せば皆様方に日蓮大聖人の御魂(おんたましい)が脈々と燃え上つているということを痛感する次第であります。
 
いろいろと承りまして何一つ大聖人様の魂そのままを皆様がうけつがれていないものはないということであります。大聖人の魂を伝える皆様が益々(ますます)日本国を導(みちび)いて行く時には、丁度大聖人様が愚痴(ぐち)一ついわれず、只『南無妙法蓮華経』と唱えられて来た御在世当初にかえつて行くものと存じまする。
 
日蓮正宗は単なる一宗(しゅう)旨(し)であるばかりでなく一切衆生の宗旨であり、この日蓮正宗を背負つて立ち上つて行かんとするのが戸田会長先生でありまする」(昭和三十一年十二月八日川崎市市民会館創価学会女子青年部第四回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
日蓮大聖人の御(ご)遺命(ゆいめい)である広宣流布成就(じょうじゅ)に邁進(まいしん)する創価学会―。その創価学会の要(かなめ)は、師弟不二の絆(きずな)にある。師弟不二であればこそ、広宣流布の戦いの前途を阻(はば)むいかなる障魔(しょうま)をも降伏(ごうぶく)できるし、すべての創価学会員は成仏の直道(じきどう)を歩むことができるのだ。
 
また、それ故に、あらゆる障魔は師弟の絆を断(た)ち切ううと画策(かくさく)する。
 
日淳上人は、戸田会長逝去(せいきょ)の直後、師弟不二について指南している。
 
「創価学会が何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この関係をはつきりと確認し、そこから信仰を掘(ほり)下(さ)げてゆく、これが一番肝心(かんじん)なことだと思う。今日の創価学会の強い

 

戸田第2代会長の葬儀

 

信仰は一切そこから出てくる。
 
戸田先生が教えられたことはこれが要(かなめ)であろうと思つております。
 
師を信じ、弟子を導く、この関係、これに徹(てっ)すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります。だから法華経神力品において『是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑いあることなし』と説かれております。
 
この決定して疑いあることなしとは、師弟の道に徹底して、そこから仏法をみてくる時に始めてその境涯(きょうがい)に到達するんだとこれが法華の段(だん)取(ど)りになつております。それを身をもつて実行されましたのが戸田会長先生でございます。
 
戸田会長先生ほど初代会長牧口先生のことを考えられたお方はないと思います。親にもまして初代会長に随(したが)つて来られました。これがきょう皆様方が戸田会長先生によつて信仰の眼(まなこ)を開けて頂(いただ)いたんだと、この師に対する弟子の道を深く考えられましてまいります時に、仏法に、しつかり決定することができるのでございます。
 
この初代会長、二代会長を経(へ)まして、皆様方の信仰の在(あ)り方、また今後の進み方の一切ができ上つているわけです。これを一つ皆様の団結の力で、大いに会長先生の志(こころざし)に報(むく)いてやつて頂きたいと、ただそれを念願致す次第でございます」(昭和三十三年六月一日福岡香椎球場創価学会九州第二回総会御講演『日淳上人全集』所収)
 
仏法において、師弟の絆ほど肝要(かんよう)なものはない。

 

「三代会長を支えていけば広布はできる」と戸田会長は明言された

戸田会長は、“三代会長を守り広宣流布をせよ”と遺言(ゆいごん)している。
 
「三代会長は、青年部に渡す。牧口門下には渡しません。なぜかといえば、老人だからです。ゆずる会長はひとりでありますが、そのときに分裂(ぶんれつ)があってはなりませんぞ。いまの牧口門下がわたくしを支えるように、三代会長を戸田門下が支えていきなさい。わたくしは広宣流布のために、身を捨てます。その屍(しかばね)が、品川の沖に、また、どこにさらされようとも、三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」(昭和二十七年二月十七日東京・常泉寺青年部研究発表会『戸田城聖全集』所収)
 
昭和二十七年の時点で戸田会長は、創価学会第三代会長についてこのように明言をしている。いま、愚痴(ぐち)蒙昧(もうまい)の輩(やから)が三代会長指名の事実を否定し、池田会長と我々師弟の問に隙(すき)を生じさせようとしている。愚(おろ)かな試(こころ)みである。

 

第3代会長就任式での池田名誉会長

 
戸田会長がここまで明言していて、三代会長の指名を曖昧(あいまい)にすることなどありはしない。はたまた池田名誉会長以外の者が、指名されていた可能性があるなどとすることも、転倒の輩(やから)の僻見(びゃっけん)である。
 
池田名誉会長が三代会長就任後に現実のものとなった、広宣流布成就(じょうじゅ)に向けての一大業績は、余人をもってなしうることではない。その事実を素直に直(ちょく)視(し)すべきである。池田名誉会長の指揮(しき)によって、着実に広宣流布は進められている。
 
一閻(いちえん)浮(ぶ)提総(だいそう)与(よ)の大御本尊を恋(れん)慕(ぼ)渇仰(かつごう)して雲集(うんじゅう)した地涌の菩薩は、折伏の大闘将(とうしょう)である池田名誉会長を中核(ちゅうかく)にして、いかなる法難をも必ずや克服し、大法を世界に盛んに弘(ぐ)通(つう)することは必定(ひつじょう)である。

 

大石寺の歴代貫首

大石寺第4世以降の歴代貫首の足跡を簡潔にまとめて紹介する。編集の都合上、4世以降の上人号は省略した。

 

第4世・日道(一二八三~一三四一) 幼名は次郎。新田五郎次郎頼綱の次男で日目上人(頼綱の弟)の甥にあたり、祖母は南条時光の姉。母は時光の娘。17歳のときに日目上人を師として出家。大石寺で修行し、重須の日興上人にも仕えて行学に励んだ。
 
だが第3祖・日目上人の入滅(一三三三)の直後から、日郷との間に「大石寺東方の坊地」の土地所有権争いを引き起こす。この内紛は日興上人の大石寺開創(一二九〇)から、わずか43年後のことであった。この争いは激烈をきわめ、それぞれの弟子たちに引き継がれ「日道派」と「日郷派」に分かれて70年以上の長期にわたって繰り広げられた。
 
亨師は、日道について「目上の不幸後、ゆえありて東坊の日郷上人の一類と不和となり、次第に紛糾を重ね、これがために万苦を嘗められたが、事件の全解決を見ずして、ついに弟子の日行上人に法統を付嘱して、西大坊において入寂せられた。為に大石の法運一時否塞の状態となったのは、千載の遺憾である」と書き残している。つまり日道と日郷との激しく長い抗争によって、大石寺は疲弊したと記述している。日道は59歳で死去した。
 
なお、日道から付属を受けた第5世・日行の母は南条時光の娘。つまり時光の孫にあたる。この後も第6世・日時、次いで日時から相承を受けた第8世・日影、それに第9世・日有というように、次々と南条家の出身者で占められ、約半年余の間”中継法主”であった第7世・日阿を除いては、第3祖以降、第9世まで、すべてが南条家の出身である。

 

第5世・日行(?~一三六九) 出生地は不明。父奥州三迫の森の地頭・加賀野太郎三郎、母は南条時光の娘。時光の孫にあたる。日道の母と日行の母とは姉妹。また、日目の従妹の子にあたる。幼少から出家しようとして大石寺に居住し日道の弟子となる。暦応2年(一三三九)に日道から相承を受け第5世となる。大石寺塔中に本住坊を創建し、下野国(栃木県)に法華堂(後の蓮行寺)を建立した。

 

第6世・日時(?~一四〇六) 日行に随順して宗学を学び、武蔵国仙波(埼玉県川越)の天台宗寺院にも遊学した。日行の臨終には遭えなかったと言われている。
 
第4世の日道と争って大石寺を追放された日郷が、離山に際して御堂の御影を持って行ったので、日時は嘉慶2年(一三八八)10月13日、越前法橋快恵という仏師に日蓮大聖人の等身大の御影の彫刻を依頼し、それを御影堂に安置した。この御影には嘉慶2年当時の願主、施主、仏師などの記録が書き残してあったが、昭和6年に御影の衣替えをしたときに、第60世の阿部日開が嘉慶2年当時の文字を消去し、「昭和6年云云」と書き直してしまった。
 
なお、日道と日郷との問に惹起した土地所有の係争が落着したのは、日時の晩年のことであった。応永12年(一四〇五)5月、72年の長期にわたる係争事件の解決に伴ない、日時は日郷が離山に際して持ち去った御影の返還を日郷側に求めたが、これは今もって返還されず、保田妙本寺に現存する。

 

第7世・日阿(?~一四〇七) 第6世・日時が同じ南条家の出身である日影に応永11年(一四〇四)5月に法を内付していたとされているが、応永13年(一四〇六)6月に日時が死去した後、一時、日影ではなく日阿が貫首になり、登座した翌年の3月に死去した。約半年有余の短命貫首であった。ただし「日有上人御物語聴聞抄佳跡」(『富士宗学要集』第一巻)には第6世・日時から第8世・日影への相承は、日阿と柚野浄蓮が預かって伝えたと記されている。

 

第8世・日影(一三五二~一四一九) 下野国(栃木県)で誕生。南条家の出身で日時に随って出家。武蔵国仙波の天台宗寺院で天台学を修めた。さしたる足跡は見当たらない。「家中抄」には「影公大衆に語て云く血脈を伝ふべき機なき是我悲嘆なり」
 
等と言い、柚野浄蓮に血脈を授けたとの説がある。

 

第9世・日有(一四〇二~八二) ”稚児貫首”の一人。南条家の出身で弱冠17歳で貫首となる。第8世・日影が死去したときは日有はまだ年少であったので、相承を取り次いだ人がいたとされている。この頃の大石寺は日道と日郷との抗争が発端となって西大坊の日道・日行・日時に対し、日郷の弟子達が東御堂を建てて対抗し、70年以上にわたって続いた係争のために、疲弊のきわみにあった。日有は山内の修復再興に努め、堂塔の修復、学僧の養成に力を注ぐと共に、東は奥州、西は京都、北は越後にまで布教拡大を図るなど、大石寺の復興に尽力した。このため日有は第26世の日寛と共に「中興の祖」と言われている。
 
しかし日有の留守の間、3人の代官(高僧)が大石寺を売り払ってしまい、大石寺は一時、謗法の山となっていた。そこで日有が買い戻さねばならなかった。
 
日有はまた、諸国から登山してくる学僧のために大石寺門流における化儀上の種々の問題を指南したが、これを弟子の南条日住が書きとどめたものが「有師化儀抄」である。

 

第10世・日乗(?~一四七二) 日有から相承を受けたのは応仁元年(一四六七)頃とされる。また、第11世・日底への相承の時期も文明2年(一四七〇)頃とされているのみで詳細はいずれも明確ではない。はっきりしているのは文明4年(一四七二)11月20日に死去したことだけである。
 
第11世・日底(?~一四七二)文明2年(一四七〇)頃、日乗から相承を受けたとされているが、次への相承はおこなわないで文明4年(一四七二)4月7日に死去した。このため高齢であった第9世・日有が再び登座せざるを得なかった。いかに大石寺が人材不足であったかが容易に分かる。このあと大石寺は“稚児貫首””年少貫首”が次々と登座することになる。

 

第12世・日鎮(一四六九~一五二七) ”稚児貫首”の一人。文明14年(一四八二)に13歳で第9世・日有から相承を受けたとされているが、月日は不明。大永7年(一五二七)に59歳で死去。
 

第13世・日院([五一八~八九) “稚児貫首”の一人。土佐国(高知県)幡多郡吉奈の図書助高国の子として土佐に生まれる。
 
青木の城主・伊予守の孫。幼名は良王童。
 
出家して右京と号し、家柄が良く裕福であった故か大永6年(]五二六)9月5日、8歳で第12世・日鎮の付弟となる。翌年の大永7年(一五二七)に日鎮の死去により、9歳で第13世となった。

 

第14世・日主([五五五~一六一七) 年少で貫首となった一人。下野国(栃木県)の人で俗姓は「一色」。父は上杉家代々の家臣で館林の城主。幼少の頃に出家し裕福な良家の出身であった故か第14世となる。
 
相承の年月日は不明。『富士年表』では天正元年(一五七三)、18歳ですでに貫首の立場にあったとされ、同年4月に「日主奥州柳ノ目完蔵坊の常住本尊を中将日伝に授与す」、8月19日には「日主霊宝虫拂を修す」と記されている。
 
日主は京都要法寺(現在の日蓮本宗)との関係を結び、文禄5年(一五九六)、要法寺出身の日昌に相承した。第9世の日有までの南条家有縁の貫首に続く“稚児貫首””年少貫首”の後は、要法寺出身の貫首が9代にもわたって登場してくることになる。

 

第15世・日昌(一五六二~一六二二) 京都要法寺(現在の日蓮本宗)出身の貫首。山城国(京都府)小栗栖の人。7歳のときに出家して京都要法寺の円教院に師事し、日辰より教訓を受けた。天正11年(一五八三)に下総国(千葉県)の飯高檀林に移って修学し、文禄3年(一五九四)8月に大石寺に登り、わずか2年後の同5年(一五九六)9月1日に日主より相承を受けた。
 
奥州磐城国(福島県)の三春に法華堂を、駿河国(静岡県)根方境村に妙光寺を建立。大石寺では要法寺・日辰の門下のなかでも一等の学者であった日性を招聘した

 

p 385

がかなわず、その代わりに大石寺貫首になったのが、第15世・日昌であった。
 

第16世・日就(一五六七~一六三二) 京都要法寺出身の貫首。要法寺日藩の弟子。

父は長谷川五郎左衛門入道善光といい浄土宗の信徒であったが、母の入信の影響で法華を修学した。慶長10年(一六〇五)に檀那・細井治良左衛門の願いにより江戸上野に常在院(現在の常在寺の前身)を建立。
 
慶長12年(一六〇七)に日昌貫首が死去。日就は日昌の臨終に間に合わず代官の理境坊日義が相承を一時預かっていた。

 

第17世・日精(一六〇〇~八三) 京都要法寺の出身で「造仏読誦」の大謗法を犯した貫首として有名である。要法寺日瑶の弟子となり、後に大石寺に登って要法寺出身の日就(第16世)より宗学を学び、上総国(千葉県)の宮谷檀林に遊学した。8歳年上の敬台院(阿波徳島の城主・蜂須賀至鎮の内室)とは「養母養子」という特別の深い関係を結ぶ。
 
敬台院が元和6年(一六二〇)に死亡した夫の蜂須賀至鎮を弔うために江戸・神田明神前に法詔寺を建立し、日精を住職としたが、同寺は寛永11年に江戸・鳥越に移転している。「舜師書付」には「其の上法詔寺の御建立御法事毎度御用相勤む。然る処日精本寺大石寺再興ありて日精両寺住持たり」とある。
 
寛永9年(一六三二)、敬台院の後楯によって大石寺と法詔寺の住職を兼務するが、翌年の寛永10年(一六三三)に要法寺の法兄である日盈に大石寺を譲った。寛永14年(一六三七)春、日盈の病気のため日精は再び大石寺に入った。また、この年には敬台院の推挙によって江戸登城の際に乗與の免許を受けるなど僧としては異例の厚遇に浴し、養母・敬台院の権威・権勢の恩恵を十分、満喫していたようである。
 
だが養母・敬台院との関係が悪化する。
 
先にあげた「舜師書付」には「其の後敬台院様の御意に背かれ両寺之れを退出す」と書かれ、その後の経過の概略も記されている。それによると両寺を退出した後は江戸・常在寺を再建して移り、法詔寺には直ぐに学優日感が後任の住職となって入ったが、大石寺は無住のままの状態がつづいた。
 
しかし、寛永18年の“御朱印改め”のときに大石寺が無住では朱印が下されない。
 
そこで大石寺の衆檀中から敬台院に後住のことで相談があり、法詔寺の日感の推薦で日舜が後住と決まり、無事に御朱印が下されたということである。
 
日精に対する敬台院の怒り、批判は激しく、敬台院が日精に宛てた書状の中に次のような記述がある。「我等ぢぶつだう(持仏堂)にはかいさん(開山)様のまんだら(曼茶羅)をかけ(掛)置申し候、此(精師筆)まんだら(曼茶羅)は見申す度毎にあくしん(悪心)もまし(増)候まま衆中の内に帰し申し候、何とめされ候とも其方達次第に候、其御心へ(得)有るべく候」。つまり、持仏堂には日興上人の曼茶羅をご安置した。日精が書写した曼茶羅は拝見するたびごとに悪心も増すので返納する。どのように思うかはあなた方次第。そのように御心得ください、と。敬台院の怒りに触れて大石寺第17世の地位を追われ、法詔寺からも追放された。大檀那の意向によって、貫首の座が決められていたのが史実であった。釈尊の仏像を造立し、法華経一部(二十八品)の読誦をおこなうという大謗法を犯した。著書に「日蓮大聖人年譜」「随宜論」「富士門家中見聞」(上中下)などがある。

 

第18世・日盈(一五九四~[六三八) 京都要法寺出身の貫首。俗姓は黒川。父は入道して久徳と称した。幼少にして出家し比叡山の麓の松が崎の寺院で修学。慶長15年(一六一〇)に上総国の檀林に移り、法華文句、法華玄義などを学ぶ。寛永10年二六三三)に日精より相承されたとされ大石寺に入るが、寛永15年(一六三八)に45歳で死去した。

 

第19世・日舜(一六一〇~六九) 京都要法寺の出身で第19世として大石寺に晋山したのは寛永18年(一六四一)とされている。

晋山に際しては日精からの指名も無ければ相承もなく、敬台院の「指図」と「法詔寺・日感の肝入り」によることは「舜師書

 

p 306

 

付」および敬台院の書状などに明白である。日精からの相承は、正保2年(一六四五)10月27日であり、晋山から約4年間の空白がある。だがこの間、正保2年1月、2月に御本尊を書写していたことが「諸記録」に残されている。

 

第20世・日典(一六一一~八六) 京都要法寺出身の貫首。字は三玄といい、生国と俗姓は不明。幼少の頃に出家し、要法寺日恩の弟子となった。後に大石寺に登り日就に師事し、敬台院の協力を得た。承応元年(一六五二)、日舜から相承を受け、要法寺出身の6人目の貫首となる。

第21世・日忍(一六一二~八〇) 京都要法寺出身の貫首。生国および俗姓などは不詳。要法寺で出家し後に大石寺で修学する。上総国(千葉県)の沼田、細草の檀林で学び、講義もおこなった。延宝元年(一六七三)に日典より相承を受け、在位8年で法を日俊に相承し、延宝8年(一六八〇)に9月4日に死去した。

 

第22世・日俊(一六三七~九一) 京都要法寺出身の貫首。生国および俗姓などは不詳。初めは日暁、後に松園本法院と称す。

幼少にして要法寺で出家し、後に大石寺で日精に随侍して修学。細草檀林にも学び第8代の化主となる。延宝8年(一六八〇)に大石寺に入り、日忍より相承を受け、天和2年(一六八二)、日蓮大聖人の第四百遠忌と日興上人・日目上人の第三百五十遠忌の法要を執行した。

 

第23世・日啓(一六四八~一七〇七) 9代続いた京都要法寺出身の9人目の貫首。

京都に生まれ、幼少の頃に要法寺日裕に従って出家。後に大石寺に登り日精に奉仕して修学する。天和2年(一六八二)、日俊より相承を受けて貫首となる。

 

第24世・日永(一六五〇~一七一五) 駿河国(静岡県)富士郡上野上条村の長、清五郎右衛門の次男として慶安3年(一六五〇)に誕生。幼少の頃に日典のもとで出家し、細草檀林に学び、後に講義もおこなう。天和3年(一六八三)に江戸の常在寺へ移り、元禄元年(一六八八)、会津実成寺に移転した。元禄5年(一六九二)、43歳で日啓から相承を受け大石寺に入る。
 
大石寺では本堂および諸伽藍を修理し、経蔵を建て明本一切経典を納めたのをはじめ、三百年間、廃絶の状態になっていた蓮蔵坊を再興した。宝永6年(一七〇九)に法を第25世・日宥に相承した後、蓮蔵坊に居住し、さらに正徳元年(一七一一)、そこを学頭寮とし、愛弟子の日寛に御書の謗義をさせるなど、講学の復興への期待をかけていた。

 

第25世・日宥(一六六九~一七二九) 栄存寿命院と称す。生国と俗姓は不明。幼年に江戸・小梅の常泉寺日顕の弟子となる。

同寺の大檀那・天英院の猶子で、細草檀林に学び、同檀林の第24代化主となる。
 
宝永6年(一七〇九)に第24世・日永から相承を受け、第25世となる。正徳2年(一七一二)、大石寺三門の造営のため幕府から黄金、材木などの寄進を受け、翌年3月には将軍・徳川家継の宣下による祈〓もおこない、代参として旗本の蒔田又三郎が登山した。享保2年(一七一七)に大石寺三門が落成し、朝日門も建立された。翌年3月、法を第26世・日寛に相承した。
 
第26世・日寛(一六六五~[七二六) 寛文5年(一六六五)に上州(群馬県)前橋の城主・酒井雅楽守の家臣である伊藤浄円の子として誕生。幼名は市之進。8歳で実母の妙真と別れ養母の妙順の手で育てられた。15歳の頃に酒井家の江戸屋敷に勤める。
 
天和3年(一六八三)の夏、門番佐兵衛(常在寺信徒)の案内で上野下谷町の常在寺に行き、84歳という高齢の日精の説法を聞いて出家することを決意したが、このときは主君の許可が得られず同年12月に出家。日精はこれより約1カ月前に死去していたので第24世・日永のもとで修行に励む。初めは日如といい、後に日寛と改めた。字は覚真、大弐阿閣梨堅樹院と号す。
 
元禄2年(一六八九)に細草檀林に入檀、生来の聡明さと日夜の努力精進によって行学ともに進み、宝永5年(一七〇八)には細草檀林の第26代の化主になり日寛と改めた。正徳元年(一七一一)、日永の命により細草檀林から大石寺蓮蔵坊に移り、学頭職に就く。以来、御書謗義、五大部文段の著述、「六巻抄」の執筆など教学の振興に力を注ぐなか、享保3年(一七一八)3月、第25世・日宥より相承を受け第26世となった。
 
在位約3年の後、享保5年(一七二〇)には日養に相承して再び学寮に入り、御書などを講じた。しかし、日養が在位約4年で死去したことにより再び登座し約4年間在位する。教学の振興とともに大石寺の堂塔伽藍の建立に努め、学頭時代には日宥の三門の建立に、また、日養の客殿建設に尽力したほか、在職中は常唱堂や石之坊の建立、大梵鐘、青蓮鉢の鋳造を完成させるなど宗門の興隆に多大な功績を残した。

 

第27世・日養(一六七〇~一七二三) 俗名は不詳。幼少の頃に出家し日俊に師事。

細草檀林に学び、同檀林の第25代化主となる。常在寺の住持を経て日寛から相承を受け第27世となるが、在位4年にして54歳で死去した。

 

第28世・日詳(一六八一~一七三四) 出雲国(島根県)松江に誕生。俗姓は不明。

同国の要法寺末である日応に従い幼年の頃に出家。後に江戸に出て常在寺の日辰に師事した。細草檀林に学び、同檀林の第32代化主となる。その後大石寺の学頭職に進み、日寛の死去の後に貫首となり、第29世・日東に相承した後は蓮蔵坊に移って「当体義抄」を講義した。

 

第29世・日東(一六八九~一七三七) 阿波国(徳島県)で誕生。父は侍医の松岡玄朴常直で幼年時代に父と登山し、日永に従って剃髪した。細草檀林に学び、同檀林の第34代の化主となる。その後、享保17年(一七三二年)、44歳で日詳から相承を受け、在位5年で石之坊に閑居。京都、大阪、因幡国(鳥取県)、阿波国(徳島県)へ弘教。帰山の後、49歳で死去した。

 

第30世・日忠(一六八七~[七四三) 山城国(京都)に誕生。父は浄源、母を妙行というが俗姓は不明。大阪の蓮興寺で出家。その後に大石寺に登り、細草檀林に学ぶ。妙蓮寺日寿の要請に応じて妙蓮寺第25代となって日芳と称すが、のちに蓮蔵坊に移り、元文元年(一七三六)、日東から相承を受け大坊に入る。元文5年(一七四〇)、報恩坊を造営し、同年11月に日因に相承。京都、大阪を行化して帰山の後、円因坊を造営した。

 

第31世・日因(一六八七~一七六九) 磐城国(福島県)黒須野に誕生。父は法久日遠、母は妙久日成。下総国の豪族であった千葉忠常の末喬。幼少の頃に出家し磐城国黒須野の妙法寺日完の弟子となる。細草檀林に学び、同檀林の第37代の化主となる。
 
上総の広瀬に後の本城寺を建立。
 
元文元年(一七三六)に大石寺蓮蔵坊に移り、元文5年(一七四〇)には日忠から相承を受けた。伊勢の亀山の城主で後に備中・松山藩主となった板倉周防守勝澄を教化した。日因は隠退の後も貫首を凌ぐほどの力、勢いがあったという。

 

第32世・日教(一七〇四~五七) 甲斐国(山梨県)一之宮に大工の棟梁・石川伊兵衛の子として誕生。父の法名は随本、母は妙本。12歳のときに日養に従って出家し、細草檀林に学び、同檀林の第43代の化主となる。
 
その後、江戸下谷の常在寺の住職となり、次いで学頭として蓮蔵坊に移って御書を講じた。寛延3年(一七五〇)、47歳で貫首となり、在位7年で報恩坊に隠居した。

 

第33世・日元(一七一一~七八) 字は日芳、のちに文貞。横山阿闇梨持宝院と称した。正徳元年(一七一一)に江戸に生まれ、幼年で出家した。父は宇田天皇の末孫で横山河内守頼信の後胤・横山七兵衛慰源武備。細草檀林に学び、同檀林の第48代の化主となる。寛延3年(一七五〇)、蓮蔵坊に移り、学頭として御書を講じた。宝暦6年(一七五六)に日教より相承を受け、同年9月19日に座替わりの儀式をおこなう。
 
在位9年で第34世・日真に相承し石之坊に隠居するが、日真が死去したので第35世・日穏に相承した。宝暦14年(一七六四)には「浅間神社」に安置する御本尊を書写するという謗法行為をしている。
 

第34世・日真(一七一四~六五) 初め日賢、のちに完孝、江戸阿閣梨守要院と称した。正徳4年二七一四)、医師の荒川氏の子として江戸で誕生。幼少の頃に日詳に従って出家し、細草檀林に学び、同檀林の第50代の化主となる。宝暦6年(一七五六)、43歳で学頭として蓮蔵坊に移り御書を講じ、明和元年(一七六四)に51歳で貫首となる。翌年7月に52歳で死去。

 

第35世・日穏(一七一六~七四) 江戸・常在寺の日和の弟子となる。享保16年、16歳で細草檀林に学び、やがて同檀林の第52代化主となる。退檀した後、下総中田真光寺に移って有明堂を建立。後に江戸の常泉寺の塔中に住み弘教。明和元年(一七六四)、49歳で学頭として蓮蔵坊に移った。
 
翌年の明和2年(一七六五)7月には仙台法難に対処するため日浄寺へ下向。ところが7月26日に日真が急逝したため帰山し、同年11月に日元から相承を受けた。明和7年(一七七〇)、日堅に相承して東之坊に隠居し、仲田の草庵において59歳で死去した。

 

第36世・日堅(一七一七~九一) 駿河国富士郡上野郷市場村で邑長の清弥一兵衛定賢の子として誕生。幼名は熊之助。8歳の時に出家の契約をし、享保11年(一七二六)に日寛に従って出家。覚隆と名乗る。
 
同年秋、日寛の死去により日詳に随従し享保16年、15歳の春、細草檀林に勤学し、43歳で同檀林の第52代の化主となる。
 
明和3年(一七六六)、50歳のときに学頭として本山蓮蔵坊に移る。明和7年(一七七〇)4月、日穏より相承を受け、大坊に入る。書院を再建し、在位7年の後、日捧に相承して富士見庵(遠信坊)に隠居。

 

第37世・日棒(*王に奉)(一七三一~一八〇三) 本極阿閣梨久成院と称す。加賀国(石川県)金沢に誕生。俗姓は不明。幼少の時に他家の養子となるが12歳の時に養父と死別。出家を志して寛保2年(一七四二)4月、実父とともに大石寺に登山して日忠の弟子となり覚浄日円の名乗る。
 
寛保3年(一七四三)春、細草檀林に勤学したが、同年10月、日忠の逝去に伴ない江戸下谷・常在寺に仮住まいをして檀林まで往復すること26年、明和5年(一七六八)4月、38歳のときに檀林の第60代の化・王となる。同7年には学頭として本山蓮蔵坊に移り御書を講じた。安永5年(一七七六)5月、日堅から相承を受け46歳で貫首となり、在位8年の後、天明3年(一七八三)4月に第38世・日泰に相承して寿命坊に隠居した。
 
天明5年(一七八五)2月に第38世・日泰が早逝したことにより、同年6月には第39世・日純上人に相承。翌天明6年、日純
 
は病身のため引退を申し出た。そのため日〓は大坊に再住することになった。寛政元年(一七八九)春、宝蔵の再建に取りかかり、翌2年に完成。寛政3年(一七九一)7月に第40世・日任に相承して寿命坊に隠居。しかし、寛政7年に第40世・日任が49歳で、次いで翌年には第41世・日文が46歳で死去したことで、寛政8年(一七九六年)10月に第42世・日厳に法を相承した。
 
ところが、またしても翌9年に日厳が50歳で死去したので、大坊に入り、3年目の寛政11年、第43世・日相に相承して寿命坊に退いた。なお、ついでながら、この第43世・日相も47歳で死去している。38世から43世までの法主は、いずれも相承後短い期間で死去したため第37世・日〓の在位は初住8年、再住6年、再々住3年の合計17年になる。

 

第38世・日泰(一七三一~八五) 駿河国(静岡県)根方東井出村に、村長の小泉甚右衛門の子として誕生。幼少の頃に日東の弟子として契約したが、日東の死去により日忠に従って出家した。
 
延享元年(一七四四)春、細草檀林に入り、明和8年(一七七一)春、41歳のときに檀林の第61代の化主となる。同年冬、退檀して江戸で弘教し、安永5年(一七七六)に学頭として本山蓮蔵坊に移る。天明3年二七八三)、相承を受けて貫首となるが、天明5年(一七八五)に死去。

 

第39世・日純(一七三六~一八〇一) 字は日明、のちに活了遠妙阿閣梨専光院と称す。武蔵国(東京都)青梅で誕生。江戸・常泉寺日喜に従って出家し、後に日穏に随侍する。細草檀林に入り、同檀林の第64代の化主となった。退檀した後、安永5年(一七七六)に常泉寺の住職になり、天明3年(一七八三)には大石寺学頭寮に移って御書を講じる。
 
天明5年(一七八五)には第37世・日俸から相承を受けたが、日純は病身のため引退を申し出た。その後寿命坊に住し、下之坊を修復して天明8年(一七八八)に隠居。日純の死去はそれから13年も後の享和元年(一八〇一)のことで、隠居したのは「病身」のみが真の理由かどうか疑問視される。

 

第40世・日任(一七四七~九五) 初め日良といい、のちに完獄長好阿閣梨要行院と称した。奥州(福島県)岩瀬で岩瀬郡の邑長・松塚七兵衛の子として誕生。岩瀬郡守屋の満願寺日達(後に下野小金井の蓮行寺に移る)に従って出家した後、日真に随侍。
 
細草檀林に入って日泰に学び、天明4年(一七八四)に檀林の第69代の化主となった。同年、退檀した後、常在寺の住職になり、天明6年(一七八六)には大石寺蓮蔵坊に移って御書を講じた。寛政3年(一七九一)、49歳で第37世・日棒から付嘱を受けた。寛政7年(一七九五)6月、第41世・日文に相承し石之坊に隠居。同年8月に49歳で死去。

 

第41世・日文(一七五一~九六) 初め日善、のちに活音孝善院と称した。江戸に生まれ、俗姓は佐藤。幼くして日因に従って出家し、三智の名を与えられた。

日因の死去の後は日穏に随侍し、細草檀林に入り、天明6年(]七八六)に同檀林の第70代の化主となる。退檀した後、江戸下谷・常在寺の住職になり、寛政5年(一七九三)9月、大石寺蓮蔵坊に移って学頭となる。寛政7年(一七九五)6月、第40世・日任から相承を受けたが、翌年8月、46歳で他界した。

 

第42世・日厳(一七四八~九七) 字は宗礼、山川阿閣梨要順院と称す。奥州仙台城下に山川平兵衛の三男として誕生。宝暦9年(一七五九)春、奥州の末寺を巡教していた日真に従って12歳で出家した。
 
宝暦12年(一七六二)から細草檀林に入り、やがて同檀林の第71代の化主となる。
 
江戸小梅・常泉寺に住し、寛政7年(一七九五)10月、学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。寛政8年(一七九六)秋、第41世・日文が死去したため大坊に入り、第37世・日〓から相承を受けた。だが、翌寛政9年(一七九七)年7月に50歳で死去した。

 

第43世・日相(一七五九~一八〇五) 字は活如、初め日衣といい、後に忍行阿闇梨尚道院と称した。奥州陸前国(宮城県)宮城郡南宮村に賀川権八の次男として誕生。
 
父親は仙台法難によって三郡を追放され、のちに赦免された人。
 
明和7年(一七七〇)、12歳のときに父と登山して日穏上人にに師事し、安永元年(一七七二)春、14歳で細草檀林に入り、寛政7年(一七九五)春、同檀林の第76代の化主となる。寛政8年(一七九六)夏、江戸小梅・常泉寺の住職となる。常泉寺では土蔵を再建し、本堂の修理もおこなった。
 
寛政11年(一七九九)春、学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。同年11月、第37世・日俸から付嘱を受け貫首となった。文化2年(一八〇五)に47歳で死去した。

 

第44世・日宣(一七六〇~一八二二) 隆順真成院と称した。江戸に生まれ、幼年で出家し、日堅の弟子となる。細草檀林に学ぶが、寛政8年(一七九六)夏、細草檀林が焼失。伴頭寮が再建され、寛政10年に細草檀林の第77代の化主となる。同年秋、退檀した後、江戸・妙縁寺に住す。

享和3年(一八〇三)には学頭となって大石寺蓮蔵坊に移る。同年10月、第43世・日相から相承を受けた。文化4年(一八〇七)8月、第45世・日礼に相承して富士見庵(遠信坊)に隠居したが、日礼が翌年5月、46歳で急逝したため同年9月、第46世・日調に相承。文化11年(一八一四)に江戸小梅・常在寺に移ったが、文化13年(一八一六)9月、第47世・日珠が48歳で死去し、文化14年(一八一七)1月には、日調が52歳で死去したことで、同年2月に第48世・日量に相承し、文政5年1月に死去した。

 

第45世・日礼(一七六三~一八〇八) 活陳、鶴岡阿閣梨樹香院、玄成坊などと称した。江戸に生まれ、石倉善六の子供。幼年の頃に母と別れて養母に育てられ、7歳で出家した。日穏の弟子となり、次いで日堅に仕えて修学。さらに細草檀林に学び、上座に進む。寛政5年(一七九三)に退檀した後、江戸・常在寺の住持となり、文化3年(一八〇六)4月、学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。翌年8月、第44世・日宣から相承を受けたが、翌文化5年に46歳で死去。

 

第46世・日調(一七六六~一八一七) 賢存といい、後に淳明、後藤阿闇梨持勝院と称した。駿河国(静岡県)富士郡下中里村に口巴長の後藤孫兵衛の五男として生まれ、幼少のときに日泰に従って出家した。細草檀林に学び、寛政8年(一七九六)夏、檀林が焼失した際には中小路紅葉寮を再建し、享和2年(一八〇二)春、細草檀林の第78代の化主となる。同年、退檀して本山に登り、久成坊に約5年ほど在住した後、文化3年(一八〇六)、江戸・常在寺の住持となり、文化5年(一八〇八)には学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。同年9月、第44世・日宣から相承を受け43歳で貫首となった。

文化10年(一八一三)には第47世・日珠に相承したが、日珠が同12年(一八一五)、病気で退座したので、再び大坊に入り、文化14年に52歳で死去した。

 

第47世・日珠(一七六九~一八一六) 日珍といい、後に覚英、覚授阿闇梨浄明院と称す。加賀国(石川県)に金沢藩の家臣・小川弥右衛門の三男として生まれた。安永6年(一七七七)に出家し、天明4年(一七八四)に細草檀林に行き、日相のもとで修学する。

文化元年(一八〇四)に細草檀林の第79代の化主となった。同年、退檀して江戸・常泉寺境内の本行坊に仮住まいをしていたが、文化3年(一八〇六)に常泉寺の住職となる。文化6年(一八〇九)に学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。文化11年(一八一四)には第46世・日調から相承を受けたが、翌12年(一八一五)、寿命坊に閑居。

翌13年に48歳で死去した。

 

第48世・日量(一七七一~一八五一) 字は一要、久遠阿闇梨本寿院と称す。駿河国(静岡県)富士郡上野郷上条に清一覚良政の三男として生まれた。天明2年(一七八二)、12歳で出家し、寛政元年二七八九)に細草檀林に行き、日相のもとで修学した。文化5年(一八〇八)春、細草檀林の第80代の化主となった。同年、退檀して江戸下谷・常在寺の住職となる。文化12年(一八一五)に学頭として大石寺蓮蔵坊に移る。文化14年(一八一七)、大坊に再住していた第46世・日調が死去したので、第44世・日宣から相承を受け貫首となった。

文政3年(一八二〇)、第49世・日荘に相承し寿命坊に隠居した。天保元年(一八三〇)5月、日荘の死去に伴ない大坊に再住した。翌年、第50世・日誠に相承し、再び寿命坊に隠居。天保7年(一八三六)5月、日誠が死去したため第51世・日英に相承した。

 

第49世・日荘(一七七三~一八三〇) 字は淳道、玉川阿闇梨真就院と称す。江戸に生まれ、俗姓は玉川。幼年時に日泰の弟子として契約し、天明元年(]七八一)8月、9歳で出家。寛政3年(一七九一)に細草檀林に行き修学。文化9年(一八一二)春、細草檀林の第82代の化主となった。
 
文政2年(一八一九)に学頭として大石寺蓮蔵坊に移り、翌年の文政3年(一八二〇)、日量から相承を受け貫首となった。
 
文政12年(一八二九)冬、年礼のため江戸へ下向し、天保元年(一八三〇)5月、次への相承もせずに常在寺で死去した。

 

第50世・日誠(一七九五~一八三六) 字は慈存、武蔵阿闇梨本勝院と称す。町田吉兵衛の三男として江戸に生まれた。6歳のときに日相の弟子として契約し、享和2年一八〇二)春、日相が年礼のため下向し、帰山のときに供をして登山した。
 
日相の死去の後は第46世・日調に随侍し、文化5年(一八0八)に細草檀林に行き、文政7年(一八二四)、細草檀林の第84代の化主となった。次いで江戸下谷・常在寺の住持となり、文政10年(一八二七)、江戸小梅の常泉寺へ移る。天保元年(一八三〇)秋、大石寺蓮蔵坊に移り学頭となる。翌年9月、日量から相承を受けたが、天保7年(一八三六)に相承せずに、41歳で死去した。

 

第51世・日英(一七九八~一八七七) 字は泰久院。文化2年(一八〇五)に出家。

文化6年(一八〇九)に細草檀林に勤学、同檀林の第86代の化主となる。次いで江戸・妙縁寺に住した後、天保7年(一八三六)秋、学頭として大石寺蓮蔵坊に移り、同年5月に第48世・日量から相承を受けた。この頃、大石寺では金貸し業をおこなっていた。
 
嘉永6年二八五三)、日霑に相承し、富士見庵に移る。しかし、日霑が相承した日盛が慶応元年(一八六五)に起きた大石寺の大火の後に、誰にも相承をしないまま下之坊へ移り、その後、一時行方不明になったことで、日英が再び大坊に入る。

第52世・日霑(一八一七~九〇) 文化14年に江戸小石川(東京都文京区)に生まれた。父は水戸藩士の鈴木惣左衛門、母は喜代。11歳のときに江戸・常泉寺住職の日誠について勉学する。その後出家する意志を固め、両親の反対を押し切って天保4年(一八三三)に得度し、慈成と称した。天保5年二八三四)に細草檀林に入る。天保7年に日誠が41歳で急逝したため、日英に随侍。嘉永元年(一八四八)4月、細草檀林の第89代の化主となって妙道院と称す。同年11月、退檀して下野国(栃木県)の淨圓寺に住し、さらに江戸の妙縁寺、常泉寺の住職となる。
 
嘉永6年(一八五三)2月、学頭として大石寺蓮蔵坊に移り、同年6月に日英から相承を受けた。万延2年(一八六一)1月に出府し、2月に江戸小石川水道橋で寺社奉行の青山大膳亮に諌状を手渡し、三日間抑留された。文久2年(一八六二)に日盛が登座したので、日霑は蓮葉庵に移らざるを得なかったようだ。日霑が日盛に相承したか否かは定かでない。
 
慶応元年(一八六五)、大石寺の大火の後で日盛が相承をせずに隠遁したので、日英が再び大坊に入ったが、翌年、要請を受けた日霑が再び登座。明治2年(一八六九)になって日霑は日胤に法を相承する。
 
日霑は、明治18年(一八八五)に日布が退座した後、明治22年(一八八九)に日応が登座するまでの間、三度目の大坊入りをする。京都要法寺から北山本門寺に入った玉野日志との間で数回の書状を往復させての問答は「霑志問答」として知られている。明治23年に死去。

 

第53世・日盛(一八三一~九二) 英勝院、広道院、板倉阿闊梨泰覚と称す。天保2年、江戸京橋の滝山町に板倉治兵衛の子として誕生。俗名は寿之助。12歳のときに日英について出家、弘化2年(一八四五)に細草檀林に入り、安政6年二八五九)11月に同檀林の第92代化主となった。同年12月に大石寺学頭となる。万延元年(一八六〇)6月に檀林を出て下野国(栃木県)平井信行寺の住職として寺社奉行に上申した。文久2年(一八六二)、相承の有無は定かでないが、32歳で第53世として登座した。在位4年。
 
慶応元年(一八六五)、大石寺の大火の後、相承もせずに隠遁、大石寺を去って下之坊に移る。日盛は一時は消息も途絶え、行方不明であった。その後、平井の信行寺に滞在。明治19年(一八八六)に興門大学林林長、次いで大石寺布教会を設立し会長となる。明治23年(一八九〇)11月20日、横須賀で清水梁山と問答。静岡県に妙盛寺、長野県伊那に信盛寺を建立した。明治25年に死去。

 

第54世・日胤(一八二九~八〇) 英俊院千葉阿閣梨春賢と称す。江戸京橋に具足町に鈴木久三郎の子として誕生。10歳のときに第51世・日英について江戸・妙縁寺で出家、弘化元年(一八四四)に細草檀林に入る。安政元年(一八五四)には京都伏見の大亀谷檀林に入って勉学し、安政6年二八五九)9月には能化に進む。同年11月に大阪・蓮華寺に移る。
 
明治2年(一八六九)7月に大石寺学頭となり、同年11月には日霑から相承を受けた。在位6年にして日布に相承するが、この頃、大石寺は「日蓮宗興門派」として邪宗各派と一体であったため、在職中から退座後も再三、大石寺独立の願書などを教部省に提出、誓願した。東京の常泉寺において52歳で死去。

 

第55世・日布(一八三五~一九一九) 泰隆または広宣院川越阿闇梨泰勤と称す。武蔵国(埼玉県)入間郡石井村に誕生。父の名は下山善助。7歳のときに日英について出家、18歳で細草檀林に入る。明治7年二八七四)12月に日胤から相承を受けた。明治22年(一八八九)、日応に相承した。国柱会の山川ら謗法の者が登山した際に、御開扉をおこない、勤行したあと丁寧に御礼の言葉まで述べた。

 

第56世・日応(一八四八~一九二二) 法道院大石阿閣梨慈含、あるいは日雄と称す。山梨県山梨郡加納岩村に誕生。俗名は直次郎、父の名は名取亦兵衛。11歳のときに日霑について得度し、16歳で細草檀林に入る。
 
明治17年(一八八四)に大石寺の宗務局長に就任。福島県信夫郡に広布寺を建立したほか法道会(法道院の前身)、自蓮院、神奈川教会を設立。同19年二八八六)に大石寺学頭となり、同22年(一八八九)5月、目布から相承を受けた。同24年(一八九一)には「日蓮宗興門派」の管長となる。
 
明治33年二九〇〇)に、大石寺は「日蓮宗興門派」から分離して「日蓮宗富士派」となる。同41年(一九〇八)に日正に相承した。明治37年の日露戦争に際し、一万体にものぼる”戦勝守護の御本尊”とやらを作成して売りさばいたのに加え、「皇威宣揚征露戦勝大祈禱會」をおこない、他宗の信徒を含めて「宗祖大聖人眞筆大御本尊」を一般公開し、そこで得た参拝者の浄財を戦費として軍に献納した。

 

第57世・日正(一八六一~一九二三) 事証院宮城阿閣梨慈照と称す。陸前国(宮城県)仙台に誕生。俗名は鼎介。父の名は阿部時孝。20歳のときに仙台の仏眼寺で日応について出家。
 
明治34年(一九〇一)、顕本法華宗の本多日生と公開問答す。同40年(一九〇七)に宗務院総務となり、翌年8月に学頭、富七学林総長、同年11月に日応から相承を受けた。大正元年(一九一二)6月10日、それまでの日蓮宗富士派から日蓮正宗に改称。
 
しかし、日蓮宗各派との親交は深く大正11年9月11日、各派の管長とともに署名し、「立正大師」の盆號の降賜誓願書を文部大臣、宮内大臣に提出した。
 
同年10月13Hの宣下書拝受に際しては身延派管長の磯野日筵、顕本法華宗管長の本多日生ら各派管長と共に参内、その後、築地水交社で身延派管長の磯野日筵の導師で勤行・唱題した。

 

第58世・日柱(一八六五~一九二八) 自鑑院寂照阿閣梨慈観と称す。愛知県春日井郡外山村に誕生。俗名は正吉。父の名は小出房二郎。明治10年、13歳のときに日霑について出家。
 
大正3年(一九一四)に大石寺学頭となる。学頭職を長く勤めた後、大正12年に貫首となった。第60世・阿部日開らによるクーデターのため失脚させられた。

 

第59世・日亨(一八六七~一九五七) 慶応3年2月24日、九州久留米藩士であった堀家の長男として久留米市小頭町に生まれた。明治17年(一八八四)、17歳のときに向井市次という人物に折伏されて入信。同20年に霑妙寺の住持であった妙寿尼に従って得度。
 
折から霑妙寺の入仏式のため下向中の日霑の弟子となり、同21年5月に師に随従して登山。同22年(一八八九)10月、日蓮宗興門派大石寺学林を卒業。同34年(一九〇一)5月に東京の常在寺住職、次いで10月には浄蓮坊住職を兼務する。同38年(一九〇五)9月、東京の常泉寺住職となり、能化に進む。
 
大正15年(一九二六)に日柱の退座に伴ない第59世として登座。しかし、阿部法運(日開)らの策謀により約1年半有余で退座を決意せざるを得ない立場に追い込まれ、日開に座を譲って総本山の雪山坊に引退。
 
日亨は6歳から祖父について四書五経や軍記類を学び、出家した後は千葉の保田妙本寺、下条妙蓮寺、重須本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺をはじめ京都要法寺、身延山、それに奥州など全国の寺院を回るなどして古文書の調査研究に励む。さらには東大史料編纂所へも通って歴史、風俗などの研究も続け、宗内外でも比類無き大学匠であった。著作は『富士宗学全集』全一三四巻、『富士宗学要集』はじめ多数。また創価学会による御書の編纂に協力した。昭和32年11月23日に死去。

 

第60世・日開(一八七三~一九四三) 証行院信夫阿閣梨法運と称す。明治6年8月23日、福島県信夫郡荒井村に誕生す。俗名は運蔵。父の名は阿部庄右衛門。明治22年に日応について得度し阿部法運と名乗る。
 
出家の動機は妻の浮気であったとの説が有力である。大正10年5月、宗務院総務となる。日開は日亨を退座に追い込むための陰謀をめぐらす。
 
昭和2年11年、日亨の辞意を受け有元広賀と管長選挙を争う。壮絶な謀略戦の末に51対38票の13票差で当選を果たす。選挙後も紛糾は続き、半年後に文部省の裁定によって昭和3年6月に登座するが、この後は未聞の大謗法の限りを尽くす。日開は登座後まもなく御本尊を誤写し僧俗によって退座を要求された。
 
昭和6年、日蓮大聖人第六五〇遠忌に際して、寄付金の多寡により御本尊に差別を設け、御本尊を金儲けのために利用した。
 
また、身延山に日蓮大聖人の正墓がある旨、署名、捺印して文部省、宮内省に提出。常泉寺住職時代、下働きの女性・彦坂スマに生ませた彦坂信夫がのちの日顕である、

 

第61世・日隆(一八七四~一九四七) 一道院秀道と称した。明治7年に宮城県栗原郡宮野村に生まれた。父の名は千田東四郎。12歳で得度。昭和2年3月に宗務総監、同年11月の日亨の辞意に伴ない管長事務.取扱となる。昭和4年8月、宗務総監に再任され、昭和9年には大石寺学頭となり、翌年6月には日開より相承を受けた。
 
日柱に対するクーデターの首謀者の一人。

 

第62世・日恭(一八六九~一九四五) 信譲院筑後阿閣梨慈謙と称す。明治2年9月16日、福岡県御井郡久留米京之隅三番目に生まれた。俗名は武雄。父の名は村上成幸。12歳で出家した。
 
昭和3年に宗務総監となる。同8年に再任され、昭和11年には大石寺学頭となり、翌12年11月には日隆から相承を受けた。昭和18年、軍部政府により書院には神棚を造って天照大神を祀った。また、創価教育学会に対し神札を受けるよう迫った。昭和20年6月17口、大石寺の対面所、大奥、書院、六壷、客殿などを焼失する大火災により竃に嵌まり込み、無残な姿で焼死した。

 

第63世・日満(一八七三~一九五一) 自照院讃岐阿閣梨慈円と称す。明治6年3月5日、香川県三豊郡常盤村流岡に誕生。俗名は吾郎。父の名は秋山村治。14歳で讃岐本門寺の小笠原口芳のもとで出家した。天台宗学林で修学。明治40年二九〇七)に名古屋の妙道寺の住職となり、昭和11年(一九三六)に宗務総監となる。口恭の無残な焼死によって昭和21年(一九四六)1月、隠居していた日隆から相承を受けた。
 
終戦後、総本山は深刻な食料不足と財政難に見舞われたが、そのなか日満は山林を伐採して私腹を肥やしたと言われて辞任に追い込まれ、昭和22年7月、第64世・日昇に相承した。晩年、高知県の本因妙寺で過ごし、昭和26年に死去。

 

第64世・日昇(一八七九~一九五七年) 慈眼院摂津阿闇梨秀円と称した。明治12年9月24日、宮城県栗原郡一迫村柳之目妙教寺に誕生。俗名は水谷明。13歳の時に父・水谷日喜について出家し、のちに日応の弟子となる。
 
明治41年(一九〇八)に栃木県の淨圓寺の事務取扱を命じられてから宗会議貝、評議員に選出されること3回。次いで静岡県の本広寺、妙盛寺、長野県の信盛寺の住職を歴任の後、昭和13年9月に宗務総監に就任した。同16年9月に宗務総監に再任され、同17年1月には常泉寺の住職に就いた。同21年(一九四六)11月、学頭になり、翌年1月に大石寺に晋山して、7月18日に日満から相承を受けた。日柱に対するクーデターの首謀者の一人。

 

第65世・日淳(一八九八~一九五九) 竜谷阿閣梨信乗院日淳と称す。明治31年10月10日、長野県上伊那郡伊那町(現在の伊那市)坂下町に誕生。幼名は寿万男。父の名は堀米歴太郎。上伊那郡の信盛寺で出家し、諦栄と名乗る。
 
その後、大石寺へ昇って日正の弟子となり、泰栄と改名。東京の妙縁寺に在勤し、早稲田大学文学部東洋哲学科を卒業。神奈川教会の担任教師、百貫坊住職を経て京都の住本寺住職事務取扱に任ぜられて京都に移り、竜谷大学研究科で天台教学を研究した。庶務部長、教学部長などを歴任した後、昭和23年に宗務総監となる。同31年(一九五六)2月に学頭になり、3月には日昇から相承を受けた。翌34年(一九五九)11月16日、日達に相承し、翌17日に死去。

 

第66世・日達(一九〇二~七九) 明治35年4月15日に東京市京橋区南鍛冶町(現在の東京都中央区)で細井潔の長男として誕生。5歳の時に東京・常泉寺の日亨のもとで修行し、9歳で日正を師として出家、精道と名乗る。
 
東洋大学、日蓮宗大学、竜谷大学で学び、堺の本伝寺および東京・常在寺の住職を勤めると共に宗務院庶務部長を経て、昭和31年5月に宗務総監となる。同34年(一九五九)11月16日、日淳から相承を受けた。日達の在職中は創価学会の赤誠の外護により総本山の広大な境域は整備・拡充され、諸堂宇の改修新築がなされた。創価学会の出現がなくては考えもおよばない大石寺開創以来の、かつてない壮大な大事業であった。

 

第67世・日顕(一九二二~) 大正11年12月19日に東京・向島で生まれた。父親は”法滅の妖怪”と言われた第60世・日開だとされている。母は常泉寺で下働きをしていた彦坂スマ。認知される前の名前は彦坂信夫。
 
昭和3年に出家。同22年5月に東京・本行寺の住職になり、次いで同38年4月から京都・平安寺の住職に。同52年11月からは東京・常泉寺の住職になった。この間、昭和36年から教学部長を務め、同54年5月に総監に就任。日達上人が同年7月22日に急逝したため第67世の貫首となる。
 
平成2年12月、謀略「C作戦」をもって創価学会破壊を企てるが失敗。

 

◆出典および参考文献一覧

 

創価学会発行『日蓮大聖人御書全集』/大石寺発行『昭和新定日蓮大聖人御書』/聖教新聞社発行『大自蓮華』/創価学会発行『富士宗学要集』/中外日報社発行『中外日報』/世界之日蓮社発行『世界之日蓮』/小笠原慈聞著『日蓮正宗入門』/日蓮正宗布教會大日蓮編集室発行『大日蓮』/日蓮聖人大師號追賜奉祝事務所発行『立正大師謹號奉戴記事』/師子王文庫発行『田中智學自伝』/『静岡民友新聞』/松本佐蔵発行『正邪の鏡』/日柱上人擁護の信徒が宗務院に提出した文書11通称『上申書』/日柱上人を退座に追いやった宗会議員の発行した小冊子『正鏡』/有元推薦人一同発行『聲明書』/愛山護法同志発行『辯駁書』/日亨上人の書いた『告自』/田辺政次郎が出した『異体同心の激文』/『聖教新聞』/細井精道発行『宗報』/内務省警保安局保安課作成『特高月報』/峯雪書房株式会社発行『法眼』/日蓮宗宗務院発行『勅額拝戴宗祖六百五十遠忌要録』/株式会社佼成出版社発行『近代日本宗教史資料』/正信会報編集室発行『正信会報』/日開上人遺弟一同編集並発行『日開上人全集』/日蓮正宗総本山大石寺発行『日蓮正宗歴代法主全書』/新人物往来社発行『創価学会戸田城聖』/株式会社和光社発行『人間革命』/聖教新聞社発行『戸田城聖全集』/聖典刊行会発行『日蓮正宗聖典』/白蓮華社発行『白蓮華』/聖教新聞社発行『人間革命』/株式会社国書刊行会発行『戦時下の仏教』/東京書籍発行『佛教語大辞典』/聖教新聞社発行『日寛上人文段集』/聖教新聞社発行『六巻抄講義』/『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗布教会編)/『東京朝日新聞』/『大阪時事新報』/法道會本部文書布教部発行『法之道』/布教會本部事務所発行『法王』/日蓮正宗総本山大石寺発行『日霑上人伝』/日蓮正宗総本山大石寺発行『日興上人日目上人伝』/日蓮正宗正統興門派大本山大石寺布教會本部事務所発行『布教會報』/緑星社発行所発行『目でみる富士宮の歴史』/国柱会発行『国柱会百年史』/創価学会発行『富士日興上人詳伝』/株式会社東西哲学書院発行「日蓮正宗大石寺』/株式会社学習研究社発行『日蓮の本』/読売新聞社発行『日蓮と法華経信仰』/報知社発行『日蓮聖人』/『辯惑観心抄』(発行者・早瀬道応)/芳賀書店発行『日本の地獄絵』/株式会社平凡社発行『別冊太陽地獄百景』/聖教新聞社発行『創価学会年表』/日蓮正宗仏書刊行会発行『日淳上人全集』/吉川弘文館発行『日本仏教史近世』/富士学林発行『日蓮正宗富士年表』/日本仏教学会西部事務所発行『日本仏教学会年報』/大東出版社発行『國譯一切経』/講談社発行『日本大蔵経』/『日蓮宗宗学全書』/同朋舎発行『真宗史料集成』/第三文明社発行『宗門問題を考える』/立正大学日蓮教学研究所『日蓮教学研究所紀要』/講談社発行『現代語訳親鶯全集』/日蓮正宗宗務院発行『日蓮正宗教師必携』/日本印度学仏教学会発行『印度学仏教学研究』/真宗典籍刊行会発行『真宗大系』/同朋社発行『龍谷大学善本叢書』/身延山専門学校出版部発行『本尊論資料』/平河出版社発行『道教の神々』/立正大学仏教学会発行『大崎学報』/法蔵館発行『日本宗教史研究2布教者と民衆との対話』/岩波書店発行「近世仏教の思想』/平楽寺書店発行『日蓮教学の諸問題』/日蓮宗和党会発行『日蓮宗葬儀の手引』/同朋社発行『史窓』/立正安国会発行『日蓮大聖人御真蹟御本尊集』/名著出版発行『葬送墓制研究集成第三巻先祖供養』/大法輪閣発行『葬式仏教』/山喜房仏書林発行『浄土宗大辞典』/大石寺発行『日興上人身延離山史』/聖教新聞社発行『仏教哲学大辞典』/評論社発行『江戸幕府の宗教統制』/海秀舎発行『興門教学の研究』/株式会社吉川弘文館発行『国史大辞典』/中公文庫発行『江戸から東京へ』/東京市本所区発行『本所区史』/会長就任七周年記念出版委員会発行『会長冩真集』/日本評論社発行『天皇制国家と宗教』/目蓮正宗仏生山蓮華寺発行『仏生』/株式会社丘書房発行『巣鴨プリズン記念写真集』
 
◆写真提供共同通信社

 

おわりに

『地涌』は、平成三年一月一日、日顕が「C作戦」を発動し創価学会破壊の行動に出たことに即応(そくおう)して発信され始めたFAX文書である。爾(じ)来(らい)、三年近くの間、いまや邪宗・日顕宗と化した日蓮正宗の末寺に送られている。

本書は、『地涌』が発信されて以来の主に歴史に関する文を集めたものである。あるものはいくつかの文を合わせて一文とし、あるものは補(ほ)筆(ひつ)した。
ただし、第四章の「法滅尽の時こそ大法弘通の時」と、第三章の「死の恐怖につけこんだニセ本尊(導師本尊)」は、原文のままである。

「法滅尽の時こそ大法弘通の時」は、平成三年九月二十五日の『地涌』(第二六八号・第二六九号合併号(がっぺいごう))に掲載(けいさい)されたものである。日顕の狂刃(きょうじん)を前にして懸命(けんめい)に守りを固くしていた創価学会員に、創価学会出現の意義を噛(か)みしめてもらいたくて、必死で書いたものである。創価学会が御本尊の授与をおこない、和合僧団としての盤石(ばんじゃく)な態勢(たいせい)をつくり得た今日から振り返ってみると、創価学会内外の状況は二年有余の時を経(へ)ただけであるのに、隔世(かくせい)の観がある。しかし、それにもかかわらず、補筆訂正(ていせい)なく本書に同稿を収録(しゅうろく)できたことは、まことに感無量(かんむりょう)のものがある。

一方、「死の恐怖につけこんだニセ本尊(導師本尊)」は、平成四年一月三十一日から四月二十一日まで十二回にわたり『地涌』に掲載したものである。

先の「法滅尽の時こそ大法弘通の時」は一夜にして上(じょう)梓(し)したが、本稿は前年より下調べを始め、他方面にわたる膨大(ぼうだい)な資料と参考文献にあたることにより、ニセ曼茶羅の本質を見きわめ、満を持(じ)して完成したものである。

「導師本尊」がニセ曼茶羅であるとの『地涌』の報道は、友人葬を進めている仏子らの戦いにはずみをつけ、葬式坊主らの悪虐(あくぎゃく)に理論的とどめを刺(さ)すものであった。
今回、これら『地涌』の報じた創価学会および日蓮正宗の歴史に関する文をまとめ、一書として刊行できた意義は大きい。

なお、四章の冒頭を飾る「国家神道に随従(ずいじゅう)し戦争協力した宗門」は、本書の刊行にあたり、まったく新しく書き下(お)ろしたものである。戦中における国家による宗教政策を知り、日蓮正宗の動向を日蓮宗他派との連関の上で捉(とら)えるには、非常に有効であったと思う。

と同時に、国家神道が猛(もう)威(い)を振るい、「神宮」に対する「冒瀆(ぼうとく)」をした者が死刑にされた時代にあって、創価教育学会が謗法払(ほうぼうばら)いを敢然(かんぜん)とおこない、神札を焼却(しょうきゃく)して折伏行を推(お)し進めたことに驚嘆(きょうたん)せざるを得ない。この史実を知った者は、まぎれもなく創価学会が仏(ぶつ)意(い)仏勅(ぶっちょく)の団体であるとの思いを深くするだろう。

本書は、あえて十一月二十八日を発行日とした。ちょうど二年前、すなわち平成三年十一月二十八日、狂乱した日顕宗は、管長・日顕と総監・藤本日潤の連名で、創価学会に対し「創価学会破門通告書」を送りつけた。
日顕らは転倒(てんどう)しているが故に、宗門が仏意仏勅の創価学会により浄化されてきた史実を忘れ、みずからが広宣流布の本流にあるかのように錯覚(さっかく)していたようである。

創価学会を”破門”した日顕らは、広宣流布の滔々(とうとう)たる流れより離れてしまい、みずから仏弟子としての命脈(めいみゃく)を絶(た)ってしまったのである。つまるところは、日蓮大聖人より”破門”になってしまったのは日顕宗の者らであったのだ。

この「創価学会破門通告書」は、信徒を”破門”するのに”破門”の根拠を示す一つの御聖訓(せいくん)すらも提示していないという、まことにお粗(そ)末(まつ)なものであった。

日蓮大聖人曰く、
「文証(もんしょう)無からんをば捨てよ」(聖愚問答抄)
日寛上人曰く、
「文証無きは悉(ことごと)く是れ邪義なり」(依義判文抄)
日顕らが送りつけた「創価学会破門通告書」は、かくも無(む)惨(ざん)なものであった。

これによって、日顕宗の輩(やから)は天下に恥を晒(さら)したが、性(しょう)懲(こ)りもなく、今回は創価学会が御本尊を授与し始めたことに狼狽(ろうばい)し、四通のはがきを創価学会員に出し脱会させようと企図(さと)している。これらの策動(さくどう)で脱会する創価学会員などいるはずもなく、徒(と)労(ろう)に終わることは目に見えている。

本書を刊行したのは、いちおうは、これら「創価学会破門通告書」に代表される日顕宗の稚(ち)拙(せつ)な文書による妄動(もうどう)を笑わんがためである。さらに本義を明かせば、創価学会の正義と初代、二代、三代会長の師子(しし)奮迅(ふんじん)の戦いを後世に伝えんがためである。

地涌からの通信別巻②歴史編
1993年11月28日初版第1刷発行
著者=不破優
発行者=濱野晃
発行所=株式会社はまの出版
〒102東京都千代田区一番町6-4L/M一番町第2-401
印刷所=株式会社トービ
製本所=加藤製本株式会社
@Y.Fuwa Printed in Japan
ISBN4-89631-160-7 C0014